◎シーズン・オフのヴェネツィアにうってつけの音楽 シーズン・インとシーズン・オフで、訪れた人に見せる表情をがらりと変えるのがヴェネツィアで す。初対面のヴェネツィアはシーズン・オフの、きつい顔のヴェネツィアでした。オペラ行脚してい た若い頃のことです。ご多分にもれず、ユーレイルパスを最大限活用しての貧乏旅行の途中でした。 当然、泊まれる宿といえば、薄汚いペンションの、トイレもついていない小さな部屋でした。 重いスーツケースを引きずってたどり着いた裏通りのペンションの主人に、いきなり、 「泊まってい る人は他にいないので、帰ってきたら、自分で扉を開けて入ってくれ」といいわれて、その建物に入 るための大きくて重い鍵と、部屋の小さな鍵を渡されました。フェニーチェ歌劇場でオペラをきいて 戻ってみると、たしかに、ペンションは真っ暗で、人の気配はありませんでした。 寒風吹きすさぶシーズン・オフのヴェネツィアに、観光客もまばらで、たくさんの人でにぎわって いるはずのサン・マルコ広場も寂しげな表情を見せていました。初体験の印象は、何ごとによらず、 大事ですね。それから後、さまざまな季節にヴェネツィアを訪れましたので、観光客でにぎわう、華 やかなヴェネツィアも経験していますが、今でも、ヴェネツィアときくと、咄嗟に、細い運河の、建 物を打つ水音が孤独に響くシーズン・オフのヴェネツィアを思い出してしまいます。 シーズン・オフのヴェネツィアにうってつけの音楽となると、ロジェ・バディムの映画「大運河」 のためにジョン・ルイスの作曲した音楽になるでしょう。あらためて申し上げるまでもなく、この哀 愁感ただよう音楽を映画で演奏していたのはモダン・ジャズ・カルテット、つまりMJQでした。 「大 運河」のための音楽は「たそがれのヴェニス」と題されているMJQのアルバムにおさめられていま す。ぼくはヴェネツィアを訪れるよりはるか以前に、ロジェ・バディムの映画を見ていましたし、M JQのLPも繰り返しきいていました。そのために、誰にも出会うことのない、ヴェネツィアの寂し い裏通りを歩きながら、その音楽を耳の奥で感じていました。 あのヴァイオリン協奏曲集「四季」の作曲者としてお馴染みのヴィヴァルディはヴェネツィアに生 まれて、ヴェネツィアで活躍した作曲家です。暖かい季節のヴェネツィアで、朝、ホテルから散歩に 出たときなどは、覚えているヴィヴァルディの協奏曲の一節を口笛で吹いたりします。どのような都 市にも、明るい光の部分と、孤独の影の濃い部分があると思いますが、ヴェネツィアの場合、そのコ ントラストが特にきわだっているようです。 たくさんの観光客でにぎわうシーズン・インのヴェネツィアも、もちろん素敵ですが、海を渡って きた冷たい風が肌に痛い、孤独の影の濃いヴェネツィアでは、気づかぬうちに情感の迷宮に迷いこん だような気分になれて、ぼくは大好きです。
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