1 第9回 権利と権力 利権は権利の一種 いわゆる二字熟語の中には

第9回
権利と権力
●利権は権利の一種
いわゆる二字熟語の中には、前後の文字順を入れ替えても、ほとんど意味に
変化のないものがある。例えば、
「雨風(あめかぜ)をしのぐ」と「風雨(ふう
う)にさらされる」の場合、
「雨風」と「風雨」は、ほぼ同義だと言えよう。あ
るいは、
「金銭(きんせん)」と「銭金(ぜにかね)」、さらには「左右(さゆう)」
や「右左(みぎひだり)」なども、同様の例として挙げられるに違いない。
一方、前後の文字順を入れ替えてしまうと、全く意味が変わってしまう二字
熟語もある。例えば、
「権利」の場合はどうであろうか。おそらく、日本語を母
語とする者の日常感覚において、「権利」と「利権」は同義語ではあるまい。
なるほど、
「社会」と「会社」もまた、文字順を入れ替えれば意味が変わる例
に含まれるに違いない。しかしながら、第五回目で取り上げたように、フラン
ス語の「société」は、「社会」とも「会社」とも和訳できるのである。
一方、
「権利」と「利権」では、そうはゆかない。むしろ、西洋から輸入され
た「権利」という概念は、今日的な意味での「利権」とは全く相容れないであ
ろう。実際、「人間と市民の権利宣言(フランス人権宣言)」なら歴史的に評価
されても、「業界と市長の利権宣言」では冗談にもなるまい。
と思いきや、『広辞苑』(第六版)で「利権」の意味を調べると、次のように
記されていた。
【利権】利益を占有する権利。業者が公的機関などと結託して得る権益。
読めば明らかなとおり、日本語で言う「利権」は、
「権利」の一種とされてい
るのだ。つまり、
「教育を受ける権利」や「裁判を受ける権利」などと同様、
「利
益を占有する権利」だということであろう。しかも、上の『広辞苑』の記述に
おいて、
「利権」という見出し語には、語釈の区分が設けられていない。すなわ
ち、「利益を占有する権利」と「業者が公的機関などと結託して得る権益」は、
区別されるべきものではなく、同列の語義に属するというわけである。
なるほど、日本語の世界では、そうなのかもしれない。だが、舶来概念とし
ての「権利」に照らした場合、「業者が公的機関などと結託して得る権益」は、
それに含まれないと思われるのである。
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●「権利」の権と「権力」の権が混用
周知のとおり、日本語の「権利」は、和語ではなく、主として英語の「right」、
あるいはフランス語の「droit」やドイツ語の「Rechts」などの翻訳語に他なら
ない。そこで、英語の「right」の意味を『コンサイス英和辞典』(第 13 版)で
調べてみると、「権利」の他に、「正義、公正、道理、正しい行為」といった訳
語が並んでいる。これを見れば、英語の「right(権利)」と日本語の「利権」は、
ほとんど正反対であることが理解できよう。要するに、日本語の世界では、
「権
利」という名辞が指示する概念が広く理解されていないということなのだ。
この問題に関しては、柳父章『翻訳語成立事情』
(岩波新書)もまた、西周が
明治一〇年代に著した『憲法草案』を実例に挙げながら、次のように指摘して
いる。
ある所では「所有ノ権」と書き、同じ項、別の所には「行政権」と書いて
いる。これに対して、やはり今日の私たちのように二つを区別していたの
だ、という見方もあるかも知れない。
(今日の私たちにしても多分にあやし
い、と私は考えるのであるが、)
「所有ノ権」と言ったときは権利の意味で、
「行政権」と書いたときは権力という伝来の意味のつもりだ、という解釈
である。しかし……こういう区別の意識は、なかったとみるべきであろう。
簡単に言えば、「権利」と「権力」とが混同されていたということであろう。
つまり、少なくとも幕末から明治期にかけて、
「権」という言葉は「まず power、
つまり力という意味だった」というわけである。この事実認識は、おそらく間
違っていない。なぜなら、漢語の「権」には、「重り、分銅」といった語義に加
え、
「支配力、服従させる力」という意味もあるからである。となると、日本語
において「権利」が「権力」と混同されがちだとしても、特に不思議なことで
はあるまい。
しかも、権力と権利の区別に関しては、
『翻訳語成立事情』の中で指摘されて
いるとおり、
「今日の私たちにしても多分にあやしい」のだ。例えば、
「参政権」
と「政権」と「行政権」とを比べても、
「権利」の権と「権力」の権が混用され
ていることが見て取れよう。仮に、「参政権」の「権」は「権利」の略で、「政
権」の「権」は「権力」の略だとしたところで、それ以前の問題として、
「権利」
の意味が「権力」と明瞭に区別されていなければ、同じことなのである。
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では、実際のところ、日本語の「権利」は、どのような語義を与えられてい
るのだろうか。その点を、『広辞苑』で確認してみよう。
ア 一定の利
【権利】①[荀子勧学]権勢と利益。権能。②〔法〕(right)○
益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の者に賦与す
イ ある事をする、またはしないことができる能力・
る力。「―を取得する」○
自由。「他人を非難する―はない」⇔義務。
ここでも、結局のところ、「right」の訳語としての「権利」が「力」や「能
力」に帰着させられている。要するに、「権利」を持つということは、何らか
の「力」や「能力」を持つということなのだ。実際――少なくとも日常的に用
いられる日本語の中で――「発言権を持つ」という表現と「発言力がある」と
いう表現が、別種の事実を指し示しているとは感じ難いであろう。
しかしながら、「権力」の原語である「power」は「力」であっても、「権利」
の原語である「right」は「力」ではない。先述のとおり、「right」は「正義、
公正、道理、正しい行為」なのである。
ただし、何が正義で何が道理なのかは、普遍的なものではない。その判断基
準は、時代や場所によって異なっている。例えば、ヨーロッパの絶対王政期に
は、今日の価値規準に照らせば容認し難い君主支配が「正しい行為」だと見な
されていたのだ。周知のとおり、その根拠となった考え方は、
「帝王神権説」あ
るいは「王権神授説」と和訳されている。
●「神権」や「王権」の「権」は、「権力」ではなく「権利」
では、この場合、「神権」や「王権」の「権」は、「権力」なのだろうか、
それとも「権利」なのだろうか。その点について、『広辞苑』の記述を参照し
てみよう。
【帝王神権説】(the theory of the divine right of kings)君主の権力
は神から授けられたものであり、人民に反抗の権利はないとする説。絶対
主義国家において唱えられた政治学説。イギリス王ジェームズ一世、ルイ
一四世に仕えたフランスの司教ボシュエらが代表。王権神授説。
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この説明には、「権力は神から授けられたもの」と明記されている。そうで
あるならば、「神権」や「王権」の「権」は、「権力」だということになろう。
たしかに、事実の説明としては、それで正しいに違いない。
しかしながら、『広辞苑』は、「帝王神権説」の原語として、「the theory of
the divine right of kings」を挙げている。こちらに照らせば、「divine」は
「神から授けられた(神授の)」で良いとしても、「right」は「権力」ではな
く、「権利」と和訳すべきであろう。言葉の面で考える限り、「divine right」
は、「神から授けられた権利」であって、「権力は神から授けられたもの」と
はならないのだ。
ちなみに、『広辞苑』が挙げた「the theory of the divine right of kings」
をフランス語で言えば、「la théorie du Monarchie de droit divin」となる。
この場合、英語の「right(権利)」に当たるフランス語は「droit」である。
とは言え、「right」と「droit」は、単純な一意対応の関係にあるのではな
い。先出の『翻訳語成立事情』の中でも指摘されているとおり、「フランス語
の droit には、英語の right にはない法律というような意味も」ある。つまり、
フランス語の場合、「権利」と「法律」が同一単語で表現されているのである。
ここから、話は少々ややこしくなってしまう。
たしかに、権利という意味のフランス語は「droit」であり、この単語には「法
律というような意味」もある。しかしながら、法律を意味する英語の「law」を
フランス語に直訳すれば、「droit」ではなく、むしろ「loi」である。フランス
語の場合、個々の具体的な法律は、「loi」と表現され、「droit」とは言わない。
例えば、いわゆる「男女平等賃金法」の正式名称は、「Loi n°2006-340 du 23
mars 2006 relative à l'égalité salariale entre les femmes et les hommes」
となるのである。
一方、「droit」は、法律だけではなく、政令や協約や判例を含めた総体を指
す。例えば、労働(travail)に関する法律や政令などの総体が「le droit du
travail」と呼ばれるのである(この用法では単数定冠詞が付くのが通例)。
※ただし、広義の「loi」は、むしろ「droit」よりも多様な意味を持つ。例え
ば、物理法則の「法則」、ジャングルの掟の「掟」、さらには宗教戒律の「戒律」
などを指すこともある。
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●法も権利も、共に「正理」であり「道理」 ともあれ、フランス語において、
狭義の「loi」は、立法権の下で制定された法律を指す。逆に言えば、立法機関
が制定しさえすれば、たとえ悪法であれ何であれ、それは「loi(法律)」に他
ならない。
一方、「droit(権利/法)」という語には、英語の「right(権利)」に似
て、
「正義、公正、道理、正しい行為」という含意が伴っている。つまり、
「droit」
もまた、語源的には「まっすぐ」を意味しており、「力」ではないのだ。この
点を忘れてしまうと、例えば労働者が持つ「争議権」などは、労働者が獲得し
た「力」だと誤解されてしまうことにさえなりかねないだろう。
ちなみに、イギリスで男女平等賃金を定めた法律は「The Equal Pay Act」と
呼ばれており、
「law」という語は用いられていない。フランス語で「loi」だっ
たものが、英語では「act」なのだ。
とは言え、イギリスの「The Equal Pay Act」は、賃金の平等に関する「law
(法)」の一種、すなわち「the law on equal pay」の一つなのである。また、
「国王といえども法の下にある」という、エドワード・コーク以来の見解は、
「Even the King subject to the law」と表現される。この場合の「法」は、
「law」
なのだ。
以上のことから、不正確を承知で敢えて大雑把にまとめれば、英語の「law」
をフランス語に直訳すれば「loi」となるのだが、法律的な用語法では、フラン
ス語の「loi」は英語の「act」に近く、英語の「law」はフランス語の「droit」
に近いということになろう。そしてまた、フランス語の「droit」は、英語の「right
(権利)」の意味をも持つのである。
ここまで来ると、事態の真相が少しずつ見えて来た。おそらく、福澤諭吉は、
既に明治初期の時点において、その真相を見抜いていたのであろう。先出の『翻
訳語成立事情』は、「福沢の、思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さ
は郡を抜いていた」と指摘しながら、その『西洋事情 二編』における次の記述
を紹介している。
「ライト」とは元来正直の義なり。……正理に従人間の職分を勤め邪曲な
きの趣意なり。……求む可き理という義に用ることあり。……求めても当
然のことと云ふ義なり。……人は生ながら独立不覊にして、束縛を被るの
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由縁なく、自由自在なる可き筈の道理を持つと云ふ義なり。
福沢の古い記述は、「ライト」が持つ「正義、公正、道理、正しい行為」と
いった含意を、極めて的確に捉えている。フランス語の「droit(権利・法)」
が元来「まっすぐ」という意味であるのと同様、「『ライト』とは元来正直の
義」なのである。繰り返すが、「権利」は「力」や「権力」ではない。それは、
まさに「正理」であり「道理」に他ならず、力の有無など全く関係なしに「求
めても当然のこと」なのである。
このように考えれば、「権利」を意味するフランス語の「droit」が、同時に
「法」を意味することも理解できよう。すなわち、法も権利も、共に「正理」
であり「道理」であり、それに準拠した要求は「当然のこと」だというわけで
ある。今日の日本において、この基本的な原則は、はたして本当に受け入れら
れているのであろうか。
●「right」の意味が誤解されたわけではなかった
そのことを、具体例を挙げて検討してみよう。
投票権(参政権)は「right to vote(英)/droit de vote(仏)」、争議
権の原語は「right to
strike(英)/droit de grève(仏)」に、それぞれ
対応する。この場合、全ての成人国民が投票権を「求めても当然」であること
と、全ての賃金労働者が争議権を「求めても当然」であることとの間には、本
質的な違いは何も存在しない。どちらも、特定の個人や集団が獲得する力では
なく、「正理」であり「道理」であり、さらには「正しい行為」だと理解すべ
きなのである。
しかしながら、日本語の「権利」という単語からは、そのような意味が読み
取り難い。実際、「利益」の利と「権力」の権を組み合わせれば「利権」とな
り、その文字順を入れ替えれば「権利」だというのでは、それが「right」や「droit」
の訳語だと知らなければ、本来の意味は理解できないだろう。なるほど、「権」
や「利」といった字面に拘泥するのではなく、「ケンリ」を「ライト(right)」
の代わりだと解釈すべきだという考え方も成立するに違いない。しかし、日常
的な言語使用の中で、そんなことを求めるのは非現実的であろう。そもそも、
漢字自体が、一種の表意文字なのである。
歴史的に見ても、「right」の意味が誤解されたから「権利」という訳語が作
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られたのではなく、むしろ「権利」という訳語の字面が、原語の「right」とは
異なった印象を派生させたと見なす方が妥当であろう。例えば、加藤弘之は、
早くも明治三(一八七〇)年に著した『真政大意』の中で、
「すべて人たるもの
は貴賎・上下・貧富・賢愚の別なく、けっして他人のために束縛拘束されるべ
きはずのものではな」いという基準で「権利」を定義し、
「おのれに権利があれ
ば、他人にもまたかならず同様に権利」がある以上、「他人の権利を尊重する」
ことが「すなわち義務」だと定義していた。
そして、同書はまた、憲法の必要性を次のように論じているのである(中公
バックス『日本の名著34』)。
権利と義務の二つが互いによく行なわれてまいるようにするにはいかよう
にすればできるというに、まず第一憲法というものを制定するのが肝心な
ことで、憲法というものは政府と臣民との際および臣民相互いの際におい
て、彼此互いに自己の本分を尽くして他人の権利を尊重するように、かつ
おのおの自己の権利を安保して他の屈害をうけることのないように、すべ
て彼此諸行の規律を定むるゆえんのもので、はやく申せばすなわち権利と
義務の規律を設けて、この二つのものが互いに並び行なわれてまいるよう
に立てたるものでござる。(中公バックス『日本の名著34』)
上の記述には、いささか粗雑な形ではあるが、ルソーの『社会契約論』と通
底するものがある。すなわち、権利は、個別に獲得すべき力ではなく、「憲法」
によって「すべて人たるもの」に保障されるものだというわけである。たしか
に、
『真政大意』という著作を貫く思想は、単純素朴な自由主義に過ぎないのか
もしれない。
それでも、この明治最初期の著作は、
「権利」という語を――英語の「right」
やフランス語の「droit」と同様――「正理」や「道理」や「正しい行為」とい
う意味で用いいていた。つまり、「right」の意味が誤解されたから「権利」と
いう訳語が宛てられたのではないのである。
●自由民権運動が転換点
ところが、自由民権運動が始まる明治一〇年代になると、既に様子が変わっ
ていた。実際、先出の『翻訳語成立事情』が指摘するとおり、明治一二(一八
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七九)年に出された植木枝盛の『民権田舎歌』には、
「権利を張る」という表現
が多用されている。要するに、
「『張る』のは力……あるいは権威」である以上、
「自由民権の『権』とは、right であるよりも、まず力」だったというわけであ
る。おそらく、「権利」という訳語の字面が、「権を張る」あるいは「権利を張
る」という表現へと横滑りしたのであろう。思い起こせば、西周の『憲法草案』
もまた、明治一〇年代に書かれたものであった。
結局のところ、明治期の自由民権運動は、政府や国家権力に対抗する「力」
を求めていたのであろう。となると、所有権も参政権も、国家や政府の「権」
に対する「民権」という位置づけにしかなるまい。そして、権利も権力も同じ
く「権」と短縮されることが、この種の混同を誘発する一助になっているので
ある。
繰り返すが、「権利(ライト)」は、個人や団体が声高に主張して勝ち取る力
ではない。もし「権利(ライト)
」が「正義」や「道理」ではなく「力」である
ならば、マハトマ・ガンディーの非暴力主義など、原理的に成り立たなかった
と思われるのである。
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