危ない翻訳 - TECHXEL

危ない翻訳
―技術英語の陥し穴
有限会社 テクセル
危ない翻訳
―技術英語の陥し穴
まえがき
まもなく 21 世 紀を迎えようとする今 日 、コンピュータや通 信 関 係を初めとして世 の中の技 術 の進
歩 にはめまぐるしいものがあります。政 治 や経 済 の分 野 において国 際 的 な視 野 でものごとを考 えな
ければならないのはもちろんですが、産 業 技 術 の分 野 においても、いかに早 く海 外 の技 術 情 報 を入
手し、いかに早 くわが国で開 発 した技 術を世 界 に伝 達 するかが、企 業 の死 命を制 する時 代 になって
います。そのため、産 業 翻 訳 ・技 術 翻 訳の仕 事 がますます重 要 になっています。
産 業 翻 訳 では、技 術 力 と語 学 力 がバランスした品 質 の作 品 を提 供 できるかどうかがもっとも重 視
されます。一 般 的 に優 秀 な 技 術 者 であって も、必 ずしも語 学 力 が優 れているわけで はありません。
また、いかに語 学 力 に優 れていても、技 術 そのものを知 らなければ的 確 な訳 文 はできません。世 の
中 の翻 訳 家 は文 学 ・語 学 系 出 身 の人 が多 いようです。これは産 業 翻 訳 家 にもあてはまります。日
本 の一 流 の翻 訳 学 校 の講 師 でさえ、産 業 翻 訳 に関 しては、語 学 的 に見 ればすばらしいが、技 術 的
には明 らかな間 違いを平 気でおかしています。
日 本 の翻 訳 企 業 が正 社 員 または登 録 社 員 として抱 えているのは、大 部 分 こういう翻 訳 学 校 で 学
んだ、技 術 の実 務 経 験 のない翻 訳 家 です。こうい う企 業 に仕 事 を 委 せておいていいのでしょうか?
かれらに翻 訳 を 依 頼 すればたしかにワープロですっきりと清 書 された訳 文 が仕 上 がってくるでしょう。
けれども、そ れは単 なる活 字 の羅 列 に過 ぎ ません。依 頼 者 が求 めてい るのは、い わゆる技 術 的 に
「使いものになる」文 章 です。めまぐるしく変 化 する現 代 社 会 において技 術 者 はますます多 忙 を極 め
ています。その技 術 者 が翻 訳 会 社 に依 頼 した訳 文 のチェックに時 間 をとられることほど 大 きな 無 駄
はありません。
本 小 冊 子 は、日 本 のプロの産 業 翻 訳 家 がどういう間 違 いをおかしているのかを、実 例 を使 って述
べたものです。文 章 の例 は国 内 の翻 訳 学 校 の講 座 のテキストや会 員 誌 、さらには関 連 の単 行 本 か
ら引 用したもので、創 作は一 切 しておりません。本 小 冊 子を執 筆した目 的 はつぎのとおりです。
(1) プロの翻 訳 家 に対 して:本 来 、人 を教 える立 場 にある翻 訳 学 校 の講 師 が数 々の間 違 いをおか
していることを知 っていただき、本 小 冊 子 の事 例 を他 山 の石 とせずに、ますます研 鑚 を積 み、翻
訳 作 品の品 質を高 めていただくため。
(2) プロの翻 訳 家 をめざしている方 に対 して:産 業 翻 訳 においてはどのような 誤 訳 が発 生 しやすい
のかを知 っていただき、それを避 けるためにどういう学 習 をすればよいのか、ヒントをつかんでい
ただくため。
(3) 翻 訳 会 社 の方 に対 して:信 頼 のおける翻 訳 家 を選 別 し、お客 さまに高 品 質 の翻 訳 作 品 を提 供
していただくため。
(4) 翻 訳 を 依 頼 さ れる方 へ:翻 訳 家 の質 はさまざ まであることを 認 識 し 、信 頼 のおける翻 訳 会 社 を
選 んで、翻 訳 の不 備 によるトラブルをなくし、無 駄 な費 用が発 生 しないようにしていただくため。
最 後 に本 小 冊 子 は、日 本の翻 訳 業 界 のレベルアップを願って執 筆したものであり、他 者 を中 傷 あ
るいは誹 謗する意 図はまったくないことを申し添えておきます。
1. これでは使いものにならない
ここでは、いわゆる誤 訳であって、技 術 的 に意 味 の通 らない訳 文を例として取 り上げました。誤 訳
の原 因 は専 門 知 識 の不 足 もありますが、辞 書 や専 門 用 語 集 を 丹 念 に引 いておれば防 げたと 思 わ
れるミスもあります。分 からない単 語 や分 かっているつもりの単 語 でも、必 ずひとつひとつ辞 書 で 確
かめるというのがプロの翻 訳 家のとるべき基 本 姿 勢 ではないでしょうか。
なお、各 原 文 の末 尾 の小 さな文 字 は著 者 が出 典 の覚 えのために付 けた記 号 で、本 文 とはとくに
関 係 ありません。
[原 文 1-1] Loss of efficiency was caused by dissipation of heat through the furnace w alls.
( T1 , 12 )
[訳 例 ] 効 率 性を損 失したのは、炉 壁 全 体 に熱が拡 散したためであった。
[解 説 ] 技 術 文 書 で「効 率 性 を 損 失 する」という表 現 はない。言 うとすれば「効 率 が悪 くなる」または
「効 率 が低 下 する」である。また dissipation は拡 散 ではない。岩 波 理 化 学 辞 典 では「散 逸 」となっ
ているが、この文では「放 散 」がよいだろう。拡 散は diffusion である。さらに through はこの場 合
「~全 体 に」ではなく「~を通じて」である。従 って正 しい日 本 文 はつぎのようになる。
[改 訳 ] 効 率 が低 下したのは、炉 壁を通じて熱 が外 部へ放 散 したためであった。
[追 記 ] 訳 者 に伝 熱 工 学 の基 礎 知 識 があればこのような誤 訳 は起 こらなかったであろう。少 なくとも
through をすなおに「・・・を通じて」と訳しておけば、loss や dissipation の訳 語が少 々不 適 切でも、
なんとか意 味 は通じたはずである。また loss や dissipation も辞 書さえ引いておれば「低 下」や「散
逸 」の訳 語 が見 付 かったはずである。以 下 の[訳 例 ]の文 は翻 訳 の学 習 者 が作 ったものではなく、翻
訳の講 師 がテキスト用 に模 範 解 答として作 ったものだけに問 題は極 めて大きい。
[参 考 ] 日 本 語 で 「散 」の付 く技 術 用 語 に対 応 す る英 語 を あげて お く。 diff usion:(原 子 の)拡 散 ;
dissipation:(エネルギーの)散 逸 ・放 散 ;scattering :(光 の)散 乱 ;dispersion:(固 体 粒 子 の)分
散 、など。
[原 文 1-2] If a ccur ac y i s b el ow sp ecif ic at ions , a slig h t i niti al p r el o ad i s ap p lie d
and new tests run.
( T1 ,2 0 )
[訳 例 ]
精 度が規 格 以 下 の場 合には、初 期 予 圧 をわずかにかけ、新たにテストを行 ってみる。
[解 説 ]
specifications の訳 語は「仕 様 (この例 文では仕 様 値 )」であり、「規 格」ではない。規 格は
「日 本 工 業 規 格」を Japan Industrial Standard というように standard である。一 方 、たとえばあ
る機 械を発 注 するときに「JIS に基 づいて設 計 せよ」というのが仕 様 である。原 文 は「客 先 の注 文 に
より設 計 製 作 した機 械 の検 査 をしたときに、精 度 が客 先 の仕 様 値 以 下 の場 合 には・・・」という意 味
である。
[改 訳 ] 精 度 が仕 様 値 以 下の場 合 には、初 期 予 圧 をわずかにかけ、新たにテストを行 ってみる。
[講 評 ] これも辞 書を引 きさえすれば specifications の誤 訳は防げたはずである。辞 書 も引かずに
思い込みでテキストの文 章を作るのは無 責 任と非 難されても仕 方 あるまい。
[原 文 1-3] An R&D engineer at ABC laboratories thinks that the environmental speci fications f or autom otiv e-electr onic eq uipm ent ar e b eing r elaxed in f av or of low er
costs.
( T1 ,1 25 )
[訳 例 ] ABC の研 究 所 のある研 究 開 発 技 術 者 は、自 動 車 用 電 子 機 器 に対 する環 境 基 準 がコスト
削 減のために緩 和されつつあると考えている。
[解 説 ] environmental specifications は「環 境 基 準 」ではなく、「環 境 仕 様」である。[原文 1-2]でも
specifications が「規 格 」と誤 訳 されていたが、規 格 (基 準 )と仕 様 とは混 同 されやすいようである。
前 にも述べたように規 格(基 準 )は英 語では standard と言う。この例 文でいえば、法 律(または社 内
規 定 )で決められたものが基 準であり、ABC 研 究 所で開 発 中 の機 器の各 要 目 の値をどう定 めて設
計 するかとい うのが仕 様 で ある。つまり、この文 章 では経 営 者 が開 発 機 の仕 様 を 法 律 に触 れない
程 度 に緩 和してコスト削 減を図ろうとしていることを述べているわけである。
[改 訳 ] ABC 研 究 所 の開 発 技 術 者 のなかには、自 動 車 用 電 子 機 器 に対 する環 境 仕 様 がコスト削
減を優 先 するために緩 和 されつつあると考えている者がいる。
[原 文 1-4] Tempering is a process of heating and cooling steel to increase its hardness and tensile strength.
( T1 ,8 4 )
[訳 例 ] 焼 入 れと は、鋼 を 熱 しそして 冷 却 すること によって 、鋼 の硬 度 および張 力 を 高 めることで あ
る。
[解 説 ] tempering とは「焼 戻 し」であって、「焼 入れ」ではない。焼 入れは quenching という。ふつう、
焼 入 れと 焼 戻 し とは一 連 の作 業 で あり、日 本 語 で は「焼 入 れ焼 戻 し 」、また 英 語 の頭 文 字 をと って
QTと言う。また tensile strength は「張 力 」ではなく、「引 張 強さ」であり、張 力は tension である(単
なる「力 」は force)。 これらの間 違いは専 門 用 語 辞 典さえ参 照しておれば防 げたはずである。また、
この文 の heating and cooling も一 連のまとまった作 業なので普 通「加 熱 冷 却 」と言う(cooling を
「冷 却」と訳 すなら heating は「加 熱 」、heating を「熱 すること」と訳 すなら cooling は「冷やすこと」
としないと釣 合 がとれない)。 従 って、「・・・、鋼を加 熱 冷 却 することによって、・・・」がふつうの言い方
である。
[改 訳 ] 焼 戻 しとは、鋼 を加 熱 冷 却 することによって、鋼 の硬 さと引 張 強 さとを上 げる処 理 方 法 であ
る。
[参 考 ] JIS の用 語 集では、tensile strength に対 して「引 張 強 度」ではなく「引 張 強さ」が正 式 用 語
になっている。また hardness に対して、金 属 については「硬さ」が正しい用 語であり、「硬 度 」とする
と「水 中 に含 まれるカルシウム、マグネシウムを炭 酸 カルシウムに換 算 した質 量 」の意 味 になるので
注 意が必 要 である。
[原 文 1-5] The average atmospheric pressure at sea level is approximately 1 kg/cm 2 .This
pr es s ur e w il l s up p or t a c ol um n of m er c ur y ( Hg) 760m m hig h, and i s c all ed
'one atmosphere'. It is equivalent to the pressure of a column of air approximately 8km
high, if the density of this air is c onstant and eq ual to the pr ess ur e at sea
level.
( T1 ,1 68 )
[訳 例 ] 海 面 上の平 均 気 圧 はおよそ 1kg/cm 2 である。この気 圧は水 銀 柱 760mm を支え、「1 気 圧」
という。1 気 圧 は約 8km の空 気 柱の圧 力 に等しい。ただしこの場 合、この空 気 の密 度は一 定で、か
つ海 面 の圧 力 に等しいものとする。
[解 説 ]訳例 2 行 目に「約 8km の空 気 柱 」とあるが、なにが約 8km なのかはっきりしない。原 文の下
から2行 目に high とあるので「高さ約 8km」とせねばならない。またそのつぎの if 以 下 の節の equal
の主 語 は the density of this air であるから、これを直 訳 すると訳 例のように「空 気 の密 度」と「海
面 の圧 力 」とが等 しいことになり理 屈 に合 わない。従 ってここでは「空 気 の密 度 は一 定 で、かつ海 面
(の圧 力 下)での値 に等しい…」とすべきである。(英 文の方 の the pressure も the value としないと
理 屈 に合わないと思 うが。)
[改 訳 ] 海 面 上 の平 均 気 圧はおよそ 1kg/cm 2 である。これは高さ 760 mm の水銀 柱を支えるときに
発 生 する圧 力で、「1 気 圧 」という。1 気 圧は高さ約 8km の空 気 柱 による圧 力 に等しい。ただしこれ
は、この空 気の密 度 が一 定で、かつ海 面 (の圧 力 下 )での値 に等しいとした場 合である。