牛の顔と鼻紋 - 全国肉用牛振興基金協会

「牛の顔と鼻紋 」
中丸輝彦
(中丸畜産技術士事務所・日本畜産技術士会地方業務部長)
はじめに
「顔」は人でも牛でもその個性を表す重要な部分
である。人では医・歯学、人類学や美容等の分野か
和牛は黒一色であることから、乳牛のように斑紋
らなる日本顔学会があり、多くの研究がなされてい
による識別は不可能である。最近では牛肉トレーサ
る。一方、家畜では学会まではないが、顔(頭部)
ビリティ法によって、個体識別の耳標装着が義務づ
は品種としての固定度合いを示す部位して重要視さ
けられいることから、各牛の識別は比較的容易にな
れ、ヘレフォード種やアンガス種での斉一性が注目
っている。しかし、和牛の登録では鼻紋を採っての
されてきた。長年つき合っている和牛ではあるが、
個体の識別は変わりな
改めて顔について一考してみたい。
いが、以前は顔や体表部
� 天角、地眼、鼻たれて・・・
良い牛の条件として、昔から顔(頭部)の大切さ
が言われているが、そのことを如実に示す表現として、
の旋毛の特徴をとり、
歯によって年齢を見る
ことなどは畜産技術員
として基本であった。
「天角、地眼、鼻たれて、一黒、陸頭、耳小、歯違う
参考に顔にある旋毛の
(一石六斗二升八合)
」の言い伝えがある。この意味を
主なものを示すと図.1
実用和牛百科(石原盛衛編)や先輩技術者の話などか
のとおりである。
図.1 顔における旋毛の位置
らひもといてみると(1 )雄牛の角は天へ向かって逆八の
面旋(めんせん)は
字に、雌牛は「い」型であること( 2 )眼は少し前の地
額にある旋毛で、両眼
面をじっと見つめるような、落ち着いた目つきが良い
を中心とした直線と顔の正中線との交点にあるも
( 3 )鼻は常に湿潤していることが健康のしるし( 4 )全体
のを「面旋中(なか)」、あとは左、右、上、下、
が黒一色の毛で覆われていること( 5 ) 額は陸(ろく)
少しのずれには「稍(やや)
」をつけて表現をして
で平らなこと( 6 ) 耳の小さめなものは皮膚が薄く質が
いる。また、瞼にあるものが眉旋(びせん)で、
良い( 7 ) 草を利用する歯の咬み合わせが良いこと等、
左右両方にあれば「両眉旋」
、左になければ「眉旋
実に多くのことが含まれている。随分前の和牛が役肉
左欠」の表現をする。また、頭頂部にあるものを
兼用の時代のことではではあるが、今の時代にも十分
「天旋(てんせん)
」と称している。他にも「背旋」
に通用する言い得て絶妙な表現であると思っている。
や「肩旋」などがあるが、顔の部分だけでも現場
また、兵庫県但馬地方でも、古くから顔(頭部)の
見方が取り上げられており、細長く顎が小さい(うり
ざね顔)タイプ、短くて顎の大きいタイプ、その中間
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� 旋毛で識別する
(加藤:畜産学実験と実習)
での識別には結構役立つものである。
� 良い顔とは
のタイプに分けられる。一般的に顔の細長なタイプは
全国の和牛に関係する多くの技術者は、
「和牛高
飼いにくく、前勝ちで、体積はやや劣るが、内蔵脂肪
等講習会」
(旧全国肉用牛協会主催)及び「地方審
が付きやすい特色があるとされ、中土井系に多くみら
査員認定講習会」
(全国和牛登録協会主催)を受講
れ、一方、顔の短いタイプは飼いやすくて飼料の効率
するが、筆者もその一人である。この両講習は和牛
が良く、後躯も充実し、太ってみえても脂肪の付着は
に関する技術の習得と共に、多くの和牛人と知り合
あまり感じられなく熊波系に多いとされている。近年
う絶好の機会でもあり、実に有意義な講習であった。
では中間のタイプはモダン但馬牛と言われて、各地で
ここでは和牛審査の実地研修が繰り返し行われた
活躍している。しかし、系統間の交配も多くなってい
が、審査部位別で最初に出てくるのが「頭・頸」で
る現在、その特色の明確さは以前より薄れつつあるよ
あった。審査標準の説明には「頭部は体躯に釣り合
うである。
う大きさで、額は平らで広く、眼はいきいきとして
温和、鼻梁は長さ適当で口の大きいもの。角は色沢
また、鼻紋の重要
良好で形良く、耳は大きさ中等で…」
と詳細に記述
さを物語ることとし
されている。丁寧な指導を受けるものの、いざ指名
て、法的証拠として
され「顔」の説明を求められるとなかなか即答しが
採用された刑事事件
たく、さらに点数(減率法)をとなると大変で、返
が実際にあったこと
答に迷った思い出を持っている。要は体全体との釣
を紹介したい。話には
り合いが良く、すっきりし、巾と長さのバランスが
聞いてはいたが、正
肝心だということであるが、実際にはなかなか明確
確な内容については
に表現しがたい部位でもあった。その後、登録や共
不案内であった。た
進会等の現場に出て相牛の機会を多く経験し、和牛
またま長谷川栄治氏
本来の良い顔のイメージが掴めるようになってき
の著書により昭和5 0
た。故人となられたが、全国和牛登録協会長であっ
年5月30日付朝日新聞の記事にあることを知り、地
た上坂先生には「和牛の顔は品が良く、おいしそう
。
元図書館で検索することができた(図.3)
図.3 鼻紋による判定を
報ずる朝日新聞記事
(昭和50年5月30日付)
でなければいけな
記事の内容は( 1 )山梨県警鑑識課は人の指紋のよ
い」とよく言われて
うに、
「牛の鼻紋も終生変わらない」ことに着目し、
いたことを思い出し
我が国では初めて裁判上の証拠として甲府地裁に提
ている。現在に至る
出した( 2 )鼻紋の鑑定を始めたきっかけは、連続牛
まで数多くの牛との
泥棒事件の解決のためで、成牛35頭の鼻紋を取り鑑
出会いがあったが、
定作業を行った( 3 )鑑定は羽部義孝元京大農学部教
その中で良い顔の代
授の分類に従い、指紋鑑定と同じように分岐点、開
表となると、手前味
始線、終始線などの特徴点を比較した(4)その結果、
噌ではあるが岐阜県
35頭中6頭が盗まれた牛と断定できた。指紋の場合、
の
「安福」
の顔が浮か
んで来る。
(図.2)
図.2 品位に富んだ
「安福」の顔
� 鼻紋は語る
容疑を実証するには12カ所以上の一致点を必要とす
るが、鼻紋20カ所以上の一致は捜査陣に自信を持た
せた…等と記されている。鼻紋が裁判の証拠となっ
たことは事実だったのである。登録の現場ではごく
鼻鏡部にある紋様、鼻紋こそが個体を特定する最
普通のこととして、インクのローラーを回し鼻紋を採
大の情報である。余談になるが、このあたりの部位
って来たが、重要な証拠として、極めて大切な業務
は人では鼻の下と上唇の部分かと思われるが、中央
であることを改めて感じたことである。
には縦の溝があり「人中(じんちゅう)
」と呼ばれ
ている。解剖学者である養老孟司博士は著書の中で
以上のように牛の顔は、人の顔に比べ表情は少
「人中より上の穴は、すべて左右が対になっており、
ないものの、個体の特徴を示し、いろいろなサイ
これより下の穴は一つしかない。上の穴は目、耳、
ンを送り、重要な情報を持っていることを改めて
鼻であり、下の穴は口、尿道口、膣、肛門である」
認識したことである。
と言っているが、牛では「人中」はないものの、興
味深いことである。
さて、この鼻紋の活用こそが我が国特有の技でも
最後に、考証についてご指導、ご協力頂いた全
国和牛登録協会長福原利一博士、元岐阜県種畜場
長岩城富士雄氏、元兵庫県畜産技術センター所長
ある。全国和牛登録協会による登録は、鼻紋による
太田垣進氏に深謝します。
正確な個体確認が基本となっていることは言うまで
◇参考資料
1)石原盛衛 実用和牛百科(富民協会出版部,1968)
2)加藤正信 畜産学実験と実習(養賢堂 ,1958)
3)養老孟司 からだを読む(ちくま書房, 2002)
4)長谷川栄次 牛よもやま話(雪印60周年記念会,1989)
5)朝日新聞縮刷版(1975年5月版)
もない。BSEが発生した折でも、鼻紋が貼付され
た子牛登記証、登録証による個体識別の正確さは高
く評価され、消費者に大きな安心感を与えたことは、
和牛が持つ大きな財産でもある。
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