日時 : 2003年10月19日主日2部説教 題目 : 神の義 説教 : チョー・ヨンギ牧師 聖句 : ローマ人への手紙3章23節-24節のみことば すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、 キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 今日私は皆様と共に「神の義」という題目でみことばを分かち合おうと思います。 私たちが子どもの時、田舎で食べた太刀魚は塩のかたまりでした。その頃は冷凍施設がなか ったからウルサン市場で買って、オンヤン市場まで来る間に腐らないように塩をたっぷりと振 りかけたからです。しかしながら、その塩っ辛い太刀魚を煮付けた汁がどれほどおいしかった か、今でも思い出すと食欲がそそられます。神様の義はこの塩と同じです。義があれば神様の 栄光、平和、喜びがあります。しかし、不義がある所には罪責、罪の定め、不安、心の苦しみ、 悲しみしかありません。今日、私たちの社会に多くの紛争、罪の定め、悲しみ、苦しみがある 理由も神様の正義が消えてしまったからです。 1.正義を失った人間 第一に、正義を失った人間たちを一度見てましょう。 まず私たちの祖先であるアダムは神様に背き、罪を犯してから正義を失ってしまいました。 彼は正義を失った途端、自分が裸であることを知りました。 創世記3章11節を見ると「すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに 教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」」とありま す。 神様に背いて正義を忘れると神様の栄光が離れるので裸であることを恥ずかしいと感じるよ うになります。アダムとエバは神様の栄光で服を着てたので神様の栄光が離れると裸であるこ とを悟るようになったのです。今日も良心のある人々は罪を犯すと良心が裸になったことを心 の中で深く感じるのです。良心が裸になったことは他人には隠せても自分自身には隠せません。 1811年、アメリカのある人が脱税したことで良心の呵責を感じてそのことで苦しみ続け、そ の苦しみから逃れるために脱税した税金6ドルを政府に送金し、そのことを告白しました。政府 はその6ドルをもとに良心基金をつくりました。そして、良心の呵責を感じた人はその良心基金 にお金を送ってくるようにしました。何日か後、あるもう一人の人が25年前脱税したことで良 心の呵責を感じていたのに素晴らしい機会をつくってくれてありがとうと書いた手紙と共に50 ドルを送金してきました。また、メソジスト教の牧師先生から200ドルが送金されてきました。 それは、一人の軍人が軍にいた時、政府の所有であるラバ一匹を盗んで売り飛ばしたことで良 心のの呵責を感じいつも苦しんでいたのです。彼は教会に出て牧師先生にその時に得た200ドル を政府に送って下さいとお願いし、牧師先生が彼の代わりにそのお金を送ってきました。こう して良心基金に送金されてきたお金が160年間で300万ドルを超えるようになりました。罪を犯 すと良心の呵責によって不安になります。犯罪で裸になった良心は他人には隠せども神様と自 分の良心の前では隠すことができないからです。みなさん、アダムとエバは裸になり、それを 恥かしく感じました。 創世記3章7節に「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸である ことを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作 った。」とあります。 いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作ったのですが、いちじくの葉は太陽に当 たるとしわしわになります。いちじくの葉でいくら裸になった体を隠そうとしてもすぐい ちじくの葉はだめになってしまいます。みなさん、今日もあらゆる偽りと弁明で私たちは 腰のおおいを作ります。しかしすぐにそれらはだめになります。最近様々な事件で警察に 行く人々はカメラの前でみんなこう言います。「私は罪を犯していません。一銭たりとも 受け取っていません。」嘘で腰のおおいを作りますけれども、まもなくして拘束されると その嘘が明らかになります。ですから、罪を犯すとアダムとエバが裸になった羞恥心を感 じたように私たちも羞恥心を感じるようになります。そして、アダムとエバは恐れました。 創世記3章10節に「彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なの で、恐れて、隠れました。」」 犯罪は裁きが伴うので怖いのです。今日も人々は法の前で逃れようとあらゆる努力をします。 海外に逃避したり、韓国内で隠れたり、あらゆる努力をして法の前から逃れようとします。犯 罪は大きな不幸をもたらしました。アダムとエバは犯罪の結果、恨みと戦いが生じ、その家庭 が不幸になりました。 創世記3章12節から13節に「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木か ら取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あ なたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。そ れで私は食べたのです。」」とあります。 互いに人のせいにし、弁明して葛藤といざこざをもたらしました。みなさん、聖書を見る と偉大な聖君であったダビデも罪を犯しました。それで彼はその犯罪の結果、とても大き な苦しみを受けるようになりました。ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯し、それを隠すた めにウリヤを殺しました。彼は自分の罪を完璧に隠せたと思っていましたけれども、預言者ナ タンがやってきて神様の御言葉をもって彼を叱りました。その結果彼は自分が神様の御前で裸 であることを悟りました。彼はバテ・シェバと姦淫したその罪を完璧に隠せたと思っていまし た。その夫を戦争の第一線に送って敵の矢に刺されて殺した罪です。しかし神様は知っておら れました。神様の御前では罪を隠すことができません。結局彼は神様の御前で裸である自分自 身を発見しました。 詩篇51篇1節から4節に「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通 ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、 あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、 私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪 を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪 を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」とあります。 自分の良心がそれを悟り、神様が知られました。彼はその罪によって神様の御前で恥か しさを感じ、全国民の前で恥かしさを感じました。彼は悔い改めの心を込めて詩を書き、 発表しました。 詩篇51篇9節から11節を見ると「御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去って ください。神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私を あなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」とあり ます。 恥かしさと苦しみの中で身悶えしました。そして、ダビデは神様を畏れました。罪を犯 す前は神様とあれだけ近かったのに、罪を犯してからは神様の御前でとても苦しみました。 詩篇32篇3節から4節に「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果て ました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわき きったからです。セラ」とあります。 見てください。罪を隠し、告白しない時、その心にやってくる苦しみは言い表すことのでき ないほど大きなものです。「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」と言うほど良 心の苦痛を感じました。また、「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄 は、夏のひでりでかわききったからです。」と言いました。命の骨髄がかわききってしまった のです。人生の喜びと希望がなくなりました。ダビデは一時的に肉体の快楽を感じたのかは知 れませんが、その結果彼は不幸になりました。 詩篇32篇1節から2節を見ると「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」と書いてありま す。そむきのある人は幸いでなく、神様の御前で咎が認められる人は幸いでないということで す。 詩篇51篇8節から9節に「私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたが お砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐ い去ってください。」とダビデは願いました。 インドの建国の父と呼ばれるマハトマ・ガンディーはこの世には七つの罪があると言いまし た。一番目は努力のない富が罪であると言いました。努力せずにお金を稼ぐこと、賄賂でお金 を得ることです。二番目に、良心のない快楽です。良心を踏みにじり快楽に突っ走ることです。 三番目に、品性のない知識です。品性のない知識はずる賢いだけです。道徳のない商業、商売 しながら嘘をつくことです。四番目は、人格のない教育です。五番目は、人間のいない科学で す。科学発展にだけ目をおき、人の命を大事に思わないこと、六番目は、原理のない政治です。 政治が右往左往することです。七番目に、犠牲のない礼拝です。神様に礼拝を捧げはするけれ ども、自分の犠牲なしに礼拝を捧げようとすること、これらが七つの罪であるとマハトマ・ガン ディーは言いました。このような罪は不幸をもたらします。結局ダビデは嘆息し、苦しみまし た。 詩篇51篇14節から17節を見ると「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してくださ い。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開 いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげて も、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神への いけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれま せん。」とあります。 彼は傷つき、悔い改める心で身悶えしました。罪は一時的に快楽を与えますが、その後心に やってくる良心の苦しみは悲惨なものです。甘い蜜のようですが、それが後にはにがい毒とな るのです。 2.イエス様の恵みと義 第二に、今日考えたいことはイエス様の恵みと義であります。 みなさん、アダムとダビデのように全ての人が罪を犯しました。私たちは「アダムは罪 を犯し、ダビデも恐ろしい罪を犯したが、私はそのような罪を犯していない。」と考えま す。しかし、ローマ人への手紙3章23節に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を 受けることができず、」と書いてあります。 全ての人々が神様の御前で罪を犯しました。炎のような御目をもって神様が私たちをご覧に なる時、罪を犯していない人は一人もいないのです。ですから、ヨハネの手紙第一1章8節に 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありませ ん。」と書いてあるのです。 「私には罪がない。何を悔い改めろと言うのですか?」という人はその中に真理がないので す。自分を欺いているのです。全ての人々はイエス・キリストの赦しと義のプレゼントなしでは 神様の御前では救われる方法がありません。人間の努力や手段、方法、修養、道徳で清くなる ことのできる人は一人もいません。イエス様が下さる赦しと義は何でしょうか?イエス様は十 字架で私たちの代わりとなって御体を引き裂き、血潮を流され、私たちがお母さんのおなかの 中から持ってきた原罪とこの世で犯した全ての自犯罪を贖ってくださいました。ですから、イ エス・キリストの十字架の血潮以外には私たちのより頼むべきところはありません。どこに隠れ ても神様の御目から逃れることはできないのです。イエス・キリストの血潮は私たちの罪をきれ いに清めてくださるのです。 ペテロの手紙第一3章18節に「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い 人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、 私たちを神のみもとに導くためでした。」 今やイエス・キリストの血潮のシルクロードによって私たちは神様の御前に堂々と進み行 くことができます。少しも恥ずかしがることなく胸を張って、罪を一度も犯していない人 として認められ、神様の御前に進み行くことができます。血潮の力は言い表すことができ ないほど素晴らしいものです。イエス・キリストの血潮で罪を清められ、私たちに義の服を 着せてくださいました。私たちはこのことに感謝しなければなりません。 ローマ人への手紙3章24節から25節に「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い のゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また 信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わす ためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたから です。」とあります。 ある人が私のところに来てこう言いました。「牧師先生!イエス様を信じると義とされると 書いてありますが、私は今日も罪を犯しました。どうしたらよいでしょうか?」マルティン・ル ターは「私たちはみなイエス様を信じて義人にはなったが、依然罪人である。」と言いました。 この世で人間はいつも罪の中で身悶えしますが、神様はキリストを通して赦しと義を下さいま した。このことを例を挙げて言いますと、みなさんがアメリカに行ってアメリカ市民権を得た としましょう。堂々としたアメリカ市民であり、法的にはアメリカ市民として全ての権利行使 をすることができます。しかし、移民一世は依然韓国人であります。顔も姿も韓国人であり、 言葉も韓国語を話します。しかし、法を通して見ると確かに彼は韓国人ではありません。法的 にアメリカ市民権を得たアメリカ人であるのです。私たちがイエス様を信じ、赦しと義によっ て清められましたが、依然罪人であり、罪人でありながら神様の律法の前ではイエス・キリスト の血潮によって義とされた人であります。ですから、私たちは行いでは完全に義とされること ができませんが、信仰によって赦され、義とされた人であるので私たちは信仰によって義とさ れた自分自身を知らなければなりません。 コリント人への手紙第二5章21節に「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされま した。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」とあります。 私たちがアメリカに行ってアメリカ市民権を得ると、たとえ韓国で生まれたとしてもアメリ カで生まれた人と同じアメリカ市民になれます。このように私たちが罪人ではありますけれど も、イエス様を信じ、イエス・キリストの血潮によって神様のように義とされました。これは律 法によってそうなったのであり、行いによるものではありません。ですから、この神様からの 恵みの賜物を感謝しなければなりません。赦しと義と栄光は賜物です。私たちの行いによるも のではありません。 エペソ人への手紙2章8節から9節に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたの です。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではあり ません。だれも誇ることのないためです。」とあります。 私たちには誇るべきものが何一つありません。私たちを行いの面から見るとみなが罪を犯し、 不義で、汚く、捨てられて当然な人々であります。しかし、イエス・キリストの十字架の血潮に よって神様の賜物として許しと義と栄光を得ることができました。ですから、この神様からの 賜物をいただくためには徹底した悔い改めがなければなりません。 ヨハネの手紙第一1章9節から10節に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実 で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、 罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちの うちにありません。」とあります。 神様を偽り者としてはいけません。罪を犯していないと言うならばそれは神様を偽り者にす ることです。私たちは正直に罪人であることを告白し、悔い改めてイエス様の御前に出てくれ ば全ての罪が赦され、義とされるのです。 マタイの福音書3章2節と8節にも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。それなら、悔 い改めにふさわしい実を結びなさい。」と書いてあります。 韓国の偉大な初代リバイバリストであったギル・ソンジュ牧師先生が平壌ジャンデヒョ ン教会でリバイバル聖会を導いていた時のことです。1500名の聖徒たちが集まりました。 しかし、先生が熱情を持ってメッセージを宣べ伝えても聖徒たちは反応がありません。ア ーメンもハレルヤもせず、悔い改めもしません。それでギル・ソンジュ牧師が神様に祈る と神様がこう言われました。 「あなたが過去に罪を犯したからだ。」 「神様、それはどんな罪ですか?」 「あなたの友人が死んだ時、あなたに友人は次のように遺言を残して死んだ。『おれの 家内は世情にうといから君が代わりにおれの財産を整理して家内に渡してくれ。』し かし、あなたはその時友人の財産から百ウォンを盗んだじゃないか!そのような罪を 犯してメッセージを語る時、人々が恵まれると思うか?」 彼は悟りました。彼はそのことを夜の聖会の時に聖徒の前で話しました。 「聖徒の皆様、今日聖霊様が臨まず、みわざが起きないのはこの私の罪のせいです。私 はイエス様を信じる前、私の愛する友人が死んだ時、友人は私に財産を整理して自分 の奥さんを見守って欲しいと私に言いました。しかし、私はその財産を整理する時、 百ウォンを盗みました。その罪によって私がいくら熱心にメッセージを語っても恵ま れないのです。私は明日直ちにその百ウォンをその奥さんに送るようにします。」 そのようにギル先生が講壇で涙を流し悔い改めると、聖霊様が臨み、あっちこっちでみ んな立ち上がり、「私はこのような罪を犯しました。私はあのような罪を犯しました。」 と悔い改めがおき、泣き出しました。このことをきっかけに悔い改めと聖霊運動が起き、 この運動が結局韓国全土を揺るがす大きな運動となりました。人が悔い改め、砕かれると 神様も感動されます。 私たちは悔い改め、キリストを救い主として受け入れ、信じるとこのような恵みをいた だくことができます。 ローマ人への手紙1章17節に「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおり です。」 私が悔い改めてイエス様の血潮を信じるのです。神様の恵みを私が信仰によって受け入 れると私たちの行いの代価ではなく、神様の賜物として私たちは栄光の救いを得ることが できるのです。 ローマ人への手紙4章16節に「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰による のです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を 持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。 「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは 私たちすべての者の父なのです。」とあり、 テトスへの手紙3章7節に「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠の いのちの望みによって、相続人となるためです。」とあります。 主イエス様を信じると私たちの全ての罪が赦され、義の服を着て、裸である恥ずかしさから開放さ れ、裁きの恐れから開放され、不幸と挫折と絶望から逃れるようになるのです。 3.義の実を結ぶ人生 第三に、私たちがイエス様を信じ救われ、代価なしに赦しと義の賜物を頂いたのなら今や義 の実を結ぶ人生を歩まなければなりません。「私はイエス様を信じただで赦しと義と栄光を得 ることができた。嬉しいな!もうこれからは罪を犯しながら生きよう!」と思ってはいけませ ん。赦しと義を得たならば、これからは当然義を行い、義の実を結びながら生きなければなり ません。義の実は神様の律法を守ることです。私たちは代価なしに義とされましたので今や義 人であります。罪人ではありません。義人ならば義人らしく生きなければなりません。生活の 中で神様の律法を守る義の実を結ばなければなりません。罪人である時は罪の実を結びながら 生きます。しかし、私たちが赦され義人になったならば、義人らしく神様の律法を守りながら 義の実を結んで生きてこそ義人になることができるのです。基礎的な義の実が神様の戒めをま もることです。 エペソ人への手紙5章8節から9節に「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあ って、光となりました。」 とあります。光の中に入ってきたのではなく、光になったのです。 以前は暗やみであったが、私たち自体がキリストの中で光になったのです。「光の子どもらし く歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――」とあります。 以前は暗やみだったので、暗いところであらゆる暗やみの実を結んだのです。しかし、今や キリストの中で光になったので、光の実を結ばなければなりません。十戒は私たちにどのよう にして光の実を結べばいいのか教えてくれる案内書です。それを守ることによって救われるの ではありません。イエス様を信じ赦しと義を得たので、今や戒めの教えに従って義の実を結ば なければなりません。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはい かなる像も造ってはならない。あなたの神、主の名をみだリに唱えてはならない。安息日を心 に留め、これを聖別せよ。あなたの父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗 んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。」これら は私たちが毎日毎日義なる生活ができるように助けてくれる教本であります。これをいつも心 の中で見て義の実を結ばなければなりません。 今日、アメリカは世界で最も強大な国家となりました。超強大国です。それはアメリカの法 が神様の心理の御言葉に従って立てた法であるからです。初期のアメリカの歴史を見るとイギ リスの法学者ウィリアム・ブッラクストーンはアメリカの憲法と権利章典に含まれている法の8 0%が聖書から直接引用されたものだと言いました。アメリカの憲法と一般法の80%は聖書から 引用されたものです。キリスト教的な価値に基礎を置くと人間社会に高度の正義と平等をもた らします。ですから、多くの移民者たちが全ての人々に自由と正義を約束したアメリカに移民 し、全世界の知性人たちが、能力のある人々がアメリカにやってきて今日のアメリカがつくら れました。しかし、今日アメリカはだんだん神様の法から離れつつあります。まもなくアメリ カは世俗化した国となり、神様の祝福はなくなってしまうことでしょう。神様は真理と法で行 う人を求めておられます。 みなさん、義の実がなく、不義と不正、腐敗のある所では死の実が結ばれます。死の実は悩 み、死の実は心配、悩み、不安、焦り、絶望、死などです。 箴言19章16節に「命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。」と あります。 命令を守ることが自分のいのちを保つことです。有益なことです。私たちが命令を守らない で不義なる生活をすると ミカ書6章14節に「あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。あなたは、移しても、 のがすことはできない。あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。」と書いてあります。 罪から来る報酬は死です。 ヤコブの手紙1章15節に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。 今日、韓国社会を騒がしている事件を見てください。権力が入ってきて、欲がはらみ罪を犯 して韓国社会を大きな混乱の中に陥れました。イギリスのことわざにこういうことわざがあり ます。「一日を幸せに生きたいのなら理髪してください。一週間を幸せに生きたいのなら結婚 してください。一ヶ月を幸せに生きたいのなら車を買ってください。一年を幸せに生きたいの なら新しい家を買ってください。しかし、一生涯幸せに生きたいのなら正直な人になってくだ さい。」最近の新聞を見ると韓国の清廉度は世界で50位だそうです。腐敗監視国際民間団体で ある国際透明性機構が国家別腐敗認識指数であるCPIを調査した結果、韓国は10点満点で4.3で、 調査対象であった133の国の中で50位でありました。不正、腐敗のない最もきれいな国は昨年1 位であったフィンランドで、10点満点のうち9.7でありました。アメリカは7.5で18位、日本は7. 0で21位です。国際透明性機構側は韓国の場合、政治資金と賄賂関連スキャンダルで見られるよ うに、政治と経済部門で透明性が低く、腐敗が蔓延していたからこのような結果になったと言 っています。不正、腐敗がどれだけ私たちの社会を揺るがし、国民たちを落胆させていること でしょうか。今日大統領側近の不正、腐敗のため大統領も再信任を国民投票によって問うとし ているほど深刻な問題が起きています。全てのところに義があってこそ福があります。正義が ないと福はありません。お金がたくさんあるからといって幸せになれるのではありません。正 義が伴わないお金は腐敗をもたらします。そのようなお金は人生を腐らせます。大きな不幸を もたらします。 箴言10章2節から3節に「不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救 い出す。主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。」とあります。 また、詩篇37篇16節に「ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにま さる。」とあります。人々はみんなが金、金、金と言いますが、みなさん、お金をたくさん持 っている人の中であまり幸せな人はいません。お金でおなかがいっぱいになった人は満足でい ないので、麻薬に手を出し、賭博に手を出し、淫乱と放蕩に手を出します。大金持ちほど倫理 と道徳に大きな腐敗がやってきます。お金に正義が伴わないと幸せはありません。お金を正し く使うと大きな幸せがやってきますが、お金を正しくない方法で使うと大きな不幸がやってき て自分と他人を害を及ぼします。私たちはみな名声を欲しがります。それで子どもたちを生む とみな一流大学に入らせようとあらゆる苦労をします。最近は子どもを外国に送って離れ離れ になって暮らす家族がたくさんいます。しかしそうしたからって子どもたちが幸せになれます か?みなさん、正義の伴わない名声は決して幸せではありません。イエス様を信じ、神様に仕 え、心に正義をもっていてこそ名声が栄光になります。正義のない名声は幸せをもたらしませ ん。 箴言22章1節に「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。」とあります。義 のない名声は破滅をもたらします。 アメリカのワシントンポスト新聞社のジャネット・クックという女記者は、ジミーの世 界という特種報道でアメリカで有名になりました。黒人の子どもが親によって毎日麻薬注 射を打っているという衝撃的な記事を生々しく報道してアメリカを嘆息と悲しみの中に陥 れました。彼女はこの記事によって最高の名声であるピュリッツァー賞をもらいました。し かし、何日か後警察の調査によってこの記事はクック女記者によってでっち上げられた記事で あることが明らかになり、新聞社から追い出され、ピュリッツァー賞も剥奪されました。記者 が来てなぜこのような記事を書いたのかと聞いたところ「私の直属上官はウォーターゲート事 件でニクソン大統領を退任させ、有名な記者となってピュリッツァー賞までも受けた。それを 見て私も記者として成功したくてこのようなことをした。」と言いました。正義のない名声欲 のため、結局は自分を破綻に至らせることになりました。正義のない名声は破綻をもたらしま す。権力も同じです。正義のない権力は腐敗します。絶対権力は絶対腐敗します。権力が伴う とお金も伴います。政権を持った人に企業はお金を渡します。ある国会議員が新聞でこう言い ました。新しい政権がつくりあげられるとお金が天から落ちてくると。今日賄賂をもらった大 統領秘書たちが次々と逮捕されています。 箴言29章2節に「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。」とあります。 今日正しい人がふえると民は喜びますが、今韓国民たちはどうですか?嘆いています。それ は正しい人が少ないからです。 4節を見ると「王は正義によって国を建てる。しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。」と あります。 正義があると国が栄えますが、賄賂を政権に渡すと国が滅びるようになります。国が栄える ためには指導者たちが悔い改めなければなりません。大統領から悔い改めなければなりません。 長官たちも悔い改めなければなりません。 昔、中国の元の時代、湯王が天子になってからなんと7年間干害が続きました。経験の多いあ る老大臣が「王様、7年間の凶年から逃れるためには人を殺していけにえとして捧げなければな りません。」と言いました。湯王は「私の民をいけにえにはできない。私がいけにえになりま しょう。」と言いました。湯王はきれいに体を洗って、飾りのない白い車にのって自ら犠牲に なろうとして神の前にひれ伏しこう言いました。「私が間違った政治をしたので干害がきたの ですか?神様!民が職を失い、苦しみに遭っているのにも私がちゃんとお世話できなかったか ら雨が降らないのですか?賄賂によって国がめちゃくちゃになって来た干害ですか?陰口によ って正しい人が被害を受けているからですか?これらはすべて私の過ちによるものです。私が 死んでいけにえになってこの苦しみから民を救い出すことができますように。」と泣き出した ところ天に真っ黒い雲がやってきて雨が降り出したと古事に記録されています。指導者が悔い 改めると天も感動します。韓国の大統領が再信任を国民投票によって問うと言いましたが、私 は大統領が国民の前で悔い改めるべきだと思います。大統領だからといっていつも正しく指導 できるわけではありません。できない時もあります。そのようなときは悔い改めればいいので す。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」とあります。悔い改めないで他のところ で問題の答えを探そうとするから難しくなるのです。中国の湯王のように神様の御前でひれ伏 し悔い改めると天が雨を与え、地が実を結ぶようになります。 人間関係にも義がなければなりません。義がなくなると人間関係も悪化します。夫婦関係も 正義がなくなると悪化し、親子間にも正義がないと悪化します。隣人関係も正義がなくなると 戦いがあります。 詩篇101篇5節に「陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、 私は耐えられません。」とあります。隣人をそしる者を神様は滅ぼされると言われました。 エペソ人への手紙4章25節に「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真 実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」とあり ます。 ローマ人への手紙13章10節に「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全 うします。」とあります。 ミカ書6章8節に「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに 求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とと もに歩むことではないか。」とあります。 中国の春秋時代、齊国が魯国を征服しようとある町に侵略して行きました、一人の貧しい婦 人が一人の子供を抱いて、一人の子供は手をつないで敵の前から逃げました。だんだん、敵が 後ろに迫ってきてもう逃げることができないほどになりました。婦人は胸に抱いていた赤子を 捨て、手をつないだ幼子だけを連れて逃げます。手をつないでいた幼子を捨て、胸に抱いた赤 子だけを引き連れて逃げればもっと簡単に逃げることができるだろうに、赤子を捨て手をつな いでいた幼子だけを引き連れて逃げ、結局は敵に捕まってしまいました。婦人は敵の将軍の前 に引き連れられて首切りされる前に将軍からつぎのように質問されました。「お前はどうして 胸の中に抱いていた赤子を捨て、手をつないでいた幼子だけを引き連れて走ったのか?胸の中 に抱いていた赤子だけを連れて逃げたのなら捕まらなかっただろうに。」夫人は涙を流しなが ら「将軍!胸に抱いていて捨てた赤子は私の子どもです。そして、手を持って逃げていた子供 は義理の姉の子供です。自分の子供を愛し、自分の子供を救ってあげたいけれども、義理の姉 の子供を捨てることは正義を捨てることになります。私が義理の姉の子供を見捨て、自分の子 供だけを生かしておくと後になって家庭は平和じゃなくなるでしょう。子供はまだ生めばいい のです。義理の姉の子供を生かしてこそ正義が成り立ち、社会も国も正義が成り立つと思いま した。」と言いました。将軍は納得して「この国を侵略してはいけない。このように正義の成 り立っている国を侵略したら私たちが滅びてしまうだろう。」と言い、その夫人のために撤兵 したそうです。 みなさん、隣人間にも正義があると国が栄え、国民たちが豊かになることができます。 私たちがいつも義の実を結ぶためにはいつも心の中で神様の律法を黙想しなければなり ません。 詩篇1篇2節に「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさ む。」とあり、アモス書5章24節に「公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、 流れさせよ。」と書いてあります。 いつも神様の十戒を心の中に刻み、生きなければなりません。いつも十戒を記憶し、黙 想して生きなければなりません。十戒は私たちが正しく生きることのできる教本になるか らです。 そして、悪と罪と高慢を遠ざけなければなりません。 詩篇1篇1節に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者 の座に着かなかった、その人。」とあります。 ローマ人への手紙6章2節と7節に「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私た ちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。死んでしまった者は、罪から解放 されているのです。」とあります。 昔の話の中にある死刑囚が自分のお母さんの耳を噛みついた話があります。死刑囚が幼い時 隣の家でおもちゃを盗んでくるとそのお母さんは「よくばれなかったね。すごい!」と言いま した。この人は大きくなるにつれだんだんたくさん盗むようになりました。ある日、隣人の時 計を盗んで来ました。「すごい技術だね。どうやって時計を盗んできたの?」お母さんはまた もや叱らず褒めてあげました。こうして、彼は青年の時、強盗と殺人をして死刑囚になり、死 刑されるようになりました。泣きながらついてくるお母さんを見て「お母さん、話したいこと があるからちょっと耳を貸してください。」と言いました。お母さんが彼の口元に耳を貸すと 「お母さんが私が幼い時におもちゃを盗んで来た時に厳しく叱ったならば私がこのように死刑 囚にはならなかったでしょう。私がこうなったのはお母さんが私を叱らなかったからです。」 と言いながらお母さんの耳に噛み付きました。そうです。お母さんが間違った教育をしたから このようになったのです。みなさん、お母さんが幼い時に子供を教育することがその子供の一 生の運命を決定するのです。幼い頃から子供たちをちゃんと教育しなければなりません。昨日 一人の地域長が二人の青年を連れて私のところに信仰相談に来ました。息子たちはとっても背 丈も高く、健康であるのに、地域長はやせ細っていました。地域長はうちの教会で子供区域を 受け持っていました。それで自動的に自分の子供たちに「あなたたちの友達を礼拝に連れてき てね。たくさん連れて来るんだよ。」と言いました。子供たちは仕方なくお母さんの命令に従 って友達を連れて来るようになりましたが、それが面倒な時もあったそうです。子供たちがた くさん家にやってくるともう家の中がめちゃくちゃになります。しかし、続けて地域長は子供 区域長として一生懸命奉仕しました。そうするうちに二人の息子たちの心の中にも信仰が入り ました。息子たちは神様を愛し、キリストに仕える素晴らしい子供となりました。私は地域長 の話を聞いてとても感動しました。母のすることが子供の一生に大きな影響を及ぼすのです。 ですからいつも悪と罪と高慢を遠ざけなければなりません。そして、過ちを犯すこともあるか らその時に悔い改めなければなりません。 エゼキエル書18章30節に「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれそ の態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべて のそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。」とあります。 罪を犯していない義人はいません。しかし、悔い改めないと捨てられます。罪を犯す度に悔 い改めなければなりません。シャワーを浴びない人がいますか?私たちは体が汚れるのでシャ ワーを浴びます。汚くなるのを嘆かずに汚くなると洗えばいいのです。そして、サタンの誘惑 を退けなければなりません。悪魔がいる以上誘惑されます。誘惑に遭わない人はいません。悪 魔はいつも私たちの周りをほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩 き回っています。鳥が空を飛ぶのはどうしようもありませんが、その鳥が私の頭に鳥の巣をつ くるのを許してはいけません。悪魔が行ったり来たりするのはどうしようもありませんが、私 の心の中に入って来て悪魔が巣をつくるのを許してはいけません。 ローマ人への手紙6章16節に「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分 の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷 となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」とあります。 ガラテヤ人への手紙5章1節に「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくだ さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられな いようにしなさい。」とあります。 アメリカに行くとジェイシーファンというデパートがあります。有名なデパートです。 全国に1700の支店を持っているジェイシーファンは億万長者です。しかし、彼が若い時始 めた事業は肉屋でした。肉屋をしながらホテルに肉を納入しましたが、ホテルのシェフが 賄賂を要求しました。彼が賄賂を渡さずにいたらホテルからもう肉を持ってくるなと言わ れてしまいました。彼はこう言いました。「私があなたに賄賂を渡すと賄賂した分だけ肉 の質が悪くなります。私はそのようにはできません。」それで結局肉屋は滅びてしまいま した。それから彼は雑貨屋さんを始めました。彼は雑貨屋の入り口に大きな看板をつけま した。「神の国とその義とをまず第一に求める雑貨屋です。」人々は嘲笑いました。「神の 国とその義とをまず第一に求める雑貨屋は滅びるだろう。」しかし、いつも神の国とその義 とをまず第一に求め、正直、誠実、勤勉、忠誠に仕事をしたので、その店はだんだん大き くなり、今日アメリカで指折りのデパートとなりました。彼は億万長者になったのです。 いつも義の実を結んで生きるためには誘惑を退けなければなりません。このホテルのシ ェフの誘惑に陥ったなら今日このような成功はなかったことでしょう。このような誘惑に 勝って、神の国とその義とをまず第一に求めたので彼は神様の祝福を受け、成功したので す。 そして、私たちはいつも祈りと聖霊充満を求めてこそ悪に勝てます。 エペソ人への手紙6章18節に「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈 りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽く し、また祈りなさい。」とあります。 私たちが聖霊の助けをいただいてこそ御言葉の上に立って正義の生活ができます。この罪の 多い世において私たちは私たちの力で勝つことができません。しかし、神様は私たちを孤児の ように見捨てず、助けぬし聖霊様を送ってくださいました。聖霊は助けぬしで私たちのヘルパ ーであります。天から下ってきたヘルパーです。彼が私たちを助けてくださるのでいつも聖霊 様を認め、歓迎し、受け入れ、より頼み、聖霊充満になると私たちが罪と悪と悪魔に勝って勝 利の生活をすることができるのです。 不義と悪を行うものはその運命が風に飛ぶもみがらのようです。不義と悪を行うといく らお金がたくさんあり、権力があり、名声があるとして風に飛ぶもみがらのようになくな ってしまいます。裁きを受けて義人の入る天国に入ることができなくなります。 詩篇1篇4節から6節に「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まこ とに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」とあります。 ダンテの神曲の地獄編に出て来る地獄の扉にはこのような看板がかかっています。「このな かに入るものは一切の望みを捨てよ。」永遠の希望がない所は、死それ自体よりももっと恐ろ しいものです。希望がないというのはいかに恐ろしいことでしょうか。 聖書には「悪者の道は滅び失せる」と書かれています。悪人の道には永遠に希望がありませ ん。 ローマ人への手紙3章23節から24節に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受け ることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義 と認められるのです。」とあります。 イエス・キリストを救い主として受け入れ、十字架の血潮により頼むと男女、老幼、貧富、貴 賎、東西洋を問わず赦しと義と栄光を得、父の国に入ることができます。 <祈り> 全能で聖なる我が父、神様! 罪と悪は私たちを破滅に導いて行きます。しかし、イエス・きりストの中で赦しと義は私たち を神様の栄光に入らせ、その義によって私たちが義の実を結んで生きる時、たましいに幸いを 得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であり、いのちを得、またそれを豊かに持 つことができます。 父なる神様、ですから神様の御前で切に祈ります。 義を愛し、義の中で生きる私たちとなりますようにどうぞ助けてください。 イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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