基地問題シンポジウム 12 月 5 日午後、沖縄コンベンション

基地問題シンポジウム
12 月 5 日午後、沖縄コンベンションセンターにて、基地問題シンポジウムが
行われました。沖縄県内はもちろん、全国からの参加者を含めて、630 人余り集
まりました。
平和運動や基地問題にとりくむ人々だけでなく、各市町村の市町村議会議員
も、政治的な主義主張にかかわらず参加がありました。
開会に伴いあいさつをした全労連議長・大黒作治さんは「来年は日米安保 50
年という、改めて日米間の軍事同盟の実態を見つめ直す機会ではないでしょう
か」と会場に集まった人々に訴えかけました。
宜野湾市・伊波洋一市長より、「2004 年に、普天間基地そばの、沖縄国際大
学にヘリが墜落してきました。今も、住宅地の上をヘリが毎日のように飛んで
います。いつ落ちて来るのか、と心配な日々です」と現状報告がされました。
宜野湾市には基地問題の 110 番として電話が用意されていることが紹介されま
した。そこには年々市民からの苦情が増えてきているそうです。内容としては、
深夜の訓練による睡眠妨害、難聴になった、といった報告が上げられていまし
た。
「ヘリ墜落から、調査を重ねる中で明らかになってきたことに、
『クリアゾー
ン』というものの存在。これは、米軍連邦航空法の中に国内だけでなく、国外
でも米軍が使用する空港は、滑走路の延長線上は墜落の危険性が高いので、何
もあってはいけない、と記されている区域のことです。しかし、普天間ではこ
のクリアゾーンが、基地の外に約 900m はみ出している状況です。このクリア
ゾーンには、小学校がすっぽり入ってしまっています」
小学校など公共施設 18、住宅 100 戸 3600 人がこの区域にいます。
国内では普天間は空港と区分されていないため、国内法をもってしても、民
家や鉄塔のすぐそばを航空機が飛ぶという状況が続いています。
SACO 合意では部隊の司令部がグアムへ移転し、他は少ない数で、散らばる
ようになるという話でした。
2006 年に「再編実施のための日米のロードマップ」で、海兵隊員、家族含め
9000 人が部隊の一体性を維持する形で 2014 年までに、沖縄からグアムへ移転
する、と決まりました。
伊波市長自身が、グアムのアンダーセン基地へ視察に行った際の、米軍側の
説明では、沖縄の軍隊すべての引き受けを考えている口ぶりだったのが、帰国
後、政府に確認すると、「そのような事実はない」と返されたと言います。
「現地には受け入れの余地があるのだから、米軍基地は、県外のどこかでな
く、グアムへ移転を」と訴えていました。
続いて発言した、弁護士の仲山忠克さんは、
「弁護士になった 1 件目から米軍
関連の事例を取り扱って、米軍と常に関わってきた」とのこと。
また、「この夏の総選挙で、政権が変わったのは、「国民の社会を変えたい」
という願いから生まれたもの。国民が動けば社会が変わると言う証明ですから、
普天間問題でも、県内・国内移設があって当然というマスコミの原点を確認す
ることが必要です。国内での移設では解決はありません、無条件撤去こそが必
要である」と話しました。
3 人目の発言、志位さんは、まず「世界で最も危険な普天間を即時封鎖し・撤
去を」と大きく会場を見渡し訴えかけた上で、話始めました。
前出のクリアゾーンの問題、昼夜問わない飛行を繰り返す騒音問題、ヘリが
墜落してからも我が物顔で飛びまわることも許せないと話します。
「米軍機が関わる事故も、5~10 年前の 144 件だったことと、ここ 5 年間の
212 件を比べても分かるように、規模縮小どころか、被害拡大になっています。
いつ市民に被害がでるか分からない現状は打開すべきで、そのためには、基地
の即閉鎖と撤去が緊急に解決すべき人道問題である」と語られました。
「移設案の出ている辺野古にしても、今日までサンゴとジュゴンの海に杭一
本打たせて来なかったのは、市民のはたらきかけによるものです。基地がある
限り、健全で正常なものにはなりません」と、沖縄だけでなく、日本の問題と
して広く働きかけを呼びかけました。
ひめゆり
平和祈念
12 月 4 日から 3 日間、全国革親懇のとりくみで、沖縄基地見学、及び基地シ
ンポジウムツアーがあり、京都から 3 人参加。
シンポジウムの参加の他、戦跡、基地、基地移設予定地見学が日程にありま
した。
初日訪れた、ひめゆり平和祈念資料館では、沖縄戦の記録が多数保管されて
います。ひめゆり学徒隊として沖縄陸軍病院へ従軍看護を命ぜられた学生らの、
苦悩の体験記が読み物の資料として複数展示してあります。
ひめゆり学徒隊の学生らは、それまで人の生き死にと関わりを持ったことが
ない、15~19 歳の少女たち。彼女らが戦線から運び込まれる負傷兵の看護、亡
くなっていく人々を見届け、埋葬する任務を負っていました。
ひめゆり部隊の所属していた、陸軍病院も医療器具の不足など、病院として
の機能を失いながらも洞穴に病棟を構えていました。その洞穴に投げ込まれた
米軍のガス弾により、倒れた人々の中に、複数の学生がいたことなどが記され
ています。
平和祈念資料館の敷地にある、平和の礎(いしじ)。ここには沖縄戦で亡くな
った、多くの一般の沖縄県民をはじめ、県内外から動員された日本軍所属の将
兵、強制連行された台湾・朝鮮の人々、米国軍人の名前が刻銘されています。
京都府出身の 2543 人の将兵の名前も刻まれています。
平和祈念館の中には、爆発せずに残った不発弾が、今も床下に展示されてい
ます。
基地問題
嘉手納基地と普天間基地について、北谷町議員の中村重一さんに聞きました。
両基地ともに、土日は米軍も基本的に休みで、平日であれば、2 本ある滑走路で、数百機
が離着陸を繰り返すそうです。中には、
「タッチアンドゴー」と呼ばれる、機体が地面に触
れた直後に再び離陸するという訓練もあり、さらに騒音をかきたてるそうです。
那覇市内から、嘉手納基地へ向かっていく国道 58 号線沿いには、複数の米軍基地が乱立
しています。中でも、那覇から嘉手納に到着する少し手前、58 号線の両側にフェンスが延々
と続き、車道を走る自動車やバスの方が異質なもので、米軍基地が主体になっているかの
ように感じるほどです。
また、国道沿いに、円墳のような芝生で覆われた半球の小山が複数見られました。バス
ガイドの佐久川さんに聞くと、
「燃料タンクが地下に埋められているんですよ。太陽光によ
る熱で、自然発火が起きないように、地中に埋められ、芝生がかけられているんですよ」
とのこと。バスの車窓から見えた限りでも 5、6 つありました。
嘉手納基地敷地内には、ゴルフ場もあるそうです。
またバスで移動中に、遠方の丘陵地帯には、白っぽい球体が 2、3 見えたのですが、これ
は、グアムやサイパンの基地との通信用の施設とのことでした。
偶然かもしれませんが、ちょうど、この付近を通過した後、携帯メールが送信できなく
なり、携帯の機能で「電波圏内に入り次第送信」という設定を使っていましたが、次の予
定地に向かうまで、送受信が完了しませんでした。
中村さん・・・・・・・・・
米軍にとって、嘉手納は地の利が魅力的で、アジアの各地に飛び立って行きやすく、イ
ンドまで 5 時間で到着するそうです。
嘉手納基地のすぐ近くに嘉手納高校があり、そこでは、授業中にも白や黄色の煙幕が入
ってくる、騒音で授業妨害を受けているといいます。遮音壁を作るなど、対策がなされて
います。
そんな市民の生活を妨害しているにも関わらず、米軍の経費、電気代 30 億円、水道代 6
億円など合計 40 億円にも上る「思いやり予算」が投入されています。
基地内には、シェルターもあるとのことですが、これはあくまでも米軍のためのもの。
ここ嘉手納の管制塔が、米軍機だけでなく、一般の旅客機の離着陸も管理しています。
嘉手納には、岩国や自衛隊向けの空中給油機がおいてあります。その他に、約 20 万トン
の弾薬が保管されており、ここからグアムに運ばれたりします。湾岸戦争などの際にも、
ここから弾薬が運ばれていました。また、「核」が 1950 年代には分解された状態でありま
した。現在はどうであるかについても、今後明らかにしていく必要性があると言えます。
弾薬などの調合をふくめ、基地からの排水や演習場に放置されたままの薬きょうなどで、
水ガメの水質汚染など影響が出るのではないかと心配です。
様々な基地問題から、地元に住み続ける若者がおらず、どんどん高齢化が進んでいます。
嘉手納町・北谷町それぞれ元は農地だったのが、軍用地になっています。地主 7000 人、
地代 300 億円とも言われています。
・・・・・・・・・・・・
嘉手納の道の駅から見る滑走路の手前には、軽トラックがとまって、米軍基地を囲むの
と同じフェンスの向こうの、畑へ入って行く男性がいました。
フェンスに貼られた看板を見てみると、「立ち入り禁止」の文字。しかし、平然とした様
子で、フェンスを開け閉めしています。
重ねて中村さんに聞くと、「黙認耕作地」だということです。
「黙認耕作地」とは、土地を奪われた地主や、耕作者が許可なく耕作している場所で、
米軍も、沖縄防衛局も黙認していることから、この名がつきました。
嘉手納町でいえば、町面積 83%余りが米軍基地に占められており、食べるものが必要で、
生きていく上で、逮捕されようが、どうしようが、耕作しなければならないためです。
地主はそれなりの「軍用地料」をもらって、それだけで生活できる人もいますが、耕作
する人は必ずしも地主ではなく、地権者と全く関係の無い場合があるそうです。
中村さん・・・・・・・・・・・・
北谷町の人口は、2 万 8000 人。その内、基地の外に住む米軍家族が、3200 人含まれま
す。以前、ひき逃げをした犯人が、基地内に逃げ込むということがありました。米軍関係
者がおこした交通事故が 1 日 10 件を超えることもあります。
一時期「米軍家族の子どもらが乗るバスを追い越してはならない」という、ウソのよう
な御触れがありました。
普天間・・・・・・・・・・・・
普天間基地の南東側から、滑走路が見える高台に登っていくと、先客がいました。
米軍の軍属らしき肩肘を張った筋肉質なボウズ頭の男性が、部下と、その家族らを案内
していました。
聞き漏れる言葉から推察するに、沖縄戦当時、米軍側の犠牲者のこと、戦後感染症がま
ん延したことなどが説明されていました。また、ギョッとしたのが、強い風の音にまぎれ
て「キョウト・マイヅル」という単語が聞こえ、その位置から本土の方を指差していたこ
とです。
中村さんの説明が始まり、普天間の滑走路の付近で、ヘリの墜落や、騒音問題といった
トラブルが相次いでいることが報告されました。
中村さんの説明を聞くと「嘉手納や普天間を見ていると、湾岸戦争の際にも飛び立つ回
数が増えていました。世界のどこかで何かがあった場合、おそらく日本一早い時点でわか
るでしょう」と言います。
事実、湾岸戦争や、イラク戦争が激化していく中で、土日も関係なく、毎日深夜に及ぶ
実践向けの訓練が行われました。普天間のすぐそばの沖縄国際大学に、2004 年 8 月 13 日
午後 2 時 18 分ごろ米軍ヘリ墜落事故が発生。それも激化した訓練のため、疲労がたまった
整備士のミスが起因とのことです。
辺野古
2004 年 4 月 19 日から、今日まで辺野古の海岸では座り込みを継続していま
す。
普天間基地の県内移設先候補として挙げられたところです。
基地シンポジウムツアーで辺野古へ行ったのは 2009 年 12 月 6 日、この日は
座り込み開始から 2058 日目。
住民の努力と、珍しい生物や、クマノミ、ジュゴンなども住む海を守ろうと
する協力者が集まっています。
米国連邦地裁に提訴されたジュゴン訴訟で、V 字滑走路の話は、日本政府が
住民・国民に説明していた内容と全く違うものでした。
その辺野古・大浦湾海域では、環境アセス法に違反する調査に、市民や専門
家からも批判と抗議が上がり、県外からも、自然や海を守ろうと、座り込みに
来る支援者が増えたそうです。
ただ、地元住民の中で、自らの意思表示が難しいケースも出ています。とい
うのも、職場や、地域で基地があることにより、生計を立てている人が多く、
反対の立場として意思表明することにより、いわゆる「村八分」にされ、自営
業者であれば仕事が回してもらえなくなる、という切実な現状があるそうです。
座り込みしていた田仲宏之さんは「基地をどうこうすると、決めるのは政治
で、沖縄でなく、東京にある国会です。みなさんの地元選出の国会議員さんに
どうか訴えてください。政治家に効き目があるのはそれぞれの地元からの声な
んです」と話してくれました。
東村高江
沖縄基地シンポジウムの会場に、東村高江でのヘリパット建設反対運動にと
りくむ、伊佐郁子さん・真次さんご夫婦の姿がありました。
1996 年の SACO 合意で、基地の縮小、県民の負担減と謳われましたが、使わ
れなくなったヘリパット 2 つの土地の返還するかわりに、高江に新たに 6 つの
ヘリパットが作られることになりました。
2007 年 7 月に工事着工の話が出ると同時にすわりこみを開始。高齢者もいる
ので、5 世帯で、仕事の合間や、家事をしながら、すわりこみをしているそうで
す。
伊佐郁子さんに聞くと「沖縄本島北東部に位置する高江のある辺りの『ヤン
バル』は世界自然遺産にもなっており、珍しい生物が多数生息している地域で
す。この緯度で森が残るのは沖縄だけなんですよ」と地域の特徴を説明します。
東村高江に、米軍のヘリパット建設案により、ヤンバルの自然は、危機にあ
ります。また、住民 160 人 55 世帯の生活も危険に晒されることになります。
ヤンバルには、ダムが 5 つあり、県民の生活用水の 6 割を担っています。も
しも、そこにヘリが落ちたら、付近の住民だけでなく大きな被害が出ます。
同時に過去を振り返ると、ベトナム戦争の時、北部で枯葉剤を容器に移し替
える、という作業がされていました。水質の安全性は大丈夫という数値が出て
いるそうですが、枯葉剤は重みがあるので、本来なら、地底のドロを見る必要
があります。そういった面でも住民の不安は尽きません。
ベトナム戦争の頃からこの辺りでは、ジャングル戦を想定した、実践訓練が
行われています。
木々をなぎ倒すほどの低空飛行を繰り返しており、騒音はもとより、操縦士
の顔が一瞬見えるほどの至近距離を飛んで行くこともあるそうです。
飛行訓練は深夜にまで及びます。人がいる区域での訓練も重ねられる中で、
崖の上に建つ民家に住む人は、家で窓を開けてくつろいでいたところ、崖の下
から、ヘリが浮上してきて、演習中の米兵の持つ銃口が向けられていたという
住民の声も上がっています。
「東村高江の現状」という blog で、今現在の高江の切実な現状を伝えていま
す。
米兵
航空機のトラブルだけでなく、基地の外での米軍所属の人々により、交通事
故や、少女暴行事件など、様々な事件が起きていることも報告されました。
海兵隊に志願してすぐの青年が、
「海兵隊は闘うことが目的ではなく、勝つこ
とが任務である」と叩きこまれる 16~17 週間の訓練が行われているそうです。
任務で浜辺に境界線を引くために出てきた新任の隊員たちが、無邪気に浜辺
のヤドカリをつかみ「動く石がある!」と騒いでいる姿も見られるそうですが、
数ヵ月経つと、その青年らの目つきや、顔つきが変わってくるそうです。
海兵隊は特に、どういう形であれ、戦地へすぐに行けることに重点が置かれ
ています。
常に基地内は、緊迫しているらしく、その反動か、彼らは基地の外に出てい
るときに、羽目を外す姿が多く見られるそうです。
基地占有率
日本国内にある米軍専用施設の 74.3%、約 222 平方キロメートルが沖縄に集
まっています。
また、沖縄本島に限って言えば、島の面積の約 2 割が米軍の占有地として使
われています。
イメージするならば、沖縄本島が、京都府の 4 分の 1。そこに、亀岡市まるご
とが米軍施設になっているようなものです。
過去に、神奈川にいるイージス艦が沖縄に来て、実践訓練が行われたことも
あります。
ベトナム戦争前までは、米・陸軍が中心で、今現在は海兵隊が 1 番多くなっ
ているそうです。
沖縄にある米軍の規模は不十分だと言う声がありますが、佐世保の「エセプ
ソ」を加えると十分な部隊として扱える規模になるそうです。
事業仕分けでも話題にあがった、
「米軍基地で働く人と、平和運動を行う人と
のつながりは?」という参加者からの声に、中村さんは「基地返還闘争、とい
うのもありましたが、沖縄県外から働き口を求めてきている人もいます。ひと
くくりに思いやり予算で働く人がどうこう、というのではなく、雇用の部分は
最終的には見直す必要が出るにしても、まずはもっと他の部分を見直し、削る
ことが必要です」と話します。
沖縄基地調査・シンポジウムに参加して
考えることがたっぷり、知恵熱が出そうです
長柚 T シャツと、ジーンズで降り立つた那覇空港は、バスを待つ数分で汗ばみ、移動の
バスでは、冷房がかけられるほどの暑さ。沖縄の基地問題を見つめるツアーには県外から
80人余りが参加…シンポジウム他、ひめゆりの塔や米軍が上陸した海岸など戦跡、米軍
基地、と訪れました。
マスコミの話題にも上がっている普天間基地。ここにはアメリカの海兵隊がいます。地
元の方と話しをしていて、海兵隊は戦地に先陣を切って向かって行く部隊と聞きました。
日本国内でひと際、戦争の記憶が色濃く残る土地に、なぜこれほどの基地と戦争切り込
み部隊が必要なのか、と深く考えさせられました。滑走路の延長線上には民家、小学校な
ど、市民が生活しています。砲弾射撃訓練の演習場のすぐそばには、高速道絡もあり、反
対を見れば民家です。これは軍の本拠地、アメリカ合衆国ではありえない光景です。
偶然漕遇した米軍人家族の沖縄ツアー。この何割かはキリスト教徒かな、と思うと頭を
よぎったのが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(新
約聖書・マタイによる福音書7章12節)」です。人を思いやることは何より大切な社会活
動の基本ではないでしょうか。
今の世の中は、自分のことばかりで、人のことを考慮しない人が増えているように感じ
ます。人がますます人を見ておらず、自己の利潤にのみ焦点があてられます。同時に人に
してほしくないことは、人にもしない」というのも大切なこと。そこを考えると、米畢基
地の問題だけでなく、今の日本社会の現状を他人事と見るのではなく、多くの人とつなが
りを身近に感じ考えるのが第一歩ではないでしょうか。
(京建労 T)