ノーザンダンサーの伝説

ノーザンダンサー物語
スピンオフ
ノーザンダンサーの伝説
ノーザンダンサーの伝説
今日のサラブレッドが存在するのは、専門家や技術者、動物学者によって選り抜かれたから
ではない。ただ一本の木、エプソムダービーのゴールポストがあったからだ。基準がエプソムダ
ービーのゴールポストではなかったら、今日のサラブレッドは存在しなかったはずだ。々々々ダービ
ーの社会的地位は不変で、その妥当性については疑問を挟む余地もない。サラブレッドを今
日に至らしめたのはエプソムダービーにほかならない。
フレデリコ々テシオ
ノーザンダンサーがナショナルスタッド牧場へ種牡馬として戻ったことは、その広大な放牧地
でケンタッキーダービー勝馬を育てるという夢の実現を象徴していただけではなく、サラブレッ
ドの歴史のターニングポイントでもあった。
ノーザンダンサーは、競馬産業の過去と未来の稜線に立っていた。ノーザンダンサーは過
去々々若者のサラブレッドに対する情熱と、不動産開発業者に大切な農場を破壊させたくない
という老人の望み々々から生まれた。
ノーザンダンサーの生まれた時代には、サラブレッドを所有するというのは金持ちの道楽で、
競争馬と厩舎の維持はただ莫大な財産を浪費するだけのものだった。ところがノーザンダンサ
ーはこのサラブレッドゲームを一変させ、競争馬は金塊よりも価値があり、新馬所有者は競争
馬から巨額の富を築くことを考えるようになった。
競争馬のために莫大な費用を費やすというものから、競争馬で巨額の富を築くという観点に
移行したのは1970年代半ば。豊富な資金が投入され、この新しいゲームの参加者は投資収
益を求めていた。彼らはノーザンダンサーに投資した。ノーザンダンサーの遺伝子が異常なま
でに強かったのは、ちょっとした自然の神秘だ。アメリカ国内のスタッドのみで7000頭ものサラ
ブレッド種牡馬がいた時代ではあったが、ノーザンダンサーほどに多くの勝馬やチャンピオン馬
の父となった種牡馬はいなかった。
サラブレッドの種付では、人口授精は承認されていない。ノーザンダンサーが息絶えたなら、
それでおしまいなのだ。ノーザンダンサーの精子が将来のために冷凍保存されるようなことは
ない。
数少ないノーザンダンサー産駒があまりにも強くなったため、種牡馬としてのノーザンダンサ
ーの価値は最終的には金では計算できないものになった。
人類の、年来にわたる馬との愛が奇想天外な結末へと飛翔してしまったようなものだ。情熱
は燃え上がるにつれ、サラブレッド々レースはスポーツからビッグビジネスへと変化した。イヤリン
グセールの結果はウォールストリートジャーナル紙上で分析、報告された。もっと一般的な商品
に慣れ親しんでいる市場分析者は困惑したことだろう。数百万もの金を仔サラブレッドにつぎ
込むなんて理解できない、馬なんて絶対に投資に見合う額を稼ぎ出しはしない。大金をつぎ
込んだ馬々がレースに出走できるという保証はないし、レースに勝つなんてもってのほかだ、と。
そんなことは関係なかった。ノーザンダンサーは非常に優れた馬々の父であるだけではなく、
最高の遺伝子を後世に伝えたのだ。ノーザンダンサー産駒の多くが、次の世代のチャンピオン
馬の父となり母となった。競争馬所有者は数百億という金を払ってでも二歳のノーザンダンサ
ー産駒を欲しがったはずだ。しかし数頭の牡馬には実際の投資額の 10 倍もの値段がつけら
れていた。こういった過程を経て、サラブレッドレースの構造と運命に劇的な変化がもたらされ
た。
ノーザンダンサーがどのようにしてこういった流れの中心的存在となったかは、競馬で優勝し
たこととは趣を異にしている。々々運がもつれ合い繋がっていったためだ。それでもノーザンダン
サーが桁外れの馬ではなかったら、そしてもしその力、魅力、勝負根性が子孫の多くに受け継
がれていなかったらと考えると、ノーザンダンサーがこの一連のドラマで果たしてきた役割がい
かに重要だったかがわかる。
ノーザンダンサーは635頭の仔馬の父となり、その 80 パーセント(511頭)がレースに出走、そ
の 80 パーセントが勝馬となり、じつに146頭がステークスで勝利を収めた。26 頭はイギリス、ア
イルランド、フランス、イタリア、アメリカやカナダでチャンピオン馬となった。
このチャンピオン馬リストの先頭にくるのは、はじめてのノーザンダンサー産駒である。
偉大なダンサーたち
ノーザンダンサーは第一子から、あの偉大なバイスリーガルをもうけた。父のすさまじい闘争
心を受け継いだのみならず、バイスリーガルはレーストラックでも最も美しく映えるサラブレッド
だった。貴族のような面持ちで歩を進め、日光を受けたその栗色の毛皮は、黄金色に輝いた。
優しく高潔なその瞳は、レースの前には獰猛な「ワシの眼」のように燃え上がった。額から鼻へと
伸びた白い毛並みが、バイスリーガルの完璧な目鼻立ちにアクセントを加えていた。レーストラ
ックを疾走するバイスリーガルの蹄は、まるで地面に触れていないかのようだった。
バイスリーガルの母であるステークス勝馬ビクトリアレジーナは、ビクトリアパークの半妹。その
血筋はウインドフィールズの出発点となった牝馬と種牡馬にまで遡る。
毎年行われる二歳馬セールの数週間前に、飼育係はバイスリーガルを馬房へ連れ帰るため
にパドックへ行った。ゲートのところで彼を待っていたバイスリーガルは三本足で立っていた。左
前脚の足首の上が腫れ上がっていた。バイスリーガルが売却の機会を逸する可能性は多分
にあった。
その年、1967年、少なくともE〄P〄テイラーの目には、ウインドフィールズでのセールは特別の
ものに見えた。ノーザンダンサーの第一子がいたからだ。売却形式の変更を要したのもこのた
めだ。それまでは、複数人が同じ馬を欲しがった場合、テイラーは彼らの名前を紙切れに書き、
それを彼のカシミヤ製の帽子に入れ、一枚を引き当てた。この時の競りではテイラーは、ニュー
ヨークにある競走馬競売会社ファシッグ々ティップトンから競売人ラディー々ダンス、そしてアナ
ウンサーとしてジョン々フィネイという専門家を雇った。すべての馬に定価がつけられてはいたが、
複数名が同じ馬を欲しがった場合には、競売人が定価から競りを始めるのだ。以前にウインド
フィールズで二歳馬を購入したことのある人は、一般客向けの二歳馬セールの十日前に優先
的に選択、購入ができた。
バイスリーガルの捻挫は重症ではなく、セールの時点ではすでに跛行も治っていた。しかし足
首はまだ腫れていて、優先客も一般客も誰一人としてバイスリーガルに興味を示す者はなか
った。その年の秋の暮れ、バイスリーガルは他のウインドフィールズ馬たちと共に、ピート々マッカ
ンの下、調教に入った。
走るための意志と類稀なる才能をそなえてはいたが、その足首はたえずバイスリーガルを悩
ませた。それにもかかわらず、ピートはこの偉大なノーザンダンサー産駒を幾度となくピークコン
ディションでレースに出走させた。
1968年に、三歳馬バイスリーガルは8回出走で全勝、そのうちの7レースはステークス戦という
成績を残した。(しかしこの時期、右前脚にも問題が出てきていた。)1968年 10 月6日にウッド
バイン競馬場で開催されたカップアンドソーサーSで、バイスリーガルははじめての敗戦を喫す
るように思われた。最後の直線に出てきた時点で先頭とは十馬身差。しかし突然、バイスリー
ガルは風に乗った。金のたてがみはたなびき、長い尾は後ろに一直線に伸びた。ゴールライン
を駆け抜けた時には一位と思われたグレイウィズをクビ差でかわしていた。
あの朗らかな 10 月の午後に、一体何がバイスリーガルに力を与えたのかはわからない。彼を
勝利へと導いたものが何であれ、体力の限界と痛みで、バイスリーガルはウイナーズサークル
に立つことができなかった。跛行ぎみにヨロヨロと歩き、危ういと思われた足首に重傷を負って
いた。球節の内側を自分で何度も叩いており、外側は他馬の蹄で蹴られた。バイスリーガルは
即刻、牧場へと輸送され、そこでスタッフと専属獣医の手厚い加護を受けることになった。
1969年4月5日、キーニランド(キーンランド?)にある6ハロンのホイットニー々パース競馬場で
四歳時の初レースをむかえたこの偉大なノーザンダンサー産駒に、万人の眼が注がれた。ケン
タッキーダービーに挑戦する力を備えた新たなカナダ生産馬が出てくることを期待していたの
だ。
レーストラックに歩み出てきたバイスリーガルの姿は、故障から完全に回復しているように見
えた。栗色の毛皮の下では筋肉が脈動し、頭を高くもたげ、チャンピオンの勇躍であった。
落馬した騎手が目に入り取り乱したバイスリーガルはスタートで出遅れたが、すぐに落ち着い
た。最後の直線に入った時点では軽快に走っていたが、残り数ヤードでばててしまった。結果
は三着。今年最初のレースとしては賞賛に値する走りだった。しかしこれがバイスリーガルにと
って最後のレースとなった。
バイスリーガルがゴールラインを越えるとすぐに、クレイグ々ペレット騎手は馬から飛び降りた。
バイスリーガルはよろめき歩いていた。
「クレイグがゴール直後に馬を止め、降馬したのを見て、口から心臓が飛び出たよ」とテイラー
は回顧した。
勇敢なバイスリーガルは、後に左前脚蹄骨骨折と診断された状態で、三着に入った。
「ブラッドホース」誌編集者ケント々ホーリングスワースは、その「ある名馬の激しすぎた挑戦」
という記事の中でバイスリーガルの最後のレースを以下のように語っている。「本当の名馬は、
競争心と勇気に突き動かされ、小心者が一週間我慢するところで、身体能力の限界を超えよ
うとする。」
ノーザンダンサーはスタッドで、初年度に 21 頭の子を作った。バイスリーガルはその中でもは
るかに美しくエキサイティングだったが、他のノーザンダンサー産駒も競走馬としての資質を証
明して見せた。
ノーザンダンサー産駒としてはじめてレースに出走したのはジッターバグ(?)。グリーンツリー
厩舎所属の牝馬だった。1968年1月 26 日にハイアレアー(?)で開催された3ハロンダッシュで
勝利を収めた。C〄V〄ホイットニーがサラトガのセールで購入した牡馬トゥルーノースが、その
二ヶ月後に二番手としてデビュー。サンタ々アニータ競馬場の4〄5ハロンのコースレコードを 22
年振りに更新した。
種牡馬が種付けをしてから、その子が三歳になってレースを始めるまでには三年の空きがあ
る。さらに、一番重要なのは四歳時のレースなので、オーナーやシンジケートのメンバーは、種牡
馬がその遺伝子を受け渡し、優れた馬を生み出したか、それとも種牡馬としては役に立たない
かを見定めるのに四年はかかることになる。専門的、または科学的に解明する方法などはない。
一流競走馬の多くが、自身に匹敵する馬を産していない。
しかしノーザンダンサーはよいスタートを切った。初年度の 21 頭中、18 頭が出走、16 頭が勝
馬となった。々々そして驚くべきことに 16 頭中 10 頭がステークス戦で勝った。(ステークス勝馬
というのは最良馬である。北アメリカでは、ステークス戦という格式になっているのは全レースの
4%以下にすぎないのである。)通常、生まれたサラブレッドの中でレースに出走できるのはそ
の半分以下。その中のわずかに1/4(全体の12〄5%)がデビューシーズン中に勝利を挙げる。
であるから、ノーザンダンサー産駒のあげた数字(勝馬率76〄2%)は平均勝馬率の6倍なので
ある。
一般競り市で二歳馬を売る市場ブリーダーにとって、ノーザンダンサーは良い投資対象に見
えた。1967年に、サラトガと、キーンランドのセールで7頭のノーザンダンサー産二歳馬が売れ
た。その七頭すべてが勝馬となり、五頭はステークス戦で勝った。
初年度のノーザンダンサー産駒からは三頭のチャンピオン馬が出た。バイスリーガル、々々三
歳馬チャンピオン、及び1968年カナダ々ホース々オブ々ザ々イヤー受賞。ダンスアクト、々々カナダ
のチャンピオン古馬、及び1970、71年ハンディキャップ馬チャンピオン。ワンフォーオール、々々19
71年カナダ々芝チャンピオン。アメリカ人としてはじめて繁殖牝馬の一頭とノーザンダンサーを
つけたジョン々A々ベル三世によって所有、飼育されたワンフォーオールは、主にアメリカ国内で
活動をしたが、カナダ国際に勝っている。
1968年 10 月 17 日、E〄P〄テイラーは、ノーザンダンサーは以前とったルートに従うであろうこ
と、そしてカナダ著名人たちが名声と富を求めていることから、アメリカへと動くであろうと発表
した。ノーザンダンサーの行き先はウインドフィールズ牧場のメリーランド分場。
「難しい決断だった」とテイラーは語った。「ノーザンダンサーはカナダの英雄だし、ここでもよく
やってくれた。しかし、彼の有望な前途をふまえ、北アメリカの素晴らしい繁殖牝馬たちにとって
もっとアクセスしやすい場所にいた方がいいと判断した。」
メリーランドには多くの大規模サラブレッド飼育牧場があったが、ノースアメリカの優秀繁殖牝
馬の大多数はケンタッキーの青芝の茂る牧草地で放牧されていた。ノーザンダンサーに種付
けをしてもらう予定のケンタッキーの牝馬は、それでも 12 から 14 時間もの輸送に耐えねばな
らない。実際、ケンタッキー-オシャワ間々々600マイル々々とケンタッキー-メリーランド間の距離
は同じなのである。アクセスしやすさが本当の動機なのであれば、ノーザンダンサーはケンタッ
キーへ送られていたに違いない。他方では、最も重要なノーザンダンサー産駒二頭、ニジンス
キーとザミンストレルはカナダで生まれたので、ノーザンダンサーは全く動く必要などなかった
のかもしれない。実際、テイラーがオンタリオ湖の真ん中に浮かべた舟にノーザンダンサーを立
たせても、それでもなおサラブレッドブリーダーたちは彼らの飼育する最高の繁殖牝馬をノー
ザンダンサーと合わせようとしたに違いない。
ノーザンダンサーをメリーランドに送るという決定を下した一要素は、メリーランド州チェサピ
ークシティー、チェサピーク河岸にある古風な木造家屋が立ち並ぶ村から少し離れた所に、数
年前にテイラーが調教センターを作ったことだ。
テイラーは、牧場での調教はレーストラックでの調教よりも馬々の健康にいいと確信していた。
このためにテイラーは、セシル郡にあるリチャード々C々デュポン夫人所有のウッドストック牧場か
らの道の反対側にある700エーカーの土地を購入した。調教センターとしては完璧な立地条
件だった。短時間で馬を輸送できる場所にいくつかの競馬場があった。静かでなだらかな起伏
のある丘陵地と、緑の芝が生い茂る牧草地は理想の放牧地であった。それにメリーランド州で
はサラブレッドの飼育と繁殖についてタックス々インセンティブを提供していた。もちろんテイラ
ーはなにかを設立することが好きだったので、この調教センターが世界最高水準のサラブレッ
ド牧場の見本に成長するまでそう長くはかからなかった。
ノーザンダンサーがカナダを離れるという発表のほんの数ヶ月前に、テイラーはトロントのウイ
ンドフィールズ牧場を売却した。周囲で宅地開発が進み、宅地に取り囲まれてしまったからだ。
しかし彼は、家と、オフィスと彼の乗馬を入れておく小さな馬房のある 30 エーカーほどの土地
は手放さなかった。(現在ではナショナルスタッド牧場がウインドフィールズと呼ばれている。)
ノーザンダンサーは1968年12月3日にメリーランドに到着した。その三ヶ月前に、最終的にノ
ーザンダンサーに世界の注目を集める思いがけない出来事のはじめの一つが起こった。
舞台は例年のカナディアン々サラブレッド々ホース協会二歳馬セール。注目は大きな体躯の
鹿毛のノーザンダンサー産駒で、灰色のコンクリートの馬房の間からウッドバイン競売会場へ
とのびる砂利道を意気揚々と歩いてきた。この最高の体躯に力と優雅さを兼ね備え、オークシ
ョン会場の他の馬達よりはるかに優れていた。
すでに他の馬より大きな体格をしているのだが、頭を高くもたげているので更に大きく感じら
れた。大きな眼は熊の眼のように優しく、しかし慎重に辺りを見廻していた。広い額の中央には
ハート型の白い模様があった。その目立っていて尋常ではない模様は予兆だったのだ。々々なぜ
ならこの馬は本当に父の心を受け継いでいたからだ。
ウッドバイン競馬場は薄闇に包まれはじめていた。購入者の群れは馬房の列の中をうろつき、
214頭の二歳馬を見て歩いた。好奇心旺盛な見物人も、馬房をふらつく人々を見ていた。
テイラーは二歳になるノーザンダンサー産駒も、他の全てのウインドフィールズ産二歳馬とと
もに例年のカナダディアン々ブリーダー々セールで売りに出すことに決めた。その結果、この地域
イベントは国際イベントとなった。カナダ産サラブレッドのセールにこれだけ多くの一流バイヤー
が集まったことは今まではなかった。
多くの群集が競売会場に群がっていた。馬が聴衆の前を行き来する馬蹄形の舞台の周囲に、
座席は半円形に並べられていた。舞台の上では競売人ラディー々ダンスが小槌を手に競りを
行っており、アナウンサーのジョン々フィネイがそれぞれの血統を説明していた。プロの巧みさで、
彼らはバイヤーを焚き付け丸め込み、値をどんどんつり上げた。タキシードを身にまとい、獲物を
探す鷹のように空を舞う「偵察機」ででもあるかのように、会場内に見えるわずかばかりの関心
も見逃さないようにそれぞれのセクションを目で追っていた。
手首を叩いたりうなずいたりがビッドの合図で、スポッターが叫ぶと、競売人の立ち位置の右
側の壁にある電光掲示板の金額が上昇していった。参加者は馬購入のための戦いを繰り広
げたが、残りの聴衆は静かだった。友達に無邪気に手を振りでもしたら、突然馬のオーナーにな
ったりしかねなかった。参加者に最高値を言わせた時、ラディー々ダンスは大声で「売却!」と言
い、小槌を振り下ろした。そして馬は連れて行かれた。聴衆は次の馬が入場してくるまでの間、
やっと自由に話したり動いたりすることができた。
会場内のすべてのシートが埋まっており、上部通路は大栗毛のはげしい競り落し合戦を見た
がっている観衆でいっぱいだった。
舞台の中央に、ノーザンダンサー産駒が通路にぴったりと立ち止まった。塑像のように、全く動
かなかった。ぱっちりとして用心深い目だけは、彼に注視している観衆の顔をじろじろと見てい
た。
競りはフィネイが説明を終えるまで始めることができなかった。彼はゆっくりと喋り、ノーザンダ
ンサーと、大栗毛の母フレーミングページの戦績を説明した。
「60〃000ドルから始めます。」ついにラディー々ダンスが言い、テイラーが定めた下限金額から
競りが始まった。この金額で誰も買い手がつかなければ、テイラーは馬を連れ帰るつもりだっ
た。
会場の各所から声がかかり、金額は跳ね上がって行った。観衆は誰がいくらと言ったのかを知
るのに必死だった。2分も経たないうちに、ラディー々ダンスは「84〃000ドルで売却!」と大声で叫
び、小槌を振り下ろした。
ノーザンダンサーとフレーミングページの間に生まれた偉大な牡馬は、舞台から馬房へと連
れ戻されて行った。数日後その馬はアイルランドへ空輸された々々新たな栄光への門出であっ
た。新しいオーナー、チャールズ々エングルハードはその馬をバスラウ々ニジンスキーにちなんで
名付けた。
彼の亡くなった1950年、このロシア人バレースターは彼が馬だったと信じていただけではなく、
来世には馬として生まれてくると思い込んでいた。18 年後、ニジンスキーと名付けられた馬が、
ティペレアリー州カシェル近郊のビンセント々オブライエンのバリードイル厩舎に到着した。
多くのノーザンダンサー産駒がバリードイル入りしたが、ニジンスキーがはじめての入厩馬の
はずだ。オブライエンは馬に対して、とくにノーザンダンサーがよくそうであったように気難しくて
神経質な馬に対して特殊な才能を持っていた。そして彼は他のどの調教師よりも多く、ノーザ
ンダンサー産駒を調教した。々々ニジンスキー、ザミンストレル、ウッドストリーム、エルグランセノ
ール、そしてサドラーズウェルズなどである。
バリードイルで、ソシテビンセント々オブライエンのもとでニジンスキーが結局どのようになった
かというのもまた、思いもかけないものだった。チャールズ々エングルハードの競争馬所有歴は9
年に過ぎなかったが、競馬に非常な熱意を持って大規模に取り組んでいた。彼がビンセント々
オブライエンにウインドフィールズの9月のセールに出されるリボー系の馬を見にカナダへ行っ
てくれと話を持ちかけた時には、エングルハードはイギリス、アメリカ、フランス、南アフリカに各
一名ずつ調教師を雇っていた。
オブライエンはリボー系の馬は好きではなかった。しかし彼がウインドフィールズにいる間にス
タッフは彼に他の二歳馬を見せた。オブライエンはエングルハードにリボー系の馬は買わず、ノ
ーザンダンサーとフレーミングページの子を購入するよう提案した。エングルハードは同意し、
カナダ人幹部をセールに出席させると言った。
オブライエンは心配だった。「チャーリーが送り込んでくる男は、馬の購入に関しては全く経験
がなかった。彼が何をしでかすかが心配だった。なにかへまをして、々々々馬が買えなかったら。」
ガーフィールド々ウエストンのことも彼にとっては不安の種だった。ウエストンベーカリー、ロブロ
ウズ々スーパーマーケットチェーン、そしてフォートナム々アンド々メーソンを含むウエストン食品帝
国の指導者であるウエストン氏も競りに加わったが、結局手を引いた。チャーリーが送り込んだ
男、ジョージ々スコットがボスのためにこの牡馬を勝ち取った。
しかしいったんオブライエンの厩舎に落ち着くと、ニジンスキーはオブライエンを相当困らせた。
到着するや否やニジンスキーはオブライエンが用意した最高級のアイリッシュ々オート麦から顔
を背けてしまった。空腹のはずなのに、ニジンスキーは食事の時に毎回、飼葉桶を一嗅ぎ二嗅
ぎしただけで顔を背け、干し草をむしゃむしゃ食べていた。二日後、オブライエンは大西洋の向
こうのウインドフィールズ牧場に緊急電話をかけた。そこでオブライエンは、ニジンスキーがダイ
エットクランチ々々オート麦、穀類のふすま、糖蜜、補助栄養分を濃縮したキューブを食べて育っ
たと教えられた。オブライエンはそれを至急送ってくれるよう頼み、もちろん、そのスペシャル混
合物が届いた日から、ニジンスキーはアイリッシュオート麦を食べ始めた。
しかしオブライエンが直面したニジンスキーの気難しさはまだ始まったばかりだった。いったん
食事を始めると、ニジンスキーを馬房から出すのに一苦労だった。たいていの馬はすすんで馬
房から出るが、ニジンスキーは違った。まっすぐに立ち、1インチたりとも動こうとしなかった。いっ
たん調教場に引っ張り出しても、ニジンスキーは突っ立ったままだった。他の馬達とキャンター
することは好きではなかった。最終的に走り出させられても、場馴れした見世物の馬のように走
った。しかし立ち止まってしまうと、たとえそれが一秒でも、ニジンスキーはまた突っ立ったままに
なった。数年後、ニジンスキーが偉大なチャンピオンとして祝福を受けた時、オブライエンのバ
リードイル厩舎の厩務員たちは、突っ立ったまま動かないでいられるのは驚くべきバランス感覚
の現れだと見るようになっていた。しかし突っ立ったまま動こうとしないニジンスキーを前にした
時には、それはフラストレーションと狼狽の原因でしかなかった。
ニジンスキーのせいでオブライエンは困った立場に立たされた。チャールズ々エングルハード
は素晴らしい新規顧客となる可能性を持っていた。そしてオブライエンはこの牡馬を買い、アイ
ルランドへ輸送するようエングルハードを説得し、その投資総額は 10 万ドル近くにまで登った
のだ。エングルハードがオブライエンの判断を信じ続けるかが心配だった。
オブライエンは状況を説明する手紙をエングルハードに書いた。「ニジンスキーの気性につい
ては少々心配しています。調教には憤懣やる方ないと言った様子です。私の下で働く最高の
調教師たちが調教で騎乗していますので、後はうまく調教が進むことを祈るだけです。」
ニジンスキーの気性はオブライエンが見て取った才能をだいなしにするかもしれないとエング
ルハードに報告するや否や、ニジンスキーは調教プログラムをこなしはじめた。相変わらずわが
ままで野蛮だったが、いったん調教師がその反攻的な気性を修正するとどんどん協力的な態
度になった。彼の父やその他の非常に優れた祖先たちのように、無理になにかをさせられたり、
したりはしなかった。
ビンセント々オブライエンは主戦契約騎手ジョニー々ブラッブストンとダニー々サリバンの才能を
褒め称えた。このわがままな馬をうまく手懐けたからだ。「ニジンスキーは甘やかされやすいんだ。
彼らにはニジンスキーを手懐ける強さがあり、打ち据えたりしないだけの忍耐力もあった。」
しかし名声のほとんどはビンセント々オブライエンが受けるべきだ。小さな競走馬厩舎を持っ
ていたコーク州の牧場の倅、若かりし日のビンセントはいつでも馬に心を奪われていた。寄宿
学校卒業後、彼は馬を扱う仕事がしたいという夢を追いかけたいため、高等教育を受けないと
いう許しを父に乞うた。ビンセントはレオパルズタウンで調教師と一年過し、実家の牧場に戻り、
馬の飼育や調教をし、クロスカントリー競馬大会に出場した。
オブライエンは障害物競走馬の調教師として成功を収めた。彼の騎乗で、グランドナショナ
ル三連勝を成し遂げた。コテージレイクはチェルトナムゴールドカップを三年連続で制覇し、ハ
ットンズグレースはチェルトナムチャンピオン障害物競走で三年連続優勝を果たした。1959年
春、オブライエンは障害物競争馬の調教をやめ、「平地」でのレースに専念することにした。
三年後、彼はアイルランド駐留アメリカ大使、レイモンド々ゲスト所有のレイクスパーでエプソ
ムダービーを制覇した。そして1968年にも同じくゲストの所有馬サーアイヴァーでダービーに
勝った。ニジンスキーがバリードイルに来る数ヵ月前であった。
オブライエン同様、E〄P〄テイラーもニジンスキーにただならぬものを感じており、戦績をつぶさ
に追っていた。テイラー夫妻とその息子は、ニジンスキーの緒戦、7月初頭カラで開催されたア
ーンSを見るためにアイルランドへと飛んだ。ニジンスキー楽勝のレースだった。
レース後に、ニジンスキーに騎乗したアイルランドのチャンピオンジョッキー、リアム々ワードは、
喜び、ニジンスキーを手離しで誉め称えた。
こいつと一緒ならなんでもできるよ。競争馬じゃないような顔をしてゲートに入り、スタートし、あ
とは好きな位置にもって行くことができる。銀の糸の上だって走らせれる。ニジンスキーが全部
やってくれるんだよ。ただ一日中座って待っていたらいい。恐ろしいくらいのスピードを持っている
んだから。
素晴らしい走りをするから、どこの馬群につけたって構わない。いつでも好きな時に、馬群から
出して「行け」と言うだけ。それでおしまい。後はすぐに違うギアに入って々々々々一体いつニジンス
キーに乗って勝ちたいかが問題なだけ、ただそれだけ。
ニジンスキーは三歳時にアイルランドで4勝、イギリスはニューマーケット競馬場で開催され
たデューハーストSでの優勝の計5勝をあげ、キャンター以上のスピードを出さなければ勝てな
かったレースはほとんどなかった。ニジンスキーが、翌年のクラシックレースで争うであろう馬々
の前哨戦と見なされるデューハーストSを簡単に勝ってしまったことは、ニジンスキーの能力に
ついての議論を巻き起こした。
「タイムフォーム〆1969年競走馬」はニジンスキーを褒め称えた。〆 「最高の血統から生まれ
た馬だけが、手離しでニジンスキーの対抗馬として扱うことができる。々々々最上級の馬だけが。
すべてが印象的で、々々々エキサイティングなクラシック候補馬と見なされていることに、何の不
思議もない。」
しかし他の専門家はニジンスキーの血統に疑問を持っていた。ノーザンダンサーがベルモント
で勝っていないことを考えると、その息子もダービーの1〄5マイル(2400メートル)は勝てないと
確信していた。
クラシックレースでの最も有力な対抗馬として、ニジンスキーには他のオブライエン調教馬と
は異なった調教と調整が必要だった。しかしニジンスキーには独自のアイデアがあり、オブライ
エンは残りの馬達に合うスケジュールを維持する傍らで、この気まぐれでわがままな牡馬にも
合わせるというジレンマに陥った。
はじめの馬群のための早朝調教の準備が整うとすぐに、ニジンスキーはいらいらしはじめた。
一頭だけ馬房に残されるのが嫌いだったのだ。最終的にオブライエンがニジンスキーの気性に
合うプランを思いついた。毎朝馬丁が他の馬といっしょにニジンスキーを馬房から出し、他の馬
といっしょにウォームアップを行う。はじめの馬群がギャロップに向かう時には、ニジンスキーは
大きな納屋に連れて行かれ、そこで他の馬といっしょに、調教がはじまる時間まで歩き回る。
ニジンスキーの天性についてのビンセント々オブライエンの洞察が、リチャード々バエーレイン著
の「ニジンスキー〆Triple Crown Winner」の中に記されている。
たいていの良馬は厩舎ではくつろいでいる。たとえばサーアイヴァーは、どの馬とでもいっしょに
併せ馬をやる。併せる馬がどんなに悪い馬でも、サーアイヴァーはその馬よりちょっと先を走る
だけ。それだけだよ、それ以上は走らない。
ニジンスキーは、いったん先頭に立ったら、耳をピンと立て、そこから行くんだ。他の馬を離して
いく。まったく驚くべきことで、とても変わっている々々々たっぷり調教時間をとる必要なんてな
い々々々いったん朝の調教に出たら、時間中ずっと活発だよ。ずっと調教している。ただゆっくり走
っているだけじゃなくて、いつも敏捷に動いている。だから、ニジンスキーは軽めの調教で調子が
ベストになる馬なんだ。
ニジンスキーは四歳時のデビューをカラでのグラッドネスSだった。リアム々ワード騎乗で、楽々
と勝ち星を増やした。これで六戦六勝。次の出走予定はニューマーケットで行われるイギリス
三冠レースの最初の一つ、2000ギニーであった。
ブックメーカーたちもニジンスキーの血統を疑問視する一派であり、初期の投票ではニジンス
キーを過少評価していた。ニジンスキーが勝つとブックメーカーにとっては100万ドルの損害に
なるという噂も出た。常に用心を怠らないオブライエンは、ニューマーケットの警備力補強のた
めに私立探偵を雇い、24 時間体制でニジンスキーのガードをさせた。
リアム々ワードはアイルランドでは引き続きニジンスキーに騎乗するが、2000ギニーやその他
のイギリス国内でのレースにはレスター々ピゴットが騎乗した。ニジンスキーはここでも二馬身半
の差で快勝した。ダービーまでには一ヶ月あくので、ニジンスキーはバリードイルへ戻った。
ダービー五日前にニジンスキーはまたイギリスへと飛んだ。しかしエプソムで調教をしている
他のダービー出走馬に加わらず、サンダウンパークに一頭だけ離されていた。エプソム競馬場
から車ですぐの場所で、サンダウンパーク周辺は平和そのもので、妨害活動の危険性も少なく、
メディアの注目からも逃れることができた。コースに慣れるため、ニジンスキーはレース前日にエ
プソムへと輸送された。
すべてがうまく進んでいた時、災難が降ってきた。コースを回って馬房に戻ってきた直後、ニ
ジンスキーは大粒の汗をかき、地面を蹴り始めた。ひどい腹痛を伴う、疝痛の症状であった。馬
の胃は小さく(であるから消化面積は限られている)、腸管が非常に長い。馬は疝痛で命を落と
すこともある。吐いたりげっぷをしたりもできず、食物や異物は長い腸管のひだに留まってしまう
可能性がある。一般的には痙攣を起こしている腸壁を弛緩させる薬物が投与され、痛みの元
凶であるガスを出してやる。しかし、競馬の規則でレースの 24 時間以内に馬に薬物を投与し
てはいけないというのがあった。オブライエンのチームは、製薬会社が登場する以前に使われ
ていた古い治療法に頼ることにした。新鮮な芝を集め、重炭酸塩と穀物のふすまを混ぜて、ニ
ジンスキーに与えた。これと々々もちろん彼らの祈りと々々が功を奏した。二時間ほどでニジンスキ
ーは元どおりの状態に戻った。
一マイル半(2400㍍)のダービーのコースはツイスト、ターン、上り下りのある、世界で最も苛
酷なコース。出走馬には莫大なスタミナ、敏捷性、スピード、そして勇気が要求される。
1970年6月3日ダービー当日、出走は 11 頭、その中にはフランスからの出走となる栗毛の巨
体、ギルがいた。調教師のエティエンヌ々ポレットは、ギルがダービーに勝つだけではなく、四歳
馬クラシックを総ナメにしてしまうと確信していた。ポレットはギルを走らせるために自身の引退
を一年先送りにしたくらいだ。その他の有力馬はアプルーバル、メドウビル、そして無敗馬ステ
ィンティノ。
レース前のパドックで、ニジンスキーの体には汗がにじみ、不安そうに見えた。しかし、いったん
スターティングゲートに収まると、ニジンスキーは落ち着いた。スタートはよく、レスター々ピゴット
騎手もニジンスキーを中段に置いた。馬群ははじめの緩やかな左コーナーを、そしてそれよりも
角度のある右コーナーを走り抜けて行った。
150フィートの坂道を昇りきった所で中間地点。ピゴットが動いた。タイミングが少し早すぎる
ようにも見えた。
11 頭は平坦な左コーナーを曲り、タッテンハムコーナーへと下った。ニジンスキーはまだ動か
ない。残り3〄5ハロンのコーナーで数頭が先頭争いを始めた。残り2ハロン地点でギルが先頭に
立った。
突然ニジンスキーが、々々耳がピンと立ち、視線は遥か彼方をにらみ々々加速を始めた普通の馬
は四本足だが、ニジンスキーには五本目の足、魔法の足がある。蹄が柔らかい芝を撫でるたび
に、その魔法の足はどんどんと長くなっていった。全身が、完璧なリズムとハーモニーの力強い
交響曲を奏で、地に足をつけて走る馬々の限界を超えた。
「『ギニー』を観戦に行っていた親父が、ニジンスキーがダービーで走るのを見にイギリスに戻
ってきた」とチャールズ々テイラーは回顧する。「所有者が生産者を特別扱いするというのは珍
しいことだが、チャーリー々エングルハードが親父に、ニジンスキーを一緒にウイナーズサークル
まで引っ張っていこうと声をかけてくれた。忘れられないよ。」
テイラーがニューマーケットのセールで最高の牝馬を買い、レディーアンジェラと付けてネア
ルコ系をと堅い決意を抱いてから、ほぼ 18 年が経過していた。クラシック勝馬をカナダから生
産するための努力の賜物であるニジンスキーとともにエプソム競馬場のウイナーズサークルに
立つことは、テイラーの旺盛な想像力を遥かに超えた夢の実現だった。
ニジンスキーの次のレースは愛ダービー。重馬場で三馬身差をつけ、ここでもまた勝利を収め
た。この勝利でニジンスキーは史上二番目の愛および英ダービー制覇馬となった。しかしニジ
ンスキーは日を追うごとに落ち着きを失っていった。そしてレース前にはいらだちで汗びっしょり
になった。
「ニジンスキーはレース前にはかなり汗をかいていた」と、リアム々ワード騎手は思い出す。「跳
ね回ってばかりいて、ゲートに入った頃にはすでに1レース走ったような感じだった。だけどスタ
ートを切った瞬間から、いつも勝ちを確信していた。息切れするなんてことはなかった。あの日は、
僕が思った通りに動いてくれた。」
ニジンスキーはバリードイルでの一ヶ月の休養で疲れを癒し、次のレース、アスコットで7月 25
日に開催されるキングジョージⅣ世&クイーンエリザベスSに備えた。前年のダービー勝馬ブレ
ークニー、前年仏オークス勝馬クレペラーナ、伊ダービー勝馬ホガース、コロネーションC勝馬
カリバンなど世界の最強古馬群の中で、ニジンスキーは唯一の四歳馬だった。馬場状態と、ニ
ジンスキーが1マイル半のレースで見せる落ち着きと優れた才能のため、このレースはニジンス
キーのレースの中で最も印象に残るものとなった。
「ニジンスキーにとって最高のレースだった」とレスター々ピゴット騎手は熱く語った。「あんな優
秀な古馬群を相手取って、それでもキャンターで勝ってしまったんだ。々々々馬に乗っていてあれ
ほど感動したことはなかったよ。」
ニジンスキーはあまりにも優秀で、他の馬よりもはるかに優れていたので、ただ単にニジンスキ
ーの走りを、その魔法のような加速をまのあたりにすることが、イギリス諸島の多くの人にとって
貴重な想い出となった。ギニーやダービー、その他ニジンスキーが出馬するレースに居合わせ
ることは、自慢できる大切な経験だった。
ノーザンダンサーは北アメリカで、力強く若い種牡馬としての地位を確固たるものにしはじめ
ていた。しかしノーザンダンサーが国際的な名声を得るようになったのは、ニジンスキーのおか
げなのであった。もしニジンスキーが並外れた馬でなかったら、ノーザンダンサーの血が世界中
に広がり、サラブレッドのレースと生産にこれほど深い影響を与えることはなかっただろう。しかし
その時には、世界の競馬界はニジンスキーの父にはほんの一時しか目をくれず、重要な(?)種
牡馬としてノーザンダンサーの値引きを再び始めた。それでも彼らは将来の種牡馬としてニジ
ンスキーに賭ける用意があった。
驚くことではないが、イギリスはニジンスキーをイギリス国内に留めたかった。そして、300万ド
ルは支払う用意がしてあった。アイルランドのグループは400万ドルで対抗。しかし、1970年8
月4日、ニジンスキーは史上空前の540万ドルで売却され、ケンタッキーのクレイボーン牧場へ
行くことになった。
1970年代の北アメリカのシンジケートは 32 株に分割されている。イギリスのシンジケートは
40 から 43 株で成り立っている。シェアー保持者それぞれに生産権、そして毎年一頭の繁殖
牝馬をシンジケートの種牡馬とつけるために送る機会を与えた。
32 あるニジンスキーのシェアー、一つ当りの値段は170〃000ドル。チャールズ々エングルハー
ドは自身で 10 株保持し、テイラーに2株提供した。テイラーは、二年前に84〃000ドルで売却し
た牡馬の、わずかばかりの利権のために喜んで340〃000ドル支払った。
アスコット競馬場からバリードイルに戻ってきて一週間後、ニジンスキーはひどい白癬にかか
った。すごい速さで菌腫が皮膚に広がった。その症状は、皮膚の炎症と毛嚢のため感染部の
毛が抜けるというものだ。白癬はニジンスキーの胴まわり、そして肩甲骨間の隆起のすぐ後ろ、
鞍を乗せる部分に広がった。感染部が背中なので鞍を乗せることができず、バリードイルの馬
丁はニジンスキーを運動させるために、牧草地を手で引いてぐるぐると回った。
スケジュール上ニジンスキーの最後のレースとなる次戦、凱旋門賞までにはまだ二ヶ月あった
のだから、危機感などはなかった。結局ニジンスキーは恐ろしいくらいに抵抗力があり強い馬で、
回復が早かったのもそのためだったのだろう。
そんなことがあって、イギリス競馬についての話題の中心は相変わらずニジンスキーだった。
町のパブの若者たちからプライベートクラブのオーナーまで、巷ではニジンスキーのレベルの馬
は二度とでないかもしれないと囁かれていた。
イギリス競馬記者たちはじきにこういった感傷を吐露しはじめ、アンコールの叫びへと変わっ
ていった。イギリス三冠レースの最後を飾るセントレジャーへニジンスキーが出走することを願
ってのことだった。1935年のバーラム以来、ギニー、ダービー、セントレジャーの三冠を成し遂げ
た馬はいなかった。
最終的に、ニジンスキーの出走スケジュールにセントレジャーが加わった。セントレジャーはヨ
ークシャーにある洋梨型のドンカスター競馬場で、14 ハロン127ヤード々々2マイルほど々々の距離
で争われる。
1970年9月 12 日、ニジンスキーはセントレジャーに勝ち、イギリス々トリプルクラウンを達成し
た。いつものように楽勝に見えたこの 11 戦目が、ニジンスキーにとっての最後の勝利となった。
ほぼ2マイルに及ぶ試練と、そしてもちろん白癬がニジンスキーの身体に及ぼした影響が致
命的だったのだ。当時の調教師としては異例にもオブライエンはレース前後に調教馬の体重
を計測していた。そして、ニジンスキーの体重がセントレジャー後に 30 ポンドも減っていることを
発見した。
セントレジャーでの勝利の際にニジンスキーに騎乗したレスター々ピゴットは、次のように語った。
「レジャーはニジンスキーには長すぎた。かなりの間出走していなかったし、皮膚病も患った。実
際、レース自体は楽だった。々々々しかしあの距離が、以前のレースでは見られなかったほどにニ
ジンスキーを疲れさせたんだ。」
三週間後、パリ中心部から数マイルのボワデブーロン(?)にあるロンシャン競馬場にニジンス
キーはいた。凱旋門賞出走のためであった。1マイル半で争われるこのフランスのクラシックレー
スは、世界の主要サラブレッドレースの一つである。初秋に四歳上を対象として行われる凱旋
門賞は、馬の将来を占うレースと言われる。
ニジンスキーが歩行場に着くと、あたりは暴動のような騒々しさになった。カメラマンとレポータ
ーの群れがすでにうんざりしているニジンスキーの下に詰めかけ、テレビのクルーはふとした拍
子にマイクをノーザンダンサーの鼻先に押し付けた。歩行場の大勢の観客は手を叩き、大声を
上げた。コースに出た時のニジンスキーは、白い皮で覆われていた。ニジンスキーの精神的脆
さが露見した。
レース序盤、ピゴットはニジンスキーをうまく抑えていた。それがいつのまにか、中段で行き場
を失った。昨年のエプソムダービー勝馬ブレークニーに押さえつけられ、馬の集団に突っ込ん
だのだった。
ゴール間際で、ピゴットはニジンスキーを外に持ち出し行き場を確保するしかなかった。終盤
にきての大外で時間も距離も無駄にし、フランス馬ササッフラズ(?)にリードされていた。ピゴッ
トはニジンスキーの首にもたれかかるように姿勢を低くした。残り5ヤードで二頭は並び、ニジン
スキーがほんの僅かササッフラをリード。ニジンスキーのあの魔法の加速はもう出ないと悟った
ピゴットは、ゴールまで保たせようとニジンスキーに鞭を入れた。鞭を入れられたことのなかった
ニジンスキーは、ゴールラインを横切るその瞬間に、次の鞭を避けようとしてしまった。写真判
定の末ササッフラがハナ差で勝ち、ニジンスキーは馬房へと引上げて行った。
凱旋門賞で勝っていたなら、それがニジンスキーの最後のレースになるはずだった。しかし、エ
ングルハードとオブライエンはその二週間後、ニューマーケットでのチャンピオンシップSにニジ
ンスキーを出走させた。「勝ち星で有終の美を飾らせてやる義務があると思ったんだ」とビンセ
ント々オブライエンは説明した。
ニューマーケットの歴史上最多の観客がニジンスキーを声援するために集まった。ニジンスキ
ーは絶好調に見えた。しかし歩行場からコースへとたえずつきまとう拍手と熱狂的な叫びに、
ニジンスキーの神経はずたずたになった。ニジンスキーはもうプレッシャーに耐えられなかった。
ニジンスキーは先頭集団の背後で軽快な走りを見せていた。しかしラスト1ハロンでの魔法は
見られず、またしても彼よりも能力の劣る馬に次いで二着に終わった。
チャールズ々エングルハードは、ワシントンポスト紙ジェラルド々ストラインのインタビューで、ニジ
ンスキーファンの感慨を代弁した。「ニジンスキーは最高の馬だった。しかし、一年間に、様々な
距離で、異なった競馬場で、一定ではない条件で開催されるレースに勝つことを持ち馬に求め
るのは、ひどいことだった。」
「ニジンスキーが勝つことを求められたレースの数もタイプも、普通の人が普通の馬に求める
より多かったと思う。これも、我々人間がニジンスキーを駄目にしてしまった理由の一つだ。」
ほんの数ヶ月後、1971年3月に、チャールズ々エングルハードは 54 歳でこの世を去った。
ニジンスキーがクレイボーン牧場に到着した時には、ニジンスキーⅡという名になった。アメリカ
のスタッドにすでにニジンスキーという名の馬がいたからだ々々まあそのニジンスキーは競走馬と
しても種牡馬としてもとるに足りない馬ではあったが。イギリスとアメリカのジョッキークラブでは
別々に登録を行っている。そのため、はるかに劣るアメリカ産ニジンスキーが存在し、ノーザン
ダンサー産駒のニジンスキーはその名をニジンスキーⅡに変えなければならなかった。
ニジンスキーⅡは父ノーザンダンサー同様、多くの勝馬、チャンピオン馬を作り出す優れた種
牡馬となった。1982年、牡馬ゴールデンフリースがエプソムダービーに勝った。1986年、牡馬フ
ェルディナンドがケンタッキーダービーで勝利を収めた。その一月後には別の牡馬シャーラス
タニがエプソムダービーを制覇した。牡馬シアトルダンサーは二歳馬セリでの最高額1320万
ドルをつけた。ニジンスキーⅡの息子たちの多くが新たなチャンピオン馬の父に、そして娘達の
多くがチャンピオン馬の母となった。
今後もニジンスキーは史上最も素晴らしく、最もエキサイティングな競走馬として記憶に残る
ことだろう。ニジンスキーは本当に特別だった。あの魔法の五本目の脚を使って滑るように流れ
て行ったニジンスキーの姿は、それを見た人すべての心に永遠に刻みこまれている。ニジンス
キーに接することは星に接するごとくだった。だから、イギリス人、アイルランド人のグループは
次のニジンスキーを捜し始め、その過程で、素晴らしい馬を生み出してくるまぎれもない源泉を
発見した々々ノーザンダンサー産駒だった。