「クリスマスの光」 菊田行佳 牧 師

あ け の ほ し 2015 年 12 月
「クリスマスの光」
菊田行佳
「 きよしこの夜 、星 は光 り・・・」
(『 讃 美 歌 』 1 0 9 番 )
「 ああベツレヘムよ、小 さな町 。
静 かな夜 空 に またたく星 。
恐 れに満 ちた 闇 のなかに
希 望 の光 は 今 日 かがやく 」
(『 讃 美 歌 2 1 』 2 6 7 番 )
「 天 なる神 には みさかえあれ、
地 に住 む人 には 安 きあれと、
み使 いこぞりて ほむる歌 は、
静 かにふけゆく 夜 にひびけり 」
(『 讃 美 歌 』 1 1 4 番 )
クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝うキリスト教の祝祭を起源として
います。ですので、当然イエスが生まれた日は12月25日だと考えるところ
ですが、しかし実際のところイエスが生まれた日も、そして生まれた年さえも
正確なところは分かっていません。西暦というのはこのイエスが生まれた年か
ら数えているはずなのですが、そもそも確かな生誕年が分かっていないわけで
すので、ずいぶんあやふやな基準で世界の暦が成り立っているのだということ
になります。
イエスの誕生年は、おそらく紀元前6年か7年頃ではないかというのが大方
の学者の意見です。どうしてそんなにも誤差が生まれたのかと言いますと、起
原6世紀にローマで活躍したディオニシウスという修道士がキリスト紀元の西
暦を間違って数えてしまったということです。その間違いを訂正することなく
今日まで来ているわけですが、キリスト教というのはこのように、不確かなこ
とだったり、本質的な間違いでなければ、結構いい加減に取り扱うのだという
姿勢が、良く現れていると思います。
12月25日に生まれたのだという方も、やはり同じことが言えます。 クリ
スマスの生誕劇に、よく羊飼いが夜通し野宿しながら羊の番をしているところ
が演じられています。このことは、パレスチナの地に行って12月に野宿をし
ようとしたら、それが出来ることではないことがすぐにわかります。現代的な
冬山を登るような装備をしていれば別ですが、当時の貧しい羊飼いたちでは到
底できる事ではありません。それではどうして、12月25日に決まったのか
と言いますと、北半球では冬至の時が一番夜が長く昼が短いわけで、もともと
古代ローマでは12月25日を「勝利の太陽神」の誕生の日として祝われてい
ました。これが後に軍隊の間で流行していたミトラ教と呼ばれる太陽の祭儀と
結びついて、12月25日をますます盛大に「太陽の祝日」として祝われるよ
うになりました。それを、キリスト教徒が、本当に闇に光をもたらしたのはイ
エスだという考えから、12月25日をイエスの誕生日とみなしたのだと言わ
れています。それがキリスト教がローマ帝国で普及して行くに従って、一般的
に定着していったのだということです。
こ の よ う に 、こ こ で も 、
「 い つ 、ど こ で 」イ エ ス が 生 ま れ た の か と い う こ と よ
りも、イエスという存在が自分たちにとってどういう意味で必要なのかという
ところが重用になってくるわけです。キリスト教徒にとって、太陽よりも光り
輝き、どんなに深い闇が自分を覆い尽くしていようとも、イエスが灯す光が、
必ずその闇に一筋の希望を照らしてくれるのだという信仰が、イエスの誕生日
を12月25日とさせたのです。
死者たちの眠る深い闇のことを、キリスト教では陰府と言います。そこには
一年中夜しかなく、光の届かない絶望が覆っています。死が間近に迫ってきた
時、私たち人間はその深い闇の中に降って行くことを心から恐れるでしょう。
普 段 気 に も 留 め な か っ た そ の よ う な 闇 の 存 在 を 、親 し い 人 と の 死 別 の 時 な ど に 、
ふと頭をよぎることもあると思います。人間は、そのような自分たちの力では
どうすることも出来ない闇に対して、抗う術を持っていません。富める王や高
官 た ち に も 、貧 し い 羊 飼 い た ち に も 、死 の 闇 は 平 等 に 訪 れ ま す 。そ れ は つ ま り 、
逃れられない恐れが、すべての人々に等しくあるのだということを現していま
す。
旧約聖書に出てくる人物の中に、ヨブという人がいます。ヨブは死の病にかか
り、もうすぐこの世との別れをしなくてはならないという時を迎えました。親
しい友人たちにも彼の孤独は理解してもらえません。そして、信頼していた神
にも見捨てられて、自分の祈りに応えてもらえない苦しみの中で、息を引き取
ろうとしていました。ヨブの孤独は、ただ死を迎えるという所にあっただけで
なく、自分が生きて来た人生の中身の意味を、誰にも理解してもらえなかった
ことです。家族を愛し、共に働く人々を愛し、ふるさとを愛し、そして神を誠
実に愛したこと。このどれもが、自分の身体と共に幻のように消えて行くこと
に 絶 え ら れ ま せ ん で し た 。ヨ ブ は 最 後 の 言 葉 と し て 神 に 向 か っ て 叫 び ま す 。
「ど
うかわたしが少しでも正しく生きられたのか、そのことだけでも教えてくださ
い」と。
そ の ヨ ブ の 叫 び に 、神 は 口 を 開 き ま し た 。
「 ヨ ブ よ 、あ な た は 光 が 住 ん で い る
のはどの方角か知っているのか。暗黒のすみかはどこか知っているというのか
( 本 当 に 存 在 し て い る と 誰 が 確 認 し た の か )。光 が 放 た れ る の は ど の 方 角 な の か ,
答 え て み よ 。」そ う 語 り か け る 神 の 言 に は 、ヨ ブ の 人 生 の 一 つ 一 つ に 光 を 当 て る
ことの出来る暖かないたわりの思いが込められています。
「あなたにはまだ見え
ていない永遠の光は、実はずっとあなたの体を包み込み、あなたの人生を照ら
し続けて来たのだ。ヨブよ、あなたともあろう正しい者(小さいことにも誠実
なこと)が、よもやわたしのいのちの光を見誤ろうとは。ヨブよ、わたしの僕
よ 、 し っ か り し な さ い 。」 そ の よ う な 励 ま し の 神 の 言 葉 、 命 を 与 え る 光 で す 。
キリスト教では、このような神が住む永遠の世界から注がれて来る光のこと
を 、「( 聖 ) 霊 な る 光 」 と 捉 え て い ま す 。 霊 で す か ら 見 た り 、 手 で 遮 っ た り 出 来
ませんが、唯一その永遠の光をこの世界で反射させて、拡散させることの出来
る存在として、イエス・キリストのことを捉えています。神の独り子がこの世
に贈られたという喜びの知らせを、世界中の人々と共に祝うのには、こういう
わ け が あ っ た の で す 。ヨ ブ も 、王 さ ま も 、羊 飼 い も 、そ し て 私 た ち 一 人 一 人 に 、
永遠の光をあらゆる角度から照らすために、御子イエスはこの世界に生まれま
した。クリスマスに灯される光に、あなたの心が満たされますようお祈りいた
します。