南京と日本 ~南京と日本とのさまざまな関わりについて~ (抜粋版) 長田

南京と日本
~南京と日本とのさまざまな関わりについて~
(抜粋版)
長田 格 Kaku Osada
はじめに
我愛南京。南京が好きだ。
筆者が初めて南京を訪れたのは1995年。その時、
緑と歴史と学問の街という印象を受け、すぐに南京の魅
力に取りつかれてしまった。以来、何度も南京を訪問。
そして、2011年から14年までの4年間、幸運にも
住むことができ、実際にいろいろな場所を訪れ、いろい
ろな本によって、南京を調べてきた。南京の魅力は、簡
単に書けば、
“2千年前から繁栄と荒廃を繰り返してき
た歴史の街としての奥深さ”ということに尽きるだろう。
このことが少しでも伝えられたとの思いから、いくつか
の情報に分けて、本にまとめていきたい。
本書では、
「南京と日本」としてまとめた。古くから
中国の首都であった南京と日本にはいろいろなかかわ
りがある。南京を訪れた人、日本語の中の南京、南京を
題材とした日本の文学作品等等、説明していく。
なお、新しい作品や、例の戦争に関わる問題は基本的
に扱っていない。また、
“南京における日本”など、ま
だまだ触れるべきテーマもある。それらについては、将
来への課題とする。
目次
はじめに ........................................................................ 2
1.日本語の中の南京 .................................................. 4
2.南京発の日本語 ................................................... 10
3.南京を訪れた日本人 ............................................ 17
4.日本における南京 ................................................ 22
5.日本における南朝石刻 ........................................ 23
6.日本人の南京紀行文 ............................................ 24
7.南京を題材とした日本の小説.............................. 26
8.南京を詠った日本の詩 ........................................ 27
9.南京を詠った短歌 ................................................ 28
10.南京を詠んだ俳句 ............................................ 29
11.浮世絵の中の南京 ............................................ 30
12.日本にある南京の書・画 ................................. 31
参考文献 ...................................................................... 32
おわりに ...................................................................... 33
1.日本語の中の南京
日本語の中には、南京が頭に付いた言葉がたくさんあ
る。これらの言葉は、日本語の中にだけあり、中国語に
はない。
一部の語は、中国人にも通じるかもしれないが、
基本的には通じない。日本語だけに存在するものである。
■“南京”の意味
ここで、
“南京”の意味を広辞苑(第六版)から引用
すると以下のようである。
① 中国江蘇省南西部にある省都。
(以下略)
② 中国または東南アジア方面から渡来したも
のに冠する語。
③ 珍奇なものや小さく愛らしいものに冠する
語。
④ カボチャの異称
4つの意味のうち、①は当たり前。④は今は聞くこと
がなくなったが、複数の辞書で確認できるので、そうい
うものなのだろう。②と③が基本的に“南京××”とい
う言葉になるわけだが、この厳密な区別は難しい。ある
時点で、③と思って名づけても、実は、中国方面から到
来したのかもしれないし、
逆に、②と思い込んでいたら、
そうではない、
というケースも考えられる。後で記す“南
京玉すだれ”のように、日本発生にもかかわらず、権威
をみせかけるために、南京と付けている場合もある。辞
書によっては、③の意味を載せていないものもあるので、
ここでは、区別しないこととしたい。
■“南京”で始まる語
以下、南京××の語を列挙する。複数の辞書で確認で
きたもののみ記す。意味は、筆者が簡単に示したもの。
複数の辞書の説明が一致しているものは、そのまま記し
ている場合もある。
南京小桜:ハクサンコザクラの別名。
南京錠:箱形の錠前。かんぬきの一方を箱の部分に
押し込んで鍵がかかるもの。
南京玉:陶製、ガラス製の小さな玉。孔がついてい
て、つなげて、首飾りや腕輪にする。
南京玉すだれ:日本の古来(江戸期発祥らしい)の
伝統芸能。すだれ状の竹細工をいろいろな形にして見せ
る。
南京鼠:ハツカネズミの飼育変種。中国からもたら
されたらしい。
南京黄櫨(はぜ)
:トウダイグサ科の落葉高木。中
国原産らしい。
南京鳩:小型の鳩の一種。中国原産らしい。
南京米:東南アジア・中国などから輸入された米の
俗称。
南京豆:落花生のこと。南米原産だが、東南アジア
もしくは中国経由で日本にもたらされた。
南京虫:①トコジラミの別称。②小型の女性用時計
上記のうち、南京小桜、南京玉すだれ、南京豆は広辞
苑に記述はない。
逆に、広辞苑にのみ記述があって、コメントが必要な
のは、以下。
南京人:広辞苑には、単に“日本人が中国人を呼ん
だ俗称”とある。ただ他の辞書では確認できない。しか
し、少なくとも江戸末期の横浜でそう呼んでいたのは間
違ないだろう。
『横浜異人街事件帖』
(白石一郎著)には、
“南京さん”
という題の短編があり、以下の記述がある。
“南京人だった。横浜では中国人を一般に南京人と
呼ぶ。南京さんと親しみをこめて呼ぶ者もいた。
“
また、後述の横浜浮世絵にもでてくる。
南京路:広辞苑の説明は、
“中国上海市最大の繁華
街。東は外灘(バンド)から西は静安寺公園までの約5
キロメートル”
。この説明は、二重にひどい。一つは、
南京路が上海にしかないと思わせること。中国には、南
京路がある都市はいくつもある。天津市、重慶市、ハル
ビン市、等。なお、南京市に南京路はない。あっても混
乱することはないと思われるが、市名と同じ路名は中国
全体で付けないようにしていると思われる。もう一つは、
現在の上海には南京路はなく、あるのは南京東路と、南
京西路の二つである。広辞苑の説明は、現在の東路と西
路の両方をあわせたものとなっているが、そのことを書
かないと、読者に誤解させてしまう。ウィキペディアで
は、
“
「南京路」とだけ表す場合は 1945 年以前の南
京路である南京東路を現すことが多い。”としてい
る。文学作品などを読むときに、注意が必要である。
最後に、広辞苑だけに記述があって、他では何も確認
できない言葉に以下がある。私自身も聞いたことがない。
列挙だけしておく。
南京赤絵
南京襦子(じゅす)
南京銭
南京焼き
南京木綿
南京軍鶏
南京操り
南京下見
南京袋
なぜか、
“南京町”は、どの辞書にも載っていない。
別の章に書く。その他にも南京××はありそうである。
■その他
“南京”以外にも、中国を指す言葉で、冠になってい
る語がある。
“呉”
、
“唐”である。呉という国は、歴史
上、以下のように三つある。
① 前 585 頃から前 473 春秋時代の国の一つ。首
都は蘇州
② 222 から 280 三国時代の国の一つ。首都は南
京(当時は建業)
③ 902 から 937
五代十国の一つ。首都は揚州。
しかし、以下の言葉の“呉”が、どの呉を指すのかは
明らかではない。①では古すぎ、日本との交流は基本的
にまだないはず。③は、時代が下りすぎるので、②、よ
うするに南京を指すのではないかと思われるのだが、ど
うだろうか。
呉服
呉竹
“唐”は、618 年から 907 年の統一国家。日本でも
遣唐使などで有名。その言葉が意外に少ないのはなぜか。
唐紙
唐糸
■中国語の中の南京××
基本的に本書のテーマからは外れるのだが、同じよう
な話なのでここに書く。中国語には、南京××という言
葉はないと思い込んでいたが、
(実際、辞書には一つも
でてこない)
、日本で中国語を書いた看板に南京××を
見つけた。以下である。
日本語で菩提樹のことを南京椴と呼ぶらしい。写真は、
京都嵐山の世界遺産、天龍寺の庭にあったもの。なぜ、
菩提樹が南京××なのか、不明である。なおこの語は、
辞書にはないが、インターネットでは確認済。ただし、
語源の説明はない。
2.南京発の日本語
南京で生まれた言葉(中国語)はたくさんある。以下
の本にちょうど100の四字熟語が説明されている。
『南京成語詩歌』孫漢洲著 江蘇人民出版社
このうち、普通に現在、日本語として使われている言
葉を説明する。
なお、最後に四字熟語ではなく、上記の本にも載って
いないが、南京発と言っていい言葉を掲載する。
■画竜点睛
言葉の出来た時期:530年頃
意味:事物の眼目となるところ。物事を立派に完成さ
せるための最後の仕上げ。また、わずかなことで、全体
がひきたつたとえ。 (広辞苑)
出典:唐・張彦遠『歴代名画記』武帝崇飾仏寺、多命
僧繇画之。金陵安楽寺四白竜、不点眼睛、毎云“点睛即
飛去”。人以為妄誕、固請点之。須臾雷電破壁、両竜乗
雲、騰去上天。二竜未点眼者見在。
訳:梁武帝が寺を飾るため、画家僧繇(よう)
に多くの画をかかせた。安楽寺に四匹の竜を画いたがひ
とみを書きいれなかった。
「眼睛を書き入れれば、すぐ
に飛び立ってしまう」と言う。人々は信用せず、ひとみ
を入れさせた。するとたちまち雷が起き壁を破り、天に
昇ってしまった。ひとみを入れなかった二匹の竜は、そ
のまま壁の中にあった。
注:金陵は、南京の古い呼称。安楽寺は、現在の孔子
廟の近くにあったとされているが、今は跡形もない。
■厚顔無恥
言葉の出来た時期:490年頃
意味:他人に対する態度があつかましく、恥を知らな
い様子(広辞苑)
出典:斉・孔稚珪『北山移文』豈可芳杜厚顔、薜荔無
恥
あに芳杜をして顔を厚くし、薜茘をして恥ずる
無からしむべけんや
芳杜:ほうと。味はよくないが、色がきれいな
草のこと。やぶしょうが、もしくはあかなし(ツユクサ
の一種)という説あり。
薜茘:まさきのかずら。他の木にからみついて
成長していくが、香草である。
注:斉の周顒(ギョウ)は鍾山(かつて北山とも言っ
た。南京のシンボル、紫金山のこと)で隠遁生活を送っ
ていたが、朝廷から声がかかると、出かけていき、県令
になってしまった。風雅を好む実直な人、孔稚珪(:
448~502)は、周顒が官僚になったのを軽蔑し、
『北山
移文』を書き、周顒を二度と鍾山に来させないようにし
た。節操を守らない人間が、この山を通ると、山川草木
が汚れるから、という。
■一衣帯水
言葉の出来た時期:589年
意味:一筋の帯のような狭い川・海。その狭い川や海
峡をへだてて近接していることをいう。 (広辞苑)
出典:唐・李延寿『南史・陳後主記』我為百姓父母、
豈可限一衣帯水、不拯之乎
我、百姓の父母として、豈に一衣帯水を限り、
之を拯(すく)はざるべけんや。
訳:私は、民衆の親の立場にあって、どうして
あんな細い川(長江:揚子江)で隔てられてい
るからと言って、その民を救わないでいられよ
うか。
注:隋の文帝が、南下して陳に攻め入るときに言った
言葉。南京側の立場としては非常につらい言葉。南京あ
たりで、2kmほどの幅のある長江を、
“あんな細い”
と形容するとは。
。
写真は、長江北側から見た南京獅子山。
■空前絶後
言葉の出来た時期:1120年ごろ。
意味:以前にもそれに類する物事がなく、将来にもな
かろうと思われる、ごくまれなさま(広辞苑)
出典:北宋・著者無名『宣和画譜』顧(愷之)冠于前、
張(僧繇)絶于后、而道子(呉道子)及兼有之、則自視
為如何何也。
訳:顧愷之は、彼以前で最高であり、僧繇は、
後に誰もいない。そして、
呉道子は、
両方を兼ねている。
注:顧愷之(約 345-409)は、六朝時代に南京で活躍
した画家。僧繇も、
“画竜点睛”で説明したように同様。
呉道子は、唐時代に活躍した画家。ここでなぜ呉道子が
でてくるのかは不明。また、
“冠前絶後”の由来として
は、理解できなくもないが、ここからなぜ、
“空前絶後”
と変わっていったのかは不明。
“前”には、自分を含み、
“後”には自分を含まないというところがわかりにくく、
“空前絶後”の方が言葉としてはすっきいりしているか
ら、自然に変わっていったのであろう。なお、“冠前前
後”も、紙の辞書では確認できないが、ネットでは、
“空
前絶後”の同義語として、散見される。
また、この語は、北宋時代が由来であるので、南京発
とは言い難い面もあるが、顧愷之、僧繇の二人は南京で
活躍したことから許していただきたい。
■破竹の勢い
言葉の出来た時期:280年
意味:
(竹を割るとき、初めの節を割ればあとは容易
に割れることから)激しくとどめがたい勢い(広辞苑)
出典:唐・房玄齢等『晋書・杜預伝』今兵威已振、譬
如破竹、數節之後、皆迎刃而解、無復著手處也。
今、兵威すでに振るい、譬(たと)えるなら破竹
のごとし、数節の後、皆、刃を迎えて解き、また手をつ
くる所無きなり。
訳:今、わが軍の兵力は威力があり、例えるなら
竹を破るかのよう。すぐに敵軍は、武力を解除し、平服
するであろう。
注:西晋の将軍、杜預が言った言葉。呉を攻めに来て、
建康(南京の呉時代の名称)を前にした、軍議にての言
葉。
“一衣帯水”と同様で、南京側としては、うれしい
話ではないのだが。竹を割るとき、初めの節を割れば、
あとは容易に割れることから、である。
(実際、筆者は
割ったことがなく、どのような具合か、
知らないのだが)
。
なお、
“破竹之勢”とすれば四字熟語となるが、通常、
この形では用いない。
-----------------------------------------------------なお、南京周辺の街を舞台として生まれた言葉も当然
ながらいくつかある。そのうち、筆者が南京発の言葉と
の違いをテストするという意味で使っていた言葉を紹
介する。
■四面楚歌 紀元前 202 年
現在の安徽省埠蚌市垓下。ここでの項羽と劉邦の戦い
から生まれた言葉。楚の項羽が漢の劉邦に周囲を囲まれ、
周り中から楚の歌が流れてきた。周りもみな、漢に降伏
したと勘違いし、絶望を感じ、負けを覚悟したというこ
とから、できた言葉。南京から1時間ほどで訪れること
ができるところにある。
■臥薪嘗胆 紀元前 496 年~473 年
いずれも南京からほど近い江蘇省蘇州市(姑蘇)と浙
江省紹興市(会稽)での出来事からできた言葉。呉の夫
差と越の勾践の戦い。春秋時代、呉王闔閭は、越王勾践
に戦いで敗れ死んだ。その息子夫差は、父の仇を討つた
め、固い薪の上で寝て悔しさを忘れぬようにし、3年後、
会稽山で闔閭に勝つ。敗れた勾践は、熊の胆を嘗めて悔
しさを忘れず、今度は10数年後、夫差を討つ。その故
事からきている。
写真は、会稽山の大禹陵。
3.南京を訪れた日本人
明治以降は、非常に多くの日本人が訪れていて、自分
自身による記録などもある。それらは別章に記述すると
して、ここでは、それより以前に、訪れた日本人につい
て、記す。
■倭の王の使者(東晋へ遣使)
一番早く南京(当時、東晋の都、建康)を訪れたのは、
413年の倭の王の使者。残念ながら名前は分っていな
い。従来、この話は、高句麗との関連で、ニセ情報、あ
るいは誤りという説が有力だったのが、最近、これは正
しいという説が有力になってきたもようである。また、
南京市の資料にも、明記されていることから、南京へ一
番早く来た日本人として、この使者としておく。
■倭の五王の使者が宋の建康へ(10 回)
以降、中国側は宋に変わったが、続けて、10回も訪
れている。やはり、残念ながら、名前は記録されていな
い。第2回目の425年の遣使が司馬曹達と中国風の名
称が記されているが、これが日本の誰のことなのか、分
っていない。なお、
“司馬”は姓ではなく、官名である。
421年倭王讃が遣使。
425年倭王讃、司馬の曹達を遣わす
430年倭王(讃?)
、遣使。
438年倭王珍が宋に遣使、安東将軍・倭国王に任じ
られる。
443年倭王済が宋に遣使、安東将軍・倭国王に任じ
られる。
451年倭王済が宋に遣使、使持節などが加えられる。
460年倭国、遣使
462年倭王興が宋に遣使、安東将軍・倭国王に任じ
られる。
477年倭国王(武?)が宋に遣使。
478年倭王武が宋に遣使、安東将軍等・倭国王に任
じられる。
各王の名称が、日本のそれぞれ誰に相当するのか、学
会でいろいろ議論が行われているが、結論はでていない。
可能性を示しておくと、以下である。
讃:第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代
履中天皇
珍:第16代仁徳天皇か第17代履中天皇か第18代
反正天皇
済:第18代反正天皇か第19代允恭天皇か
興:第20代安康天皇か
武:第21代雄略天皇:これはほぼ間違いないらしい
■鎌倉末期から南北朝時代にかけての禅僧
五世紀の倭の使者以降、はっきり南京訪問がわかって
いる記録は、なんと約 800 年以上も飛ぶ。南京が歴史
の中核から外れた時代とも言えるかもしれない。
元の時代、南京(当時建康)の保寧寺に古林清茂(1
262-1329)という有名な僧がいて、何人もの日
本の僧が学んだ。書の名家でもあり、日本人僧が帰国時
に与えた墨跡が多く、日本に残っている。二度目の元寇
からわずか40年、多くの僧が中国に渡っているという
事実に驚く。
保寧寺は、今は残っていない。孫権の時代241年に
建てられ、
祇園寺、
長慶寺、
奉先寺などと名前を変えて、
宋代に、保寧寺となり、500人もの僧が在籍した大き
な寺となった。宋代、元代の地図によれば、城内鳳凰台
のすぐ東にあった今後、今、開発のために、発掘がいろ
いろ行われているところであり、今後、鳳凰台などを含
め、場所が特定されるかもしれない。
古林に学んだ中で名前が分っている僧が3人。
石室善玖。いしむろ ぜんきゅう
1293-1389。1318年に来訪。
筑前の人。臨済宗の僧。
1326年に帰国。
京都の天竜寺、鎌倉の円覚寺、建長寺などを歴任。
別源円旨。べつげん えんし
1294-1364。1320年に来訪。
越前の人。曹洞宗の僧。
1330年に帰国。越前の弘祥寺、熊本寿勝寺など。
月林 道皎。げつりんどうこう、またはどうきょう
1293-1351。1322年に来訪。
臨済宗の僧。
1330年に帰国。京都張福寺を再興する。
■僧 祖来
1371年10月、僧祖来は南京を訪れた。当時九州
を支配して大宰府にいた征西将軍の懐良親王(南朝側後
醍醐天皇の皇子)より派遣された。
朱元璋からの明成立通達と倭寇取り締まり依頼が球
種に届いたためであるが、これに対して、懐良は二度断
り、三度目にやっと答えた。なお、明側の資料には、
「日
本国王良懐」と何度もでてくるようであるが、これは文
字が逆転した誤りと考えられる。
■僧 祖阿と商人肥富
上記の直後に、懐良は大宰府を追われ、明の使者を義
満側が捉え、義満は答使の派遣を行う。最初1373年
には明派遣を希望した僧侶71人も送ったようである。
しかし、形式不備により明側に却下される。このため、
南京にまでこの僧侶らが到達できたのかは不明である。
1380年再度、僧侶二人を明に送ったが、洪武帝に
より形式問題で却下。このときも、南京まで到達できた
かは不明。その後、義満による日本統一が落ち着くまで
しばらく時間があいた。
1401年、義満による三度目の使者が僧祖阿と博多
商人肥富である。このとき、ようやく明側に受け入れら
れ、建文帝に対し、貿易開始を依頼。
1402年、明の国書を持ち帰る。
ただし、すぐに、建文帝は南京を追われ、皇帝交代。
永楽帝に対し、再度依頼し、勘合貿易が始まる。この
あとは、首都が北京に移ったこともあり、日本人が南京
へ訪れたかどうかは不明である。
■鄭成功
日本人の定義の問題ではあるが、少なくとも半分は日
本人の鄭成功という人がいる。母が日本人である。長崎
県平戸には、
“鄭成功記念館”がある。南京には、二度
来ていて、一度目は、勉強に、二度目は、明の軍を率い
て、占領した清に対したのだが、大敗した。その後、台
湾に進行し、台湾で初めて中国人による政権を打ち立て、
現在、台湾では開国の英雄のようにまつられている。
また、鄭成功が軍事拠点をおいた厦門市のコロンス島
には、銅像が立っている。
1624年 日本の平戸で、父鄭芝龍と母田川松との
間に生まれる。日本名、福松。
1631年 父の故郷、福建へ。
1644年 南京の国子監(後の南京大学、現在の東
南大学)で学ぶ。
南明の隆武帝から、
国姓の“朱”を賜り、
国姓爺と呼ばれる。
1659年 北伐軍で進軍するが、南京で大敗。
1661年 台湾に渡り、鄭氏政権を樹立。
4.日本における南京
日本の中に、
“南京町”というのがある。それ以外に、
“南京”とついた場所はないか、と考えていたが、探し
てみると、いくつかあった。その他、店などはたくさん
あるだろう。
5.日本における南朝石刻
南朝石刻とは、南朝時代に造られた石の彫刻であり、
皇帝や、貴族達の陵墓の前にお守りとして置かれたもの
である。南京市にはこれが多く残っており、南朝時代の
文化の高さの象徴にもなっている。これについては、本
書の姉妹編『南京と歴史』に詳しく書く。
日本に、これそのものがあるわけではないが、コピー
が、南京市より、姉妹都市である名古屋市に贈られてい
る。麒麟1つ、辟邪1つ、石柱2つが別々の場所に置か
れている。
6.日本人の南京紀行文
明治から大正にかけて、日本人作家の多くが南京を
訪れ、
(南京だけではなく、中国全体であるが)
、多くの
紀行文を残している。ここでは、今でも読むことにでき
る南京への紀行文を記す。
7.南京を題材とした日本の小説
紀行文だけでなく、小説も多く書かれている。もっ
とも人によっては紀行文と分類されていしまうような
小説もどきもあるにはあるが。ここでも、今読むことの
できる南京を題材とした小説を説明する。
8.南京を詠った日本の詩
紀行文が多く書かれたのと同じころ、実際に南京を訪
れて、詩もいくつか作られている。詩については、全文
を記す。
。
9.南京を詠った短歌
歌人もまた、何人か南京を訪れている。
10.南京を詠んだ俳句
南京を詠んだ俳人として、加藤楸邨がいる。
11.浮世絵の中の南京
浮世絵の一つの種類として“横浜浮世絵”というもの
がある。単に“横浜絵”と呼ぶ場合もある。幕末から明
治初期にかけて集中的に描かれたもので、テーマは、新
しく開けた横浜の街の風景、建物、風習、異人たちであ
る。そのなかに、
“南京人”を描いたものがいくつかあ
る。南京市の人ということではなく、中国人のことを指
す。
神奈川県立歴史博物館のホームページなどで確認で
きる。キーワードとして、
“横浜浮世絵 南京”で検索
すれば、下記のような絵を見ることができる。
12.日本にある南京の書・画
2015年2月から4月まで、
東京国立博物館で、
「南
京の書画-仏教の聖地、文人の楽園-」という特集が開
催された。東京国立博物館には、東洋館というアジア専
用のかなり大きな博物館があり、いろいろな展示がされ
ているのだが、その中の8室が中国の絵画、中国の書跡
の常設展示室となっている。その8室をまるごと南京の
書・画の展示とし、48件の南京の文物を展示した。そ
のうち、重要文化財1件、重要美術品6件である。常設
ではどの程度展示されているのか不明だが、これだけの
南京の文物が日本に存在することに驚く。
参考文献
引用したものについては、直接本文中に示した。ここ
では、その他の参考にした文献を記す。
『南京歴代風華 遠古~1940』中共南京市委党史弁
公室・委宣伝部 南京出版社
『中国遊里空間 明清秦淮妓女の世界』大木康 青土社
『シナ海域 蜃気楼王国の興亡』上田信 講談社
『新訂 魏志倭人伝他三篇』石原道博編訳 岩波書店
『日本の歴史03 大王から天皇へ』熊谷公男 講談社
『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直
す』廣瀬憲雄 講談社
『私の日本古代史(上)
』上田正昭 新潮社
『日本の歴史7 南北朝・室町時代』安田次郎 小学館
『中国旅行詠の世界』高崎淳子 角川書店
おわりに
----------------------------------2015 年 4 月 20 日発行 (抜粋版)
著者 長田 格 (Kaku Osada)
写真 長田 格 (Kaku Osada)
表紙 長田 格 (Kaku Osada)
発行地 横浜
Copyright © 2015 Kaku Osada