2016-2017年11月分を掲載

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ガイドライン2016-2017年、11月分
名前のない子どもたちの群れ
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今月のことば
「奥さん、大変申し訳なく、また申し上げ難いことなのですが、生まれてくるご予定のお
子さんには、重篤な障がいが見られます。お腹のなかの赤ちゃんの生命は、手の施しよう
のないくらい難しく危険な状態で、そのままにしておきますと、奥さんの生命にも危険が
及びます。もし同意していただけるのでしたら、私どもといたしましては、医療的に妊娠
中絶をさせていただきます。このようなことに当たってしまったことは、忘れましょう。
すぐに単なる悪い思い出のひとつになりますよ」
毎年、大勢の若いご夫婦が、このような話を聞かされています。そのほとんどのご夫婦
は、医療従事者や周りの人々(友人や親せき)から、非常に大きな、あるいは暴力的とも
言えるような圧力を受けて、そのような行為の後の結果を真剣に考えることもなく、妊娠
中絶への手続きへ進むことに同意するのです。こうして実に多くの名前のない子どもたち
は、天国へ行ってしまい、この子どもたちの全員が、戸籍に名前を記載されることはあり
ません。その上、この医療的な妊娠中絶は、説明を受けた以上に、大きな傷跡を残すこと
になります。シャルル・ペギーがとても上手く後述しているような傷跡を、常に持ってし
まうことになるのです。恐ろしい傷、忘れられない絶望、乗り越えられない後悔、ひどい
縫合された傷跡、死というものに対する不安、目に見えない後ろめたさ、隠れた恨み、ず
っと永続的に秘められてしまう挫折感、永久的に表に残る傷跡です。しかし、これらすべ
ては崇高な神の愛へと通じる門だとペギーは付言しています。いくら神の愛でも、傷つい
ていない人に、包帯をまくことはないのです。地面に倒れている男の人がいましたので、
サマリア人は助け起こしました。イエスの顔が汚れていましたので、ベロニカは布で拭い
てきれいにしました。しかし倒れてもいない人を、誰が助け起こすと言うのでしょうか。
また、汚れてもいないのに、いったい誰がきれいにすると言うのでしょうか。
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このように、傷ついている若い家族をひとつに集めるのが「信仰と光」における私たち
の使命ではないでしょうか。過去を裁くことも、また疑うこともしないで、疎外されてい
ないことが嬉しい彼らのために、障がいのある子どもの親御さんだけではなく、私たちの
共同体の集いで友情の時間を体験することができて嬉しく思う人々も受け入れることは、
絶対に必要です。このような傷ついたご家族の皆さんと出会うために、身構えることなく、
出かけて行きましょう。そして私たちの間で、少しの安らぎを見出すために来られるすべ
ての人を歓迎しましょう。
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今月のテーマに焦点を当てる
弱い人々、病気の人、貧しい人々をいやすことができるのは愛だけです。
どうしてこのテーマなのでしょうか。私たちのおかした間違いや心の傷を忘れるだけで
は、それらを消し去るのに十分ではありません。私たちの傷を災難としてではなく、愛に
よって埋められるべきひび割れとして見てくれる人によっていやされるべきであり、それ
こそが私たちの探し求めるいやしです。私たちの共同体では、いつもいやしの時がありま
す。
鍵となる考え:互いの傷を受け入れ合いましょう。神に私たちの傷をいやしていただきま
しょう。共同体は、私たちがいやしていただける場所です。
参考になる聖書の箇所
-マタイ福音書15章29-31節:イエスは多くの人をいやされました。
-ルカ福音書9章1-2節:イエスは病者をいやすために弟子たちを派遣されます。
-使徒言行録5章12-16節:使徒たちは多くの人をいやしました。
■歓迎と再会
到着したら、今月で終了する「いつくしみの特別聖年」の絵を、各自、受け取ります
(付属の宝箱参照)
。それを持って家に帰ります。
■分かち合い
◍皆でいっしょに:イエスがマタイに声をかけ、呼ばれる場面をマイムで再現します。
マタイ福音書9章9‐13節
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
ハートの形をした、いろいろな色のカードを用意しておき、マイムが終わったら、それ
を差し上げます。
今月の11月20日は、
「王であるキリスト」の祝日であり、
「いつくしみの特別聖年」
の終わりの日にあたります。教皇フランシスコの、このすばらしい直観的な思いつきは、
「あわれみ、そして選んだ」という司牧上のモットーを選ぶにあたり、間違いなく影響
を与えたはずです。イエスは、いつくしみに満ちた愛をもってマタイを見つめ、そして
選ばれたのです。私たちもまた、私たちのすべての兄弟姉妹、特に最も弱い人々(「信仰
と光」の祈り参照)を通して、イエスのみ顔を見つけた後、福音の道でイエスに従うよ
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うに、呼ばれています。そして、次は私たちの番ですが、私たちを待っているすべての
人々に、絶えず声をかけるように呼ばれています。
◍小さなグループになって
-どうすれば私たちは、自分自身の傷を受け入れられるでしょうか。
-どうすれば私たちは、自分自身を赦すことができるでしょうか。
-イエスは私たちの傷をいやすために来られました。私たちは、どうやってイエスにいや
していただきますか。
沈黙の後、マイムの終わりにいただいたハートに自分の傷を書きます。それを祈りの時間
のときに、イエスにお献げします。
■芸術家の工房
楽器:パンフルート
パンフルートを作ります(付属の宝箱参照)
。この楽器の奏でるもの静かなメロディーは、
心と精神を安らげることで知られています。
■祈り
祈りのコーナーに、神のいつくしみのイコンか、あるいは御絵と籠を置きます。パンフ
ルートの音楽に合わせ行列して籠へ行き、自分のハートを入れます(集いの後、籠の中身
は廃棄処分します)
。
◍マタイは立ち上がって、イエスに従いました。
イエスはマタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言
われました(マタイ福音書9章9節)。
イエスがマタイを見かけたというのは、単に普通の意味で見たというものではなく、そ
れ以上に深い意味のある、いつくしみに満ちた人への理解をもって、マタイを見たのです。
イエスは徴税人を見かけ、そしてあわれみの目を通して、マタイを見て選び、そして「わ
たしに従いなさい」とマタイに言われたのです。この「従う」という言葉の意味は、イエ
スの生き方を模倣する、まねるということであり、ただ単にイエスの後について歩くこと
だけを意味しているのではありません。神のうちにいつもいると言う人は、イエスが歩ま
れたように自らも歩まなければなりません(1ヨハネ2章6節)。そしてマタイは立ち上が
ってイエスに従いました。主が命じられるとすぐに徴税人のマタイは、この世の富をあき
らめたことに驚く理由は何ひとつありません。また、自分の富をないがしろにしてマタイ
が、マタイの評価によれば、まったくお金を持っていないリーダーの男の一団に加わって
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しまったことに驚く人は、誰一人いません。私たちの主は、言葉で話しかけることによっ
てマタイを召し出されました。お恵みの光で心を溢れさせる、目に見えない、心の衝撃に
よってイエスは、マタイにご自分の足跡を歩くように指示されました。こうやってマタイ
は、この世の富から自分を引き離して、召し出してくださったキリストが、賜物の中に、
朽ち果てることのない天の宝を持っておられることを理解することができました。
尊者聖ベダの講話より
◍貧しい人の祈り
イエスよ、来て私の心の傷をいやしてください。
■お祝い
ゲーム:信頼テスト
2人の父親か、あるいは2人の力持ちの友人を選びます。ゲームのリーダーは、私たち
の人生において支えがいかに重要なことか、そして愛されていると知ることがどれほど嬉
しいことかを説明します。ゲームのリーダーは、共同体のメンバーで最も勇気のある人を
一人選びます。この勇気ある人は目を閉じて、後ろに立っている2人の男の人の方へ倒れ
ていきます。そして後ろに立っている2人は、倒れてきた人を摑まえます。
エキュメニズムを生きる
2014年11月30日に出されたヴァルソロメオス 1 世・コンスタンティノポリ総主教と
フランシスコ教皇の共同宣言
イラクやシリア、そして中東全体における現在の状況に対し、私たちは共通の懸念を表明
します。私たちの兄弟姉妹の多くが迫害され、暴力的に自分たちの家から追い出されてい
ます。さらに悲劇的なことに、こういったことのすべてに対し、大勢の人々が無関心です。
聖パウロは私たちに、次のようなことを想い起させてくれます。
「一人のメンバーが苦しめ
ば、すべてのメンバーが共に苦しみ、一人のメンバーが尊ばれれば、すべてのメンバーが
共に喜ぶのです」(1コリント12章26節参照)。これがキリスト者の生活の規範であり、
この意味においても私たちは、苦しみのエキュメニズムがあると言えます。ちょうど殉教
の血が、教会の強さと豊かさの種であるように、日々の苦しみの分かち合いもまた、一致
の効果的な道具になることができるのです。