-ドイツに占領されたパリのこと は覚えていますか? ささいなことも覚えています。 トゥ-ルーズを出て、パリ、オステ ルリッツ駅で下車。母も私も、重い荷 物を抱えていました。そのとき、軍靴 解放の日'パリ中の鐘が鳴った る」と言われ、.ソルボンヌの日本語専 日本人は勤勉だ。日本は大きな国にな 5) 圃 - パリ解放の時みなさんは? エッセイスト フランソワーズ・モレシャン(7 1944 ′年、米国を中心にす各連合 8月中旬から25日。解放直後、フラン ソルボンヌの日本語学科は、10人も て漢字-- 。文字の書き方も上下、石 いなかった。平仮名、カタカナ、そし -日本語の勉漁は大変でした? パリに入ってきた。パリ市内の寺院の なかで母が言いました。「これからは ートル・ダムの鐘の音が高らかに鳴り ました。ラ・マルセイエーズの合唱の 世界観があまりにも異なり、魅力を感 私。でも、日本語とその向こうにある ける価値-- 。私が抱いていたアジア じました。生活様式、美術、人生にお 語と悪戦苦闘すればするほど、「日本 に行きたい!」という気持ちは強くな った。そして、21歳の持、日本を研究 観を根本的に変えるものでした。日本 前からフランス人は中国に親しみを持 っていたからです。通訳を目指し、ロ する13歳年上のギィ・モルシャンとい 長じて、外国に関心を持った私が最 シアに行こうか'中国に行こうかと悩 の留学に付いて58年に初めて来日した う文化人類学者と最初の結婚をん、彼 のです。 (聞き手・羽毛田弘志) んでいたら、両親の親友のソルボンヌ ら、発しい.それよりも日本が良い. 大学の教授から「どちらも共産圏だか 初に興味に抱いたのが中国でした。戦 - 日本への興味はどうし、て? 一緒に生きていくのよ」と。 から左と、へとへとでした。19歳の 教会が次々に鐘を鳴らし、最後に、ノ スのルクレール将軍が先頭になって、 攻の登録をレました。 ですo彼にとっては小さな親切だった だった-パリの自宅 国軍がパリに解放戦線を展開したのが かもしれませんが、孤児になったかも しばらくして、父は白湯の工場をド 知れない私には、人生の恩人です。 主治医からユダヤ人の子どもをかくま ってくれるよう頼まれ、終戦まで家の イツ軍の軍需工場にするという条件 で、パリに戻りました。その後、私の 片隅で隠し通しました。「アンネの日 の音を響かせて、ドイツ軍の兵士が何 か、私は母と引き離されまんた。「マ 十人と歩いてきました。人混みのな 記」さながらにです。終戦直前、父は ドイツのゲシュタポに捕まり、3日 - どうなりました? マン⊥。.私は叫びました。 ンさん。バレエに夢中 間、拷問を受け続けました。それで も、口を割らずに帰宅しました。 12歳のころのモレシャ 見ず知らずの大人の人が、肩車をし て私を抱き上げ、私に母を捜させたの / ,-∼
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