第 8 期 水 俣学講義 H 2 1 1 1 2 5 資 料 臨床 心理 学実践 の立場 か ら、新潟水俣病 と水銀 の古代史料 に近 づ く 佐藤 忠 司 A 臨床 心理査 定法 に よる新潟水俣病者 へ のアプ ロー チ 2 質的情報 の コー ド化 (数量化) 各人 の基礎デ ー タの表示 3 各人 のエ ン ド ・ポイ ン ト ・デ ー タの表示 4 各臨床群 との 比 較 5 この結果 か ら何 がわか つたか (中間報告) l B 現代社会 か らの情報 と歴 史的情報 1 水銀 と日本 人 の 史的交流 の諸相 2 そ こか ら何 が 学 べ るか。 われわれ は何 を学び損 ねて きたか 3 将来 の人 た ちに対 して 、な に を伝 えて ゆかなけれ ばな らな いか A NIIGATA Top l range ▲ ▲▲ ▲ 田 D0 ▲ ▲ ▲▲ ▲ 蚕 ▲ 一 KIDO ● 一一Ps・ NOR NIIGATA B カイ 2乗 1直=11154 TOp l range 生 ・▲ ● ▲ ▲ o ● (df=Ⅲ 25%i Sig) ▲▲ ▲ ▲ Z と ● ・ 止 ▲ ・ h ▲ ・ ▲ . ▲ ● ●▲ ▲ ▲ 0 ● ▲ 一KIDO ▲― C NIIGATA ● 一 SGHIZO TOp l range ▲ ▲ ▲ ● ● ● ● ● ▲ 0 ● . ● A ●▲ 直‐9 7 3 4 ( d f = 3 カイ 2 乗 イ AA 25折 Si=` Z ▲ ▲ 心食 20 subA ferq D ▲ 一 KIDO ● 一一 〇RG NIIGATA カイ 2乗 値 =11446(d← TOp l range ▲ ▲ ● ▲ ● ▲ ▲ 2 05M Sig) ▲ ▲ 上 ▲ ▲ 単 E 一一KIDO ▲ 一 。 一 DEPEND NIIGATA TOp l range ヵイ 2乗 lE‐ 1722 (df=2 Not si=` Z ▲▲ 払▲ ▲ ● ● ▲ ● ▲ ▲ ▲ ▲8 日本人 が経験 した水銀汚染の史的検討 図 1.水 銀 汚染 の ク ロス回 ― ドを展望 す る I(佐 藤 2009) F / フィンラン ド、渡 り鳥 の卵 ( 1 9 7 0 ) ス ウ ェ ー デ ン、魚 ( 1 9 7 2 ) ア ドリ ア 海 セ イ シェ ル 、魚 ( 2 1 1 1 1 1 ) 吉林、魚 ( 1 9 7 8 ) 水 帥/ イ ンデ ィア ン、猫水保茄 1 1 9 7 1 ! カナ ダ アマ ゾ ン川 全 7 ' マルガン 、 約40年前 佐渡金山絵葉書 A D 1 9 2 5 ? 鉱金師の水銀森気吸引被害 A D 1 9 2 1 薩磨 に唐船、水銀 を輸入 AD1609 五島列島 にてお 合市の水銀 が盗難 AD1298 この頃に水銀輸出遠絶える AD 1803 大 葛金山記 A D 1 6 0 0 佐 渡金山 ア マルガム法採用 A D 1 5 0 0 頃 伊 勢 軽 粉製造釜元の こと AD1390 今 昔物語 伊 勢水銀 の記載有 り ADl106 東 大手要録完成 入宋僧乗船料 として水銀 を渡す AD1072 AD984 医 心方、水銀 の菓物 としての使用、18 19:服 石綿 AD800 即 身仏 と水銀 大学府 で水銀 の 商取引 AD879 渤海使 に返貫物 として水銀 を与 える AD777 続 日本配、水銀産地記投 AD698∼ 713 能―猿楽一体儒舞 AD788 延 暦僧録 i AD750∼ 770 古 代神 と身体障害、芸能の起源。怨登への恐れ、 第 1回 遣唐使 AD630 第 1回遣随使 AD600 「 抱朴子」と練丹術 AD3011? AD730∼ 760 大 仏開眼、金 アマルガム法 による水IR気化、奈良盆地 A D 7 1 5 朱の女神 「にふつひめ」の伝承 : 播管風上記 : 丹生一族 A D 5 0 0 頃 は そう 「 留器 須意器」福井 ・工島出上、古代の水I F t 蒸 AD552 百 済二 より金銅佛が献 じられる。金 メ ッキのわが国、初見 A D 0 8 2 前 漢昔、巻2 5 下: 「黄治」金アマルガムか ら水銀を作 る方法 B C 3 0 0 ∼A D 2 5 0 弥生時代、朱途 り上器、施朱、彩色古墳、ベ ンガラ朱 と丹生米 B C 1 0 0 0 頃 段 墟出土、工製矛に施朱 B C 1 0 0 0 ∼7 0 1 1 金 文、 「 朱」字形、水銀蒸留器の象形文字、西同時代 B C 1 3 0 0 頃 水 銀朱塗 り石樺、 「 朝日村、元屋敷遺跡出上、縄文後期末菜ヽ晩期初頭」 B C 2 1 0 0 頃 馬 工堆古墳出土の女性のミイラ、服石 ( 水銀) 者 H G 作業 第 一 日日、作業後 咽喉異常 を呈 し、声者 し 「 使 用水銀 ノ全量 ハ 1 6 0 匁ニ シテ 、 コ レニ 金 粉 4 6 匁ヲ加 フ、 ソノ割合 ハ 金 一 二対 シ水銀 四ナ リ。 コ レヲ容器 二 入 レテ加 熱 シ細 川紙 二 包 テ圧 縮 シ過剰 ノ ゃが れる。 第 二 日目、朝 、洗面 の 際 、 国内 よ り出血 し、食 水銀 フ解 除 ス 。 ∼銀台 工 梅酢 ヲ塗 テ脱錆 シ、範 ヲモ 欲 な し。 ツテ 「アマル ガムJ ヲ 塗 り、 炭火上 ニ ア タタメッッ、 第 三 日目、 め まい を感 じ、記憶力減退 し、顔色 悪 く、下顎 リンパ腺腫 れ上が り、日臭あ り。 刷 毛 フ以 テ摩擦 ス レバ 、水 銀 ハ 蒸発 シサ リテ 台 上 ニ 金 ノ ミ残留 ス。作業場 ハ 三 坪 ノ物置 ヲ改造 シタルモ ノニ シテ ー 面 二 入ロ ア リ、 中央 二 火 鉢 ラ据 キ、火 鉢 二対座 シテ作業 シ、助手 ハ或 ハ此室 二 入 リテ手伝 ヒ 、 第 四 日日、以降、身体次第 に疲労 が増 し、頭痛、 舷章 、悪寒有 り、歯 茎腫 れ上が り、夕方 、歯 或 ハ 室外 エ ア リテ他 ノ作業 二従事 セ リ」。 ー 第八 日目、「クロ ルJ酸 力り液 にて うがいする。 ー 夜 はウイスキ を飲 む。 第十 日目、下顎第三日歯脱落、血尿、下痢有 り。 茎 よ り多量 の 出皿 あ り。 一 カ月後、歯茎の炎症続 き、発赤 出血有 り、頭 J 重 を訴える。 半年後、頭重続 き 記 憶力減退、重聴 あ り、震 「わ きて ここの こが ね山は、 こ と山 とこ となるふ 頭 なし。 り多 し、 いつ らの 山にて も、 か なほ りの工 となる 身 は、姻 てふ病 して齢短 く、四十 と世 にふ る ものは ま れ な り、 くに の な らひ とて、四十二の と し厄 を挙 り l て祝 うは 、 とめるは、 とほ しきもな しへ なうすれば、 この零 ‖ 考 ) 製造 は 、水銀 を釜 に入れ て焼 くので ある か なほ りの 家 にて は、 男 三十二 と齢 のつ もれば、 よ が 、そ の 同業者組織 は 固 く、金元 の 権利 は厳重 に管 そちふたつの と し祝 いの こ ころ もて 、年賀 しける と 理 されて い た。 この権利 は文安 永 禄年間 ( A D 1 4 ね なん、 さ りけれ ば 、誰 も女 は 若 くして 男 にお くれ、 ∼ 1 5 6 9 ) に は8 3 釜で あ つた 。元和 年 間 ( A D 1 6 1 5 ∼ 身 の 老 いぬ る まで は 、七 た り、人 た りの夫 をもた る 1 6 2 3 ) に 1 6 金に減少 したが 、そ の 理 由 と して従事者 が 多 しと、声 のみて 語 りけ るに 、 なみ たお ちた り」 の体調不 良 に拠 る転地希望 な ど、製造 中に中毒発生 を思 わせ る 記 録 が あ る ( 野口 1 9 6 0 ) 。 また二 浦 K ( 1 9 7 8 ) は、 天 保年 間 か ら明治初年 まで の3 8 年間で1 6 ヽた くぶすま (自京) 株 の 金元 にた い して、4 0 ∼5 0 回の釜の権利 の 譲渡 が 新羅の囲を丹波 (赤■)で もって平伏 した もうであ らうと。そ して赤土 を出 し賜 った。 その上 を天の逆 行 われ、その理 由 は本 人の病気 が理 由 であ つた と記 「 播磨風土記J(AD715)は 載す る。 鉾 に塗 って神の船 の前後 に立て、御船 の裳 と兵士の 着衣 を染め、 またlI水を掻 き濁 してわた りなされた L とき、底 くぐる魚 も、高 く飛ぶ鳥 どもも行 き来せず、 "と 前をさえぎることもなかった 記す (吉野 21XXl)。 群馬県 浄法寺出ti株片 0026竹 」‖市イラントヤ古培 0いS町 松 日 (1970)は この記録 に言 及 して 「底 くぐる魚。 大分市 進命寺古墳朱片 323 高 く飛ぶ鳥 どもも行 き来せず との現象 は、それ こそ 香川県 前の原出土箱型石枯 01757 同土師器片 0032宅 朱砂 ない しアマルガム に熱 を加 えた場合の、水銀 ガ 奈良県 道明寺古墳内の朱 825% スの猛毒 についての知識が基礎 になっているに違い 天神山古墳の米 ない」 と、当時、すで に水銀 の毒性が周知 されてい 古 くは原鉱 の 同 同頭義骨r4・ 布米 356馬 同 切畑出土百精 同 同頭骸骨塗布朱 0〕Sヽ 516% 佐 賀市 四隈古墳 東大寺要録 延 暦僧録 理法 を経た一時期 の存 した ことは想像 に難 くない と 大仏殿碑文 聖 武帝伝 兎 も角水銀 を取 り扱 う者 は微量 の蒸気 をも吸入 しな "と い よう注意す ることが肝要 とされてい る 論 じ、 文楽 の 「白湯 くみ」 の役柄 は、舞台 で師匠が飲む白 0080o M 朱砂の類 を灼熱 し、その際発生する水銀蒸気 を冷却 して製 したのである力S∼、蒸気 を発生するごとき処 ころである。巷間、「 水銀で声 をつぶす」 とも云 うが、 O o3比 中校田「 386 の 丹生の研究J pIヽ35 384ヽ 記載から十 佐藤整理| たと推論 した。 これに関連 して、尾畑 (1968)は 同 神来出土翼棺 177ヽ 銅 401911斤 熟銅 739560斤 錬金 Iは 錫 1123両 しろめ ったため と付言 してい る (金沢康隆 「 俳優 の周辺」 水銀 58620両 より)。 木炭 16656角 大居士伝 4S0070'干 4187両 25134斤 湯 に水銀 を入れ られて声がつぶ された事件が再三あ 東 鷹僧録 391038斤 36両 減金 延 12618斤 | 2 24庁 N 仏像最下層 の蓮弁部分 一 の鋳造 に、 度 に約3∞貫 の 熟銅 が必 要 で あ つた。当 AD758に発令 された養老律令には 「 宮胸に近 くして、 臭悪 の もの を焼 き、お よび奨声 を通ずるを得 ざれ」 の 溶解炉 を鋳造位 置 の 周囲 時 の技術 では 150∼2Cltl基 とある。す なわち 「 泣 きなが ら悪臭 を出す ものを焼 に 同時 に設置 す る必 要 で あ つた。溶解炉 か ら昼夜 を 'と 推論 す る。 ま 問 わず製錬 ガスが 放 出 されて い た く」 とは死体の野続 きを法律で禁止 しているのであ た、 この大仏 に使 われ た鋳造鋼 の 成分分析 か ら、硬 る。時期がやや前後するが、「 続 日本記Jの 和銅四年 九月 (AD711)に は 「 諸国の役民、造都 に疲れ果て 素成分 の混入 を確認 した。 度調節 のため と思 われる破と 奔亡するもの多 し、禁ず とい えどや まず」、同 じく和 本体鋳造 はAD747年 に開始 されAD750年 に完工 した。 尚、 この 鋳造鋳型 の 製作 工 程 に つい ては香取秀真 銅五年 (AD712)'コ よ 「 諸 国の役民、郷 に帰 る 日、 (1915)の解説 もある (小林 1962)。 この 3年 間、奈 もの 、その類少なか らず」 と、労役 に従事 した もの 良盆地 は砒 素 ガス等 の 大気汚染 を受 けて い た。 金 ア 達の死 に至 る帰路 の悲惨 さを憂 い、認 を発 してい る マ ル ガム 塗布 と加 熱 は 、引 き続 い てAD752年 か ら (宇治谷1992)。 食根耐 え乏 しく、多 く道路 にSrtう 、溝略 に転填する AD756年 まで の約 5年 、本体鋳造期 間 の約 2倍 の年月 聖武帝在位前後の 奈良盆地 は、大仏造営 に伴 う人 を費 や して行 われ、奈 良盆地 は今度 、気化水銀 を中 口増加、お よび天候不順 による不作 の ため、物価の 心 とす る環境汚染 に見舞 われた。 上昇が激 しかった。大仏造営前の和銅四年 (AD711) の米 l升 03文 の相場 は、開眼供奏 の前年 (天平勝宝 三年 AD751)に は一 気 に17倍の 5文 、宝亀元年 (AD770)に は60文に高騰 した (坂本 1960)。 P 橘奈良麻 呂の乱 (AD757)は 、 この ような情勢抜 日本書紀 続 日本記 風上 記等から、障害の状態 と神樹 ヒについて引用する。 歩行障害者、いちさる動作 片 足 とび、一脚神 きには考 えられないことであ った。反乱 は失敗 した が 「 続 日本紀J宝 字元年七 月四 日の 「 東大寺道営の ため、人民苦辛 し、氏 々の人 々 も亦是憂 い となす 、 言語障害者、唖神 水 かね (水銀)の 神 天下憂苦 して、居宅定 まるな く、乗路哭叫 して、怨 視力障害者、片 目神 鍛 冶職の神 嘆実 に多 し」の 申 し開 きは、当時の情勢の緊迫感 を 皮膚障害者、火傷神 金 釣護神 日 下部の神 見事 に伝 えている。 この ような当時の状況は、万奏集 (AD760)か ら (目弱王) も読み取 ることがで きる。たとえば 重複障害者、独眼隻脚の神 歩 行障害 と言語障 害の重複→丹生神 柿本朝巨人呂、「 香具山の屍 を見てかな しびて作れる 小人 保 儒 矮 人、雷神 械 れを吸 い取 る異能 歌 (426)」 者 小 彦名命 (佐 藤整理記載) 草枕 旅 のや ど りに 誰 が嬬 か 国 忘 れたる 家 彼 らは一族 の係累者か ら守護神 として崇拝 を受け 持 たま くに (意訳 :ヽ きっと故郷の 人たちは、あな た。古代史料 の中 にこれ ら障害者の存在 を、朝廷 の たの帰 りを待 つてい るのに、 ここでその まま草札 を まつ りごとと併記 して残 した。数少 ない記載 の中に 続けるのですか) 採用 され篤 く取 り扱 われたことは注 目される。 また 「 を意訳 し 乞食者 (ほかひひと)の 歌 (3886)」 てみると (難波 の江 に庵 を作 つて,9遁してい るこの 蟹 の私に、市 か ら呼び出 しがあ った。何 か芸で も所 望か と飛鳥の宮 に駆けつけたが、粗末な扱 いを受け、 挙句 の果 て上 を塗 られて食べ られて しまった) 河本 (1949)は、「これ らか らして も、天平時代 の 自然的環境 社 会的環境 が不安身 に迫 るものであ つ たことを知 り得 る。か くの ごとき環境 に於 いて、知 性 はい まだ これ に対応すべ き科学的技術 をもたず、 その体拠す るところは窮枢 において仏教 のほかはな 一 か ったのである。 切 の 自然的 社 会的不安 を、天 ヽ 皇 ご一 身の不徳 の致す ところとして詔 を発 し、 盛 んなる写糧 と造寺 造 悌 な どにおいて環境 (状況) を打破 され ようとした。当時 の仏教 は精神的救済の 哲学であるばか りでな く、社 会 と自然 に向かつて対 決す る拠 り所であつたJと 記す。
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