ポ プ ラ

№4
久喜中学校
学校便り
7月号
ポ
学校教育目標
平成25年7月1日
プ
「志に生きる」
生徒数658名
ラ
やる気
おもいやり
たくましさ
教職員数45名
「自由」について考える
校長
関
泰彦
早いもので7月になりました。1年生も入学した当時から比べると、制服も体になじみ、
中学生らしくなりました。部活動にも打ち込み、その姿から清々しいものを感じます。2
年生は、職場体験を立派にこなし、社会へ、職業へと視野を広げると同時に、働くことの
意義や責任を身をもって体験し、一回り大きくなった気がします。3年生は、体育祭では
学校の中心として活躍し、当日は見に来ていただいた方々を圧倒する迫力でやり終えまし
た。修学旅行では、久喜中学校の最上級生にふさわしい立派な行動でやり遂げました。
各学年の生徒は、このままの調子で夏休みを意義あるものにするために準備を進めてほ
しいと思います。
1 現代における「自由」をめぐる状況について
今日、「自由」という言葉は、もはや人々の心を揺さぶるよ
うな響きをもっていないのではないでしょうか。自由に飽き
ているようにさえ見えます。自分が若い頃、誰もが「自由の
実現」こそが現代の課題であると言っていましたが、今とな
っては、何が課題となっているのか、本当のところは、ほと
んどの人は考えようとはしていないのではないのかと。いや、
その問いの価値さえも失われてしまったのではないのかとさ
え感じます。
私たちが若い頃、自分たちにとって「自由」とは「常に脅
かされ、縛られていると感じるという考え方」という反発と
して表されました。その考え方こそが「若者の特権」であったのかもしれません。今、
「特権」と言ったのは、若者ほど社会的に恵まれた立場にあり、本当は彼らほど自由な存
在はないと思います。それは、悪いことではありません。特に、学生であることは人生最
良のモラトリアムです。昔から、若者ほど自由を徹底的に謳歌した者はいませんでした。
観念的であれ、自由はいつも侵害されているという憤りをもっていたものです。社会的な
しがらみや生計の不安がないからこそ、自由や社会正義のために現状を批判するのが若者
の特権であったのです。若者にとって、われわれが生きているこの社会は、人間の自由を
抑圧する不合理なものでなければならなかったのです。しかし、このことは、その頃の自
由についての「熱病」のために、気づかないだけであったのです。
もし、「自由」が、本来、人間にとって一番大切な課題であるとするなら、私たちは、
この課題についてもはや強い関心をもてなくなっているのではないでしょうか。今日の思
想の衰退、社会に対する切迫した関心の衰退、もっというなら全般的な「生の衰弱」とい
った事態は、このことに決して無関係ではないはずであると思います。
私たちは、もはや、幸せな時代に生きているのか、あるいは、幸せの状態にいないのか。
むしろ、はるかに幸せの時代に生きていると言うべきかもしれません。現代の日本では、
「自由」への要求が、さほど切実なものではなくなった時代になったからです。しかし、
だからこそ、「自由」をあらためて定義し、どのように理解すればよいのか、再び考えな
ければなりません。一般レベルでの「自由」に対する関心の低下と専門家による「自由」
に対する関心の高揚は、ある意味では同じことの二様の側面といってもよいでしょう。
それは、現代の「自由」の位置を象徴しています。本当に「自由」を必要としていると
き、人は「自由」とは何か、「自由」の正当性の根拠は何かなどという議論はしない。し
かし、そこに横たわる「自由」の決定的な特質があります。それは、本当の意味で、私た
ちは「自由」について決して語ることなどできないのではないかということである。「自
由」についての観念には、ある種のパラドックスがつきま
とうのです。そのパラドックスとは、「自由」についての
議論の中にある。「自由」を正面から論じれば論じるほど、
「自由」そのものから遠ざかってしまいます。真に「自
由」を求める者は、それを「自由」の名で呼びはしないと
いうことです。
近代社会は、すべての人の生命、財産、自由を確保する運動から始まりましたった。生
命が危険にさらされるとき、誰も生命とは何かなどという議論はしません。そして、また
生命の安全がひとたび確保されてしまえば、生命とは何かなどという問いかけもしないで
しょう。
しかし、「自由」の場合だけは違う。「自由」が確保
されたにもかかわらず、専門家たちは、あらためて
「自由」の定義づけや意味づけに関して頭を悩ませて
いるのです。
「人間はその本質を『自由』によって特徴づけるこ
とができるのか。」この問いに関する答えを探らなけ
ればならなりません。この考え方は、果たして現代に
通用するものなのか。この考え方が私たちをどの時点まで連れていこうとしているのか。
私たちは、今日、社会的な意味を帯びた何かをなそうとするとき、ほとんどそれを「自
由」に結びつけて論じます。しかし、その中で「自由」の意味は混乱し衰弱しています。
このような「自由」をめぐる状況が横たわっている認識を出発点にしなければなりません。
2 学校で培う「自由」とは何か
私たち教員は、改めて「自由」について考え、「自由」の中に責任を見いだし、そして
「自由」の中に正義を見いださなければなりません。「自由」を強い人間の「生き方」と
して生徒を育てなければなりません。今こそ、真の意味での人間が生きていくための主体
性と責任について再考しなければならない時期であると考えます。
「人間は考える葦である」。これは、パスカルの
有名な言葉です。「考える」ことこそ、人間をほん
とうの人間たらしめるものであることは誰も反証
しないでしょう。しかし、「考える」ことは、時に
は辛い作業でありますし、時には重くのしかかる
ものです。早く結果がほしいからです。誰か考え
て答えをください。現代の社会に生きる私たちに
とって、考えることがそれほど意味のあることな
なっているのでしょうか。しかし、なぜ、ここま
で生きることに受け身になってしまったのでしょうか。社会全体がただ直接実際に役立つ
もののみを求め、どう生きるかという根本的な事柄について、それが役に立たないという
理由だけで無視しているところにも原因があるのかもしれません。
人間は、社会の中で生きています。人との関わりの中で生きているとすれば、社会の変
化も原因になるとは思いますが、一人の人間の在り方としてはどうなのだろうか。
このように答えを隠蔽する社会の中で、社会のせいにして、「考えない」自分を正当化
できるのでしょうか。社会がどのように変化しようが、その中で生きていくには「考え
る」ことの必要感をより強く持たなければなりません。そして、その「考える」を「関わ
り」の中で発展させていくことこそ今求められている人間の生き方なのではないのかと、
最近つくづくそう思うのです。
教育基本法では、学校教育の目的を「人格の完成」と「国家・社会の形成者の育成」と
しています。この「人格の完成」の「人格」の「格」は位を表す言葉です。ただの人間で
はないのです。人格とは、「人の品格」を意味する言葉です。人格の完成の意味するとこ
ろは、人と人との間で気品のある人間として成長することを願っているということです。
変化の激しい社会を生きていくと、特に「自由」ということ考えることから逃れること
はできないでしょう。しかし、生徒一人一人は、その「自由」ということを気概をもって
生きる糧にしていってほしいと考えています。
「自由」とは、人と人との間で考えなければならないこと(関係性)であり、一人の人
間として生き方としての「責任」である(責任性)と考えます。
学校では、人と人の間で、規則の中で、「自由」とは何かを活動することを通して教え
ていきます。全生徒が「自由」という言葉を、学校生活が集団生活でありますから、その
中で自分の「自由」ということを「権利」として、その権利に伴う「責任」として考えさ
せていき、主体的に気概をもって「自由」を謳歌し、学校生活をよりよくしてほしいです。