人間環境学会『紀要』第2 2号 Sept. 2014 <論文> 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 小 原 豊*1 The Nature and Meaning of Didactical Transposition to School Mathematics Yutaka OHARA*1 This article discusses the nature and meaning of didactical transposition (transposition didactique) in the context of school mathematics. It focuses on the conversion that occurs when didactical transposition is adapted from its scientific and academic character to teaching materials for use in the classroom. To this end, we first review the theory of didactic transposition by Chevallard (1985) and Arsac et al.(1994) with reference to irrational numbers and clarify the four phenomena arising from transposition. We next review the fundamental significance and objections to didactical transposition from the points of reduction and the top down approach. Finally, we discuss subsequent developments of this theory, particularly as they have occurred in Japan. A continuous examination would strengthen the raison d’etre of shool mathematics. *1 Kanto Gakuin University; 1―50―1, Mutsuurahigashi, Kanazawa-Ku, Yokohama 236―8503, Japan. key words:学校数学(school mathematics) 、教授学的変換(transposition didactique) 、 学究の知(savoir savant) 、教育の知(savoir enseigne) 、社会体制(institution) 1. 緒 言 学校教育の本義を文化の伝承と発展とみるとき、学校で教えるべき陶冶財として教科に規定され た数学内容の総体、即ち学校数学は本質的に有為転変を免れない1)。数学は常に発展し続ける文化 であり、人間形成に資するという前提を踏まえるなら、一定期間内に指導可能とする為の学校数学 の内容刷新、精選、縮約は時代と共に必然となり、教育課程基準の改定の一因となる。少なくとも 初等中等教育においては、数学上の領域である幾何学や代数学、解析学などの分野が教育課程や教 *1 関東学院大学人間環境学部人間発達学科;〒2 3 6―8 50 3 横浜市金沢区六浦東1―5 0―1 ― 1 ― 科書での領域になるとは限らず、実際、学校数学は、数学史上での発生における姿や公理的に整理 された姿とは異なった姿で現出している2)。子どもの内面から湧き出る数理認識を社会適応に向け て構成することを是とする立場でも、数学と学校数学の関係性を反省的に捉えることは必要であ り、教師にとって単なる教養の域に留まらず、日々の教室での算数数学指導に活かす為の糧となる (齋藤、小原2 0 1 3)。本稿では、フランスの数学教授学の泰斗であり、数学教育国際委員会(ICMI) が卓越した数学教育研究を表彰する Freudenthal 賞を受賞したイヴ・シュバラール(Yves Cheval- lard)によって提起された教授学的変換(transposition didactique)に着目し3)、その思想への諸批 判を踏まえつつ、我が国の数学教育学に資する上での方向性について若干の提言を行う。 2. 教授学的変換とは何か 4) シュバラールに拠れば、専門科学の社会集団(institution) で利用していた知識を、学校社会の 体制で伝承しやすい内容形式へと変える働きであり、学究的な対象から指導の対象を選定し組織す る一連の操作を指す(Chevallard, 1985) 。その広義での過程は、以下の図式で整理される5)。 → 学究の対象 → 教育すべき対象 → 教育する対象 (objet de savoir) (objet à enseigner) (objet d’enseignement) 図1 教授学的変換の過程(Chevallard, 1985) 「学究の対象」とは、教科の母体となる学問領域において整理された知識である。数学の場合、 その知識の大半は、数学者たちの審美観や創作意欲など、個人的な文脈において生産される。多く の場合、実際は社会的な交渉を通して知識が顕在化するが、あくまで個人化、文脈化された状態の 数学的知識(savoir)が起点となる。そして、この知識をより多くの他者(数学者)と共有し、体 系化しようとする場合、その形式化や公理的構成を通して数学者の社会集団(数学会)での承認を 得ることが必要となる。その過程で、数学者たちは自らの活動を促した個人的動機や、成功を導く までの情動、過去の失敗歴などを上手く隠してしまう。即ち、脱個人化(dépersonnalisation) 、脱 文脈化(décontextualisation)した数学的知識(connaissance)を共有する。ここまでは数学者の 作業である。 「教育すべき対象」とは、望ましい教育を実現する上で組織された教育内容であり、狭義での教 授学的変換の成果そのものである。中央教育行政に関わる専門委員ら社会集団が、数学者が生産し た数学的知識を学校教育の目的を達成する為に、陶冶性の認識を背景にしつつ教材体系として整理 する。その上で、数学教育の有識者らの社会集団が、数学教科書など首尾一貫として社会的承認を 得られる具体資料へと再文脈化していく。これらの有識者の社会集団は単に一緒に活動する集まり ― 2 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか ではなく「思考の圏域(noosphére) 」と呼ばれる1つのまとまりとしての意志と知性をもつ6)。 「教育する対象」とは、教科書や資料集などを生徒達が自らの経験や既習事項を基に意味づけら れるように再文脈化、再個人化が図られた知識であり、数学教員らの実践者らによって変換される。 このように、教授学的変換とは、学究知の対象(objet de savoir savant)から教育知の対象 (objet du savoir enseigne)へと段階的に進む過程について、知識に自らの個性を関与させて人間的な 属性を認める「個人化」とその逆操作の「脱個人化」 、知識が存在する必然性や意味を与える「文 脈化」とその逆操作の「脱文脈化」という諸操作の往復を通した制度的編成だと特徴づけられる (Arsac, Chevallard, Martinand, & Tiberghien, 1994) 。その概要は図2のように整理できる。 図2 教授学的変換のプロセスと社会体制(小原2 0 0 2,2 0 0 3一部改) また、ボッシュとガスコン(Bosch & Gascón)は教授学的変換の過程に対する研究者らの向き合 い方を図3のような基本的理論モデルとして記述している。 図3 研究者の外在的な立ち位置(Bosch, M. & Gascón, J. 2006) ここで1つの例として無理数の教授学的変換過程を考えてみる(小原2 0 0 1a,2 0 0 2) 。歴史的に は、無理数の存在は初期のピタゴラス学派のエウドクソス(Eudoxus)らによる比で表すことが不 能な線分の存在問題の文脈などで認識され、これが、幾何学的直観を借りて量の問題として再文脈 化される。これが初期の「学究の対象」として顕在化される数学の生産である。そして長い年月を 経て、解析学上の要請から実数を厳密に構成するために、デデキントによる切断や、カントールの ― 3 ― Cauchy 列など、幾何学的直観の助けを借りない論理的に精緻な方法を採ることによって、再び脱 個人化、再文脈化が図られる。これが後期の「学究の対象」としての数学の生産である。デデキン トやカントールらを実数の公理的構成へと促した個人的な心緒や感情は、自叙伝で述懐されること はあっても、構成した数学自体においては整理された形式の背後に隠れてしまう。そして、中央教 育行政に関わる有識者らは、累乗の逆演算について閉じた数系への拡張、代数方程式の解の添加 (存在性の検討) 、位相的に稠密な集合の完備化など、数学的な見方や考え方を学ぶのに相応しい 教材であると判断した上で、この無理数を教材として採択し、特に平方根数の形で無理数を導入 し、ピタゴラスの定理や2次方程式の指導を扱う前後の体系に位置づけることによって、再文脈化 を図る。これが「教育すべき対象」としての学校数学への教義の変換である。更に、日々の授業を 担う数学教員らが、正方形の対角線の長さを求める必要が生じる状況などを教室に設定すること で、模擬的な文脈化を図っていく。これが「教育する対象」としての学校数学の教育である。 フランスの数学教授学の思想とその諸理論を整理して考察した宮川(2 0 1 1)は、キルパトリック (Kilpatrick, 2003)らの言説に触れつつ、教授学的変換理論も含めた同国の思想が有識者に高く評 価されつつもフランス語圏以外に必ずしも充分に広まらない理由として、言語上の問題と併せて理 論性について指摘している7)。この宮川氏が指摘した言語上の問題と「理論性」については素直に 首肯できる。付言すれば、シュバラールらの著作の難解さは、単純な意味での語学の問題に留まら ず、その格調高く思索的なエクリチュールに直接的な原因がある。その専門語用(terminologie) は厳しく整えられており、教養ある社会集団に準拠した者のみが正しく理解できるよう打ち出され る識見は、学問としての結集を目指す高邁な覚悟と高踏な印象を与え、フランス語圏以外の研究 者、実践者に語学上の素養と思想上の教養の双方を容赦なく求めてくる。 「理論性」を生み出す思 想の体系性、包括性についても同様である。教授学的変換理論の解釈にはフランス社会学の祖であ るコント(Comte Auguste)の継承者であるデュルケム(Durkheim Émile)による「集合表象(représentation collective) 」 、ブルデュー(Bourdieu Pierre)やエルマン(Herman Jacques)らによる 「実践(praxis) 」からの系譜としての予備知識がないとその理解が困難で一面的になる。また、 数学教授学の領域内に限定しても、例えばブロッソー(Brousseau Guy)の「教授学的状況論(théorie des situations didactiques) 」や、バシュラール(Bachelard Gaston)の思想を敷衍したシェルピ ンスカ(Sierpinska Anna)による「認識論的障害(obstacle épistémologique) 」 、ピアジェ(Piaget Jean)の薫陶を受けたベルニョ(Gérard Vergnaud)による「概念領域論(théorie des champs conceptuels) 」などが包括的な識見を体制化しており、実際の教育事象を整合的に理解する上では他 の局所理論からの展望も視野に入り8)、援用する際の敷居が更に高まってしまう。この点を踏まえ て、次節では教授学的に変換した学校数学の知識を、教室現場での数学指導に持ち込む上で生じる 現象を示す。 ― 4 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 3. 教授学的変換が引き起こす4つの現象 前節では、専門家の社会集団で利用される知識を教育内容に選定し、指導するまでの一連の作 業、教授学的変換の概要を示した。学校数学の在り方を巨視的に捉える思想性は圧巻であり、数学 教授学上のエポックメイキングな発想として光彩を放っている。この教授学的変換を実際に進める 過程では上述の個人化と脱個人化、文脈化と脱文脈化の過不足によって幾つかの避けがたい教授学 上の現象、学習指導上の問題が引き起こることが指摘されている(Kan & Kilpatrick, 1992, Brosseau, 1997、小原2 0 0 1b) 。これは先に触れた教授学的状況論に基づく教室展開に深く関わっている。本 節では、教授学的変換の一連の過程で生じ得る4つの教授学的現象について無理数を事例に提示す る。 第一の現象が、メタ認知的な変更(glissement métacognitif)である9)。これは、教師が学習指導 における論点を移す際に生じる現象で、生徒による個人化や文脈化が過剰な際に起こる。例えば、 折り紙などの面積モデルを用いて「面積が元の正方形の半分である正方形を作ろう」という文脈で 平方数を導入する場合、最初に話題とした幾何学的操作から、生徒の関心を代数的な話題へと切り 替えねばならない。このような論点変更、日常的な問題解決から数学的な手法自体への話題変え は、算数や数学教科書の各単元での導入場面で普通にみられる現象といえる。 第二の現象が、形式の遵守(formal abidance)である。これは、生徒による個人化や文脈化が不 十分な際に生じる現象であり、教師が比喩的な説明を極力控えて、数学的に厳密な教示にこだわっ た際に起こる。例えば、実数の連続性については中等教育では直観に頼るしかないが、生徒が無理 数を数直線上にプロットする際に、 「数直線上の点に、無限小数で表示した数が1対1で対応す る。また、小数の末尾に9が続く場合、9の列の直前の位の数に1を加え、後を0の列にして有限 小数と同一視する」という形式を明示したとする。しかし、いかに数学的に適切な対応でも、その 指導時期をよく考えなければ、生徒が数学を帰納的に作りあげる態度を委縮させる恐れがある。 第三の現象が、トパーズ効果(Effect Topaze)である。これは、生徒による脱個人化や脱文脈化 が過剰な際に生じる現象であり、教師が生徒の振る舞いをより適切なものに導こうと苦心する際 に、元々狙っていた内容が消失して本末転倒になる事態を意味する。トパーズとはパニョル(Marcel Pagnol)の小説の題名であり、その冒頭で、教師であるトパーズが1 2歳の生徒に名詞の複数形 を指導する場面で“その公園の中では羊は安全である(des moutons étaient en sûreté dans un parc) ” という短文を書かせ、“des moutons” “des moutonss” “des moutonsss” 、更には発音すべきで ! ! ない s を発音してまで「複数形で s をつけること」を強調する場面があり、この無意味さへの風刺 1 4 2…、 3が1. 7 3 2…と小数表記が無限に続 に因んで現象名が付けられている。例えば、 2が1. ― 5 ― くことを理由にそれらの計算が出来ないと悩む生徒に対して、対角線の長さに置き換える操作を通 して有限確定値であることを示唆せずに、 「この小数は最後にピタっと止まる」など過誤かつ不実 な表現で指導してしまう場合、トパーズ効果が認められる。 第四の現象が、ジュルダン効果(Effect Jourdain)である。これは、生徒による脱個人化や脱文 脈化が不十分な際に生じる現象であり、教師が生徒の振る舞いを数学的に高尚なものとして過大評 価してしまう事態を意味する。ジュルダンとは、モリエール(Moliere)の喜劇である「町人貴族 (Le bourgeois gentilhomme) 」の登場人物であり、成り上がりの商人である。同劇中で、ジュルダ ンが、知者に散文と韻文の違いを説明してもらった際、 「僕は4 0年間も散文を話していたのに、自 分では何も知りませんでした。気付かせてくれて本当に感謝します」と感動して観客の笑いを誘う 場面があり、その風刺に因んで現象名が付けられている。例えば、生徒がグラフ上や数直線上に何 気なく白丸を描いただけで、 「彼はデデキントの切断を自分で発見した」と見当違いの解釈をする 場合、ジュルダン効果が認められる。以上の4つの現象は、 「学究の対象」である数学的知識を教 授学的に変換する過程で行われる個人化と文脈化、脱個人化と脱文脈化の過不足によって生じうる 事態であり、学校数学の知識の脆さ(Kang & Kilpatrick, 1992)をコントロールする必要性が示唆 されている。 4. 教授学的変換の貢献性とその批判的見解 シュバラールの教授学的変換理論は、社会学から着想を得た大局的見地からの数学の知の在り方 を示している(Arsac et al., 1991, Kilpatrick, 2003、小原2 0 0 3、宮川2 0 1 1) 。無論、専門科学から学 校教科の内容を選択し構成する操作を特徴づける試み自体はフランス数学教授学特有の発想ではな い。例えば、ドイツ教授学における教授的単純化(didaktische Vereinfachung)や教授的還元(didaktische reduktion)には精緻な教材化の着想が示されている(三村1 9 8 6、長谷川1 9 9 5) 、また、 視野を広げて近接する他分野を省みれば、カリキュラムポリティクスでの議論にも酷似している。 それらの教育課程学での議論と教授学的変換理論が一線を画す点について、ボッシュとガスコンら が数学教育国際委員会(ICMI)の紀要で以下の3点に集約している(Bosch, M. & Gascón, J., 2006) 。 第一の貢献は、知識を分析する実証的な単位を拡大したことである。これは、数学的知識はそれ が生成された社会体制に起源を見出されるべきであり、それを学校数学へと再構成する際は、関連 する様々な現象を考慮しない限り正しく解釈は出来ない点を指している。 第二の貢献は、数学的活動や教授活動の記述枠組みを与えたことである。これは、教授学的変換 理論がその展開上でより詳細なツールを求めて、教授行為の人類学的な理論(anthropological theory)や数学の人間行為学(mathematical praxeology)へと発展したことに関連する。 ― 6 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 第三の貢献は、決断の様々なレベルでの制約を示したことである。これは、生徒や教員が数学を 学ぶ際に生じる様々な条件が、教室内での狭い範囲だけではなくそれを包含する複層的な社会体制 や文明文化から引き起こされる点を指している。 これら三点の総括に異存はないが、教授学的変換理論のより始原的なインパクトは、客観視や絶 対視されがちな論理数学的知識を「教育する対象」に捉え直す過程を個人化と文脈化、脱個人化と 脱文脈化という基本的枠組みで分節化したこと、そして、純粋数学の平易化が即教材化ではなく、 取り扱う社会体制(institution)の変位こそが鍵だと看破したことに尽きている。我々が数学を教 育財として社会文化的に伝承、発展させるプロセスを論じていく上で有益な知見がそこに得られて いる。 しかし同時に、シュバラールによる教授学的理論は大きく2つの視座から批判を被っている。 第一に批判されているのは、数学史の背後にある文化的複雑さの捨象である。例えばフロイデン タールは、ペアノによる自然数の公理化等を事例に、数学史上の事実からの乖離を指摘した上で、 市民(citoyens)の大多数が学ぶ日常的な数学の度外視を論難している(Freudenthal, 1986、小原 2 0 0 2、岩崎2 0 0 7)。確かに、前述の図1のような過程はあくまで基本提案の図式、大きな仕組み(宮 川2 0 1 2a)であり、モデルはその抽象度故にモデルたり得るとは言え、人類数千年の歴史や複層的 な組織の営為を簡略化して表す記述は、数学史家からの蔑視、社会学や人類学上での雑駁さの誤解 を受けかねない。しかし、この教授学的変換過程の概括は、シュバラールやブロッソーのような泰 斗が思想上の嚆矢を放つ際、そしてその枠組みの意義が分かる識者、我が国でいえば宮川(2003, 2011)や平林(2009)のような先覚者がそれらを周知する際の方途であることは明白であり、そ の援用を行う後続者らが具体教材に基づく局所的な検討をもって精緻化と部分修正を行うのが妥当 である。そこでは「学究の対象」である数学的知識だけではなく、市井の数学をも「教育すべき対 象」へと再構成するプロセスへの補正を進めて然るべきと言える。これと同様なことは、数学教育 史の立場からもいえる。そもそも学校数学を規定する要因は多岐に渉っている。例えば、その目的 目標を定めていく法体系一つとっても、日本国憲法−教育基本法−学校教育法−学校教育法施行規 則と思想が教育行政に敷衍している。また一般通則として、我が国では学習指導要領を作成する中 央教育行政レベルでの社会体制は図4の展開、専門家集団レベルで教科書を編成する体制は図5の 展開をみせている。 このように簡略化して表現された体制の実相は、社会文化的に相当な複雑さをもつことが分か る。これに加えて、各学校において地域や学校の実態を考慮して数学科の教育課程を編成する実相 をも含めて考えると、更に短絡的な言及が出来なくなる。即ち、数学史だけでなく数学教育史上で の文化的複雑さの捨象も慎まねばならない。大所高所から知識社会学上の巨視的アプローチを続け ることは思索に埋没して自覚なく想念に興ずる危険性を有しており、またその蓋然的な分析自体 ― 7 ― 図4 学習指導要領の改訂過程(小原2 0 0 5) も、ブリュデューやエルマンらの思想を数学分野に敷衍させたエピゴーネンとして謗られかねな い10)。この点について、シュバラール自身は人類学や人間行為学に基づいた分析モデルを道具立て て発展的にアプローチしつつも、そこでは各々の体制における関係者の実践的な技法の詳細な検証 を企図しており、益の乏しい思弁的な総論を超えて数学教育改善への着実な円環へとつなげる上 で、資料に基づく微視的な分析こそが必要とされている。 第二に批判されているのは、純粋数学を親学問と位置付けてその内容を「下げ渡す」姿勢であ る。これは第一の視座より遙かに深刻で根本的な批判である。確かに、数学の論理が子どもの社会 生活に対して優位にあるとする構造主義的な仮定があるなら、それは学校の社会文化的な機能を軽 視し、数学に対する数学教育の主体性を省みても配慮に欠くものであり、数学教育に「学」として の性格を求めて学校数学の定立を進めてきた先人の努力を無為にする。学校数学の教科書や教育課 程では、数学を安易に優先して子どもを軽視するが如き軽挙は、数学教育現代化以来、決して望ま れてはいない。しかし、筆者はこの第二の批判には、些か不幸な誤解があると考える。教授学的変 換の着想は、むしろ数学至上姿勢への反定立とみるべきである。シュバラールの論説には、学校数 学は数学の下位互換の産物ではなく、機能的互換の成果であることが含意されている。強く留意す べきは、数学者が数学自体の一次生産者であるように、教育課程基準の開発者、数学教科書の著 者、数学指導の実践者は、決して数学者によって生産された知識の二次利用者ないし消費者として 位置付けられていない点である。むしろ逆に、それぞれの社会体制(institution)において、目的 が異なった独自の価値体系をもつ総体、即ち学校数学の一次生産者であることが示唆されている。 これによって学校数学を数学に単純に従属させる権威主義や偏知主義から一線を画すことができ、 学校数学の側から純粋数学への問い返しやその発展につながる文化的な円環に連接している。 ― 8 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 図5 算数数学教科書改訂の過程(小原2 0 0 5) 5. 我が国における今後の教授学的変換研究の展望 数学史上で、アーベルの超越関数の性質に関する論文が後世の数学者に5 0 0年分の仕事を残した と評される挿話は有名だが、シュバラールによる教授学的変換に関する論考も、後続の数学教育者 ― 9 ― に膨大な仕事を残している。1 9 9 0年代以降の実際の研究展開については、ルシェルシェ(Recherches en Didactique des Mathematiques)などの国際誌の動向や国際数学教育研究ハンドブック(i.e. Clements et al., 2013)の記述を手掛かりにレビュー出来るが、本節では、特に教授学的変換研究が 我が国の学校数学の展開について資する点が多い事柄について3つの視座から主意的に言及する。 節々でやや具体化を控えた記述があるのは、筆者が既に長期的に取り組んでおり別途公開を意図す る作業課題を一部含むが故である。 (1) 教育数学(Educational Mathematics)を確立する一助として 数理解析の最高峰の1つである京都大学数理解析研究所において2 0 1 1年、 「教育数学の構築」を 目指してという興味深い研究集会が開かれた。その趣旨は、高等教育における専門科目や基礎科目 での数学の有り様を議論するものであり、この教育数学とは、教育的観点から臨むことで生み出さ れる数学に関する諸々の知見の総称とされている(蟹江2 0 0 9,2 0 1 1) 。第一線の数学者による数学 の新分野生成に関わる思いは興味深く、そこに高等教育、特に教員養成課程での数学の再構成への 意志が認められる点が意義深い。教育学部で教授すべき数学は、理学部で教授すべき数学の簡易版 ではない独自性が求められるのは道理である。これは領域選択に限らず、現実的で責任あるシラバ ス構成にも関わっている。数学上は意義があっても、学校数学では実りが少なく教育的価値が乏し い知識がある。また反対に、学校数学では意義があっても、いわゆる純粋数学上は殆ど意味を為さ ない知識もある。このような峻別の上で、数学科教員志望学生がもつべき教科内容知識(Subject Matter Knowledge)を具体的に導き出す枠組みとして教授学的変換の着想は極めて有用となる。 (2) 学習指導要領、教師用指導書、教科書の分析枠として この2点目については、教授学的変換理論を含めて展開される人間行為学のモデルでの教科書分 析を試みる実践例として、三角比と三角関数(角田2 0 1 1) 、平面幾何の証明(宮川2 0 1 2) 、平面図形 の作図(塩崎2 0 1 2,2 0 1 3)など既に見受けられる。人はその自分が属する社会文化的な体制下で習 慣化したやり方(habitus)で自らの社会的な位置に相応しい慣習行為(pratique)をとる。所産と しての数学教科書記述のみならず、その執筆者の社会集団での認識とのダイナミックな相互作用を 生態学的に解き明かすには至らずとも、学習指導要領や数学教科書への諸記載がいかに制約されて いるのかを探究する試み自体が学術的に極めて高く評価できる。付言すれば、 “自明視されてきた 教育内容を根源的に問い直してその妥当性を相対化し、そこにある制約を明らかにする”試みは、 デュルケム(Durkheim)による中等教育の起源と変遷の社会的編成にみられる権力基盤の分析を 起源とした教育社会学においては凡そ1 9世紀以来の平常なアプローチであるにも関わらず、我が国 の数学教育分野では殆ど手付かずという厳しい現状にある11)。また本稿の序文で述べたように、数 ― 10 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 学自体の文化的な進展を可能な限り教科内容に取り込んで学校数学を刷新する試みとその評価は疎 かにすべきではなく、人間行為学というよりむしろ歴史学的アプローチに類しようが、数学教育現 代化時の資料分析をこそ進める必要がある12)。未だ充分な時の試練を経ていない数学教育現代化に 対する歴史的評価は分かれるところだが、少なくとも指導内容としての数学教材を刷新しようとし た進取の気概に見習う点も多い。 (3) 真正(authentic)な数学教材を新たに開発する手掛かりとして この3点目こそが、最も直接的に教授学的変換の恩恵を受ける展開といえる13)。これについて は、例えば「代数・幾何・微積分の動的理解を促す「使える数学」教材サイトの開発」 (平成1 7∼ 1 8年度科学研究費補助金、特定領域研究1 7 0 1 1 0 1 4、研究代表:礒田正美、研究分担者:小原豊、宮 川健)が挙げられる。この研究では数学史の一次資料に基づいて代数・幾何・微積分の発展的学習 を促す教材と指導事例が開発されている。それらは数学史上の営みから外れない真正の教材開発を 企図しており、教授学的変換の枠組みは、新たな学校数学の真正な構成について洞察力をもつ数学 者や数学教育者の個人的提案に思想上の主柱とツールを与えてくれる。勿論、優れた分析枠組みは 優れた教材開発の必要条件に過ぎないが、他にもグラフ理論やフラクタル理論の教材化など、今ま で多才な数学者や先覚的な数学教育者が提起した、言わば「もう1つの数学(Bloor, 1976、小原 2 0 0 6) 」が学校数学に浸透せずに淘汰されてきた原因を、 「教育すべき対象(objet à enseigner) 」へ の変換における問題事例として分析することができ、同時に、現行の学校数学を唯一無二の内容と 捉えるバイアスに対して反省の機会が得られる。具体的な学校数学の内容選択、教材組織、課程編 成のフレームとしてその成立過程を分節化して反省できることが教授学的変換の本義である。また 平林(2 0 0 7)が指摘したように、近年の数学教育研究が指導方法の範囲に偏ってしまい、学習指導 要領外の指導内容提案が極めて乏しい現状を踏まえても、この第3の展開は必須だと思われる。 6. 結 語 数学教育を「技法(arts) 」ではなく「学(science) 」として成立させるための理論は、決して数 学や教育学、社会学へのルサンチマンから発想されるのではなく、教室で日々数学指導に取り組ん でいる先生方の工夫や努力を無に帰さぬような累積性や生産性を高めようという真摯な思いから生 み出されている。いかに素晴らしい理論でも、思想的な気宇壮大さや流麗な専門用語に酔ってしま うと、具体的な数学教材、教室での実践事例で例示する際には、竜頭蛇尾、羊頭狗肉の印象を拭え ぬ空疎な研究だと誤解されてしまう。本稿で示した教授学的変換は、学校数学の編成原理について の根本的反省に関わる数学教授学上の最優先課題の1つであり、 いかなる空論も決して許されない。 ― 11 ― 主唱者たるシュバラール自身は同理論を、より包括的な人間学や人間行為学の知見を取り入れて展 開させることで更なる領域に歩を進めており、それらのより先端的な知見を取り入れての論考は、 然るべき会誌において稿を改めて行う。 注 記 1) 本題目は Richard Dedekind の “was sind und was sollen die zahlen” のオマージュであり、連続性から数の本質を 求めた気概に肖った諷刺とした。 2) 無論「学校数学自体が存在するのか」という異見がありうる。これは「数学」の規定、即ち、出来上がった静 的な記号体系とみるか、創り上げる過程での営為を含めて捉えるかに拠る。 前者に拠れば、いつでもどこでも数学は数学という客体的、外在的な見解となって学校数学とう語自体が無意 味となる。しかし後者に拠って立つ本稿では、扱う文脈が異なり、特有の機能を付加しようと転変したものに は別途の名前を与えることが道具的に有意義とみなす。 3) 仏の数学教授学思想を体系的に論考した宮川氏は transposition didactique を“教授学的転置”と訳している。 確かに、シュバラールの語用は transposition であり transformation ではない。しかし、共同研究者のアルザッ ク(Gilbert Arsac)は transformation や transfert の語を用いていることや、筆者は2 0 0 1年より同語を“変換” と訳して公示していることから、仏思想について広範な学識をもつ宮川氏に対して些か心苦しいが、本稿では 関連稿との訳語統一を図った。 4) 宮川(20 11)はこの institution について適切な日本語訳がないことを指摘しつつ、知を扱う特定の社会的集ま りとして、「知的集合体」と訳している。 5) これに加えて、生徒達が自らの知識を整理し、社会文化的な生産活動に適用できるように、獲得した数学的知 識を再び脱文脈化や脱人格化して取得する過程(→教えた対象(objet a enseigner) )を加える場合もある。 6) カトリックの思想家シャルダン(Teilhard de Chardin)による神話での宇宙創生や進化を促す概念から借用し ており、風刺として流用、命名している(Arsac et al., 1992、宮川2 0 1 1) 。 7) 類似の点については、佐々木(2 0 1 2)が故平林一榮の所見を引きつつ指摘している。 8) 管見の限り、我が国の数学教育学会で最も早くシュバラールの教授学的変換に着目した溝口(1 9 9 6)は、認識 論的障害や概念領域の着想抜きに教授学的変換の在り方を理解しようとしても困難であることを指摘している (溝口達也、personal communication, Sept. 1996) 。 9) ブロッソーはメタ数学的なスライド(glissement metamathematique)と呼んでいるが、本稿ではカンとキルパ トリック(Kang & Kilpatrick)の語用で呼称した。 10) 実際、シュバラールによる人類学でのモデル化(Chevallard, 1991、宮川2 01 1)は、ブルデュー(Bourdieu)ら による人間行為学が導入した組織立った観察用の分析モデル、<O、I(P) 、E、V(E、P、Q、H)>(ただし O は選択肢全体、I は情報、P は社会的地位、E は環境、V は選択肢の価値、Q は資源、H は習慣行為(habitus) を指す)を数学教授学へと局所化、現地化した試みだといえる。 11) また、近年のシュバラールによる潜在的数学(implicit mathematics)という着想(Chevallard, 2007)にも、特 定階級の思考様式としての知識を文化資源として再配分する仕組みに伏在した偏りを見抜いて、潜在的な次元 での教育内容編成を探究したブルデューの系譜が認められる。 12) 日本数学教育学会もその数学教育史的な総括と再評価に乗り出している(例えば清水他2 0 1 0) 。 13) ただし、授業構想の域まで踏み込むとアーテギュー(Artigue Michèle)による教授学的工学(Didactical engineering)の対象領域になってしまい、提案範囲を弁えた論考が必要になる。 ― 12 ― 学校数学への教授学的変換とは何か、何であるべきか 【参考引用文献】 Arsac, G., Chevallard, Y., Martinand, J.−L., & Tiberghien, A. 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(198 1)小関藤一郎訳『フランス教育思想史』行路社. 要 約 本稿は、学校数学への教授学的変換の本性と意味について論ずるものであり、科学的で学究的な 知識が教室で教えられる知識へと移し換えられる過程に焦点を当てている。最初に、主唱者である シュバラール(1 9 8 5)とアルザックら(1 9 9 4)が提起した教授学的変換理論について無理数を事例 とし、教授学的変換によって生じる4つの現象について概説する。第2に、教授学的変換の基本的 な意義を指摘した上で、過度の簡略化と下げ降ろし姿勢という2点から被っている批判について検 討する。そして第3に、特に日本における同理論の展開について素描する。教授学的変換について の更なる検討は、学校数学の存在意義を高めることになる。 ― 14 ―
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