2012 年 6 月 3 日主日礼拝説教の要約 マルコによる福音書 14 章 32~42 節 「ひれ伏し祈る主イエス」 鶴見教会牧師 高松 牧人 弟子たちと過ぎ越しの食事を守られた主イエスは、エルサレムの町の郊外のゲツセマ ネという所に来られました。オリーブ山のふもとにあるこの園は、主イエスと弟子たち とのいつもの祈りの場所であったようです。ゲツセマネとは油絞りという意味だそうで すが、主イエスはその夜、汗が滴り落ちるほどの祈りをされました。 主イエスは弟子たちに、 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、 ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴ってさらに奥のほうに行かれます。主イエスは彼らに 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、ご 自分はもう少し進んで行って、ひれ伏して祈られたとあります。その祈りは救い主であ るお方が、救い主の道を全うするための救い主独自の祈りでした。「アッバ、父よ、あ なたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わ たしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」 。 主イエスはたいへん恐れおののいておられます。聖書に描かれている主イエスの苦し みのさまは尋常ではありません。わたしたちはここで、主イエスが直面しておられる死 がどういうものであるかを考えてみなければなりません。人間として死を恐れるという のは当たり前のことだとは言えません。わたしたちは死に臨んでも全然取り乱すことな く静かに、あるいは勇敢に死んでいった人たちも少なくないことを知っています。また、 いわゆる殉教者といわれる人々は、厳しい迫害の中で死のかなたを見つめながら、主を 讃美しつつ死んでいったことを聞くのです。それらと比べて、主イエスの苦悩と恐れを わたしたちはどう考えたらよいのでしょうか。 主イエスがここで恐れおののいておられるのは、十字架の死が神の審きとしての死だ ということです。罪を犯した人間が、その結果として神の審きを受け、神から捨てられ る。その罪人の死を自らが受け取らなければならないということです。十字架上で主イ エスは最後に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれますが、 そのような死を遂げられるところに主の抑えがたい痛みと悲しみがあるのです。 マルティン・ルターは主イエスについて、「この人ほどに死を恐れた人はいない。こ の人こそ本当に死を恐れた人だ」と言っているそうです。わたしたちが見ようとしてい ない、いや見据えることなどとてもできない死の恐るべき現実を、主イエスは見据えて 正面から受けとられます。その限りにおいて主イエスは死に敗れてはおられません。わ たしたちのために、わたしたちに代わって、受けとられたのです。罪の報いとしての死 を、わたしの死ぬべき死を死んでくださったのです。死を恐れることにおいて、主イエ スはわたしたち人間との最も深い連帯の中に入ってくださったのです。 ところで、主イエスが祈りにおいて戦っておられる間、弟子たちはどうしていたので しょうか。最も近くにいた 3 人の弟子たちも目を覚ましていることができず、眠りこけ てしまっていました。再び、三度、主イエスが戻って来られた時も彼らは眠っていたの でした。主イエスはどれほど深い孤独を感じられたことでしょう。 ついに主イエスは言われます、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこ れでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わ たしを裏切る者が来た」 。ここに、マルコだけが記している小さな言葉があります。 「も うこれでいい」。ギリシア語でアペケイという一語で、もともと受けとるとか領収ずみ という言葉です。それで意味としては、①眠っている弟子たちに対して「これで十分だ ろう」と言われた。②「支払いは済んだ」ということから、ユダが賄賂を受け取ったこ と、あるいは支払いの時が来た。③終ったという意味合いから「終わりの時が来た」、 などと解釈されます。ともあれ、主イエスは、最愛の弟子たちの眠りこけている姿に、 自らが十字架に赴くことによって救われなければならない人間の姿、十字架の死による 贖い以外に救いはないということをはっきり見てとられたということではないでしょ うか。「もうこれでいい」は十字架への道の最終確認をする言葉でした。厳しい言葉で す。けれども、わたしたちを見捨て、見限る言葉ではなく、主は自らが十字架を引き受 けなければならないことをはっきりと確認されたのでした。 父なる神の御心を確信された主イエスは、「立て、行こう」と言われ、ひとり孤独の 道を十字架に向かって進んで行かれます。すぐこの後、主イエスはユダ率いる一群の 人々に捕らえられます。そして、尋問、裁判と、十字架への準備が着々と進んでいきま す。罪の力、闇の力が勝利していくかに見えます。しかし、悪魔が主イエスを死と滅び に突き落としたかに見えるとき、そこで神の御心が成就し、死の力が奪い取られるので す。罪人の死を受けきってくださった方により、わたしたちの死からそのとげが抜き取 られるのです。 ヘブライ人への手紙 2:14~15 はこれら一連の出来事について次のように語ってい ます。「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐 怖のために一生涯、奴隷の状態であった者たちを解放なさるためでした」 。また、4:15 には、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなか ったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです」とあります。 主イエスの激しい苦しみと祈りの戦いはわたしたちの理解を超えた神秘です。しかし、 そこにわたしたちの救いのための神の御子の戦いと勝利が最も鮮やかに現されていま す。その主の先立つ戦いと勝利のゆえに、わたしたちは心身の弱さを抱えつつも、絶望 することなく信仰の道を歩み続けることができるのです。
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