渡辺先祖覚書

『 渡 辺 先 祖 覚 書 』
は
じ
め
こ うした斯界 の現状 を見 る時 、写 本 が一 冊 しか
に
戦 国時代 、福 山市熊野 町一 帯 を支配 した豪族
ない とい う本 書 の 欠点 は、 その利用 を著 じる し
「 濃 逸 氏 」は 、そ の特 異 な一 字名 か ら摂津渡辺
く疎 外 す る もの と言 わ ぎる得 ない 。 そ こで「 こ
れ を活 字化 しな けれ ばな らない 」とい う義務 感
ξ 誉∫ [慧 ll[ξ 云 庭渥理こ 昌 房畜 農看亀
が 私 の 体 中 よ り沸 き起 こったわ けであ るが 、 い
越中守兼 の筆 にな る もの で、初代 高 の備 後草 土
`含 着 か ら説 きお こし 、自身 の青壮年 時代 の活
村土
か んせ ん、古文 の知識 に とば しい 若輩者 として
躍 、渡辺 氏 の 山田入 部迄 を書 き留 めてい る。
その 目的 は「 (自 分 の )甘 よ り此 か た京 田舎種
の手 をわず らわ せ たわけで 、元 よ り私 一 個 人 の
手 にな る もので は ない。又 、完全 を期 した つ も
々様 々 二干今至 りた ゝす まい是 とい え ど も眼前
の子孫 の為筆立 てか け るべ きな り」とあるよ う
りでは あ るが 間違 い も少 な くな い と思 う。 この
点 は浅 学 非才 の 手 にな る もの として御 宥免 い た
に 自分 の経験 を子孫 に伝 える ことにあ った よ う
だ きた い。
で あ る。 しか し、なぜ その よ うな こ とに思 い至
最後 に、 この よ うに 貴重 な文 書 を後世 に伝 え
てい ただい た、今 はな き浜 本鶴 賓先生 の霊 に対
っ たの か、彼 の 内面 的 な動 機 な どは今 とな って
は計 りよ うがな い 。 さて、 この史料 の伝来 につ
いて で あ るが、奥 書 に よ ると天 文 3年 の原本 を
それは容 易 ではなか った、為 に多数 の 諸先輩 方
して深 重 な感 謝 の 意 を表 し筆 を止 め る もの であ
る。
元禄 10年 8月 10日 に写 し、 この写本 を備 後郷 土
昭和
史界 の 先輩故浜本 鶴賓 氏 が ペ ン書 きで写 し、 い
ま 見 る姿 とな った もの であ る。残念 なが ら現在
59年 7月 15日
帝釈庵 に て
では原本写本共 に失 な われ「
、浜 本床 のみが伝 わ
田
口
義
之
って い るの みであ る。浜 本氏 の但 書 に よる と
「 美濃紙 ノ冊子 、大 字 、天 文 3年 原書 ヲ元禄 10
年 二写 シタモノ古色 蒼然 タ リ、朱 書 入 り、福 山
注 (1)提 勝義「 渡辺 氏 につい て 」福 山城博物 館
府中町有 田浄胎房備 中 ヨ リ持 チ カ エル モ ノ 」で
友 の 会 だ よ りあ 12。
あ った とい う。但 し、「 朱書 」は誤 りが多 くこ
(2)志 田原重人「 渡辺氏 と草戸千軒 」
『 草戸
こでは取 らなか った。
千軒 』 %109。
tt中
(3)網 野善彦
世都市「 草戸千軒 」" 日本
の美術%215『 草戸千軒遺跡 』
この文書 は、原本 、写本 共 に失 な われ てい る
た めか 史料 として引用 され る こ とは少 な い よ う
で ある。 しか し、その 内容 は年代 が記入 され て
い ない とい う難 点 が あ る とはい え、記 事 は信頼
性 が高 く、又 、 中世 後半期 とい う史料僅少 な時
代 に 、その 当時者 に よっ て書 かれ た とい うこ と
からきわめて価値の高いものといえ亀∫最近F
は草戸千軒町遺跡調査研究所 の志田原重人氏 、
神菊 ‖大学短期大 学部教授網 野善彦氏 が これを
史料 として引用 されてお られ る等 その見直 し、
利 用の気運 が生 まれつつある。
-28-
1.福 山城鏡櫓文書館浜本文庫蔵「
所収本を底本とした。
纂輯」
渡辺氏系図
2.利 用 の便 を考 えて左欄 に簡単 な見 出 しを附
した。
3 (注 )は 最後 に附 した。
4
「漢字」、
「 か /F」 はなるべ く現用 の ものに改 めた
5.解 続 不 明文字 は□ と した。
渡
午
辺
3年
先
祖
6月 20日
覚
圭日
天 文
浜本 書入 れ
美濃紙 ノ冊子
大字
天 文 3年 原 書 ヲ元禄 10年 二 写 シタモ ノ古色 蒼然 タ リ 朱 筆入 り
福 山府中町 有田浄胎房備 中 ヨ リ持 チ カ エ ル モ ノ
渡辺備後草戸村代 々居住之次第越中守 如此書残候条 々事
今
○ 初代渡辺高
・ 渡辺氏 の本国は越 中国
福井庄。
一
第
享禄 3年 書之
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り、高成 仁之間為名代 彼家公義 の つ くの い仕 、 その ま ゝ可乗取 た く見、
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・ 高、 長和寺家分代官職
を 50貫 で請負 う。
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・ 高、 守護被官となる。
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・ 備後守護代 犬橋満泰、
え、 守護領上下村 の代
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山名是豊 に従い河
内国 に 出陣す。
0二 郎太爪 金胎寺合戦
にて討死 (寛 正三年四
月十 日 )1462
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・ 息二郎太郎、 親を恨む。
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親類候 かれか跡為御旅従江州高 二被
「候存生之間走廻 、五拾―にて遠行候
渡辺氏 に国留氏跡を与
官職 に任ず。
○ 二代 目渡辺兼
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是豊様 よ り御感状干今有之 其以後河内着陣にて、息三
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在陣罷下次男源 三 へ跡相続仕 六十
一 にて正月十 六 日遠行候
0三 代 目 渡辺家
第三代 目 渡辺 若名源三 官 ハ三郎左衛門尉
也 男六人 あ り 兄ハ 源二 次男 ハ源四郎
受領 ハ信濃守 実名 ハ家
ヽ源六 今 二人 ハ他
三男 ィ
村宇山長和寺家半済を
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与え る。
者山名遠碧院殿様之頭
0山 名是豊、 渡辺氏 に市
-29-
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御父子之御 間之御訴夕 にて公方かたをい さ□
・ 応仁 の乱。 家 は東軍 山
名是豊 に従 う (応 仁 元
年
)1467
0相 国寺合戦 (同 年十 月
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然間猶船岡山御番餞 之時家無比類太刀を打 ちよ
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・ 山名是 ム
備後 に入国
(文 明二 月四月 )1471
0是 虫 宮下 野守 の籠 る
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・ 是 豊、 備後 一 国 を征圧。
・ 是 豊、 山内氏 の 甲山城
を攻撃す (文 明七年六
)1475
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・ 渡辺 氏
所 領 を 没収 さ
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・ 家、 各 地を放浪 す。
宮 田教 言 山内氏 に
之間御取詰候
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・ 是 豊 の 被 官人 没落す
降参す。
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柏村 を攻撃す。 (同 年
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・ 源三、 宮若狭守を頼 り
上京す。
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歳十七迄在京 させ十八之 とし京
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○ 四代 目渡辺兼 (覚 書 第四代 目 今 之渡辺 仮名源三 官 ハ三良6左 衛門尉
の筆者 )
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幕府 出仕 。 (明 応 元年
十二 月
)1492
0兼、 山内俊豊 の 腰添 役
を勤 め る。
・ 垣 屋 氏大 田垣氏 和智氏
宗
俊豊 に背 く。
・ 兼、 大 田垣氏 の 誘 いを
断 り、 俊豊 に従 う。
・ 山名 俊豊、 離京 す (明
応 二 年二 月九 日 )1493
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0若 狭 ′ 浜 に滞在す。
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・ 但馬 よ り味方 の 八 木氏
塩 治氏 等到 着す。
・ 山名俊 蠍
但 馬 に入 国。
・ 垣 屋氏 等、 山名政 豊 を
擁 し俊豊方 と戦 う。
・ りん ほ う山合戦。 家
敵塚 村 二 郎右 衛 門尉を
討取 る (同 年七 月八 日 )
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・ 山内豊成、 俊豊 を備 後
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に迎 えん とす。
・ 兼、 俊 豊 山内方 と して
活 躍す 。
・ 山内氏 に対 す る隠謀。
殿佐 々本田原 申談 山内殿 を不慮遠意 くセたて られ候 とて御屋形様 をは
日付衆取置 山内殿 を討留 申二相定此答 の検源 三仕候 とて最前可討果 之
・ 兼、 備後 に 帰 国す。
請合之難儀無是非候
・ 山内直通 は備後 守 護
(代 )に 、 兼 は申次 に
任 ぜ らる。
・ 山名俊豊、 渡辺氏 に恩
賞 を与 え る。
・ 兼、 山内直通方 と して
奔走 す。
御屋形様御調法 を以二郎 四郎殿 事御下 り候源三
被留置其以後為御使候 下 し候彼 国在陣中 二山内二 郎 四郎殿 ハ備後守護
職御半J頂 載候 源 三 ハ於 国可為 申次 旨御判 山内殿―行干今有之併京都
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-31-
・ 木梨氏、 山内直通 に敵
対 す。
][[饂![]:ii[:1:警 ::[[,i]を i][:13
・ 渡辺 氏 の 山田入部 の 由
来。
・ 宮修理 亮 殿 ― 行、 山内
直通 ― 行。
天文 三年午 六月廿 日
渡辺越中守
兼
(奥 書
)
元禄十年丑 八 月十 日写 之
(1)不 明 、福 井県福 井市福井庄町附近 か 。
あった。
判
(2)室 町幕 府管領 家筆頭 の斯 波氏 、越 前守 護 で
(3)京 都市上京区扇町 にあった中世 の寺院。の ち泉桶寺塔中 と して再建。
町 、当時は安居院悲 田院領長和庄内 に含 まれて いた。
(4)福
も
山市草 戸
(5)土 塁 にか こまれた屋敷 の意 。鷹取城跡
(草 戸町鷹取 )の ことか。
(6)当 時長和庄 (福 山市瀬戸町 、草戸町一帯 )は 下地中分 されてお り、
の
寺家分 とは領家方 意 。庄の東半分 を指す と推定。 (7)備 後守護代犬橋近江守満泰 。応永 ∼嘉吉年
1443)の 人物 。 (8)福 山市瀬戸町地頭分 の福成寺 、現在 は真言宗。
(9)福 山市瀬戸町 に勢力 を持 った土 豪。 (0甲 奴郡上下町矢野 を本拠 とした武士。 C)庄 原市本郷甲
間 (1394∼
山城 を本拠 とした武±。 ⑫世羅郡甲山町周辺 に勢力 を持 った武±。 0甲 奴郡上下町国留 を本拠
とす る武士か。 ⑭ 甲奴郡上下町上下。 ①大阪府富 田林市龍泉 にあった中世山城。 当時、畠山義
就 が拠 っていた。 C16)足 利将 軍 の命令 又 は将軍 自身 を指す。0つ 備後守護 山名持豊 の次男 、弾正忠 を
称 し康正元年 (1455)頃 より備後守護。 こ8兵 庫県揖保郡御津町室津 の室 山城。康正元年 五 月頃、
山名是豊 は備後衆 を率 いて この城 に拠 り、播磨 の 旧守護赤松氏 の残党 の攻撃 を受 けた (『 応仁記 』
三 )。
①大阪 府富田林市嬉 にあった山城。当時畠山義就方 の軍勢 が籠 っていた。 ④ 寛正 三年四
月 (『 長禄寛正記 』箸 )。 (21)幕 府管領 畠山持国。 (22)寛 正 三年か ら同五年 (1462∼ 63)に
か けての畠山氏の内粉 。
(")市 村 は現福 山市蔵王町。宇山は現福 山市春 日町宇 山。長和寺家半
済 は長和庄寺家方 の半済地 、場所不明。
近か。
(24)応 仁 の乱 (1467∼ 77)。
(25)京 都市上御霊堅町
(26)是 豊 の父山名持豊入道宗全 、法名遠碧 院最高道峰 居士。西軍 の総師である。
(2)父 持豊外 山名 一族 のほ とん どが西軍 に属 したのに対 し、是豊 は一人東軍細川方 に属 した。
(28)京 都市北 区船岡山。応仁 二年 (1468)九 月、東西両軍 の合戦 が あっ た。 (29)京 都市上京区
相国寺門前町 に ある臨済宗相 国寺派総本 山。お花之坊 はその塔中か、不明。 (30)福 山市駅家町
法成寺 を本拠 とした武士。宮氏 一族。 (31)応 仁 二年 (1468)十 二月 、是豊 は京都府乙訓郡大 山
崎町天王山の鳥取尾 山城 に在陣 し西軍方 と戦 った (別 本前田家所蔵文書 )。 (32)文 明元年 (1469)
十二 月、是豊 は神呪寺 山 (か んの を じや ま )に 陣 して味方 の到着 を待 ち、西軍大内勢 の拠 る摂津 三
宅城 を攻めた。神呪寺 は現兵庫県西宮市甲山に現存、十輪寺 は同県高砂市高砂 に所在。
(33)現 兵庫県神戸市。是豊 は赤松氏等 の東軍将兵 と共 に文明元年十月か ら十二 月 にかけて西軍大
内勢 と摂津 国内 の各所 で戦 ってい る。 (34)(注 )27参 照 。 (35)文 明二年 (1470)十 二 月二 十三
日、是豊 は備後 の西軍方 を征圧す るため備後 に下向 した。 (36)宮 下野守家 六代教元 の こと。宝
徳 二年 (1450)頃 には宮下野修理亮教元 として見 え (「 康富記 」宝徳二・七・ 五等 )、 長禄二年
-32-
(1458)か ら寛正 六 年 (1465)に か けては 駿 河守教 元 (「 在盛卿 記 」長 禄 二・ 十 二 ・ 五 。「 親 元 日
記 」等
)、
寛正 六 年 二 月父 下野守 元盛没 後 、 同年 五 月 八 日か ら下 野守 を称 す (「 親 元 日記 」 )。
(37)芦 品郡新市町 下安 井 、柏 。
隆 で 東軍 に属 した。
(38)岡 山県御津 郡御津 町 を本拠 とした武 士。 この 頃 の 当主 は元
(39)岡 山県小 田郡 矢掛 町 の 猿掛 城 に居城 した武士 。当時 の 当主 は元 資 で 東
軍に属 した。 (40)『 備中洞松寺文書 』によれば、庄元資の弟資長は文明三年十一月二〇日、備
後柏村の合戦 で討死 している。 (41)「 一 きう」は芦品郡新市町宮内に ある吉備津神社 のこと。
「 里んそう」は「 輪蔵 」のこと、現在吉備津神社の北側に地名が残っている。 (42)深 安郡神辺
町上竹田にある土豪鼓氏の本拠。 (43)庄 原市本郷甲山城主山 内泰通。当時山内氏 は有力な西軍
方。 (44)双 三郡吉舎町を本拠 とした武士。 (45)文 明七年 (1475)六 月、甲山城詰口で合戦
があった (『 田総文書 』
『 山内首藤家文書 』)。 (46)高 田郡吉田町郡山城主毛利豊元、元就の
祖父 である。 (47)是 豊の嫡子七郎頼忠、小早川氏の軍勢が是豊 と呼応 して山内氏 と同 じく有力
な西軍方であった江田氏の旗返城 (二 次市三若町 )を 攻めたので毛 利豊元は江田氏 の後巻 として
出陣、頼忠 、小早川勢 を切 り崩 したのち、更に甲山城 の後巻 として下江田 (二 次市高杉町 )に 進
)(48)宮 田教言 。 (49)府 中市出口町 の八尾山城。
出 した (『 毛利家文書 』二五一号。
(50)岡 山県笠 岡市。 (51)香 川県丸亀市塩飽本島。 (52)香 川県綾歌郡宇多津町。
(53)弓 削島のことか。 (54)「 三 セん 」は神仏 にお金をそなえることを意味す る。家 は詫 のしる
しとして山内氏等 に相当額の銭を献上 し、帰住の許 しを乞 うたのであろう。 (55)福 山市水呑町小
水呑。 (56)福 山市瀬戸町に地名 が残 る。瀬戸池の北方 である。 (57)山 名持豊の四男。文明五
年持豊没後家督 を嗣 ぎ但馬、備後の守護 となった。 (58)文 明十五年、政豊は旧領三ケ国 (播 磨、
備前、美作 )を 回復するため播磨 に侵入 した、この時の事か。 (59)渡 辺氏 と同 ランクの長和庄
内の武士 であろう。
『 備後古城記 』には沼隈郡佐波村 (福 山市佐波町 )の 古城主 として名倉氏 の名
がある。 (60)不 明。三谷氏 と同様長和庄内の土豪 であろう。 (61)宮 氏 の有力者で宮 若狭守政
信、同五二郎盛忠のこと (『 小早川家文書 』等 )。 (62)政 信或 は宗兼のこと。宮氏 は将軍奉公
衆 として在京す ることが多かった。 (「 長享 」
「 永享 」
「 文安 」各番帳参照 )。
(63)山 名政豊 の嫡男初 め又次郎 を称し、延徳三年十一月頃 より弾正少弼 を名乗 る。 (長 福寺文書 )
(64)延徳三年 (1491)八 月二十七 日、将軍義材 は近江守護六角氏 を征圧するため軍勢 を率いて出
陣、三井寺光浄院 (滋 賀県大津市園城寺町 )に 陣 した。 (65)山 名俊豊 は同年八月十八日軍兵を
卒いて上京、同月二十三 日将軍義材 に謁 したのち同月二十八 日三井寺光浄院に参 じた (『 蔭涼軒 日
録 』 )。 (66)滋 賀県大津市坂本。 (67)将 軍義材 は明応元年 (1492)十 月十六 日琵琶湖を渡 り、
同月十七日夕刻金剛寺 (滋 賀県蒲生郡 )に 陣した (『 蔭涼軒 日録 』)。 (68)滋 賀県甲賀郡。
(69)明 応元年七月十九 日、将軍義材は諸大名 に甲賀 に進撃す ることを命令 した。 (『 同』 )
(70)同 年九月十五日、諸大名は甲賀口に陣 を移 した。この時の山名俊豊 の軍勢 は五百人許だった
とい う (『 同 』 )。 (71)明 応元年十二月十三日、将軍義材は陣 を撤 し帰洛 した (『 和長卿記 』
等 )。 (72)『 蔭涼軒 日録 』等 によると山名俊豊は明応元年十二月十八日、明応二年 (1493)一
月一 日、同十四日、同十六日、二月四日に幕府に出仕 している。 (73)明 応二年一月一 日の幕府
に於ける諸大名新賀の出仕を指 しているのであろう。 (74)不 詳。出雲国能義郡の武士 に田原氏
(佐 々木一族 )が ある。 (75)山 内直通 。庄原市本郷甲山城主山内豊成の嫡子。
(76)通 久。山内氏の支族。
(77)鳥 取県八頭郡用瀬町 を本拠 とした武±。山名氏の被官。
(78)兵 庫県城崎郡 を本拠 とする武士。山名氏の有力被官であ
(78)田 原信濃守の一族であろう。
(79)兵 庫県朝来郡和田山町の竹田城を本拠 とした武士の山名氏の有力被官。
(80)兵 庫県廟果郡。同県和田山町は太田垣氏 の本拠 。 (81)『 蔭涼軒 日録 』明応二年 三月九 日条
る。
に「 山名霜台 (俊 豊 )有 但州之行 。塩治弥四郎為迎上洛 。同途下。 」とある、 このことを指すので
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『 渡辺先祖覚書 』関係地 図
(82)京 都市左京区下鳴。 (83)同 八瀬附 近 。 (84)滋 賀県高島郡朽木村 。
(85)福 井県小浜市 。中世小浜湊 として栄 えた 。 (86)若 狭守護武田氏 。 この頃 の当主 は信 親 。
(87)兵 庫県養父郡八鹿町 を本 拠 とした武士。 (88)兵 庫県城崎郡 の武±。注 (81)参 照 。
(89)同 城崎郡香住町佐津 。 (90)で 府竹野郡丹後町経 ケ崎。 (91)城 崎郡香住 町無南垣 に あ
る館山 城 の こと。 (92)同 香住町米 地 。 (93)同 香住町訓谷 にある輸底 山の こと。山名氏 の被官
あ ろう。
長氏 の居城 が あった。 (94)『 蔭涼軒 日録 』明応二年 七月二十 二 日条 によると、 この 日但馬 で山
名政豊方 と俊豊方 の合戦 があ り、俊豊方 に十四、五人 の戦死者 があっ たとい う。 (95)山 内泰通
智氏 の支族 。
の子豊成。 (96p和 智氏 の同族 江田氏。本拠 は二次市三 若町 の旗返城。 (9)和
(98)世 羅郡世羅西町津田 。明応六 年 二月 、毛利氏 は この地 で政豊方の軍勢 と戦 ってい る (『 萩藩
(99)鳥 取県八束郡美保 関町。 (100)不 明 。 (101)わ うゑは岡山県井原
市大江町。木庄 は福山市木之庄町 、山北 は同瀬戸町 山北 。 (lC2)岡 山県笠岡市南部 を本拠 とす る
武士 。 (103)三 次市 畠敷町 に本拠 を置 い た武 士。 (104)尾 道市木梨 の鷲尾 山城 に本 拠 を置 いた
閥閲録 』巻十 六
)。
木梨杉原氏 。山内氏 と木梨氏 は永正九年、小早川 、毛利両氏 の調停 で和平 してい る。よって事件は
永正九年以前 である。 (小 早川家証文二五三号 )(105)尾 道市小原町 。 (106)同 町にあ る中山
城の ことか 。 (1")神 辺 は深安郡神辺町。今 大仙備 中衆 は不 明。 (108)尾 道 市吉和町 の鳴滝山
(1∞ )福 山市熊野町 (110)芦 品郡新市町 に本拠 を置 いた宮氏 (宮 下野守家 )と 思
われ る。 (111)宮 下野守家世嗣 の通称。政盛 の嫡子 親忠 の ことか。 (112)知 行宛行状 の こと。
城の ことか。
(113)比 婆郡東城町 に本拠 を置 いた宮氏 か。千手寺 は宮 氏 の開創 と伝わ り東城町川西 に現存。
(l14)山 田の地頭分の ことであろ う。現在 その場所 は不明で ある。熊野町 の南部 か。
(115)こ の部 分 には兼 の親族 に対 す る訓1戒 的 な文章 が ある。田日の判断 で省略 した。
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