近代資本主義の成立と 奴 隷 貿 易 ―――― ② 教皇文書と新大陸での 実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか 西 山 俊 彦 Toshihiko Nishiyama 2003 年 12 月 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211 号 荒野に叫ぶ声 1511 年 12 月 21 日 、 エ ス パ ニ ョ ー ラ 島 は サ ン ト ・ ド ミ ン ゴ で 、 ド ミ ニ コ 会 A・ モンテシーノ神父は説教台から次のように糾弾しました― 「この島の荒野におけるキリストの声、私がその声なのです。…さあ、皆さん、 答えなさい、あなた方は一体いかなる権利、いかなる正当性をもって、これらの インディオを、かくもみじめな、かくもおぞましい奴隷の状態で所有しているの かを。…それらの土地であなた方は、前代未聞の殺戮と破壊をおこない、無数の ひとびとを消滅してしまったではないか。…一体これらのひとびとは人間ではな い と い う の か 。 … 」( 染 田 秀 藤 1990、 傍 線 追 加 ) 先住民インディオの尊厳を肯定し、征服戦争と奴隷化の不当性を糾弾するモンテシ ーノ神父の舌鋒は植民者社会を震撼させました。これを起点に「インディオの守護 (1) 者」 「 人 権 の 擁 護 者 」の 歩 み を 始 め る ラ ス・カ サ ス( 1484-1566) に と っ て も 同 様 で し た ― 父 親 か ら イ ン デ ィ オ 一 人 を 召 使 い と し て 与 え ら れ( 1498)、キ ュ ー バ 遠 征 に 参 加( 1512)し た 報 酬 に 、エ ン コ ミ エ ン ダ と イ ン デ ィ オ 奴 隷 数 名 を 得 て い た の で す から。 王室公認の「エンコミエンダ」制 新世界の発見直後から、イスパニアは先住民インディオを使役して金銀の採掘、 真 珠 採 取 、農 業 経 営 等 の 蓄 財 に 狂 弄 し ま し た 。1503 年 国 王 フ ェ ル ナ ン ド は「 イ ス パ ニア人に一定数のインディオを委託し、貢物もしくは労働を強要する権利を認める 代 り に 、 彼 ら の キ リ ス ト 教 化 と 文 明 化 を 義 務 づ け た 」( 染 田 )「 エ ン コ ミ エ ン ダ 」 制 を公式に許可しました。これによって植民化は完成することができたと評されます が 、 そ の 実 態 は 奴 隷 制 と 変 わ り ま せ ん で し た 。( 染 田 1989、 R・メ ジ ャ フ 1979) 「ブルゴス法」の制定 イスパニア人の狼藉が極まれば極まるほど、 「 荒 野 に 叫 ぶ 声 」は 無 視 で き な く な り ま し た 。 国 王 フ ェ ル ナ ン ド は 審 議 会 を 開 き 「 ブ ル ゴ ス 法 」( 1512) を 制 定 す る こ と になったのもそのためです。それは「インディオに自由と人間としての権利を認め たものの、彼らの改宗のためには強制というものが必要で、それは正当なものであ る 」 こ と を 根 拠 に 、「( 保 護 者 で あ る ) エ ン コ メ ン デ ロ が 被 保 護 者 で あ る イ ン デ ィ オ の た め に 、教 会 を 建 設 し 、そ こ に 聖 像 と 礼 拝 用 具 を 備 え る こ と 等 」 ( L・ハ ン ケ 1979) を こ と 細 か に 規 定 し て い ま し た が 、「 な に び と で あ れ 、 イ ン デ ィ オ を 棒 で 打 つ こ と 、 む ち を 加 え る こ と 、彼 を 犬 と 呼 ぶ こ と … を し て は な ら な い 」 ( T・R・バ ー ジ ャ ー 1992) もその一つでした。 Ⅰ.教会の関与 −教皇は聖俗両権能を行使− 教皇アレキサンデル六世の「贈与大勅書」 西廻りで新大陸を発見すると同時にカスティリアとレオンのカトリック両王が打 -1- った手は、東廻りで先行していたポルトガル同様の権利をイスパニアにも承認させ ることでした。そのためにボルジャ家出身の教皇アレキサンデル六世が発布した三 (2) 教 書 の 一 つ が「 贈 与 大 勅 書 Inter Caetera」 ( 1493・5・4)で し た 。先 ず 、サ ラ セ ン 人 の暴政からグラナダ王国を奪回した今度の偉業を賛えた上で、…真のカトリック両 王 で あ る カ ス テ ィ リ ア と レ オ ン の フ ェ ル デ ィ ナ ン ド( マ マ )国 王 と イ ザ ベ ラ 女 王 が 、 カトリックの信仰弘布のために航海[事業]の推進を希っているために、 「 全 能 な る 神 よ り ペ ト ロ に 授 与 さ れ た 権 威 と 、地 上 に お い て 行 使 す る イ エ ス ・キ リ ストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王も しくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、そ の一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオ ンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を … 完 全 無 欠 の 領 主 に 叙 し 、 任 命 し 、 認 証 す る 。」( 青 木 康 征 1993、 但 し 要 点 の み ) と授与している。 なぜローマ教皇がポルトガルに 新発見 の領土・領海を授与できたのか、そし て今また、カスティリアとリオンの両王とその相続人にも授与できるのか、は理解 し難いところです。しかし、教皇が聖俗両権能を有するとは、教皇自身が「贈与大 勅書」の文面に明確に自認しており、また、当時の超大国もそれを認めるだけでな (3) く、他者にも強要して怪しみませんでし た。 そしてその権限が「キリスト教以外の君主によって現に所有されているすべての 領土・領海に及ぶ」と記されているのは、教皇の世俗的権能には制約がないことを (4) 意味していまし た。なぜそうなるかの説明が、次に見るところの見解です。 「教皇は聖俗両権力を具有する」とのオスチエンセスの見解 教 会 法 学 者 間 で オ ス チ エ ン セ ス と 呼 ば れ た の は 、13 世 紀 の オ ス チ ア の 司 教 枢 機 卿 エンリケ・デ・スサのことで、彼の説くところによると 「異教徒がキリストを知るに至った時、彼らがそれまで確立していた権力も支配 権も、すべて、キリストに返還され、キリストが霊的にも俗的にも地上における 支配者となる。キリストはその至上の支配権を、まず聖ペトロに、ついで、その 後 継 者 で あ る ロ ー マ 教 皇 に 委 ね た 」( ハ ン ケ ) というものでした。だから、教皇はキリスト教の君主によって所有されていない新 世界をキリスト教君主に授与できるとした訳です。しかし、一般的な支配権だけで は奴隷化までは許されません。インディオたちが、サラセン人、異教徒並みにキリ スト教徒に敵対し、教会の権威を認めないのであれば、戦争を仕掛けるに正当な理 タイトル 由が存在し、そこに発生する戦争捕虜には、奴隷にするに正当な権原がローマ法以 来 認 め ら れ て い る と 、い う 筋 書 き で し た 。そ の た め の 試 金 石 と し て 登 場 し た の が「 パ ラ シ オ ス・ル ビ オ ス が 1513 年 に フ ェ ル ナ ン ド 国 王 の 要 請 で 作 成 し た 」 ( 染 田 1990) リ ケ リ ミ エ ン ト 「 勧 降 (催 告 )状 」 で し た 。 征服者の良心だけを安んじた「勧降状」 カ ピ タ ン 「 勧 降 状 」と は 、指 揮 官 が 戦 い を 始 め る 前 に 朗 読 を 勅 令 で 義 務 づ け ら れ て い た 宣 -2- 言文 で 、エ ル ナ ン ・ コ ル テ ス が ア ラ ス カ 王 国 を 滅 ぼ し た( 1521)時 も 、フ ラ ン シ ス コ ・ ピ サ ロ が イ ン カ 帝 国 を 征 服 し た ( 1532) 時 も 、 朗 読 さ れ ま し た 。 先ず、天地創造を説き、キリスト、聖ペトロ、ローマ教皇の権力に言及し、教皇 アレキサンデル六世がインディアスをイスパニア国王に贈与したことを通告します。 ついで、教皇と国王の権威を認め、伝道師を受け入れるように促し、態度決定に要 する猶予期間を与える、と通告します。 しかし、ラス・カサスは「イスパニア人たちは考える余裕すら与えず、布告を伝 (5) えると同時に、すばやく襲いかかり、彼らを殺害したり、火あぶりにし た 」と記し て い ま す 。 し か し と 続 く の は ―― 「もし承諾もせず、悪意をもって態度の決定を引き延ばすのであれば、私は神の 加護を得てあなた方の土地へ押し入り、行く先々で万策を尽くして戦いを仕掛け る 。そ し て 、あ な た 方 を 教 会 と 陛 下 に 従 わ せ 、あ な た 方 と 妻 子 を 捕 え て 奴 隷 と し 、 陛下の命じるままに奴隷として売却したり、扱ったりすることになろう。…しか し、その結果、あなた方が生命を失ったり、多大な害を蒙ることになっても、そ れ は 陛 下 や 私 … の 罪 で は な く 、 あ な た 方 の 所 為 で あ る … 。」( 染 田 1990) 教皇と国王の権威を認めれば、植民者の征服を進んで受け入れその支配下に隷属を 強いられることになり、認めなければ、暴虐無尽の狼藉、殺戮、奴隷化が避けられ ないという、どちらに転んでも同じ運命が待ち受けているのが先住民インディオに (6) とっての「勧降状」の仕組みでし た。もちろん、征服者イスパニア人にとっては、 手当たり次第の略奪・戦闘を、教権と国権に刃向う不埒の輩を掣肘して「正義の戦 い」に変化させ、良心を安んじさせる魔法の仕組みでした。 「勧降状」朗読の実感 仕組みも仕組みでしたが、朗読は、まさに、噴飯ものでした。最初の朗読とされ る 1514 年 6 月 14 日 の ペ ト ラ リ ア ス の 300 名 の 遠 征 隊 の 事 例 で は 、公 証 人 オ ビ エ ド は次のように告白しています― 「隊長殿、インディオはその神学を理解できないでしょう。そこで、彼らをおり に入れるまで待って下さい。そうすれば、彼らも喜び、司教殿もそれを説明して や れ る で し ょ う 。」( ハ ン ケ ) 「隊長たちは、…深夜静まりかえってからつぶやくか、逃げて行くインディオの 背 後 か ら 読 み 上 げ ま し た 。」( 同 ) 勧 降 状 の 成 果 は 次 の よ う に 纏 め ら れ て い ま す ― 「 イ ン デ ィ オ た ち を 鎖 で つ な い で か ら 、イ ス パ ニ ア 人 が 彼 ら の 言 葉 も わ か ら ず に 、 勧 降 状 を 読 み 上 げ た 。読 ん だ 本 人 も イ ン デ ィ オ も そ の 内 容 を 理 解 し て い な か っ た 。 極 め つ け は、イ ン デ ィ オ に は 返 答 の 機 会 が 与 え ら れ な か っ た こ と だ っ た 。」( 同 ) M・モ ン テ ー ニ ュ ( 1588) は 勧 降 状 ほ ど ヨ ー ロ ッ パ 人 の 自 己 中 心 性 を 示 す も の は な い 、と 指 摘 し ま し た 。し か し 、勧 降 状 は 所 期 の 目 的 を 達 成 し ま し た ― 国 王 、神 学 者 、 植民者たちの良心を安んじさせ、 「 正 し い 戦 争 」を 設 定 し て 征 服 事 業 を 一 気 に 加 速 す ることでしたが、それは、インディオの奴隷化と絶滅を意味しました。言う迄もな く、それら全てを可能としたものはローマ教皇の「贈与大勅書」であり、それを裏 付けた教皇の聖俗両権具有論でした。 -3- 勧降状朗読に続く奴隷狩り 勧降状の朗読に続く事態は、被征服者インディオにとっては無惨なものでした。 ラス・カサスが地域別にレポートする『報告』のごく一部は次の通りです― 「キューバ島に住んでいたインディオたちは、エスパニョーラ島のインディオた ちと同じように、全員奴隷にされ、数々の災禍を蒙った。仲間たちがなす術なく 死んだり、殺されたりするのを目にして、…絶望の余りみずから…命を断ったり し は じ め た 。… こ の よ う に し て 、数 え き れ な い ほ ど の 人 た ち が 帰 ら ぬ 人 と な っ た 。」 ( ラ ス ・カ サ ス 1552、 43-44 頁 、 以 下 同 様 ) ゴベルナドール カシーケ 「( ニ カ ラ グ ア 地 方 の ) 総 督 は イ ス パ ニ ア 人 た ち に 、村 の 領 主 た ち に 奴 隷 を 差 し 出すよう要求することを許可した。…2人の子供を持つ親はひとり、3人の子供 のある人は2人を奴隷として差し出したが…村の人びとは悲しみに打ちひしがれ、 … 1523 年 か ら 1533 年 ま で の 間 に 王 国 一 帯 の 人 口 を 絶 滅 さ せ て し ま っ た 。」 ( 57-58) 「 地 上 の 楽 園 と も い う べ き ナ コ と ホ ン ジ ュ ラ ス で 、1524 年 か ら 1535 年 ま で の 11 年 間 に 、彼 ら は 200 万 人 以 上 の イ ン デ ィ オ を 殺 害 し 、そ の 結 果 、… 生 き 残 っ て い る の は 僅 か 200 人 ほ ど の 奴 隷 状 態 の 人 び と だ け で あ る 。」( 73-74) 「イスパニア人たちが町へ来た主な目的は金を手に入れることであったので、… カ ピ タ ン 持 っ て き た た く さ ん の 斧 が 銅 で あ る と 判 る と 、司 令 官 は 命 令 し た 。 『…さあ出発だ。 金がなければ…長居は無用だ。各自、使役しているインディオを鎖に繋ぎ、奴隷 の焼印を押すように』と。彼らは…できるだけ多く鎖に繋ぎ、国王の焼印を押し ヨニョール て 奴 隷 に し た 。私 は 町 一 番 の 領 主 の 子 息 に 出 会 っ た が 、彼 に も 焼 印 が 押 さ れ て い た 。」( 79) カ ピ タ ン 「( ヌ エ バ・エ ス パ ー ニ ャ で は )司 令 官 は 部 下 に 命 じ て … と り わ け 平 和 裡 に エ ス パ ニ ア 人 を 出 迎 え た 男 女 … 総 勢 4500 人 の イ ン デ ィ オ に 焼 印 を 押 し て 奴 隷 に し た 。 しかし、それ以外にも、彼は数えきれないほどのインディオを奴隷にしたのであ る 。」( 87) 「 ユ カ タ ン 王 国 で は 、そ の 無 法 者( フ ラ ン シ ス コ ・ デ ・ モ ン テ ー ホ )は 300 人 の 部下とともに、善良で罪のない人びとに残虐な戦さをしかけ、無数の人びとを殺 し、破滅させたが、その人びとは誰にも害を加えることなく平和に暮らしていた のである。そこには…金がなかったので、彼は、…人びとを元手に財を築こうと 考え、殺さずにおいたインディオたちを手当たり次第奴隷にした。そして奴隷が い る と い う 噂 を 聞 い て や っ て きた多くの船へその大勢のインディアンを送った。 」 ( 91) ラ ス ・カ サ ス の『 報 告 』は 虐 待 、虐 殺 、奴 隷 化 に 始 ま り 、そ れ に 終 わ っ て い ま す 。そ してそれらは、キリスト教徒と呼ばれている者たちの真実の姿でした。だからイン ディオにとって 「キリスト教徒という名前ほど憎らしく忌まわしいものはありません。彼らはキ リスト教徒たちのことを彼らの言葉でヤレスと呼んでいますが、それは悪魔とい う 意 味 で あ り ま す 。」( 104・ 42・ 162) -4- 奴隷化はインディオ絶滅を結果した? 新大陸の征服は、インディオたちの絶滅か、それに近い減少をもたらしました。 同じく地域別にラス・カサスは次のように記しています― 「インディオたちを分配したのは、彼らにカトリックの信仰を教え、愚かで残酷 な 、欲 深 く て 悪 習 に 染 ま っ た 彼 ら の 魂 を 救 う と い う の が 口 実 で あ っ た 。と こ ろ が 、 …こうして(エスパニョーラ)島に暮していたインディオたちの大半が死にたえ た 。」( 37) 「 1509 年 、サ ン フ ァ ン 島 と ジ ャ マ イ カ 島 に は 、か つ て 60 万 人 以 上 、い な 100 万 人 を 超 え る 人 が 暮 し て い た で あ ろ う が 、今 で は そ れ ぞ れ 200 人 ぐ ら い し か 生 き 残 っ て い な い 。」( 39) 「 ル カ ー ヨ 族 の 住 む 豊 か で 素 晴 ら し い バ ハ マ 諸 島 に は 、 か つ て 50 万 人 以 上 の 人 が 暮 し て い た が 、 今 は 誰 ひ と り 住 ん で い な い 。」( 20) 「広大なティエラ・フィルメ(現在のコロンビア、ベネスエラの海岸地方を含め た 南 ア メ リ カ 北 部 海 岸 地 方 一 帯 ) で は 、 こ の 40 年 間 に キ リ ス ト 教 徒 た ち の 暴 虐 的 で 極 悪 無 慙 な 所 業 の た め に 男 女 、 子 供 合 わ せ て 1200 万 人 以 上 の 人 が 残 虐 非 道 に も 殺 さ れ た の は ま っ た く 確 か な こ と で あ る 。否 、1500 万 人 以 上 の イ ン デ ィ オ が 犠 牲 に な っ た と 言 っ て も 、 真 実 間 違 い で は な い と 思 う 。」( 21) 以 上 、キ リ ス ト 教 徒 へ の 期 待 と は 裏 腹 の 報 告 が 延 々 と 続 い て い る が 、ラ ス ・カ サ ス の 挙げる数値は「そのまま信じることができない」と染田秀藤は記します。なぜなら 「 最 近 の 研 究 で は 、グ ワ テ マ ラ 地 方 の 評 価 は 過 大 で あ り 、ヌ エ バ・エ ス パ ー ニ ャ( メ キシコ中央部のみ)に関しては、低いことになる」ために「各地域別に見ると誇張 と過小評価が交々で、疫病についてはまったく触れていない。その理由は『インデ ィアスの破壊』が征服戦争の即時中止を求めるために作成された文書であるからお の ず と 明 ら か に な る 」( 染 田 1990) と い う 訳 で す 。 絶滅 は奴隷化ではなく疫病によるのではないのか? 同 時 代 人 で あ っ た ラ ス ・ カ サ ス に 対 し て 、 現 代 人 で あ る C・ ギ ブ ソ ン は イ ン デ ィ オ人口の増減について次のように記しています― 「( 世 紀 に わ た る 推 移 で は )イ ス パ ニ ア 植 民 地 社 会 を 構 成 し た 人 口 は た え ず 変 動 し た 。最 初 お よ そ 5000 万 人 で あ っ た イ ン デ ィ オ 人 口 は 17 世 紀 に は 約 400 万 人 に 減 少 し( 植 民 地 時 代 末 期 に は お よ そ 750 万 に 再 び 増 加 し )た 。」 ( C・ギ ブ ソ ン 1981、 126 頁 、 以 下 同 所 ) そ し て 、そ れ は 生 態 学 的 現 象 、即 ち 、 「イスパニア人が持ちこんだ疫病による犠牲と なったからである」として次のように説明します− 「だからイスパニア人とインディオが偶然に出会うことがあると、それはインデ ... ィ オ の 死 亡 を 意 味 し た 。」( 69)「 天 然 痘 、 腸 チ フ ス 、 は し か は イ ン デ ィ オ 社 会 に おいて大勢の人びとを死に追いやった。…インディオたちがその代償としてヨー ロ ッ パ に も た ら し た と 考 え ら れ る 伝 染 病 は た だ ひ と つ 、梅 毒 だ け で あ っ た 。」 ( 70) 「イスパニア人とはじめて接触した時から、アメリカのインディオたちは消滅し は じ め た 。 征 服 に お い て 殺 さ れ た イ ン デ ィ オ の 数 は 、 征 服 以 後 約 10 年 間 に 死 亡 -5- し た イ ン デ ィ オ の 膨 大 な 数 と 比 べ れ ば 微 々 た る も の で あ っ た 。1540 年 代 、西 イ ン ド 諸 島 の イ ン デ ィ オ は 絶 滅 同 然 で あ っ た 。… 今 日 の 精 密 な 研 究 に よ る と 、ヌ エ バ ・ エ ス パ ー ニ ャ で は 、 1519 年 に 2500 万 人 の イ ン デ ィ オ が 存 在 し た が 、 1605 年 に は 100 万 を や や 上 回 る 数 に ま で 減 少 し た と 記 録 さ れ て い る 。」( 68-69) 征服開始直後から始まったインディオ先住民の急激な減少には、奴隷化よりも、疫 病が一層大きく影響したことが明言されており、この急激な減少が植民地化の維持 推進を困難とし、それに代るアフリカからの黒人奴隷貿易が開始される背景です。 し か し 、だ か ら と 言 っ て 、イ ン デ ィ オ の 奴 隷 化 が 歴 史 的 事 実 で な か っ た 訳 で は な く 、 それらを正当化した「贈与大勅書」も「勧降状」も教皇の聖俗両権力具有説も、イ ンディオの奴隷化と絶滅に関与していない訳ではありません。とは言え教皇アレキ サンデル六世の教書そのものが、直接インディオ奴隷化を許可していないことも事 実 で す 。そ こ で 確 認 し な け れ ば な ら な い の が 、1493 年 以 前 の 教 書 に 明 確 に 奴 隷 化 を 容認するものがあったか、なかったかの問題です。 Ⅱ.一層明白な教会の関与 −キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書− キリスト教徒の奴隷化を禁じる教書 ポ ル ト ガ ル 人 が カ ナ リ ア 諸 島 に い つ 到 達 し た の か は 定 か で は あ り ま せ ん 。し か し 、 教 皇 エ ウ ジ ェ ニ オ 四 世 の 教 書「 ク ム ・ア リ ク ァ ン ド Cum Aliquando」( 1433)「 シ ク ト ・ド ゥ ド ゥ ム Sicut Dudum」 ( 1435・1・13)の 直 前 で は な か っ た か と 推 定 さ れ ま す 。 なぜならこれらの教書は「カナリア諸島でキリスト教へ改宗したか、改宗しようと し て い る 住 民 を 奴 隷 に す る こ と を 禁 じ る 」も の だ か ら で す 。論 を 返 せ ば 、彼 等 以 外 、 即 ち 、キ リ ス ト 教 徒 で な い 者 を 奴 隷 と す る こ と は 許 容 さ れ て い た こ と に な り ま す が 、 これら教書のようにキリスト教徒を奴隷にしてはならないとの教書が発布されねば ならなかったところから見ると、この原則は守られていなかった訳で、事実「カナ リ ア 諸 島 で は 奴 隷 の 21 パ ー セ ン ト が 司 教 ・ 修 道 院 ・ 聖 職 者 に よ っ て 所 有 さ れ て い た 」( L.Hurbon,1992) と 言 わ れ ま す 。 サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書 キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴 隷化を許容する教書で、次のものが代表的です― ⑴ 教 皇 ニ コ ラ ス 五 世 「 ド ゥ ム ・デ ィ ベ ル サ ス Dum Diversas」( 1452・6・18) ⑵ 同 「 デ ィ ヴ ィ ー ノ ・ア モ ー レ ・コ ン ム ニ ー テ ィ Divino Amore Communiti」 (1452・7・14) ⑶ 同 「 ロ マ ー ヌ ス ・ポ ン テ ィ フ ェ ッ ク ス Romanus Pontifex」( 1454・1・8) ⑷ 教 皇 カ リ ス ト 三 世 「 イ ン テ ル ・チ ェ テ ラ ・ク エ Inter Caetera Quae」( 1456・3・15) こ こ に ⑶ 「 ロ マ ー ヌ ス ・ポ ン テ ィ フ ェ ッ ク ス 」 を 例 に 紹 介 す れ ば 、 次 の よ う に 記 されています― -6- 「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下 の教書を送る。 ・・・・・・ 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アル フォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者 をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主 権 、支 配 、動 産 、不 動 産 を 問 わ ず 凡 ゆ る 所 有 物 を 奪 取 し 、そ の 住 民 を ① 終 身 奴 隷 に貶めるための、完全かつ制約なき権利(傍線筆者、以下同様)を授与した。 Praefato Alfonso Regi, quoscumque Sarracenos, et Paganos, aliosque Christi inimicos ubicumque constitutos, ac regna, ducatus, principatus, dominia, possessiones, et mobilia, et immobilla bona quaecumque per eos detenta, ac possessa invadendi, conquirendi, expugnandi, debellandi, et subjugandi, illorumque personas in perpetuam servitutem redigendi, ac………..こ こ に 列 挙 した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフ ォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄 令 名 高 き 国 王 等 が 、② 人 々 の 救 い 、信 仰 の 弘 布 、仇 敵 の 撲 滅 、を も っ て 神 と み 国 と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の 適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそ れを一層鞏固なものとするであろう。 我が主御降誕の 1454 年 1 月 8 日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第 8 年」 上記の原文抜粋の中の傍線①は、⑴〜⑷のどの教書にもほぼ文字通り登場し、⑷に は⑶が全文再掲載確認されています。 前項に記した「キリスト教徒の奴隷化の禁止」と本項の「キリストに敵対する者 の 奴 隷 化 の 許 可 」と は 、 「 正 義 の 戦 争 − 正 戦 − 」を 行 う に 当 っ て の「 正 義 」の 基 準 が ⑻ 「唯一絶対的真理」である「キリスト教に味方するか、敵対するか」にあると理解 すれば、論理は一貫しています。しかも、正戦遂行は義務ともなって、戦争によっ タイ て生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた「正当な権 トル 原 」を キ リ ス ト 教 も 踏 襲 し た だ け と 言 う こ と に な り ま す 。勿 論 、 「 正 戦 」に し ろ「 正 当な権原」にしろ、それら原理自体には、大いに問題点ありと言わねばなりません が、これが現実だった訳で、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒 はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。 ( J.F.Maxwell, 1975、 J・メ イ エ ー ル 1992) 問題全体の理解のために 本稿で紹介した諸事実は余りにも奇異で不可解と思われる向きもないとも限りま せん。そこで、なぜこのような事実が歴史上に展開されることになったのかに関係 す る 3 つ の キ ー ・ポ イ ン ト を 提 示 し て お き ま す ― 1.カトリック教会が聖俗両権能を有していると、自他共に、認識され、教会も進 んでそれを行使し、俗権も正当化の根拠を教会に求めたこと。 「 正 戦 」の 論 理 も 適 用 も 、新 世 界 の 分 割・領 有 の 根 拠 も 、奴 隷 化 の 基 準 迄 も が 、教 会 の 教 義・教 権 の 下 に あ り ま し た 。従 っ て 、戦 争 に し ろ 奴 隷 制 に し ろ 、そ れ ら に つ い -7- て の「 正 し い 基 準 」が 維 持 さ れ て い る 限 り 、戦 争 も 奴 隷 制 も 、現 代 に 至 る ま で 、正 当 化されていた可能性があります。 他 方 、 よ り 重 要 な も の と し て 、 カ ト リ ッ ク 教 会 の 教 義 に は 「 敵 を も 愛 す る 」「 平 和 の 福 音 」 が 厳 然 で す し 、 そ れ を 支 え る 「 人 皆 神 の 子 」「 人 間 皆 兄 弟 」 等 の 普 遍 的 理 念 が あ り ま す か ら 、戦 争 に し ろ 差 別 に し ろ 、そ の 暴 走 を 許 さ な い チ ェ ッ ク 機 能 が 働 く 余 地は十分です。 2.往時は「福音宣教」の使命を俗権に委任 「 ロ マ ー ヌ ス ・ポ ン テ ィ フ ェ ッ ク ス 」 の 傍 線 ② に 示 し た 通 り 、 所 に よ っ て は 植 民 地 時 代 の 後 期 ま で 、「 福 音 宣 教 」 の 使 命 は キ リ ス ト 教 君 主 に 委 ね ら れ 、 こ の 目 的 遂 行 の パ ト ロ ナ ー ト ・ レ ア ー ル た め「 教 会 組 織 ・ 監 督 の 特 権 」が 与 え ら れ て い ま し た 。し か し 、彼 等 君 主 に は 、次 に 記 す 独 自 の 論 理 が 先 行 し て い た の で す か ら 、こ れ と の 衝 突 矛 盾 は 不 可 避 な こ と で し た 。 3.聖俗両権力の目的は別 世 俗 君 主 の 第 一 義 的 目 的 は 政 治 的 経 済 的 領 域 に あ り 、植 民 地 的・帝 国 主 義 的 勢 力 拡 大のために、福音宣教と人々の救霊福祉は手段方使となる危険を孕んでいました。 こ れ ら 3 つ の 要 件 の 対 立 拮 抗 の 中 に 、矛 盾 に 満 ち た 歴 史 が 展 開 さ れ 、時 に は 原 点 回 帰 の 覚 醒 も 起 り ま し た 。教 会 自 身 の 世 俗 化 埋 没 は 矛 盾 の 典 型 で 、至 高 の 福 音 も 妥 協 ・ ス リ カ エ・屈 服 を 余 儀 な く さ れ ま し た 。次 回 に 予 定 す る 黒 人 奴 隷 貿 易 も 資 本 主 義 の 形 ⑼ 成も、残念ながら、その一つと言わねばなりません。 【註】 (1 ) 1507 年 司 祭 、 1524 年 ド ミ ニ コ 会 修 道 誓 願 、 1544 年 南 メ キ シ コ ・チ ャ パ 教 区 司教。 (2 ) 「 贈 与 大 勅 書 」と 一 対 を な し て い る の が 、 「ポルトガルと同じ特権をイスパニ ア に も 認 め た 」「 特 権 教 書 Eximiae Devotionis」( 1493・5・3) と 「 ア ソ レ ス ・ベ ル デ 峠 諸 島 西 方 100 レ グ ア の 地 点 を 通 過 す る 子 午 線 を 分 割 点 と す る 」と 定 め た 「 分 界 教 書 Inter Caetera」( 1493・5・4) で し た 。( 青 木 康 征 1993) (3 ) こ れ に 反 発 し て 書 か れ た の が H・グ ロ テ ィ ウ ス の 『 自 由 海 論 Mare Liberum』 ( 1609) で し た 。 (4 ) 後 述 [ Ⅱ ] の 諸 教 皇 教 書 に 見 る よ う に 「 15 世 紀 中 葉 以 来 、 ロ ー マ 教 皇 が ポ ル トガルの君主に発見地に対する支配権とアフリカに住む非キリスト教徒を奴隷 と す る 権 利 を 与 え る の が 慣 行 と な っ て い た 。」( C・ギ ブ ソ ン 1981、 15-16) (5 ) ラ ス ・カ サ ス( 1552) 『 イ ン デ ィ ア ス の 破 壊 に つ い て の 簡 潔 な 報 告 』岩 波 書 店 、 1976、 74 頁 。 (6 ) 代 表 的 神 学 者 パ ラ シ オ ス ・ル ビ オ ス は「 贈 与 大 勅 書 」が イ ス パ ニ ア 国 王 に イ ン デ ィ ア ス に 対 す る 「 絶 対 的 支 配 権 」 を 与 え た と 考 え 、 フ ワ ン ・J・セ プ ー ル ベ ダ は 征 服 戦 争 を 福 音 弘 布 の《 予 防 戦 争 》と み な し て 正 当 化 し た 。ラ ス ・カ サ ス は 征 服戦争とエンコミエンダを改宗を妨げ支配権を脅かすものと非難したが、 「イン ディオはキリスト教化されてイスパニアの支配下に入るべきであるという点で は 前 二 者 と 違 い は な か っ た 。」( T・R・バ ー ジ ャ ー ) -8- (7 ) Levy Maria Jordao, Patrona t us Portugalliae Regum in Ecclesiis Africae, Asiae, Atque Oceaniae , Tomus I (1171-1600), Typographia Nationali, Olispone, 1867, 31-34, etc. W.E.Shiels, S.J., King and Church, The Rise and Fall of the Patrona t o Real , Loyola University Press, Chicago, 1961. な お 資 料入手に困難を来していた時、慶應義塾大学高瀬弘一郎教授には全必要資料を 提供していただいた。教授の格別の御高配には感謝の言葉もない。併せてお世 話になった上智大学及び英知大学の両図書館にも深甚の謝意を表したい。 (8 ) 実 際 上 、伝 統 的 な「 正 戦 」の 論 理 は「 強 者 の 正 義 」 「 勝 者 の 正 義 」に 過 ぎ な い 。 西 山 俊 彦「『 神 の 国 』と『 地 上 の 国 』の 平 和 主 義 −『 正 戦 論 』か ら の 脱 却 を 期 待 し て − 」『 サ ピ エ ン チ ア 』 第 29 号 ( 1995、 603-625)。 (9 ) 紙幅の都合、筆力不足、課題の大きさ等のため、本稿には予定のテーマを納 め切れませんでした。皆様の寛大な御理解を願います。 -9-
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