根本 敬子(ネモトケイコ) 『銀河鉄道の夜』と北海道 ―天の野原から南

第23回宮沢賢治研究発表
発表者と発表要旨
根本 敬子(ネモトケイコ)
『銀河鉄道の夜』と北海道 ―天の野原から南十字までのモデルが、王子製紙軽便鉄道(山線・
浜線)であることの可能性についてー
『銀河鉄道の夜』では、
“天の野原”から“南十字”までの銀河の旅が描かれていますが、物語と一致する場所
がほとんど見つからないため、
「地上モデルなどはない。それは全き想念の世界」
(畑山博氏)といわれています。
しかし、北海道の太平洋沿岸(胆振・日高地方)を走っていた王子製紙の軽便鉄道(山線・浜線(現日高本線)
)
の沿岸には、
“天の野原”から“南十字”に一致する風景が、不思議なほど続いています。
賢治は、大正 13 年 5 月に、苫小牧(山線・浜線の始発駅)を訪れ、一泊しています
それはちょうど、物語の執筆時期と推測される大正 13 年 8 月~12 月の直前です。
王子製紙には、友人や教え子が勤めているという親しさもあり、また胆振・日高地方は、南部藩が長く北方警備
のため駐屯していた地域で、花巻の人々と深い係りがあります。
王子製紙軽便鉄道の沿線が、銀河の旅のモデルとなった可能性があると考えられます。
LAMAO ZHUOMA(ラモジョマ)
『銀河鉄道の夜』におけるジョバンニの成長―カムパネルラとの関係の変化を通じて―
本発表では、主人公ジョバンニがどのように成長していったかを、カムパネルラとの関係の変化を通じて検討し
たい。
現実世界でのジョバンニにとってカムパネルラは優等生で他人の悪口を言わない憧れの対象であり、
孤独なジョ
バンニの心の支えになっていた。しかし、実際には二人は一度も言葉を交わしていない。銀河鉄道の中で二人は言
葉を交わしたが、話は噛み合わない。そこでジョバンニは初めて孤独を自覚する。ジョバンニは銀河鉄道のこの旅
の中で様々な人と出会い、すべての人の幸いを求めてどこまで生きて行くことを決意する。この決意をカムパネル
ラと共有したいと願うが、カムパネルラは消えてしまい、ジョバンニは悲しみながらも一人で現実世界に戻ること
になる。現実世界ではカムパネルラは亡くなっていたが、カムパネルラがどこに行ったかを知っているジョバンニ
は、その死に衝撃を受けることなく受け入れることができるようになっていた。
閻 慧(エンケイ)
逃走物語の成立――宮沢賢治「銀河鉄道の夜」試論
「銀河鉄道の夜」は、多様な解釈の可能性が秘められた作品である。だが、先行研究においては、後期形をジョ
バンニの成長物語として解釈する見方が支配的である。
本発表では、
先行研究を踏まえた上で、
初期形から後期形までの改稿に注目しつつ、
特に加筆された冒頭三章と、
大きく改稿された結末の部分に重点をおき分析を行う。ジョバンニの旅が、ブルカニロ博士の実験であったという
入れ子構造をなす初期形に対して、後期形では、ジョバンニが家を出て最後に家に向かうというように、円環構造
になっている。どちらも閉鎖的な構造に見えるが、後期形はそうした円環構造からの逃走の線が引かれていると思
われる。後期形で加筆された冒頭三章には、学校・資本の論理・家族がはらむ支配/被支配という権力関係が見ら
れるが、銀河の祭りという非日常性がそこから逃走する契機を与える。改稿された結末では、ジョバンニが確実に
家に戻ったという保証はなく、もろもろの支配関係から逃走する可能性も示唆されている。本発表では、登場人物
の在/不在をめぐる交換の原理にも着目しながら、
「銀河鉄道の夜」後期形を成長物語とは異なる逃走可能性が内
包された物語として読み解くことを試みたい。
第23回宮沢賢治研究発表
発表者と発表要旨
構 大樹(カマエダイキ)
満州国に渡った「雨ニモマケズ」
賢治の死後、急速に普及した彼のテクストは、
〈宮沢賢治〉イメージに多様な価値を生み出していった。戦中期
において、
〈宮沢賢治〉の価値は、遠く満州国にも持ち込まれる。その様相を窺わせる資料として、満洲開拓青年
義勇隊が現地で使用した皇民科国語の教科書『国語』下の巻(冨山房、1943)がある。同書は、従来はあまり着目
されてこなかったが、
“教科書”というメディアで、賢治テクスト――「雨ニモマケズ」を掲載した最初期のもの
である。なぜ『国語』下の巻に、賢治テクストが採用され得たのだろうか。本発表では、賢治に言及する戦中期の
文献を繙きながら、採用を可能とした条件を多角的に分析することで、賢治受容史におけるこの教科書の位置を同
定する。また以上の検討を通して、満州国にまで波及した当時の〈宮沢賢治〉の価値のあり方と、その生成の背景
にある言説編成を問い直すことを目指したい。
加藤 碵一(カトウヒロカズ)
※4名(加藤 碵一・沢井敬一・大石雅之・横山一巳)による共同研究を加藤氏が代表で発表します。
賢治着色地質図草稿新資料の検討
原勝成宅取り壊しの際に沢井が貰い受けた花巻の地質図草稿が、賢治自筆のものか否か検討されてきた。本図は
五万分の1地形図「花巻」の南部~南東部に地質に対応した塗色がなされ、英語で岩質などが記入されている。本
図は、2005 年 11 月の「宮沢賢治冬季セミナー」で大石が「花巻『イギリス海岸』の地質とその背景」の講演で紹
介し、その後も関係者によって検討されたが、明確な結論には至らず正式な筆跡鑑定が必要であると痛感された。
このたび横山が科学警察研究所を通して紹介された欧文筆跡鑑定の専門家に依頼したところ、
賢治自筆であるとほ
ぼ特定された。草稿にある地質学用語を解説し、その後 1922 年に正式に出版された「岩手県稗貫郡主要部地質及
土性略図」と比較するとともに、この資料の意義について論じたい。
※当日の発表順ではありません