―入門の前後、「絵伝」の衣体に変化― 建仁元年(1201)、親鸞聖人は比叡山を下りて東山吉水の法然聖人に入門され ました。 本願寺第3代覚如上人がまとめられた『親鸞聖人伝絵(御伝鈔)』の第2段には、 比叡山を下りられた親鸞聖人が、法然聖人のもとを訪ねられている様子が描か れています。ここには、吉水の庵室の門を入った親鸞聖人の姿と、庵室の中で法 然聖人と対面されている姿の2つが、時間経過を追いながら同じ場面の中に描か れています。 この庵室の2人の衣体(えたい)を見てみますと、法然聖人は黒衣墨袈裟です が、親鸞聖人は白い衣に白い袈裟を着けて描かれています。つまり、親鸞聖人は、 この時色衣を着けていたというように表現されています。 また、高田派本山の専修寺に所蔵されて入る『親鸞聖人伝絵』(覚如上人が製 作して高田に送られたもの)には、絵の部分に註記が施されています。法然聖人 の吉水の草庵に向う親鸞聖人について、「聖人聖道の行粧にて参らせらるるとこ ろ也」という註記がなされていて、親鸞聖人は比叡山で修行をされている時の 姿とされています。 さらに親鸞聖人の衣を見てみますと、襟の後ろのところが三角形に立っている ことがわかります。これは「僧綱襟」と呼ばれる形式のものです。僧綱とは、古代 に国家によって定められた規定にのっとって管理されていた僧官のことで、通常 の僧侶はこの規定の中にいました。比叡山は国家によって維持管理されていた 寺院であったため、そこに所属する僧侶は、この規定に従っていました。 このため、覚如上人は『親鸞聖人伝絵』を製作された時、比叡山におられた親 鸞聖人も、国家のために修行をする官僧としての僧綱の中にいたことをあらわし ているのでしょう。 ところが、この時の法然聖人や、その後の親鸞聖人は、基本的に黒衣墨袈裟で 描かれています。これは国家のためではなく、民衆の中において、衆生を救済す ることを主にされていることを意味しているのです。(岡村喜史)
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