所沢将棋物語その3 所沢市出身の名人 羽生善治 羽生善治さんは所沢生まれです。1996 年には、前人未到の七冠を達成しています。今回は、羽生さんの子ど もの頃の取り組みを中心に紹介します。 羽生さんは所沢生まれ でした。 羽生善治(はぶよしはる)さんは、昭和 45 年(1970 小学校 2 年生のときに、親にマグネット盤の将棋を 年)9 月 27 日に父政治、母ハツの長男として所沢市 買ってもらい、そのときいっしょにかってもらった で生まれました。両親は将棋を指さず、将棋界のこ のが『親と子の将棋教室』(大山康晴著、池田書店) ともまったくといっていいほど知りませんでした。 でした。この本をもとに棋譜(将棋の指し手を記録 善治さんが生まれた 1 年半後に妹・百合子さんが生 したもの)を並べるようになりました。 まれました。善治さんが幼稚園に入るころになると、 また、家族は将棋に興味はなかったそうですが、羽 羽生家は東京都八王子市に引っ越しました。 生さんが将棋に熱中するようになって、家族でも一 度将棋をやろうということになりました。羽生さん が 1 人で一方をもち、両親と妹の 3 人が相手方を受 け持ちます。ただし、特別ルールがあって途中で盤 を相手方とひっくり返していいことになっていまし た。羽生さんが優勢になると盤の向きを変えられて、 不利な局面をもたされ劣勢になります。 棋譜並べ また、この頃から将棋の新聞欄を読むようにもなり ました。漢字が多いので読めなかった部分が多いも 所沢での名人戦(1995 年 5 月) のの、将棋の「4二金」といった符号の読み方は知 っていました。棋譜を読みながら「こんなかたちが 将棋連盟のホームページで羽生さんのプロフィール あるのか」と見ながら、翌日の新聞にのる次の一手 をみると、「出身地 埼玉県所沢市」と出てきます。 を予想することを楽しんでいました。 二人のとうきちも正式に「名人」位を得てはいませ 新聞では1回の対局を何度にも分けてのせられます。 んが、羽生さんは正真正銘の「名人」しかも十九世 そこで、A八段は次の一手をどのように指すのだろ 名人(ただし襲位は原則引退後)です。 うかと考えてみるのです。そのことが、将棋を考え 将棋との出会いは、小学校 1 年生のとき るきっかけになり、最初は予想が外れても、解説を が将棋を知ったのは小学校1年生のときで、はじめ 読みながら「なるほど」と思うようになりました。 て遊んだのは「まわり将棋」や「はさみ将棋」でし 八王子将棋クラブ た。 八王子にある町の将棋道場の「八王子将棋クラブ」 その後、本将棋を覚え、教えてくれた友達と指して に通うようになりました。アマチュアの最低のラン いましたが、はじめは負けていたのが一ヶ月後くら クは 10 級ですが、ランキングされたのは 15 級。せ いには、羽生さんが勝つようになって、その友人と っかく将棋を学びたいとやってきた子どもだからと、 は将棋をやらなくなってしまったそうです。 道場の席主が特別扱いをしてくれたのです。 将棋のおもしろさ 15 級ということで、ハンデとして、対戦相手に飛車、 将棋を始めた当時、羽生さんがおもしろいな、興味 核、桂馬 2 枚、香車 2 枚を落としてもらうところか 深いなと感じた点は、将棋にはさまざまな種類の駒 ら始まりました。それでも最初の1ヶ月はまったく があって、それぞれが違う動きを持っているところ、 勝つことができませんでした。 そして一局ごとに結果がはっきり出るというところ 羽生さんの家から八王子将棋クラブまでは、バスで 約 30 分かかりますので、毎日、通うというわけには 段に昇段しました。当初はプロになろうという気持 いきません。両親が買物にでかけるは週末です。親 ちはなかったそうですが、すごく将棋が好きで続け にしてみれば、羽生さんとその妹を連れて買い物を ていきたいという気持ちがあったことから、 「目指し するよりも妹ひとりのほうが楽だということで、週 てみようか」と思ったそうです。小学校 5 年生の秋 に 1 回のクラブ通いがはじまりました。 に二上達也九段を八王子将棋クラブの師範代から紹 アマチュアの 1 級になるまでに、約 1 年かかりまし 介されて、飛車落ちで一局指してもらい入門という た。それでも将棋だけをやっていたのではなく、川 ことになりました。 や丘などの空き地で日がくれるまで日が暮れるまで 遊んでいたそうです。 奨励会と学生生活 小学校 6 年生のときに、小学生名人戦で優勝し、そ 詰め将棋 の年の秋に、奨励会を受験して合格しました。奨励 詰め将棋をやるようになったのも、このころからで 会は将棋のプロを目指すための機関ですが、実際に、 す。最初は、一手詰め、三手詰め、五手詰めから始 プロになれるのは奨励会員の 3 割にも満たない程度 めました。十手詰め以上をやるようになったのは、 だそうです。その奨励会を羽生さんは 15 歳の 12 月 プロを目指すようになってからのことだそうです。 に抜け出し、中学生プロとなりました。羽生さんは 3 詰め将棋がわからないといってもがんばらなければ 年という短期間で奨励会を駆け抜けたことになりま いけないというのではなく、解答をみればよいと羽 すが、谷川浩司さんの 3 年 3 ヶ月の記録を更新する 生さんは言っています。そして、繰り返し最初から 快挙でした。 何度もやり直すことで、詰め将棋のパターンを覚え ることが大事とのことです。 めざしましい活躍 その後の羽生さんの活躍は、圧倒的です。 こども将棋大会への参加と初段 平成 20 年(2008 年)11 月末で、タイトル戦登場回 小学校 3 年生の頃から、夏休みと冬休みに開かれる 数合計 93 回、獲得合計 71 期、朝日オープン選手権 子ども将棋大会にも参加するようになりました。当 をはじめとして優勝回数 32 回、最優秀棋士賞も 16 時は、総当りのリーグ戦で大会が開かれ、たくさん 回受賞しています。 指せることがうれしく、参加する将棋好きの子 今まで、名人戦や朝日オ どもと友だちになりました。後にプロになった ープン選手権などで、所 先崎学さん、森内俊之さん、小倉久史さんとは、 沢での対局もされていま 子ども将棋大会で出会いました。 すし、とうきち杯に来て アマチュアの初段になったのは、小学校 3 年生 くださったこと(写真) のときでした。お祝いに両親に足つきの将棋盤 もあります。 を買ってもらい、駒台もついていました。 及川四段に、羽生さんの 小学校 4 年生で棋譜をつけ始める 棋譜をつけはじめたのは小学校 4 年生のころか らです。将棋クラブで売っていた棋譜ノートに 覚えている棋譜を書き込んでいきました。棋譜 といっても、自分で指したすべてを覚えている わけではなかったのですが、自分の将棋に対する反 省の機会になりました。 「続けたい気持ち」がプロの第一歩 昭和 56 年(1981 年)8 月には、都下将棋名人戦で優 勝し、その年には、八王子将棋クラブで最高位の五 強さについて伺ってみた ところ「羽生先生は終盤 に最善手をさし続ける正 確さが突出している」と のことで、今後とも活躍 を期待したいと思います。 参考文献 羽生善治『羽生善治 挑戦する勇気』(朝日新聞社) 大矢順正『羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密』( 勁 文社) 羽生善治『羽生善治 みんなの将棋入門』(主婦の友社)
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