『ペリクリーズ』の材源

『ペリクリーズ』の材源
この劇を始めて読んだ時、なんで中世の詩人であるジョン・ガワーが口上役として登
場するのだろうと思ったが、それはガワーの作品『テュロスのアポロニアス』がソース
だからであった。主人公の名前が変えられていたので気づかなかった。そこでさっそく
伊藤正義訳で原作を読んだ(『恋する男の告解』の最後の物語である)。「道徳家」と言
われるガワーらしい作品だが、シェイクスピアの『ペリクリーズ』の方がスマートで、
出来がいいと思った。これは『トロイラスとクレシダ』よりもチョーサーの原作の方が
いいと感じたのと逆である。『ペリクリーズ』は最初のロマンス劇と言われ、1607~08
年頃の作であり、『トロイラス』は 1602 年の作であるらしい。作者は 5・6 年の間に腕
を上げたのであろうか。
原作者が口上役になっているくらいだから、物語の筋は大体同じである。が、いくつ
かの違いはある。アンティオカス王の近親相姦の話はかなり削られ、ペリクリーズの娘
を殺そうとしたクリーオン(ガワーではストラングリオ)夫妻を主人公が滅ぼしに行く
ところも、シェイクスピアでは「市民たちが宮殿にいたクリオーンとその家族を焼き殺
した」と口上役が述べるだけで、あっさりしている。逆に、ペンタポリスの岸辺に打ち
上げられたペリクリーズを助けた漁師は一人だったが、シェイクスピアでは三人にふえ、
彼らの面白いやりとりが一場(II, i の 163 行)を成している。また、クリーオンは妻
がペリクリーズの娘を殺すよう下男に命じた時、何も言わないが、シェイクスピアでは、
クリーオンは妻の「残酷非道ぶりを罵り、妻は夫の(自分の)娘を思う情の薄さをなじ
る」
(小林昌夫氏)のである。いっそう劇らしくなっている。
伊藤氏の注釈によれば、この物語は3世紀頃、ギリシア領小アジアで出来たものらし
い。その根拠の一つは、ペリクリーズがペンタポリスという町で参加した競技が全裸で
の御前試合であったからである(シェイクスピアでは騎士たちの馬上模擬戦に変えられ
ている)
。そして5世紀頃からラテン語に訳され始め、
「現存する 100 を越す写本はすべ
て九世紀以降のもの」だそうである。ガワーが主に利用したのは Historia Apollonii
Regis Tyri という散文訳(Bodleian Library, Laud Misc. 247)であるらしい。また、
この散文訳から 11 世紀の中頃に古英語訳も作られていた。
『ゲスタ・ロマノールム』に
も入っているが、この説話集が編まれたのは 13 世紀末か 14 世紀初めと遅い。
東洋から西洋に渡来した物語は多い。ギリシアの『イソップ寓話集』、古代インドの
説話集『パンチャ・タントラ』
、ペルシア起源とされる『シンドバード物語』
(オーヒン
レック写本では『ローマの七賢人』)、12 世紀初頭にペトルス・アルフォンシというユ
ダヤ人医師がアラビア語からラテン語に訳した『知恵の教え』、等等。アルフォンシは
アラゴン王国の人であるが、キリスト教に改宗してイギリスに渡り、ヘンリー1世の侍
医をしていたそうである。当時のスペインはイギリスよりも先進国だったのだ。一方、
中世は十字軍の時代だったので、中近東へ赴いた西洋人も多かった。その代表が十字軍
遠征であり、第一回十字軍では小アジアにキリスト教徒の国まで造っている。リチャー
ド1世が参加したのは第三回十字軍であるが、10 年間の統治機関のほとんどは遠征に
費やされた。だから、彼らが東洋の文物や物語を知り、西洋に持ち帰ったであろうこと
は容易に想像される。・・・シェイクスピアが生きたエリザベス朝時代は、当然と言え
ば当然のことだが、現代よりも中世に近かった。
(補遺) その後知ったことだが、
『ペリクリーズ』の第一幕と二幕は George Wilkins
が書いた可能性があるそうだ。Jonathan Hope 著 The authorship of Shakespeare's
Plays (1994) によれば、その二幕は Wilkins の The Miseries of Enforced Marriage の
関係詞の使い方と一致するらしい。
『ヘンリー八世』は John Fletcher との合作であり、
『アテネのタイモン』も Thomas Middleton との合作の可能性があるらしい。