2003年10月8日 真の改革者 「トルコ建国の父」ケマル・アタテュルク 赤 松 順 太 ★はじめに 今なぜアタテュルクか わが国で「改革」が叫ばれて久しいが、その成果は乏しい。この原因は、内容的に改革 すべき対象・方向についての国民的合意の不在に加え、その閉塞状況をブレークスルーす るだけの意志と能力を持つ、政治指導者の不出現にある。現状を「寧世」と見なし、それ 故に「英雄を求めず」として、安閑としていてよいものかどうか。 18世紀以来、トルコのオスマン朝は、それなりに近代化を重ねてきたが、常に不徹底 に終わり、と称され、先進各国の経済的な植民地と化して、 「ヨーロッパの病人」呼ばれて いた。当然国内には混乱と対立が続き、1876年ようやく発布された立憲君主制憲法も、 翌年には早くも停止され、スルタン独裁が復活した。以後30年「オスマン主義」による 帝国支配が強化され、これに抵抗する機運が更なる広がりを見せていた。 20世紀初頭、卓越した指導者ケマル・アタテュルクの出現によって、改革(「革命」 と呼ぶべきか)は本格化した。だがその結果として、以後のトルコは新たな苦悩を抱える に至る。ハンチントンの位置づけによれば、国民はアイデンティティを共有しつつも、自 らの「場所」について指導層と民衆との間で乖離が生じた「引き裂かれた国」の典型だそ うだ。この状況を招いたことをどう評価すべきか、それを進歩と見るか、無用の混迷と見 なすか。 ★ムスタファ・ケマルの生い立ちと軍人としての前半生 1881年サロニカ(当時オスマン領)税関職員の家に生まれる。小学校では登校拒否 を繰り返し、私立学校に移されたが父親の死去で退学。11歳独断で陸軍幼年学校に進む。 数学に優れ歴史に興味を持ち、担任から「ケマル(完全な)」の称を得た。 1897年士官学校、02年少尉任官陸軍大学へ。在学中反体制組織「祖国」に参加。 05年24歳で大尉、ダマスカス配属(冷や飯)。07年サロニカに志願転任、 「統一と進歩 委員会」活動に参加したが、エンヴェル(後述)と対立して冷遇される。 1908年「統一と進歩」クーデター、翌09年スルタンの反革命に際して、エンヴェ ルを支持したが報われず、士官学校校長の閑職に。11年リビア出征。12年バルカン戦 争、ガリポリで敗戦を知る。このあとエンヴェルが政権を掌握、三頭政治が始まり、14 年ソフィア駐在武官に棚上げされた。トルコ、第一次大戦に参戦。 1915年英軍のガリポリ攻撃に備えて軍司令官に就任。死闘の末、敵を撤退させて国 民的人気を沸騰させた。これを妬んだエンヴェルによって東部戦線に配属され、対ロシア 戦線の立て直しを図る。17年シリア戦線へ。ドイツ軍司令官と対立。 1918年皇太子に随行してドイツへ。旅次エンヴェルのドイツ接近を批判、次第に疎 外される。半年間の療養ののち、再度軍司令官としてシリアへ。英軍の攻勢の前に撤退。 大戦終結(敗戦)により首都へ召還される。エンヴェル一派失脚。 1919年アナトリア(国土の大半を占めるアジア側)における治安回復のため、賛否 両論の挙句に派遣される。この間スルタン政府は、パリ平和会議に大宰相を送ったが失敗。 ケマルは同志との革命計画の協議を探知され、軍籍剥奪、続いて逮捕宣告を受ける。 ★救国戦争の遂行 1919年シバス国民会議招集。次いで本拠をアンカラに移す。スルタンは急遽議会を 招集、多数の議員がケマルの下を去る。英国との秘密協定締結、ケマルは建国直後のソ連 と提携する。 1920年イスタンブール議会が、シバス会議で策定済みの「国民協約」を採択、英国 軍イスタンブール進駐。ケマルはスルタンとの決別を宣言。スルタン、カリフ軍を組織し て、ケマル討伐を開始、内乱状態に入ったが、ケマルは民兵を組織して反攻を加え、短期 間に一掃した。以後対アルメニア、クルド勢力、フランス、イタリア軍に攻勢を掛けて、 これも短期間に逐次制圧。さらにイスタンブールへ進攻し、近郊で英軍と対峙。連合国は ギリシャを使嗾して、エーゲ海岸へ進駐させた。セーブル条約調印、トルコは亡国の危機 に瀕する。 1921年国民軍を結成。イスメットを派遣し、中西部の高原で二度ギリシャ軍を撃破 したが、第三次攻勢には後退を余儀なくされる。ケマルは国民議会に訴えて、政治・軍事 双方の統括する非常大権を獲得、前線へ赴く。サカリア川の決戦で勝利し、アンカラ政府 の威信が大いに高まる。 1922年イズミル(エーゲ海岸の大都市)にギリシャ軍を追いつめ、撤退させ、さら に北上して英軍の干渉を排除した。 ★共和国指導者として 1922年連合国は、ローザンヌ会議を招集し、二つのトルコ政府に招請状を送る。ア ンカラでは王制廃止をめぐって、ケマルと側近との間で対立が激化したが、ケマルはつい に廃止を決断、国民議会が宣言を採択した。スルタン国外に脱出。 1923年ローザンヌ条約調印(セーブル条約廃棄)。平和回復によりケマルの非常大 権は消滅。選挙の実施を決定。トルコ人民党結成。国家形態をめぐって同志との対立を深 める。反対勢力は進歩党を結成。大統領就任。共和国宣言。24年カリフ制廃止。新憲法 制定。 1925∼34年文教改革、トルコ帽禁止、太陽暦採用、民法制定、新トルコ文字、メ ートル法採用、婦人参政権、姓氏制施行などの諸改革を実施。鉄道網建設、産業振興、銀 行整備など経済政策を推進。ギリシャとの国交修復、国連加盟、モントルー条約により海 峡管理権を回復。 1925年クルド反乱を鎮圧。26年暗殺陰謀を摘発、首謀者を死刑に処し、進歩党に 拠る政敵(以前の同志)を失脚させる。28年憲法を改正して、イスラムを国教とする旨 の規定を削除。 1930年複数政党制を試行し、長年の同志フェトヒを説得して自由党を結成させるが、 不慮の大混乱を招き失敗に終る。32年の選挙では人民党のみが立候補。 1938年他界。直接の死因は肝硬変。享年57歳。 ★エンヴェルとの抗争 ケマルの半生は、同世代の出世頭で、ドイツとの同盟を推進したエンヴェルとの確執に 費やされた。むしろこれをバネとして目的に立ち向かったとも言える。 両者の共通点は①ほぼ同年齢、②軍人と関係のない庶民出身、③妥協や調整を排する、 ④20世紀初頭のすべての戦闘、革命運動に参加したことなど。相違点はより顕著である。 ①孤独・内向と社交的・目立ちたがり、②隠忍自重と直情径行、③リアリズムとロマンテ ィシズム、④軍略・作戦型と直観・実戦向き、⑤酒豪と下戸、⑥女性関係の奔放と貞節。 ケマルはエンヴェルの対独傾斜を公然と批判していたが、軍の出世街道にあって、ケマ ルは常にエンヴェルの後塵を拝し、時にはやむなく阿りを見せたこともある。ガリポリ戦 までは半ば無視され、以後は嫉妬の対象となった。後年実権を握ったケマルの、失脚、海 外逃亡後のエンヴェルとの関係は興味深い。トルコ民族主義の確立を信条にしていたケマ ルに対して、エンヴェルは、中央アジア一帯のトルコ系諸族を一丸とする「トゥラン国家」 の樹立という、やや荒唐無稽な目標に最後まで拘泥した。 ★「六本の矢」 ケマリズムの意味するもの 1931年の人民党第五回大会で、通常「六本の矢」と呼ばれる、ケマリズム六原則が 採択された。共和主義、民族(国民)主義、人民(民衆)主義、世俗主義、国家資本主義、 革命主義。これらはのち37年に、憲法にも明文化されたが、いずれも抽象的な理念の表 明に止まり、明確なイデオロギーとは見なし難い。 民族主義は、以前のオスマン主義を否定するもので、 「トルコ人」の観念を植え付けたが、 同時にクルド人問題を複雑化させた。世俗主義は政教分離の宣言であり、イスラム的制約 の排除には役だったが、民衆の間の亀裂も広がった。トルコにおける一般的な政情不安定 の一因が、圧倒的なアタテュルク信仰の一方に宿る、こうした政治原理の曖昧さにあると も見られている。 この「六本の矢」の中には、「上からの民主主義」的要素は窺えるが、手続き的な意味 での民主主義は謳われていない。アタテュルク批判の声の中で最大のものは、その独断的 手法にある。革命の同志の離反の原因もこの点にあった。 ただこうしたアタテュルクの武断的な性格は、当然に軍部の属性として引き継がれてい るが、こうした形での民主主義の欠如は、一般にはさほど問題にされてはいない。トルコ では国軍がケマリズム、つまり限定的ながらも民主主義の、担い手として理解されている。 ★むすび 独裁者か真の改革者か イスラム的専制政治の打破、民族の再生独立を成し遂げたアタテュルクが、世界史的な 英雄であるという点で、反対者を含めて異論がない。現代の視点で捉えての最大の問題点 は、前記の通りその独裁性をどう評価するかにある。 日本史上にアタテュルクの類型を求めるならば、織田信長がこれに適当しよう。叡山焼 討ち、一向宗徒の弾圧、羽柴秀吉・明智光秀など家来の処遇など、前者の信念・所行と共 通する。 アタテュルク革命は、彼の早すぎる死によって中断された。その結果、成果について賛否 両論が夙に喧しいが、彼なかりせば今日のトルコはあり得なかったという点では、万人に 異論がない。日本の現状が、20世紀初頭のオスマン朝に擬し得るとすれば、虚心にその 業績をたどる限り、そこに必ずや現在の日本にとって有用な、一個の人物像が浮かんでく るはずである。 以上
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