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命の言葉に生きる - 麻生明星幼稚園

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2016 年6月5日
麻生教会主日礼拝説教
「命の言葉に生きる」
使徒言行録5章12節~42節
久保哲哉牧師
1.キリスト教保育連盟北海道部会研修会・幼児教育の最先端をいくキリスト教保育
金曜・土曜とキリスト教保育連盟の研修会で洞爺湖にいってきました。ひょんなことか
ら四度も、温泉に入って暖まることができたことは嬉しいことでした。この洞爺湖の宿は
キ保の研修会ではよく使っているようですが、海外からの観光客を呼ぶためでしょうか。
色々なところにかつてなかったであろう日本的な「和」テイストのものがちりばめられて
いました。高級感を出すためでしょう。シックな木材の色が強調され、それぞれの湯には
檜でできたのジェット風呂がそなえつけられていました。
人口減少により国内の需要が減っているのですから、海外からの需要に応える必要があ
るのでしょう。下町の本物の銭湯を経験している者としてはちょっと物足りない「和っぽ
い」ものですが、こうした仕方で日本のよい伝統が現代風にアレンジされて見直されてい
くことは悪いことではないのでしょう。しかしながらわたしたち教会が主の福音を伝道し
ていくときに「キリスト教っぽいもの」ではなく、本物のキリスト教を宣教しなければな
らないと思わされます。
温泉出口からすぐのカフェテリアでは、おいしそうなアイスやシェイクの横で昔ながら
の瓶牛乳やコーヒー牛乳が 100 円で売られていました。他のものは観光地価格なのに、こ
れだけ 100 円なのには好感が持てました。皆昔を思い出して買うのでしょう。「昔父さん
は風呂上がりによく飲んだんだ」とかいいながら腰に手をあてて一気に飲む姿が想像され
ます。研修では多くの絵本作家や幼児教育に関わる著名な方が「子どもの頃のよい思い出
がその人を生かす」とのこと語っていることを知りました。その通りだと思います。幼い
日にあなたの創造主を心に留めよとの御言葉は本当のことなのでしょう。
それで、今回の研修のテーマは「見えないものに目を注ぐ(コリントの信徒への手紙Ⅱ
4:18)」ということでした。この題をみて、自分ならこう講演するだろうということがす
ぐに浮かびます。現代の若者たちに伝えなければならないことがこのテーマには詰まって
いるのです。
個人的に小学校から大学までキリスト教教育の営みの中で育てられました。不思議なこ
とに幼稚園での生活をこの麻生教会で追体験している者として、きっとこの「見えないも
のに目を注ぐ」こと、「人間を超えたおおいなるものに目をとめる」こと、さらにいえば
-1-
今日の箇所でいえば「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません(使徒言行録 5:29)」
との御言葉に従うことが人生を人間らしく、自由に、生き生きと生きるために必要である。
それぞれの学校が子どもたちに伝えたかったものなのだろうと、幼心にから感じていたテ
ーマだったからです。
それとうれしいことが一つありました。北海道私立幼稚園協会とか、札幌市市立幼稚園
協会とか、教会外の研修会に参加すると、最近いつも「それは知っている」、「まるでキリ
スト教保育の研修会に来ているような気がする」という思いで学んできたのですが、その
理由がわかりました。今「非認知能力の向上」とか「社会的情動スキルの獲得」とか、色
々なことがこれから学校教育にに求められてくるとのことでしたが、平たくいえば、表面
的な学力や IQ など、テストで計ることができるものが大事なのではない。人生で大事な
のは健やかな心、やさしい心、共感する心・たとえ困難があったとしてもこれを受け止め、
乗り越えるしなやかな心、元気な心を育てるということです。こうして「教会外」の研修
会で「心の教育」の重要性が叫ばれる中、牧師として感じているのは、そんなことはわた
したちキリスト教保育では100年まえから遊びを通して行ってきたことだということで
す。時代に求められているのですから、わたしたちが日々の保育の中で当たり前のように
やってきたことを、他園に紹介することであると講師の先生ははっきりおっしゃられてい
ました。その通りなのだと思います。この世の幼稚園にならうべきことはたくさんありま
すが、今、時代のニーズの最先端にいるのであるから、他の研修会で学ぶことがキリスト
教保育と似ているというのは当たり前のことだったわけです。これは本当にうれしいこと
でした。
2.「見えないものに目を注ぐ」ということ
ただし、この「見えないものに目を注ぐ」というのが難しい。
日本幼児教育の父・日本のフレーベルと呼ばれる人で倉橋惣三という方がいますが、彼は
キリスト者、内村鑑三の弟子であったといいます。講演の中で倉橋はクリスチャンとなる
か悩んでいたと何度か言われていたので、おそらくこの倉橋も内村の元を去ったのだろう
と推測します。
倉橋「も」というのは、「見えないものに目をそそぐ」内村鑑三は本当に優秀な人で弟
子もたくさんいましたが、その「主なる神を中心とする思想」ゆえに、当時の良識ある人
々がついていけなくなるということがよくあったそうです。その有名なものがあの「不敬
事件」・・・教育勅語奉読式において、内村が天皇の名に対して最敬礼をおこなわなかった
ことが同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化する、ということになります
が、それ以外にも色々なことがあったようです。
ある逸話によれば、内村の長女ルツが若くして天に召されたとき、その埋葬に際して内
-2-
村が墓の土をとり「ルツ子さん万歳」と高らかに歌い、実の娘の神の国への旅立ちを祝福
したといわれます。
日本の経済学者で、東京大学の総長をも務めた矢内原忠雄という方はその内村の持つ神
への信仰の厳しさに震撼して自らもキリスト教の信仰に献げることを決心したといいま
す。しかし、まさにに同じ時に、志賀直哉という人も内村の弟子としてその場に居合わせ
たのだと思われますけれども、志賀直哉はこの「見えないものに目を注ぐ」内村の信仰の
態度に挫折して内村のもとを離れたとも聞きます。
「見えないものに目を注ぐ」ということ。そして本当の意味で神を畏れる人間の力強さ
にふれたときに、これを受け入れる者とそうでないものに必ず人はわかれます。しかしな
がら、神を知ることによって与えられる圧倒的なこの恵みを受け入れる者はその心が、身
体が癒やされるのです。本当の安息を得ることができるのです。
愛する娘を失ったときの内村もそうであったに違いませんが、心に課題を抱えていない
人はいません。この課題を主の十字架と復活の出来事。これを告げる神の言葉が人々の悲
しみ、憂いを埋めるという仕方で人間に癒やしが起こるのです。永遠の命、尽きることの
ない命の導き手である主キリストが与え給うた本当の命を希望をもって生きることができ
るのです。その恵みを御言葉から今日も味わいたいのです。
3.パウロの師匠・ガマリエル
さて、聖書に目をむけましょう。今日の箇所には「ガマリエル」という人がでます。み
なさんはこの「ガマリエル」という人をご存じでしょうか。この人はこのあとでる使徒パ
ウロのユダヤ教時代の師匠です。パウロはこのガマリエルの弟子の筆頭であったと言われ
ています。この人は聖書以外のユダヤ教の文書にも出る人で、今でも評価が高い人です。
信徒がどんどんふえ、人々が癒やされていく。そのことで嫉妬に燃え上がっていたファリ
サイ派の人々に対して、その知恵ある姿が示されています。
ガマリエルいわく、かつてイスラエルの中にテウダとユダという力ある指導者がいたと
のことですが、テウダもユダもそれぞれメシア運動という運動を行い、ユダヤ当局、ある
いはローマ帝国に戦いを挑んだ人々と言われます。このユダについては以前紹介したこと
がありますが、神を愛するが故に、ローマに占領された状態をよしとせずに、「今こそ解
放のとき」「自分こそがイスラエルの民をローマの支配か解放する」と政治運動を行った
人です。ローマの支配下にあって虐げられた神の民を解放し、神が喜び、隣人が喜ぶため
に、つまり神に対する熱心のゆえに起こったものであったようでしたが、それぞれやり方
がよくなかったのでしょう。時の権力に屈服し、その指導者であるテウダ・ユダが処刑さ
れ、さらしものとされてその首は道にさらされたと言われます。その結果、ユダもテウダ
もメシア・救い主でないことが神の目にも人の目にも明らかになり、人々の熱狂はさめ、
-3-
ちりじりになってそれぞれの運動は沈静化していったといいます。
そこで、ガマリエルは言うのです。「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引
きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろ
うし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神
に逆らう者となるかもしれないのだ(使徒言行録 5:39-39)」
すべては神に任せなさいという非常に穏健的な態度。大人の態度です。主イエスがおか
たりになった「毒麦」のたとえに似ています。麦と間違えて本物の麦を抜いてしまったら
どうなるのでしょう。そのとき、あなたたちは神と敵対することになるのだぞ。それは避
けなさいというガマリエルです。偽りの宗教はその創始者の死によって壊滅的な打撃をう
けること。その運動が人間によるもので神の起源でないならば、戦いは不要である。放っ
ておけば良いというわけです。
ただ、このガマリエルという人。さすがに使徒パウロの師匠です。今回は、主イエスの
場合は事情が違うということをその目は見抜いております。今回にかぎり、イエスという
指導者は死んでいるのになおその運動はこれを受け継ぐ者たち、使徒ペトロたちによって
今なお続いているのです。むしろ、イエスという男が生きていたときよりも、あきらかに
その規模は大きくなっているのです。
たしかに主イエスは死にました。それもユダやチウダたちがそうであったように、むし
ろそれよりももっとひどい仕方でユダヤ当局は見せしめのためにその指導者であるイエス
を十字架にかけた。その結果、使徒たちも一度はちりじりになってしまった。けれども、
弟子たちは再び立ち上がり、その数は5000人にまでふくれあがっている。はたしてこ
れが一過性のものであるのだろうか。主なる神が働いておられるのではないだろうか。
ガマリエルの関心はここです。このペトロたちの業が人間からでたものか、神から出た
ものか。その一点を問題にするガマリエルです。わたしたちもこの言葉に聞く必要があり
ます。
ただ、ここで興味深いことがあります。それはここでファリサイ派の人々がガマリエル
の忠告を聞かずに、使徒たちをむち打って、神の言葉を語らないように指示したことです。
この行動はユダヤ人たちの「嫉妬」「恨み」「怒り」から出ました。鞭うつというのはこれ
は穏便にすませるやり方ではありません。むち打たれた者は下手をすれば死にます。殺人
と隣合わせの行為です。これは神から出るものではありません。人間からでるものです。
当時のユダヤ人たちは神を神とすると言いながら、しばしば人間の思いによって行動して
いたのでしょう。だから、主イエスの死後40年ほどたって滅びかけました。自分自身を
生きるものさし、基準にしたときに、人はゆっくりと滅びに向かって歩み始めることがこ
こからわかります。人間は弱いということ。悪に傾倒してしまう傾向をもっていることを
認めなければなりません。悔い改めなければなりません。
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その中でなぜユダヤ教が滅びることなく今日まで残っているのか。それはすんでの所で、
襲い来る苦難の中で主なる神に立ち返ったからです。現代ユダヤ教の礎を築いたのはこの
ガマリエルなのです。このガマリエルの言葉が神の言葉として今日読まれたことは時宜に
かなったことでしょう。
「見えないものに目を注ぐ」ことが失われた現代。自分を超える大いなる存在がこの日
本から失われた現代。自分がコントロールできるものが大きい者ほど道を誤る時代となり
ました。規範無き時代のただ中にあって、わたしたち信仰者が神を畏れ敬う新しい心の視
座をもったとき、その先で本当の命に生きる新しい生が開けるのです。聖霊の力を受けた
者は、愛するもののために命をすてるほどの愛まで成長をしていくのです。まことの命が
ここから始まる。まことの神の国はそこから始まる。そのことに目をとめたいのです。
4.命の言葉に生きる
使徒たちは自らの使命を宣教の中に見いだしました。生きる意味を命の言葉の中に見い
だしました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
なぜ「命の言葉を残らず民衆に告げ」る必要があるのでしょう。それは、世の人々には
救いが必要だからです。命が失われた時代にあって本当の命に触れることが必要だからで
す。本当の癒やしが必要な現代、愛が失われ、心や命といったことあらがあまり考えられ
なくなってしまった現代。そのことで人々から笑顔が失われている現代だからです。
使徒たちがなぜ苦難を忍耐し、宣教のわざに励んだのか。
神と人、人と人とが顔と顔を合わせて互いにに愛し合いながら幸いな生を送るためです。
すべての人が幸いをつかみ取り、笑顔になるためです。そのために働いた使徒たちの姿は
輝いています。罪、とが、様々な失敗を埋められて、神に愛されている現実に生きた弟子
たちは、神を仰ぎ、人に仕える。本当の完成された人格がそこに与えられています。主の
御言葉は、十字架による罪の赦し、復活の希望を信じる者は、人々を罪からあがない、心
から従うするものを「新しい人間」にするのです。復活の主は信仰者に新しい新しい命を
必ず与えてくださいます。
これより、わたしたちは聖餐を祝います。主キリストがその愛のゆえに、十字架におか
かりになったこと。これを信じるものが神の祝福の中にいることを確認する食事です。
心弱く、ふさわしくないものですが、そのふさわしくないものが「主に従う者と変えられ
るために」主が命をかけてくださった。この神の恵み、神の愛に畏れつつ、聖霊の助けを
もってこれを受け、神の愛を受け取り、慰めと励ましを得て、この一週間を歩み出したい
と思います。
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