21 世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ 24~ また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。 (6節) 神の家である教会のお世話をする監督は、家庭を大事にする人であること。パウロが打ち出したガイドラインは、大昔のエペソ教 会だけでなく、今日まで確かに有効で、有益です。そしてこのガイドラインが誰にも手が届かないことではなく、祈りによって結実 するものであり、すべてのキリスト信仰者が集中すべき課題、隣人を愛すること、とりわけ家族を主の愛によって、神様が創造され た麗しい交わりへと回復していくことであることも覚えました。 リーダーという立場に伴う困難(1)~高慢の罠~ 今回の箇所で、監督に関する審査項目は、さらに追加されます。それは、新参者ではないことです。「信者になったばかりの人で あってはいけません」とあります。全体を見るという立場は、必然的に教会のなかで一目置かれる立場になります。ここには危険が 伴う。すなわち、自分が一角の人物であるかのように思い込む危険です。それが「高慢になる」ということ。これは、「信者になっ たばかりの人」が必ず「高慢になる」という意味ではありません。「信者になったばかりの人が、監督になると高慢になる可能性が 高まる」ということです。これは逆に、新参者でなければ、高慢になることはない、という意味でもありません。監督という職に は、高慢になる危険が、常につきまとうのです。 けれども、信仰生活の年数が重なり、祈りの生活が深まるなら「自分はできる」という誇りの感覚は、次々に砕かれ崩されていく 経験へと導かれるでしょう。パウロが 1 章で自分のことを「罪人のかしら」と述べているように、神に近づけば近づくほど、できて いると思っていたことも、神の基準には到底及ばないものであり、もしできていると他の人から評価されることがあったとしたら、 それは神の恵みによる以外の何物でもないということが実感できるようになるのです。この恵みがわかっている人は、高慢という罠 に対処できるようになります。ところが「信者になったばかりの人」は、心のどこかで自分に対する信頼を、程度の差は別として持 っている場合が多いのです。そこに高慢の種が成長する危険があります。 「悪魔と同じ裁きを受ける」ことから守られるための祈り そしてそうなった場合、「悪魔と同じ裁きを受けることになる」ので、それを避けるようにとパウロは言います。ここにはイザヤ 14 章 12~15 節とエゼキエル 28 章 11~19 節が背景にあると考えられます。どちらも、地上の権力者が横暴になって神様から裁か れる様が描かれる箇所です。そしてその際にそれが「霊的な権力者」の堕落と関連付けられています。聖書が語っているのはそこま でですが、テモテへの手紙が書かれた時代になると、この霊的な権力者が「悪魔」あるいはサタンと結び付けられて理解されていた わけです。 いずれの場合も共通していることは、高い地位や権力は神様から人に付与される(それ自体は悪い物ではない)ということ、しか しその地位において「高ぶり」がその存在を支配するとき、その力が悪用され、そうなるなら、神様はその者を追放する、その職務 から罷免されるというパターンです。このパターンに陥ることが「悪魔と同じ裁きを受けることになる」ということの具体的な意味 です。 パウロはここで、このパターンを教会のリーダーにも起こり得ることとして適用します。実際にパウロが想定しているのは 1 章に 出ていたヒメナオとアレキサンデルのことでしょう。彼らは教会のリーダーの職を解かれ、教会の外に出されてしまったわけです。 そう考えると、高い地位に着く、全体を見る役目に着くということは、なんと恐ろしいことかと思います。けれども、この危険を 冒しても、その立場に立つ者がいなければ、群れはより大きな混乱に陥ります。あらゆる組織にとってもそうですが、とりわけ教会 にとって、リーダー不在は致命的です。 ですから、私たちはもう一度、2 章 1 節の祈りの勧めへと戻ることが必要です。「王と、すべての高い地位にある人たちのため に」祈ることです。その祈りには、この高慢の罠から国家のリーダーたち、教会のリーダーたちが守られるようにと祈ることが含ま れ、またリーダーが不在にならないようにと願うことが含まれます。これはリーダーだけの問題ではなく、全体の問題なのです。 C ○ Masayuki Hara 2015
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