教育論評「少年たちの社会参加の意義とその必要性にいどむ」 =少年部活動はこんな教育をしている= 国際青少年協会総主事 林 壽彦 クラブ活動という言葉は学校生活の中でよく使われているから耳慣れた言葉 であろうが、グループ活動という言葉になると案外その内容を知らない人が多 いのにおどろく。 従来日本人は上から下へという、つまり他者からの働きかけによって動く、 または動かせるという人間観が支配し、今日でも根強く残っている。親は子に、 教師は生徒に、上司は部下に、更に医師や看護婦は患者をと、みんな一方的に 動かせようと、また動かせている。このような人間観は結局相手の人間性を無 視して、これらを「もの」としてとらえ、機械を操作すると同じように人間を 操作しようとする考えである。ところが人間は本来、自分の意志によって動き たいものである。人間だけではない。すべて動物はそうである。 にもかかわらず、うまく操縦できなかったら、その基本的な姿勢を改めよう とせず、まますます強化しようとする。権力や圧力、あるいは財力をもって屈 服させようとする。そこで多くの場合、その力に屈し、自らの意志を喪失し、 操縦されるがままに身をまかせ、やがてはそれが性となり、癖となり、いつの まにかまったく依頼心のかたまりとなり、今度は操縦されることを期待するよ うになる。 こうした古典的、伝統的な人間観によって操縦され、今日のこどもたちや青 少年はひとりでは何もできないようになり、いつも人から指示をされなければ 動くことをしない。いつも人をたより、いつも人の思惑を気にして疲れはてて いる。また、上から下に一方的に働きかけることは、働きかけるものの自発性 を無視するだけでなく、働きかけられるものとの相互の人間関係を阻害する。 このような無力化したこどもたちや、青少年にふたたびいぶきを吹かせ、自 主的に責任感をもって立ち上がらせるためには、どうしても小集団によるグル ープ活動の必要と、集団治療が重要になってくる。親がいるときには、よく兄 弟げんかをするこどもでも、親の留守中はなかよくすごすものである。これは 兄弟の間に協力体制が生まれてくるからである。A は B を必要とし、B もまた A が必要になるからである。さらにこどもが3人いるとしよう。A、B、C であ る。その場合の多くは、A、B の2人の関係が成立するものである。それに対し て残った1人、即ち C は第三者として、観察者であり、仲介者であり、調停者 の役割を演じる。A と B の当事者が夢中になって気づかなかったようなことで も、C は冷静に観察し、評価し、当事者にフィードバックすれば、A も B も益 することが多い。この C の役割をグループ活動の中ではリーダーが演じる。 この C が親であることも可能である。それは民主的な親であり、できるだけ A と B の相互の人間関係を尊重し、主導的に出ないで、静かに A と B のなすと ころを観察し、媒介し、調停するのである。A と B の上にあって、これを監視、 監督するのではなく、A、B と同列にあってあたたかくその活動を見守ることが できなくてはならない。また、C を教師や、上役などに置きかえてみても同様 である。 いまここに2つの対象的な歌で考えてみよう。むかし「雀の学校」という唱 歌があった。 雀の学校の先生はムチをふりふりチッパッパ、まだまだいけない チッパッパ、も一度いっしょにチィーパッパ と歌っている。そして今ひとつ は「メダカの学校は川の中、だれが生徒か、先生か、だれが生徒か、先生か、 みんなでお遊戯しています」と歌っている。この2つの歌は実におもしろい比 較である。どちらの学校の先生も、指導者の在り方をあらわしているが、さて、 どちらがこどもにほんとうに大切な指導者といえるか、もういうまでもないこ とである。 昭和36年夏、国際青少年協会が青少年とこどもを対象に、たのしみながら 知らず知らずのうちにまなぶサマースクールという事業をはじめた。 当初、広島市内のこどもたちを対象にしてひらかれていたが、いつのまにか 今日では全国ほとんどの都道府県下からこどもたちが広島にやってくるように なった。 このサマースクールは、青少年の兄さん、姉さん、的リーダーのもとに、こ どもたちが、自由に自発的にたのしみながら自然にまなぶという、従来の古典 的、伝統的教育指導法から脱皮し、これまでのあらゆる教育方式という独自の 開発した方法とを複合交錯した、指導方法をあみだした。それは、被指導者で あるこどもたちはもちろん、指導者である青少年たちもふくめてたのしめる学 習なのである。全国でその例のないユニークなものとして、文部省をはじめ、 各方面から高く評価されているサマースクールは、もう一つ思いがけない事実 があった。それは、こうした複合交錯の目にみえない組織と事故が16年間、 あの冒険的な、また危険な自然の中で、けが一つ起こらない無事故の連続であ った。 こうした全く新しい教育方式をもってするサマースクールは、全国のこども たちに魅力あるものとしてとりこにさせてしまった。そして、それらの教育効 果を日常化させたのが広島国際青少年協会の少年部というグループ活動である。 こどもは従来から家庭と学校の2つの世界を往復しながら成長するものと思 われていた。そして、家庭では躾を、学校では学習を分担していた。しかし、 現代のようにマスコミの発達、情報化社会や、激動する国際情勢の中で、家庭 とか、学校でまなぶことだけでは十分ことが足りるとはいえなくなった。こん なときに、こども時代にこんな経験をもたなかった親たちが、自分の体験した 知識の中に、こどもを押し込み、その中で何をつかませ、何をさせようとして いるのだろうか。せっかく無限の世界、未知の世界にいどみ、ひろがろうとし ているこどもを、おとなの体験した過去のせまい枠の中にどうして閉じ込めな くてはならないのか。 おとなの生活を考えてみると、はたしておとなとは、家庭と職場だけの往復 生活だけで毎日をすごしているだろうか。また、外に働きに出ない主婦を例に とってみても、毎日の家事と買い物だけの生活で終わっているだろうか。 そこには良し悪しの問題は別として、家庭や職場以外にもう一つ生活空間を うめる場をもっている筈だし、その生活空間の在り方、使い方に何が、家庭生 活にも、職場での行動にも大きく影響をあたえている。このことは、おとなだ けでなく、こどもたちや、青少年にも同じことがいえる。しかし、おとなたち は、親たちは、自分の生活空間を大切にしているにもかかわらず、こどもたち の生活空間を全然みとめようとしないのは何故だろう。もしも、おとなの生活 空間を取りあげてしまったらどうなるだろうか。 特に現代社会のように、多種多様なマスメディア、メカニズムの発達の中で 生きていくためには、自由で、自発的な、自分の力によって試すことのできる 経験の場をもつことは、非常に貴重なことである。 たとえ親たちがどのように妨害しようと、取り上げようと、こどもたちは、 この生活空間をみつけそれをうめるために、あらゆる手段と方法を講じても作 るだろう。そして、親たちが取り上げれば取り上げるほど、彼は秘密のベール の中に入っても、この生活空間を守るだろう。 となれば、親たちは逆に、こどもたちが生活空間をうめるにふさわしい場を、 安心して放り出せる場をみつけ、作り、あるいは、こどもたちに協力して作り 出させる方向に働きかける方がよほど効果的といえるのではないだろうか。 こどもたちは、この生活空間、第3の生活の場において、自由に、自発的な、 自分の力によって試すことのできる経験の場として、その中で集団への適応や 社会への参加を徐々にまなび、人々との協力、集団のルールや結合力、さらに、 リーダーシップなどを体験的にまなんでいく。サマースクールがなぜあれだけ こどもたちの心をとりこにし、そして、短期間の内に、どうしてこどもたちが あれだけ変化していくのだろうか。サマースクールに何があるのか。何がそう させるのか。 国際青少年協会少年部のように、家庭でも、学校でもない、まったく異質の 場が、こどもたちにとって第3の生活空間の場であり、必要不可欠のものであ ることはもう理解できると思う。少年部は A,B,C の人間関係をうまく組み合わ せた組織であり、こどもたちの知られない資質を掘りおこし、体験的に、知ら ず知らずのうちにたのしみながらまなぶ場であり、年令幅のひろい青少年(こ どもたちとリーダー)が縦横の人間関係を民主的に進め、さらにふかく結びつ く環境をつくり出している。 「朱に染まれば赤くなる」という諺があるが、縦横 の民主的、自主的な人間関係の中にあってそまることはよい色にそまることは あっても、決して悪い色にはならないだろう。そこには権利主張のみの現代社 会とちがってたがいに信頼しながら義務と責任を果すことによって得た権利の すばらしさ、その価値を、理屈ではなく、活動の体験から身につけ、大切にす るだろう。そして、その満足感、充実感は、こどもたちを意欲的にさせる。こ れらは、家庭や学校生活ではまなぶことのできないものであり、少年期にどう してもまなばせておかなければならないことである。 『学校と家庭の生活だけでも立派に成長するし、その他の所で、悪いことを おぼえて帰るより、親は安心だ』という親がたくさんいる。 しかし、その立派な、親が安心できる良い子という定義は実に問題である。 さらにこどもが親のいうように学校と家庭だけを往復しているとは思わない。 こうした家庭では、学校の用でおそくなったとか、先生とはなしていたとか、 図書館でべんきょうしていたとこどもがいえば、すっかり安心し、満足してい る親が多い。学校とか、先生というだけで全く安心(実は野放し)したり、盲従 している親にかぎって、この定義をふりまわす。 多くの親がもっともよろこび、安心することは、成績がよくて学校からまっ しぐらに帰ってくるこどもで、親にさからわないでよくいうことをきくここど ものことであろう。そしてこれが親の言う「よい子の定義」であろう。古典的、 伝統的な教育の在り方は立派に今も生きているのである。 親は、だれよりもこどもを愛し、伸ばしてやりたいという心は言葉ではいい つくせない大きなものである。しかし、だからこどもを理解したことはないし、 こどもたちに親の心を理解しろということはいえない。また、仮に理解したと いってもどこまで理解できているだろうか。 現実には、学校でも、家庭でもこどもたちは自分を真に出していない。みせ ていない。学校生活とこどもの関係は、よい成績であれ、悪い成績であれ、そ こには成績という鎖でむすびついているため、こどもは自分自身を十分にみせ ない。というより、出せないというほうが真実かも知れない。家庭ではどうか。 これまた、親の過去の体験世界が優劣する親の権威(というより権力や威圧と いった類のものが多い)や、親のエゴの前に、こどもたちは自分の殻の中に閉 じこもってしまい、自分に都合のよいとき、悪いときの両刃をうまく使い分け る二重の顔を持っている。こうしたこどもは、家庭で話すことばつかいと、一 歩外に出たときのことばづかいが全くちがうのにおどろく。いわゆる「よい子」 の定義のあてはまるこどもをみていると、実に行儀がよく、きちんとしたこと ばづかいで、まことに躾のよさそうにみえる。こうしたこどもをじっとみてい ると、よい子だとか、模範的なこどもだというより、何か作為的に作られ、今 にも破れはしないかとハラハラさせられたり、変におとなぶっていやな味を感 じることが多い。 こうしたこどもたちは、自らが労することをきらい、他人が汗して得たもの をぬすみとることが巧みで、自分が不利になったり、窮地に追い込まれると、 責任を転嫁したり、それらから逃避するために、あらゆるちえと方法を講じる のはなぜだろうか。 では、こどもの成績は悪くてもよいのか、ということになるが決してそうで はない。あたえられた教育の枠の中で、只成績をあげるために学習をして、仮 に成績があがったからといって、先に述べたようなこどもになったりしたので は何にもならない。自分自身の自発的な、自分を試すといった力によって身に ついた学習や成績でない限り、真の学習効果とはいえない。学校や家庭がよく ないといっているのではない。現状では誰がやったとしても、今以上の方法は 考えられなかっただろう。しかし、ここで大切なことは、社会の流れがそうだ からといってそうなってしまったのではどうにもならない。考えなくてはなら ないことは、だからこそ、学校や家庭以外の第 3 の生活空間の場で真実をとり もどす機会を、自ら考え、自らの力を試す機会をこどもたちにもたせてやらな くてはならないのではないだろうか。 多くの親は、自分のこどもの問題について、学校の教師からいろいろききた いであろう。おしえてもらいたいこともたくさんあるだろう。それなのになぜ 学校を訪れ、先生とはなしあわないのだろうか。そこにはやはりこどもの成績 というものが横たわっているからである。親でさえも、成績という怪物の前に、 自分の自由の意志で動けないではないか。親と教師の関係は、本来、成績の問 題より、こどもの成長発進のプロセスについて相談したり、協力しあっていく かんけいでなくてはならない筈である。さらには、生活空間(少年部など)の 三者で埋めあって、こどもの成長のために力をあわせなくてはならないもので ある。より多くの正確なデータを集め、分析し、こどもの将来のために力を貸 すことが教育といえよう。飼育と混同することは危険だ。 よく親たちが「少年部に入ったら勉強時間が少なくなる」とか、 「受験にさし さわる」などいってこどもたちの第3の生活の場を取り上げるが、こどもたち の自由な、自発的、自主的な、自分の力を試す機会をとりあげてしまったので は、こども自身が自分の責任で学習しようという意欲をおこす機会をなくする ことに等しい。親ができることは、一緒に学習することでもなければ、学習云々 というテープレコーダーでもない。いかにしてこどもたちが自分に責任をもつ ようになるかとあらゆる機会とデータでもっておしえることである。いろいろ な角度からこどもについてデータを集め、いつなんどきでもこどもがぶつかっ ていける親になる努力をすることである。 自分の経験した過去を押しつける古典的な親になるより、自分も一緒に経験 したことのない未知のものに、こどもと一緒に考え、努力できる親に成長して ほしいものである。
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