Performing Arts Review (26) 「山口百恵 赤と青とイミティションゴールドと」(中川右介著、2012/9 刊) 平成 24 年 9 月 12 日 中 野 希 也 帯書「スーパースターの伝説と真実。赤い疑惑に涙を流し、青い果実にどぎまぎし、横須賀 ストーリーに興奮した、あの時代」 出版直後に知人が送ってくれた 500 頁の文庫本を一気に読んだ。著者は、「いったん当時の 記憶をすべて消去し、文献と映像資料で確認した上で『山口百恵とその時代』を追想するた めのひとまとまりの資料として書いた」 引用した参考文献は、当時の新聞、雑誌の他に 1974-2011 に出版された 106 冊に及ぶ。 私は、2004 年の「アンソロジー山口百恵さん」以来、計 4 回に亙り寄稿してきた為、今回 筆をとるにあたり、聊かの躊躇を感じるが、やはり書かねばならない。 引退から 30 年以上経った百恵さんを凝りもせず何故取り上げるか。百恵さんは、いまなお 人々の心に住んでいるのだ。先月、偶々見た日本の人気 TV 番組「笑点」で百恵さんの人気 を目の当たりにし、ファンなのは私だけではないと納得したからである。 司会の「嫁さんが、ワタシ TV に出たいわと言う。さあ、どう答えるか?」の問いに、一人 の落語家が「オレは嫌だね、反対だ。何故?キミにはいつまでも三浦百恵でいて貰いたい」 と答え、ドッと会場が沸いた。「山口百恵」は、いまだ死語ではない。 「個人としての山口百恵」が三浦百恵となって生き続ける限り、人々の関心となる。 私自身は「横須賀ストーリー」以後の全てのレコードは持っているが TV ドラマ・映画は見 たことがない。歌謡曲に関する部分の記述をそのまま引用するので著者の筆致を感じてもら いたい。 「何故私達日本人は百恵さんを忘れることができないか」についてひとつの解を得た。 ********** 1972 年 6 月 デビュー 「夜でも昼でも、おはようございまーすなんて言って媚びる ところがなく、昼にはちゃんと、こんにちわっていう芯の通った 人だった。それでいて陰がある。陰のある尐女って大人から見たら 色っぽいのよ。そこが魅力であり不世出なところだよね」(篠山紀信) 「パーマをかけた厚ぼったい髪で耳を隠し、その上大きな花柄のムームーのようなロングド レスを着ていたのである。マネージャーに、もうすこし若々しい衣装がいいんじゃないと言 った。すると彼は、この子にはミニスカートは駄目なんだと言う。そして山口百恵に、おい、 ちょっと見せろと言った。 山口百恵はドレスの裾をつかんでスルスルと持ち上げた。それ はいささか痛々しい光景であった。十四歳になったばかりの尐女である。当然羞恥心もあっ たはずである。が、このとき、彼女は表情一つ変えなかった。 やがて私の目に飛び込んできたのは、左の膝小僧の上の、赤い花びらを貼りつけたような痣 であった。このときの赤い花びらは、今も思い浮かべることができる。が、それにもまして わすれられないのが、無言のまま虚空を見据えたような彼女のまなざしだった。このとき、 私は山口百恵という尐女に底知れない凄みのようなものさえ感じた」(酒井政利) 1976 年 6 月 <横須賀ストーリー> 阿木耀子作詞/宇崎竜童作曲/萩田光雄編曲 ♪これっきり これっきり もう これっきりですか 街の灯りが映し出す あなたの中の見知らぬ人♪ 年よりすこし大人びて見える尐女、そのくせ笑うと、とても あどけない尐女。その尐女に何を書いたら良いのか、本当に 迷ってしまった。そして、さんざん悩んだ末、私と百恵さんに とっての唯一の共通点である横須賀をテーマに書いてみようと思い立った。(阿木耀子) 最初から山口百恵には、思い入れがあった。横須賀で育ったという共感、仲間意識、それに 影を引きずっているというか、すごく辛そうにやっているところが、薄幸で可哀そう、なん とかしてやりたい・・・・・・不思議な魅力だった(宇崎竜童) 吃驚するのは「これっきり これっきり もう」のサビの部分が冒頭にあるという、形式を 逸脱した点にある。最初は冒頭にはなかったが、夫妻が曲を作っている段階で、阿木が、こ れは冒頭にも置いたほうがいいと言ってこうなった。阿木耀子という駆け出しの、つまりは 業界の常識というものに染まっていない人ならではの発想だった。 しかし厳密には、人々が最初に聴いたのは「これっきり これっきり」というサビでなく、 ダウダ、ダウダ、ダウダ、ダウと始まるイントロだ。「これはなんだ」「何が始まるんだ」 と思わせるものだった。 これは萩田光雄によるアレンジで彼の貢献は大きい。以後の山口百恵の阿木・宇崎コンビの 曲も萩田がそのほとんどをアレンジしていき、その意味ではこの三人によって、山口百恵の 曲は、歌謡曲という大衆消費の場での前提として、旧体制を破壊していく前代未聞の路線を 歩むことになるのだ。 1977 年 7 月 <イミテーションゴールド> ♪シャワーのあとの髪のしずくを 乾いたタオルで拭きとりながら♪ 阿木耀子/宇崎竜童/萩田光雄 この曲は、この時期既に恋愛においても主導権が女に移りつつあることを示している―とフ ェミニズムの観点から、これぞ歌謡曲における女性解放宣言だと、もっともらしく書いても いいが、やはりこの歌も、詞と曲、そしてアレンジと山口百恵の歌唱が渾然一体となり、思 想性と猥褻性もどこかにいってしまい、山口百恵の歌として大ヒットしたとみるべきだ。 こうして現代の女を歌ったかと思うと、発売の一週間後には、女のほうが二歳年上というだ けで結ばれない明治の悲恋物語のヒロインも演じてしまう。テレビ映画「野菊の墓」である。 この変幻自在ぶりこそが、山口百恵の真骨頂だ。去年の男と今年の男を比べる一方で、年下 の従弟との結ばれない恋に悲嘆して病を得て死んでしまう。 この時点ではすでに、歌手山口百恵と女優山口百恵は完全に分化していた。歌の宣伝のため に女優をしているのでもなければ、映画やドラマの宣伝のために歌っているのでもなかった。 二つの人格が競い合うことで 18 歳にして山口百恵は日本芸能界の頂点へ向かおうとしてい たのだ。 映画と歌の両方で持続的かつ同時並行的に成功したのは、美空ひばりと山口百恵しかいない。 吉永小百合にもヒット曲はあるが女優としての余技であり、松田聖子の映画やドラマは歌手 としての余技だ。小泉今日子は女優として評価された時点ではもう歌手ではなかった。 1978 年 5 月 <プレイバック Part 2> 阿木耀子/宇崎竜童/萩田光雄 ♪緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ ひとり旅なの私気ままにハンドル切るの♪ 馬鹿にしないでよっていうフレーズがあったんですけど、 それが 2 回くるんですね。最初は本当に怒って 「馬鹿にしないでよ」、2 回目は彼(恋人)に対して 「馬鹿に……」っていう女心で言うの。それを本当に 歌い分けてくれた時は、びっくりして「あ、そうか」 っていうふうに、書いたほうが逆に驚いちゃうような、 やっぱり凄い人でした。(阿木耀子) この年の「紅白歌合戦」では山口百恵が<プレイバック Part 2>で紅組のトリを務めた。 「19 歳のトリ」というのは史上最年尐であり、いまだに破られていない記録だ。 紅白ではどう歌うかも注目されていた。というのは、この曲の歌詞には「ポルシェ」という 特定企業の特定ブランド名が出てくることから、NHK も番組で歌うときには「まっかなク ルマ」とすることを強いられていた。そのことを知った人々は、NHK の官僚主義ぶりに驚 き呆れていた。 全国民が注視するなか、山口百恵はしっかりと「真紅なポルシェ」と歌ったのである。普段 は役所の言いなりになっても、祝祭の場ではそうはいかない。芸能が官僚主義を打ち破った 瞬間だった。19 歳の尐女は、電波を支配し、その姿とその歌声を日本国中に流させたのだ。 緑の中を走る紅い車はポルシェでなければならないという、藝術的必要性から、それを貫い たのだ。 こうして私生児として生まれ、けっして豊かな家庭に育ったわけではない尐女は、わずか 19 歳にして、この国最大の国家の鉄道会社と対等に提携し(注 旧国鉄の Discover Japan の CM ソング<いい日旅立ち>のこと)、全国をネットワークする国家の放送局とも対等にわ たりあったのである。鉄道と電波を制圧するのが革命の条件だとすれば、山口百恵は日本史 上、ただひとり、その勝利がたとえ一瞬のものだったとはいえ、真に成功した革命家だった。 1980 年 10 月 ファイナルコンサート 純白のウェディングドレスのような衣装で現れ、 「わたしのわがままを許してくれてありがとう。 幸せになります」と言って、<さよならの向う側>を 歌いきった。 ♪何億光年 輝く星にも 寿命があると 教えてくれたのは あなたでした♪ 途中で何度か詰まりながらも最後まで歌いきると、白いマイクをステージの客席側の端に静 かに置いた。そして客席に背を向け、ステージの奥へと向かった。振り向いた。頭をゆっく りと下げた。すると、彼女を乗せたゴンドラが静かに上がった。昇天していくようだった。 こうして、多くの才能が結集して創り上げた「総体としての山口百恵」は引退した。 ********** 「1970 年代の『芸能界』総体へのオマージュ」として書かれたこの本を読むと、過酷な芸 能界の中でレコード、テレビドラマ、映画、舞台、写真モデル、自伝の作家として商業的成 功と芸術的成果を両立させていった山口百恵さんの偉大さにあらためて驚嘆する。 昭和の国民的スターとして、美空ひばり、石原裕次郎、長島茂雄、王貞治に比肩すべき存在 なのだ。現役として活躍した期間は、それぞれ 40 年、31 年、16 年、21 年である。因みに、 目をアメリカに転じると Marilyn Monroe は 15 年、 Elvis Presley は 23 年。 百恵さんは 14 歳から 21 歳までの僅か 7 年間で表舞台から去った。 このスピードは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を思い出させる。 仇敵同士の家に生れた若い男女の悲恋物語は、たった4日間のできごとである。 仮面舞踏会でロミオをジュリエットを見た。 「耳を飾る目映い宝石さながら夜の頬に輝いているー手にとるには余りにも美しい、この世 のものとは思えぬ!雪を欺く白鳩が烏の群れに降り立ったのか、娘たちに立混じりひときわ 燦然と輝くあの美しさ。まことの美というものを、俺は今の今まで知らずにいたのだ」 (福田恆存訳) このときジュリエットはあと2週間あまりで 14 の春を迎える令嬢だった。 お互いの純粋な恋心と情熱は、ただただ、ひたすらまっしぐらに駆けた。バルコニーでの逢 瀬、結婚、逃避、隠遁、仮死、目覚め、永訣に至るまで 100 時間に満たない。常人であれば、 一生かかって経験することを4日間で経験した。私は、この全力疾走に心を打たれる。 古今東西、かくも短時日で終結したトラジェティック・ロマンスがあっただろうか。 今年、思いがけないときに、百恵さんの歌に触れた。 演歌の名花、藤あや子は「謝肉祭」(1980)を唄った。 ♪愛して愛して 祭りが始まる 愛して愛して 夜が始まる♪ JAL の機内オーディオで「モノトーンの肖像画」(1976)が流れていた。 ♪正確なデッサンで 輪郭を 力強いタッチで太い眉 真っ白なキャンパス やさしい目 鉛筆削り直し 長いまつげ♪ 百恵さんと同時代を生きた人たちにとって、彼女の駆け抜けた7年間の一閃の煌きを忘れる ことはできない。
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