第8号 DEC. 2007 視点 明治44年(1911年)2月、夏目漱石は文部省が授 漱 石 い わ く ﹁ 科 学 者 は 道 楽 が 本 職 で あ る ﹂ れが職業である。時代とともに職業は細分化して行く。 けると通知してきた文学博士号を辞退した。漱石45歳 世の中は多種多様な職業で支えられている。考えてみ のときである。漱石は、言うまでもないが、『吾輩は猫 ると、職業は他人のためにするものだ。イヤでも自ら である』『坊ちゃん』などの作品で知られる近代文学の に強いて金を稼ぐのが目的である。もともとは好きで 源流を形づくった文豪である。 していることでも、いったん商売となると客の機嫌を 博士辞退は世間の注目を集めた。その余韻が冷めや らぬ8月、関西に講演旅行に出かける。その口火とな った明石講演のテーマは「道楽と職業」。なかで、「芸 とり、お世辞の一つも言わなければならない。つまり、 職業とは他人本位なものである。 ところが世の中には他人本位では成り立たない仕事 術家(小説家)や科学者は道楽が本職」と述べている。 がある。たとえば、科学者、芸術家。これらは職業で 100年近く前のことだが、いまでも深くうなずける内 はなく道楽でなければならない。 容。さすが漱石である。 共通しているのは、自分本位でなくては成功しない 漱石はジャーナリストの面を持っている。当時朝日 ことである。他人のためにするのでは己(自分)がな 新聞の社員だっただけではなく、社会現象の見方に相 くなる。己のない科学者、芸術家などはセミの抜け殻 通じるところがある。さすが漱石と思うのは、そんな 同然で、ほとんど役に立たない。人に褒めてもらいた ところに共感するからだろう。 い、お金を出してもらいたいという一心でやる仕事に、 漱石が説くところは、僭越ながら要約すると、次の ようなことだ。 昔は衣食住のすべてを自分で面倒を見ていたが、文 明が進むとともに一部を他人に託すようになった。そ 小出 五郎 元NHK解説委員、科学ジャーナリスト 漱石は小説家だから、分類すれば芸術家にあたる。 精神がこもるはずがない。だから、これらの人にとっ ては、道楽が本職となる。その道楽の結果が、偶然他 人のためになって、他人に気に入られただけの報酬が、 運が良ければもたらされる。 1964年東京大学農学部(放射線生態学専攻)卒業後、NHKに入局。科 学番組ディレクター、解説委員を経て、大妻女子大学教授。現在はフリー の科学ジャーナリスト。日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会 長。 『仮説の検証:科学ジャーナリストの仕事』 (講談社、2007)他。 元の興味を惹きそうな提案をして、研究費を獲得する。 文学博士辞退に触れて、「もっと売れ口のいい小説を書 獲得したからには成果を出さなければならない。リー けと命じられても、それはできない。己を捨てなけれ ダーはチームのメンバーに細分化したテーマを割り振 ば立ち行かぬように強いるのは、自分を殺すと同じ結 る。メンバーは与えられたテーマで結果を出すべくが 果に陥る」として、ある職業を究めた「専門家」の称 んばる…。 号である博士はかえって迷惑、むしろその逆の仕事な のだからと、カッコよく啖呵をきっている。 私は、ジャーナリストも同じだと思う。己を捨てて しまうならばジャーナリストではありえない。科学者、 芸術家だけの話ではない。 漱石の言うように、私も科学者は己を捨てないで欲 しいと思う。だが、このような競争重視の環境の中で、 己を忘れないでいるのは、よほど努力しないと難しい だろう。それでも敢えて、期待したいのだ。 もちろん、科学者が孤立した専門という井戸の中で、 それはさておき、このところの世の中、なんだかヘ 仙人のような研究をしていればよいということではな ンである。科学者の世界にかかわることだけでも、こ い。社会とのつながりが重要なことは当然である。要 れまであまり馴染みのなかった言葉が日常化している。 は、バランスの問題かもしれない。 ねつ造、改ざん、隠ぺい…。己を捨てて儲けようとし ている人が多くなってきた。研究者を取材に行っても、 「自分本位の」研究より「他人本位の」研究について聞 く機会が断然増えている。研究には資金が必要だ。い ま、先行き大きな利益が出そうなところに、政府や企 業は巨額の研究費を出資する。科学者のほうは、出資 東工大統合研究院が進めるソリューション研究は、 バランスのとれた研究を目指す、現状改革の試みと聞 く。 ぜひ、新しいモデルを創ってもらいたい。 〈参考:夏目漱石『漱石傑作講演集』(ランダムハウス講談社、 2007) 〉
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