由宇にあった映画館

由宇の歴史③
由宇にあった映画館
これは、由宇町にあった娯楽施設「喜楽座」の写真です。商工会と森野組さんのちょうど真ん
中あたり、坊ケ迫団地に向かう道ぞいにありました。これは当時、由宇町でお店を営んでいる人
たち(現在の商工会)の出資でできたものです。出資者には劇場の優待券がありました。
戦前の喜楽座は演劇が中心でした。観客席の前方はタタミ敷きで、寝転んで鑑賞していたとい
うことです。冬には所々に火鉢が置いてあり、暖をとりながら気楽に鑑賞することができました。
また、後方には椅子がありました。約500
人の観客を収容できた喜楽座ですが、屋根
はトタン葺きで、雨が降ると音声が聞きずらか
ったということです。
当時、家で蚕を飼う家庭が多かったため、
蚕を卵から孵化させる場としても使われてい
たそうです。
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喜楽座は、最初は演劇が中心でしたが、時にはサーカスなども催されていました。昭和19~
20年には広島湾を監視するレーダー部隊が青年学校(現由宇中学校)と喜楽座(由宇演劇)を
使用した時期がありました。昭和25年から閉館する昭和35年までは、映画館となり、名前も喜
楽座から「由宇演劇」となりました。由宇小学校の児童も時々全校で映画を観に行っていたそう
です。
由宇町内に粟川、佐多、大久保などの織物工場が有った頃には、工場で働く人たちが毎朝由
宇駅に400人近く降りていました。そして、喜楽座(由宇演劇)は工員の娯楽の場としてにぎわい
ました。(その後織物業は次第に衰退しました。)鶴田浩二の映画や「赤胴鈴之助」などが上映さ
れていたそうです。
その頃は、大竹の映画館とフィルムを共同で使っていました。大竹で上映した後、電車で由宇
に運んで上映していたのですが、ある時電車のダイヤが乱れて映画の後半が届かず、観客はし
ばらく待つように案内され、結局見終わったのは夜中の1時だったということもあったそうです。
しかし、次第にテレビが家庭に普
及し、映画を観に行く人たちもだん
だんと減っていきました。そして、や
むなく昭和35年にこの劇場も閉館
となり、建物も解体されました。
喜楽座があったのは、
このあたり
昭和7年ごろの喜楽座
【参考文献等】
「由宇町歴史ものがたり」(由宇町ふるさと学習実行委員会)
※由宇支所の松田主事さん、郷土史家の村田昭輔さん、学校安全ボランティアの
藤中さん、白木さんからもご助言をいただきました。
(文責:辻本)
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