分子シミュレーション研究会会誌 “アンサンブル” Vol. 12, No. 1, January 2010 (通巻 49 号) 9 [3-1] Berni J. Alder 氏インタビュー (財)豊田理化学研究所(金沢大学理学部 名誉教授) 樋渡保秋 [email protected] 名古屋工業大学・創成シミュレーション工学専攻 礒部雅晴 [email protected] 核融合科学研究所・シミュレーション科学研究部 伊藤篤史 1 アルダー転移 50 周年 [email protected] 加えて行われた.記録を記事にするにあたって,ビデ アルダー (Berni J. Alder) 氏 (1925.9.9-) は,世界で最 オからの一言一句の正確な文言の記録は,口頭で述べ 初に電子計算機を使って,分子シミュレーションの方 られたことの正確な記載や翻訳作業を経るとかえって 法論を開発した創始者の一人である. 読む際に困難を伴う等の理由から,誌面の制約も考慮 2007 年は,アルダー氏とウェインライト氏 (Thomas E. Wainwright:1927.9.22-2007.11.27) が分子動力学法に より剛体球系の固相−流動相相転移 (いわゆるアルダー し,本インタビュー記録は会話の主要なポイントを読 転移) が最初に発表された年 (1957 年) から 50 年の記 樋渡保秋氏,礒部雅晴氏,伊藤篤史氏の略で文中の敬 念の年であった.日本では,この特別な年を記念して, 称は省略した. みやすくコンパクトに縮小編集した.インタビュー中 の Alder,樋渡,礒部,伊藤は,それぞれ,B.J.Alder 氏, 分子シミュレーション 50 年の歴史を振り返り,今後の なお,科学史(歴史的観点から)の重要な資料として 分子シミュレーションの可能性を探る機会として,日 のアルダー氏へのインタビュー記録は,1997 年 5 月に 本物理学会誌,分子シミュレーション研究会会誌「ア 行われた George Michael 氏による “Stories of the Devel- ンサンブル」誌において,解説記事合計 18 編からなる opment of Large Scale Scientific Computing at Lawrence Livermore National Laboratory” の証言者の一人として の記録 [6] や,2001 年のボルツマン賞受賞を記念した, アルダー転移 50 周年記念特集が出版された [1, 2].ま た,2007 年 11 月末には,アルダー氏を日本に招聘し て,分子シミュレーション討論会(金沢)における特別 セッション (11/28) とアルダー転移 50 周年記念シンポ ジウム (Symposium on the 50th anniversary of the Alder transition — Recent Progress on Computational Statistical Physics —)(11/29-30) が開催された [3].なお,シンポ ジウムのプロシーディングスは,ウェインライト氏の memoir をアルダー氏により,ご寄稿いただき,2009 年 4 月に発行された [4].また,最近アルダー氏は,ア メリカ国家科学賞 (National Medal of Science) を受賞さ れ,2009 年 10 月にはホワイトハウスでの授賞式にて, オバマ大統領よりメダルを授与されており [5],現在も 活発に研究活動をされている. 2007 年 11 月の来日の機会に際し,貴重な機会を利 用してアルダー氏へのインタビューを行い,ビデオに 記録をした.計算機シミュレーションの歴史や将来の 展望などに関して,興味深い話が聞けたが,本稿はそ の様子や内容に関して概要をまとめたものである.イ ンタビューは, 「アルダー転移 50 周年記念シンポジウ ム」の翌日の 2007 年 12 月 1 日に,金沢 JAL ホテル にて,企画発起人の樋渡と礒部がアルダー氏に質問す るという形で,ビデオ係として同席した伊藤篤史氏を CECAM の Donal Mac Kernan,Michel Mareschal らに より行われた記録 [7] が大変詳しい.ご興味をお持ち の方は,是非参考にされていただきたい. 2 インタビュー記録 樋渡 OK,バーニ(Alder 教授).それではインタビュー を始めたいと思います.今回の「アルダー転移 50 周年」記念企画とアルダーシンポジウムの率直な 印象はいかがでしたか? 10 The Molecular Simulation Society of Japan Alder これらの企画,シンポジウムの運営や発表内容に は,大変満足しており嬉しく思います.特に,日 本にこのように多くの大学院生を含む若手研究者 が,私(Alder 氏)のこれまで行って来た計算機を 使った(非平衡系の)統計力学の研究,特にロン グタイムテールやガラス転移などに関連して,今 日のより強力なコンピュータを使って研究を深化 発展させて遂行していることには大変驚いていま す.私の印象では,このような傾向はアメリカや ヨーロッパに見られないことで,日本ではより活 発に研究が行われていると感じます.私は,若い 世代の研究者との交流が最も大切と考えています. 私の現在の研究も若い研究者との濃密な議論を経 て遂行してきています.この議論なしで,研究は 成り立ちません.私は長い研究生活でそれを実感 しています.私の現在の日々の生活は,お昼頃ま では何もしないことにしています.昼食の後から, 樋渡 そうでしたね.先生は単純明解を好まれることを 何かの機会に知っておりました. 礒部 樋渡教授は,剛体球よりもむしろソフトコアモデ 週の半分は UC Berkeley に,残りの半分はローレ ルを使って熱心に研究をされてきました.ソフト ンスリバモア研究所に出向いて研究の仕事に入る コアモデルと剛体球モデルの違いはどのようにお が,昼食時間も含めて他の研究者との議論に大半 考えでしょうか? の時間を割いています.お互いに徹底的に掘り下 げた議論を行うのが習慣になっています.これこ そが研究のエネルギーであると考えます. Alder そうですね…そんなにないでしょう(笑).私が 剛体球を選んだという最初の理由は,プログラム を実行したときの計算速度がとても速いというこ 樋渡 アルダー教授は分子動力学法を開拓し,創始者と とがありました.計算機が非力だった黎明期には して著名な存在である訳ですが,分子動力学シミュ そのことは,モデルを選択する上での非常に重要 レーションを始めるにあたって,何故剛体球モデ な要素でした. ルを選んだのでしょうか? Alder 答えは剛体球モデルが「最も単純である」からで す.剛体球系モデルは現実には存在しないかも知 れませんが,その性質を得ることから多くの基礎 的なことを学ぶことが出来ます.実例として,剛 体球系モデルの分子動力学シミュレーションによっ て,(i) 結晶化の本質が「ポテンシャルエネルギー 最小の条件」にあるのではなく「エントロピー最 樋渡 しかしながら,剛体球系はソフトコア系とある意味 で根本的に違うように思いますが如何でしょうか? Alder 剛体球モデルはソフトコアモデルの一つとの認識 でいますが….例えば,ソフトコアポテンシャル のべき指数をどんどん大きくして行けば,その極 限に剛体球モデルがあります.もし,そうでない としたらあなたはどのように考えますか? 大の条件」であること,(ii) マクロな流体力学に見 樋渡 よくわかりませんが,ソフトコアポテンシャルの られる「渦流現象」に似たもの(速度場渦)がミ べき指数をどんどん大きくして行けばその極限に クロなスケールでもはっきりと現われることなど 剛体球モデルに行き着くと考えるのは早計ではな を初めて明らかにすることが出来たこと,またそ いでしょうか?平衡熱統計力学は粒子数無限大の れと関連して (iii) 速度自己相関関数の長時間緩和 極限下でのみ厳密に成り立つものであることを考 が時間の逆べき乗に比例し 2 次元系では輸送係数 えると,粒子数とこのべき指数の極限をどちらを が発散するという流体力学の根幹を揺るがす重要 先に行うかによって厳密な答えが異なっても不思 な発見を見出したこと…他にも (iv) 凝固点近傍の 議ではないと思います.もう一つの根拠は,コン 液体や過冷却液体およびガラス転移近傍で生じる ピュータ・プログラムを作る際のアルゴリズムは (iii) とは異なる新しいタイプの応力の自己相関関 数の長時間緩和についても「モラセステール」と 剛体球系とソフトコア系とで全く異なります.剛 して提起したことなどもあげられます. をこの方法で計算することは出来ません.剛体球 体球ポテンシャルは距離の微分が行えないので力 分子シミュレーション研究会会誌 “アンサンブル” Vol. 12, No. 1, January 2010 (通巻 49 号) 11 系のアルゴリズムはいわゆる「イベント・ドリブ のことをどのように思われますか?当時の雰囲気 ン」と呼ばれる方法で行うが,端的に言えば,剛 なども合わせてご教示願えましたら幸いです. 体球系どうしの対衝突を次から次と求め,衝突に 際して運動量保存則と運動エネルギー保存則から 対衝突後のお互いの速度を求める方法です.一方, ソフトコア系の計算アルゴリズムは,全ての粒子 が任意の座標において他の粒子から受ける力をポ テンシャル関数の距離微分(の和)から求め,そ の合力に応じて全ての粒子を少しずつ動かしてい きます(例えば,ベルレ法).従って,これから 見る限り両モデルの間に何の関連性も見えないよ うに思います. Alder 剛体球を使った 2 つ目の理由は,当時はモンテカ ルロ法において,皆がレナードジョーンズポテン シャルを使っていました.私たちも,最初,連続 的なポテンシャルを考えてました.当時は,カー クウッド (Kirkwood) の剛体球系での固相−流動相 転移の予想があり,理論的には剛体球系がより簡 単に扱えること,また数値的な困難があったこと, などから剛体球を使うことに決めました.あなた (樋渡)はレナードジョーンズポテンシャルを使っ たことがありますか?レナードジョーンズポテン シャルは剛体球ポテンシャルとは異なり,相互作 用が比較的長距離まで到達するので,ポテンシャ ルをどこかの距離でカットオフしなければなりま せんが,このため圧力が正しく計算されません. この問題は,特に希薄な系(つまり低圧で)で重 大な問題が生じる可能性があります.剛体球系は レナードジョーンズポテンシャルに限らず長距離 ポテンシャル系一般に生じるこのカットオフによ る誤差の問題を完全に回避できることに利点があ ります.流動相を研究するためには,剛体球系は 物理の本質的性質を持っているために,我々はい つも剛体球を好んで使っていました. 礒部 私からの質問があります.歴史的には,アルダー 教授は,1950 年前後にモンテカルロ法を世界で Alder まさしく,そうですね.本当に驚くべきことです. フォスディック教授は覚えています.その通りだ と思います.私が思うに,2 種類の研究者がいて, これは物理学者と化学者の違いに起因するのでは ないかと思います.私は化学のバックグランドか らきました.イジングモデルは臨界現象を研究す るモデルを得るための重要なモデルとなっていま す.私が思うに,3 次元イジングモデルやバーテッ クスモデルなど古くから扱われているモデルは, 物理化学というよりはむしろ数理物理のバックグ ラウンドを持った人たちが解析的な理論研究して いて,これらの人々は剛体球流体を扱うような化 学の分野のグループと分離しており,計算機に対 する抵抗や反発があったのかもしれません.後に, イジングモデルは統計物理の一分野として,電子 計算機でより精密な解が得られるようになり非常 に発展しました. 樋渡 アルダー教授は,いつ頃,最初の計算機(電子計算 機でないものも含めて)を利用しましたか?ENIAC は利用しましたか? 初めて剛体球系に応用され,1950 年中頃に剛体 Alder 最初は,機械式の計算機 (Marchant machine) を使 球系の分子動力学法を世界で初めて開発されまし いました.それから,カルフォルニア工科大学にあ た.一方で,統計力学でよく使われているイジン った大きな IBM 計算機を使いました.とても大き グモデルは,剛体球系よりも単純であるにも関わ な雑音のする機械式計算機です.電子計算機を使っ らず,剛体球シミュレーションよりも後に,計算機 た最初の剛体球系のモンテカルロ計算は 1950 年 を使った研究が実行されています.おそらく,フォ 頃に行われました.共同研究者のフランケル (Stan スディック (Fosdick) 教授がパイオニアで,1959 年 ンが出版されたのが最初の論文ではないかと思い Frankel) が英国に行き,Ferranti(マンチェスター 大学とフェランティ社の共同開発)の Manchester Mark I 電子計算機で剛体球系の計算を行いまし ます.一見すると,不思議なように思いますが,こ た.ロスアラモスで MANIAC 電子計算機が利用 の論文がイジングモデルの計算機シミュレーショ 12 The Molecular Simulation Society of Japan 可能になる前のことです.MANIAC はメトロポリ 究者がいるのでコンタクトを取っておきます.コ ス (Metropolis) のグループで開発され,使われま ンピュータシミュレーションに関する出版は,自 した.英国のコンピュータ産業はその後,世界的 分の知り合いにも興味を持っているものがいます. な規模に発展しませんでしたが,その理由は英国 コンピュータシミュレーションは新しい科学(研 のデジタルコンピュータ技術は第 2 次世界大戦中 究手法)であり,これまでとは異なる価値観を有 にドイツの秘密文書の暗号解明に主力が注がれて していると思います. いたので,戦後長い間全てが極秘扱いを受け,デ ジタルコンピュータ技術が民間のレベルに普及し なかった歴史的な要因があります.分子動力学法 を開発した頃は,リバモア研究所の UNIVAC 電子 計算機を使いました. 樋渡 大規模コンピュータ・シミュレーションの研究者 とのインタビューも行いたいのでよろしくお願い します. Alder 適当な人をアレンジしたいと思います. (補足:2008 年 3 月のアメリカ訪問(樋渡,礒部) の際,アルダー氏のご紹介で,Berend Smit 氏 (UC Berkeley),Google 本社に勤務する Larry Alder 氏 (Alder 氏の甥にあたる),H.C.Andersen 氏 (Stanford Univ.),Aleksandar Donev 氏 (LLNL),Robert E. Rudd 氏 (LLNL),T.C.Germann 氏 (LANL) と長 時間にわたり,コンピュータやシミュレーション に関するいろいろな話題についてお話しをするこ とが出来た. ) 樋渡 ところで,この UNIVAC 計算機の写真のように, 昔の電子計算機はなぜか女性と共に写っているこ とが多いですね.なぜでしょうか? 樋渡 我々はコンピュータの発展の歴史に興味がありま す.是非,カリフォルニアのマウンテンビューに あるコンピュータ・ヒストリー・ミュージアムに訪 問して,初期のアメリカのコンピュータを見学し たいと考えてます.ENIAC のコンピュータの実物 も是非見てみたい.また,ローレンスリバモア国 立研究所やロスアラモス国立研究所にも訪問した いと考えてます.また,機会があればコンピュー タシミュレーションに関する啓蒙書を出版するこ とも考えています.その際は序文に何か書いて貰 えると大変嬉しく思います. Alder 昔のプログラマは,女性が多かった.私のプログ ラマもマンサイン (Mary Ann Mansigh) 女史といっ て,数学の学士を持つ専門の女性の機械語専門の プログラマにコーディングをお願いしていた.コ ンピュータ製造会社は,いつも女性を雇っていた. 有名な Cray-1 コンピュータの円筒部の中の配線 は,東洋系(おそらく中国人)の女性が根気のい る作業をして,丹念に配線して完成したものであ る.また別の興味深い話は,初期の頃の計算機を 使っていた高エネルギー物理学者の話があります. 彼らは,加速器の実験で粒子の軌跡から稀なイベ ント(新しい素粒子)を探しています.そのため, 内したいと思います.これまでボストンにあった 99%の通常の知られている軌跡を削除しないとい けない.計算機は,写真から通常のイベントを削 除できる.しかし問題は,めったに起こらないイ コンピュータ・ミュージアムは廃止になったので, ベントが 10 くらいあっても計算機は何が起こって 全米で唯一の博物館はここだけとなりました.ま いるのか理解できない.よって,この若い女性の た,近くのシリコンバレーにある Google の本社 ようにパートタイムの方が,10 の稀なイベントを へもご案内したい.ローレンスリバモア国立研究 手で探してみつけていた.最近では,類似のこと 所の訪問を歓迎します.同僚の研究者の皆様とも が稀に起こる興味深い突然変異を計算機による解 できる限り議論できる機会も持ちたいと思います. 析で探すような作業をする生物学の分野でもいえ また,ロスアラモス国立研究所にも知り合いの研 ます.コンピュータは辛抱強い作業を要求される Alder 次回にアメリカへ来られた際に,カリフォルニア のコンピュータ・ヒストリー・ミュージアムへご案 分子シミュレーション研究会会誌 “アンサンブル” Vol. 12, No. 1, January 2010 (通巻 49 号) 13 ので,どちらかというと女性の方が向いているの 科学とは無関係ですが,実験器具の開発改良に対 かもしれない. 応しているのかもしれません.どう行って行くの 樋渡 現在では,すべての女性はあまり辛抱強くないか もしれません. . (笑) Alder そうかもしれませんね. (笑) がよいのでしょうか? Alder コンピュータシミュレーションのプログラミング は,2 つの側面を持っています.結果だけに興味を 持っている人々は,既存のパッケージを使用する 傾向があります.それは確かにコンピュータシミュ レーションの黎明期には利用可能ではありません でした.何らかの点で,新しいアルゴリズムを開 発したい人々は,昔のように戻って,専門的な支 援を必要とします.黎明期には,プログラミング を書く訓練を受けているコンピュータユーザーは ほとんどいませんでした.それゆえに,プログラ ミングを書くために訓練をされた人々の協力を要 請しました.それらの人々は通常は,学士を持っ た応用数学者でした.現在では,最新のスーパー コンピュータ上で新しいアルゴリズムを効率よく 多くの粒子系を実行させるためには,しばしば計 算機のデザインにおいて支援した人,Ph.D をもっ 樋渡 コンピュータシミュレーションの黎明期には,コ た卓越した計算機科学者が必要となるでしょう. ンピュータ・プログラムのコーディングは専門の技 樋渡 現在,日本でも次世代スーパーコンピュータの計 術者が行っていました.その理由はコンピュータ 画があり,コンピュータシミュレーションの対象は 言語が,現在のように高級プログラミング言語が どんどん巨大な系に移行しつつあるように思えま なかったため(1957 年になってようやく IBM 704 すが,この現状をどのように考えていますでしょ で FORTRAN が使用できるようになった),コン うか? ピュータ・プログラムの作成にかなりの専門的な知 識を必要としたからだと思います.その後に,高 級プログラミング言語が出来て,コンピュータプ ログラムの作成が研究者個人でも比較的容易に出 来るようになりました.現在の高速スーパーコン ピュータは数万以上の CPU を同時に稼働させる 超並列計算機が主流となっています.その並列数 も増大の一途をたどっております.しかし,これ ら超並列計算機の計算実行効率を最大限に発揮さ せるには,高度なアーキテクチャの知識と特殊な コーディング技術が要求されてくるように思いま す.この観点から,コンピュータシミュレーショ ンをとりまく研究者環境は,また初期のような状 況に戻りつつあるようにも思えます.研究者自身 が自分で安直にコーディングするやり方では限界 があり,超並列計算機の潜在的に保持している高 い実行速度は容易に得られないように思います. よって,コーディングやチューニングは専門の技 Alder 分子シミュレーションで粒子数を大きくしていけ ば,やがては巨視的な系や現象を再現することが 可能となるかも知れません.この意味でコンピュー タの性能が増せば,コンピュータシミュレーショ ンのアウトプットがより強い説得力を持つように なるのは嬉しいことではあります.しかしながら, 現代のようなコンピュータの形では,たとえ最高 速のスーパーコンピュータを使っても能力にも限 りがあり,次世代スーパーコンピュータの計算能 力も時間とともに線形に上がっていくために急に 何桁も増大するといったことを期待することはで きず,実際に問題を解く上でいろいろ困難なこと も多いかと思います.従って,現実の問題を解く 際には,適切なモデル化や計算のアルゴリズムを 如何に現実的な問題に即したものに工夫するかが 重要だと思います.分子動力学シミュレーション は,この意味では最も効率の悪いアルゴリズムで 術者に委託し分業してチームとして作業をする方 す.私は,Bird が開発したボルツマン方程式に基 法が有利になるのかもしれません.このことにつ づいた粗視化した DSMC(Direct Simulation Monte いてどう思いますか?コーディングの教育は直接 Carlo) 法でシミュレーションを行う方法に興味を 14 The Molecular Simulation Society of Japan 持っています.この方法を用いて,金属表面の流 用を試みて見た結果,通常の流体力学(連続方程 release) によって,はるかに正確な計算ができるよ うに努力をしています.これらの問題は大変困難 なので,取り組む気を持ち合わせる人々はほとん 式)では得られない結果を得ることができました. どいません. 体現象問題(ケルビン・ヘルムホルツ問題)に適 樋渡 コンピュータシミュレーションが誕生しておよそ 60 年程度になりますが,この間のコンピュータシ ミュレーションが果たした役割は決して小さくは ありません.特に 1950 年代から 80 年代までに成 し遂げられた様々な研究成果は基礎科学の原理的 な問題の解決の端緒を形成したという点において も大きな業績や成果をもたらしたと考えられます. 近年,計算機の能力の向上に伴い,コンピュータシ ミュレーションがより物質科学へ応用され,物性・ 材料の性質を探究する研究に欠かすことができな い新しい研究手法として確立して久しくなってお ります.この傾向は,考えようによるとコンピュー タシミュレーションの軸足や意義が基礎科学から むしろ応用科学に移りつつあるようにも言えるか もしれません.高速大規模スーパーコンピュータ を建設するための研究者からの絶え間ない予算の 要求は,このような応用科学の分野からの需要と 要求度が高いことも事実です.最近の傾向として, 気象,バイオ,ナノ,環境,医薬などの分野の計 伊藤 私は,材料物性について MD シミュレーションで 行って研究してますが,最近の現実的な原子系の モデルポテンシャルはパラメーターが多く非常に 複雑になりすぎているように思います.今後,本 当にこのままでよいのでしょうか? Alder そうですね.確かに,最近のポテンシャルは関数 形がものすごく複雑化してきている.古典 MD と 要求や要望が多くなってきているように感じます. いっても,電子密度を考慮した非経験的ポテンシャ アルダー先生のこれまでのご専門と興味である, ルモデルを考えていくべきではないでしょうか. 統計物理学や非平衡系の基礎研究の分野からは日 算科学の研究者の人口が増え,大規模計算機への 本では特に強い要望の声をあまり聞かないように 思います.このような現状をどのようにお考えで しょうか?コンピュータシミュレーションは, 「専 ら応用の科学であり,基礎科学ではない」との考 えに賛成か否か? Alder 多くのコンピュータシミュレーションが,現在で は応用分野であることは事実です.しばしば,彼 らは数値を得るために不十分なとても近似的なモ デルを使います.これらの数値はしばしばそれら が大規模コンピュータの計算から得られたので, 正確だと信じられています.しかしながら,より 正確な計算のためにはなすべきことが多く、この 伊藤 複雑な現象,特にミクロな運動の解析を行おうと すると,現在までに良く使われている物理量やパ ラメーターの依存性を見るだけでは十分に説明で きない場合が多くあります.解析のための新しい 物理量の必要性についてご意見をお伺いしたいと 思います. Alder その答えは単純ではありませんね.ポテンシャル の詳細な構造に依存するかもしれません.研究で, 実際にシミュレーションを繰り返し実行していく ことで試行錯誤をし,重要な要素を見出していく ことが重要だと思います. ためには原理的な発展が必要となります.私が仕 樋渡 現代の社会では,特に初等・中等教育の子供達に 事をしているのもの例として,乱流を扱うことが 科学に興味を持つ割合が低下しているように思え できるようによりよい境界条件を導入するのと同 ます.この傾向は物理や数学などの論理性が要求 様にナビエストークス流体力学に揺らぎの効果を される学問分野に特に強いようです.この傾向を いれています.量子モンテカルロ法では,符号問 どのように捉えていらっしゃいますか?もしこの 題という数値不安定性を克服させるために,ノー 傾向の改善が出来るとしたらどのような方法が効 ド(符号の変わる場所)を変動させること (nodal 果が上がると思いますか?私は,時々小学校や中 分子シミュレーション研究会会誌 “アンサンブル” Vol. 12, No. 1, January 2010 (通巻 49 号) 15 学校に行って子供達と一緒に実験を行い科学につ い方法論が開発されるように,物理科学の分野で いてお話をしています.その際に,小・中・高校 もますますその役割が増大すると思います.この の教育現場に色々と問題があるとの指摘はしばし ことは,自然科学以外の分野(たとえば経済や人 ば聞こえてきますが,この問題解決は容易ではな 間関係=ヒュマン・リレーションなど)でも同様 いと思います.一方において,現代社会の「科学 だと考えられますが,これらは対象が複雑なため 離れ問題」に対しても我々研究者のような大学人 に,結果はせいぜい定性的なものになるでしょう. の取りうる態度としてどのような貢献がありうる コンピュータは,少数の式で記述されるよう膨大 か?先生のお考えをお聞きしたい. なデータを整理したり分析したりすることは大変 Alder 確かに,私は,これらの困難な問題を取り上げる 熱心な学生が(アメリカでも)ほとんどいないと 思います.多くの人々は,特に引退した科学者は, 公共の教育期間に行って物理学がどんなに刺激的 で生涯をささげる価値があり,しかし,寄与する ことが出来るようになるには困難な仕事を必要と うまく行います.私の学生へのアドバイスとして は,これらの分野に参入してくださいということ です.なぜならそれは比較的歴史が浅く,まだ大 きな貢献ができるチャンスがあるからです.しか し,この目標を達成し実現するためには,勤勉に 絶えず勉強しなくてはいけません. するかの実例を伝える努力をすべきでしょう. 伊藤 学生がこれから計算機物理学を学ぶに当たって, どのような心持で望んだら良いでしょうか? Alder どのように新しいアイデアを得るか,何を新しく 発見するのか,それが最も重要です.まず,先生 達の研究方法をよく観察することです.そして研 究テーマを一つ選ぶべきでしょう.そして,その 問題に自分がどんな貢献が出来るかを考えます. テーマの選択に際し,その研究がうまくいかない 時の理由の 10%くらいは技術的なものによると思 います. 樋渡 コンピュータシミュレーションは独立した研究分 野というよりは,計算物理学とか計算生物学,計 礒部 最後に,コンピュータシミュレーションの将来につ 算化学と言ったような従来の学問分野に軸足を置 いて,お聞きします.どのようなお考えをお持ち き,その上で計算機を使うことでその有用性が発 ですか?例えば,手法でいえば現在マルチスケール 揮され研究分野が大きく発展してきたのがこれま 的手法が盛んに研究されていますが,このような での半世紀の歴史であったと思いますが,その方 手法が主流になることは考えられますでしょうか? 向性でこれからも発展すると考える人も多いと思 います.一方で,コンピュータシミュレーション は,これまでの学問体系とは全く異なる新しい科 学体系として位置づけ,これだけで独立した専門 分野として新しい体系を創成するというような, 大きな可能性を持っていると考える人もいるよう です.アルダー先生は,後者の考えに対してはど のようにお考えでしょうか?コンピュータシミュ レーションを物理学や化学のように独立した学問 分野と考える際に,この分野の研究者を育てるに はどのような方法がよいと思われますでしょうか? Alder コンピューターの規模はどんどん大きくなってい ることが多くの場面で強調されますが,私はハー ドウェアの発展とともに,アルゴリズム開発に費 用をかけることが計算科学に大きな発展を生むこ とをとある講演で指摘しました.アルゴリズムも 相互に影響しあった発展は,おおよそ,最も大き なコンピュータを持ったときに発表されます.も ちろんコンピューターの規模が大きくなるのはよ いことですが、アルゴリズムの発展と相互に影響 しあって発展しなくてはいけません.よって両方 を研究しなくてはしなくてはいけません.今では, Alder コンピュータシミュレーションは,応用分野での ハードウェアに比較して,アルゴリズムによる相 必要性がますます増大し,その研究のために新し 互的発展の問題を再び精力的に行っている人はそ 16 The Molecular Simulation Society of Japan れほど多くありません. http://www.youtube.com/ アメリカ物理学会の会長もしていた統計力学や乱 watch?v=__z2SYv6nZU 流の分野でも多くの業績を残している有名なカダノ フ (L.P.Kadanoff) が, 「Excellence in Computer Sim- ulation」[8] というコンピュータによってなされた (コンピューターなしでは成しえなかった)物理学 [6] An Interview with Bernie Alder, by George Michael, in Stories of the Development of Large Scale Scientific Computing at Lawrence Livermore National Laboratory の重要な新しい発見をまとめた記事を書いていま http://www.computer-history.info/ すが,大変興味深いと思います.彼は記事の中で, Page1.dir/pages/Alder.html ロングタイムテールや剛体球の相転移など 5 つの [7] Interview, Berni J. Alder by Donal Mac Kernan 過去の例をあげています.もちろん計算機の規模 が大きくなると,計算精度が上がりより鮮明に物 and Michel Mareschal, SIMU NEWSLETTERS, ISSUE 4, 15. 理が見えてくるという面はありますが,物理の新 http://simu.ulb.ac.be/newsletters/ しい発見のすべてに関係があるかどうかはわかり N4II.pdf) ません.たぶん流体力学の問題は,計算機をつかっ た研究として重要になるでしょう.また,将来的 [8] L. P. Kadanoff, Computing in Science & Engineering, March/April, 57 (2004). な問題の一つとして,太陽のニュートリノ問題が あると思います.なぜ太陽からのニュートリノは, 予想されている量よりも少ないのか.現在の単純 なモデルは予想に失敗しています.太陽内のいろ いろな要素が複雑に絡み合って,物理的によくわ かっておらず,大きなコンピュータが必要となる 一つの例で,とても面白いと思います. 一同 アルダー教授,今日は貴重な話をありがとうござ いました. 参考文献 [1] 樋渡保秋,礒部雅晴 (編), 小特集 “アルダー 転移 50 周年”, 日本物理学会会誌, (2007/10). [2] 樋渡保秋,礒部雅晴 (編), 特集 “分子シミュ レーションの夜明け − Alder 転移より半世 紀−”, 分子シミュレーション研究会会誌「ア ンサンブル」, (2007/10). [3] 樋渡保秋,礒部雅晴, 分子シミュレーション 研究会会誌「アンサンブル」, 10, No.1, 48 (2008). [4] Y. Hiwatari and M. Isobe(ed.), Proceedings of Symposium on the 50th Anniversary of the Alder transition, Prog. Theor. Phys. Suppl. 178 (2009). [5] ロ ー レ ン ス リ バ モ ア 国 立 研 究 所 の News Release, “LLNL computational pioneer Berni Alder receives National Medal of Science”, https://publicaffairs.llnl.gov/news/ news_releases/2009/NR-09-09-02.html ; ホワイトハウス提供の授賞式の動画 B.J.Alder 氏インタビュー: (左から,礒部氏,Alder 氏,樋渡氏:伊藤氏撮影)
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