2016.11.06「わたしのところに来なさい」 マタイ11:28

2016 年 11 月 6 日礼拝
「あなたがたを休ませてあげます」
○
マタイ11:28
ルカ15:
初めて教会に行ったときに、教会の壁に、「すべて疲れた人重荷を負っている人は私
のところに来なさい。わたしが休ませてあげます」と書かれてありました。
「あっ、私が来ていいところなんだ」と思いました。
詩絵師の星野富弘さんは、中学生のときに、山の上にある畑に、天秤に豚の糞を入れて
上ってゆきました。途中に「すべて疲れたもの、重荷を負うもの我に来たれ」と書かれた
十字架がありました。それを見て、疲れ、重荷を負っているのはまさに私。でも「我」っ
て誰だと思っていました。
大学を卒業して中学の体育の先生になり、生徒の前で模範演技をしているときに、鉄棒
が落ちて頸椎を損傷して、首から下が動かなくなってしまいました。「どうして、どうし
て、こんなことに、」「あの時、模範演技をしなければ」「大学に合格していなければ」「い
や私は生まれなければよかった。」とさかのぼっていろいろと原因を探して悔やんでいた
とき、大学の先輩が何もできないけれど、これを読んでと聖書を置いて行ってくれた。最
初は読まなかったけれど、読むとそこに「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わた
しのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます」と書かれているのを見、
またこの「わたし」「我」がイエス・キリストであると知ったのでした。
「すべて疲れた人重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを
休ませてあげます」
今日はこのところから話します。
○
イエス様は神様です。神が人となってくださった方です。数々の奇蹟、病のある人をい
やされ、悪霊につかれている人を解放され、不道徳な生き方で身を削るようにして生活を
しなければならなかった人を、イエス様を信じて新たな歩みをする人生へと導いてくださ
いました。ある時には死人を生き返らせ、友なきものの友となってくださいました。
皆さん、神様が人となってくださったのに、すべての人がイエス様を救い主として信じ
たわけではありません。どんなに奇蹟をみても、まるでマジシャンが種を隠してマジック
するように、あの奇蹟には何か仕掛けがあるのだろう。やらせだろう・・・そんなことを
思った人たちもいたでしょう。結果としてイエス様に反発する人達は、心を頑なにしてイ
エス様を信じなかったのです。
マタイの 11 章の最初では少し前に学びましたが、バプテスマのヨハネが牢獄から弟子
達をイエス様の所にある確認を取りに行かせました。そのある確認とは、イエス様が救い
主ですか。ということでした。イエス様は旧約聖書のイザヤ書を引用されて、御自分が聖
書が預言しているよ救い主であると教えてくださいました。
あのバプテスマのヨハネでさせ、牢獄の苦しみのなかで、イエス様に対してほんの少し
ですが、疑問をもってしまったのです。
また、今日のマタイの福音書の後半では、多くの印としての奇蹟、イエス様が救い主で
あるという奇蹟を示したのにもかかわらず、人々の中には相変わらず心を頑なにしている
人達がいたのです。
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イエス様はその頑なさを嘆かれましたが、イエス様の周りには、イエス様を真実に慕い、
信じる人たちがいたのです。イエス様はそのような人たちを愛おしく思われたでしょう。
そしてやさしく語りかけられたのです。
すべて疲れた人重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
なんという慰めに満ちたおことばでしょうか。
イエス様の周りには、様々な疲れ,重荷を持っている人たちがやってきていました。
その人たちに、そしてそこにはいない沢山の人たちを想定して、
すべて疲れた人重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。と仰ったのです。
皆さん、私たちでもいろいろな疲れや重荷を持っていますでしょう。
そんな私たちをイエス様はやさしく招いてくださるのです。
星野さんは、どうして私がこんな体になってしまったのか、そう思って、自分に対して
怒り、また介護をしておられる御母様に毒づく事もあったそうです。病気とはいえ、お母
さんにひどい言葉を使ったことも、こころにちくりちくりと痛みを感じていたことでしょ
う。
そんな星野さんが聖書を読まれたときにであったのが
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。
わたしがあなたがたをやすませてあげます。
それから求道生活が始まり、イエス様が星野さんの、こころをちくりちくりと刺す罪の
ためにイエス様が十字架にかかってくださった事を知って、イエス様を信じたときから、
星野さんの疲れ、重荷をイエス様がになってくださり、あらたな力を与えてくださったの
です。
今口で絵と詩を書かれ、世界中の方々に、詩絵を通して神様の恵みを伝えておられます。
○
また、イエス様はこんなたとえで話をされました。
父親に二人の息子がいました。弟は誰かの入れ知恵で、自由が欲しくて、お父さんに財
産の分け前を願いました。父親はとても大きな器で、息子のために財産を分けてあげます。
これは息子の言いなりになるのではなく、可愛い子には旅をさせよと言いますが、右も左
も分からない息子がまとまったお金をもって家を飛び出し、遊びほうけたらどうなるかと
うことも知っていたでしょう。しかし父はどんなことがあっても、自分の息子として愛し、
またやがてきっと帰ってくるということを信じて、息子に財産を分けてあげたのです。
息子はもらった財産をお金に変えて、家を飛び出しました。聖書にはなにもかもまとめ
てと書かれてあります。とても悲しい表現ですね。自分が息子だという記憶の痕跡を残さ
ないぐらいまとめて、「はいさよなら。もう縁も切ります。私はここにはかえってきませ
ーん。」といった態度で飛びでていったのです。
遠い国に弟は行きます。そこで経験したことのない待遇をうけるのです。お金があるっ
てこんなに良いことなのか。まるで世界の中心に自分がいるかのような思いがしました。
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お酒、女、ギャンブル
聖書は湯水のように使ってしまったと書かれてあります。
金の切れ目は縁の切れ目と言われます。お金があるからちやほやしてくれた人たちは手
のひらを返し、お金目当てにやってきていた偽物の友は潮を引いたようにいなくなりまし
た。
悪い事にひどい飢饉がありました。食べるのにも困ってしまいました。
見かねた一人の人が、彼を豚飼いの仕事をくれました。
彼は、豚の食べるいなごまめを、口に含めてお腹いっぱいにしたいと思うぐらいでした。
イエス様はユダヤ人です。そしてこの話もユダヤ人に語っておられます。
ユダヤ人は旧約聖書の律法で豚を食べません。豚は汚れた動物と言われています。
今でも豚の肉は火を良く通してから食べますね。生でしたらお腹を壊してしまうことが
あるようです。牛はレヤー、生が残っていても食べられます。恐らく神様はお腹を壊すこ
とのないように、豚を汚れたものと当時は指定されたのでしょう。
話は戻りますが、ユダヤ人にとって、豚は触れてもいけないもの、触れたら汚れてしま
う。ましてや豚肉を食べるなど身の毛がよだつほど忌み嫌われていたことです。
その豚の世話をするようになった弟の話を聞いていた、ユダヤ人は、きっと眉をひそめ、
口をへの字にして、「ああ、どんごこだ、もう最悪」と思ったでしょうね。
弟は豚の糞尿のにおいとよだれのついたいなごまめを横取りして食べたいような思いを
しましたが、さすがにそれはしませんでした。
その時にハット気づくのです。私には父親がいると。
少し前に、自分で勝手に縁を切って飛び出てきたのに、父親のことを思い出したのです。
父の所には多くの使用人がいて、沢山食べている。
私は息子と呼ばれることは無理だから,使用人のひとりにしてもらおうと、意を決して遠
い国から帰っていくのです。
父親は毎日毎日、必ず戻ってくると待っていました。
そして遂にその日が来たのです。向こうに弟のような姿が見えました。
何と父親は走って行って弟のところに行ったのです。息子も一歩一歩父親に近づきまし
た。服もボロボロ、異臭をななち、髪はぼさぼさ、靴もボロボロ。
父親のは息子を抱き、中東の挨拶、キスをしてくれたのです。
息子が行ったのは、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。
そこまで来ると、続くことばを遮るように一緒について来た使用人に
服をもってくる
ように、靴をもってくるように、そして指輪を持ってくるようにと命じました。
本当は、息子は「使用人の一人にしてください」と言うつもりでした。それなのに、指
輪をくれるというのです。この指輪は息子の印です。
弟は疲れ切っていました。将来を絶望していた重荷を持っていました。
その弟をやさしく迎えてくれたのが父親です。
イエス様はこの父親が神様だと教えてくださっているのです。
神様はいつでも待って下さって、あなたはどう考えようと、あなたは私の息子になるべ
きもの、まっているよ。と両手を広げて待っていて下さる方です。
弟が父親に思っていたように、
ご免なさいという思いと
父親に対する信頼、
私たちが神様を信頼し、あなたの罪の為に十字架にかかって下さったことを信じ、罪を
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悔い改め神様を信じる時に誰でも、神様の子どもになれるのです。
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私はあの弟のように、足を引きずるような思いで,生まれて初めて教会に行きました。
ジョン・ウェスレー・グレイビル先生ご夫妻が温かく迎えてくださいました。
それから教会に日曜日、水曜日の祈祷会に教会に行くようになり、ある礼拝のときに、
今日イエス様を信じたい人は手をあげてくださいと招いてくださったのです。わたしはそ
の招きに応答しました。
私もクリスチャンになりたいと。
イエス様を信じますとお祈りした時から、私はクリスチャンになったのです。
そうイエス様は
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさいとおっ
しゃたように、私を迎えてくださったのです。
皆さん、食べても飲んでも、何をしても疲れがとれない、それは肉体の疲れでは無く、
心の深い所にある疲れを感じていませんか。人には分からない様な重荷を感じていません
か。
将来の不安、人は死んだらどこに行ってしまうのだろうかという不安、重荷を感じ
てはいないでしょうか。
イエス様はあなたの疲れをご存知、そして重荷をご存知です。
イエス様を信じましょう。そして祈りましょう。
イエス様、私はあなたを信じます。助けてくださいと。
お祈りします。
父なる神様、皆を讃美します。今日イエス様が「すべて疲れた人重荷を
負っている人はわたしのところに来なさい」と招いて下さっていることをありがとうござ
います。今心の疲れや、重荷をもっている方がいらしゃるでしょう。その方を助けて下さ
い。そしてイエス様と一緒に歩んで行くことができますように。主イエス様の皆によって
お祈りします。アーメン、
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