ビジテリアン大祭 宮沢賢治 3 のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳し 多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという 考 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も 本の信者一同を代表して列席して参りました。 な山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日 私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さ いというのであります。 則 ち肉類や乳汁を、あんまりた これは実は病気予防のために、なるべく動物質をたべな す。 ところが予防派の方は少しちがうのでありまして、 うでそんなことはできないとこう云う思想なのでありま く 喰 べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそ わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよ つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思 た ますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多 くさんたべると、 リウマチスや痛風や、 悪性の 腫脹 や、 かんがえ いのであります。菜食信者と訳したら、 或 は少し強すぎ いろいろいけない結果が起るから、その病気のいやなも すなわ るかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に の、 又 その病気の傾 向 のあるものは、この団結の中に入 しゅちょう っていると思います。もっともその中にもいろいろ派 適 るのであります。それですからこの派の人たちはバター あるい がありますが、まあその精神について大きくわけますと、 やチーズも 豆 からこしらえたり、又菜食病院というもの けいこう 同情派と予防派との二つになります。 を建てたり、いろいろなことをしています。 また この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へん 以上は、まあ、ビジテリアンをその精神から大きく二 かな うまく要領を 云 いあらわしていますから、かまわず私ど つにわけたのでありますが、又一方これをその実行の方 おし まめ もも使うのです。 法から分類しますと、三つになります。第一に、動物質の い 同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、 ものは全く喰べてはいけないと、則ち 獣 や魚やすべて肉 ちょうど けもの 度 仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を 恰 惜 し けいらん 類はもちろん、ミルクや、またそれからこしらえたチー か むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きる ズやバター、お 菓子 の中でも鶏 卵 の入ったカステーラな うば ために、ほかの動物の命を 奪 って食べるそれも一日に一 4 の命をとるというわけではないから、さし 支 えない、ま ズやバターやミルク、それから卵などならば、まあもの も大部分は予防派の人たちがやります。第二のは、チー ます。この方法は同情派にも予防派にもありますけれど 寸 一 鰹 のだしの入ったものもいけないという考のであり ど、 一切いけないという考の人たち、 日本ならばまあ、 私がニュウファウンドランドの、トリニテイの港に着 うをお話いたします。 りでしょうから、これから昨年のその大祭のときのもよ そこで、大体ビジテリアンというものの性質はおわか れてはいけないと 斯 う云うのであります。 さっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘 うにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちを ちょっとかつお た大してからだに毒になるまいというので、割合 穏健 な きましたのは、 恰度 大祭の前々日でありました。事によ ちょうど こ 考であります。第三は私たちもこの中でありますが、い ると、間に合わないと思ったのが、うまい 工合 に参りま つか くら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると したので、大へんよろこびました。トルコからの六人の おんけん 云ったところで、実際にほかの動物が 辛 くては、何にも 人たちと、船の中で知り合いになりました。その団長は、 ぐあい ならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべな 地学博士でした。大祭に参加後、すぐ六人ともカナダの ぎんみ つら いのだ、小さな小さなことまで、一一 吟味 して大へんな 北境を探険するという話でした。私たちは、船を下りる めいわく 手数をしたり、ほかの人にまで 迷惑 をかけたり、そんな と、すぐ 旅装 を調えて、ヒルテイの村に出発したのであ ため りょそう に ま で し な く て も い い、 も し た く さ ん の い の ち の 為 に、 め ります。実は私は日本から出ました際には、ニュウファ たれ どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから ウンドランドへさえ着いたら、 誰 の眼 もみなそのヒルテ さ 泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が イという村の方へ向いてるだろう、世界中から集った旅 あえ 自分になった場合でも 敢 て 避 けないとこう云うのです。 人が、ぞろぞろそっちへ行くのだろうから、もうすぐ 路 みち けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだ なんかわかるだろうと思って 居 りました。ところが、船 お んはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないよ 5 うなもの、実際トリニテイの町に下りて見ると、どこに の中でこそ、 遇然 トルコ人六人とも知り合いになったよ ﹁あれがヒルテイの村でしょうか。﹂私は団長にたずねま は海が 峡湾 のような風にまっ 蒼 に入り込 んでいました。 げっている谷の底に、五つ六つ、白い 壁 が見えその谷に かべ もそんなビラが張ってあるでもなし、ヒルテイという名 した。団長は、しきりに地図と眼の前の地形とくらべて ぐうぜん を云う人も一人だってあるでなし、実は私も少し意外に いましたが、しばらくたって 眼鏡 をちょっと直しながら、 めがね こ 感じたので︹以下原稿数枚なし︺ ﹁そうです。あれがヒルテイの村です。私たちの教会は、 さお 多分あの右から三番目に見える平屋根の家でしょう。旗 にわ きょうわん は町をはなれて、海岸の白い 崖 の上の小さなみちを行き か何か立っているようです。あすこにデビスさんが、住 がけ ました、そらが 曇 って居りましたので大西洋がうすくさ んでいられるんですね。﹂ くも びたブリキのように見え、秋風は白いなみがしらを起し、 デビスというのは、ご存知の方もありましょうが、私 かっしょく 小さな漁船はたくさんならんで、その中を行くのでした。 したえだ たちの派のまあ長老です、 ビジテリアン月報の主筆で、 からまつ 葉松 の 落 下枝 は、もう褐 色 に変っていたのです。 今度の大祭では祭司長になった人であります。 そこで、 はいのう トルコ人たちは、みちに出ている岩にかなづちをあて あし 私たちは、 俄 かに元気がついて、まるで一息にその峠を か ら たり、がやがや話し合ったりして行きました。私はその かけ下りました。トルコ人たちは 脚 が長いし、背 嚢 を背 なし︺ じしゃく あとからひとり 空虚 のトランクを持って歩きました。一 負って、まるで 磁石 に引かれた砂鉄とい︹以下原稿数枚 の頂上に来ました。 とうげ 時間半ばかり行ったとき、私たちは海に沿った一つの 峠 ﹁もうヒルテイの村が見える 筈 です。﹂ 団長の地学博士 そうにあたりの風物をながめながら、 三人や五人ずつ、 はず が私の前に来て、地図を見ながら英語で云いました。私 ステッキをひいているのでした。婦人たちも大分ありま いっぱい たちは向うを注意してながめました。ひのきの 一杯 にし 6 し な 私はパンフレットを手にとりました。それは今ももっ ﹁◎ 偏狭 非文明的なるビジテリアンを 排 す。 へんきょう こ した。又 支那 人かと思われる顔の黄いろな人とも会いま ていますが 斯 う書いてあったのです。 てしまいました。けれどもその日はとうとう話しかける マルサスの人口論は、今日定性的には誰も疑うものが はい した。私はじっとその顔を見ました。向うでも立ちどまっ でもなく、別れてしまいましたが、その人がやはりビジ しっくいづく すなわ ない。その要領は人類の居住すべき世界の土地は一定 うたがい そまつ しか テリアンで、大祭に来たものなことは 疑 もありませんで わ である、又その食料品は等差級数的に増加するだけで び した。私たちは教会に来ました。教会は 粗末 な 漆喰造 り ある、然 るに人口は等比級数的に多くなる。 則 ち人類の ひ で、ところどころ 裂罅割 れていました。多分はデビスさ 食料はだんだん不足になる。人類の食料と云えば 蓋 し そうしょく き まぬか けだ んの自分の家だったのでしょうが、ずいぶん大きいこと 動物植物鉱物の三種を 出 でない。そのうち鉱物では水 さって かあい い は大きかったのです。旗や電燈が、ひのきの枝ややどり と食塩とだけである。残りは植物と動物とが約半々を あ お し ばっ いんき 木などと、上手に取り合せられて 装飾 され、まだ七八人 める。ところが 占 茲 にごく偏狭な 陰気 な考の人間の一 げんかん くわだ ここ の人が、せっせと 明後日 の 仕度 をして居りました。 群があって、動物は 可哀 そうだからたべてはならんと し 私たちは教会の 玄関 に立って、ベルを押 しました。 いい、世界中にこれを 強 いようとする。これがビジテリ はくはつ したく すぐ 赭 ら顔の 白髪 の元気のよさそうなおじいさんが、 アンである。この主張は、実に、人類の食物の半分を奪 あか かなづちを持ってよこの 室 から顔︹以下原稿数枚なし︺ おうと 企 てるものである。 換言 すれば、この主張者た へや ちは、世界人類の半分、則ち十億人を 饑餓 によって殺そ ごあいきょう かんげん が、 桃 いろの紙に刷られた小さなパンフレットを、十枚 うと計画するものではないか。今日いずれの国の法律 かえ が ばかり持って入って来ました。 を 以 てしても、殺人罪は一番重く 罰 せられる。間接で もも ﹁お早うございます。なあに 却 って 御愛嬌 ですよ。﹂ はあるけれども、ビジテリアンたちも又この罪を 免 れ もっ ﹁お早うございます。どうか一枚拝見。﹂ 7 じゅうぶん りゅう 下って来ました。それはたしかに、日本でやる下り 竜 の か ない。近き将来、各国から委員が集って 充分 商議の上 掛 け花火です。そこで私ははっと気がつきました。こ 仕 し 厳重に処罰されるのはわかり切ったことである。又こ ののろしは 陳 氏があげているのだ、陳氏が支那式黄竜の ちん の事実は、ビジテリアンたちの主張が、 畢竟 自 家撞着 仕掛け花火をやったのだと気がつきましたので、 大悦 び ひっきょうじ か ど う ちゃく に終ることを示す。則ちビジテリアンは動物を愛する でみんなにも説明しました。 ちんむるい ひび おおよろこ が故 に動物を食べないのであろう。何が故にその為に その時又、今朝のすてきなラッパの声が遠くから 響 い ゆえ 食物を得ないで死亡する、十億の人類を見殺しにする て参りました。 おもしろ のであるか。人類も又動物ではないか。﹂ ﹁来た来た。さあどんな顔ぶれだか、一つ見てやろうじゃ せんとう ﹁こいつは 面白 い。 実に名論だ。 文章も実に 珍無類 だ。 ふと ないか。﹂地学博士を先 登 に、私たちは、どやどや、玄関 さ 実に面白い。﹂トルコの地学博士はその肥 った顔を、まる ちくさん へ降りて行きました。たちまち一台の大きな赤い自働車 すす で張り 裂 けるようにして笑いました。みんなも笑いまし がやって来ました。それには白い字でシカゴ 畜産 組合と ねまき た。とにかくみんな 寝巻 をぬいで、下に降りて、口を 漱 書いてありました。六人の、 髪 をまるで逆立てた人たち ま かみ いだり顔を洗ったりしました。 が、シャツだけになって、顔をまっ赤にして、何か 叫 び さけ それから私たちは、簡単に朝飯を済まして、式が九時 ながら 鼠色 や茶いろのビラを 撒 いて行きました。その鼠 ねずみいろ から始まるのでしたから、しばらくバルコンでやすんで いろのを私は一枚手にとりました。それには赤い字で 斯 のぼ こ 待っていました。 り う書いてありました。 る 不意に教会の近くから、のろしが一発 昇 りました。そ ﹁◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。 ごびゅう らがまっ青に晴れて、 一枚の 瑠璃 のように見えました。 ビジテリアンの主張は全然 誤謬 である。今この陰気な みが その冴 みきったよく磨 かれた青ぞらで、まっ白なけむり 非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。 す がパッとたち、それから黄いろな長いけむりがうねうね 8 るか。ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全 という。動物が可哀そうだということがどうしてわか ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べない しい考である。﹂ 動物もみんなそうだろうと思うのだ。あんまり子供ら それを知らない。自分が死ぬのがいやだから、ほかの 私は無理に笑おうと思いましたが何だか笑えませんで ぶた か 体豚 などが死というような高等な観念を持っているも くき した。地学博士も黄いろなパンフレットを読んでしまっ へ のではない。あれはただ腹が 空 った、かぶらの 茎 、噛 て少し変な顔をしていました。私たちは目を見合せまし ﹁◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。 あ みつく、うまい、 厭 きた、ねむり、起きる、鼻がつま た。それからだまってお 互 のパンフレットをとりかえま な現在が続いて居るだけである。殺す前にキーキー叫 ビジテリアンの主張は全然 誤謬 である。今これを生物 たがい る、ぐうと鳴らす、腹がへった、 麦糠 、たべる、うま した。黄色なパンフレットには斯う書いてあったのです。 ぶのは、それは引っぱられたり、たたかれたりするか 分類学的に簡単に批判して見よう。ビジテリアンたち ぐあい むぎぬか い、つかれた、ねむる、という 工合 に一つずつの小さ らだ、その証 拠 には、殺すつもりでなしに、何か 鶏卵 は、動物が可哀そうだという、一体どこ 迄 が動物でど べんぎ ごびゅう の三十も少し遠くの方でご 馳走 をするつもりで、豚の こからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だから おこ けいらん 足に 縄 をつけて、ひっぱって見るがいいやっぱり豚は かあいそう、バクテリヤは植物だから 大丈夫 というの しょうこ キーキー云う。こんな訳だから、ほんとうに豚を可哀 であるか。バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だ だいじょうぶ まで そうと思うなら、そうっと 怒 らせないように、うまい とするのは、ただ研究の 便宜 上、勝手に名をつけたも ちそう ものをたべさせて置いて、にわかに熱湯にでもたたき のである。動物には意識があって食うのは気の毒だが、 なわ 込んでしまうがいい、豚は大悦びだ、くるっと毛まで 植物にはないから差し 支 えないというのか。なるほど たくさん つか けてしまう。われわれの組合では、この方法によっ 剥 植物には意識がないようにも見える。けれどもないか む て、 沢山 の豚を悦ばせている。 ビジテリアンたちは、 9 類は動物学上混食に適するようにできている。歯の形 また どうかわからない、あるようだと思って見ると 又 実に 状から見てもわかる。 草食獣 にある 臼歯 もあれば肉食 きゅうし あるようである。 元来生物界は、 一つの連続である、 類の犬歯もある。混食をしているのが人類には一番自 そうしょくじゅう 動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。ビジ 然である。そう出来てるのだから仕方ない。それをど たま テリアン諸君、植物をたべることもやめ 給 え。諸君は う斯う云うのは 恩恵 深き自然に対して正しく 叛旗 をひ はんき 餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。二十億 るがえすものである。よしたまえ、ビジテリアン諸君、 おんけい 人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に あんまり陰気なおまけに子供くさい考は。﹂ ﹁ふん。今度のパンフレットはどれもかなりしっかりし かな うだろう。そして、そのあとで動物や植物が、お互 叶 同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではな てるね。いかにも 誰 もやりそうな議論だ。しかしどっか ﹁ええ、﹂その人はあわただしく茶いろのパンフレットを 私は隣 りの人に云いました。 ﹁ごらんになったらとりかえましょうか。﹂ もう一枚茶いろのもあったのです。 私はなおさら変な気がしました。 そのとき又向うからラッパが鳴って来ました。ガソリ だ。﹂と一人のトルコ人が云いました。 ようにばかり仕組んであるよ。どうせ畜産組合の宣伝書 ﹁調子が変なばかりじゃない、議論がみんな都合のいい 斯う云いました。 やっぱり調子が変だね。﹂地学博士が少し顔色が青ざめて たれ いか。 ﹂ よこしました。私も私のをやったのです。それには黒く ンの音も聞えます。正直を云いますと私もこの時は少し ﹁◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。 て来て小さな白い紙を撒いて行ったのです。 胸がどきどきしました。さっそく又一台の赤自動車がやっ とな こう書いてありました。 ビ ジ テ リ ア ン の 主 張 は 全 然 誤 謬 で あ る、 今 こ れ を そのパンフレットを私たちはせわしく読みました。そ ひかくかいぼう 較解剖 学 の 立 場 か ら ご く 通 俗 的 に 説 明 し よ う。 人 比 10 こ れには赤い字で 斯 う書いてあったのです。 ﹁ビジテリアン諸氏に寄す。 かんりゅう くわ に、魚油を 乾溜 してつくっているのですから。いずれ 諸君がどんなに 頑張 って、 馬鈴薯 とキャベジ、メリ 私たちはしばらくしんとしてしまったのです。どうも理 この宣伝書を読んでしまったときは、 白状しますが、 又お目にかかって詳 しく申しあげましょう。﹂ ケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりた 論上この反対者の主張が勝っているように思われたので ば れ い しょ くさん魚がとれて困る。 折角 死んでも、それを食べて あります。それとて、私も、又トルコから来たその六人 がんば れる人もなし、可哀そうに、魚はみんなシャベルで 呉 の信者たちも、ビジテリアンをやめようとか、全く向う かま あっさく せっかく になげ込 釜 まれ、煮えるとすくわれて、 締木 にかけて の主張に賛成だとかいうのでもなく、ただ何となくこの く 搾 される。釜に残った油の分は魚油です。今は一 圧 缶 大祭のはじまりに、けちをつけられたのが 不愉快 だった うおかす しめぎ 十セントです。 鰯 なら一缶がまあざっと七百 疋 分です のであります。余興として笑ってしまうには、あんまり こ ねえ、締木にかけた方は 魚粕 です、一キログラム六セ 意地が悪かったのであります。 かん ントです、一キログラムは鰯ならまあ五百疋ですねえ、 ところが、 又もやのろしが教会の方であがりました。 ふゆかい みなさん海岸へ行ってめまいをしてはいけません。ま まっ青なそらで、白いけむりがパッと開き、それからト ぴき た農場へ行ってめまいをしてもいけません、なぜなら、 ントンと音が聞えました。けむりの中から出て来たのは、 と いわし その魚粕をつかうとキャベジでも麦でもずいぶんよく 今度こそ全く 支那 風の五色の 蓮華 の花でした。なるほど れんげ れます。おまけにキャベジ一つこさえるには、百疋 穫 やっぱり陳氏だ、お 経 にある青色青光、黄色黄光、赤色赤 な からの青虫を 除 らなければならないのですぜ。それか 光、白色白光をやったんだなと、私はつくづく感心して に し らみなさんこの町で何か 煮 たものをめしあがったり、 それを見上げました。全くその蓮華のはなびらは、ニュ きょう お湯をお使いになるときに、めまいを起さないように ウファウンドランド島、ヒルテイ村ビジテリアン大祭の、 と 願います。この町のガスはご存知の通り、石炭でなし 11 ド︵尤 もその半数は、みんなビジテリアンだったのです、︶ 私たちの仲間だったんです。スナイダーは、自分のバン したが、あとで聞きましたら、あの有名なスナイダーが よほど費用をかけて大陸から 頼 んで来たんだなと思いま れがいかにも本式なのです。私たちは、はじめはこれは それが風下でしたから、手にとるように聞えました。そ それから教会の方で、賑 やかなバンドが始まりました。 した。 新鮮な朝のそらを、かすかに光って 舞 い降りて来るので 教会へ行く 途中 、あっちの小路からも、こっちの広場か ねたのは、 あながち私たちだけではありませんでした。 さて私たちは宿を出ました。すると式の時間を待ち兼 ぱりした気持ちがすればいいのであります。 が全体見えはしませんからほかの人がそれを見て、さっ ためでなく他人の 為 です。自分には自分の着ているもの 私は一向何とも思いませんでした。実際きものは自分の た相当のものをきちんとつけているのが一等ですから、 ライルの云う通り、 装飾 が第一なので結局その人にあっ に寒さをしのぐという 考 も勿論ですが、一方また、カー かんがえ を、そっくりつれてやはり 一昨日 、ここへ着いたのだそ らも、三人四人ずついろいろな礼装をした人たちに、私 ま うです。とにかく、式の始まるまでは、まだ一時間もあ たちは会いました。 燕尾服 もあれば厚い 粗羅紗 を着た農 おととい コ じゅ あいさつ ため えんびふく そうしょく りましたけれども、 斯 うにぎやかにやられては、とても 夫もあり、 綬 をかけた人もあれば、スラッと 瘠 せた若い しっこく こと ト ル にぎ じっとして居られません、私たちは、大急ぎで二階に帰っ 軍医もありました。すべてこれらは、私たちの兄弟であ れいそう くんしょう たの て、礼 装 をしたのです。 土耳古 人たちは、みんなまっ赤な りましたから、もう私たちは国と階級、職業とその名と もっと ターバンと帯とをかけ、 殊 に地学博士はあちこちからの をとわず、ただ一つの大きなビジテリアンの同 朋 として、 とちゅう 章 やメタルを、その 勲 漆黒 の上着にかけましたので全く ﹁お早う、﹂と挨 拶 し﹁おめでとう、﹂と答えたのです。そ もちろん おととい どうぼう や そ ら しゃ まばゆい位でした。私は三越でこさえた白い 麻 のフロッ して私たちは、いつかぞろぞろ列になっていました。列 こ クコートを着ましたが、これは 勿論 、私の好みで作法で になって教会の門を入ったのです。 一昨日 別段気にもと あさ はありません。けれども元来きものというものは、東洋風 12 るかもわからなかったのですから、全く仕方なかったの のような訳で、どんなものがまぎれ込んで来て、何をす ようにどなたもお考えでしょうが、実際今朝の反対宣伝 て会員証を示しました。これはいかにも 偏狭 なやり方の をはいると、すぐ受付があって私たちはみんな求められ の栂 とで飾 られて、すっかり立派に変っていました。門 めなかった、小さなその門は、赤いいろの 藻 類と、暗緑 今日はすっかり支那服でした。 私は支那服の立派さを、 助手も二人も連れて来ているのでした。そして三人とも、 やっぱり陳氏でした。陳氏は小さな支那の子供の狼煙の 私は急いでその音の方教会の裏手へ出て行って見ました。 は又、 あの 狼煙 の音を聞きました。 はっと気がついて、 飾られた高い 祭壇 が設けられていました。そのとき、私 の 大天井 かと思われたのであります。向うには勿論花で やがて完成さるべき、世界ビジテリアン大会堂の、 陶製 とうせい でありましょう。 この朝ぐらい感じたことはありません。陳氏はすっかり そう 式場は、教会の広庭に、大きな曲馬用の天 幕 を張って、 黒の 支度 をして、袖 口 と沓 だけ、まばゆいくらいまっ白 テント おそ したく こまね のろし きのう だいてんじょう テニスコートなどもそのまま中に取り込んでいたようで に、髪は 昨日 の通りでしたが、支那の勲章を一つつけて かざ した。とてもその人数の入るような広間は、 恐 らくニュ いました。 つが ウファウンドランド全島にもなかったでしょう。 それから助手の子供らは、 まるで絵にある 唐児 です。 えだ そでぐち さいだん もう気の早い信徒たちが二百人ぐらい席について待っ あたまをまん中だけ残して、くりくり 剃 って、 恭 しく両 へんきょう ていました。笑い声が波のように聞えました。やっぱり 手を 拱 いて、陳氏のうしろに立っていました。陳氏は私 もみ うれ くつ 今朝のパンフレットの話などが多かったのでしょう。 の行ったのを見ると本当に 嬉 しかったと見えて、いきな しゃく な げ うやうや からこ その式場を 覆 う灰色の帆 布 は、黒い樅 の枝 で縦横に区 り手を出して、 だいだい はんとうめい そ 切られ、所々には黄や 橙 の石 楠花 の花をはさんでありま ﹁おめでとう。お早う。いいお天気です。天の幸、君に はんぷ した。何せそう云ういい天気で、帆布が 半透明 に光って あらんことを。﹂とつづけざまにべらべら挨拶しました。 おお いるのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそ 13 陳氏は云いました。 で、この 叮重 な東洋風の礼を受けたのです。 かったんです。ニュウファウンドランド島の青ぞらの下 も、両手を拱いたまま私に 一揖 しました。私も全く嬉し ﹁お早う。﹂私たちは手を 握 りました。二人の子供の助手 きました。二人の子供も、恭しく 腕 を拱いて、それを見 さっきの玉は、汽車ぐらいの速さで青ぞらにのぼって行 込みました。しばらくたって、 ﹁ドーン﹂けむりと 一緒 に、 た。陳氏はそれに口火をあてて、急いでのろし 筒 に投げ とりました。はじめの子は、シュッとマッチをすりまし う手に口火を持って待っていました。陳氏はそれを受け にぎ ﹁さあ、もう一発やりますよ。あとは式がすんでからで 上げていました。たちまち空で白いけむりが起り、ポン いちゆう す。今度のは、私の郷国の名前では、 柳雲飛鳥 といいま ポンと音が下って来それから青い柳のけむりが垂れ、そ スワロウ こ いっしょ づつ す。柳はサリックス、バビロニカ、です。飛鳥は燕 です。 の間を燕の形の黒いものが、ぐるぐる縫 って進みました。 ていちょう 日本でも、柳と 燕 を云いますか。﹂ ﹁さあ式場へ参りましょう。お前たち 此処 で番をしてお テント うで ﹁云います。そしてよく覚えませんが、たしか私の方に いで。﹂陳氏は英語で云って、それから私らは、その二人 りゅううんひちょう も、その狼煙はあった 筈 ですよ。いや花火だったかな。そ の子供らの敬礼をうしろに式場の 天幕 へ帰りました。 ぬ れとも柳にけまりだったかな。﹂ もう式の始まるに、六分しかありませんでした。天幕 ビジテリアン大祭次第 つばめ ﹁日本の花火の名所は、東京両国橋ですね。﹂ の入口で、私たちはプログラムを受け取りました。それ ﹁なるほど。さあ、支度。﹂陳氏は二人の子供に向きまし 挙祭挨拶 こ ﹁ええそのほか岩国とか石の巻とか、あちこちにもあり には表に た。一人の子は恭しくバスケットから、狼煙玉を持ち出 論難反 駁 はず ます。﹂ しました。陳氏はそれを受けとってよく調べてから、 祭歌合唱 はんぱく ﹁よろしい。 口火。﹂ と云いました。 も一人の子は、 も 14 会食 閉式挨拶 祷 祈 にも二十人ばかりの礼装をした人たちが座って居りまし 徒席﹂ ﹁異派席﹂という二つの陶製の 標札 が出て、どちら ところが祭壇の下オーケストラバンドの右側に、 ﹁異教 ロッコも居たそうですが、どの人かわかりませんでした。 きとう 会員紹介 た。中には今朝の自働車で見たような人も大分ありまし あったと見えて、空いた椅 子 とてもあんまりなく、 勿論 式場の中はぎっしりでした。それに人数もよく調べて 前でした。 と刷ってあり私たちがそれを受け取った時丁度九時五分 そっと私にささやきました。 を比 較 しながらよほど気にかかる模様でした。とうとう、 陳氏はしきりに向うの異教徒席や異派席とプログラムと 私もそこで陳氏と並んで一番うしろに席をとりました。 た。 ひょうさつ 余興 以上 かけないで立っている人などは一人もありませんでし 腰 ﹁このプログラムの論難というのは向うのあの連中がや ひかく た。みんなで五百人はあったでしょう。その中には婦人た るのですね。﹂ しきさい もちろん ちも三分の一はあったでしょう。いろいろな服装や 色彩 ﹁きっとそうでしょうね。﹂ い す が、処 々 に配置された橙や青の 盛花 と入りまじり、秋の ﹁どうです、異派席の連中は、私たちの仲間にくらべて こし 空気はすきとおって水のよう、信者たちも 又 さっきとは は少し 風采 でも何でも見 劣 りするようですね。﹂ もりばな 打って変って、しいんとして式の始まるのを待っていま 私も笑いました。 ところどころ した。 ﹁どうもそうのようですよ。﹂ また アーチになった祭壇のすぐ下には、スナイダーを楽長 陳氏が又云いました。 はんえんじん みおと とするオーケストラバンドが、 半円陣 を採り、その左に ﹁けれども又異教席のやつらと、異派席の連中とくらべ ふうさい は唱歌隊の席がありました。唱歌隊の中にはカナダのグ 15 きたら、実際どうも 醜悪 ですね。﹂ て見たんじゃ又ずっと 違 ってますね。異教席のやつらと 祭司長にならんで立ちました。式場はしいんと静まりま いの高い立派なじいさんでした、が見兼ねて出て行って、 タッピングという人で、 爪哇 の宣教師なそうですが、せ ジャワ ﹁全くです。﹂私はとうとう 吹 き出しました。実際異教席 した。 ちが の連中ときたらどれもみんな醜悪だったのです。 ﹁諸君、祭司長は、 只今 既 に、無言を 以 て百千万言を披 瀝 あらし でんれい しゅうあく 俄 かに澄 み切った電 鈴 の音が式場一 杯 鳴りわたりまし した。 是 れ、げにも尊き祭始の宣言である。 然 しながら、 はくしゅ ふ た。 だ祭司長の云わざる処もある。これ実に祭司長が述べ 未 はくぜん しゃがん そうはく ほっ はくがい た けっそく とが きけん ゆかい これら まで こうき しげき せいちょう ひれき 拍 手 が嵐 のように起りました。 んと欲するものの中の 糟粕 である。これをしも、祭司次 さいだん ごじん い じ おい かた もっ 白髯 赭顔 のデビス長老が、 質素な黒のガウンを着て、 長が諸君に告げんと 欲 して、 敢 て 咎 めらるべきでない。 けっしょう ただいますで 壇 に立ったのです。そして何か云おうとしたようでし 祭 諸君、 吾人 は内外多数の迫 害 に耐 えて、今日 迄 ビジテリ ねっきょう ふ いっぱい たが、あんまり嬉しかったと見えて、もうなんにも云え アン同情派の主張を 維持 して来た。然もこれ未だ社会的 す ず、ただおろおろと泣いてしまいました。信者たちはま に無力なる、各個人個人に 於 てである。然るに今日は既 にわ るで熱 狂 して、歓呼拍手しました。デビス長老は、手を大 にビジテリアン同情派の 堅 き結 束 を見、その 光輝 ある八 こと もっとも しか きく 振 って又何か云おうとしましたが、今度も声が 咽喉 面体の 結晶 とも云うべきビジテリアン大祭を、この 清澄 せきしゅつ こ につまって、まるで変な音になってしまい、とうとう又 なるニュウファウンドランド島、九月の 気圏 の底に於て いま 泣いてしまったのです。 出 した。 析 殊 にこの大祭に於て、多少の 愉快 なる刺 戟 を および あえ みんなは又熱狂的に拍手しました。長老はやっと気を 吾人が所有するということは、 最 天意のある所である。 くず ど 取り直したらしく、大きく手を三度ふって、何か 叫 びか 多少の愉快なる刺戟とは何であるか、これプログラム中 の けましたけれども、今度だってやっぱりその通り、 崩 れ にある異教 及 異派の諸氏の論難である。 是等 諸氏はみな さけ るように泣いてしまったのです。祭司次長、ウィリアム・ 16 最後糟粕の部分である。祭司次長ウィリアム・タッピン 公明に我等はこれに答えんと欲する。これ大祭開式の辞、 烈 痛 辛辣 なものであろう。 その愈 々 鋭利 なるほど、 愈々 り集り 来 った真理の友である。 恐 らく諸氏の論難は、最 信者諸氏と同じく、各自の主義主張の 為 に、世界各地よ 物蛋白を殆んど消化しないじゃないかと思われることも り 豆 を喰 べるというわけにはいかない。人によっては植 と落花生と営養価が同じだと 云 って牛肉の代りにそっく ても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉 がらもし 蛋白質 と 脂肪 とについて考えるならば何といっ からこれは当然植物から採らなければならない。然しな ため グ祭司長ヘンリー・デビスに代ってこれを述べる。﹂ あるのだ。ビジテリアン諸氏はこれらのことは 充分 ご承 つうれつしんらつ かんげき いよいよ え い り えいじ なお しぼう 拍手は 天幕 もひるがえるばかり、この間デビスはただ 知であろうが 尚 これを以て多くの病弱者や 老衰者 並 に たんぱくしつ よろよろと感 激 して頭をふるばかりでありました。 児 にまで及ぼそうとするのはどう云うものであろうか。 嬰 とうめい おそ その拍手の中でデビス長老は祭司次長に連れられて壇 第二は植物性食品はどう考えても動物性食品より 美味 きた を下り 透明 な電鈴が式場一杯に鳴りました。祭司次長が しくない。 これは何としても否定することができない。 ふと つか かよう くちずさ い 又祭壇に上って壇の 隅 の椅子にかけ、それから 一寸 立っ 元来食事はただ営養をとる為のものでなく又一種の 享楽 えしゃく あるい た て異教徒席の方を軽くさし招きました。 である。享楽と云うよりは欠くべからざる 精神爽快剤 で テーブル まめ 異教徒席の中からせいの高い 肥 ったフロックの人が出 ある。労働に 疲 れ種々の 患難 に包まれて意 気銷沈 した時 き い き しょう ち ん かんがえ うかが レ フ レッシュメ ン ト きょうらく お い ろうすいしゃ ならび じゅうぶん て卓 子 の前に立ち一寸 会釈 してそれからきぱきぱした口 には 或 は小さな 歌謡 を口 吟 む、談笑する音楽を 聴 く観劇 こ テント 調で斯 う述べました。 や小遠足にも出ることが大へん効果あるように食事も又 いちじる ちょっと ﹁私はビジテリアン諸氏の主張に対して二個条の疑問が 一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減 すみ ある。 ずると思う。殊に愉快に食べたものならば実際消化もい がんすいたんそ かんなん 第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して 著 しく いのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお 考 であるか 伺 もっと ほと 小さいこと。 尤 も動物性食品には 含水炭素 が殆 んどない 17 えたのでした。 しい黒い 服装 をしていましたが壇に昇 って重い調子で答 番前の老人を招きました。その人は 白髯 でやはり牧師ら の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一 手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長 大へん 温和 しい論 旨 でしたので私たちは実際本気に拍 いたい。 ﹂ 消化のいい食品をつくる事に 就 ては私共只今充分努力を にても 若 し肉食を嫌 うものがあればこれに適するような なくしたいという位の意味であります。尤も老人病弱者 に 相喰 むのは決して当然のことでない何とかしてそうで いようと 強 致 すのではありません。ただなるべく動物 互 りましょう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を 弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もあ 実験の成績もございますから後でご覧を願います。又病 ふくそう ろんし ﹁只 今 の御質疑に答えたいと存じます。 致して居るのであります。 仮令 ば蛋白質をば少しく分解 おとな 植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは して割合簡単な形の消化し易 いものを作る等であります。 のぼ はなはだ うば たとえ やす とうてい たがい 明かであります。さればといって 甚 不良なのではなく、 第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分 ふつう いた ただ動物質の食品に比して 幾分 劣るというのであります。 は奪 われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。 し 全然植物性蛋白や脂肪を消化しないという人はまああり なるほど 普通 混食をしているときは野菜は肉類より美味 もちろん あいは ますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪 しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその しろひげ も消化しないのです。さてどう云うわけで植物性のもの 動物の苦痛を考えるならば 到底 美味しくはなくなるので さいぼうへき におい きら が消化がよくないかと云えば蛋白質の方はどうもやっぱ あります。従って無理に食べても消化も悪いのでありま せんいそ も りその蛋白質分子の構造によるようでありますが脂肪の す。 勿論 菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉 しだい つい 消化率の少いのはそれが多く 繊維素 の細 胞壁 に包まれて 快な 臭 や何かありまして好ましくないのであります。元 ただいま いる関係のようであります。どちらも 次第 に菜食になれ 来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よ いくぶん て参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々 18 へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべている ります。同じ水を 呑 んでも徳のある人とない人とでは大 よいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであ というよりは善悪によるものでありまして、よい感官は りはその感官自身の 精粗 によるものでありまして、精粗 ﹁今朝私どもがみなさんにさしあげて置いた五六枚のパ 見下してから云いました。 その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ 軽く会釈しました。その人も答礼して壇に上ったのです。 た顔色の悪いドイツ 刈 りの男が立ちました。祭司次長は 司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から 瘠 せ や 修道院の聖者たちにはパンの中の 糊精 や蛋白質 酵素 単糖 ンフレットはどなたも大抵お読み下すった事と思う。私 せいそ 類脂肪などみな 微妙 な味覚となって感ぜられるのであり はたしかに評判の通りシカゴ 畜産 組合の理事で 又 屠 畜 会 びみょう が ます。もしパンがライ麦のならばライ麦のいい所を感じ 社の技師です。ところが正直のところシカゴ畜産組合が の て喜びます。これらは感官が 静寂 になっているからです。 このビジテリアン大祭を決して苦にするわけはない。何 まで こうそ 水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、 となれば只今前論者の云われたようなトラピスト風の人 す こせい 又川の 柔 らかな水みなしずかにそれを享楽することがで 間というものは今日全人類の一万分一もあるもんじゃな す かるわざ ま ね きゅうくつ じよう また と ち く きるのであります。これらは感官が 澄 んで静まっている い。やっぱりあたり前の人間には肉類は食料として 滋養 も あら ところ ちくさん からです。ところが感官が 荒 さんで来るとどこ 迄 でも限 多く美味である。ビジテリアン諸氏が 折角 菜食を実行し せいじゃく りなく 粗 く悪くなって行きます。まあ 大抵 パンの本当の 又宣伝するのを見た 処 で感服はしても容易に 真似 はしな やわ 味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用いた い。則ち肉類の需要が減ずるものでもなし又私たちの組 むし い せっかく りします。則 ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではな 合がこわれたり会社が破産したりするものではない。だ たいてい い。 寧 ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食 から一向反対宣伝も 要 らなければこの 軽業 テントの中に すなわ にあるということを申しあげるのであります。﹂老人は会 入って異教席というこの光栄ある場所に私が数時間 窮屈 テント 釈して壇を下り拍手は 天幕 もひるがえるようでした。祭 19 めんどう ようとかそんな 面倒 なことを考えては居りません。動物 ぐあい ふと しょうどう をする必要もない。然しながら実は私は六月からこちら の神経だなんというものはただ本能と 衝動 のためにある お へ 避暑 に来て 居 りました。そしてこの大祭にぶっつかっ です。 神経なんというのはほんの少ししか働きません。 ひ しょ たのですから職業 柄 私の方ではほんの余興のつもりでし その 証拠 にはご覧なさい 鶏 では強制肥育ということをや がら たが少し 邪魔 を入れて見ようかと本社へ云ってやりまし る、鶏の 咽喉 にゴム管をあてて食物をぐんぐん 押 し込 ん いろうかたがた ふと ゆうもん にわとり たら社長や何かみな大へん 面白 がって賛成して運動費な でやる。ふだんの五倍も十倍も押し込む、それでちゃん めいめい しょうこ どもよこし 慰労旁々 技師も五人 寄越 しました。そこで私 と 肥 るのです、面白い位 肥 るのです。又犬の胃液の分 泌 やと じゃま たちは大急ぎで銘 々 一つずつパンフレットも作り自働車 や何かの 工合 を見るには犬の胸を切って胃の後部を 露出 おおさわ たいてい ため ろしゅつ ぶんぴつ こ などまで 雇 ってそれを撒 きちらしましたが実は、なあに、 して 幽門 の所を腸と 離 してゴム管に結ぶそして食物をや にわか かつ お 一向あなた方が菜っ葉や何かばかりお上がりになろうと る、どうです犬は食べると思いますか食べないと思いま さいだん の ど 痛くもかゆくもないのです。然しまあやりかけた事です すか。あっ、どうかしましたか。﹂ おもしろ からこれからも一度あのパンフレットを銘々一人ずつご 実際どうかしたのでした。あんまり話がひどかった 為 こ 説明して苦しいご返答を伺おうと思います。実は私の方 に婦人の中で四五人卒倒者があり 他 の婦人たちも大 抵 歯 の よ でもあの通り速記者もたのんであります、ご答弁は私の を食いしばって泣いたり耳をふさいで縮まったりしてい ま 方の機関雑誌畜産 之 友に載せますからご承知を願います。 たのです。式場は 俄 に大 騒 ぎになりシカゴの畜産技師も はな で私のおたずね致したいことはパンフレットにもありま 壇 の上で困って立っていました。正気を失った人たち 祭 ほか した通り動物がかあいそうだからたべないとあなた方は はみんなの手で私たちのそばを通って外に 担 ぎ出され職 お っしゃるが動物というものは一種の器械です。消化吸 仰 業の医者な人たちは十二三人も立って出て行きました。 はいせつじゅんがんせいしょく こ 収排 泄 循環 生殖 と斯 う云うことをやる器械です。死ぬ しばらくたって式場はしいんとなりました。婦人たちは こわ たれ のが 恐 いとか明日病気になって困るとか 誰 それと絶交し 20 げっこう わ ら もっとも いた風で少し 微笑 いながら演説しました。 から又云いました。 動物は衝動と本能ばかりだと仰っしゃいましたがまあ になって居りません。 い か ん なが ﹁なるほど実にビジテリアン諸氏の動物に対する同情は そうして置きます。その本能や衝動が生きたいというこ ただいま みんなひどく 激昂 していましたが何分相手が異教の論難 ﹁ 只今 のご質問はいかにもご 尤 であります。多少御実験 大きなものであります。も少し言辞に気をつけて申し上 とで 一杯 です。それを殺すのはいけないとこれだけでお ひきょう 者でしたので 卑怯 に思われない為に誰も異議を述べませ などもお話になりましたが実は 遺憾 乍 らそれはみな実験 げます。ええ、犬はそれを食べます。ぐんぐん喰べます。 答には 充分 であります。然 しながら更 に詳しいことは動 ぬぐ お判 りですか。又家畜を去勢します。則ち生殖に対する 物心理学の 沢山 の実験がこれを提供致すだろうと思いま ていねい んでした。シカゴの技師ははんけちで 叮寧 に口を 拭 って 燥 や何かの為に費される勢 焦 力 を保存するようにします。 す。又実は動物は本能と衝動ばかりではないのでありま しょうそう はや たくさん じゅうぶん いっぱい さあ、家畜は肥りますよ、全く動物は一つの器械でその す。今朝のパンフレットで見ましても生物は一つの大き あし さら を 脚 疾 くするには走らせる、 肥らせるには食べさせる、 な連続であると申されました。人間の心もちがだんだん しか 卵をとるにはつるませる、乳汁をとるには子を近くに置 人間に近いものから遠いものに行われて居ります。人間 わか いて子に呑ませないようにする、どうでも勝手次第なも の苦しいことは感覚のあるものはやっぱりみんな苦しい エネルギー んです。決して心配はありません。まだまだ述べたいの 人間の悲しいことは強い弱いの区別はあってもやっぱり いた ですが又卒倒されると困りますからここまでに 致 して置 ゆかい かいいぬ どの動物も悲しいのです。仲々あのパンフレットにある ぶた きます。﹂ のように 豚 愉快 には行かないのであります。 飼犬 が主人 はくしゅ その人は壇を下りました。 拍手 と一処に六七人の人が が し した の少年の病死の時その墓を離れず食物もとらずとうとう さる 私どもの方から立ちましたが祭司次長が割合前の方のモ 死 した有名な例、鹿 餓 や 猿 の子が殺されたときそれを慕 っ しか オニングの若い人をさしまねきました。その人は落ち着 21 は実に反対者たちは動物が人間と少しばかり形が違って を以 て強て動物を律しようとするというのに対して、私 たりするのです。前論者の、ビジテリアンは人間の感情 が何年もその主人を覚えていて 偶 に会ったとき 涙 を流し て親もわざと殺されることなど 誰 でも知っています。馬 あっても正気の 沙汰 と思われない。人間の半分十億人が 分に縮減しようというのはどんなほかに立派な理くつが くて戦争だのいろいろ 騒動 が起ってるのに更にそれを半 べないじゃ食物が半分になる。たださえ食物が足りな 喰 の食物の半分は動物で半分は植物です。そのうち動物を う。どうですそれにちがいありますまい。地球上の人類 たれ いるのに眼を 欺 かれてその本心から起って来る 哀憐 の感 食物がなくて死んでしまう、死ぬ前にはいろいろ大騒ぎ つごう あいれん なみだ 情をなくしているとご忠告申し上げたいのであります。 が起るその時ビジテリアンたちはどうします。自分たち たま 誰だって自分の 都合 のいいように物事を考えたいもので の起した戦争の中へはいってわれらの敵国を打ち 亡 ぼせ た はありますがどこ迄もそれで通るものではありません。 と云って 鉄砲 や剣を持って突 貫 しますか。それともああ はず とっかん そうどう 元来私どもの感情はそう無茶苦茶に間違っているもので こんな 筈 じゃなかった神よと云ってみんな一 緒 にナイヤ もっ はないのでありましてどうしても本心から起って来る心 ガラかどこかへ飛び込みますか。そんなことをしたって た 持は全く客観的に見てその通りなのであります。動物は 追い付きません。いや、それよりもこんなことになるの しけい さ 全く 可哀 そうなもんです。人もほんとうに 哀 れなもので はどこの国の政治家でもすぐわかる、これはいかんと云 あざむ す。私は全論士にも少し深く上調子でなしに世界をごら うわけでお気の毒ながら諸君をみんな終身 懲役 にしちま ちょうえき ほろ んになることを望みます。﹂ います。まさか 死刑 にはなりますまいが終身懲役だって かみ ざんげ てっぽう 拍手が強く起りました。拍手の中から 髪 を長くしたせ そんないいもんじゃありませんよ。どうです。今のうち いっしょ いの低い男がいきなり異教席を立って壇に登りました。 悔 してやめてしまっては。﹂ 懺 あわ ﹁私はやはりシカゴ畜産組合の技師です。諸君、今朝の 拍手も笑声も起りました。私たちの方から若い背広の かあい マルサス人口論を基とした議論は読んで下すったでしょ 22 が半々ですか。多分は目方でお測りになるおつもりか知 植物と半々だ、これがまずいけません。半々というのは何 はありますが大分乱暴な処もある様であります。動物と 食べないじゃ食料が半分に減る。いかにもご尤なお考で 人類の食料は動物と植物と約半々だ。そのうち動物を ます。 ﹁ご質問に対してできるだけ簡単にお答えしようと思い その青年は少し 激昂 した風で演説し始めました。 したんです。大学生です。﹂ ﹁あの人は私は知ってますよ。ニュウヨウクで二三 遍 話 青年が立って行きました。 所の方にでも見てお 貰 いなさい。計算がちがっているか れをざっと二十億で割って三百六十五で割って営養研究 兆大カロリーとか何とか出て来ましょう。両方合せてそ 馬、鶏 鯨 という工合に今の通りやります。合計二千三百 リーとか何とか大体出て参りましょう。今度は牛羊、豚、 の発する熱量を計算して合計します。四千三百兆大カロ ら 蛋白質 脂 肪 含 水炭素 の可消化量を計算してそれから 各 りびっくりなさいませんように。次にその残りの各々か から各々家畜の喰べる分をさし引きます。その際あんま や 甘藍 あらゆる食品の産額を発見して 先 ず第一にその中 計算を願います。 即 ち世界中の小麦と大麦米や 燕麦 蕪 菁 ましょう。どうぞシカゴ畜産組合の事務所でゆっくり御 ひかく もら たんぱくしつ し ぼ う が ん す い た ん そ くじら すなわ オート おのおの オート かぶら れませんが目方で 比較 なさるのは大へんご損です。食物 どうか多分ご返事なさるでしょう。 すなわ の中で消化される分の熱量ででもご比較になったら割合 さて、ところが只今までの議論は一向私には何でもな べん 正確だろうと存じます。そう云うふうにしますと一般に いのでありまして第一のご質問の答弁の要点はこの次で ま 動物質の方が消化率も大きいのでありますからよほどお す。 則 ち論難者は、そのうち動物を食べないじゃ食料が おそ キャベジ 得になります。お得にはなりますがとてもとても半々な 半分に減ずるというこいつです。冗談じゃありませんぜ。 げっこう んというわけには参りますまい。こんな 珍 らしい議論の 一体その動物は何を食って生きていますか。空気や岩石 めず 必要が従来あんまりありませんでしたので 恐 らくこの計 や水を食べているのじゃないのです。牛や馬や羊は 燕麦 たれ 算はまだ 誰 も致しますまいが計算法だけ申し上げて置き 23 ごらんなさい。人間が自分のたべる穀物や野菜の代りに や牧草をたべる。 その 為 に作った 南瓜 や蕪菁もたべる。 大丈夫戦争も起らなければ無期徒刑をご心配して下さら ころか事によると少し増えるかも知れません。ですから も 面白 いですが仲々その食料が半分にならない。減るど おもしろ 家畜の喰べるものを作っているのです。牛一頭を養うに なくても大丈夫です。 却 って菜食はみんなの心を平和に かぼちゃ は八エーカーの牧草地が 要 ります。そこに一番計算の早 し 互 に正しく愛し合うことができるのです。多くの宗教 ため い小麦を作って見ましょうか。十人の人の一年の 食糧 が で肉食を禁ずることが大切の 儀式 にはつきものになって もたら かえ 毎年とれます。牛ならどうです。一年の間に 肥 る分左様 いるのでもわかりましょう。戦争どこじゃない菜食はあ い 百六十キログラムの牛肉で十人の人が一年生きていられ なた方にも永遠の平和を 齎 してせっかく避 暑 に来ていな たがい ますか。一人一日五十グラムですよ。親指三本の大さで がら自働車まで 雇 って変な宣伝をやったり大祭へ 踏 み込 しょくりょう すよ。腹が空 りはしませんか。 んで来ていやな事を云って婦人たちを卒倒させたりしな ほにゅう くんしょう ぎしき よくおわかりにならないようですがもっと手短かに云 くてもいいようになります。又我々だって無期徒刑じゃ ふと いますともし人間が自然と相談して牛肉や豚肉の代りに ない、人類の仲間からと 哺乳 動物組合、鳥類連盟、魚類 ひ しょ 何か損にならないものをよこして 呉 れと云えば今よりもっ 事務所などからまで勲 章 や感謝状を沢山贈られる訳です。 ふ だん かいご ふ とたくさんの人間が生きて行かれる位多くの喰べものを どうです。おわかりになったらあなたもビジテリアンに まただいじょうぶ こら やと 向うではよこすと 斯 う云うことです。但 しこれは海産物 おなりなさい。﹂ へ と廃 物 によって養う分の家畜は論外であります。然しな すると前の論士が立ちあがりました。大へん 悔悟 した く がらそれを計算に入れても 又 大 丈夫 です。家畜だってみ ような顔はしていましたが何だかどこか 噴 き出したいの ただ んな喰べるものばかりでなく羊のように毛を貰うもの馬 を 堪 えていたようにも見えました。しょんぼり 壇 に登っ こ や牛のように労働をして貰うものいろいろあります。 て来て はいぶつ 次に食料が半分になっちゃ人間も半分になる、いかに 24 あいまい てあるがそれはほんのはずみなのだ。そんな 曖昧 な動物 ぐあい じんじ ﹁悔悟します。今日から私もビジテリアンになります。﹂ かも知れないものは勿論 仁慈 に富めるビジテリアン諸氏 い と云 って今の青年の手をとったのでした。みんなは実に は食べたり殺したりしないだろう。ところがどうだ諸君 こうぼ す ひどく拍手しました。二人は連れ立って私たちの方へ下 諸君が 一寸 菜っ葉へ酢 をかけてたべる、そのとき諸君の き ちょっと り技師もその空いた席へ 腰 かけて 肩 ですうすう息をして 袋 に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百 胃 かた いました。ところが 勿論 この事の為に異教席の憤 懣 はひ 億じゃ 利 けゃしない。諸君が一寸 葡萄 をたべるその一房 のぼ こし どいものでした。一人のやっぱり技師らしい男がずいぶ にいくらの細菌や 酵母 がついているか、もっと早いとこ そぼう いぶくろ ん粗 暴 な態度で壇に昇 りました。 諸君が町の空気を吸う一回に多いときなら一万ぐらいの ふんまん ﹁諸君、私の疑問に答えたまえ。 細菌が殺される。そんな 工合 で毎日生きていながら私は もちろん 動物と植物との間には確たる境界がない。パンフレッ ビジテリアンですから牛肉はたべません、なんて、牛肉 ぎぜん の ふさ トにも書いて置いた通りそれは人類の勝手に設けた分類 はいくら喰べたって一つの命の百分の一にもならないの よ ところ ぶどう に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物も だ、偽 善 と云おうか無智と云おうかとても話にならない。 さいきん ほと かあいそうになる筈だ。動物の中の原生動物と植物の中 本とうに動物が可あいそうなら植物を喰べたり殺したり さんご たま の細 菌 類とは殆 んど相密接せるものである。又動物の中 するのも 廃 し給 え。動物と植物とを殺すのをやめるため か たびたび わきみず にだってヒドラや 珊瑚 類のように植物に似たやつもあれ にまず水と食塩だけ 呑 み給え。水はごくいい湧 水 にかぎ と ば植物の中にだって食虫植物もある、 睡眠 を摂 る植物も る、それも新鮮な 処 にかぎる、すこし置いたんじゃもう せんころ すいみん ある、 睡 る植物などは毎晩 邪魔 して睡らせないと 枯 れて バクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸い給 と じゃま しまう、食虫植物には小鳥を 捕 るのもあり人間を殺すや え、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山 ねむ つさえあるぞ。 殊 にバクテリアなどは 先頃 まで度 々 分類 の中へ行っていい空気といい水と岩塩でもたべながらこ こと 学者が動物の中へ入れたんだ。今はまあ植物の中へ入れ 25 考えていました。その男はもう大得意でチラッとさっき 拍手は起り、笑声も起りましたが多くの人はだまって 吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。﹂ のビジテリアン大祭をやるようにし給え。ここの空気は 植物と 斯 う連続しているからもし動物がかあいそうなら 一転して植物、の細菌類、それから 多細胞 の 羊歯 類顕 花 れから節足動物とか 軟体 動物とか乃 至 原生動物それから して見ます。則ち人類から他の哺乳類鳥類 爬虫 類魚類そ まず生物連続が面白かったようですからそれを色々応用 ちん たさいぼう べんぎ さかい し だ はちゅう 悔 してビジテリアンになった友人の方を見て自分の席 懺 生物みんな可 哀 そうになれ、顕花植物なども食べても切っ こまね たとえ ないし へ帰りました。すると私の 愕 いたことはこの時まで腕 を てもいかんというのですが、連続をしているものはまだ し な りゅうちょう なんたい いてじっと 拱 座 っていた陳 氏がいきなり立って行ったこ いろいろあります。 仮令 ば人間の一生は連続している、 えしゃく ろんし えんびふく あるい けんか とでした。支 那 服で祭壇に立ってはじめて私の顔を見て 児 期幼児期少年少女期青年処女期壮年期老年期とまあ 嬰 ただいま こ 一寸かすかに 会釈 しました。それから落ち着いて 流暢 な 斯うでしょう、ところが実はこれは 便宜 上勝手に分類し ざんげ 英語で 反駁 演説をはじめたのです。 たので実は連続しているはっきりした 堺 はない、ですか かあい ﹁只 今 のご論 旨 は大へん面白いので私も早速空気を吸う ら、 若 し四十になる人が代議士に出るならば必ず生れた うで のをやめたいと思いましたがその前に一寸一言ご返事を ばかりの嬰児も代議士を志願してフロックコートを着て おどろ したいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許 政見を発表したり 燕尾服 を着て交際したりしなければい すわ し下さい。 けない、又小学校の一年生にエービースィーを教えるな えいじ さて只今のご論旨ではビジテリアンたるものすべから ら大学校でもなぜ文学より見たる理論化学とか、相対性 はんぱく く無菌の水と岩石ぐらいを喰べて 海抜 二千尺以上ぐらい 学説の難点とかそんなことばかりやってエービースィー もっ も の高い処に生活すべしというのでありましたが、なるほ を教えないか、と斯う云うことになります。 或 は他 の例 かいばつ ど私共の中には一酸化炭素と水とから砂糖を合成する事 を 以 てするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的 ここ ほか をしきりに研究している人もあります。けれども 茲 では 26 ふうてん すというようなことは馬を殺すというようなのと非常な すべから でありますから人類は 須 く瘋 癲 病院を解放するか或はみ ちがいです。バクテリヤは次から次と 分裂 し 死滅 しまる しめつ んな瘋癲病院に入らなければいけないと斯うなるのであ で 速 かに速かに変化してるのです。それを殺すと云った ぶんれつ ります。この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するよ ところで馬を殺すというようのとは大分ちがいます。又 私共が生れつきバクテリヤについては殺すとかかあいそ すみや うに思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に バクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく はよくあるのです。 うだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。又 しょうこ 考え真実に実行しなかった 証拠 であります。斯んなこと いくら連続していてもその 両端 では大分ちがっていま 仕方ないのです。 但 しこれも人類の文化が進み人類の感 りょうたん す。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは 情が進んだときどう変るかそれはわかりません。印度の ただ 両端に赤と菫 とがありまん中に黄があります。ちがって 聖者たちは 濾 さない水は呑みません。 普通 の布の水濾し すみれ いますからどうも仕方ないのです。植物に対してだって では原生動物は通りますまいがバクテリヤは通りましょ いまし メンシアス そな こ ふつう それをあわれみいたましく思うことは勿論です。 印度 の う。まあこれらについてはいくら理論上何と云われても きょり こ 聖者たちは実際 故 なく草を伐 り花をふむことも 戒 めまし 私たちにそう思えないとお答え致 すより仕方ありません。 インド た。然 しながらこれは牛を殺すのと大へんな距 離 がある。 やがて理論的にも又その通り証明されるにちがいありま うす き それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざか せん。私の国の 孟子 と云う人は徳の高い人は 家畜 の殺さ ゆえ るに従ってだんだん意識が 薄 くなるかどうかそれは少し れる処又料理される処を見ないと云いました。ごく 穏健 はんもん おい いた もわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるとき な考であります。自然はそんなおとしあなみたいなこと しか そんなにひどく 煩悶 しません。そこはそれ相応にうまく はしませんから。私共は私共に 具 わった感官の状態私共 かちく できているのであります。バクテリヤの事が大へんやか をめぐった条件に 於 て菜食をしたいと 斯 う云うのであり おんけん ましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺 27 あらし した。私共の席から一人がすぐ出て行きました。 に ます。ここに於て私は敢 て高山に 遁 げません。﹂陳氏は嵐 ﹁只今の比較解剖学からのご説はどうも 腑 に落ちないの あえ のような 拍手 と一 緒 に私の処へ帰って来ました。私が陳 であります。まず第一に人類の歯に混食が丁度適当だと ふ 氏に立って敬意を示している間に演壇にはもう次の論士 いうのにいろいろ議論も起りましょうがまあこれは大体 いっしょ が立っていました。 その通りとしていかがです、その次に、人類に混食が一 はくしゅ ﹁諸君、しずかにし給え。まだそんなによろこぶには早 番自然だから菜食してはいかんというのは。 か ひかくかいぼう い。なぜならビジテリアン諸君の主張は 比較解剖 学の見 自然だからその通りでいいということはよく云います てんぷく 地からして正に根底から 顛覆 するからである。見給え諸 がこれは実はいいことも悪いこともあります。たとえば きゅうし 君の歯は何枚あります。三十二枚、そうです。でその中四 我々は畑をつくります。そしてある目的の作物を育てる くだ いっぱい 枚が門歯四枚が犬歯それから残りが 臼歯 と智歯です。で のでありますがこの際一番自然なことは畑 一杯 草が生え す ため そんなら門歯は何のため、門歯は食物を 噛 み取る 為 臼歯 わか ひ いただ て作物が負けてしまうことです。 これは一番自然です。 さ は何のため植物を 擦 り砕 くため、犬歯はそんなら何のた 前論士がもし農場を経営なすった際には参観さして 戴 き かんがえ めこれは肉を 裂 くためです。これでお判 りでしょう。臼 たい。又人間には 盗 むというような考 があります。これ ぬす 歯は草食動物にあり犬歯は肉食類にある。人類に混食が は 極 めて自然のことであります。そんならそのままでい すなわ きわ 一番適当なことはこれで見てもわかるのです。 則 ち人類 いではないか。と斯うなります。又異教派の方にも大分 い は混食しているのが一番自然なのです。ですから我々は 諸方から鉄道などでお 出 でになった方もあるようであり こら ぶ 肉食をやめるなんて考えてはいけません。﹂ ますが鉄道で一番自然なこと則ちなるべく人力を加えな み ずいぶんみんな 堪 えたのでしたがあんまりその人の 身振 いようにしまするならば 衝突 や脱線や人を轢 いたりする ふ しょうとつ りが 滑稽 でおまけにいかにも小学校の二年生に教えるよ などがいいようであります。そんならそれでいいではな こっけい うに云うもんですからとうとうみんなどっと 吹 き出しま 28 た。 てしまいました。すると異教席からすぐ又一人立ちまし ありませんか。 ﹂斯う云ってその人はさっさっと席に 戻 っ てしまえと斯う云うことになりますがどなたもご異議は いかポイントマンだのタブレットだの 面倒臭 いことやめ からってそれが私たちの必ずそれを喰べる理由にはなら ﹁私はただ一分でお答えする。第一に魚がどんなに死ぬ すぐ又一人立ちました。 ているのです。いかがです。﹂ ことになる。まるで諸君の考と反対のことばかり行われ が 甘藍 を一つたべるとその為に青虫を百疋も殺している キャベジ ﹁私は実は宣伝書にも云って置いた通り 充分 詳しく論じ ない。又私たちが魚をたべたからって魚が喜ぶかどうか めんどうくさ ようと思ったがさっきからのくしゃくしゃしたつまらな そんなこともわからない。どうせ何かに殺されるだろう もど い議論で頭が痛くなったからほんの一言申し上げる、魚 からってこっちが殺してやろうと云う訳には参りません。 じゅうぶん などは諸君が 喰 べないたって死ぬ、鰯 なら人間に食われ 人間が魚をとらなければ海が魚で 埋 まってしまうという いわし るか 鯨 に呑 まれるかどっちかだ。つぐみなら人に食べら 定 さえあるがそんなめのこ勘定で 勘 往 くもんじゃない。 たか た れるか 鷹 にとられるかどっちかだ。そのとき鰯もつぐみ 結局こんな間接のことまで論じていたんじゃきりがない、 なみだ う もまっ黒な鯨やくちばしの 尖 ったキスも出来ないような ただわれわれはまっすぐにどうもいけないと思うことを の 鷹に食べられるよりも仁慈あるビジテリアン諸氏に 泪 を しないだけだ。野菜も又 犠牲 を払 うというがそれはわれ くじら ほろほろそそがれて喰べられた方がいいと云わないだろ われはよく知っている。だから物を 浪費 しないことは大 きょくたん ろうひ い うか。それから今度は菜食だからって一向安心にならな 切なことなのだ。但し穀作や何かならばそんなにひどく ひゃくしょう かんじょう い。農業の方では害虫の学問があって薬をかけたり焼い 虫を殺したりもしないのだ。 極端 な例でだけ比較をすれ つぶ とが たり 潰 したりして虫を殺すことを考えている。 百姓 はみ ばいくらでもこんな変な議論は立つのです。結局我々は ぴき はら んなそれをやる。鯨を食べるならば一 疋 を一万人でも食 どうしても正しいと思うことをするだけなのだ。﹂ ぎせい べられ、又その為に百万疋の鰯を助けることになるのだ 29 すで およ ざんがい しば お のぞ つく みまわ ごじん せつり きょうあい 氏の信条を厳正に批判して見たいと思うのであります。 いな そうろん しか 拍手が起りました。その人は壇を下りました。 るに私の奉ずる神学とは 然 然 く 狭隘 なるものではない。 つ しか 異教徒席の中から 赭 い髪 を立てた 肥 った 丈 の高い人が東 私の奉ずる神学はただ二言にして 尽 す。ただ一なるまこ かんだい たけ 洋風に形容しましたら正に 怒髪 天を衝 くという風で大 股 との神はいまし 給 う、それから神の 摂理 ははかるべから なら ふと に祭壇に上って行きました。私たちは 寛大 に拍手しまし ずと 斯 うである。これに賛せざる諸君よ、諸君は 尚 かの かみ た。 中世の 煩瑣哲学 の残 骸 を以 てこの明るく楽しく流動止 ま あか 祭司が一人出てその人と 並 んで紹介しました。 ざる一千九百二十年代の人心に臨 まんとするのであるか。 たび ちょっと おおまた ﹁このお方は神学博士ヘルシウス・マットン博士であり 今日宗教の最大要件は簡潔である。 吾人 の哲学はこの二 どはつ ましてカナダ大学の教授であります。この 度 はシカゴ畜 語を以て 既 に千六百万人の世界各地に散在する信徒を得 ごしてき たま 産組合の 顧問 として本大祭に御出席を得只今より我々の た。 否 、凡 そ神を信ずる者にしてこの二語を奉ぜざるも かた ば れ い しょ こんごうせき かた みち ほうこう なお 主張の不備の点を 御指摘 下さる次第であります。 一寸 紹 のありや、細部の 諍論 は暫 らく措 け、凡そ 何人 か神を信 おもむ こ 介申しあげます。﹂とこう云うのでありました。私たちは ずるものにしてこの二語を否定するものありや。﹂ 咆哮 し きわ ごと あるい や 寛大に拍手しました。 終ってマットン博士は卓を打ち式場を 見廻 しました。満 かか たた もっ マットン博士はしずかにフラスコから水を 呑 み肩 をぶ 場森 として声もなかったのです。博士は続けました。 やわ つく はんさてつがく るぶるっとゆすり腹を 抱 えそれから極 めて徐 ろに述べ始 ﹁讃 うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神 こもん めました。 はすべてを 創 り給うた。美しき自然よ。風は不断のオル ところ かっせき なんぴと ﹁ビジテリアン同情派諸君。本日はこの光彩ある大祭に ガンを弾じ雲はトマトの 如 く又馬 鈴薯 の如くである。 路 の 出席の栄を得ましたことは私の真実光栄とする 処 であり のかたわらなる草花は 或 は赤く或は白い。 金剛石 は硬 く しん ます。 石 は軟 滑 らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場に つい 就 てはこれより約五分間私の奉ずる神学の立場より諸 30 すみやか かいご しもべ るか。 速 にこれを 悔悟 して従順なる神の僕 となれ。﹂ よそお はうるわしき牛 佇立 し羊群馳 ける。その海には青く装 え 博士は最後に大咆哮を一つやって電光のように自分の か る鰯も泳ぎ大 なる鯨も 浮 ぶ。いみじくも造られたる天地 席に 戻 りそこから横目でじっと式場を見まわしました。 ちょりつ よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありますか。﹂ 拍手が起りましたが同時に大笑いも起りました。という うか 式場はしいんとして返事がありませんでした。博士は実 のは私たちは式場の神聖を乱すまいと思ってできるだけ おおい に得意になってかかとで一つのびあがり手で円くぐるっ こらえていたのでしたがあんまり博士の議論が面白いの まこと かしこ さけ さいだん もど と環 を描 きました。 でしまいにはとうとうこらえ切れなくなったのでした。 えが ﹁その中の出来事はみな神の摂理である。 総 ては総ては 一番前列に居た小さな信者が立ちあがって祭司次長に何 わ みこころである。 誠 に畏 き極みである。主の恵み讃うべ か 云 いました。次長は大きくうなずきました。 は ぶた すべ く主のみこころは測るべからざる 哉 。われらこの美しき その人はこの村の小学校の先生なようでした。落ちつ ターニップ はくしゅ えしゃく い 世界の中にパンを 食 み羊毛と麻 と木綿とを着、セルリイ いて 祭壇 に立ってそれから 叮寧 にさっきのマットン博士 かな と蕪 菁 とを食み又豚 と鮭 とをたべる。すべてこれ摂理で に 会釈 しました。博士はたしかに青くなってぶるぶる 顫 あさ ある。み恵みである。善である。どうです諸君。ご異議 えていました。その信者は次に式場全体に 挨拶 しました。 ていねい がありますか。 ﹂ 手 は強く起りました。その人は少しニュウファウンド 拍 ふる 博士は今度は少し心配そうに顔色を悪くしてそっと式 のなまりを入れて演説をはじめました。 ﹁異教論難に対し私はプログラムに許されてある通り宗 だっと で結論にはいりました。 教演説を以て答えようと思うのであります。 あいさつ 場を見まわしました。それから、まるで 脱兎 のような勢 ﹁私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の ヘルシウム・マットン博士の御所説は実に三段論法の典 ここ こば 正義を伝えんが為に茲 に来た。諸君、諸君は神を信ずる。 おんけい 型であります。まず博士の神学を挙げて二度これを満場 ゆえ 何が 故 に神に従わないか。何故に神の恩 恵 を拒 むのであ 31 く も又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を 繰 そむ すべ に承認せしめこれを以て大前提とし次にビジテリアンが きわ り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、 そむ かしこ これに 背 くことを述べて小前提とし最後にビジテリアン めいりょう その中の出来事はみな神の摂理である。 総 ては総てはみ おか いた が故に神に背 くことを断定し菜食なる小善の故に神に背 こころである。誠に 畏 き極 みである。主の恵み讃うべく かな くの大罪を犯 すことを暗示致 されました。実に簡潔明 瞭 さら 主のみこころは測るべからざる 哉 、すべてこれ摂理であ もっとも 約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中な こ なる所論であります。 る。み恵みである。善である。と 斯 うです。これを更 に しか 然 るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは 最 憾 に存ずる次第であります。 遺 るが故に善なりと、まあよろしいようでありますが又ご いかん 第一に博士の一九二〇年代に適するようにクリスト教 くあぶないのであります。ここの善というのは神より見 こ こ ことば 旧神学中より 抽出 されました簡潔の神学はただこの 語 だ たる善であります。絶対善であります。それをもし私た ひきだ けで見ますればこれいかにも適当であります。今日 此処 ちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士 おい に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりでは の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛を食う、 あえ おこ ありません、されどいずれの宗教に 於 てもこれを云わん 摂理で善である、私が 怒 ってマットン博士をなぐる、摂 いた ただ と欲 するものであります。但 しこれ敢 て博士の神学でも 理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事 ほっ ありません。これ最 普通 のことであります。 で神のみ 旨 は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君 こと ふつう 第二にその神学の解釈に 至 っては私の最疑義を有する にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげ むね 所であります。 殊 にも摂理の解釈に至っては 到底 博士は る、大へんよろしい、私が 誰 かにおどされて旅費を巻き とうてい 信者とは云われませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教 あげ損 ねそうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善 たれ に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈 である。もっと面白いのはここにビジテリアンという一 いず そこ を誤ること我が神学博士のごときもの 孰 れの宗教に於て 32 マットン博士の所説は 自家撞着 に終るものなることを示 ば怒髪天を衝 いてこれを駁 撃 するか。ここに至って 畢竟 ある然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するなら 類が動物をたべないと云っている。神の摂理である善で は阿 弥陀仏 の 化身 親鸞僧正 によって啓 示 されたる本願寺 信ずる 所以 はどうしても仏教が深遠だからである。自分 私も又実は仏教徒である。クリスト教国に生れて仏教を アン諸氏中約一割の仏教徒のあることを私は知っている。 前論士の如くである。然しながら 茲 に集られたビジテリ ここ す。この結論は実にいい 語 であります。これ然しながら 派の信徒である。 則 ち私は一仏教徒として我が 同朋 たる じ か ど う ちゃく ことば しんじん ひっきょう 肖 私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝の 不 ビジテリアンの仏教徒諸氏に一語を寄せたい。この世界 ゆうかん ばくげき パンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで は苦である、この世界に行わるるものにして一として苦 テント つ 敢 なるマットン博士に 勇 深甚 なる敬意を寄せます。﹂ ならざるものない、ここはこれみな 矛盾 である。みな罪 あみだぶつ ゆえん 拍手は 天幕 をひるがえしそうでありました。 悪である。 吾等 の心象中微 塵 ばかりも善の痕 跡 を発見す ろこつ ひっきょう われら すなわ みじん むじゅん けいじ ﹁大分 露骨 ですね、あんまり教育家らしくもないビジテ ることができない。この世界に行わるる吾等の善なるも け し ん しんらんそうじょう リアンですね。﹂ と陳さんが大笑いをしながら申しまし のは 畢竟 根のない木である。吾等の感ずる正義なるもの どうぼう た。 は結局自分に気持がいいというだけの事である。これは ふしょう ところがその拍手のまだ鳴りやまないうちにもう異教 うでなければいけないとかこれは斯うなればよろしい 斯 はな こんせき 徒席の中から 瘠 せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上 とかみんなそんなものは何にもならない。動物がかあい こ りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつって そうだから喰べないなんということは吾等には云えたこ や いるように見えました。それでもコップの水を 呑 んで少 とではない。実にそれどころではないのである。ただ 遥 の し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。 かにかの西方の覚者救済者阿弥陀仏に帰してこの矛盾の はる ﹁マットン博士の神学はクリスト教神学である。 且 つそ 世界を 離 るべきである。それ然る後に於て菜食主義もよ か の摂理の解釈に於て少しく遺憾の点のあったことは全く 33 の形容を 以 てすれば一つの壺 の水を他の一つの壺に移す 行い 爾来 わが本願寺は代々これを行っている。日本信者 大教師にして仏の化身たる親鸞僧正がまのあたり肉食を ろしいのである。この 事柄 は敢て議論ではない、吾等の 物を受けた。その食物は豚肉を主としている、釈迦はこ よ、釈迦は最後に 鍛工 チェンダというものの捧げたる食 するに従て全く菜食主義者ではなかったようである。見 れを 銘記 せよ。釈迦はその晩年、その思想いよいよ円熟 律法に一も従っていない。特にビジテリアン諸氏よくこ ことがら が如くに肉食を 継承 しているのである。次にまた仏教の の豚肉の為に 予 め害したる胃腸を全く救うべからざるも だんどくせん つぶ しゃか む に なづ しょうじん ささ こんにち めいき 創設者 釈迦牟尼 を見よ。釈迦は 出離 の道を求めんが 為 に のにしたらしい。その為にとうとう八十一歳にしてクシ じらい 特山 と 檀 名 くる林中に於て六年 精進 苦行した。一日米の ナガラという処に 寂滅 したのである。仏教徒諸君、釈迦 さと エクスタシー めいわく スケール こうい じゃくめつ たんこう 実一粒 亜麻の実一粒を食したのである。されども 遂 にその を見ならえ、釈迦の 行為 を模 範 とせよ。釈迦の相似形と けいらん つぼ 苦行の無益を 悟 り山を下りて川に身を洗い村女の 捧 げた なれ、釈迦の諸徳をみなその二万分一、五万分一、 或 は もっ るクリームをとりて食し遂に 法悦 を得たのである。 今日 二十万分一の 縮尺 に於てこれを習修せよ。然る後に菜食 も けいしょう 牛乳や 鶏卵 チーズバターをさえとらざるビジテリアンが 主義もよろしかろう。諸君の 如 き畸 形 の信者は恐らく地 おおい あらかじ ある。これらは 若 し仏教徒ならば論を俟 たず、仏教徒な 下の釈迦も 迷惑 であろう。﹂ きた こうい ため らざるも又大 に参考に資すべきである。更に釈迦は集り 拍手はテントもひるがえるばかりでした。 しゅつり れる多数の信者に対して決して肉食を禁じなかった。 来 私はこの時あんまりひどい今の 語 に頭がフラッとしま じょうにく つい 五種 浄肉 となづけてあまり残忍なる 行為 によらずして得 した。そしてまるでよろよろ出て行きました。 いにしえ ごと もはん たる動物の肉はこれを食することを許したのである。今 何を云うんだったと思ったときはもう演壇に立ってみ インド ことば あるい 日のビジテリアンは実に 印度 の 古 の聖者たちよりも食物 んなを見下していました。 つい きけい のある点に就 て厳格である。されどこれ畢竟不具である 陳氏が一番向うでしきりに拍手していました。みんな きけい ま 形 である、食物のみ厳格なるも釈迦の制定したる他の 畸 34 いということであります。これその演説中 数多 如 来正徧知 奇心を有するだけで決して仏弟子でもなく仏教徒でもな するに仏教特に 腐敗 せる日本教権に対して一種 骨董 的好 す。先 ず予め茲 で述べなければならないことは前論士は要 て前論士の所説の 誤謬 を指摘せざるを得ないのでありま のでありますが 遺憾 乍 ら私は又 敬 虔 なる釈尊の 弟子 とし ﹁前論士は仏教徒として菜食主義を否定し肉食論を唱えた た。 はまるで野原の花のように見えたのです。私は云いまし ずして善はあることないという意味であろう私もそう信 根のない木であると、これは 恐 らくは如来のみ力を受け べられた。この世界に行わるる吾等の善なるものは 畢竟 である。次に前論士は 吾等 の世界に於ける善について述 ずれの教理が深遠なるや見当も何もつくものではないの 禁じ得ないだろう。私から云うならば前論士の如きにい スト教が深遠だからであると。諸君はその 軽薄 に不快を 教国に生れてクリスト教を信ずる所以はどうしてもクリ 諸氏、処を 換 えて次の如き命題を諸氏は許容するか、仏 どうしても仏教が深遠だからであると。クリスト教信者 ごびゅう ふはい ろう こっとう あ ま た にょらいしょうへんち なんぴと ぐこうじゃきょく か に対してあるべからざる言辞を 弄 したるによって明らか ずる。その次にこれは斯うなればよろしいとかこれはこ かぶ もっ は すみや そうろん かくご けいはく である。特にその最後の言を見よ、地下の釈迦も定めし迷 うでなければいけないとかそんなものは何にもならない、 ごと し で し 惑であろうと、これ何たる言であるか、 何人 か如来を信 とこれも私は如来のみ旨によらずして我等のみの計らい かく け またけいけん ずるものにしてこれを地下にありというものありや、我 にてはそうであると思う。前論士も又その意味で云われた あくま い か ん なが 等は決して斯 の如 き仏弟子の外皮を 被 り貢 高邪曲 の内心 ようである。但しただ 速 かにかの西方の覚者に帰せよと、 ここ を有する 悪魔 の使徒を許すことはできないのである。見 これは仏教の中に於て色々 諍論 のある処である。今はこ ま よ、彼は自らの 芥子 の種子ほどの智識を 以 てかの無上土 れを避ける。ただ我等仏教徒はまず釈尊の所説の記録仏 してき われら を測ろうとする、その論を更に今私は繰り返すだも 恥 ず 経に従うということだけを 覚悟 しよう。仏経に従うなら りょうがきょう ひっきょう る処であるが実証の為にこれを 指摘 するならば彼は斯う ば五種浄肉は修業未熟のものにのみ許されたこと 楞迦経 ゆえん おそ 云っている。クリスト教国に生れて仏教を信ずる 所以 は 35 等 仏弟子の肉を食うことを許されずとされている。その 汝 に明かである。これとても最後 涅槃経 中には今より以後 する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然 なくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対 表現である。マットン博士のように誤った 摂理 論を出さ せつり 五種浄肉とても前論士の云われた如き余り残忍なる 行為 のことであろう。 ねはんぎょう によらずしてというごとき簡単なるものではない。仏教 仏教の精神によるならば慈 悲 である、如来の慈悲である なんじら 中の様々の食制に関する 考 は他に 誰 か述べられる予定が 完全なる 智慧 を具 えたる愛である、仏教の出発点は一 切 ここ くよう こうい あったようであるから 茲 にはこれを略する。但し最後に の生物がこのように苦しくこのようにかなしい我等とこ けいそつ もろとも そっちょく ひ 前論士は釈尊の終りに受けられた 供養 が豚肉であるとい れら一切の生物と 諸共 にこの苦の状態を離れたいと 斯 う おい カルパ じ う、何という 間違 いであるか豚肉ではない 蕈 の一種であ 云うのである。その生物とは何であるか、そのことあま たれ る。サンスクリットの両音相類似する所から 軽卒 にもあ りに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであろうがこれ真理 かんがえ のような誤りを見たのである。茲に 於 てか私は前論士の であるから避け得ない、 率直 に述べようと思う。総 ての ちくしょう すなわ たがい へだ こいびと すべ こ いっさい 結論を以て前論士に 酬 える。仏教徒諸君、釈迦を見なら 生物はみな無量の 劫 の昔から 流転 に流転を重ねて来た。 スケール そな え、釈迦の相似形となれ、釈迦の諸徳をみなその二万分 流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあた あるい けいはく ゆ ち え 一、五万分一、 或 は二十万分一の 縮尺 に於てこれを習修 りその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ず きのこ せよ。ああこの語気の 軽薄 なることよ。私はこれを自ら る。ある時は畜 生 、則 ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。 まちが 言いて 更 にそを口にした事を恥 じる。 ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のた こた 私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じ ましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や 恋人 や兄 ひ るてん ようと思う。キリスト教の精神は一言にして云わば神の 弟や親子やである。それらが 互 にはなれ又生を 隔 てては たも は 愛であろう。神天地をつくり 給 うたとのつくるというよ もうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可 ことば さら うな 語 は要するにわれわれに対する一つの 譬喩 である、 36 徒席の神学博士たちももうこれ以上論じたいような景色 私は 会釈 して 壇 を下り 拍手 もかなり起りました。異教 なのだ。私はこれだけを述べようと思ったのである。﹂ しいと思うだろう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界 子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろ 能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親 テントの中は 割 けるばかりの笑い声です。 えてそれからやけに水をのみました。 さあ大へんです。 シャッポをかぶるか。﹂その人は興奮の為にガタガタふる 物を食わないと云いながら、ひ、ひ、ひ、羊、羊の毛の ﹁な、な、な何が 故 に、何が故に、君たちはど、ど、動 ました。二三度どもりました。 はしんとなりました。その人は 突然 爆 発 するように叫 び さけ も見えませんでした。けれども異教徒席の中にだってみ 陳氏ももう手を叩 いてころげまわってから云いました。 とつぜんばくはつ んな神学博士ばかりではありませんでした。丁度ヘッケ ﹁まるでジョン・ヒルガードそっくりだ。﹂ たた きずあと ゆえ ルのような風をした 眉間 に大きな傷あとのある人が 俄 か ﹁ジョン・ヒルガードって何です。﹂私は訊 ねました。 はくしゅ に椅 子 を立ちました。私は今朝のパンフレットから考え ﹁喜劇役者ですよ。ニュウヨーク座の。けれどもヒルガー だん てきっとあれは動物学者だろうと考えたのです。 ドには眉間にあんな 傷痕 がありません。﹂ えしゃく その人はまるで顔をまっ赤にしてせかせかと祭壇にの ﹁なるほど。﹂ かんだい さ ぼりました。我々は 寛大 に拍手しました。その人はぶる そのあとはもう異教徒席も異派席もしいんとしてしまっ にわ ぶるふるえる手でコップに水をついでのみました。コッ て 誰 も演壇に立つものがありませんでした。祭司次長が みけん プの外へも水がすこしこぼれました。そのふるえようが しばらく式場を見まわして今のざわめきが静まってから ちょっと たず あんまりひどいので私は少し神経病の 疑 さえももちまし 落ちついて異教徒席へ行きました。ほかにお立ちの方は い す た。ところが水をのむとその人は俄かにピタッと落ち着 ありませんかとでも云ったようでしたが誰もしんとして たれ きました。それからごくしずかに何か云いそうに口をし 答えるものがありませんでしたので次長は 一寸 礼をして ことば うたがい ましたがその 語 はなかなか出て来ませんでした。みんな 37 なんだか野球のようですが全くそうでした。そこで 電鈴 軍があんまりもろく 粉砕 されたからです。 斯 う云っては 私も実際 嬉 しかったのです。あんなに 頑強 に見えたシカゴ ﹁すっかり参ったようですね。﹂陳氏が私に云いました。 引き下がりました。 て一ぺんに立ちあがり一ぺんに壇にのぼって すると異教席はもうめちゃめちゃでした。まっ黒になっ す。 声をあげ熱心に拍手してこの新らしい信者を 迎 えたので 祭司次長がすぐ進んで 握手 しました。みんなは歓呼の そして壇を下って頭を垂れて立ちました。 あくしゅ がずいぶん永く鳴りました。そのすきとおった音に私の ﹁ 悔 い改めます。許して下さい。私どももみんなビジテ もど すわ むか 興奮した心はもう一ぺん 透明 なニュウファウンドランド リアンになります。﹂と声をそろえて云ったのです。 がんきょう の九月というような気分に 戻 りました。みんなもそうら 祭司次長がすぐ進んで一人ずつ 握手 しました。そして うれ しかったのです。陳氏は 一人ずつ壇を下ってこっちの椅子に 座 りました。歓呼と こ ﹁私はもう一発やって来ますから。﹂と云いながら立ちあ 拍手とで 一杯 でした。椅子が丁度うまい 工合 にあったの ふんさい がって出て行きました。 です。何だかあんまりみんなうまい工合でした。そのと でんれい その時です。神学博士がまたしおしおと壇に立ちまし き外ではどうんと又一発陳氏ののろしがあがりました。 おぼしめし く た。そしてしょんぼりと礼をして云ったのです。 その陳氏がもう入って来て私に軽く会釈してまだ立ちな とうめい ﹁諸君、今日私は神の 思召 のいよいよ大きく深いことを がら向うを見て云いました。 あくしゅ 知りました。はじめ私は混食のキリスト信者としてこの ﹁おやおやみんな改宗しましたね、あんまりあっけない、 のぞ がんば に ぐあい 式場に 臨 んだのでありましたが今や神は私に 敬虔 なるビ おや椅子も丁度いい、はてな一つあいてる、そうだ、さっ ごと いっぱい ジテリアンの信者たることを命じたまいました。ねがわ きのヒルガードに似た人だけまだ 頑張 ってる。﹂ けいけん くは先輩諸氏 愚昧 小生の如 きをも清き諸氏の集会の中に なるほどさっきのおしまいの喜劇役者に 肖 た人はたっ どうぼう ぐまい 諸氏の 同朋 として許したまえ。﹂ 38 壇にのぼりました。 ところがとうとうその人は立ちあがりました。そして が云いました。 ﹁あの男の煩 悶 なら一体何だかわからないですな。 ﹂陳氏 た。 りいかにも仰 山 なのでみんなはとうとうひどく笑いまし た一人異教徒席に座って 腕 を組んだり髪を 掻 きむしった ヒルガードは一礼して 脱兎 のように壇を下りただ一つ 私はごく気の弱い一信者ですから。﹂ なお方はどうか祭司次長にその 攻撃 の矢を向けて下さい。 のです。このわれわれのやった大しばいについて 不愉快 かにする 為 に祭司次長から頼 まれて一つしばいをやった ヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を 賑 や らなければならない。私は 或 はご承知でしょう、ニュウ ﹁そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰 か ﹁諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今 あいた席にぴたっと座ってしまいました。 うで 日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテ ﹁やられたな、 すっかりやられた。﹂ 陳氏は笑いころげ はんもん だっと たの あるい リアンだったような気がします。どうもさっきまちがえ 笑 歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私 哄 ぎょうさん て異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらし はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。 げんそう ふゆかい にぎ いのです。諸君許したまえ。 且 つ私考えるに本日異教徒 あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭 ため 席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろう の 幻想 はもうこわれました。どうかあとの所はみなさん こうげき と思う。どうもそうらしい。その 証拠 には今はみんな信 で活動写真のおしまいのありふれた 舞踏 か何かを使って こうしょう 者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょ ご勝手にご完成をねがうしだいであります。 か う。﹂ しょうこ 私の 愕 いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立 ぶとう ちあがって おどろ ﹁そうです。 ﹂と答えたことです。 底本: 「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社 1989(平成元)年 6 月 15 日発行 1994(平成 6)年 6 月 5 日 13 刷 入力:土屋隆 校正:高柳典子 2007 年 1 月 6 日 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。 入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 お断り:この PDF ファイルは、青空パッケージ(http://psitau.kitunebi.com/aozora.html)を使っ て自動的に作成されたものです。従って、著作の底本通りではなく、制作者は、WYSIWYG(見たとおりの形) を保証するものではありません。不具合は、http://www.aozora.jp/blog2/2008/06/16/62.html までコメントの形で、ご報告ください。
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