ビジテリアン大祭

ビジテリアン大祭
宮沢賢治
3
のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳し
多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという 考 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も
本の信者一同を代表して列席して参りました。
な山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日
私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さ
いというのであります。 則 ち肉類や乳汁を、あんまりた
これは実は病気予防のために、なるべく動物質をたべな
す。 ところが予防派の方は少しちがうのでありまして、
うでそんなことはできないとこう云う思想なのでありま
く 喰 べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそ
わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよ
つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思
た
ますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多
くさんたべると、 リウマチスや痛風や、 悪性の 腫脹 や、
かんがえ
いのであります。菜食信者と訳したら、 或 は少し強すぎ
いろいろいけない結果が起るから、その病気のいやなも
すなわ
るかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に
の、 又 その病気の傾
向 のあるものは、この団結の中に入
しゅちょう
っていると思います。もっともその中にもいろいろ派
適 るのであります。それですからこの派の人たちはバター
あるい
がありますが、まあその精神について大きくわけますと、
やチーズも 豆 からこしらえたり、又菜食病院というもの
けいこう
同情派と予防派との二つになります。
を建てたり、いろいろなことをしています。
また
この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へん
以上は、まあ、ビジテリアンをその精神から大きく二
かな
うまく要領を 云 いあらわしていますから、かまわず私ど
つにわけたのでありますが、又一方これをその実行の方
おし
まめ
もも使うのです。
法から分類しますと、三つになります。第一に、動物質の
い
同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、
ものは全く喰べてはいけないと、則ち 獣 や魚やすべて肉
ちょうど
けもの
度 仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を 恰
惜 し
けいらん
類はもちろん、ミルクや、またそれからこしらえたチー
か
むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きる
ズやバター、お 菓子 の中でも鶏
卵 の入ったカステーラな
うば
ために、ほかの動物の命を 奪 って食べるそれも一日に一
4
の命をとるというわけではないから、さし 支 えない、ま
ズやバターやミルク、それから卵などならば、まあもの
も大部分は予防派の人たちがやります。第二のは、チー
ます。この方法は同情派にも予防派にもありますけれど
寸 一
鰹
のだしの入ったものもいけないという考のであり
ど、 一切いけないという考の人たち、 日本ならばまあ、
私がニュウファウンドランドの、トリニテイの港に着
うをお話いたします。
りでしょうから、これから昨年のその大祭のときのもよ
そこで、大体ビジテリアンというものの性質はおわか
れてはいけないと 斯 う云うのであります。
さっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘
うにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちを
ちょっとかつお
た大してからだに毒になるまいというので、割合 穏健 な
きましたのは、 恰度 大祭の前々日でありました。事によ
ちょうど
こ
考であります。第三は私たちもこの中でありますが、い
ると、間に合わないと思ったのが、うまい 工合 に参りま
つか
くら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると
したので、大へんよろこびました。トルコからの六人の
おんけん
云ったところで、実際にほかの動物が 辛 くては、何にも
人たちと、船の中で知り合いになりました。その団長は、
ぐあい
ならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべな
地学博士でした。大祭に参加後、すぐ六人ともカナダの
ぎんみ
つら
いのだ、小さな小さなことまで、一一 吟味 して大へんな
北境を探険するという話でした。私たちは、船を下りる
めいわく
手数をしたり、ほかの人にまで 迷惑 をかけたり、そんな
と、すぐ 旅装 を調えて、ヒルテイの村に出発したのであ
ため
りょそう
に ま で し な く て も い い、 も し た く さ ん の い の ち の 為 に、
め
ります。実は私は日本から出ました際には、ニュウファ
たれ
どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから
ウンドランドへさえ着いたら、 誰 の眼 もみなそのヒルテ
さ
泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が
イという村の方へ向いてるだろう、世界中から集った旅
あえ
自分になった場合でも 敢 て 避 けないとこう云うのです。
人が、ぞろぞろそっちへ行くのだろうから、もうすぐ 路 みち
けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだ
なんかわかるだろうと思って 居 りました。ところが、船
お
んはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないよ
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うなもの、実際トリニテイの町に下りて見ると、どこに
の中でこそ、 遇然 トルコ人六人とも知り合いになったよ
﹁あれがヒルテイの村でしょうか。﹂私は団長にたずねま
は海が 峡湾 のような風にまっ 蒼 に入り込 んでいました。
げっている谷の底に、五つ六つ、白い 壁 が見えその谷に
かべ
もそんなビラが張ってあるでもなし、ヒルテイという名
した。団長は、しきりに地図と眼の前の地形とくらべて
ぐうぜん
を云う人も一人だってあるでなし、実は私も少し意外に
いましたが、しばらくたって 眼鏡 をちょっと直しながら、
めがね
こ
感じたので︹以下原稿数枚なし︺
﹁そうです。あれがヒルテイの村です。私たちの教会は、
さお
多分あの右から三番目に見える平屋根の家でしょう。旗
にわ
きょうわん
は町をはなれて、海岸の白い 崖 の上の小さなみちを行き
か何か立っているようです。あすこにデビスさんが、住
がけ
ました、そらが 曇 って居りましたので大西洋がうすくさ
んでいられるんですね。﹂
くも
びたブリキのように見え、秋風は白いなみがしらを起し、
デビスというのは、ご存知の方もありましょうが、私
かっしょく
小さな漁船はたくさんならんで、その中を行くのでした。
したえだ
たちの派のまあ長老です、 ビジテリアン月報の主筆で、
からまつ
葉松 の 落
下枝 は、もう褐
色 に変っていたのです。
今度の大祭では祭司長になった人であります。 そこで、
はいのう
トルコ人たちは、みちに出ている岩にかなづちをあて
あし
私たちは、 俄 かに元気がついて、まるで一息にその峠を
か
ら
たり、がやがや話し合ったりして行きました。私はその
かけ下りました。トルコ人たちは 脚 が長いし、背
嚢 を背
なし︺
じしゃく
あとからひとり 空虚 のトランクを持って歩きました。一
負って、まるで 磁石 に引かれた砂鉄とい︹以下原稿数枚
の頂上に来ました。
とうげ
時間半ばかり行ったとき、私たちは海に沿った一つの 峠 ﹁もうヒルテイの村が見える 筈 です。﹂ 団長の地学博士
そうにあたりの風物をながめながら、 三人や五人ずつ、
はず
が私の前に来て、地図を見ながら英語で云いました。私
ステッキをひいているのでした。婦人たちも大分ありま
いっぱい
たちは向うを注意してながめました。ひのきの 一杯 にし
6
し
な
私はパンフレットを手にとりました。それは今ももっ
﹁◎ 偏狭 非文明的なるビジテリアンを 排 す。
へんきょう
こ
した。又 支那 人かと思われる顔の黄いろな人とも会いま
ていますが 斯 う書いてあったのです。
てしまいました。けれどもその日はとうとう話しかける
マルサスの人口論は、今日定性的には誰も疑うものが
はい
した。私はじっとその顔を見ました。向うでも立ちどまっ
でもなく、別れてしまいましたが、その人がやはりビジ
しっくいづく
すなわ
ない。その要領は人類の居住すべき世界の土地は一定
うたがい
そまつ
しか
テリアンで、大祭に来たものなことは 疑 もありませんで
わ
である、又その食料品は等差級数的に増加するだけで
び
した。私たちは教会に来ました。教会は 粗末 な 漆喰造 り
ある、然 るに人口は等比級数的に多くなる。 則 ち人類の
ひ
で、ところどころ 裂罅割 れていました。多分はデビスさ
食料はだんだん不足になる。人類の食料と云えば 蓋 し
そうしょく
き
まぬか
けだ
んの自分の家だったのでしょうが、ずいぶん大きいこと
動物植物鉱物の三種を 出 でない。そのうち鉱物では水
さって
かあい
い
は大きかったのです。旗や電燈が、ひのきの枝ややどり
と食塩とだけである。残りは植物と動物とが約半々を
あ
お
し
ばっ
いんき
木などと、上手に取り合せられて 装飾 され、まだ七八人
める。ところが 占 茲 にごく偏狭な 陰気 な考の人間の一
げんかん
くわだ
ここ
の人が、せっせと 明後日 の 仕度 をして居りました。
群があって、動物は 可哀 そうだからたべてはならんと
し
私たちは教会の 玄関 に立って、ベルを押 しました。
いい、世界中にこれを 強 いようとする。これがビジテリ
はくはつ
したく
すぐ 赭 ら顔の 白髪 の元気のよさそうなおじいさんが、
アンである。この主張は、実に、人類の食物の半分を奪
あか
かなづちを持ってよこの 室 から顔︹以下原稿数枚なし︺
おうと 企 てるものである。 換言 すれば、この主張者た
へや
ちは、世界人類の半分、則ち十億人を 饑餓 によって殺そ
ごあいきょう
かんげん
が、 桃 いろの紙に刷られた小さなパンフレットを、十枚
うと計画するものではないか。今日いずれの国の法律
かえ
が
ばかり持って入って来ました。
を 以 てしても、殺人罪は一番重く 罰 せられる。間接で
もも
﹁お早うございます。なあに 却 って 御愛嬌 ですよ。﹂
はあるけれども、ビジテリアンたちも又この罪を 免 れ
もっ
﹁お早うございます。どうか一枚拝見。﹂
7
じゅうぶん
りゅう
下って来ました。それはたしかに、日本でやる下り 竜 の
か
ない。近き将来、各国から委員が集って 充分 商議の上
掛 け花火です。そこで私ははっと気がつきました。こ
仕
し
厳重に処罰されるのはわかり切ったことである。又こ
ののろしは 陳 氏があげているのだ、陳氏が支那式黄竜の
ちん
の事実は、ビジテリアンたちの主張が、 畢竟
自
家撞着 仕掛け花火をやったのだと気がつきましたので、 大悦 び
ひっきょうじ か ど う ちゃく
に終ることを示す。則ちビジテリアンは動物を愛する
でみんなにも説明しました。
ちんむるい
ひび
おおよろこ
が故 に動物を食べないのであろう。何が故にその為に
その時又、今朝のすてきなラッパの声が遠くから 響 い
ゆえ
食物を得ないで死亡する、十億の人類を見殺しにする
て参りました。
おもしろ
のであるか。人類も又動物ではないか。﹂
﹁来た来た。さあどんな顔ぶれだか、一つ見てやろうじゃ
せんとう
﹁こいつは 面白 い。 実に名論だ。 文章も実に 珍無類 だ。
ふと
ないか。﹂地学博士を先
登 に、私たちは、どやどや、玄関
さ
実に面白い。﹂トルコの地学博士はその肥 った顔を、まる
ちくさん
へ降りて行きました。たちまち一台の大きな赤い自働車
すす
で張り 裂 けるようにして笑いました。みんなも笑いまし
がやって来ました。それには白い字でシカゴ 畜産 組合と
ねまき
た。とにかくみんな 寝巻 をぬいで、下に降りて、口を 漱 書いてありました。六人の、 髪 をまるで逆立てた人たち
ま
かみ
いだり顔を洗ったりしました。
が、シャツだけになって、顔をまっ赤にして、何か 叫 び
さけ
それから私たちは、簡単に朝飯を済まして、式が九時
ながら 鼠色 や茶いろのビラを 撒 いて行きました。その鼠
ねずみいろ
から始まるのでしたから、しばらくバルコンでやすんで
いろのを私は一枚手にとりました。それには赤い字で 斯 のぼ
こ
待っていました。
り
う書いてありました。
る
不意に教会の近くから、のろしが一発 昇 りました。そ
﹁◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。
ごびゅう
らがまっ青に晴れて、 一枚の 瑠璃 のように見えました。
ビジテリアンの主張は全然 誤謬 である。今この陰気な
みが
その冴 みきったよく磨 かれた青ぞらで、まっ白なけむり
非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。
す
がパッとたち、それから黄いろな長いけむりがうねうね
8
るか。ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全
という。動物が可哀そうだということがどうしてわか
ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べない
しい考である。﹂
動物もみんなそうだろうと思うのだ。あんまり子供ら
それを知らない。自分が死ぬのがいやだから、ほかの
私は無理に笑おうと思いましたが何だか笑えませんで
ぶた
か
体豚 などが死というような高等な観念を持っているも
くき
した。地学博士も黄いろなパンフレットを読んでしまっ
へ
のではない。あれはただ腹が 空 った、かぶらの 茎 、噛 て少し変な顔をしていました。私たちは目を見合せまし
﹁◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。
あ
みつく、うまい、 厭 きた、ねむり、起きる、鼻がつま
た。それからだまってお 互 のパンフレットをとりかえま
な現在が続いて居るだけである。殺す前にキーキー叫
ビジテリアンの主張は全然 誤謬 である。今これを生物
たがい
る、ぐうと鳴らす、腹がへった、 麦糠 、たべる、うま
した。黄色なパンフレットには斯う書いてあったのです。
ぶのは、それは引っぱられたり、たたかれたりするか
分類学的に簡単に批判して見よう。ビジテリアンたち
ぐあい
むぎぬか
い、つかれた、ねむる、という 工合 に一つずつの小さ
らだ、その証
拠 には、殺すつもりでなしに、何か 鶏卵 は、動物が可哀そうだという、一体どこ 迄 が動物でど
べんぎ
ごびゅう
の三十も少し遠くの方でご 馳走 をするつもりで、豚の
こからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だから
おこ
けいらん
足に 縄 をつけて、ひっぱって見るがいいやっぱり豚は
かあいそう、バクテリヤは植物だから 大丈夫 というの
しょうこ
キーキー云う。こんな訳だから、ほんとうに豚を可哀
であるか。バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だ
だいじょうぶ
まで
そうと思うなら、そうっと 怒 らせないように、うまい
とするのは、ただ研究の 便宜 上、勝手に名をつけたも
ちそう
ものをたべさせて置いて、にわかに熱湯にでもたたき
のである。動物には意識があって食うのは気の毒だが、
なわ
込んでしまうがいい、豚は大悦びだ、くるっと毛まで
植物にはないから差し 支 えないというのか。なるほど
たくさん
つか
けてしまう。われわれの組合では、この方法によっ
剥 植物には意識がないようにも見える。けれどもないか
む
て、 沢山 の豚を悦ばせている。 ビジテリアンたちは、
9
類は動物学上混食に適するようにできている。歯の形
また
どうかわからない、あるようだと思って見ると 又 実に
状から見てもわかる。 草食獣 にある 臼歯 もあれば肉食
きゅうし
あるようである。 元来生物界は、 一つの連続である、
類の犬歯もある。混食をしているのが人類には一番自
そうしょくじゅう
動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。ビジ
然である。そう出来てるのだから仕方ない。それをど
たま
テリアン諸君、植物をたべることもやめ 給 え。諸君は
う斯う云うのは 恩恵 深き自然に対して正しく 叛旗 をひ
はんき
餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。二十億
るがえすものである。よしたまえ、ビジテリアン諸君、
おんけい
人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に
あんまり陰気なおまけに子供くさい考は。﹂
﹁ふん。今度のパンフレットはどれもかなりしっかりし
かな
うだろう。そして、そのあとで動物や植物が、お互
叶 同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではな
てるね。いかにも 誰 もやりそうな議論だ。しかしどっか
﹁ええ、﹂その人はあわただしく茶いろのパンフレットを
私は隣 りの人に云いました。
﹁ごらんになったらとりかえましょうか。﹂
もう一枚茶いろのもあったのです。
私はなおさら変な気がしました。
そのとき又向うからラッパが鳴って来ました。ガソリ
だ。﹂と一人のトルコ人が云いました。
ようにばかり仕組んであるよ。どうせ畜産組合の宣伝書
﹁調子が変なばかりじゃない、議論がみんな都合のいい
斯う云いました。
やっぱり調子が変だね。﹂地学博士が少し顔色が青ざめて
たれ
いか。
﹂
よこしました。私も私のをやったのです。それには黒く
ンの音も聞えます。正直を云いますと私もこの時は少し
﹁◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。
て来て小さな白い紙を撒いて行ったのです。
胸がどきどきしました。さっそく又一台の赤自動車がやっ
とな
こう書いてありました。
ビ ジ テ リ ア ン の 主 張 は 全 然 誤 謬 で あ る、 今 こ れ を
そのパンフレットを私たちはせわしく読みました。そ
ひかくかいぼう
較解剖 学 の 立 場 か ら ご く 通 俗 的 に 説 明 し よ う。 人
比
10
こ
れには赤い字で 斯 う書いてあったのです。
﹁ビジテリアン諸氏に寄す。
かんりゅう
くわ
に、魚油を 乾溜 してつくっているのですから。いずれ
諸君がどんなに 頑張 って、 馬鈴薯 とキャベジ、メリ
私たちはしばらくしんとしてしまったのです。どうも理
この宣伝書を読んでしまったときは、 白状しますが、
又お目にかかって詳 しく申しあげましょう。﹂
ケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりた
論上この反対者の主張が勝っているように思われたので
ば れ い しょ
くさん魚がとれて困る。 折角 死んでも、それを食べて
あります。それとて、私も、又トルコから来たその六人
がんば
れる人もなし、可哀そうに、魚はみんなシャベルで
呉 の信者たちも、ビジテリアンをやめようとか、全く向う
かま
あっさく
せっかく
になげ込 釜 まれ、煮えるとすくわれて、 締木 にかけて
の主張に賛成だとかいうのでもなく、ただ何となくこの
く
搾 される。釜に残った油の分は魚油です。今は一 圧
缶 大祭のはじまりに、けちをつけられたのが 不愉快 だった
うおかす
しめぎ
十セントです。 鰯 なら一缶がまあざっと七百 疋 分です
のであります。余興として笑ってしまうには、あんまり
こ
ねえ、締木にかけた方は 魚粕 です、一キログラム六セ
意地が悪かったのであります。
かん
ントです、一キログラムは鰯ならまあ五百疋ですねえ、
ところが、 又もやのろしが教会の方であがりました。
ふゆかい
みなさん海岸へ行ってめまいをしてはいけません。ま
まっ青なそらで、白いけむりがパッと開き、それからト
ぴき
た農場へ行ってめまいをしてもいけません、なぜなら、
ントンと音が聞えました。けむりの中から出て来たのは、
と
いわし
その魚粕をつかうとキャベジでも麦でもずいぶんよく
今度こそ全く 支那 風の五色の 蓮華 の花でした。なるほど
れんげ
れます。おまけにキャベジ一つこさえるには、百疋
穫 やっぱり陳氏だ、お 経 にある青色青光、黄色黄光、赤色赤
な
からの青虫を 除 らなければならないのですぜ。それか
光、白色白光をやったんだなと、私はつくづく感心して
に
し
らみなさんこの町で何か 煮 たものをめしあがったり、
それを見上げました。全くその蓮華のはなびらは、ニュ
きょう
お湯をお使いになるときに、めまいを起さないように
ウファウンドランド島、ヒルテイ村ビジテリアン大祭の、
と
願います。この町のガスはご存知の通り、石炭でなし
11
ド︵尤 もその半数は、みんなビジテリアンだったのです、︶
私たちの仲間だったんです。スナイダーは、自分のバン
したが、あとで聞きましたら、あの有名なスナイダーが
よほど費用をかけて大陸から 頼 んで来たんだなと思いま
れがいかにも本式なのです。私たちは、はじめはこれは
それが風下でしたから、手にとるように聞えました。そ
それから教会の方で、賑 やかなバンドが始まりました。
した。
新鮮な朝のそらを、かすかに光って 舞 い降りて来るので
教会へ行く 途中 、あっちの小路からも、こっちの広場か
ねたのは、 あながち私たちだけではありませんでした。
さて私たちは宿を出ました。すると式の時間を待ち兼
ぱりした気持ちがすればいいのであります。
が全体見えはしませんからほかの人がそれを見て、さっ
ためでなく他人の 為 です。自分には自分の着ているもの
私は一向何とも思いませんでした。実際きものは自分の
た相当のものをきちんとつけているのが一等ですから、
ライルの云う通り、 装飾 が第一なので結局その人にあっ
に寒さをしのぐという 考 も勿論ですが、一方また、カー
かんがえ
を、そっくりつれてやはり 一昨日 、ここへ着いたのだそ
らも、三人四人ずついろいろな礼装をした人たちに、私
ま
うです。とにかく、式の始まるまでは、まだ一時間もあ
たちは会いました。 燕尾服 もあれば厚い 粗羅紗 を着た農
おととい
コ
じゅ
あいさつ
ため
えんびふく
そうしょく
りましたけれども、 斯 うにぎやかにやられては、とても
夫もあり、 綬 をかけた人もあれば、スラッと 瘠 せた若い
しっこく
こと
ト ル
にぎ
じっとして居られません、私たちは、大急ぎで二階に帰っ
軍医もありました。すべてこれらは、私たちの兄弟であ
れいそう
くんしょう
たの
て、礼
装 をしたのです。 土耳古 人たちは、みんなまっ赤な
りましたから、もう私たちは国と階級、職業とその名と
もっと
ターバンと帯とをかけ、 殊 に地学博士はあちこちからの
をとわず、ただ一つの大きなビジテリアンの同
朋 として、
とちゅう
章 やメタルを、その 勲
漆黒 の上着にかけましたので全く
﹁お早う、﹂と挨
拶 し﹁おめでとう、﹂と答えたのです。そ
もちろん
おととい
どうぼう
や
そ ら しゃ
まばゆい位でした。私は三越でこさえた白い 麻 のフロッ
して私たちは、いつかぞろぞろ列になっていました。列
こ
クコートを着ましたが、これは 勿論 、私の好みで作法で
になって教会の門を入ったのです。 一昨日 別段気にもと
あさ
はありません。けれども元来きものというものは、東洋風
12
るかもわからなかったのですから、全く仕方なかったの
のような訳で、どんなものがまぎれ込んで来て、何をす
ようにどなたもお考えでしょうが、実際今朝の反対宣伝
て会員証を示しました。これはいかにも 偏狭 なやり方の
をはいると、すぐ受付があって私たちはみんな求められ
の栂 とで飾 られて、すっかり立派に変っていました。門
めなかった、小さなその門は、赤いいろの 藻 類と、暗緑
今日はすっかり支那服でした。 私は支那服の立派さを、
助手も二人も連れて来ているのでした。そして三人とも、
やっぱり陳氏でした。陳氏は小さな支那の子供の狼煙の
私は急いでその音の方教会の裏手へ出て行って見ました。
は又、 あの 狼煙 の音を聞きました。 はっと気がついて、
飾られた高い 祭壇 が設けられていました。そのとき、私
の 大天井 かと思われたのであります。向うには勿論花で
やがて完成さるべき、世界ビジテリアン大会堂の、 陶製 とうせい
でありましょう。
この朝ぐらい感じたことはありません。陳氏はすっかり
そう
式場は、教会の広庭に、大きな曲馬用の天
幕 を張って、
黒の 支度 をして、袖
口 と沓 だけ、まばゆいくらいまっ白
テント
おそ
したく
こまね
のろし
きのう
だいてんじょう
テニスコートなどもそのまま中に取り込んでいたようで
に、髪は 昨日 の通りでしたが、支那の勲章を一つつけて
かざ
した。とてもその人数の入るような広間は、 恐 らくニュ
いました。
つが
ウファウンドランド全島にもなかったでしょう。
それから助手の子供らは、 まるで絵にある 唐児 です。
えだ
そでぐち
さいだん
もう気の早い信徒たちが二百人ぐらい席について待っ
あたまをまん中だけ残して、くりくり 剃 って、 恭 しく両
へんきょう
ていました。笑い声が波のように聞えました。やっぱり
手を 拱 いて、陳氏のうしろに立っていました。陳氏は私
もみ
うれ
くつ
今朝のパンフレットの話などが多かったのでしょう。
の行ったのを見ると本当に 嬉 しかったと見えて、いきな
しゃく な げ
うやうや
からこ
その式場を 覆 う灰色の帆
布 は、黒い樅 の枝 で縦横に区
り手を出して、
だいだい
はんとうめい
そ
切られ、所々には黄や 橙 の石
楠花 の花をはさんでありま
﹁おめでとう。お早う。いいお天気です。天の幸、君に
はんぷ
した。何せそう云ういい天気で、帆布が 半透明 に光って
あらんことを。﹂とつづけざまにべらべら挨拶しました。
おお
いるのですから、実にその調和のいいこと、もうこここそ
13
陳氏は云いました。
で、この 叮重 な東洋風の礼を受けたのです。
かったんです。ニュウファウンドランド島の青ぞらの下
も、両手を拱いたまま私に 一揖 しました。私も全く嬉し
﹁お早う。﹂私たちは手を 握 りました。二人の子供の助手
きました。二人の子供も、恭しく 腕 を拱いて、それを見
さっきの玉は、汽車ぐらいの速さで青ぞらにのぼって行
込みました。しばらくたって、
﹁ドーン﹂けむりと 一緒 に、
た。陳氏はそれに口火をあてて、急いでのろし 筒 に投げ
とりました。はじめの子は、シュッとマッチをすりまし
う手に口火を持って待っていました。陳氏はそれを受け
にぎ
﹁さあ、もう一発やりますよ。あとは式がすんでからで
上げていました。たちまち空で白いけむりが起り、ポン
いちゆう
す。今度のは、私の郷国の名前では、 柳雲飛鳥 といいま
ポンと音が下って来それから青い柳のけむりが垂れ、そ
スワロウ
こ
いっしょ
づつ
す。柳はサリックス、バビロニカ、です。飛鳥は燕 です。
の間を燕の形の黒いものが、ぐるぐる縫 って進みました。
ていちょう
日本でも、柳と 燕 を云いますか。﹂
﹁さあ式場へ参りましょう。お前たち 此処 で番をしてお
テント
うで
﹁云います。そしてよく覚えませんが、たしか私の方に
いで。﹂陳氏は英語で云って、それから私らは、その二人
りゅううんひちょう
も、その狼煙はあった 筈 ですよ。いや花火だったかな。そ
の子供らの敬礼をうしろに式場の 天幕 へ帰りました。
ぬ
れとも柳にけまりだったかな。﹂
もう式の始まるに、六分しかありませんでした。天幕
ビジテリアン大祭次第
つばめ
﹁日本の花火の名所は、東京両国橋ですね。﹂
の入口で、私たちはプログラムを受け取りました。それ
﹁なるほど。さあ、支度。﹂陳氏は二人の子供に向きまし
挙祭挨拶
こ
﹁ええそのほか岩国とか石の巻とか、あちこちにもあり
には表に
た。一人の子は恭しくバスケットから、狼煙玉を持ち出
論難反
駁 はず
ます。﹂
しました。陳氏はそれを受けとってよく調べてから、
祭歌合唱
はんぱく
﹁よろしい。 口火。﹂ と云いました。 も一人の子は、 も
14
会食
閉式挨拶
祷 祈
にも二十人ばかりの礼装をした人たちが座って居りまし
徒席﹂
﹁異派席﹂という二つの陶製の 標札 が出て、どちら
ところが祭壇の下オーケストラバンドの右側に、
﹁異教
ロッコも居たそうですが、どの人かわかりませんでした。
きとう
会員紹介
た。中には今朝の自働車で見たような人も大分ありまし
あったと見えて、空いた椅
子 とてもあんまりなく、 勿論 式場の中はぎっしりでした。それに人数もよく調べて
前でした。
と刷ってあり私たちがそれを受け取った時丁度九時五分
そっと私にささやきました。
を比
較 しながらよほど気にかかる模様でした。とうとう、
陳氏はしきりに向うの異教徒席や異派席とプログラムと
私もそこで陳氏と並んで一番うしろに席をとりました。
た。
ひょうさつ
余興 以上
かけないで立っている人などは一人もありませんでし
腰 ﹁このプログラムの論難というのは向うのあの連中がや
ひかく
た。みんなで五百人はあったでしょう。その中には婦人た
るのですね。﹂
しきさい
もちろん
ちも三分の一はあったでしょう。いろいろな服装や 色彩 ﹁きっとそうでしょうね。﹂
い す
が、処
々 に配置された橙や青の 盛花 と入りまじり、秋の
﹁どうです、異派席の連中は、私たちの仲間にくらべて
こし
空気はすきとおって水のよう、信者たちも 又 さっきとは
は少し 風采 でも何でも見
劣 りするようですね。﹂
もりばな
打って変って、しいんとして式の始まるのを待っていま
私も笑いました。
ところどころ
した。
﹁どうもそうのようですよ。﹂
また
アーチになった祭壇のすぐ下には、スナイダーを楽長
陳氏が又云いました。
はんえんじん
みおと
とするオーケストラバンドが、 半円陣 を採り、その左に
﹁けれども又異教席のやつらと、異派席の連中とくらべ
ふうさい
は唱歌隊の席がありました。唱歌隊の中にはカナダのグ
15
きたら、実際どうも 醜悪 ですね。﹂
て見たんじゃ又ずっと 違 ってますね。異教席のやつらと
祭司長にならんで立ちました。式場はしいんと静まりま
いの高い立派なじいさんでした、が見兼ねて出て行って、
タッピングという人で、 爪哇 の宣教師なそうですが、せ
ジャワ
﹁全くです。﹂私はとうとう 吹 き出しました。実際異教席
した。
ちが
の連中ときたらどれもみんな醜悪だったのです。
﹁諸君、祭司長は、 只今 既 に、無言を 以 て百千万言を披
瀝 あらし
でんれい
しゅうあく
俄 かに澄 み切った電
鈴 の音が式場一
杯 鳴りわたりまし
した。 是 れ、げにも尊き祭始の宣言である。 然 しながら、
はくしゅ
ふ
た。
だ祭司長の云わざる処もある。これ実に祭司長が述べ
未 はくぜん しゃがん
そうはく
ほっ
はくがい
た
けっそく
とが
きけん
ゆかい
これら
まで
こうき
しげき
せいちょう
ひれき
拍
手 が嵐 のように起りました。
んと欲するものの中の 糟粕 である。これをしも、祭司次
さいだん
ごじん
い じ
おい
かた
もっ
白髯 赭顔 のデビス長老が、 質素な黒のガウンを着て、
長が諸君に告げんと 欲 して、 敢 て 咎 めらるべきでない。
けっしょう
ただいますで
壇 に立ったのです。そして何か云おうとしたようでし
祭
諸君、 吾人 は内外多数の迫
害 に耐 えて、今日 迄 ビジテリ
ねっきょう
ふ
いっぱい
たが、あんまり嬉しかったと見えて、もうなんにも云え
アン同情派の主張を 維持 して来た。然もこれ未だ社会的
す
ず、ただおろおろと泣いてしまいました。信者たちはま
に無力なる、各個人個人に 於 てである。然るに今日は既
にわ
るで熱
狂 して、歓呼拍手しました。デビス長老は、手を大
にビジテリアン同情派の 堅 き結
束 を見、その 光輝 ある八
こと
もっとも
しか
きく 振 って又何か云おうとしましたが、今度も声が 咽喉 面体の 結晶 とも云うべきビジテリアン大祭を、この 清澄 せきしゅつ
こ
につまって、まるで変な音になってしまい、とうとう又
なるニュウファウンドランド島、九月の 気圏 の底に於て
いま
泣いてしまったのです。
出 した。 析
殊 にこの大祭に於て、多少の 愉快 なる刺
戟 を
および
あえ
みんなは又熱狂的に拍手しました。長老はやっと気を
吾人が所有するということは、 最
天意のある所である。
くず
ど
取り直したらしく、大きく手を三度ふって、何か 叫 びか
多少の愉快なる刺戟とは何であるか、これプログラム中
の
けましたけれども、今度だってやっぱりその通り、 崩 れ
にある異教 及 異派の諸氏の論難である。 是等 諸氏はみな
さけ
るように泣いてしまったのです。祭司次長、ウィリアム・
16
最後糟粕の部分である。祭司次長ウィリアム・タッピン
公明に我等はこれに答えんと欲する。これ大祭開式の辞、
烈 痛
辛辣 なものであろう。 その愈
々 鋭利 なるほど、 愈々
り集り 来 った真理の友である。 恐 らく諸氏の論難は、最
信者諸氏と同じく、各自の主義主張の 為 に、世界各地よ
物蛋白を殆んど消化しないじゃないかと思われることも
り 豆 を喰 べるというわけにはいかない。人によっては植
と落花生と営養価が同じだと 云 って牛肉の代りにそっく
ても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉
がらもし 蛋白質 と 脂肪 とについて考えるならば何といっ
からこれは当然植物から採らなければならない。然しな
ため
グ祭司長ヘンリー・デビスに代ってこれを述べる。﹂
あるのだ。ビジテリアン諸氏はこれらのことは 充分 ご承
つうれつしんらつ
かんげき
いよいよ え い り
えいじ
なお
しぼう
拍手は 天幕 もひるがえるばかり、この間デビスはただ
知であろうが 尚 これを以て多くの病弱者や 老衰者 並
に
たんぱくしつ
よろよろと感
激 して頭をふるばかりでありました。
児 にまで及ぼそうとするのはどう云うものであろうか。
嬰
とうめい
おそ
その拍手の中でデビス長老は祭司次長に連れられて壇
第二は植物性食品はどう考えても動物性食品より 美味 きた
を下り 透明 な電鈴が式場一杯に鳴りました。祭司次長が
しくない。 これは何としても否定することができない。
ふと
つか
かよう
くちずさ
い
又祭壇に上って壇の 隅 の椅子にかけ、それから 一寸 立っ
元来食事はただ営養をとる為のものでなく又一種の 享楽 えしゃく
あるい
た
て異教徒席の方を軽くさし招きました。
である。享楽と云うよりは欠くべからざる 精神爽快剤 で
テーブル
まめ
異教徒席の中からせいの高い 肥 ったフロックの人が出
ある。労働に 疲 れ種々の 患難 に包まれて意
気銷沈 した時
き
い き しょう ち ん
かんがえ
うかが
レ フ レッシュメ ン ト
きょうらく
お い
ろうすいしゃ ならび
じゅうぶん
て卓
子 の前に立ち一寸 会釈 してそれからきぱきぱした口
には 或 は小さな 歌謡 を口
吟 む、談笑する音楽を 聴 く観劇
こ
テント
調で斯 う述べました。
や小遠足にも出ることが大へん効果あるように食事も又
いちじる
ちょっと
﹁私はビジテリアン諸氏の主張に対して二個条の疑問が
一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減
すみ
ある。
ずると思う。殊に愉快に食べたものならば実際消化もい
がんすいたんそ
かんなん
第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して 著 しく
いのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお 考 であるか 伺 もっと
ほと
小さいこと。 尤 も動物性食品には 含水炭素 が殆 んどない
17
えたのでした。
しい黒い 服装 をしていましたが壇に昇 って重い調子で答
番前の老人を招きました。その人は 白髯 でやはり牧師ら
の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一
手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長
大へん 温和 しい論
旨 でしたので私たちは実際本気に拍
いたい。
﹂
消化のいい食品をつくる事に 就 ては私共只今充分努力を
にても 若 し肉食を嫌 うものがあればこれに適するような
なくしたいという位の意味であります。尤も老人病弱者
に 相喰 むのは決して当然のことでない何とかしてそうで
いようと 強 致 すのではありません。ただなるべく動物 互 りましょう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を
弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もあ
実験の成績もございますから後でご覧を願います。又病
ふくそう
ろんし
﹁只
今 の御質疑に答えたいと存じます。
致して居るのであります。 仮令 ば蛋白質をば少しく分解
おとな
植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは
して割合簡単な形の消化し易 いものを作る等であります。
のぼ
はなはだ
うば
たとえ
やす
とうてい
たがい
明かであります。さればといって 甚
不良なのではなく、
第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分
ふつう
いた
ただ動物質の食品に比して 幾分 劣るというのであります。
は奪 われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。
し
全然植物性蛋白や脂肪を消化しないという人はまああり
なるほど 普通 混食をしているときは野菜は肉類より美味
もちろん
あいは
ますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪
しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその
しろひげ
も消化しないのです。さてどう云うわけで植物性のもの
動物の苦痛を考えるならば 到底 美味しくはなくなるので
さいぼうへき
におい
きら
が消化がよくないかと云えば蛋白質の方はどうもやっぱ
あります。従って無理に食べても消化も悪いのでありま
せんいそ
も
りその蛋白質分子の構造によるようでありますが脂肪の
す。 勿論 菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉
しだい
つい
消化率の少いのはそれが多く 繊維素 の細
胞壁 に包まれて
快な 臭 や何かありまして好ましくないのであります。元
ただいま
いる関係のようであります。どちらも 次第 に菜食になれ
来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よ
いくぶん
て参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々
18
へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべている
ります。同じ水を 呑 んでも徳のある人とない人とでは大
よいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであ
というよりは善悪によるものでありまして、よい感官は
りはその感官自身の 精粗 によるものでありまして、精粗
﹁今朝私どもがみなさんにさしあげて置いた五六枚のパ
見下してから云いました。
その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ
軽く会釈しました。その人も答礼して壇に上ったのです。
た顔色の悪いドイツ 刈 りの男が立ちました。祭司次長は
司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から 瘠 せ
や
修道院の聖者たちにはパンの中の 糊精 や蛋白質 酵素 単糖
ンフレットはどなたも大抵お読み下すった事と思う。私
せいそ
類脂肪などみな 微妙 な味覚となって感ぜられるのであり
はたしかに評判の通りシカゴ 畜産 組合の理事で 又 屠
畜 会
びみょう
が
ます。もしパンがライ麦のならばライ麦のいい所を感じ
社の技師です。ところが正直のところシカゴ畜産組合が
の
て喜びます。これらは感官が 静寂 になっているからです。
このビジテリアン大祭を決して苦にするわけはない。何
まで
こうそ
水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、
となれば只今前論者の云われたようなトラピスト風の人
す
こせい
又川の 柔 らかな水みなしずかにそれを享楽することがで
間というものは今日全人類の一万分一もあるもんじゃな
す
かるわざ
ま ね
きゅうくつ
じよう
また と ち く
きるのであります。これらは感官が 澄 んで静まっている
い。やっぱりあたり前の人間には肉類は食料として 滋養 も
あら
ところ
ちくさん
からです。ところが感官が 荒 さんで来るとどこ 迄 でも限
多く美味である。ビジテリアン諸氏が 折角 菜食を実行し
せいじゃく
りなく 粗 く悪くなって行きます。まあ 大抵 パンの本当の
又宣伝するのを見た 処 で感服はしても容易に 真似 はしな
やわ
味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用いた
い。則ち肉類の需要が減ずるものでもなし又私たちの組
むし
い
せっかく
りします。則 ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではな
合がこわれたり会社が破産したりするものではない。だ
たいてい
い。 寧 ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食
から一向反対宣伝も 要 らなければこの 軽業 テントの中に
すなわ
にあるということを申しあげるのであります。﹂老人は会
入って異教席というこの光栄ある場所に私が数時間 窮屈 テント
釈して壇を下り拍手は 天幕 もひるがえるようでした。祭
19
めんどう
ようとかそんな 面倒 なことを考えては居りません。動物
ぐあい
ふと
しょうどう
をする必要もない。然しながら実は私は六月からこちら
の神経だなんというものはただ本能と 衝動 のためにある
お
へ 避暑 に来て 居 りました。そしてこの大祭にぶっつかっ
です。 神経なんというのはほんの少ししか働きません。
ひ しょ
たのですから職業 柄 私の方ではほんの余興のつもりでし
その 証拠 にはご覧なさい 鶏 では強制肥育ということをや
がら
たが少し 邪魔 を入れて見ようかと本社へ云ってやりまし
る、鶏の 咽喉 にゴム管をあてて食物をぐんぐん 押 し込 ん
いろうかたがた
ふと
ゆうもん
にわとり
たら社長や何かみな大へん 面白 がって賛成して運動費な
でやる。ふだんの五倍も十倍も押し込む、それでちゃん
めいめい
しょうこ
どもよこし 慰労旁々 技師も五人 寄越 しました。そこで私
と 肥 るのです、面白い位 肥 るのです。又犬の胃液の分
泌 やと
じゃま
たちは大急ぎで銘
々 一つずつパンフレットも作り自働車
や何かの 工合 を見るには犬の胸を切って胃の後部を 露出 おおさわ
たいてい
ため
ろしゅつ
ぶんぴつ
こ
などまで 雇 ってそれを撒 きちらしましたが実は、なあに、
して 幽門 の所を腸と 離 してゴム管に結ぶそして食物をや
にわか
かつ
お
一向あなた方が菜っ葉や何かばかりお上がりになろうと
る、どうです犬は食べると思いますか食べないと思いま
さいだん
の ど
痛くもかゆくもないのです。然しまあやりかけた事です
すか。あっ、どうかしましたか。﹂
おもしろ
からこれからも一度あのパンフレットを銘々一人ずつご
実際どうかしたのでした。あんまり話がひどかった 為 こ
説明して苦しいご返答を伺おうと思います。実は私の方
に婦人の中で四五人卒倒者があり 他 の婦人たちも大
抵 歯
の
よ
でもあの通り速記者もたのんであります、ご答弁は私の
を食いしばって泣いたり耳をふさいで縮まったりしてい
ま
方の機関雑誌畜産 之 友に載せますからご承知を願います。
たのです。式場は 俄 に大
騒 ぎになりシカゴの畜産技師も
はな
で私のおたずね致したいことはパンフレットにもありま
壇 の上で困って立っていました。正気を失った人たち
祭
ほか
した通り動物がかあいそうだからたべないとあなた方は
はみんなの手で私たちのそばを通って外に 担 ぎ出され職
お
っしゃるが動物というものは一種の器械です。消化吸
仰 業の医者な人たちは十二三人も立って出て行きました。
はいせつじゅんがんせいしょく
こ
収排
泄 循環
生殖
と斯 う云うことをやる器械です。死ぬ
しばらくたって式場はしいんとなりました。婦人たちは
こわ
たれ
のが 恐 いとか明日病気になって困るとか 誰 それと絶交し
20
げっこう
わ ら
もっとも
いた風で少し 微笑 いながら演説しました。
から又云いました。
動物は衝動と本能ばかりだと仰っしゃいましたがまあ
になって居りません。
い か ん なが
﹁なるほど実にビジテリアン諸氏の動物に対する同情は
そうして置きます。その本能や衝動が生きたいというこ
ただいま
みんなひどく 激昂 していましたが何分相手が異教の論難
﹁ 只今 のご質問はいかにもご 尤 であります。多少御実験
大きなものであります。も少し言辞に気をつけて申し上
とで 一杯 です。それを殺すのはいけないとこれだけでお
ひきょう
者でしたので 卑怯 に思われない為に誰も異議を述べませ
などもお話になりましたが実は 遺憾 乍 らそれはみな実験
げます。ええ、犬はそれを食べます。ぐんぐん喰べます。
答には 充分 であります。然 しながら更 に詳しいことは動
ぬぐ
お判 りですか。又家畜を去勢します。則ち生殖に対する
物心理学の 沢山 の実験がこれを提供致すだろうと思いま
ていねい
んでした。シカゴの技師ははんけちで 叮寧 に口を 拭 って
燥 や何かの為に費される勢
焦
力 を保存するようにします。
す。又実は動物は本能と衝動ばかりではないのでありま
しょうそう
はや
たくさん
じゅうぶん
いっぱい
さあ、家畜は肥りますよ、全く動物は一つの器械でその
す。今朝のパンフレットで見ましても生物は一つの大き
あし
さら
を 脚 疾 くするには走らせる、 肥らせるには食べさせる、
な連続であると申されました。人間の心もちがだんだん
しか
卵をとるにはつるませる、乳汁をとるには子を近くに置
人間に近いものから遠いものに行われて居ります。人間
わか
いて子に呑ませないようにする、どうでも勝手次第なも
の苦しいことは感覚のあるものはやっぱりみんな苦しい
エネルギー
んです。決して心配はありません。まだまだ述べたいの
人間の悲しいことは強い弱いの区別はあってもやっぱり
いた
ですが又卒倒されると困りますからここまでに 致 して置
ゆかい
かいいぬ
どの動物も悲しいのです。仲々あのパンフレットにある
ぶた
きます。﹂
のように 豚 愉快 には行かないのであります。 飼犬 が主人
はくしゅ
その人は壇を下りました。 拍手 と一処に六七人の人が
が し
した
の少年の病死の時その墓を離れず食物もとらずとうとう
さる
私どもの方から立ちましたが祭司次長が割合前の方のモ
死 した有名な例、鹿 餓
や 猿 の子が殺されたときそれを慕 っ
しか
オニングの若い人をさしまねきました。その人は落ち着
21
は実に反対者たちは動物が人間と少しばかり形が違って
を以 て強て動物を律しようとするというのに対して、私
たりするのです。前論者の、ビジテリアンは人間の感情
が何年もその主人を覚えていて 偶 に会ったとき 涙 を流し
て親もわざと殺されることなど 誰 でも知っています。馬
あっても正気の 沙汰 と思われない。人間の半分十億人が
分に縮減しようというのはどんなほかに立派な理くつが
くて戦争だのいろいろ 騒動 が起ってるのに更にそれを半
べないじゃ食物が半分になる。たださえ食物が足りな
喰 の食物の半分は動物で半分は植物です。そのうち動物を
う。どうですそれにちがいありますまい。地球上の人類
たれ
いるのに眼を 欺 かれてその本心から起って来る 哀憐 の感
食物がなくて死んでしまう、死ぬ前にはいろいろ大騒ぎ
つごう
あいれん
なみだ
情をなくしているとご忠告申し上げたいのであります。
が起るその時ビジテリアンたちはどうします。自分たち
たま
誰だって自分の 都合 のいいように物事を考えたいもので
の起した戦争の中へはいってわれらの敵国を打ち 亡 ぼせ
た
はありますがどこ迄もそれで通るものではありません。
と云って 鉄砲 や剣を持って突
貫 しますか。それともああ
はず
とっかん
そうどう
元来私どもの感情はそう無茶苦茶に間違っているもので
こんな 筈 じゃなかった神よと云ってみんな一
緒 にナイヤ
もっ
はないのでありましてどうしても本心から起って来る心
ガラかどこかへ飛び込みますか。そんなことをしたって
た
持は全く客観的に見てその通りなのであります。動物は
追い付きません。いや、それよりもこんなことになるの
しけい
さ
全く 可哀 そうなもんです。人もほんとうに 哀 れなもので
はどこの国の政治家でもすぐわかる、これはいかんと云
あざむ
す。私は全論士にも少し深く上調子でなしに世界をごら
うわけでお気の毒ながら諸君をみんな終身 懲役 にしちま
ちょうえき
ほろ
んになることを望みます。﹂
います。まさか 死刑 にはなりますまいが終身懲役だって
かみ
ざんげ
てっぽう
拍手が強く起りました。拍手の中から 髪 を長くしたせ
そんないいもんじゃありませんよ。どうです。今のうち
いっしょ
いの低い男がいきなり異教席を立って壇に登りました。
悔 してやめてしまっては。﹂
懺
あわ
﹁私はやはりシカゴ畜産組合の技師です。諸君、今朝の
拍手も笑声も起りました。私たちの方から若い背広の
かあい
マルサス人口論を基とした議論は読んで下すったでしょ
22
が半々ですか。多分は目方でお測りになるおつもりか知
植物と半々だ、これがまずいけません。半々というのは何
はありますが大分乱暴な処もある様であります。動物と
食べないじゃ食料が半分に減る。いかにもご尤なお考で
人類の食料は動物と植物と約半々だ。そのうち動物を
ます。
﹁ご質問に対してできるだけ簡単にお答えしようと思い
その青年は少し 激昂 した風で演説し始めました。
したんです。大学生です。﹂
﹁あの人は私は知ってますよ。ニュウヨウクで二三 遍 話
青年が立って行きました。
所の方にでも見てお 貰 いなさい。計算がちがっているか
れをざっと二十億で割って三百六十五で割って営養研究
兆大カロリーとか何とか出て来ましょう。両方合せてそ
馬、鶏 鯨 という工合に今の通りやります。合計二千三百
リーとか何とか大体出て参りましょう。今度は牛羊、豚、
の発する熱量を計算して合計します。四千三百兆大カロ
ら 蛋白質 脂
肪 含
水炭素 の可消化量を計算してそれから 各 りびっくりなさいませんように。次にその残りの各々か
から各々家畜の喰べる分をさし引きます。その際あんま
や 甘藍 あらゆる食品の産額を発見して 先 ず第一にその中
計算を願います。 即 ち世界中の小麦と大麦米や 燕麦 蕪
菁 ましょう。どうぞシカゴ畜産組合の事務所でゆっくり御
ひかく
もら
たんぱくしつ し ぼ う が ん す い た ん そ
くじら
すなわ
オート
おのおの
オート かぶら
れませんが目方で 比較 なさるのは大へんご損です。食物
どうか多分ご返事なさるでしょう。
すなわ
の中で消化される分の熱量ででもご比較になったら割合
さて、ところが只今までの議論は一向私には何でもな
べん
正確だろうと存じます。そう云うふうにしますと一般に
いのでありまして第一のご質問の答弁の要点はこの次で
ま
動物質の方が消化率も大きいのでありますからよほどお
す。 則 ち論難者は、そのうち動物を食べないじゃ食料が
おそ
キャベジ
得になります。お得にはなりますがとてもとても半々な
半分に減ずるというこいつです。冗談じゃありませんぜ。
げっこう
んというわけには参りますまい。こんな 珍 らしい議論の
一体その動物は何を食って生きていますか。空気や岩石
めず
必要が従来あんまりありませんでしたので 恐 らくこの計
や水を食べているのじゃないのです。牛や馬や羊は 燕麦 たれ
算はまだ 誰 も致しますまいが計算法だけ申し上げて置き
23
ごらんなさい。人間が自分のたべる穀物や野菜の代りに
や牧草をたべる。 その 為 に作った 南瓜 や蕪菁もたべる。
大丈夫戦争も起らなければ無期徒刑をご心配して下さら
ころか事によると少し増えるかも知れません。ですから
も 面白 いですが仲々その食料が半分にならない。減るど
おもしろ
家畜の喰べるものを作っているのです。牛一頭を養うに
なくても大丈夫です。 却 って菜食はみんなの心を平和に
かぼちゃ
は八エーカーの牧草地が 要 ります。そこに一番計算の早
し 互 に正しく愛し合うことができるのです。多くの宗教
ため
い小麦を作って見ましょうか。十人の人の一年の 食糧 が
で肉食を禁ずることが大切の 儀式 にはつきものになって
もたら
かえ
毎年とれます。牛ならどうです。一年の間に 肥 る分左様
いるのでもわかりましょう。戦争どこじゃない菜食はあ
い
百六十キログラムの牛肉で十人の人が一年生きていられ
なた方にも永遠の平和を 齎 してせっかく避
暑 に来ていな
たがい
ますか。一人一日五十グラムですよ。親指三本の大さで
がら自働車まで 雇 って変な宣伝をやったり大祭へ 踏 み込
しょくりょう
すよ。腹が空 りはしませんか。
んで来ていやな事を云って婦人たちを卒倒させたりしな
ほにゅう
くんしょう
ぎしき
よくおわかりにならないようですがもっと手短かに云
くてもいいようになります。又我々だって無期徒刑じゃ
ふと
いますともし人間が自然と相談して牛肉や豚肉の代りに
ない、人類の仲間からと 哺乳 動物組合、鳥類連盟、魚類
ひ しょ
何か損にならないものをよこして 呉 れと云えば今よりもっ
事務所などからまで勲
章 や感謝状を沢山贈られる訳です。
ふ
だん
かいご
ふ
とたくさんの人間が生きて行かれる位多くの喰べものを
どうです。おわかりになったらあなたもビジテリアンに
まただいじょうぶ
こら
やと
向うではよこすと 斯 う云うことです。但 しこれは海産物
おなりなさい。﹂
へ
と廃
物 によって養う分の家畜は論外であります。然しな
すると前の論士が立ちあがりました。大へん 悔悟 した
く
がらそれを計算に入れても 又 大
丈夫 です。家畜だってみ
ような顔はしていましたが何だかどこか 噴 き出したいの
ただ
んな喰べるものばかりでなく羊のように毛を貰うもの馬
を 堪 えていたようにも見えました。しょんぼり 壇 に登っ
こ
や牛のように労働をして貰うものいろいろあります。
て来て
はいぶつ
次に食料が半分になっちゃ人間も半分になる、いかに
24
あいまい
てあるがそれはほんのはずみなのだ。そんな 曖昧 な動物
ぐあい
じんじ
﹁悔悟します。今日から私もビジテリアンになります。﹂
かも知れないものは勿論 仁慈 に富めるビジテリアン諸氏
い
と云 って今の青年の手をとったのでした。みんなは実に
は食べたり殺したりしないだろう。ところがどうだ諸君
こうぼ
す
ひどく拍手しました。二人は連れ立って私たちの方へ下
諸君が 一寸 菜っ葉へ酢 をかけてたべる、そのとき諸君の
き
ちょっと
り技師もその空いた席へ 腰 かけて 肩 ですうすう息をして
袋 に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百
胃
かた
いました。ところが 勿論 この事の為に異教席の憤
懣 はひ
億じゃ 利 けゃしない。諸君が一寸 葡萄 をたべるその一房 のぼ
こし
どいものでした。一人のやっぱり技師らしい男がずいぶ
にいくらの細菌や 酵母 がついているか、もっと早いとこ
そぼう
いぶくろ
ん粗
暴 な態度で壇に昇 りました。
諸君が町の空気を吸う一回に多いときなら一万ぐらいの
ふんまん
﹁諸君、私の疑問に答えたまえ。
細菌が殺される。そんな 工合 で毎日生きていながら私は
もちろん
動物と植物との間には確たる境界がない。パンフレッ
ビジテリアンですから牛肉はたべません、なんて、牛肉
ぎぜん
の
ふさ
トにも書いて置いた通りそれは人類の勝手に設けた分類
はいくら喰べたって一つの命の百分の一にもならないの
よ
ところ
ぶどう
に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物も
だ、偽
善 と云おうか無智と云おうかとても話にならない。
さいきん
ほと
かあいそうになる筈だ。動物の中の原生動物と植物の中
本とうに動物が可あいそうなら植物を喰べたり殺したり
さんご
たま
の細
菌 類とは殆 んど相密接せるものである。又動物の中
するのも 廃 し給 え。動物と植物とを殺すのをやめるため
か
たびたび
わきみず
にだってヒドラや 珊瑚 類のように植物に似たやつもあれ
にまず水と食塩だけ 呑 み給え。水はごくいい湧
水 にかぎ
と
ば植物の中にだって食虫植物もある、 睡眠 を摂 る植物も
る、それも新鮮な 処 にかぎる、すこし置いたんじゃもう
せんころ
すいみん
ある、 睡 る植物などは毎晩 邪魔 して睡らせないと 枯 れて
バクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸い給
と
じゃま
しまう、食虫植物には小鳥を 捕 るのもあり人間を殺すや
え、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山
ねむ
つさえあるぞ。 殊 にバクテリアなどは 先頃 まで度
々 分類
の中へ行っていい空気といい水と岩塩でもたべながらこ
こと
学者が動物の中へ入れたんだ。今はまあ植物の中へ入れ
25
考えていました。その男はもう大得意でチラッとさっき
拍手は起り、笑声も起りましたが多くの人はだまって
吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。﹂
のビジテリアン大祭をやるようにし給え。ここの空気は
植物と 斯 う連続しているからもし動物がかあいそうなら
一転して植物、の細菌類、それから 多細胞 の 羊歯 類顕
花 れから節足動物とか 軟体 動物とか乃
至 原生動物それから
して見ます。則ち人類から他の哺乳類鳥類 爬虫 類魚類そ
まず生物連続が面白かったようですからそれを色々応用
ちん
たさいぼう
べんぎ
さかい
し だ
はちゅう
悔 してビジテリアンになった友人の方を見て自分の席
懺
生物みんな可
哀 そうになれ、顕花植物なども食べても切っ
こまね
たとえ
ないし
へ帰りました。すると私の 愕 いたことはこの時まで腕 を
てもいかんというのですが、連続をしているものはまだ
し な
りゅうちょう
なんたい
いてじっと 拱 座 っていた陳 氏がいきなり立って行ったこ
いろいろあります。 仮令 ば人間の一生は連続している、
えしゃく
ろんし
えんびふく
あるい
けんか
とでした。支
那 服で祭壇に立ってはじめて私の顔を見て
児 期幼児期少年少女期青年処女期壮年期老年期とまあ
嬰
ただいま
こ
一寸かすかに 会釈 しました。それから落ち着いて 流暢 な
斯うでしょう、ところが実はこれは 便宜 上勝手に分類し
ざんげ
英語で 反駁 演説をはじめたのです。
たので実は連続しているはっきりした 堺 はない、ですか
かあい
﹁只
今 のご論
旨 は大へん面白いので私も早速空気を吸う
ら、 若 し四十になる人が代議士に出るならば必ず生れた
うで
のをやめたいと思いましたがその前に一寸一言ご返事を
ばかりの嬰児も代議士を志願してフロックコートを着て
おどろ
したいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許
政見を発表したり 燕尾服 を着て交際したりしなければい
すわ
し下さい。
けない、又小学校の一年生にエービースィーを教えるな
えいじ
さて只今のご論旨ではビジテリアンたるものすべから
ら大学校でもなぜ文学より見たる理論化学とか、相対性
はんぱく
く無菌の水と岩石ぐらいを喰べて 海抜 二千尺以上ぐらい
学説の難点とかそんなことばかりやってエービースィー
もっ
も
の高い処に生活すべしというのでありましたが、なるほ
を教えないか、と斯う云うことになります。 或 は他 の例
かいばつ
ど私共の中には一酸化炭素と水とから砂糖を合成する事
を 以 てするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的
ここ
ほか
をしきりに研究している人もあります。けれども 茲 では
26
ふうてん
すというようなことは馬を殺すというようなのと非常な
すべから
でありますから人類は 須 く瘋
癲 病院を解放するか或はみ
ちがいです。バクテリヤは次から次と 分裂 し 死滅 しまる
しめつ
んな瘋癲病院に入らなければいけないと斯うなるのであ
で 速 かに速かに変化してるのです。それを殺すと云った
ぶんれつ
ります。この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するよ
ところで馬を殺すというようのとは大分ちがいます。又
私共が生れつきバクテリヤについては殺すとかかあいそ
すみや
うに思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に
バクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく
はよくあるのです。
うだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。又
しょうこ
考え真実に実行しなかった 証拠 であります。斯んなこと
いくら連続していてもその 両端 では大分ちがっていま
仕方ないのです。 但 しこれも人類の文化が進み人類の感
りょうたん
す。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは
情が進んだときどう変るかそれはわかりません。印度の
ただ
両端に赤と菫 とがありまん中に黄があります。ちがって
聖者たちは 濾 さない水は呑みません。 普通 の布の水濾し
すみれ
いますからどうも仕方ないのです。植物に対してだって
では原生動物は通りますまいがバクテリヤは通りましょ
いまし
メンシアス
そな
こ
ふつう
それをあわれみいたましく思うことは勿論です。 印度 の
う。まあこれらについてはいくら理論上何と云われても
きょり
こ
聖者たちは実際 故 なく草を伐 り花をふむことも 戒 めまし
私たちにそう思えないとお答え致 すより仕方ありません。
インド
た。然 しながらこれは牛を殺すのと大へんな距
離 がある。
やがて理論的にも又その通り証明されるにちがいありま
うす
き
それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざか
せん。私の国の 孟子 と云う人は徳の高い人は 家畜 の殺さ
ゆえ
るに従ってだんだん意識が 薄 くなるかどうかそれは少し
れる処又料理される処を見ないと云いました。ごく 穏健 はんもん
おい
いた
もわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるとき
な考であります。自然はそんなおとしあなみたいなこと
しか
そんなにひどく 煩悶 しません。そこはそれ相応にうまく
はしませんから。私共は私共に 具 わった感官の状態私共
かちく
できているのであります。バクテリヤの事が大へんやか
をめぐった条件に 於 て菜食をしたいと 斯 う云うのであり
おんけん
ましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺
27
あらし
した。私共の席から一人がすぐ出て行きました。
に
ます。ここに於て私は敢 て高山に 遁 げません。﹂陳氏は嵐 ﹁只今の比較解剖学からのご説はどうも 腑 に落ちないの
あえ
のような 拍手 と一
緒 に私の処へ帰って来ました。私が陳
であります。まず第一に人類の歯に混食が丁度適当だと
ふ
氏に立って敬意を示している間に演壇にはもう次の論士
いうのにいろいろ議論も起りましょうがまあこれは大体
いっしょ
が立っていました。
その通りとしていかがです、その次に、人類に混食が一
はくしゅ
﹁諸君、しずかにし給え。まだそんなによろこぶには早
番自然だから菜食してはいかんというのは。
か
ひかくかいぼう
い。なぜならビジテリアン諸君の主張は 比較解剖 学の見
自然だからその通りでいいということはよく云います
てんぷく
地からして正に根底から 顛覆 するからである。見給え諸
がこれは実はいいことも悪いこともあります。たとえば
きゅうし
君の歯は何枚あります。三十二枚、そうです。でその中四
我々は畑をつくります。そしてある目的の作物を育てる
くだ
いっぱい
枚が門歯四枚が犬歯それから残りが 臼歯 と智歯です。で
のでありますがこの際一番自然なことは畑 一杯 草が生え
す
ため
そんなら門歯は何のため、門歯は食物を 噛 み取る 為 臼歯
わか
ひ
いただ
て作物が負けてしまうことです。 これは一番自然です。
さ
は何のため植物を 擦 り砕 くため、犬歯はそんなら何のた
前論士がもし農場を経営なすった際には参観さして 戴 き
かんがえ
めこれは肉を 裂 くためです。これでお判 りでしょう。臼
たい。又人間には 盗 むというような考 があります。これ
ぬす
歯は草食動物にあり犬歯は肉食類にある。人類に混食が
は 極 めて自然のことであります。そんならそのままでい
すなわ
きわ
一番適当なことはこれで見てもわかるのです。 則 ち人類
いではないか。と斯うなります。又異教派の方にも大分
い
は混食しているのが一番自然なのです。ですから我々は
諸方から鉄道などでお 出 でになった方もあるようであり
こら
ぶ
肉食をやめるなんて考えてはいけません。﹂
ますが鉄道で一番自然なこと則ちなるべく人力を加えな
み
ずいぶんみんな 堪 えたのでしたがあんまりその人の 身振 いようにしまするならば 衝突 や脱線や人を轢 いたりする
ふ
しょうとつ
りが 滑稽 でおまけにいかにも小学校の二年生に教えるよ
などがいいようであります。そんならそれでいいではな
こっけい
うに云うもんですからとうとうみんなどっと 吹 き出しま
28
た。
てしまいました。すると異教席からすぐ又一人立ちまし
ありませんか。
﹂斯う云ってその人はさっさっと席に 戻 っ
てしまえと斯う云うことになりますがどなたもご異議は
いかポイントマンだのタブレットだの 面倒臭 いことやめ
からってそれが私たちの必ずそれを喰べる理由にはなら
﹁私はただ一分でお答えする。第一に魚がどんなに死ぬ
すぐ又一人立ちました。
ているのです。いかがです。﹂
ことになる。まるで諸君の考と反対のことばかり行われ
が 甘藍 を一つたべるとその為に青虫を百疋も殺している
キャベジ
﹁私は実は宣伝書にも云って置いた通り 充分 詳しく論じ
ない。又私たちが魚をたべたからって魚が喜ぶかどうか
めんどうくさ
ようと思ったがさっきからのくしゃくしゃしたつまらな
そんなこともわからない。どうせ何かに殺されるだろう
もど
い議論で頭が痛くなったからほんの一言申し上げる、魚
からってこっちが殺してやろうと云う訳には参りません。
じゅうぶん
などは諸君が 喰 べないたって死ぬ、鰯 なら人間に食われ
人間が魚をとらなければ海が魚で 埋 まってしまうという
いわし
るか 鯨 に呑 まれるかどっちかだ。つぐみなら人に食べら
定 さえあるがそんなめのこ勘定で 勘
往 くもんじゃない。
たか
た
れるか 鷹 にとられるかどっちかだ。そのとき鰯もつぐみ
結局こんな間接のことまで論じていたんじゃきりがない、
なみだ
う
もまっ黒な鯨やくちばしの 尖 ったキスも出来ないような
ただわれわれはまっすぐにどうもいけないと思うことを
の
鷹に食べられるよりも仁慈あるビジテリアン諸氏に 泪 を
しないだけだ。野菜も又 犠牲 を払 うというがそれはわれ
くじら
ほろほろそそがれて喰べられた方がいいと云わないだろ
われはよく知っている。だから物を 浪費 しないことは大
きょくたん
ろうひ
い
うか。それから今度は菜食だからって一向安心にならな
切なことなのだ。但し穀作や何かならばそんなにひどく
ひゃくしょう
かんじょう
い。農業の方では害虫の学問があって薬をかけたり焼い
虫を殺したりもしないのだ。 極端 な例でだけ比較をすれ
つぶ
とが
たり 潰 したりして虫を殺すことを考えている。 百姓 はみ
ばいくらでもこんな変な議論は立つのです。結局我々は
ぴき
はら
んなそれをやる。鯨を食べるならば一 疋 を一万人でも食
どうしても正しいと思うことをするだけなのだ。﹂
ぎせい
べられ、又その為に百万疋の鰯を助けることになるのだ
29
すで
およ
ざんがい
しば
お
のぞ
つく
みまわ
ごじん
せつり
きょうあい
氏の信条を厳正に批判して見たいと思うのであります。
いな
そうろん
しか
拍手が起りました。その人は壇を下りました。
るに私の奉ずる神学とは 然 然 く 狭隘 なるものではない。
つ
しか
異教徒席の中から 赭 い髪 を立てた 肥 った 丈 の高い人が東
私の奉ずる神学はただ二言にして 尽 す。ただ一なるまこ
かんだい
たけ
洋風に形容しましたら正に 怒髪 天を衝 くという風で大
股 との神はいまし 給 う、それから神の 摂理 ははかるべから
なら
ふと
に祭壇に上って行きました。私たちは 寛大 に拍手しまし
ずと 斯 うである。これに賛せざる諸君よ、諸君は 尚 かの
かみ
た。
中世の 煩瑣哲学 の残
骸 を以 てこの明るく楽しく流動止 ま
あか
祭司が一人出てその人と 並 んで紹介しました。
ざる一千九百二十年代の人心に臨 まんとするのであるか。
たび
ちょっと
おおまた
﹁このお方は神学博士ヘルシウス・マットン博士であり
今日宗教の最大要件は簡潔である。 吾人 の哲学はこの二
どはつ
ましてカナダ大学の教授であります。この 度 はシカゴ畜
語を以て 既 に千六百万人の世界各地に散在する信徒を得
ごしてき
たま
産組合の 顧問 として本大祭に御出席を得只今より我々の
た。 否 、凡 そ神を信ずる者にしてこの二語を奉ぜざるも
かた
ば れ い しょ
こんごうせき
かた
みち
ほうこう
なお
主張の不備の点を 御指摘 下さる次第であります。 一寸 紹
のありや、細部の 諍論 は暫 らく措 け、凡そ 何人 か神を信
おもむ
こ
介申しあげます。﹂とこう云うのでありました。私たちは
ずるものにしてこの二語を否定するものありや。﹂ 咆哮 し
きわ
ごと
あるい
や
寛大に拍手しました。
終ってマットン博士は卓を打ち式場を 見廻 しました。満
かか
たた
もっ
マットン博士はしずかにフラスコから水を 呑 み肩 をぶ
場森 として声もなかったのです。博士は続けました。
やわ
つく
はんさてつがく
るぶるっとゆすり腹を 抱 えそれから極 めて徐 ろに述べ始
﹁讃 うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神
こもん
めました。
はすべてを 創 り給うた。美しき自然よ。風は不断のオル
ところ
かっせき
なんぴと
﹁ビジテリアン同情派諸君。本日はこの光彩ある大祭に
ガンを弾じ雲はトマトの 如 く又馬
鈴薯 の如くである。 路 の
出席の栄を得ましたことは私の真実光栄とする 処 であり
のかたわらなる草花は 或 は赤く或は白い。 金剛石 は硬 く
しん
ます。
石 は軟 滑
らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場に
つい
就 てはこれより約五分間私の奉ずる神学の立場より諸
30
すみやか
かいご
しもべ
るか。 速 にこれを 悔悟 して従順なる神の僕 となれ。﹂
よそお
はうるわしき牛 佇立 し羊群馳 ける。その海には青く装 え
博士は最後に大咆哮を一つやって電光のように自分の
か
る鰯も泳ぎ大 なる鯨も 浮 ぶ。いみじくも造られたる天地
席に 戻 りそこから横目でじっと式場を見まわしました。
ちょりつ
よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありますか。﹂
拍手が起りましたが同時に大笑いも起りました。という
うか
式場はしいんとして返事がありませんでした。博士は実
のは私たちは式場の神聖を乱すまいと思ってできるだけ
おおい
に得意になってかかとで一つのびあがり手で円くぐるっ
こらえていたのでしたがあんまり博士の議論が面白いの
まこと かしこ
さけ
さいだん
もど
と環 を描 きました。
でしまいにはとうとうこらえ切れなくなったのでした。
えが
﹁その中の出来事はみな神の摂理である。 総 ては総ては
一番前列に居た小さな信者が立ちあがって祭司次長に何
わ
みこころである。 誠 に畏 き極みである。主の恵み讃うべ
か 云 いました。次長は大きくうなずきました。
は
ぶた
すべ
く主のみこころは測るべからざる 哉 。われらこの美しき
その人はこの村の小学校の先生なようでした。落ちつ
ターニップ
はくしゅ
えしゃく
い
世界の中にパンを 食 み羊毛と麻 と木綿とを着、セルリイ
いて 祭壇 に立ってそれから 叮寧 にさっきのマットン博士
かな
と蕪
菁 とを食み又豚 と鮭 とをたべる。すべてこれ摂理で
に 会釈 しました。博士はたしかに青くなってぶるぶる 顫 あさ
ある。み恵みである。善である。どうです諸君。ご異議
えていました。その信者は次に式場全体に 挨拶 しました。
ていねい
がありますか。
﹂
手 は強く起りました。その人は少しニュウファウンド
拍
ふる
博士は今度は少し心配そうに顔色を悪くしてそっと式
のなまりを入れて演説をはじめました。
﹁異教論難に対し私はプログラムに許されてある通り宗
だっと
で結論にはいりました。
教演説を以て答えようと思うのであります。
あいさつ
場を見まわしました。それから、まるで 脱兎 のような勢
﹁私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の
ヘルシウム・マットン博士の御所説は実に三段論法の典
ここ
こば
正義を伝えんが為に茲 に来た。諸君、諸君は神を信ずる。
おんけい
型であります。まず博士の神学を挙げて二度これを満場
ゆえ
何が 故 に神に従わないか。何故に神の恩
恵 を拒 むのであ
31
く
も又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を 繰 そむ
すべ
に承認せしめこれを以て大前提とし次にビジテリアンが
きわ
り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、
そむ
かしこ
これに 背 くことを述べて小前提とし最後にビジテリアン
めいりょう
その中の出来事はみな神の摂理である。 総 ては総てはみ
おか
いた
が故に神に背 くことを断定し菜食なる小善の故に神に背
こころである。誠に 畏 き極 みである。主の恵み讃うべく
かな
くの大罪を犯 すことを暗示致 されました。実に簡潔明
瞭 さら
主のみこころは測るべからざる 哉 、すべてこれ摂理であ
もっとも
約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中な
こ
なる所論であります。
る。み恵みである。善である。と 斯 うです。これを更 に
しか
然 るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは 最 憾 に存ずる次第であります。
遺
るが故に善なりと、まあよろしいようでありますが又ご
いかん
第一に博士の一九二〇年代に適するようにクリスト教
くあぶないのであります。ここの善というのは神より見
こ
こ
ことば
旧神学中より 抽出 されました簡潔の神学はただこの 語 だ
たる善であります。絶対善であります。それをもし私た
ひきだ
けで見ますればこれいかにも適当であります。今日 此処 ちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士
おい
に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりでは
の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛を食う、
あえ
おこ
ありません、されどいずれの宗教に 於 てもこれを云わん
摂理で善である、私が 怒 ってマットン博士をなぐる、摂
いた
ただ
と欲 するものであります。但 しこれ敢 て博士の神学でも
理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事
ほっ
ありません。これ最 普通 のことであります。
で神のみ 旨 は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君
こと
ふつう
第二にその神学の解釈に 至 っては私の最疑義を有する
にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげ
むね
所であります。 殊 にも摂理の解釈に至っては 到底 博士は
る、大へんよろしい、私が 誰 かにおどされて旅費を巻き
とうてい
信者とは云われませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教
あげ損 ねそうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善
たれ
に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈
である。もっと面白いのはここにビジテリアンという一
いず
そこ
を誤ること我が神学博士のごときもの 孰 れの宗教に於て
32
マットン博士の所説は 自家撞着 に終るものなることを示
ば怒髪天を衝 いてこれを駁
撃 するか。ここに至って 畢竟 ある然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するなら
類が動物をたべないと云っている。神の摂理である善で
は阿
弥陀仏 の 化身 親鸞僧正
によって啓
示 されたる本願寺
信ずる 所以 はどうしても仏教が深遠だからである。自分
私も又実は仏教徒である。クリスト教国に生れて仏教を
アン諸氏中約一割の仏教徒のあることを私は知っている。
前論士の如くである。然しながら 茲 に集られたビジテリ
ここ
す。この結論は実にいい 語 であります。これ然しながら
派の信徒である。 則 ち私は一仏教徒として我が 同朋 たる
じ か ど う ちゃく
ことば
しんじん
ひっきょう
肖 私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝の
不
ビジテリアンの仏教徒諸氏に一語を寄せたい。この世界
ゆうかん
ばくげき
パンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで
は苦である、この世界に行わるるものにして一として苦
テント
つ
敢 なるマットン博士に 勇
深甚 なる敬意を寄せます。﹂
ならざるものない、ここはこれみな 矛盾 である。みな罪
あみだぶつ
ゆえん
拍手は 天幕 をひるがえしそうでありました。
悪である。 吾等 の心象中微
塵 ばかりも善の痕
跡 を発見す
ろこつ
ひっきょう
われら
すなわ
みじん
むじゅん
けいじ
﹁大分 露骨 ですね、あんまり教育家らしくもないビジテ
ることができない。この世界に行わるる吾等の善なるも
け し ん しんらんそうじょう
リアンですね。﹂ と陳さんが大笑いをしながら申しまし
のは 畢竟 根のない木である。吾等の感ずる正義なるもの
どうぼう
た。
は結局自分に気持がいいというだけの事である。これは
ふしょう
ところがその拍手のまだ鳴りやまないうちにもう異教
うでなければいけないとかこれは斯うなればよろしい
斯 はな
こんせき
徒席の中から 瘠 せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上
とかみんなそんなものは何にもならない。動物がかあい
こ
りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつって
そうだから喰べないなんということは吾等には云えたこ
や
いるように見えました。それでもコップの水を 呑 んで少
とではない。実にそれどころではないのである。ただ 遥 の
し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。
かにかの西方の覚者救済者阿弥陀仏に帰してこの矛盾の
はる
﹁マットン博士の神学はクリスト教神学である。 且 つそ
世界を 離 るべきである。それ然る後に於て菜食主義もよ
か
の摂理の解釈に於て少しく遺憾の点のあったことは全く
33
の形容を 以 てすれば一つの壺 の水を他の一つの壺に移す
行い 爾来 わが本願寺は代々これを行っている。日本信者
大教師にして仏の化身たる親鸞僧正がまのあたり肉食を
ろしいのである。この 事柄 は敢て議論ではない、吾等の
物を受けた。その食物は豚肉を主としている、釈迦はこ
よ、釈迦は最後に 鍛工 チェンダというものの捧げたる食
するに従て全く菜食主義者ではなかったようである。見
れを 銘記 せよ。釈迦はその晩年、その思想いよいよ円熟
律法に一も従っていない。特にビジテリアン諸氏よくこ
ことがら
が如くに肉食を 継承 しているのである。次にまた仏教の
の豚肉の為に 予 め害したる胃腸を全く救うべからざるも
だんどくせん
つぶ
しゃか む に
なづ
しょうじん
ささ
こんにち
めいき
創設者 釈迦牟尼 を見よ。釈迦は 出離 の道を求めんが 為 に
のにしたらしい。その為にとうとう八十一歳にしてクシ
じらい
特山 と 檀
名 くる林中に於て六年 精進 苦行した。一日米の
ナガラという処に 寂滅 したのである。仏教徒諸君、釈迦
さと
エクスタシー
めいわく
スケール
こうい
じゃくめつ
たんこう
実一粒 亜麻の実一粒を食したのである。されども 遂 にその
を見ならえ、釈迦の 行為 を模
範 とせよ。釈迦の相似形と
けいらん
つぼ
苦行の無益を 悟 り山を下りて川に身を洗い村女の 捧 げた
なれ、釈迦の諸徳をみなその二万分一、五万分一、 或 は
もっ
るクリームをとりて食し遂に 法悦 を得たのである。 今日 二十万分一の 縮尺 に於てこれを習修せよ。然る後に菜食
も
けいしょう
牛乳や 鶏卵 チーズバターをさえとらざるビジテリアンが
主義もよろしかろう。諸君の 如 き畸
形 の信者は恐らく地
おおい
あらかじ
ある。これらは 若 し仏教徒ならば論を俟 たず、仏教徒な
下の釈迦も 迷惑 であろう。﹂
きた
こうい
ため
らざるも又大 に参考に資すべきである。更に釈迦は集り
拍手はテントもひるがえるばかりでした。
しゅつり
れる多数の信者に対して決して肉食を禁じなかった。
来 私はこの時あんまりひどい今の 語 に頭がフラッとしま
じょうにく
つい
五種 浄肉 となづけてあまり残忍なる 行為 によらずして得
した。そしてまるでよろよろ出て行きました。
いにしえ
ごと
もはん
たる動物の肉はこれを食することを許したのである。今
何を云うんだったと思ったときはもう演壇に立ってみ
インド
ことば
あるい
日のビジテリアンは実に 印度 の 古 の聖者たちよりも食物
んなを見下していました。
つい
きけい
のある点に就 て厳格である。されどこれ畢竟不具である
陳氏が一番向うでしきりに拍手していました。みんな
きけい
ま
形 である、食物のみ厳格なるも釈迦の制定したる他の
畸
34
いということであります。これその演説中 数多 如
来正徧知 奇心を有するだけで決して仏弟子でもなく仏教徒でもな
するに仏教特に 腐敗 せる日本教権に対して一種 骨董 的好
す。先 ず予め茲 で述べなければならないことは前論士は要
て前論士の所説の 誤謬 を指摘せざるを得ないのでありま
のでありますが 遺憾 乍 ら私は又 敬
虔 なる釈尊の 弟子 とし
﹁前論士は仏教徒として菜食主義を否定し肉食論を唱えた
た。
はまるで野原の花のように見えたのです。私は云いまし
ずして善はあることないという意味であろう私もそう信
根のない木であると、これは 恐 らくは如来のみ力を受け
べられた。この世界に行わるる吾等の善なるものは 畢竟 である。次に前論士は 吾等 の世界に於ける善について述
ずれの教理が深遠なるや見当も何もつくものではないの
禁じ得ないだろう。私から云うならば前論士の如きにい
スト教が深遠だからであると。諸君はその 軽薄 に不快を
教国に生れてクリスト教を信ずる所以はどうしてもクリ
諸氏、処を 換 えて次の如き命題を諸氏は許容するか、仏
どうしても仏教が深遠だからであると。クリスト教信者
ごびゅう
ふはい
ろう
こっとう
あ ま た にょらいしょうへんち
なんぴと
ぐこうじゃきょく
か
に対してあるべからざる言辞を 弄 したるによって明らか
ずる。その次にこれは斯うなればよろしいとかこれはこ
かぶ
もっ
は
すみや
そうろん
かくご
けいはく
である。特にその最後の言を見よ、地下の釈迦も定めし迷
うでなければいけないとかそんなものは何にもならない、
ごと
し
で し
惑であろうと、これ何たる言であるか、 何人 か如来を信
とこれも私は如来のみ旨によらずして我等のみの計らい
かく
け
またけいけん
ずるものにしてこれを地下にありというものありや、我
にてはそうであると思う。前論士も又その意味で云われた
あくま
い か ん なが
等は決して斯 の如 き仏弟子の外皮を 被 り貢
高邪曲 の内心
ようである。但しただ 速 かにかの西方の覚者に帰せよと、
ここ
を有する 悪魔 の使徒を許すことはできないのである。見
これは仏教の中に於て色々 諍論 のある処である。今はこ
ま
よ、彼は自らの 芥子 の種子ほどの智識を 以 てかの無上土
れを避ける。ただ我等仏教徒はまず釈尊の所説の記録仏
してき
われら
を測ろうとする、その論を更に今私は繰り返すだも 恥 ず
経に従うということだけを 覚悟 しよう。仏経に従うなら
りょうがきょう
ひっきょう
る処であるが実証の為にこれを 指摘 するならば彼は斯う
ば五種浄肉は修業未熟のものにのみ許されたこと 楞迦経 ゆえん
おそ
云っている。クリスト教国に生れて仏教を信ずる 所以 は
35
等 仏弟子の肉を食うことを許されずとされている。その
汝
に明かである。これとても最後 涅槃経 中には今より以後
する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然
なくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対
表現である。マットン博士のように誤った 摂理 論を出さ
せつり
五種浄肉とても前論士の云われた如き余り残忍なる 行為 のことであろう。
ねはんぎょう
によらずしてというごとき簡単なるものではない。仏教
仏教の精神によるならば慈
悲 である、如来の慈悲である
なんじら
中の様々の食制に関する 考 は他に 誰 か述べられる予定が
完全なる 智慧 を具 えたる愛である、仏教の出発点は一
切 ここ
くよう
こうい
あったようであるから 茲 にはこれを略する。但し最後に
の生物がこのように苦しくこのようにかなしい我等とこ
けいそつ
もろとも
そっちょく
ひ
前論士は釈尊の終りに受けられた 供養 が豚肉であるとい
れら一切の生物と 諸共 にこの苦の状態を離れたいと 斯 う
おい
カルパ
じ
う、何という 間違 いであるか豚肉ではない 蕈 の一種であ
云うのである。その生物とは何であるか、そのことあま
たれ
る。サンスクリットの両音相類似する所から 軽卒 にもあ
りに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであろうがこれ真理
かんがえ
のような誤りを見たのである。茲に 於 てか私は前論士の
であるから避け得ない、 率直 に述べようと思う。総 ての
ちくしょう すなわ
たがい
へだ
こいびと
すべ
こ
いっさい
結論を以て前論士に 酬 える。仏教徒諸君、釈迦を見なら
生物はみな無量の 劫 の昔から 流転 に流転を重ねて来た。
スケール
そな
え、釈迦の相似形となれ、釈迦の諸徳をみなその二万分
流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあた
あるい
けいはく
ゆ
ち え
一、五万分一、 或 は二十万分一の 縮尺 に於てこれを習修
りその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ず
きのこ
せよ。ああこの語気の 軽薄 なることよ。私はこれを自ら
る。ある時は畜
生 、則 ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。
まちが
言いて 更 にそを口にした事を恥 じる。
ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のた
こた
私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じ
ましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や 恋人 や兄
ひ
るてん
ようと思う。キリスト教の精神は一言にして云わば神の
弟や親子やである。それらが 互 にはなれ又生を 隔 てては
たも
は
愛であろう。神天地をつくり 給 うたとのつくるというよ
もうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可
ことば
さら
うな 語 は要するにわれわれに対する一つの 譬喩 である、
36
徒席の神学博士たちももうこれ以上論じたいような景色
私は 会釈 して 壇 を下り 拍手 もかなり起りました。異教
なのだ。私はこれだけを述べようと思ったのである。﹂
しいと思うだろう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界
子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろ
能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親
テントの中は 割 けるばかりの笑い声です。
えてそれからやけに水をのみました。 さあ大へんです。
シャッポをかぶるか。﹂その人は興奮の為にガタガタふる
物を食わないと云いながら、ひ、ひ、ひ、羊、羊の毛の
﹁な、な、な何が 故 に、何が故に、君たちはど、ど、動
ました。二三度どもりました。
はしんとなりました。その人は 突然 爆
発 するように叫 び
さけ
も見えませんでした。けれども異教徒席の中にだってみ
陳氏ももう手を叩 いてころげまわってから云いました。
とつぜんばくはつ
んな神学博士ばかりではありませんでした。丁度ヘッケ
﹁まるでジョン・ヒルガードそっくりだ。﹂
たた
きずあと
ゆえ
ルのような風をした 眉間 に大きな傷あとのある人が 俄 か
﹁ジョン・ヒルガードって何です。﹂私は訊 ねました。
はくしゅ
に椅
子 を立ちました。私は今朝のパンフレットから考え
﹁喜劇役者ですよ。ニュウヨーク座の。けれどもヒルガー
だん
てきっとあれは動物学者だろうと考えたのです。
ドには眉間にあんな 傷痕 がありません。﹂
えしゃく
その人はまるで顔をまっ赤にしてせかせかと祭壇にの
﹁なるほど。﹂
かんだい
さ
ぼりました。我々は 寛大 に拍手しました。その人はぶる
そのあとはもう異教徒席も異派席もしいんとしてしまっ
にわ
ぶるふるえる手でコップに水をついでのみました。コッ
て 誰 も演壇に立つものがありませんでした。祭司次長が
みけん
プの外へも水がすこしこぼれました。そのふるえようが
しばらく式場を見まわして今のざわめきが静まってから
ちょっと
たず
あんまりひどいので私は少し神経病の 疑 さえももちまし
落ちついて異教徒席へ行きました。ほかにお立ちの方は
い す
た。ところが水をのむとその人は俄かにピタッと落ち着
ありませんかとでも云ったようでしたが誰もしんとして
たれ
きました。それからごくしずかに何か云いそうに口をし
答えるものがありませんでしたので次長は 一寸 礼をして
ことば
うたがい
ましたがその 語 はなかなか出て来ませんでした。みんな
37
なんだか野球のようですが全くそうでした。そこで 電鈴 軍があんまりもろく 粉砕 されたからです。 斯 う云っては
私も実際 嬉 しかったのです。あんなに 頑強 に見えたシカゴ
﹁すっかり参ったようですね。﹂陳氏が私に云いました。
引き下がりました。
て一ぺんに立ちあがり一ぺんに壇にのぼって
すると異教席はもうめちゃめちゃでした。まっ黒になっ
す。
声をあげ熱心に拍手してこの新らしい信者を 迎 えたので
祭司次長がすぐ進んで 握手 しました。みんなは歓呼の
そして壇を下って頭を垂れて立ちました。
あくしゅ
がずいぶん永く鳴りました。そのすきとおった音に私の
﹁ 悔 い改めます。許して下さい。私どももみんなビジテ
もど
すわ
むか
興奮した心はもう一ぺん 透明 なニュウファウンドランド
リアンになります。﹂と声をそろえて云ったのです。
がんきょう
の九月というような気分に 戻 りました。みんなもそうら
祭司次長がすぐ進んで一人ずつ 握手 しました。そして
うれ
しかったのです。陳氏は
一人ずつ壇を下ってこっちの椅子に 座 りました。歓呼と
こ
﹁私はもう一発やって来ますから。﹂と云いながら立ちあ
拍手とで 一杯 でした。椅子が丁度うまい 工合 にあったの
ふんさい
がって出て行きました。
です。何だかあんまりみんなうまい工合でした。そのと
でんれい
その時です。神学博士がまたしおしおと壇に立ちまし
き外ではどうんと又一発陳氏ののろしがあがりました。
おぼしめし
く
た。そしてしょんぼりと礼をして云ったのです。
その陳氏がもう入って来て私に軽く会釈してまだ立ちな
とうめい
﹁諸君、今日私は神の 思召 のいよいよ大きく深いことを
がら向うを見て云いました。
あくしゅ
知りました。はじめ私は混食のキリスト信者としてこの
﹁おやおやみんな改宗しましたね、あんまりあっけない、
のぞ
がんば
に
ぐあい
式場に 臨 んだのでありましたが今や神は私に 敬虔 なるビ
おや椅子も丁度いい、はてな一つあいてる、そうだ、さっ
ごと
いっぱい
ジテリアンの信者たることを命じたまいました。ねがわ
きのヒルガードに似た人だけまだ 頑張 ってる。﹂
けいけん
くは先輩諸氏 愚昧 小生の如 きをも清き諸氏の集会の中に
なるほどさっきのおしまいの喜劇役者に 肖 た人はたっ
どうぼう
ぐまい
諸氏の 同朋 として許したまえ。﹂
38
壇にのぼりました。
ところがとうとうその人は立ちあがりました。そして
が云いました。
﹁あの男の煩
悶 なら一体何だかわからないですな。
﹂陳氏
た。
りいかにも仰
山 なのでみんなはとうとうひどく笑いまし
た一人異教徒席に座って 腕 を組んだり髪を 掻 きむしった
ヒルガードは一礼して 脱兎 のように壇を下りただ一つ
私はごく気の弱い一信者ですから。﹂
なお方はどうか祭司次長にその 攻撃 の矢を向けて下さい。
のです。このわれわれのやった大しばいについて 不愉快 かにする 為 に祭司次長から頼 まれて一つしばいをやった
ヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を 賑 や
らなければならない。私は 或 はご承知でしょう、ニュウ
﹁そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰
か
﹁諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今
あいた席にぴたっと座ってしまいました。
うで
日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテ
﹁やられたな、 すっかりやられた。﹂ 陳氏は笑いころげ
はんもん
だっと
たの
あるい
リアンだったような気がします。どうもさっきまちがえ
笑 歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私
哄
ぎょうさん
て異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらし
はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。
げんそう
ふゆかい
にぎ
いのです。諸君許したまえ。 且 つ私考えるに本日異教徒
あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭
ため
席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろう
の 幻想 はもうこわれました。どうかあとの所はみなさん
こうげき
と思う。どうもそうらしい。その 証拠 には今はみんな信
で活動写真のおしまいのありふれた 舞踏 か何かを使って
こうしょう
者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょ
ご勝手にご完成をねがうしだいであります。
か
う。﹂
しょうこ
私の 愕 いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立
ぶとう
ちあがって
おどろ
﹁そうです。
﹂と答えたことです。
底本:
「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年 6 月 15 日発行
1994(平成 6)年 6 月 5 日 13 刷
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2007 年 1 月 6 日
青空文庫作成ファイル:
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