“主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるので しょうか。”(詩編 15:1) 礼拝は、生ける主の御前に出ることです。主が現臨なさる場に立つ時です。その 主の御前にどのような人が立つことができるのか、それが詩人の問うていることで す。 「完全な道を歩き正しいことを行う人、心には真実な言葉があり舌には中傷をも たない人、友に災いをもたらさず親しい人を嘲らない人」…。そのような人はとこ しえに揺らぐことはないでしょう、と詩人は述べています。 もしこれらのリストが礼拝者の適性を示すものであるなら、私たちは主の御前か ら立ち去らなければならないでしょう。にもかかわらず、私たちが礼拝する者とさ れているのは主の赦しと忍耐によるものです。私たちは心揺らぐ者です。いろいろ なことが定まらず、絶えず混沌とした状態に投げ込まれる者です。しかし、主は混 沌に打ち勝つ方です。混沌のただ中からご自身の支配へと導き出してくださいます。 教会は、この主の現臨のもとに形造られる群れです。それゆえ礼拝は、ご自身を現 臨なさる主の恵みが満ちている所です。
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