大野純司牧師 - ハワイ日本語キリスト教会連合

Sept. 27, 2012, VIP Hawaii Monthly Meeting, by Pastor Junji Ono (大野純司牧師)
私は、20 年前、ある音楽集会の責任者でした。私が就任した頃は、50 人くらいの人が来
ていましたが、1 年で倍くらいに増えました。かなり有名な集会になりましたが、クリスチ
ャンのエンターテイメントをしているような感じで、満足感がありませんでした。若い人が
好みそうな賛美をして、有名なスピーカーをいつも招いていたら、人が増えるのは当たり前
じゃないかとも思いました。数が増えても、それが本当の成功ではないと感じたのです。
そのころ、私は、自分が今属している教団のホープ・チャペル・カネオヘ・ベイのラル
フ・モーア牧師の通訳をしたことが何度かあり、彼がミニチャーチと呼んでいたセルグルー
プに興味を持っていたので、その音楽集会を辞めて、家族とハワイに引っ越すことにしまし
た。モーア牧師は、株分けをして教会を増やすことで有名な牧師で、私も 4 年後には、十数
人の日本人のメンバーと一緒に教会を始め、ホープ・チャペルの百何十番目かの株分け教会
になりました。
最初の 5 年間は、普通の教会だったのですが、日本でやっていた音楽集会の経験がありま
したので、音楽を餌にして人を集めるようなことはしたくありませんでした。当時、私たち
の教会には、元ゴダイゴのスティーブ・フォックスも来ていましたし、ヤマハの先生ですご
く上手なジャズのピアニストもいました。私も、一応バークレー音楽大学を卒業したスティ
ーブの後輩でしたので、日本でやっていたものよりはもっと音楽的にレベルの高い賛美をす
ることはできたと思いますが、教会がまるで商品のように何かを売り物にすることは、避け
たかったのです。
2000 年に、ある牧師に勧められて、Natural Church Development(自然な教会成長)と言
うドイツ人の Christian Schwarz と言う人の書いた本を読みました。世界中の千の教会の統
計を基にした本ですが、いくつもの興味深い数字が載っていました。その中で最も興味を引
いたのが、大教会と小教会の成長率の違いです。多くの人は、大教会は成長したから大きく
なったわけで、成長率も高いはずだと思っていますが、実はそんなことはないと言うことは、
私もこの本を読む前から知っていました。しかし、こんなに差があるとは思っていなかった
のです。百人以下の教会の成長率は、千人以上の教会の成長率の何と 16 倍で、年間ほぼ 10%
に近い数字です。ちなみに、教会成長学で有名なピーター・ワグナーは、リバイバルを、年
間成長率 10%以上と定義しています。
なぜ大教会の成長率がこれほど低いのか、シュヴォーツははっきりと説明していません。
本当に分からないのか、大教会を怒らせたくないのでとぼけているだけなのかはわかりませ
んが、実はこれを説明することはそれほど難しいことではないと思います。皆さんの良く知
っている大教会は、ニュー・ホープにしろ、ホープ・チャペルにしろ、ほとんど一世代で大
きくなります。今、急成長している教会は、当然みんなの注目を浴びますので、私たちも良
く知っていますが、実は、私たちより前の世代に成長して、今は成長が止まっている、ある
いは衰退している教会も多いのです。そして、停滞と衰退の期間は、成長期よりもずっと長
いのです。人間も最初の 20 年で成長し、残りの 60 年かけて衰退しますので、ランダムに人
間のサンプルをとれば、衰退している人の数の方がずっと多いわけです。同じように、教会
も、大教会のサンプルをとれば、有名でないので私たちが知らないだけで、成長していない、
あるいは衰退している教会の方が多いのです。
19 世紀に世界で一番大きかった教会がハワイ島のヒロにあったのをご存知ですか。当時 1
万人のメンバーが集っていたその教会が今どうなったのだろうと思っていたら、実は私の知
り合いがその教会のメンバーでした。今どのくらいの人が来ているのか聞いたところ、何と
30 人だそうです。100 年ちょっとの間に急激に減ったわけですが、ハワイの場合は歴史的な
理由があり、通常は、そこまで減るにはもっと時間がかかります。オアフ島で一番古いカワ
イアハオ教会も、私がハワイに来た 20 年前には、まだ数百人来ていたと思いますが、今は
百数十人くらいです。大きな教会は、教会自体の維持が大変なので、それにお金と労力を使
ってしまって、遅かれ早かれ衰退していく仕組みになっているのです。ジョン・ウェスレー
は、世界が私の教区だと言いましたが、この世に出て行って働いている教会は成長し、その
働きが教会内に限られてくるほど、成長は止まるということです。
私は、シュヴォーツの本を読んで、教会をもう一度考え直そうと思い、ひたすら新約聖書、
主に使徒の働きを読みました。こんなことは、神学校を卒業した牧師なら最初からわかって
いるはずのことなのですが、今の教会とは全く異なる点が二つありました。一つは、新約聖
書の教会は家の教会だったということです。もう一つはそれほど明確ではありませんが、新
約は、旧約と違って、リーダーのポジションに人が一人しか就いていないということがない
という点でした。使徒も、長老や監督も、執事も、全て複数です。
リーダーシップの構造と言うと、よく引き合いに出されるのが出エジプト記18章です。モ
ーセは、しゅうとのイテロの勧めで、千人、百人、五十人、十人の長を立てたのですが、こ
れはあまりうまく行かなかったのかもしれません。と言うのは、民数記の11章で民が不平を
述べたとき、神は、天幕の回りに七十人の長老を集めて彼らに霊を与え、彼らは預言をしま
した。しかし、そのときに天幕に来ていなかった長老が二人いて、彼らは宿営の中で預言を
したのです。これを聞いたヨシュアが彼らを止めさせてくださいとモーセに申し出たところ、
モーセはどう言ったでしょうか。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上
にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
このモーセの願いは、ペンテコステで実現しました。
「神は言われる。終わりの日に、わ
たしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老
人は夢を見る。」新約では、モーセのように誰かが神様の代理になって人を導くのではなく、
全員が教会の体として、その頭であるキリストに直結して機能するのです。
私は、この新約聖書の教会の形、つまり家の教会とリーダーシップの構造が、その通り守
らなければならないものなのか、それとも、時代や文化によって変わるものなのかを考えま
した。そのためには、スタイルとフォームと言うものをはっきり区別する必要があります。
スタイルは、文化や好み次第で、どれを選んでも、大きな違いはありません。しかし、フォ
ームは、英語に、Form follows function.と言う表現があるように、機能によって決まるの
です。
例えば、乗用車ができて百年ほどになりますが、スタイルはかなり変わりました。しかし、
基本的な形、つまりタイヤがあって、アクセルがあって、ハンドルがあって・・・と言う、
つまり乗用車が乗用車として機能するために必要なものは、ほとんど変わっていません。し
かし、機能を変えたらどうなるでしょうか。人を運ぶのではなく、荷物を運ぶのなら、トラ
ックのような形になります。数人の人ではなく、たくさんの人を運ぶのなら、バスのような
形になります。これはスタイルの変化ではなく、フォームの変化です。
教会も、スタイルを変えることは問題ありませんが、フォームを変えると、機能の仕方も
変わってしまいます。教会の形などどうでも良いというのは、まるで飛行機の形などどうで
も良いと言うのと同じです。飛行機があの形をしていないと飛ばないように、教会も特定の
形をしていないと、機能しない、あるいは少なくとも機能しにくいのです。この世に存在す
るもののほとんどは、それが実際に機能しているところを見なくても、そのフォームを見た
だけでその機能が分かるほど、フォームは大切なのです。
例えば、椅子は、皆さんが座っているから椅子だと分かるのではなく、形を見ると、座る
ためのものだと言うことがわかります。LA 空港にあるベンチは、ちょっと変わった形をして
います。ベンチは、普通平たいか、お尻の形に合わせて座るところが少しへこんでいるもの
ですが、LA 空港のベンチは、逆に、かまぼこの形のように、中央が盛り上がっています。ど
うしてでしょう。座ることはできても、寝ることができないような形になっているのです。
その上に寝ることができないような機能を持たせたことは、形を見れば明らかです。
ところで、私は中学高校とカトリックの学校でしたし、カトリックの大学にも行っていた
ことがあるので、カトリックのことを悪く言うつもりは全くないのですが、カトリックがロ
ーマの国教になったとき、教会をガラッと変えてしまいました。それまで基本的に家の教会
だったのが、大きなカテドラルを作って、町中の人が一ヶ所に集まれるようにし、信徒は神
父の話を聞くだけのところになったのです。これはスタイルの変化でしょうか、それともフ
ォームの変化でしょうか。もちろんフォームです。これは、単なる好みで形を変えてしまっ
たのではなく、教会の機能の仕方を変えたかった、つまり、国が教会を統制しやすいように
したかったから、このような形にしたのです。
ここに問題が二つあります。一つは、教会の形が変わったことによって、教会が本来の機
能を果たすことが難しくなったということです。鳥の形を牛に変えたら、飛べなくなるよう
なものです。もう一つは、そしてこの方がもっと大切なのですが、教会が形を変え、その機
能を変えてしまったので、長い年月のうちに、教会は、教会がどのように機能するべきかを
忘れてしまったということです。2000年近く牛の形をしていた鳥は、元の形に戻しても、飛
び方が分からないどころか、自分が飛べると言うことすら知らないのと同じです。
例えば、1コリ14:26 には、「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、
教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、
徳を高めるためにしなさい。」と書いてあります。私は、初めてこの言葉を読んだとき、教
会ってこんなことしてないじゃないかと思いました。教会は、何世紀も、こんなことはして
いなかったし、今も決してそれができているとは思えません。と言うことは、教会は、その
フォームを元に戻すだけでなく、その機能の仕方を元に戻さなければならないと言うことで
す。鳥の形に戻すだけでなく、飛べるようにしなければならないと言うことです。
家の教会の機能は、1コリ14章に書いてあることだけではありません。もっと具体的に、
家の教会が普通の教会とどのように機能の仕方が異なるかを見てみましょう。まず、私たち
の教会が家の教会になってどうなったかお話します。
私は、2000年に教会のリーダーたちと私の考えを話し合い、みんなそれに非常に興味を持
ってくれました。そして、時間をかけて家の教会にすることに合意しました。最初にしたこ
とは、私が、実質的に牧師を辞めるということです。先ほどお話したように、新約聖書には、
一人の人が何かのリーダーになるということはありませんので、私も含めて、リーダーたち
全員の立場を同じにしました。もちろん、全員賜物も異なれば、タラントの数も違うので、
みんなが同じことをする、あるいは同じ時間をかけて教会のために働くということではあり
ませんし、教会のメンバーから同じようにリーダーとして認められ、尊敬されるわけでもあ
りません。ただ、牧師と言うポジションをなくして、リーダーたち全員を長老あるいは監督
にしました。長老と監督と言う言葉は、使徒の働きの中で、置き換え可能な言葉として使わ
れており、聖書に一回しか出てこない牧師と言う言葉も、この二つの言葉に近いと思われま
す。
そうすると、どういう効果があるかと言うと、本当に賜物のある人が、その賜物に合った
リーダーシップを発揮しやすくなるのです。私が牧師だと、私より賜物があり、徳の高い人
がいても、私が邪魔をしなくても、なかなかリーダーとして機能することができません。た
とえば、民さん私が牧師であることを知らないと、普通のおじさんだという印象を持つでし
ょう。しかし、牧師だと知っていると、何かそれらしく見えてくるものです。どんなに霊的
な平信徒でも、この牧師と言うタイトルを持った人を超えるのは大変です。家の教会では、
みんなから同じように尊敬されている人が2-3人いるのが理想的だと思います。その人たち
が、細胞分裂したときの新しいリーダーになっていくのです。
ところで、牧師を辞めるとなると、もちろん給料をもらうわけにはいきません。そこで、
私は教会から給料をもらうのは辞めることにしました。当時、私たち家族は、私たちが見つ
けた中ではホノルルで一番安い3ベッドルームのアパートに住んでいて、非常に貧しい生活
をしていましたので、給料がなくなると、もっと貧しくなるかもしれないと思いました。し
かし、2000年10月にある団体のセミナーの通訳をしたのがきっかけで、その翌年から全てそ
の団体の日本やメインランドのセミナーやコンフェレンスの通訳、またセミナーの教科書の
翻訳を頼まれるようになり、それ以外にもクライアントが増えて、結局経済的には以前より
ずっと祝福されています。また、通訳は時給がいいので、週に15時間くらい働いたので済み
ますから、神様のために働く時間も十分にあります。しかし、私の教団では、家の教会は認
めていますが、主幹牧師のいない教会と言うのはありえませんので、一応名義上は私が牧師
としてとどまることになりました。
そのころ、みんなと一緒に家の教会について勉強していて知ったのですが、1990年代頃か
ら、世界中で家の教会の運動が増えていると言うことがわかりました。中国の家の教会のこ
とは知っていましたが、迫害のない国でも増えています。特に、バプテスト教団は、アメリ
カ国外では、家の教会しか作っていません。私は、日本で何回が家の教会のコンフェレンス
に出ましたが、出席している宣教師のほとんどはバプテストです。バプテストのインターナ
ショナル・ミッション・ボードが出版したチャーチ・プランティング・ムーブメントは、日
本語に訳され、何と5000部も印刷して、無料で配っています。
こうして、2003年末に、教会を三つの家の教会にしました。その後、私たちが知っている
だけでも20以上の家の教会ができました。「私たちが知っているだけでも」と言ったのは、
理由があります。私たちの教会は、日本人や日本で宣教したい人が多いので、日本に帰った
り行ったりする人がたくさんいます。その人たちが、帰った、あるいは行った先々で家の教
会を始めるわけです。家の教会は、そのほとんどが家の教会のネットワークに入っており、
私たちの教会から出て行って作った家の教会の中には、それらの地元のネットワークに入っ
ている教会もたくさんあります。地元のネットワークに入っても、私たちとのつながりを保
つ教会もありますが、そうでない場合もあり、今はどうなっているのか分からない家の教会
もかなりあります。うまく行って、いくつも教会になっているかもしれないし、あるいは失
敗してなくなっているかもしれません。ちなみに、普通の教会なら、牧師を雇って、教会の
建物を確保して、かなりのお金と労力をかけて教会をオープンしてうまく行かなければ大失
敗ですが、家の教会の場合は、数人で始めるわけですから、失敗したところでどうって言う
ことはありません。今のところ、まだ連絡を取り合っている教会は1ダースほどです。それ
らのリーダーたちと、月に二度、一つは英語のリーダーたち、もう一つは日本語リーダーた
ちと言うふうに分けて、スカイプ会議をしています。
ずいぶんラジカルなことをやっていると思うかもしれませんが、日本のバプテストの宣教
師は、もっとラジカルなことを試みています。人が一人救われると、その人を中心にして一
つの家の教会を作るというモデルを今試しています。つまり、人が救われて既存の教会に加
わるのではなく、人が救われると、その人の家族や友人に伝道して新しい教会を作るという
のです。これは、イエス様が70人の弟子を二人ずつ送り出したときに、平安の子を見つけて、
その人の家にとどまって伝道する様に教えたことに基づいています。
さて、家の教会にしたらどういうふうに機能するかと言うことは、最初から分かっていた
こともあれば、分かっていてもやってみて新たに実感したこと、あるいはやって初めて気が
ついたこともあります。まず、お金が余ることです。牧師の給料もないし、礼拝の場所代も
かかりません。新約の教会のように、まず食べるものを食べてから礼拝をしているので、食
費がちょっとかかるくらいです。どうやって集まった献金を使うか、みんなで頭をひねらな
ければなりません。セミナーなどに出たい人はその費用は出しますが、献金の大半が教会の
維持以外のことに使われるようになりました。
次に気がついたことは、ほとんどすることがないということです。週報を書く必要もなけ
れば、説教を作ることもありません。先ほど、通訳の仕事に週15時間くらい使っていると言
いましたが、それ以上に教会の事務的な労働時間がなくなってしまって、職業牧師を辞めて
自営業を始めたにもかかわらず、以前より神様のために使える時間が増えました。もちろん、
他のメンバーも、週末は礼拝の準備のための時間がなくなり、週日にやっていたセルグルー
プもなくなったので、自由な時間が増えました。
以前は、教会に忙しい仕事がたくさんあることは、それなりにいいことだと思っていまし
た。と言うのは、しなければならないことがたくさんあると、どうしても誰かにそれをやっ
てもらわなければならないので、ボランティアする場を信徒に提供することになると思って
いたからです。しかし、今は考えが変わりました。礼拝のために椅子を並べたり、週報を印
刷して折ったりする作業は、別にクリスチャンでなくてもできます。確かにそれらのことは
教会のためにはなっているかもしれませんが、もっと大切なことをする時間を信徒から奪っ
ていると思うのです。それ以上に、信徒は、そういう機械でもできるような仕事をしている
だけで、自分は神に仕えていると言う錯覚に陥りますが、神様が私たちに本当に望んでいら
っしゃることは、そんなことではなく、信仰がなければできないようなチャレンジのある奉
仕だと思うのです。
時間とお金が余ることで大切なことは、これで教会生活が楽になったと喜んでいたのでは
何にもならないと言うことです。今まで、教会の維持だけでも大変だったのですが、できた
余裕を神様のためにどのように使うか、それを真剣に考えなければなりません。特に、今ま
で牧師だった私にとっては、これは結構大変です。フルタイムの仕事にでも就いていれば、
それだけで結構忙しくてそれほど悩まなかったかもしれませんが、余った時間をどう使うこ
とを神が望んでいらっしゃるか、その御旨を求めることはいまだに良くできていません。
長男がマッキンリー高校で教師をしていますので、そこでボランティアをしたりもしまし
た。次男は、IHSと言うホームレス・シェルターで働いていますので、今は、そこのチャッ
プレンになるかと言う話がありますが、これもどうなるかはよくわかりません。7月はNMの
山火事で家をなくした人のケアのためにボランティアをしてきました。年末は、家族でタイ
に短期でボランティアをしに行くことになっています。しかし、正直言って、何をしたら良
いのかよく分からないことの方が多いです。
ちなみに、これはVIPの集会で、ビジネスマンが多いと思いますので、ついでに話してお
きますが、家の教会は、家だけじゃなく、職場でもするべきだと思っています。新約聖書の
時代は、交通の手段がありませんでしたので、仕事で接する人も、家族で接する人も、みん
な歩ける範囲内に住んでいました。ですから、友達、学校、職場での付き合いがはっきりと
区分されると言うことは、今ほどはなかったと思います。しかし、今は職場の人と家族ぐる
みでつきあいをすることはほとんどないと思いますし、職場で伝道するときは、家の教会に
連れてくるのもいいですが、職場自体で教会を始めると言うのも、一つの方法だと思います。
職場の教会、あるいは一つのビルで働いている人のための教会と言うのが、実際にできてい
ます。学校も同じで、キャンパス・クルセードなどは、まるでそれ自体が教会であるかのよ
うに機能していると思います。会衆サイズの教会にすれば大変ですが、数人単位でやれば、
集会の時間以外、時間を取られることはほとんどありません。
話を元に戻しますが、とにかく、何か奉仕をしたければ、教会にすることがいくらでもあ
るということはなくなりましたので、一人ひとりが個人的に神様と直結してこの問題に取り
組むことが必要になります。献金の使い方についても同じことで、教会の外に目を向けなけ
ればなりません。
ここで、キリスト教のごく基本的なことを確認しておきますが、多くのクリスチャンは、
教会のことをまるで自分を守ってくれる砦のように考えています。つまり、教会がサタンの
攻撃から私たちを守ると言う考えです。確かにサタンの攻撃と言うものはありますし、教会
は私たちをそれから守ってくれます。しかし、教会とサタンの基本的な構図は、マタイの16
章に書かれています。16:18 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門
もそれには打ち勝てません。」
門は守るためにあります。これを見ても分かるように、教会がハデス、つまりサタンの国
を攻撃していて、ハデスの門は、その攻撃から悪の国を守ることはできないと言っているの
です。主の祈りに「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ
ますように。」とありますが、そこに住んでいる市民が神の御心を行うのが神の国であり、
逆に、神の御心によって支配されていないところがハデスなのです。私たちは、神の国で守
られていればそれでいいのではなく、ハデスに攻めて行って、神の御旨がなるように神の国
を広めなければなりません。言い換えると、教会でのほほんとしていたのではだめで、世の
中に出て行って、そこで神の御心がなるようにしていかなければいけないと言うことなので
す。聖書は、クリスチャンを神の兵士に例えていますが、兵士を守ってその面倒ばかり見て
いる軍隊などと言うものがありえるでしょうか。兵士は、戦うためにあるのです。
話を元に戻しますが、家の教会の礼拝が実際にどのように機能するかについて、少しお話
しましょう。先ほどの1コリ14:26にも書いてあったように、家の教会では、基本的に全て
の人が積極的に参加します。基本的には、人の話を聞いているだけと言うことはありません。
ただし、セルグループとも違います。セルグループと言ってもいろいろあって、その目的も
まちまちですが、多くの場合、セルグループの目的は、そこに集まっている人のケアだと思
います。セルグループを、ケアグループと呼んでいる教会もあるくらいです。
ケアをすることは必要ですし、悪いことではもちろんないのですが、家の教会の目的は、
それ以上のものです。今までの話で分かるように、教会の維持よりも、神の国の拡大のため
にこのような形を取っているわけですから、メンバーのケアが第一の目的ではありません。
パウロの、「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
」と言う言葉は、ただケアを
受けるだけでなく、クリスチャンとしてより成熟することが強調されており、徳が高められ
ることの一つの結果は、私たちの使命である大宣教命令に従うことにつながるのです。
こういう話をしていると、家の教会と言うものが、何か素晴らしいもののように思えてく
るかもしれませんが、特定の家の教会が良いか悪いかは、その教会のメンバー次第です。形
さえ整えば、それでいい教会になるなどと言うことはないのです。それはまるでガソリンの
入ってない車のようなものです。
でも、普通の教会とちょっと異なる点があります。成長していない、多くの問題を抱えて
いる教会でも、賛美チームが上手で、牧師の説教さえ良ければ、礼拝だけはまともにするこ
とができます。信徒が成長していない教会でも、教会としての形だけは成り立って行くので
す。しかし、家の教会で、大多数の信徒が成長していなければ、その礼拝は惨めです。全員
が貢献するということは、逆に、ほとんどの人に貢献できるものが何もなければ、本当につ
まらない礼拝になります。それが理由で、人が集まっているのにいったん家の教会をつぶし
て、やり直すこともよくあります。
数年前まで、アメリカでたぶん最も注目されていたウィロークリークと言う教会が、レヴ
ェレイションと言う本を出しました。Revelationと言う言葉は、特に教会では啓示と言うよ
うな意味でも使われますが、この場合は暴露、意外な新事実、実態と言うような意味です。
この急成長をした大教会は、この教会では弟子が育っていないということを自ら暴露したの
です。シーカー・フレンドリー(求道者向き)で有名だった教会ですが、今までしてきたこ
とが間違っていたということを、勇気を持って告白したのです。弟子が育っていない教会で
も、外見上は普通の教会以上に整っていましたが、家の教会では、それはすぐにばれてしま
います。
ということは、自分の教会が良い教会であるかどうかは自分たち次第と言うことで、自分
はいい教会に行きたいと言う考えは、その発想自体がおかしいと言うことになります。店に
買い物に行ったり、映画を見に行ったりするのではないのです。自分のニーズを満たすだけ
のために行くのであればそれでいいですが、教会は自分が人の徳を高め、また高められるた
めに行くところです。自分の家族を選ぶことができないように、家の教会も家族のようなも
ので、本来、良いとか悪いとか、好き嫌いで決めるようなものではありません。もちろん、
神の導きで、止めて他の教会に移る事はあるでしょう。しかし、みんなが自分の好きな教会
をそれぞれ選ぶと言う考えには、自分がその教会の恩恵を受ける側にあるという大前提があ
るのではないでしょうか。教会は、自分が祝福されるために行くところではありません。
最後に、たとえばの話ですが、皆さんの中には、礼拝のときに異言でしゃべったりするべ
きではないと思っている人もいれば、そうするべきだと思っている人もいます。どちらも正
しいと言うことはないのです。話すべきであれば、話すべきでないと言う考えは間違いです
し、その逆もまたしかりです。しかし、どちらを信じていても、私たちは皆クリスチャンで
すから、兄弟姉妹ですし、考えていることが違うからと言って敵対することはありません。
それは家の教会に関しても同じで、私のようにそれが聖書的な教会だと思っている人もいれ
ば、反対する人もいます。考えは違っても、みんなクリスチャンですから、喧嘩する必要は
ありません。
しかし、みんなで仲良くするために、異言で話しても話さなくても、どちらでもいいこと
にしようと言うのは変です。教会のあり方も同じで、みんないろいろ違った考え方を持って
います。みんなの考えが違うと言うことはそれでいいのです。だからと言って、どの考え方
も正しいということではありません。私が神学校で牧会学を勉強したときには、いろいろな
考えがあって好きなものを選びなさいなどとは教えられませんでした。私がホープ・チャペ
ルでモーア牧師から訓練を受けていたとき、彼は彼の牧師としての哲学のようなものを教え
てくれましたが、彼は、彼の好みを彼の弟子たちに教えていたのではないのです。自分が聖
書の真理だと確信することを教えてくれたのです。もちろん彼も人間ですから、彼の教えた
こと全てが正しいとは誰も思っていませんし、私も、彼の元を巣立ってから17年経った今、
彼とは違う考えを幾つか持っています。ただ、何でもよいと言う考えの根底には、結局は自
分の好み次第だと言う自分中心の考えがあるにではないでしょうか。神が聖書を通して教え
られたことに従っていくと言う決断は、好みやスタイルの問題ではないのです。