全文 - 経済学史学会

D. スチュアートの過剰人口論*
―アダム・スミスの中国論との比較を通じて―
荒 井 智 行
I は じ め に
デュガルド・スチュアート(Dugald Stewart, 1753―1828)は,1800 年にエディンバラ大学で経
済学の独立講義を行った.この講義の内容は,19 世紀半ばのスコットランドの道徳哲学者であ
るウィリアム・ハミルトン(William Hamilton, 1788―1856)が編集した『政治経済学講義』(以下,
『講義』と略記)によって知ることができる.この『講義』は,
「人口」,
「国富」,
「救貧」,
「教育」
の 4 つの編によって構成されている.これらのうち,本稿で取り扱う『講義』第 1 編「人口につ
いて」は,同書全体のおよそ 3 割を占めている.その分量の多さから見ても,彼にとって人口が
重要な主題であったことが伺える.
その背景には,18 世紀末以降に 2 度の大凶作を経験したブリテンの深刻な貧困問題があった.
もし,人口の増加が人々の生活資料を生産する大地の力を上回っているならば,よりいっそうの
食糧供給が必要とされなければならない.スチュアートがそのように考えたのは,1798 年に出
『人口論』初版からの影響であった.スチュ
版されたマルサス(Thomas Robert Malthus, 1766―1834)
アートは,食料の増加よりも人口の増加が上回ると主張するマルサスの人口法則に同意し(Stewart[1800―1810]1994[以下,Works と略記]vol. VIII[以下 vol. は省略し巻号のみを示す],64),
貧困の原因が人口の増大にあることを強く認識するのである.
しかし,スチュアートの人口論を詳細に検討してみると,彼は人口の問題を必ずしも単に経済
問題としてのみ捉えているわけではないことが知られる.むしろ彼の人口論では,未開と文明と
の対比を念頭に置きながら,中国の過剰人口の問題について論じられている.すなわち,過剰人
口の問題を抱える中国=未開国と,経済的繁栄を享受するブリテン=文明とが比較・検討される
のである.ただし,このことは,スチュアートにおいて,ブリテンには貧困問題が存在しなかっ
*
本稿は,日本学術振興会「科学研究費補助金(若手研究(B),課題番号:26780130」による研究成果の一
部である.ここに記して感謝申し上げる.また,本稿の作成にあたって,経済学史学会大会(於関西大学,
2013 年 5 月 25 日)および日本イギリス哲学会関東部会(於慶應義塾大学,2014 年 7 月 26 日)での拙報
告において,参加者から貴重な御意見を多く頂いたことに,この場を借りて深くお礼申し上げる.
『経済学史研究』57 巻 1 号,2015 年.Ⓒ 経済学史学会.
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たということを意味しない.例えば,
『講義』第 2 編「国富について」では,ブリテンの都市に
おける孤児や極貧の子供たちの増加について言及されている(Works VIII, 187―88).また,第 3
編「貧民について」では,マルサス『人口論』や救貧法による貧民の増加と食糧価格の上昇につ
いて論じたハウレット(John Howlett, 1731―1804)の研究が取り上げられながら,ブリテンの人
口増加に伴う貧困が問題にされている(Works IX, 278―84).これらの点に見られるように,スチュ
アートは,文明社会であるブリテンにおいても深刻な貧困問題があることを認めている.
だが,スチュアートは,ブリテンの人口が過剰であるという認識をほとんど持っていなかった.
彼は,『講義』の中で,近年のブリテンの人口増加について論じる場合に,過剰人口という言葉
をほとんど用いていないように,ブリテンの人口の急増を過剰人口という言葉に置き換えること
はなかった.それは,本稿で見るように,中国の人口と比べれば,1800 年前後において,およ
そ 1000 万人程度と考えられていたブリテンの人口は決して巨大ではないと考えられたからで
あった1).スチュアートが,過剰人口という言葉を意識的に使い分けていたとすれば,彼にとって,
過剰人口は,人口の増加といった概念とは異なる特別の意味を持つ言葉とみなされていたと考え
られる.次節では,スチュアートの人口論において,なぜ中国の過剰人口が重要テーマとされて
いるのかを,見ていくことにする.
II 『講義』と『学生ノート』における「人口」
1. ハミルトンによる『講義』の編集
スチュアートの中国の過剰人口論を考察するに当たって,前もって指摘しておかなければなら
ない点がある.それは,『講義』が必ずしも厳密な意味で秩序立てられ論理立てて論じられてい
るわけではないという点である.同書は,1828 年にスチュアートが死去した後の 1855 年に,19
世紀半ばのスコットランドを代表とする道徳哲学者であるウィリアム・ハミルトンが編集し出版
したものである.
編者のハミルトンは次のように述べている.スチュアートが,最終的には政治経済学講義を出
版する意図を持っていたことは確かであるように思われる.彼は,後半の人生において,その講
義内容を修正・拡充し,講義の項目の配列を変更していた.だが,彼がこれらの修正を最終的に
完了させたかどうかは定かではない(Works VIII, vii).スチュアートが(1810 年のエディンバラ
大学の)退職時に作り直した講義ノートは,その大部分が彼の息子であるスチュアート大佐(Col.
Matthew Stewart, 1784―1851)によって焼失されてしまったからである(Works VIII, x-xi).しかし,
その焼失から免れたその他の原稿は,元の講義ノートのままの状態として残っていた.それらの
原稿は,主に 19 世紀初頭に書かれたものから構成され,スチュアートの最終講義の 1809 年度ま
1) なお,スチュアートが,1800 年前後のブリテンの正確な人口の数に強い関心を払っていた点については
(Works VIII, 243―46, Works IX, 125―26)を参照.
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で時折書き入れられたように,加筆・修正されている.そうした点から,ハミルトンは,大量の
スチュアートの原稿が焼失されたことは残念だとしつつも,講義を再構成するには現存するノー
トで十分であると述べている(Works VIII, viii).
それでは,『講義』はいかに編集されたのであろうか.ハミルトンは,『講義』の編集を説明す
る前に予め断って述べているように(Works VIII, xi-xii),スチュアートが,もともとの講義では
述べなかった 3 つの項目,すなわち「序論」,「付録」,「第 2 部」を『講義』の中に入れている.
以下では,それらの項目が『講義』の中に加えられた理由について簡単に見ていくことにする.
ハミルトンは,『講義』を 2 巻に分けて出版したが,その 1 巻目(『著作集』第 8 巻)に,実際
の講義の内容にはなかった「序論」と,「付録」の「地金報告書に関する覚書」論文を加えてい
る(Works VIII, xi).これらのうち,「序論」は,本来は『著作集』第 1 巻の「ヨーロッパの文芸
復興以来の形而上学,倫理学,ならびに政治学の発展に関する全般的展望」論文の第 3 部「18
世紀の倫理学と政治学の発展」に入るべき内容であった.だが,ハミルトンは,その第 3 部の一
部の内容が,スチュアートの娘のマリア・ダーシー・スチュアート(Maria D Arcy Stewart, 1793―
1838)が書き写したスチュアートの講義の目次録の内容(Works VIII, xii-xvi)に一致するとして,
もともと第 3 部に入るべきその内容を『講義』の「序論」に入れたのである(Works VIII, 8. f.n.).
なお,彼女によれば,「この講義の目次録は,スチュアートが,亡くなる最後の 4 年もの間,そ
れ以前の原稿を基にしてかなりの変更と加筆を行った」と言う(Works VIII, xvi).
一方,「序論」と同じく『講義』第 1 巻(『著作集』第 8 巻)に所収された「地金報告書に関す
る覚書」論文とは,ハミルトンが,1811 年の 2,3,4 月におけるスチュアートからローダーデ
『講義』
イル(James Maitland Lauderdale, 1759―1839)に宛てた書簡のことである.ハミルトンは,
にこの「付録」を加えた理由について詳しく述べていない.だが,これもおそらくは,上述の目
次録の中に同書簡の目次が記されていることから(Works VIII, xv),同書簡が『講義』の中に入
るべきものと判断されたものと思われる.
『講義』の 2 巻目(『著作集』第 9 巻)には,第 4 編「下層階級の教育について」の後で,第 2
部「政治学プロパー,あるいは政府の理論について」という項が,ハミルトンの手によって加え
られている.ハミルトンは,『講義』の中にこの項を入れることはスチュアートの意図した講義
の順序に従っていないと述べつつも(Works IX, 351. f.n.),政府の理論よりも政治経済学の原理を
先に示す方が良いと判断したのである(Works VIII, 21).また,ハミルトンは,上述の目次録に
政治の項目があることや(Works VIII, xii),スチュアートの道徳哲学講義の中で政治学が論じら
れた点を重く見て,この第 2 部を『講義』に入れたのであった.
ハミルトンは,
『講義』の編集において,スチュアート自身の講義ノートを基にして,
(1)スチュ
アートの講義を聴講したジェームズ・ブリッジズ(James Bridges, n.d.)とジョン・ダウ(John
Dow, n.d.)との共作による講義ノートと(2)ジェイムズ・ボナー(James Bonar, 1757―1821)に
よる講義ノートを主に利用している2).
ハミルトンは,(1)と(2)のノートについて次のように述べている.(1)のノートは,速記
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で書かれた後で清書されたものである.その共作によるノートとスチュアートの手書き草稿との
比較により分かったことは,両方とも,きわめて内容が豊富で正確に対応しており,両書物の中
で述べられている言葉がかなり一致していたことであった.なお,このノートは全 5 巻から構成
され,ブリッジズがそれをハミルトンに送付したものである(Works VIII, xxi).(2)のノートは,
(それとスチュアートの手書き草稿とを比較して)(1)のノートほど,分量が多くなく明確に対
応していないように,彼の講義を速記で取らずに書かれたように思われる.ハミルトンはこのよ
うに述べた後で,それらの講義ノートが,スチュアートの最終講義に従って記されているように,
彼の講義プランを満たしている限りにおいて,『講義』の編集において,それらのノートの利用
は望ましいと述べている(Works VIII, xxi).特に,(1)のノートは,「スチュアートの実際の講
義で述べた意見を十分かつ忠実に書き留めている」ため,講義の内容の不足を補ううえで,問題
なく利用可能と言う.それぞれのノートにおいて大いに利用したのは,「労働」,「貨幣」,「交易」
に関する章である.また,「貧民の維持」と「教育」に関して編集に有用となる全体の内容が,
同じ出典元から示されているように(Works VIII, xxi-xxii)
,それらの講義ノートは正確性に問題
はないとしている.
だが,ハミルトンによれば,(1)のノートは,上述したように講義の全容を示すうえで完成度
の高いものであるが,スチュアートによって取り上げられた非常に多くの引用は,その大部分が
明瞭に記されていない.これに対して,(2)のノートは,引用文の箇所を明確に示してある.し
たがって,(2)のノートは,(1)のノートのそうした欠陥部分を補ううえで大いに役立ったと言
う(Works VIII, xxi-xxii).
これらの内容から,ハミルトンは,スチュアート自身の講義ノートを基にして,(1)と(2)
の双方のノートを上手く利用しながら『講義』を編集したことが分かる.筆者は,スチュアート
自身の講義ノートも含めて,
(1)と(2)のノートの調査にまで及んでいないため,現段階では『講
義』の編集の正確性について論じることはできない.それらのノートの比較を通じて『講義』の
正確性について考察することは今後の課題である.
2. 『学生ノート』の「人口」
本稿では,前節で述べた講義ノートを参照せずに,1808 年にスチュアートの講義を聴講した
ジョン・ダウによる「講義ノート」(エディンバラ大学図書館に所蔵され,全 3 巻から成る.以下,
『学生ノート』と略記)を利用している.この『学生ノート』は,上述したハミルトンの説明に
よる『講義』の編集に利用されたノートの中に該当しないため,『学生ノート』の信頼性につい
ては検討の余地が残されている.本稿は,そうした文献学的な説明の根拠を欠いていることを予
めお断りしておきたい.以下では,『講義』と『学生ノート』との比較に限定して,両書物の違
2)『講義』が出版されるまでの詳しい経緯については,Works VIII(vii-xxiii)を参照.以下で示すダウ,ブ
リッジズ,ボナーの人物紹介については,Bibliotheca Britannica([1824]1995, I, 131, 150, 315)を参照.
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いについて言及することにしたい.
『講義』と『学生ノート』を比較して,『講義』が『学生ノート』から一字一句正確に書き写さ
れていないことは確かである.両書物において,細かな違いが散見されるからである.例えば,
『学
生ノート』において,ネッケル(Jacques Necker, 1732―1804)によって示される 1780 年のフラン
スの 818 万 419 人の人口の値は,ハミルトン版『講義』には記されていない(Stewart 1808―
1809 b[以下,Note と略記]I, 190).すなわちハミルトンは,『学生ノート』から一字一句正確
に写し取りながら『講義』を編集したわけではないのである.ただし,管見では,
『講義』と『学
生ノート』には,こうした違いが比較的多く見られるが,両書物の内容に大きな矛盾点はないと
いってよい.
しかし,『学生ノート』には記されている内容が『講義』において大幅に省略されている箇所
がある.それが,中国の過剰人口に関する記述である3).『講義』では,人口増加によって食料
が尽き人々が窮乏化している中国の過剰人口の問題を指摘するにとどまっているのに対し,『学
生ノート』では,この点についてさらに詳しい考察が加えられている.これは,両書物の全体を
比較したうちで,『講義』の中で『学生ノート』の記述が欠落している部分の中でも分量の多い
箇所であった.
『講義』において,なぜそのような省略がなされたのかは不明である.『講義』には,初年度の
講義計画について記されている「1800―1801 年冬の講義計画」の目次が記されている.その中で,
「付録」という章の中に「中国の人口」という項が存在する.そこには,「過剰人口による人口増
加の危険性」というサブタイトルがつけられている.しかし,『講義』の目次には,それらの項
目を見出すことができない.ハミルトンが,スチュアートがこの「講義計画」の中で記した中国
の過剰人口の目次や記述を省略したためである.この点の省略のハミルトンの真意は定かではな
いが,このことは,その多くが省略された中国の人口について論じたスチュアートの『講義』第
1 編「人口」の内容の正確な解釈を歪めるものと言わざるをえない.いかなる理由があるにせよ,
スチュアートの初年度の「講義計画」の目次から,中国の過剰人口に注意が払われていたのは事
実だからである.
にもかかわらず,スチュアートの人口論について論じたこれまでの内外の研究では,スチュアー
トが中国の過剰人口を問題視していた事実のみならず,彼の過剰人口論の特徴さえ示されてこな
かった.これに対して,本稿では,スチュアートの中国の過剰人口論の持つ独自の特徴を示すた
めに,『学生ノート』や『講義』の考察に加えて,アダム・スミス(Adam Smith, 1723―90)の中
国論との比較を通じて検討する.ここでは,スミスとスチュアートの中国論の違いには何が関係
しているのかについても探究する.そして,スチュアートの中国観には,彼の歴史観,すなわち
「理論的推測的歴史」の考えといかに関連しているのかについても検討を加える.以上の考察を
3)『学生ノート』における中国の過剰人口論の記述(Note I, 195―203)は,
『講義』第 1 編「人口について」
の最終部分の箇所(Works VIII, 252)の後(第 2 編「国富について」に入る前)に該当する.
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通じて,スチュアートが中国の過剰人口の検討から何を示そうとし,それが彼の文明対野蛮観と
いかに関係しているのかを明らかにすることにしたい.
III 過 剰 人 口
ウィリアム・ハミルトンが,マルサス『人口論』初版はスチュアート氏に大きな衝撃を与えた
と述べているように(Works VIII, f.n. 203),スチュアートが人口の増加についてもっとも強く影
響を受けた人物はマルサスであった.スチュアートは,マルサスの『人口論』において,
「地球は,
かなり近いうちに住民たちで溢れ,やがておびただしい数の窮乏の光景になるだろう」と論じら
れている点を深刻に捉えている(Works VIII, 203).とはいえ,スチュアートは,過剰人口を,マ
ルサス『人口論』のみを参考にして問題にしているわけではなかった.以下で見るように,スチュ
アートは,自らの問題関心として中国の過剰人口に特別の注意を払っていたからである.彼は,
アメリカや中南米の国々においても人口が著しく増加している事実を確認しているが,人口の増
加と貧困が特に深刻な問題に至っているのは中国であると考えていた4).
スチュアートが中国について詳しく論じたのは,それまでのブリテンにおいて正確な文献がほ
とんどなかった中国に関する有益な重要文献を参照することができたからである.その重要文献
の 1 つには,1797 年に,サー・ジョージ・ストーントン(Sir George Staunton, 1737―1801)が中
国の観察に基づいて執筆した 2 分冊の大冊,『グレート・ブリテン国王による中国皇帝への使節
団の正式報告』(以下,『報告』と略記)があげられる.1792 年 9 月にブリテンは,中国と正式
な外交関係を樹立し貿易の拡大を図るために,マカートニー使節団を北京に派遣した5).その外
交使節団の副使の一人がストーントンであった.同書では,ブリテンと中国までの往復の航海や
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロや喜望峰の寄港地の説明に多くの頁が割かれているが,彼が滞
在先の中国で見聞した人々の生活や暮らしについての事実が客観的に記されている.そのため,
中国に関する正確で有益な情報を得られるとして,1810 年 8 月に発行された『エディンバラ・
レヴュー』や『マンスリー・レヴュー』のほか,1803 年に刊行された第 2 版以降のマルサス『人
口論』等からも高く評価されていた(Staunton[1856]2010, 48―51, Malthus[1803]1996, 145 / 訳
(一)223).
そうした『報告』への国内の高い評価を背景に,スチュアートがストーントンの『報告』から
4) スチュアートは中国と同様にインドも貧困問題が深刻であると考えていた.しかし,インドの過剰人口
の問題については,『学生ノート』と『講義』において十分に論じられていないため,本稿ではこれを
省略している.
5) 19 世紀初頭のブリテンは,中国と対外貿易をまったくしていないわけではなかった.18 世紀から 19 世
紀前半にかけて,ブリテンの私的な商人や東インド会社等を通じて,ブリテンと中国との貿易取引が行
われていた.しかし,中国では広東に貿易港がある程度で,ブリテンとの貿易取引はわずかにすぎなかっ
た.この点の詳しい説明については,Staunton([1822]2012, 126―77),Greenberg(1951, 7―13),Marshall and Willimas(1982, 80―82 / 訳 122―25),Berg(2005, 72-93)を参照.
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特に注意を払ったのは,中国の過剰人口であった.スチュアートは,ストーントンの『報告』を
参考にして,世界人口が 10 億人であるのに対して,中国の人口が,3 億 3000 万人であると推定
している.世界人口のおよそ 3 分の 1 を占める中国の人口は,西欧やロシアの人口と比較しても,
あまりにも多いという認識を示している(Note I, 190―96).そして,3 億人を優に擁する中国人
全てが決して裕福ではなく,中国において「周期的飢饉や乳幼児の遺棄」によって貧困が増大し
ていると見ている(Note I, 195―96).スチュアートは,中国における過剰人口の原因の大きな 1
つとして,親による捨て子の習慣をあげている.彼によれば,中国の捨て子の習慣は,それを認
める制度によって,必要以上の人口を強引にも推し進めてきた.このことが悲観的に捉えられて
いるのは,こうした人口の過剰によって,飢饉が生じる度に食糧不足による「窮乏」によって,
それ相当の数の人々が現に亡くなっているからである(Works VIII, 200).スチュアートの『道徳
哲学講義』に見られるように,「窮状(miseries)」という言葉は,「苦痛の感情(a painful emotion)」と考えられているように(Stewart 1808―1809 a, II, 46),窮乏化している人々を決して無視
することができなかったのである.
スチュアートが中国の過剰人口において特に懸念したのは,中国が製造業の発展によって労働
需要をたとえ増加させたとしても,労働賃金も高まるかどうか,また,こうした桁外れの人口を
もつ中国「帝国」において,「窮乏」状態に置かれている無数の人々に対して,「生存」を確保す
るための「救済」が実際に行き渡るかどうかということであった.スチュアートは,中国が対外
貿易を広範に行い,粗野な原料を輸出したとしても,それと引き換えに輸入される食糧等の必需
品は,ほとんどその場限りの生活の必要を満たすにすぎないと述べている(Note I, 198).輸入し
た穀物等の必需品が労働維持基金に何も加えないからである.スチュアートは,その根拠として,
シェフィールド卿(Lord Sheffield, 1735―1821)の小冊子を取り上げ,その中で,イングランドで
最大の穀類を輸入したどの年においても,その輸入した穀類は 40 日間しかもたず,それもその間,
人口の 3 分の 2 しか満たすことができなかった,という例をあげている.同様の観点から,中国
においても,農業がたとえ十分に発展したとしても同じような事態が生じると指摘する.スチュ
アートは,スミスの労働維持基金説に従って,「労働が維持される基金」こそが人々の生存を守
るとし(Note I, 196),その基金を増やすことが重要であると述べている.
スミスの労働維持基金説は,
『国富論』第 1 編第 8 章「労働の賃金について」の中で説明されて
いる.スミスは,労働の賃金を実際の率以上に上昇させまいとする雇い主の団結力がいかに強く
ても,「最低の種類の労働の賃金でさえ,多少とも長期にわたってそれ以下に引き下げておくこ
とは不可能だと思われる一定の率がある」(Smith[1776]1976[以下,WN と略記]I, 85 / 訳(一)
124)とし,人は,自らの生活を維持するに足りるだけの賃金がなければ,
「家族を養育できないだ
ろうし,職人たちの層は一代限りになってしまうだろう」と述べている.すなわち,賃金が人々の
生活を維持するだけの最低限の率を長期的に下回ることがあれば,労働人口が減少し,その人口
はやがて資本の必要に応じえなくなると言うのである.スミスが『国富論』第 8 章の中で労働維
持基金説を説明しようとしたのは,こうした賃金の自然率がその最低率を上回るか,下回るか,そ
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れとも一致するかは,その社会の全労働需要の持続的動向に依存していることを明らかにするた
めであった(羽鳥 1990, 120―21).周知のように,スミスは生産的労働者の維持に使用される基金
の大きさを重く見ている(WN I, 335 / 訳(二)117).彼によれば,中国では,かつて耕作された
土地はどこも放置されておらず,農業労働が年々行われているに違いないため,この労働維持基
金は目立って減少していないと言う(WN I, 90 / 訳(一)131).
だが,スチュアートは,中国ではこの労働維持基金を維持できないと見る6).そのように考え
たのは,上で「中国の莫大な人口」と述べられているように,中国の過剰人口を重く受け止めて
いたからにほかならない.スチュアートは,3 億人以上の中国の人口を維持するだけの農業生産
力が見込まれることについて懐疑的に見ている.たしかに,彼は,
『学生ノート』の中で,ストー
ントンの『報告』を参照し,中国では,川や湖,運河に橋を架け,野菜の耕作地を広げるととも
に輸送手段が拡大していると述べている.そして,このような水の利用は,農業の拡大のために
向けられていると主張する.スチュアートは,中国におけるこうした水の整備を「水道システム
(the system of water)」と呼び,その利点について,ストーントンの説明よりも良いものはないと
述べている(Note I, 198).
しかし,スチュアートは,そうしたストーントンの説明に全面的に依拠していたわけではなかっ
た.ストーントンと同じマカートニー使節団の副使であったジョン・バロー(Sir John Barrow,
1764―1848)の『中国旅行記』が 1804 年に出版されるやいなや,スチュアートは,中国の農業
の主題に関して,ストーントンよりもバローの説明の方がより正確であると考えるようになった
からである(Note I, 200).スチュアートは,バローの『中国旅行記』の中で,中国には豊饒な土
地が広大にある地域が多く存在するが,イングランド人と比べて,100 エーカーもの広大な土地
を耕す技術はないと記されている箇所を取り上げている(Note I, 201).この点を重く見たスチュ
アートは,中国の農業生産の技術や農業形態が改善されるならば,過剰人口の問題が容易に解決
するとは考えなかった.彼は,『講義』第 1 編「人口について」の中で,大農場と小農場とを比
較し,大農場では生産性が著しく高いとして大農場経営の効果に注目している(Works VIII, 124―
31).だが,『講義』や『学生ノート』において,中国について論じる中で,こうした大農場を中
国に推奨するような議論は見られない.それは,中国の過剰人口が,大農場による農業生産力の
拡大といった経済的手法では解決できないと考えられたからであった.さらに,スチュアートは,
中国の過剰人口は人々の成育の面でも望ましくないと考えていた.
人類のこれほど大きな部分の間で,人間性(the human character)がこのように絶望的な
退廃の状態に固定されているのを考えると,何と憂鬱なことだろうか.また,不自然な制
6) たしかに,スチュアートは,『講義』の中でも,スミスが労働維持基金説の実際の例として用いた北ア
メリカや中国を取り上げているように(Works VIII, 237),スミスの労働維持基金説から影響を受けてい
たことが見受けられる.ただし,ここで,地主の地代収入の増加が商品に対する需要を増加させ,国富
を増加させるとしたマルサスのように,スミスの労働維持基金説を進展させる議論の展開は見られない.
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
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度・生活様式の影響によって,社会の進歩が国内において完全に阻止されている一方で,
国外からの改善の可能性は,他国民との交流だけからしか得ることができない知識の伝達
を中国人にほとんどさせない法律によって閉ざされているのを考えると,何と憂鬱なこと
だろうか7).
(Note I, 196)
上の引用文の中で注意を払うべき点は,過剰人口や自由貿易を妨げる不自然な法律や制度は,経
済的な損害だけでなく,中国の人々の人間形成や社会の進歩をも妨げているということである.
上の引用文に見られる「不自然な生活様式」とは,その例の 1 つとして,
『学生ノート』の中で
問題視されている,中国における親による捨て子の習慣があげられる.スチュアートにおいて,
中国における子供の遺棄行為は,人口の増加を無理やり促進させることから,飢饉の際に多数の
死者を生じさせる元凶とみなされていた.バローの『中国旅行記』の中でも,飢饉や凶作時に何
千人もの中国国民が食糧不足から飢死している事実が詳細に記されている(Barrow[1804]2010,
396―401).同書を高く評価したスチュアートは,こうした事実を根拠にして,中国社会を悲観
的に捉えざるをえなかった.
これらの点から,スチュアートは中国の過剰人口を問題にした.だが,この問題が中国以外の
諸外国にも当てはまるとはみなさなかった.彼は,『学生ノート』の中で,中国の過剰人口につ
いて,「人類史上における極端な例」であると主張している(Note I, 200)8).「またそれゆえに,
中国の例から人類の一般的な状態へと論じることは公平ではない」(Note I, 200)と述べているよ
うに,中国の過剰人口を特殊な例であると見ている9).
7) この引用文の原文は以下の通りである.
How melancholy the reflection that among so large a proportion of the species the human character should be fixed
in a state of such hopeless degradation, & that by the influence of unnatural institutions & manners the progress of
society should be effectually checked at home, while the impossibility of improvement from abroad is counteracted
by those laws which prevent the Chinese in so great a degree from the communication of those lights which are to
be derived from intercourse with other nations alone(Note I, 196).
なお,上の原文に見られる impossibility は,そのままでは意味が通らないため,聴講者のダウが impossibility を possibility と誤ってノートを取ったと考えられる.したがって,本文では該当箇所を possibility
として訳した.この点について,査読者から大変有益な御意見を頂いたことに感謝申し上げる.
8) スチュアートは,『学生ノート』の人口の項において,中国の特殊な人口のみを論じているのではない.
彼は,穀物が育たない不毛な牧草地を持つ土地であるとして,オランダの特殊な地形や国土についても
言及している(Note I, 202).
9) スチュアートがこのように中国を例外的とみなす議論は,ヒュームにも見られる.ヒュームは,中国が
君主制であり,自由な政体を築き上げることは不可能であると述べている.そしてその理由を「中国の
置かれている状況の特殊性」に求めている.すなわち,中国では,タタール人を除けば隣国からの攻撃
を受けることがないほか,巨大な人口等により国の安全の確保を可能にしたという特殊性である(Hume
[1752]1994, 66 / 訳 118).こうした中国の例外性を主張するヒュームの中国論がスチュアートに影響を
与えたかどうかは定かではない.だが,中国を論じるヒュームの論述の中で「不可能」や「特殊性」と
いう用語に注意を払うならば,それにほぼ等しい用語を用いたスチュアートの中国の議論には,ヒュー
ムとの共通点が見受けられる.
82
経済学史研究 57 巻 1 号
これに対して,スチュアートは,近い将来において,ブリテンでそのような過剰人口が生じる
とは考えていない.『学生ノート』では,中国の過剰人口に関する論述の後で,ブリテンの農業
や製造業の優越性が論じられている.そこでは,ブリテンでは,農業資源が豊富にある利点から,
農業生産が拡大し続けており,また,製造業においても勤労が促進され,その事業の企ても進行
していると言う(Note I, 203).冒頭で触れたように,スチュアートは,ブリテンの目下の貧困問
題を重く見ている.だが,V 節で見るように,ブリテンが今後,労働維持基金によって人口を維
持しながら経済発展を遂げるならば,中国のような過剰人口の問題は生じえない.こうした点か
ら,スチュアートは,ブリテンでは,中国とは異なり,農業および製造業がいっそう発展し,さ
らなる国際的な交易の交流を通じて経済的繁栄がもたらされる点を前向きに見るのである.すな
わち,スチュアートは,中国の過剰人口の検討を通じて,それとの対比でブリテンの経済発展へ
の確かな道のりを確認するのである.
IV スミスの中国論との比較
前節で示したスチュアートの中国論のいっそうの特徴を確かめるために,本節では,スミスの
『国富論』における中国論に限定して,両者の中国論を比較・考察する.
スミスの『国富論』では,中国社会の状態について何度か触れられている.『国富論』の中で,
中国の惨状についてもっとも辛辣に論じられているのは,第 1 編第 8 章「労働の賃金について」
の箇所である.「一日中,土地を掘り返し,夕方に少量の米を買うだけのものを手に入れること
ができるならば」彼らは満足する.また,中国の広東の近隣では,陸上に住居を持たない漁船で
生活する数百,数千人の家族が,犬や猫等の腐敗し悪臭を放っている肉でも歓迎すると言う.こ
こでは,ヨーロッパと比較して中国の下層の状態や生活様式がどれほど見劣りするものとしても,
それでも最下層の労働者が乏しい生活資料をやりくりして,生活ができている点の方がよりいっ
そう重要なものとされている.スミスによれば,中国では,そうした最下層の人口を維持する程
度に,最下層の人々を存続させているに違いない(WN I, 90 / 訳(一)131).したがって,中国に
おいて毎年の土地は,労働の遂行により絶えず耕作され,労働の維持に当てられる基金は目立っ
て減少していないと考える.むしろ問題なのは,中国よりも,インドのベンガルや東インド(イ
ンドネシア)である.この後者の国々では,労働の維持に当てられる基金が目立って減少してい
るため,労働需要は年々減少し,最下層の仕事では生存ラインぎりぎりの賃金しか払われていな
い.そのうえ,それらの国の下層の多くの人々はそのような職さえ見つけられず,「困窮,飢餓,
死亡がすぐにその階級に広がり」,やがて「上層階級の全てにまで及び」,その国の住民数は,人
口を支えうる資本の限界点にまで大幅に減少するに至るのである(WN I, 91 / 訳(一)132).
スミスは,このように後退しているインドやインドネシアと比べて,中国はそれよりも上の発
展段階にある「停滞状態」と位置づける.スミスは,
500 年以上も前に中国を訪問したマルコ・ポー
ロの『東方見聞録』を手がかりに,長い間,中国では,世界でもっとも肥沃な土地に恵まれ,勤
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
83
勉に耕作され,もっとも人口の多い国の 1 つであったと述べている.しかし,彼のその訪問時よ
りもはるか以前に,獲得しうる限りの富を獲得し,それ以降は,さらなる発展もしなければ後退
もしていない,「停滞的な状態」へと至ったとされる.
スミスは,こうした「停滞的な状態」が数百年続いている主な原因は,中国が国外との貿易を
ほとんど交わしていないからであると考える.スミスによれば,中国では,製造業や商業よりも
農業生産がもっとも優遇されている一方で,外国貿易がほとんどなされておらず,国外との商業
によってもたらされる富はほとんどない.中国では「対外商業を極度に侮蔑し」,「ほとんど尊重
していない」(WN I, 495 / 訳(二)375―76; II, 680 / 訳(三)328).こうした事実は,歴史的に確か
められると言う.「中国人が外国商業で卓越していたことは一度もない」(WN I, 367 / 訳(二)
169)ように,中国では,
「外国船の入港を認めることでさえ,彼らの王国の一つか二つの港に限っ
ている」
(WN II, 680 / 訳(三)328).スミスによれば,そうした中国の対外商業を妨げているの
は,それを奨励しない法律に起因している(WN I, 495 / 訳(二)375―76).中国では,広大な面
積や膨大な数の人口,そしてそれらを支える水路による交通により,国内の製造業の規模をさら
に拡大させる見込みは十分にある.しかしそのためには,外国貿易が行われなければならない.
それにより,諸外国の技術や産業を習得し,国内の製造業の分業を通じて生産力を大幅に拡大
させ,いっそうの繁栄がもたらされるであろうと言うのである(WN II, 680―81 / 訳(三)329―
30).
これらの内容に見られるように,スミスにおいて,中国の下層がどれほど貧しくとも,対外貿
易が自由に行われるならば,中国は経済的繁栄が訪れる可能性があると想定されている.すなわ
ち,中国が「停滞状態」から脱却するためには,何よりも外国貿易を行うことが必要であり,中
国の富裕への道はスミスにとって全くの経済問題であった.
以上のスミスの中国論には,スチュアートのそれと比較して,中国の過剰人口に対する認識の
違いが見出される.スミスは,『国富論』の中で,中国では毎晩子供が路上に遺棄されていると
述べているが(WN I, 90 / 訳(一)131),そのことが,過剰人口をもたらす原因の 1 つとは見てい
ない.中国の人口は,労働維持基金によって維持されており,過剰人口によって困窮や飢餓が生
じているとは考えられていなかった.それは何よりも,中国の人口増加が無視できないほどの貧
困を生じさせるものとして問題視することがなかったからである.スミス以前においても,ケネー
(François Quesnay, 1694―1774)は中国の貧困の原因が過剰人口であると述べたほか,カンティロ
ン(Richard Cantillon, ?-1734)は,中国の飢饉の原因には過剰人口が要因にあると既に述べてい
10)
.しかし,スミスは『国富論』の中で,これらの論説に注意を払う
た(Hutchinson 1967, 127)
ことはなかった.
その一方で,スチュアートは,スミスとは異なり,先述したように中国の捨て子の習慣を過剰
10) なお,スミス以前のスコットランドにおいて,過剰人口が重要テーマとされていた点については,Rutherford(2012, 154―61)を参照.
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経済学史研究 57 巻 1 号
人口の原因の 1 つとみなしていた.彼によれば,中国では「両親が子供たちを遺棄する」習慣に
よって,人口が増加せざるをえなくなった.そして飢饉の際には,多くの死者が生じている(Works
VIII, 200).こうした点から,捨て子の習慣は,人口の過度の拡大を意図した「人為的に考案さ
れた政策」にほかならず,厳しい批判の対象とされるのである11).また,スチュアートが中国の
過剰人口を深刻なものと捉えたのは,スミスよりも,中国をより途上の経済発展の段階にあると
見ていたからであった.労働維持基金を越える中国の人口の増加は,経済発展によって解決でき
るとはみなされなかった.上述したように,低い農業生産性の問題だけでなく,たとえ中国が外
国貿易を行ったとしても,製造品の輸出と引き換えに大量の食糧品を輸入したところで,中国の
人口を支えるだけの食糧を確保することはできないと考えられていたからである.スチュアート
は,中国の人口増加を重く見たために,それによって人々へ食糧が行き渡らなくなる点を問題視
したのである.
そのほかに,スミスとスチュアートの中国論の違いの大きな特徴としてあげられるのは,中国
に対する両者の文明対野蛮観である.先に示したように,スミスは,マルコ・ポーロの『東方見
聞録』を参照し,中国がはるか以前に可能な限りの富を獲得したと述べているように,中国が文
明化されている点についてある程度の認識を示している12).スミスにおいて,仮に中国が外国貿
易を行ったならば,中国が経済発展する可能性は大いにあると想定されていたように,中国のよ
りいっそうの文明社会への将来的な見通しは決して暗くはない.
スミスがそのように考えたのは,中国を主に経済問題として見ていたからにほかならない.自
由貿易によって富国も貧国もともに発展すると強く考えられているスミスの経済学において,経
済議論を欠いた文明対野蛮の図式で中国が取り上げられることはなかった.実際に,中国に関し
て論じられる『国富論』のいずれの箇所においても,文明と野蛮を対比する文脈の中で中国につ
いて論じられてはいない.例えば,『国富論』第 1 編第 8 章の中で,中国の停滞や貧困について
論じられる箇所は,ブリテンの高賃金の利点について考察するための一部分として扱われている
にすぎない(WN I, 86―104 / 訳 125―56).たしかに,上で見たように,スミスは,中国における
子供の遺棄行為や船上での人々の粗末な暮らしぶりから,ヨーロッパと比べて,中国の生活環境
の見劣りを指摘していた.だが,その点のみを取り上げて中国の未開性を必要以上に言及したり,
中国と比較してヨーロッパの文明の高さを称揚するようなことはしなかった.中国では,そうし
11)「自然の体系」を重んじるスチュアートにとって,捨て子の習慣を認める制度は,自然な人口の増加で
はなく,人為的な人口の増加をもたらしているため,思想的にも批判されるべきものであった.この
点は,スチュアートが,「自然」と「人為」との観点から,マルサスが『人口論』第 2 版以降で,「自
然的秩序」よりも「人為的な」諸原理に関心を払い過ぎているとしてそれを批判的に述べた(Works
IX, 120)点からも窺い知ることができる.
12) ただし,スミスは,ヒュームと同様に(Hume[1752]1994, 102 / 訳 217),中国が外国との商業を閉ざし
ている点で,中国を決して高い文明国とみなしているわけではない.それは,スミスにとって,中国
は「停滞状態」であるに変わりなく,『国富論』において,18 世紀における中国の文明の高さについて
論じられていないことからも示される.
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
85
た未開性よりも人々の最低限度の生存が守られていることの方が重要な問題だと考えられていた
からである.とりわけ,『国富論』の中心的関心が正義の問題であり,貧民への十分な食糧供給
を可能にする市場機構を見出すことであるならば(Hont 2005, 390―97 / 訳 289―94),中国につい
ても,貧民の必要に対する正義こそが重要テーマになるだろう.スミスが,『国富論』の中で,
中国において,労働維持基金が顕著に減少していない点を重く見たのもそのためであったといえ
る.スミスにとって,中国の人々のモラリティや生活作法を単純に問うよりも重要なことは,中
国の下層の人々の生存の維持であり,経済発展であった.そのためには,中国は何よりも自由な
対外貿易を行うことが重要なのである.
ただし,中国に自由貿易を求めるスミスの主張は,経済的意味での無制約的な国富の増大だけ
が良しとされているわけではない点に注意する必要がある.スミスの自由貿易の考えは,狩猟社
会から商業社会の段階を経て社会は発展するという四段階論によって支えられていることも忘れ
てはならない.四段階論のうちの商業社会は,世界的な商業と交流を通じて人間社会を形成し,
社会をよりいっそう進歩させるように,野蛮的な社会からの解放をもたらす文明化作用を持って
いる13).そしてこの四段階論は,スミスの初期の文明対野蛮の思想から貫かれているものとして
捉まえることができる.スミスは,若い頃に,「国家を最低の野蛮状態から最高度の富裕にまで
導くためには,平和,軽い税,ならびにまずまずの正義の執行以外には,ほとんど必要ない」
(Works
X, 68 / 訳 78)と述べたように,野蛮から富裕への人類の発達が必要との認識を示していた.こ
うしたスミスの認識は,彼が「理論的推測的歴史」の方法を取っていたことと関係する14).そこ
には,その方法によく似た「推測」による発達論を説明したビュフォン(Comte de Buffon, 1707―
1788)の自然誌からの影響があったと考えられている.スミスは,『エディンバラ・レヴュー』
において,観察と実験に裏づけられた推測の手法として,ビュフォンの自然誌を高く評価してい
たからである(Smith[1755]1980, 248―49 / 訳 324―25)15).こうした点に見られるように,スミス
は,若かりし頃から文明と野蛮との二分法を取り,野蛮から文明への上昇の必要性を見ていたの
である.
そうしたスミスの初期の文明対野蛮観は,『国富論』の四段階論においても通底していたと見
ることができる.スミスは,『国富論』の中で,もし中国が外国貿易を広く行うならば,中国の
製造品を大幅に増加させ,その製造産業の生産力を大幅に改良させるだけでなく,諸外国で使わ
13) この点のより詳しい説明については,田中(2000, 87―108),Hont(2005, 364―88 / 訳 266―87),竹本(2005,
318―35, 368―85),野原(2013, 225―29, 259―86)を参照.また,スミスが,『国富論』第 5 編の中で述べ
たように(WN II, 782―84 / 訳(四)50―52),文明が野蛮よりも全ての面で優越しているとはみなさなかっ
た点についても注意を払う必要がある.スミスが,野蛮から文明への単線的な進歩史観を必ずしも語っ
ているわけではない点については渡辺(2014, 269―89)を参照.
14)「理論的推測的歴史」については,V 節で説明する.
15) この点のより詳しい説明ならびにスミスの四段階論における文明化作用については,Hont(2005, 364―
88 / 訳 266―87),竹本(2005, 314―35),野原(2013, 194―205, 225―30, 279―93)を参照.なお,スミスの
文明社会史論の着想については,渡辺(2014, 260―68)を参照.
86
経済学史研究 57 巻 1 号
れている機械の技術や産業の改善をも習得するだろう,と述べている(WN II, 680―81 / 訳(三)
329―30).こうした主張に見られるように,スミスにおいて,中国は,外国貿易を通じて,それ
による商業の繁栄が人々に勤労と自立を促し,彼らにより良き習慣を身につけさせるようになる
と前向きに考えられている.スミスは,中国を経済問題として見ていたことに変わりないが,中
国の文明社会の可能性をも展望していたのである.
これに対して,先に見たように,スチュアートの『学生ノート』では,ブリテン=文明と中国
=未開とを対比する文脈の中で,中国が論じられていた.その中で注意を払うべき点は,中国に
対して,外国貿易を行う必要を主張しただけでなく,過剰人口の問題との関連で中国の人々の人
間性や社会の進歩のあり方についても言及されていたことである.また,中国の捨て子の習慣や
飢饉による深刻な貧困が繰り返し問題にされていたことは,中国社会の未開性を問いかけるもの
である.これに対して,スミスは,中国の過剰人口の問題やそれに伴う中国社会の進歩のあり方
にまで言及することはなかった.これは,両者の中国論の特徴の大きな違いである.
以上のスミスとスチュアートの中国論の相違には,中国に関する情報の有無が大いに関係して
いる.スミスは,宣教師や旅行者が伝えた中国に関する資料についてほとんど信用を置いていな
かった(WN I, 367 / 訳(二)169; II, 729―30 / 訳(三)407).また,中国に関する資料が不足してい
る点に不満を露わにしている(WN I, 448 / 訳(二)292).そうした点から,スミスは,中国が「停
滞状態」であるという点についても,断定的にではなく,あくまでも推測的に述べているにすぎ
16)
.これに対して,スチュアートは,中国の人口に関するストーン
ない(WN I, 90 / 訳(一)131)
トンとバローの資料に信頼を置いていたように,近年の中国の資料や文献の不足にあまり困るこ
とはなかった.中国の過剰人口に関する中国の資料の入手の有無は,上述した両者の中国観を異
ならせたと見ることができる.
スミスとスチュアートの中国観の違いは,中国の情報に関する有無だけではない.両者の中国
観の違いには,18 世紀のスミスのいた時代から 19 世紀初頭のスチュアートのいた時代にかけて,
ヨーロッパの中国に関する言説が次第に変化してきた点とも関係している.18 世紀のブリテン
において,例えばファーガスン(Adam Ferguson, 1723―1816)は,『市民社会史論』の中で,中国
の統治のあり方に関心を払っているものの(Ferguson[1767]1995, 214―15 / 訳(下)66―67),同
書の全体を通じて,中国の文明や社会のあり方について積極的な関心を払うことはなかった.ま
た,ヒューム(David Hume, 1711―1776)の『政治論集』やスミスの『国富論』や『道徳感情論』
においても,スチュアートと比べれば,中国の文明や人口への関心は低い.もっとも,この時代
の有数の文筆家や法学者等の中国観を考慮に入れるならば,ファーガスンやヒュームやスミスの
中国論のみで 18 世紀のブリテンの中国観を括ることはできない.だが,そうした彼らの中国論
に限って見るならば,この時代のブリテンの経済や社会の学問は,中国の異文化に対して特別の
16) スミスは,
『国富論』の中で中国について論じる場合に,perhaps や probably 等の推測を表す用語を多用
している.
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
87
関心を払うことはあまりなかった.
しかし,18 世紀末以降のブリテンでは,印刷術の改良により出版物が大量に普及する中で,
中国に関する認識や言及も広い範囲に拡大し変化が見られるようになった.特に,19 世紀初頭
のブリテンでは,ヨーロッパから遠方にある未開の国民の技芸や習慣に対する好奇心が持ち始め
られるようになる.これは,初等教育や図書館が普及する中で,民衆が活字に慣れ親しむと同時
に,例えば冒険ものの図書が民衆に広く読まれるようになる時代の流行とも関係している17).ま
た,科学の発達に見られる急速な時代の変化に対して,自国の文明社会としての立ち位置を人々
が意識せざるをえなくなったことも,この時代の大きな特徴である.彼らは,文明化への進歩的
な価値観に照らし合わせて,未開の国々の文明や文化と比較して自国の文明の高さを測ろうとす
るようになったのである(大野 2011, 242―45).そうした思想の潮流は,先述したスチュアート
が『学生ノート』の中で文明と野蛮との対比で中国について論じていた時の時代背景と正確に一
致する.
実際に,この『学生ノート』が記された同時期の 1809 年前後に出版された『エディンバラ・
レヴュー』では,文明との対比で中国の未開性を論じる主張が多く見られる.例えば,1805 年 1
月に出版された『エディンバラ・レヴュー』では,エディンバラ・レヴュアーの 1 人であるフラ
ンシス・ジェフリー(Francis Jeffrey, 1773―1850)によって書かれた,先述したバローの『中国旅
行記』についての長文の書評が掲載されている.その中では,中国の「半未開性(semi-savage)」
を論じる中で,バローが述べた中国の人々の「科学に対する無知」や「不自然な悪徳」が紹介さ
18)
.そして,こうした中国の未開性に関するバローの主張は,
れている(Edinburgh Review 1805)
それ以降もブリテンのみならずフランスの識者にも広く共有されるほどのインパクトを与えた.
例えば,ジェームズ・ミル(James Mill, 1773―1836)は,1809 年 7 月号の『エディンバラ・レヴュー』
において,中国で 17 年間,駐在フランス領事を務めた経験を持ち,中国研究家でもあったジョ
ゼフ・ド・ギーニュ(Joseph de Guignes, 1721―1800)の『北京旅行記』についての長文の書評を
執筆した.その書評では,ギーニュの『北京旅行記』の中で,製造業や機械の未発達に見られる
中国の人々の創意や発明の欠如について論じられているバローの『中国旅行記』が多く参照され
ている箇所が取り上げられている(Edinburgh Review 1809).ミルは,こうしたバローの見解に
全面的に同意しているわけではないが,中国の未開社会がこの書評論文の主要テーマとして論じ
られていることは確かである.さらにこの時期には,中国を含めた異国の法律や社会制度は学問
研究の対象とされてもいた.例えば,ジェフリーは,1810 年 8 月号の『エディンバラ・レヴュー』
において,ストーントンの息子(Sir George Thomas Staunton, 1781―1859)が翻訳した『大清律例』
を書評し,その中で論じられている窃盗や強姦等の例をあげながら,中国の刑法のあり方につい
17) このことは,「フランシス・ホーナーからの手紙」(Horner 1805)の後半部分において,冒険ものの本
を好んだというイングランドの少年の例を引き合いに出されていることからも窺い知ることができる
18) この時期のブリテンにおいて,文明との対比で「半未開社会」とみなされたのは,中国に限らず,イ
ンド,ラップランド,アメリカ合衆国であった.この点の詳細については,Clive(1954, 166―80)を参照.
88
経済学史研究 57 巻 1 号
て論じている(Edinburgh Review 1810).
これらの点から,スチュアートが中国の文明社会のあり方を問題にしたのは,未開諸国への関
心の高まりという思想の潮流や中国を学問対象とする時代の流れを共有していたからであったと
いえる.これに対して,スミスの議論は,スチュアートのいた時代と比較して,中国に対してあ
まり関心を払わなかった 18 世紀のブリテンの時代的制約に置かれるものであった.そうした時
代背景の違いは,両者の中国観を異ならせた 1 つの要因と見ることができる.
V 「理論的推測的歴史」
スチュアートが未開と文明とを対立させながら中国について論じていた根源的な理由には,
「理
論的推測的歴史」という段階説を拠り所にしていたことがあげられる.「理論的推測的歴史」とは,
現在の事実に対する観察に基づいて,過去から現在への社会の段階的発展を仮定ないし想定する
歴史の捉まえ方のことである.これを端的に言い換えるならば,現在の空間的側面において捉え
られた事実を過去より現在に至る時間面に投影した時に成り立つ歴史観である.未開時代の単純
な言語から文明社会の高度な言語構造への変化のあり方や,学問や技芸による人間精神の改善へ
の変化のあり方は,過去の事実や歴史から得られる情報だけでは説明できない.それらの変化は,
時代を通じて漸次的に変化していることから,ある特定の時代の歴史を調べるだけでは,正確な
情報を得ることができないからである.こうした理由から,スチュアートはこれらの変化のあり
方を調べるためには,「推測」が必要であると述べている(Works X, 33―34 / 訳 36―38).このよ
うな歴史観を重んじるスチュアートは,未開拓な時代から文明社会の時代にかけて,どのような
漸次的段階を経て推移が行われてきたのかを自身の考察の対象に据えるのである19).
スチュアートは,この「理論的推測的歴史」において,人間精神の進歩を示す場合には,
「もっ
とも単純な進歩」を論じることが必要であると主張する(Works X, 37 / 訳 41).そうした単純な
進歩とは,未開から文明への言語や科学や政治等のさまざまな進歩を指している(Works X,
33 / 訳 36―37).スチュアートの『人間精神の哲学要綱』(1792 年)においても,人間の思考の欠
如から精神の向上への自然的進歩という観点から,無知と科学,大衆(vulgar)と哲学者とが対
比され,未開から文明への進歩の過程が描かれる(Works II, 202―06).そうした進歩を軸とする
歴史観は,ヒュームやファーガスン,ならびにケイムズ(Lord Kames, 1696―1782)においても見
られる考えであり,文明社会の対極に位置する未開社会については,知性や技術の進歩の面で劣
等なものとみなされる.このことは,スコットランド啓蒙思想史上において人類史や自然史等と
の関連で長く論じられてきた(Berry 2000, 318―29; Herman 2001, 94―106 / 訳 97―109).
前節で見たように,スミスもまた「理論的推測的歴史」の視点を持っていたことで知られる.
19) スチュアートにおける「理論的推測的歴史」のその他の説明については,Broadie(1997, 670―74),
Poovey(1998, 218―36),Broadie(2007, 72―75),Berry(2013, 32―38)を参照.
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
89
Haakonssen(1996, 232)によれば,スミスは,現代の商業社会を,歴史上のいかなる時代の文明
社会や現実に見られる非文明社会よりも,経済的特徴が本質的に異なると見ていた.その特徴と
は,現代の商業社会が,自由な労働に基づく市場経済によって成り立っているということである.
そうした社会では,個人の権利と自由が守られた市民社会を実現することになる.スミスは,こ
のような市民社会の実現を,「理論的推測的歴史」の視点により,現代と歴史とを断絶させるこ
となく,歴史的に理解しようとしたのである.
前節で指摘したように,スミスの文明対野蛮観についても,「理論的推測的歴史」の視点が関
係している.スミスは,現在のブリテンが文明社会へと至ったのは,遠い過去の時代から現在に
かけて,人間の知性や技術が徐々に進歩してきた結果であると見ている.例えば,
『国富論』では,
分業の結果による職人の技術や技術全体の向上,ひいては専門知識の量の増大(WN I, 17―22 / 訳
(一)29―33)や,近年の羊毛製品に使用された機械の著しい改良(WN I, 263―64 / 訳(一)427―
29)について,歴史的な進歩を軸に論じられている.
スチュアートの場合においても,技術や科学の発達は,未開から文明社会への進歩の歴史を通
じて把握されている.また彼は,「理論的推測的歴史」の考えをスミスから多く学び取っている
(Works X, 33―37 / 訳 36―41. Cf. Mortera 2007, 189―91).だが,スミスとスチュアートの「理論的推
測的歴史」観は必ずしも同じではない.スチュアートは,スミスよりも現実の商業社会における
知識の増大と普及,特に印刷術の発明による出版物の普及と拡大を強調しているからである
(Haakonssen 1996, 232―34)20).また,上述の人間の知性や技術の進歩についてのスミスの論述は,
それらについてのスチュアートの論述と比較して,断片的で分量も少なく,あまり強調されても
いない.文明社会へのスチュアートの高い評価に見られるように,彼は,未開と文明との対立を
浮かび上がらせながら,歴史上の進歩の思想をスミスよりもいっそう推し進めている.それは,
前節で見たように,未開と文明とを対立軸にして中国について論じていたスチュアートの議論と
スミスの中国論とを比較しても明らかである.
それでは,スチュアートは,具体的に未開と文明とをいかに対立させているのであろうか.彼
は,ブリテンに限らずヨーロッパ全体を文明社会と捉えていることから,現在のヨーロッパが文
明のもっとも進んだ状態と位置づけている.その一方で,ヨーロッパ文明を共有しない諸民族の
状態を,おしなべて未開ないし野蛮と呼んでいる.実際に,スチュアートの『講義』第 1 編「人
口」では,文明と野蛮を対比する論述が多く見られる.『講義』の第 1 編では,野蛮の類義語と
して,未開,無知,粗野,無秩序といった用語が当てられているのに対し,文明には,洗練,進
歩,改善,発明,繁栄の用語が当てられている.野蛮については,人間の思考や知性,生活作法
だけでなく,制度や法律の面においても,未発達な状態を指して論じられている.『講義』第 1
編では,その例として結婚制度があげられている.そこでは,内縁や複婚制について,道徳と自
20) 印刷術の発明による出版物の普及と拡大が社会にもたらす効果に関するスチュアートの賛美について
は,Works(II, 229―30, 244―45),Works(IX, 399―400)を参照.
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経済学史研究 57 巻 1 号
然の秩序との関わりで古代との比較を交えながら議論されている(Works VIII, 67―87).無差別な
内縁が野蛮な考えであり,内縁が野蛮な作法の自然的結果であるのに対し,結婚制度は,野蛮な
生活の獰猛さや無秩序を更生させるに至ったとされる(Works VIII, 71―73).複婚制についても,
基本的には同様で,文明社会における単婚制による結婚制度の成立以前のものとして,複婚制の
野蛮性が論じられる(Works VIII, 74―90).
一方,文明については,『講義』第 1 編において,ブリテンの経済的繁栄について論じられる
文脈の中で見出すことができる.スチュアートは述べている.「機械の導入とその不断の改良に
よる以外に,人類は,いかにして野蛮から文明へと進むことができたであろうか」(Works VIII,
192).この自らの問いに対して次のように答えている.人々の間で技芸が広く普及していること
は,機械の導入をもたらしたことを意味する.そしてこのことは,その下での市民の状態と野蛮
人の状態とを区別させるのである.もっとも単純な機械や道具が,時代が進むにつれて次第に進
化・発展を遂げ,そうした技芸の改善が,人間の独創性や発明,ひいては,人類の知的改善の発
展段階において人類の進歩を促し,現代ヨーロッパの国民を洗練させるに至ったのである(Works
VIII, 192―93).このことは,野蛮時代とは異なる文明時代の大きな特徴として掴み出されている.
スチュアートは,講義の中で,こうした野蛮から文明への進展を考慮に入れながら,中国の人
口を論じていた.中国の捨て子の習慣やそれを容認する制度,対外貿易を妨げる法律,ならびに
未発達な機械技術は,彼にとって,野蛮の象徴であった.そうしたスチュアートの文明対野蛮観
は,彼の経済社会観においても貫かれている.『講義』第 1 編「人口」における過剰人口の論考
の結論部分において,中国とインドでは過剰人口によって困窮が生じていると述べた後で,次の
ように結論づけているからである.
これらの考察が導く結論は明らかである.それは,人口の増大に対して用いられうる唯一
の公正で有益な手段は,増加する人口を支えるために必要な基金に相当する増加を前提と
するということである.また,それ以外の手段を講じて人口の増大を奨励するあらゆる企
てが,貧困,悪徳,悲惨な状態に生まれてくる人間の数を増やすだけであることも明らか
である.富裕者の財産に従属することになる人々を生み,自分たちの数を増やすことによっ
て,労働の報酬を下げ,外国市場においてわが国の製造業者たちの競争を有利にする人々
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を生み出すといった,単に狭い商業的な視点で人口を考察することは,不適当であるだけ
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でなく,不公正で非人間的な政策でもある.またそれは,かなり多くの他の例にあるよう
に,彼らの貪欲の道具になることを定められた人々の権利(rights),感情(feelings),そ
して道徳心(morals)を,商業の思索に熱心なあまり,彼らを無視するように導いた同じ
精神によって命じられた政策でもある.
(圏点は筆者の挿入.Works VIII, 200―01)
上のスチュアートの見解によれば,人口の増加が認められるのは,人口の数を支えるだけの「必
要な基金」に見合っている場合である.スチュアートは,ここでも労働維持基金説の立場に立っ
て,生存を維持する基金を超えた闇雲な人口の増加は,貧困や悪徳を生じさせるだけであると主
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
91
張している.行き過ぎた富の追求が,人々を「強欲」へと駆り立て,ひいては,彼らの「権利」,
「感情」,
「道徳心」といった人間にとって欠かすことができない重要なものを忘却させる.そして,
過度の商業的な見地から,富者の財産に従属し低賃金に服する人々を増やすことによって,ブリ
テン一国が他の諸外国よりも優位に立つことは,不公正でありモラルに大いに反すると言うので
ある.こうした観点から人間感情やモラルにまで言及するスチュアートの問題意識には,過剰人
口との関わりで,文明社会や社会の進歩のあり方に特別の注意が払われていることがわかる.
ここで特に注目に値するのは,これらのスチュアートの主張がインドと中国の過剰人口を問題
にした直後に見られるように,インドと中国との対比で,ブリテンの文明社会のあり方が論じら
れていることである.これは,III 節で見たように,『学生ノート』において,経済的繁栄をもた
らしているブリテンと過剰人口によって貧困状態にある中国とが対比されていた論じられ方とよ
く似ている.すなわち,この『講義』の箇所でも,インドおよび中国とブリテンとを二項対立軸
にして,文明対野蛮の図式で論じられているのである.
ただし,スチュアートは,野蛮と比較して,文明社会や経済的繁栄を一面的かつ単純に賛美し
たわけではなかった.上の引用文に見られるように,文明社会においても,公正な富の追求のあ
り方が重んじられているからである.彼は,『学生ノート』の中で,中国の過剰人口について次
のようにも述べていた.「私が中国の人口の状態から主に論じてみたことは,巨大な中国国民の
ゆとり(the comforts)は,国富の増加と釣り合いが決して取れていないということである」(Note
I, 196).スチュアートは,労働維持基金によって人々が生存されるかどうかを問題にするだけで
なく,経済成長の質のあり方や人間社会の進歩のあり方をも重く見たのである.
VI お わ り に
本稿では,スチュアートが,中国の過剰人口の問題に特別の注意を払っていた『学生ノート』
に主に光を当てて考察した.スチュアートの『講義』では,中国の過剰人口の問題のエッセンス
しか論じられていなかったが,
『学生ノート』では,この問題について詳細に論じられていた.『学
生ノート』では,中国における親による捨て子の習慣と飢饉による多数の死亡,労働維持基金の
問題,低い農業生産力,文明のあり方についてそれぞれ注意が払われていたが,これらは『講義』
の中では,かならずしも十分に論じられていなかった.また,彼が『学生ノート』の中でこれら
の点について論じていたのは,ストーントンの『報告』やバローの『中国旅行記』から影響を受
けていたからであったが,『講義』では,ストーントンやバローの名でさえ示されていなかった.
その意味で,『学生ノート』における中国に関する論述は,『講義』第 1 編「人口について」で省
略されたスチュアートの中国論を正確に理解する 1 つの手引きになったということができる.そ
れはまた,
『学生ノート』の中で過剰人口の問題について注意を払ったスチュアートの論考は,
『講
義』第 1 編においても貫かれているテーマとして見ることができる.
スチュアートは,中国の過剰人口が経済問題だけでは解決できないと考えていた.そこには彼
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経済学史研究 57 巻 1 号
の文明対野蛮観が影響していた.この点は,スミスの中国論との比較を通じて,より明らかになっ
たといえる.スチュアートが中国の未開性を問題にしたのは,彼のいた時代背景が大きく関係し
ていた.また,スチュアートが未開と文明の二項対立軸で中国について論じていた根源的な理由
には,歴史上の進歩の思想をスミスよりもいっそう推し進めた彼独自の「理論的推測的歴史」の
視点があった.そうした「理論的推測的歴史」の歴史観に基づくスチュアートの文明対野蛮観は,
彼の経済社会観においても貫かれていた.
『講義』第 1 編「人口について」の結論部分で述べられていたように,スチュアートは,労働
維持基金説と文明社会のあり方の面から,適正な規模の人口の増加に見合った市場社会を想定し
ていた.「狭い商業的な視点」によって人口が増加することを強く批判していたように,公正な
経済社会の実現こそがスチュアートの過剰人口論の特徴をなしていた.スチュアートは,ブリテ
ンにおける高い農業生産力と製造業の発展による経済的繁栄を前向きに見ていたが,非人間的で
無制約的な経済の拡大を望んでいたわけではなかった.彼が述べた経済的繁栄とは,人間社会の
進歩を重んじる彼の文明社会観によって支えられるものであった.
このことは,19 世紀初頭のスコットランドの経済学の議論の中で,野蛮との比較で文明社会
のあり方が再び問題にされるようになったことを意味する.スチュアートは,富の至上目標のた
めに無闇に人口を増加させ,そうした彼らを低賃金で従属させ,いっそうの資本蓄積を拡大すべ
きという過度の経済至上主義を,不公平で非人間的な政策として強く非難した.このような公正
な経済発展のあり方をスチュアートが問題にしたことは,この時代に富や徳のあり方について語
られることが少なくなる中で,意義ある主張であったといえる.スミスは,『国富論』において,
分業の拡大や国際的な自由貿易によって貧国も繁栄する道のりを描いたが,スチュアートは,そ
の考えを強く支持しながらも,こうしたアプローチだけでは過剰人口の問題を解決できないと見
ていた.すなわち,スチュアートは,過剰人口の問題の検討を通じて,経済や人口のものの考え
方において,スミスとは異なり,高賃金や自由貿易等の用語だけでは済まないと逆に考えるよう
になったのである.19 世紀初頭のブリテンにおいて,地金論争やリカードウの経済学に見られ
るように経済学が専門化していく中で,スチュアートは,独自の文明対野蛮の思想で経済学を講
じた.こうしたスチュアートの考えが 1808 年度の『学生ノート』の中で論じられていたことは,
注目に値する.そうした事実は,ホントが述べた「富国―貧国」論争が終焉したとされる 1806
年に刊行されたローダーデイルの『公共の富の性質と起源に関する研究』の後においても,過剰
人口を背景に,「富国―貧国」問題が形を変えてなお続いていたと見ることができるからである.
しかし,スミス以後の「富国―貧国」問題をより詳しく議論するためには,文明と野蛮との関
連で,マルサスやエディンバラ・レヴュアー等を交えて考察する必要がある.それらの検討も含
め,スチュアートの経済思想についてさらにいっそう考察することは今後の課題である.
(荒井智行:中央大学経済研究所客員研究員)
荒井 D. スチュアートの過剰人口論
参
考
文
93
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荒井 D. スチュアートの過剰人口論
Dugald Stewart on Overpopulation:
Through Adam Smith s and Stewart s Views of China
Tomoyuki Arai
Abstract:
This study aims to clarify Dugald Stewart s vision of civilized society, focusing on his view
of overpopulation. Although it has often been considered that Stewart solved this problem by
encouraging the development of commercial society and international free trade, he also paid
attention to the problem of overpopulation in India and China at that time. In particular, the
problem of overpopulation in China was discussed in the Notes of Stewart s Lectures on Political Economy written by John Dow, who probably attended Stewart s lectures in 1808 and
1809.
In this study, by focusing on Stewart s arguments about an excessive increase in population beyond the funds for the maintenance of labor in China, I show the significance of his
view of civilization, which was related to his views on theoretical or conjectural history.
Specifically, I consider the views of China of Adam Smith and Stewart in order to ascertain
the characteristics of Stewart s original discussion on over-population. I also highlight the important fact that their views of China were different from the level of economy, society, and
culture in China and explain that there was a change in information and standpoint about
China between the 18th and 19th centuries in Britain. Finally, I point out the historical significance of Stewart s arguments on the quality of economic development and progress of human society.
JEL classification numbers: B 30, B 31, I 31.
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