2004.12.6 舞踏と一線を画したコンテンポラリーダンスの興隆 日本のダンスシーン(日本舞踊、民俗舞踊を除く)は、クラシックバレエ、モダン 「トヨタコレオグラフィーアワード2004ー ダンス、土方巽を創始者として1959 年に生まれ、海外で高い評価を得ている舞 次代を担う振付家賞受賞」東野祥子が率い 踏、既存のメソッドと一線を画し、アーティスト個々人がオリジナルな身体表現を るBaby-Qの作品「ALARM!」(2004年) 追求しているコンテンポラリーダンスの4つの流れによって構成されている。 舞踏は、世界最高齢の舞踏家である大野一雄が車イスに頼りながらも踊り続けてい る他、パリ市立劇場で2年に一度新作を発表し、世界ツアーを行なっている天児牛大 率いる山海塾、2002年に30周年を迎えた大駱駝艦、即興ダンサーとしてだけでなく、 振付家としても活躍している笠井叡など、今も第一世代を中心にシーンがつくられ ている。 第二世代としては、長野県でジャンルを越えた「ダンス白州」を主宰している田中 泯、個人での活動を行なう傍ら、89 年にダンスカンパニー枇杷系を設立し、若いダ ンサーを育ててきた山田せつ子(現・京都造形大学助教授)、舞踏手として高く評 価されている室伏鴻などが目に付くものの、舞踏のジャンル全体で見ると、新しい 才能が次々に台頭するといった状況ではなくなっている。 それに変わる動きとしてでてきたのが、コンテンポラリーダンスの興隆である。舞 踏によって開拓された身体表現の可能性を新展開し、ポスト舞踏の才能として注目 された勅使川原三郎が、86年にバニョレ国際振付家賞を受賞。ヨーロッパで成功し たのをきっかけに、コンテンポラリーダンスに注目が集まる。加えて、80 年代半ば から、バブル経済下の円高により、それまで経費的に難しいとされてきた舞台芸術 の招聘が盛んに行われるようなる。当時、世界をリードしていたヨーロッパのヌー ベルダンスが、オペラやミュージカルと並んで招聘され、マスコミでも話題とな る。こうした来日公演により、これまで日本には存在しなかったコンテンポラリー ダンスの観客層が開拓され、現在のブームへと繋がっていく。 バブル経済崩壊後も、海外の有名カンパニーの招聘に意欲的に取り組んでいる彩の 国さいたま芸術劇場を筆頭に、神奈川県民ホール、びわ湖ホールなどの公共劇場が 新たな担い手になり、ピナ・バウシュ、 ウィリアム・フォーサイス、イリ・キリ アン、フィリップ・ドゥクフレなど世界の一流アーティストの作品が見られる環境 が続いている。 こうした世界のコンテンポラリーダンスの刺激も加わり、90 年代には、勅使川原に 次いでバニョレ国際振付家賞新人賞を受賞した伊藤キムのカンパニーや、独特の美 意識に彩られたアクロバティックなパフォーマンスによりNYタイムズのダンス・オ ブ・ザ・イヤーを受賞し、世界に活動の場を広げているH ・アール・カオス、ダン スという枠に捕われない自由な発想とユーモアが信条のイデビアン・クルー、マイ ムを新展開した水と油、学生服姿の男ばかりの踊りとコントでエンタテイメントと して大成功を収めているコンドルズなど、シアトリカルなパフォーマンスで人気を 集めるカンパニーが登場する。 2000年代に入ると、公的な支援や民間企業の支援もあって同時多発的にはじまった フェスティバルや賞を通じて、60 年代生まれ、70 年代生まれの新世代アーティス トが次々に台頭。多彩な個性を競い合い、80年代の演劇界に見られた小劇場演劇 ブームに相応する活況となっている。 ダンススポットの誕生 新世代アーティストが台頭した背景には、コンテンポラリーダンスの人材発掘と育 成に尽力し続けたアートスペースの存在がある。80 年代はじめには、舞踏集団が自 分たちで運営していた稽古場兼劇場(土方巽のアスベスト館、大駱駝艦の豊玉伽藍 など)を除くと、ダンス公演を企画していたのは渋谷の小劇場のジァンジァンぐら いだった。その後、いくつかの民間企業がアートによるイメージアップを図り、芸 術を支援する目的でホールをオープンし、コンテンポラリーダンスのプログラムを 行なうようになる(SPIRAL HALL、パークタワーホール、アサヒビールホールな ど)。 特に、90 年代後半から、不況で都心に生まれた空きビルなどの遊休スペースが次々 と新しいアートスポットに生まれ変わるが、その中で登場してきたのが、現在の ムーブメントの震源地となっているダンススポットの数々である。10分の小作品を 集めたフェスティバルや観客が公演後に価格を決めるユニークな企画を多数行なっ ているセッションハウス。日替わりでダンサーが競演する「ダンスが見たい」など を企画しているディプラッツ。横浜市立の小劇場を市民ボランティアが運営し、気 鋭のアーティストがキュレーターとして新人のオーディションから作品づくりまで サポートするなど、アーティストの卵たちの拠点になっている横浜のSTスポット。 NPO 法人が運営し、関西のコンテンポラリーダンサーの登竜門であり、拠点にも なっている大阪のDANCE BOX など。いずれもダンスの理解者であるプロデュー サーが責任者となり、互いに連携しながらアーティストの育成を行なっている。 また、公立劇場の中にも伊丹アイホール、世田谷パブリックシアター、横浜赤レン ガ倉庫など、ダンスの拠点として名乗りを上げるところが生まれ、自主事業を企画 して継続的な支援を行なっているのもシーンを支える大きな要素となっている。 民間支援と新世代プロデューサーの活躍 90年代には民間企業が社会貢献活動の一貫としてアートに対する支援を行なうよう になる。その中で価値の定まらない新しい創造活動への支援を打ち出し、コンテン ポラリーダンスを積極的に支援したのが、アサヒビール、キリンビール、トヨタ自 動車、セゾン文化財団などである。特に、トヨタ自動車が、「次代の振付家の発 掘」を目的に、世田谷パブリックシアターとの協力で2001年にスタートした「トヨ タコレオグラフィーアワード」(審査委員長:天児牛大)は、開催2回目にして新 進アーティストの登竜門として評価されるほどになっている。 コンテンポラリーダンスの活況を支えているもう一つの要素が、新世代のプロ デューサー・制作者の活躍である。集団単位で活動し、集団のリーダーがプロ デューサーを兼ねていた舞踏に対し、コンテンポラリーダンスでは、集団から独立 したプロデューサー・制作者が制作会社を設立し、民間や公共から支援を受けなが らダンスフェスティバルなど様々な企画を実現する体制に大きく変わってきた。 また、日本ではまだ活動がはじまったばかりのNPO 法人もこの領域において画期的 な役割を果たすようになっている。例えば、2001 年に設立されたNPO 法人ジャパ ン・コンテンポラリーダンス・ネットワークは、アーティストなどが会員となって 旗揚げしたもので、情報発信やチケット販売、出前公演やワークショップなど、ダ ンスの上演環境の整備と普及活動に共同で取り組んでいる。アーティストを小中学 校に派遣しているNPO 法人芸術家と子どもたちの活動にも、たくさんのダンサーた ちが参加している。 このように、新世代になってこれまで横の繋がりを嫌っていたアーティストたちが 社会との関りを真剣に考えるようになるなど、意識が大きく変わってきた。また、 芸術見本市にも積極的に参加するなど、海外進出意欲が高く、日本での評価が定ま る前に海外でデビューするケースも多くなっている。新世代アーティストの力量は 未知数の段階だが、こうした広がりによってこれまでにない飛躍が期待される。
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