1 第 22 回読書会報告 太宰治『きりぎりす』

第 22 回読書会報告 太宰治『きりぎりす』
2009/6/26
石垣健一
・太宰治(だざい おさむ)
明治 42 年(1909)6 月 19 日誕生
昭和 2 年(1927)18 歳
4 月 弘前高等学校文科甲類に入学。 9 月 小山初代(おやま はつよ。1912 年 3 月 10 日 1944 年 7 月 23 日。中国青島で死去。32 歳)と知り合う
昭和 5 年(1930)21 歳
4 月 東京帝国大学仏文科に入学(昭和 10 年 9 月 除籍)。 11 月 田部あつみ(たなべ あ
つみ。19 歳)と心中未遂。田部あつみは死亡(2 回目の自殺未遂)
昭和 7 年(1932)23 歳
7 月 左翼運動を離れる。 12 月 青森検事局に出頭。以後、完全に離脱。
昭和 11 年(1936)27 歳
10 月 パビナール中毒の治療のため、武蔵野病院に一ヶ月入院
昭和 12 年(1937)28 歳
3 月 小山初代と心中未遂(4 回目)。帰京後、初代と別れる
昭和 14 年(1939)30 歳
1 月 石原美智子と結婚
昭和 18 年(1943)34 歳 『右大臣実朝』
昭和 19 年(1944)35 歳 『津軽』
昭和 20 年(1945)36 歳 『お伽草紙』
昭和 22 年(1947)38 歳 『ヴィヨンの妻』『斜陽』
昭和 23 年(1948)39 歳 『人間失格』『桜桃』『如是我聞』
6 月 13 日 山崎富栄と玉川上水に入水、19 日(39 歳の誕生日)遺体発見
問い
あれほど優れた作品を書いたのに、何故、生き延びることが出来なかったのか。文学は、
結局は無力であったのか。
内的な二つの敗北があった。
Ⅰ.「辻音楽師の王国」を見失う。
Ⅱ.「女語り」の消失があった。
『ヴィヨンの妻』のさっちゃんは、詩人の夫が新聞に眼を落として、「ごらん、ここに僕
のことを、人非人なんて書いていますよ」と嘆くのに、答えて言う。「人非人でもいいじゃ
ないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」 p.145
『おさん』の私は、諏訪湖で夫が若い女性と心中した後に言う。「地獄の思いの恋などは、
ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです」「悲しみとか怒りとかい
う思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました」 p.169
この女語りに表れているものは、太宰が自身の苦と距離をおいた、<批評意識>と言える
かもしれない。太宰治はこれと同じ時期に、『父』『桜桃』など「男語り」の短編をも書き
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継いだ。しかし、これらの作品には、生きてさえいればいいのよ、という作家の苦を鼓舞し、
嗤い飛ばしてしまうような、批評的な声は響いていない。
太宰の敗れそうな意志を、女語りとして表された批評意識が、かろうじて堰き止めていた
のかもしれない。
・『燈籠』 昭和 12 年 10 月(若草)
さき子(下駄屋の一人娘、24 歳)と、水野三郎(商業学校生、19 歳)
・「ただ、さき子さんには、教育が足りない。…人間は、学問がなければなりません。」p.16
←学問を身につけたとしても、これでは仕方がない。むしろ、さき子も父母も、「ずいぶん
綺麗な走馬燈のような」光を放っている。それを、「盗み」の対極に浮かびあがらせる。
←「…この遭難者の美しい行為を、一体、誰が見ていたのだろう。誰も見ていやしない。燈
台守は何も知らずに一家団欒の食事を続けていたに違いないし、遭難者は怒濤にもまれて
…ひとり死んでいったのだ。…誰も見ていない事実だって世の中には、あるのだ。そうし
て、そのような事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのだ。それをこそ書きた
いというのが、作者の生き甲斐になっている。」(太宰治『もの思う葦』)
← 一連の「女語り」の最初の作品。
・「太宰は、雑誌『若草』に良い作品を載せていた時代が一番おかしかった頃だ。初期の作
品群に当たる戦中と戦後初期の作品が一番好きだった。『人間失格』以降の晩年はちょっ
と立派すぎる。きちんと構成を意識して書いている、非常に整った作品ではあるが、よく
はない。」(吉本隆明『男とはマザーシップと見つけたり』「ユリイカ」2008/9 月号)
・『姥捨』
昭和 13 年 10 月(新潮)
嘉七(太宰)と、かず枝(小山初代)
・「私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのや
さしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた」、「反立法としての私の役
割が、次ぎに生まれる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた」
p.31
・「太宰が文学上の正覚を自覚したのは、初代さんの事件の後であろうと思っている。まる
で、酸鼻をくりかえしながら、飲み続けた。彼の苦悩がありあり手に取れるほどの、獰猛
な苦悶の表情で、太宰があのときほど、男らしく感じられたことはなかった」(壇一雄『太
宰と安吾』)
←別れなければならなかったとしても、もう少し別の別れが、ありえなかっただろうか。
・「…にもかかわらず、義の文字を消そうとしなかったとすれば、かれになお、身と魂をゲ
ヘナにて滅ぼし得るもの、という自負があったから。太宰は、はじめてわが近代に「霊魂」
の<負>の行方を確定してみせた。太宰の信じたところでは、それはかつて何人もなしえ
なかった<負>の殉教であった。」(吉本隆明『悲劇の解読』)
←ただ、これは太宰が自らの生涯を納得するために作り上げた「物語」かもしれない。この
背後に、何かが隠されたのかもしれない。周囲の一切とうまくいかないという、痛々しい
「弱さ」のような何かが…。
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・『黄金風景』 昭和 14 年 3 月(国民新聞)
お慶と、私(太宰)
・「思い出した。ああ、と思わずうめいて、…その二十年まえ、のろくさかったひとりの女
中に対しての私の悪行が、
ひとつひとつ、
はっきり思い出され、
ほとんど座に耐えかねた。
」
p.53
・「あのかたは、お小さいときからひとり変わって居られた。目下のものにもそれは親切に、
目をかけて下さった」p.55
・『畜犬談』 昭和 14 年 10 月(文学者)
私(作家)と、妻と、ポチ(真っ黒の、見るかげもない子犬)
・「ポチにやれ。二つあるなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてのは、すぐな
おるよ」 「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。」p.79
←奥さんの描き方に、「絶妙」のものがある。『善蔵を思う』の「あなただけ優しくて、私
ひとりが鬼婆みたいに見られるの、いやだから、…」p.154 も。
・『それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた仔犬に「卵をやれ」と言う。愛情からで
はない。怖ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。…「怖ろしいから与えるの
で、欲しがっているのがわかっているのに与えないと仕返しが怖ろしい」。これは他への
愛情ではない。エゴイズムである。』(津島美知子『回想の太宰治』)
・『おしゃれ童子』 昭和 14 年 11 月(婦人画報)
少年(太宰)
・「左翼思想が、そのころの学生を興奮させ、学生たちの顔が颯っと蒼白になるほど緊張し
ていました…左翼思想をさえ裏切りました。卑劣漢の焼印を、自分で自分の額に押したの
でした。…心の暗黒時代が、十年後のいまに至るまで、つづいています。…デカダン小説
と人に曲解されている、けれども彼自身は、決してそうでないと信じている悲しい小説を
書いて…」p.90
・『皮膚と心』 昭和 14 年 11 月(文學界)
私(妻、28 歳)と、あの人(夫、図案工、35 歳)
←小さな瑕疵にさえ、心は縛られる。縛られた思いは、「果て」にまでゆく。それを描き出
して、リアルなものがある。
←太宰の「悪」は明白だった。この調子であれば、やりきれなかったのではないか。病的な
(あるいは、それとすれすれの)資質もあるのか。
・『鷗』 昭和 15 年 1 月(知性)
私(小説家)
・「…かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は笑うことができるであろうか。私は、
自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。
けれども、芸術。…辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。」p.128
←「辻音楽師の王国」は、この頃の太宰の明るい光(いわゆる、中期という光)のコアをな
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すものではないか。
・「花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。きっと在るのだ。全
然新しいものが、そこに在るのだ」、「自身、手さぐって得たところのものでなければ、
絶対に書けない。確信の在る小さい世界だけを、私は踏み固めて行くより仕方がない。」
p.129
・「私は酒を呑んで、少し自分の思いを、ごまかしてからでなければ、友人とでも、ろくに
話のできないほど、それほど卑屈な、弱者なのだ。」p.142
・「おい、お金をくれ。いくらある?」p.141
←この辺りは、虚構。お金の管理は一切、太宰がやっていた。奥さんは歎いている。「私が
もっともやりきれないのは、太宰がいかにも財布は女房が握っているように書いているこ
と…」(津島美知子『回想の太宰治』)
←太宰の作品は一見「私小説」を思わせるが、虚構がいたるところに仕掛けられている。小
説的な「効果」とともに、自作品の「刻印」なのかもしれない。
・『善蔵を思う』 昭和 15 年 4 月(文藝)
私(作家)
・『夕焼けは、いつも思う。「…明日の朝、東の空から生れ出る太陽を、必ずあなたの友に
してやって下さい。あれは私の、手塩にかけた子供です。まるまる太ったいい子です」…』
p.149
・「捨てきれないのである。ふるさとを、私をあんなに嘲ったふるさとを…」p.162
←『津軽』には、故郷との和解が描き出されている。
・「この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思った。」p.172
・「あるとき花の苗を売り歩く男が庭に入ってきた」(津島美知子『回想の太宰治』)
←作品では「百姓女」に変えられている。薔薇には、男は似合わないのか。
・『きりぎりす』 昭和 15 年 11 月(新潮)
私(画家の妻、24 歳、結婚して 5 年目)
・「私には、あなたが、こわいのです。きっと、この世では、あなたの生きかたの方が正し
いのかも知れません。けれども、私には、それでは、とても生きて行けそうもありません。」
p.174
・「この画は、私でなければ、わからないのだと思いました」p.177
←太宰の作品も、私だけがわかる、と強く感じさせるものを持っているようだ。ただ筆者は
まだ、そう思えたことがない。
・「私は、あなたを、この世で立身なさるおかたとは思わなかったのです。死ぬまで貧乏で、
わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せられて、けれども平気で誰に
も頭を下げず、…」p.180
・「この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。こ
の世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうと思いますが、私に
は、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」p.194
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←太宰の売れ出した自分への、「自己批評」だろうか。それなら「この小さい、幽かな声」
は、「辻音楽師の王国」に重なるものだ。なお太宰は後年、『如是我聞』で激烈な文壇(志
賀直哉)批判を展開する。これとも重なるもの(「萌芽」)かもしれない。
・『佐渡』 昭和 16 年 1 月(公論)
私(太宰)
・「金山があるでしょう」「ええ、ことしの九月から誰にも中を見せない事になりました。」
p.216
←実際は、金山を見ている。これなどは作家の、ユーモアを思わせる。
・『千代女』 昭和 16 年 6 月(改造)
私(和子、来年 19 歳)
・『風の便り』 昭和 16 年 11 月(文學界)
木戸一郎(私、作家、38 歳)と、井原退蔵(作家、53 歳)
←書簡体小説(『トカトントン』も。他に日本では、有島武郎『宣言』、宮本輝『錦繍』な
ど)
・「作家の一人間としての苦悩が、幽かにでも感ぜられないような作品は、私にとってなん
の興味もございません」p.245
・「あなたは、完全に、悪徳漢のように言われていました。けれども、私は、あなたの作品
の底に、いつも、殉教者のような、ずば抜けて高潔な苦悶の顔を見ていました」p.246
さび
・「此の、ひきむしられるような凄しさのある限り、文学も不滅…」p.249
・「あなたはいつでも、全身で闘っている。全身で遊んでいる。そうして、ちゃんと孤独に
堪えている」p.289
・「自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。
そうして聖書の小さな活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光ってくる
から不思議です。」p.291
・「作家は…、生活と同じ速度で、呼吸と同じ調子で、絶えず歩いていなければならぬ」「平
気で歩いて居ればいいのです。五十年、六十年、死ぬまで…」p.298
・「君の赤はだかの神経に接して…」p.255
・「太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人…」、
「甘やかせばキリのない愛情飢餓症…」(津島美知子『回想の太宰治』)
・『水仙』 昭和 17 年 5 月(改造)
僕(流行作家)と、草田静子(33 歳)
・「なぜそれをぼくが引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。」p.324
←作家は、自分の作品がどれ程のものか、わかるのではないか。天才ゆえとしても、これが
ないと、孤独に堪えられない。
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・『日の出前』 昭和 17 年 10 月(文藝)
鶴見勝治(23 歳、恐るべき家庭破壊者)と、節子(19 歳)
杉浦透馬(マルキスト)、有原修作(作家)
・「生来、理論の不得意な勝治は、ただ、閉口するばかりである。けれども勝治は、杉浦透
馬を拒否する事は、どうしても出来なかった。…」p.337~338
←太宰の本音であったかもしれない。
←初出時の題名は『花火』。「時局に添わない」を理由に全文削除を命じられる。戦後、改
題。
←太宰は生涯、「人がわからない、人が怖い」と怯え続けた。これを、太宰は乗り越えられ
なかった。この<痛み>のようなものは、彼の文学を好むと好まないにかかわらず、ほん
ものに違いない。
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