まちめぐりPart5資料

歴史文化基本構想ワークショップ
瀬戸の魅力再発見 まちめぐり Part 5
品野地区(下品野)
瀬戸市交流活力部文化課
平成28 年 2 月 7 日 ( 日 )
ぜんぽう じ あ
み だ がみね
ぎ おん
①品野西遺跡→② ( 八床窯跡群 ) →③全宝寺 ( 阿弥陀峰城跡・祇園堂 ) →
かんすけ ほくざん
④津島社→⑤五丁目観音堂→⑥神明社 ( 石燈籠 ) →⑦ ( 勘介窯跡・北山窯跡 )
久雲寺
西山
勘介窯跡
寺畑
北山窯跡
神明社
落合
水 野
(天白社) ?
川
山崎
七反田
落合前
宮前
下品野小学校
島田
植田
(本
( 新町
町
)
西田
品野西遺跡
品野支所
稲荷社
更
王
(天
東島
津島社
後田
川
川
田
向山
五反田
原 後
中島
鳥 八床
)
平芝
東田
)
町
小坂
街道
飯田
信州
栄畑
清水洞
才目洞
南島
赤
洞田
鳥林
津
窯西切
道
窯東切
坂
秋葉社
新道
0
全宝寺
道の駅 瀬戸しなの
九反田
200m
堤洞
旧 下 品 野 村 域 の シ マ・小 字
(瀬戸市教育委員会 1997『瀬戸市詳細遺跡地図』に、瀬戸市 1930『瀬戸市現勢全図 市外品野町』のシマ ( 黄色 )、
『明治十五年愛知郡町村字名調』記載の小字 (2005『瀬戸市史 資料編 3 原始・古代・中世』所収 )( 緑色 ) を加筆して作成)
1
下品野関連年表
【縄 文時代】
ゆうぜつせんとう
草創期 (15,000 ~ 12,000 年 前 ) 品野 西 遺 跡 で 有 舌 尖 頭 器 ほ か の 石 器 集 中 地 点
【古 代 ( 飛鳥・ 奈 良 ・ 平 安 )】
れんじょうじゅうこ
7 世紀中葉 品野西遺跡で簾状重弧文軒 平 瓦 出 土 ( 古 代 寺 院 等 の 存 在 )
しめんびさし
8 世紀~ 9 世紀 初 品野西遺跡で大型建物跡・四面庇付建物検出 ( 県内でも有数の大型建物群 )
【鎌 倉時代】
1 3 世紀前葉 八床窯跡群で古瀬戸生産 が 行 わ れ る 。
【室 町・戦国・安 土 桃 山 時 代 】
みん ぶ
ひろなが おおまきやま やす ど ざか
1 482( 文明 14) 品 野 の 長 江 ( 永 井 ) 民 部 と 今 村 の 松 原 広 長 が 大 槇 山 ・ 安 戸 坂 で 合戦
→ 品 野 勢 が 勝 利 し 松 原 広 長戦死
1 5 世紀後半 品野西遺跡で火葬墓が築 か れ る 。
1 563( 永禄 6) 織田信長制札 ( 加藤新 右 衛 門 家 伝 世 )( 下 図 参 照 )
【江 戸時代】
1 610( 慶長 10) か 「窯屋証文」( 寺西藤左衛門他連判状 )( 下品野の「瀬戸ものやき方」への諸役免除を示す )
1902( 明治 35) 北山窯跡の操業開始 ( 昭和 30 頃まで )
1930 ~ 40 祇園祭で神武天皇像が搭載されはじめる。
織田信長制札 ( 永禄 6(1563) 年 )( 加藤新右衛門家蔵 )【市指定】
2
制 札 瀬戸
一、瀬戸物之事、諸郷商人
もと
国中往反不可有違乱之事
一、当郷出合之白俵物并塩
の
あい物以下、出入不可有違乱、
き
1888( 明治 21) 五 丁 目 観 音 堂 の 木 之 本 地 蔵 制 作
1882( 明治 15) 東島の東屋玉屋の茶店の傍らに観音堂が建立される。
次当日横道商馬停止
【近代】
之事
一、新儀諸役、郷質・所質
江戸末期 山 車 を 伴 っ た 祇 園 祭 の 開 始
不可取之事
右条々違犯之輩在之者、速
1837( 天保 8) 織田信長制札写し ( 書 出 し 文 )
可加成敗者也、仍下知如件
1795( 寛政 7) 中島 ( 津島社南 ) の秋 葉 山 常 夜 燈 建 造
永禄六年十二月日 (花押)
1658( 明暦 4) 村上長次郎が神明社に 石 燈 籠 寄 進
① 品野西遺跡(縄文~ )
うしろだ
品野盆地の西側、水野川とその支流、後田川の合流
点を望む低湿地および下位・上位段丘上に品野西遺跡
は 立 地 し ま す 。 上 位 段 丘 で は 古 代 住 居 跡 と 中 世 墓 群、
下位段丘では縄文草創期石器群と古代住居跡、低湿地
では古代住居跡と近世畑跡が確認されています。
昭 和 5 5 年 に「 品 野 町 4・6 丁 目 街 づ く り 準 備 会 」
(後
の 「 瀬 戸 品 野 西 土 地 区 画 整 理 組 合 」) が 発 足 し、 計 画
区域のほぼ全面に遺跡が広がることが確認されたこと
から、事業で削平されたり道路敷部分で恒久的に遺跡
と人との関係が絶たれる場合において本発掘調査が平
成 3 ~ 5・9 年 度 に 瀬 戸 市 教 育 委 員 会 お よ び ( 財 ) 瀬
戸 市 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー に よ っ て 実 施 さ れ ま し た。
縄 文 時 代 の 遺 構 は 、 下 位 段 丘 で 検 出 さ れ て い ま す。
品野西遺跡 4b 区出土
縄文時代草創期 有舌尖頭器
草 創 期 ( 約 15,000 ~ 12,000 年 前 ) 後 葉 の 石 器 集 中
地点や土坑が C 地区で確認されていますが、住居跡は見つかっていません。石器集中
地 点 は、 直 径 1.3 m の 範 囲 に 有 舌 尖 頭 器 6 ( 左 上 写 真 )、 木 葉 形 尖 頭 器 2 、 石 箆 2、 斧
形 石 器 2、 ス ク レ イ パ ー 類 8 、 剥 片 類 23 が 出 土 し ま し た 。 縄 文 時 代 遺 物 は 、 早 期 ~ 晩
期のものが低湿地から下位段丘にかけて土器・石器がみられます。弥生時代中期土器
や古墳時代前期 土 器 も 確 認 さ れ て い ま す 。
古 代 の 7 ~ 11 世 紀 の 遺 構 は 遺 跡 に 広 く み ら れ ま す 。 7 世 紀 中 葉 の 瓦 ( 簾 状 重 弧 文 軒
平 瓦 ほ か ) が D・E 地 区 の 旧 河 道 を 中 心 に 出 土 し て お り 、 盆 地 東 側 の 品 野 中 部 遺 跡 と と
もに古代寺院等の建物が存在した可能性を示しています。8 世紀から 9 世紀初頭にか
けて建物跡を中 心 に 遺 構 が 多 く 確 認 さ れ て い ま す 。低 湿 地 の B 地 区 で 竪 穴 建 物 跡 5 棟・
掘 立 柱 建 物 跡 4 棟 、 下 位 段 丘 の C 地 区 で 竪 穴 建 物 跡 13 棟・ 掘 立 柱 建 物 跡 3 棟 検 出 さ
ひさし
れ て い ま す。C 地 区 の 建 物 群 に は、 一 辺 7 ~ 9 m の 大 型 竪 穴 建 物 跡 や 四 面 に 庇 を も つ
品野西遺跡 3b 区 NR05 出土
奈良時代 墨書須恵器 ( 坏蓋 )「豊」
品野西遺跡 Cc 区検出
奈良時代 大型建物群
3
品野西遺跡調査区図
3 間 × 5 間 ( 約 8 × 12m) の 掘 立 柱 建 物 が 、 ほ ぼ 同 所 で 3 ~ 4 回 の 建 替 え を し て い る
状況 (P4 左下写 真 ) が 確 認 さ れ て い ま す 。
中 世 の 12 世 紀 か ら 1 6 世 紀 前 半 の 遺 構 に は 、 井 戸 ・ 土 坑 ・ 溝 な ど が あ り ま す が、 中
で も F 地 区 の 丘 陵 裾 に み ら れ る 中 世 墓 群 が 注 目 さ れ ま す。 東 西 約 40 m・ 南 北 60 m の
範 囲 に 15 世 紀 後 半 を 中 心 と し た 9 7 基 の 土 坑 墓 ・ 火 葬 施 設 を 確 認 し て い ま す 。 火 葬 施
設 ( 下 写 真 左 ) で 遺 体 を 火 葬 し、 四 角 い 土 坑 に 円 礫 を 床 に 敷 い て 棺 を 置 き、 埋 葬 さ れ た
ものと考えられますが、後に火葬した施設を直接土坑墓としたものもみられるように
なります ( 下写真右 )。
【参考文献】服部 郁 2005「品野西遺跡」『瀬戸市史 資料編三 原始・古代・中世』瀬戸市 ほか
品野西遺跡 4d 区 SZB06
中世 土壙墓 B
品野西遺跡 4d 区 SZC24
火葬施設
4
② 八床窯跡群 ( 鎌倉 )
中 世 の 瀬 戸 窯 は、 国 内 唯 一 の 施 釉 陶 器 「 古 瀬 戸 」 の 生 産 窯 と し て 知 ら れ て い ま す が、
そ の 前 期 の 製 品 は 武 士 の 都 鎌 倉 な ど に 集 中 的 に も た ら さ れ ま し た 。1 2 世 紀 末 に 幡 山 丘
陵 や 菱 野 丘 陵 で 始 ま っ た 古 瀬 戸 生 産 は、13 世 紀 前 葉 に は 馬 ヶ 城 や 品 野 の 八 床 へ 窯 場 へ
と 拡 散 し、 鉄 釉 製 品 も 生 産 し 始 め る 中 期 (1 3 世 紀 末 ~ ) 以 降 、 品 野 東 部 ・ 赤 津 地 区 な
ど東へ移っていきます。八床窯跡群は 、無 釉 の 山 茶 碗 焼 成 窯 が 8 基 、施 釉 陶 器「 古 瀬 戸」
の焼成窯が 10 基確認されています。
③ 全宝寺
全 宝 寺 は、 当 初 は 天 台 宗 に 属 し 、 天 平
6(734) 年 創 建 と も 伝 え ら れ て い ま す 。 享 禄
2(1529) 年 に 三 河 の 全 久 院 の 僧 を 招 い て 開 山
と な し、 阿 弥 陀 如 来 を 本 尊 と し ま し た が 、 永
禄 3(15 60) 年 に 兵 火 に よ っ て 堂 宇 を 焼 失 し た
と 伝 え ら れ て い ま す 。 文 禄 年 中 (1 592 ~ 95)
に 雲興寺 14 世 居 雲 宗 準 が 堂 宇 を 再 興 し 中 興 開 山 と な り 曹 洞 宗 の 寺 と な り ま し た 。寛政
4(1792) 年等 の 村 絵 図 に は 、「地蔵」と 書 き 込 ま れ て い ま す 。
あ み だ がみね おお
まき
やま
③ -1 阿弥陀峰城跡 ・ 大槇山古戦場 ( 文明 14(1482) 年 )
品 野 を 基 盤 と し た 桑 下 城 主 の 長 江 ( 永 井 ) 民 部 は 、 文 明 14 (1 4 8 2 ) 年 に 、 今 村 を 基
盤とした今村城主の松原広長との合戦を行いました。長江氏らは阿弥陀ヶ峰に城塞を
せい こ やま
築 き、 松 原 氏 ら は 今 の 效 範 小 学 校 付 近 の 勢 呼 山 に 陣 を 築 き 、 主 戦 場 は 、 阿 弥 陀 峰 の 西
側 の 大 槇 山 で あ っ た と さ れ て い ま す。 尾 張 か ら 東 濃 に 続 く 街 道 沿 い で 行 わ れ た こ の 合
戦 は、 品 野 勢 が 今 村 勢 を 安 戸 坂 ま で 追 い 落 と し 、 現 在 の 小 金 町 付 近 で の 松 原 広 長 の 戦
死によって終結しました。
阿 弥 陀 峰 城 は、 武 士 の 居 城 で は な く 砦 と し て の 一 時 的 な 軍 事 拠 点 で あ っ た と 考 え ら
れ、小高い全宝寺境内地がその故地と 伝 え ら れ て い ま す 。
③ -2 祇園堂
・ 品野祇園祭の神武天皇像及び従者像【市指定】
下 品 野 で は、 毎 年 7 月 第 3 土 曜 日 の 夜
半に1台の山車を中心として神輿や踊り
の隊列が中心部を巡行する「品野祇園祭」
が 開 催 さ れ ま す。 祭 り 当 日 に 全 宝 寺 祇 園
堂に安置されている神武天皇像 1 体とそ
の従者2体を品野陶磁器センターで待機
す る 山 車 上 層 に 献 納 ( 移 動 ) し 、神 輿 、万
燈 車 等 と と も に 品 野 1 丁 目・ 3 丁 目 の 坂
上から国道 248 号線沿いを北上し津島社
前 を 通 り 品 野 バ ス 停( 品 野 駅 ) ま で 踊 り
品野祇園祭の神武天皇像 ( 中央 ) 及び従者像(左右)
5
昭和初期 ( 昭和 5(1930) 年以降か ) の
昭和 15(1940) 年の祗園祭山車画像 ( 戸田幹夫氏蔵 )
祗園祭山車画像 ( 全宝寺蔵 )
と 山 車 曳 行 を 繰 り 返 し ま す。 町 内 に は 赤 白 の 丸 提 灯 や 角 行 燈 が 設 置 さ れ 、 祭 り を 機 会
に里帰りする人も加わり、地区中の老 若 男 女 が 参 加 し て 大 変 賑 わ う 祭 り で す 。
品 野 祇 園 祭 に つ い て は、 江 戸 時 代 の 地 誌 や 村 絵 図 に も 天 王 社 ・ 祇 園 社 ・ 津 島 社、 祭
り や 山 車 に 関 す る 記 述 が 皆 無 な た め 、 品 野 津 島 社 の 始 ま り や 山 車 を 伴 う 祭 礼 は、 遡 っ
ても江戸末期から明治初期の頃からと 考 え ら れ ま す 。
山車上層の中央に据えられる神武天皇像は、高さ 110㎝、肩幅 32㎝です。神武天皇
像 の 左 右 に は 据 え ら れ る 従 者 像 は、 口 を 開 け た 形 相 の も の ( 阿 形 )( 高 さ 78 ㎝ 、 肩 幅
2 8㎝)と、口 を 閉 じ た 形 相 の も の ( 吽 形 ) ( 高 さ 7 9 ㎝ 、肩 幅 2 8 ㎝ ) で す 。 3 体 と も に、
頭 部 は 木 製 で ( 先 代 頭 部 は 石 膏 製 ( と も に 市 指 定 文 化 財 ))、 両 腕 を 上 下 に 動 か す こ と
のできる素朴なからくり人形となっています。昭和 15 年の古写真 ( 写真上右 ) 等によ
り、 先 々 代 の 神 武 天 皇 像 は 両 手 に 日 の 丸 旗 を 持 ち 、 祭 り の 際 に 動 か し て い た 状 況 が う
か が わ れ ま す が、 現 在 は か ら く り 操 作 は 行 わ れ て い ま せ ん 。 神 武 天 皇 像 ほ か に つ い て
は、 昭 和 5 ~ 14 年 に 撮 影 さ れ た 山 車 の 写 真 ( 写 真 上 左 ) に は み ら れ な い こ と か ら 、 昭
和 10 年前後か ら 山 車 上 層 に 据 え ら れ る よ う に な っ た も の と 考 え ら れ ま す 。
祗園祭 渡御の隊列 ( 神輿・万燈車・山車等 ) 平成 24 年度
祇園祭山車と踊り ( 品野町 6 丁目付近)平成 24 年度
6
④ 津島社
下品野中島 ( 現在の品野町 4 丁目 ) の
火の見下に小規模な朱塗りの社が 3 棟み
ら れ ま す。 そ の 中 央 の 社 が 津 島 社 で す 。
津 島 社 は、 天 王 社 ま た は 天 王 さ ん と も 言
い ま す が、 下 品 野 を は じ め 瀬 戸 市 域 北 東
部では祗園社または祇園さんとも呼んで
い ま す。 周 辺 の 村 と 同 様 、 津 島 市 の 津 島
牛頭天王 ( 津島神社 ) の分霊を祀ってい
ま す。 品 野 祇 園 祭 の 際 に は 、 前 日 ま で に
津島市の津島神社に代参して受けてきた
御 札 が お さ め ら れ、 当 日 の 午 前 に 津 島 社
の前で参加者が祈祷を受けます。
な お、 津 島 社 南 に 建 て ら れ て い る 秋 葉
山常夜燈は、寛 政 7(1795) 年の銘があり 、
市内で確認される最古の常夜燈です。
祇園祭開始時に行われる津島社での祈祷
⑤ 五丁目観音堂(明治 15(1882) 年~ )
江戸時代後期に信州飯田街道沿いに
は、 地 蔵 菩 薩 や 馬 頭 観 音 な ど の 石 造 物 が
多 く み ら れ た よ う で す が、 街 道 の 要 衝 で
あり当時東屋玉屋の茶店があった傍らに
明 治 15( 188 2 ) 年 に 合 祀 さ れ た の が、 こ
の観音堂の始まりといわれています ( 平
成 6 年観音堂再 建 寄 付 者 芳 名 板 よ り )。
堂 の 奥 に は 地 蔵 菩 薩・ 行 者・ 儒 者 像 が
刻 ま れ て い る 明 治 21 年 造 の「 木 之 本 地
蔵 」 を は じ め、11 体 の 石 造 物 が 2 列 に
並 ん で い ま す。 全 て 表 面 に は 鮮 や か な 彩
色が施されています。
品 野 祗 園 祭 の 山 車 は、 現 存 す る 南 部 の
1 台 の み な ら ず、 東 部 等 の シ マ が も つ 山
車 が 他 に 2 台 あ っ た と 伝 え ら れ て お り、
そ れ ら が、 こ の 観 音 堂 の 前 で 集 結 し た と
いいます。
7
⑥ 神明社 石燈籠(明暦 4(1658) 年 )【市指定】
山 崎 の 神 明 社 は、 下 品 野 村 の 氏 神 で す。 昭 和
10 年 頃 ま で、 秋 の 例 大 祭 に は 標 具 を の せ た 飾 り
馬 が 奉 納 さ れ ま し た。 境 内 に は「 宮 の 馬 場 」 が あ
り、そこで馬を走らせ、窯の秋葉社・島 田 の 稲 荷 社・
落 合 の 天 白 社 ( 天 白 社 は 昭 和 30 年 頃 に 神 明 社 西
側に社殿が移されています ) を巡ったそ う で す 。
社 伝 に よ れ ば、 後 亀 山 天 皇 の 御 代 (1 3 8 3 -9 2 )
に信州の豪族村上理之介の後裔で品野城主となっ
た村上勘助の勧請による創建とのこと で す 。
境 内 本 殿・ 渡 殿 の 左 脇 に あ る 花 崗 岩 製 の 石 燈 籠
は、 傘・ 火 袋・ 中 台 が 六 角 柱 、 竿 が 円 柱 形 で 総 高
は 196 ㎝、 装 飾 の 少 な い シ ン プ ル な も の で す 。 竿
の 銘 文 に「 奉 壽 進 御 寶 前 明 暦 四 年 戊 戌 林 鐘 吉 日
下 品 野 村 村 上 長 次 郎 寄 進 」 と 刻 ま れ、1658 年 に
作成されたこの石燈籠は市内最古のものです。石
燈 籠 を 寄 進 し た 村 上 長 次 郎 は、 近 世 品 野 の 窯 業
を再興した加藤新右衛門家の系譜に連なる人物で
す。
下品野神明社の石燈籠
⑦ 勘介窯跡(16 世紀中頃 ) ・ 北山窯跡(近代 )
落合の久雲寺の西側丘陵尾根の東・南 向 き 斜 面 に 1 6 世 紀 中 頃 の 勘 介 窯 跡 が 所 在する
こ と は 古 く か ら 知 ら れ て い ま し た が、 南 向
き斜面が急傾斜地で崩落事故が起こる危険
性 が あ る た め、 急 遽 平 成 27 年 度 に 擁 壁 工
事が実施されることとなり、部分的な立会
調査が必要と判断されました。勘介窯跡手
前 で 工 事 場 所 へ の 進 入 路 を 掘 削 中 に、 近 代
の連房式登窯 ( 北山窯跡と命名 ) が発見さ
れ、 そ ち ら も 工 事 に 際 し て 影 響 を 受 け る こ
と か ら、 二 つ の 窯 跡 の 調 査 を 8 月 に 行 っ て
北山窯跡の焼成室と煙突
います。
中 で も、 近 代 の 陶 器・ 磁 器 を 生 産 し た 北
山 窯 跡 は、 落 合 町 の 北 山 製 陶 所 の 先 祖 が 築
いた窯炉で、明治 35 年が初の窯入れで あ っ
た と さ れ、 明 治 41(1908) 年 銘 の 煎 茶 碗 な
どが出土しています。現在出土遺物等を整
理 し て お り、 平 成 29 年 度 に 調 査 報 告 書 を
刊行する予定です。
北山窯跡右側の石垣と石段
8
まちめぐり Part 5
品野 ( 下品野 ) コース(予定)
勘介窯跡
集合場所
【下品野公民館
裏駐車場】
北山窯跡
神明社
品野西遺跡
津島社
八床窯跡群
五丁目観音堂
窯町 C
( 新右衛門 ) 窯跡
全宝寺
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