イスラエルの回復のために祈りましょう 南アフリカのユダヤ人 人口:106,000 人 よく晴れる国、南アフリカは、「世界の縮図」と呼ばれるほど、豊かな海岸線や雪頂く山など、さまざま な風景が見られる。南アフリカには世界中からやって来たユダヤ人が住んでおり、その数は 10 万6千人 に上る。現在、南アフリカにいるユダヤ人のほとんどは、19 世紀末から 1930 年にかけてリトアニアから 移民してきたユダヤ人の子孫である。ユダヤ人の一番大きなコミュニティーはヨハネスバーグ(別名エゴ リ、つまり「金の地」)にある。次いでケープタウン(別名「母なる町」)、ダーバン(南アフリカのリゾート地)、 プレトリア(ジャカランダの町として有名)、それからポート・エリザベスという大きさの順で、ユダヤ人の共 同体が点在している。南アフリカのユダヤ人はほとんどが東欧系(アシュケナジ系)の背景、文化や伝統 をもっているが、ケープタウンには小さなスペイン系(セファルディ系)のコミュニティーがある。 ユダヤ人が初めて合法的に南アフリカに住み着いたのは、19 世紀の初め、信教の自由が実現した ころのことで、この中には少数のイギリスやドイツからのユダヤ人も含まれていた。最初のヘブライ会衆 (コングリゲーション)は 1841 年、ケープタウンに設立された。その最初のシナゴーグは「ティクヴァット・イ スラエル(イスラエルの希望)」と命名され、1849 年9月 15 日にケープタウンで献堂式が執り行われた。 ユダヤ人は、金とダイヤモンドの採鉱の先駆者であり、19 世紀の終わりごろ、東欧から多くのユダヤ人が 南アフリカに移住してきたことで、1866 年にこの金とダイヤモンドが発見されたのである。ヨハネスバーグ が創建されてまもなく、のちに貿易や産業に大いに貢献した、ユダヤ人コミュニティーがそこに始まり、 1910 年までには、約4万人のユダヤ人が南アフリカに住むようになった。1930 年になると、移民の入国 を制限する法律が施行され、1937 年、ドイツのユダヤ人が南アフリカに入ろうとしたが、入国は許可され なかった。アフリカーナー(訳注:白人、特にオランダ系の人)の過激派の間では、反ユダヤ主義が急速 に広がり、南アフリカに到着するユダヤ人難民を乗せた船に対して抗議デモなどをたびたび行った。し かし、そのようなデモや入国制限の法律にもかかわらず、8千人のユダヤ人(おもに中央ヨーロッパの出 身者)が入国を許されたのである。1970 年から 1992 年まで、3万9千人のユダヤ人が他国に移民して いったが、同時期に、約1万人のイスラエルのユダヤ人が南アフリカに移住してきた。 ユダヤ人は主に上・中流階級で、かなり裕福である。彼らの中には、裁判官、弁護士、医師、エンジ ニア、建築家、教授や実業家がおり、政府の高官もいる。大半は英語を母語としているが、アフリカーン ス語を話せる人もおり、東欧諸国から来た高齢のユダヤ人の中には、まだイディッシュ語を話している人 もいる。南アフリカの高い犯罪率は、ユダヤ人にも非ユダヤ人にも悪影響を及ぼしてきた。 南アフリカのユダヤ人の大半(約 80%)は、正統派シナゴーグとかかわりをもっていて、ユダヤ人の 例祭や聖日を伝統的に守っている。人生の通過儀礼、例えば、割礼やバルミツヴァ(男子の成人式)、 結婚式や葬式に関しても同様である。南アフリカには 65 の正統派シナゴーグがある。ケープタウンのシ ーポイントというところには、一つの小さなメシアニック・コングリゲーションがあり、ユダヤ人に彼らのメシ アについての真理を伝えている。このコングリゲーションは、聖書の主な例祭や聖日も守っている。 祈りの課題 ✡この忘れられがちな宣教地に、主がさらに働き人を遣わしてくださるように。 まんえん ✡この地の右翼やイスラム教の過激派が、ユダヤ人コミュニティーとイスラエルに蔓延 させている反ユダ ヤ主義に立ち向かって。 ✡南アフリカに住むすべてのユダヤ人のために。この地の絶え間なき犯罪や暴力ゆえ、彼らは恐怖の 中で暮らしている。主が彼らを守ってくださるように。 ✡南アフリカの教会が、ユダヤ人と非ユダヤ人との間に和解、和平、そして信頼をもたらす仲介者となれ るように。 ✡教会が南アフリカのすべてのユダヤ人にとっての祝福となり、彼らのメシアに関する真理を分かち合 おうという重荷が、教会に与えられるように。 ✡ユダヤ人の安全、希望、将来、運命であるメシアの啓示が彼らに示されるように。 ✡南アフリカのユダヤ人が彼らのメシア、イェシュア(イエス)にある召しや定めに沿って歩み出すことが できるように。
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