大川の家具 本 明子 *1 OKAWA-Furniture Akiko Moto 本稿は,デザイン学会誌の特集号「木のものたち」に掲載された論文の概要である。当特集号は,「木」をキー ワードに様々な立場から,人間の文化的・生理的要素,加工技術,素材特性,製品開発などのテーマを集めたもの である。本論文では,大川の家具産業の過去と現状を歴史背景や統計資料を基に論じた。 1 はじめに 3 家具づくりの変遷 全国有数の家具産地である大川は,福岡県南部の筑 大川独特の機能を持った衣装箪笥が生まれたのは明 後地方に位置する。山林はないが,当時物流の要であ 治10年頃といわれる。それらは,大型で,杉・桐・欅 った川が流れ,その上流の豊かな森林資源がこの地に を使い,素木・透漆・黒塗等で仕上げられていた。金 産業をもたらした。当地に資源がない故に,時代によ 具には鉄・銅・真鍮等を使い,薄いタガネによる細か り手に入る材料に影響を受けながら,家具や製材の技 な透彫りを施す手法も使われた。製材,金具製造,木 術が発達し,作られる製品も形を変えてきた。大川の 工,塗装の4つの異なる高度な技術の粋を集め「榎津 家具の変化を時代とともに追っていく。 箪笥」が作り上げられた。家具が庶民のものとなった のは,明治末期以後である。庶民の財産であった着物 2 大川家具の発展 大川家具の発展の歴史は,この地が筑後川の物流の を入れる「箱」であり,火災等の非常時に持ち出しや すいように丈夫で軽く,担ぐために棒を通す金具が取 拠点であったことに始まる。豊富な資源に恵まれた筑 り付けられ,桐や杉の長持が好まれた。大正期になり, 後川流域は多くの人々が住み,上下流の交流が盛んで 火災に対する整備が整い,家具は座敷を飾る装飾品と あった。筑後川の下流に位置する大川は,上流域の山 しての価値が付加され始めた。 林で伐採された木材が日田で筏に組まれて下ってくる 大川の木工業は,増大する家具の需要に応え,鋸, 木材の集積地であり,更にその材木を筏に積んで有明 鉋,角のみ等の木工機械の導入が進み,徐々に成長を 海に送り出すため木材の集散地であった。 遂げた。組合は,各地の博覧会や品評会等に「大川指 大川家具の開祖・榎津久米之介は,当時の船大工の 物の真価を周知させ,販路を拡張する」目的で,家具 技術を生かし指物を作らせた(1536年)。榎津指物の の出品を積極的に進め販路を広げた。昭和初期の世界 流れを汲み,幕末頃には,大工80名,船大工100名ほ 大恐慌の打撃を受けたが,昭和10年頃には国鉄佐賀線 どが住み,足踏水車・木造船・戸障子・戸棚や箱・桶 の開通により,販路は九州一円へと拡大した。 などを製作した。その後,榎津生れの大工・田ノ上嘉 戦争により家具生産は一時中断されたが,戦後再開 作は,長崎で箱物の技術を習得,榎津箪笥を改良した。 した後は,急速に発展した。戦火を受けなかった生産 それに続き,田ノ上一門の職人達は,唐木細工やオラ 加工施設で,家庭用家具や,駐留軍・公共施設関連の ンダ家具等から多くの技術を学び大川家具の礎を築い 調度品の受注を受け,復興生産が順調に進んだ。しか た。この榎津指物には,釘を使わず木に穴や切り込み し,主材料である板材不足により粗悪な材が使用され, を入れ,差し合わせて組み合わせた箪笥,箱物,机等 加工や仕上がりが未熟な製品があったため,この時期 があった。その後も,大川の地で家具は産業として発 の製品は「安物」「粗悪品」の評価をされた。 展し続け,戦後は全国の家具生産の約1割を製造する 産地に成長を遂げた。 国の「重要木工集団」の指定(昭和24年)を受けた 頃には,突き板工場ができ,木材乾燥機が導入される など機械化が進んだ。翌年には,木材加工協同組合が *1 インテリア研究所 設立,木材乾燥機を導入,人工乾燥技術が取り入れら れた。また,木工機械が輸入され始め,家具の量産が の出荷額は,昭和55年1119億5800万円,平成2年1914 始まった。東南アジア等から大径木の広葉樹が輸入さ 億1400万円である。昭和47年の大川市の 家具出荷額 れ,接着剤の開発や合板製造技術が発達したことで, が約272億円で,10数年で産地は急成長した。しかし, 家具作りは手工業品から工業製品へと転換した。製材 バブル後の出荷額は減少,平成16年では約650億円と 業は,国内資源の不足もあり外材の製材へと移行し, バブル期の1/3にまで減少した。出荷額の低迷を続け 昭和25年に設立された大川木材事業協同組合は,原木 た約10年,様々なプロジェクトによる再生を試みてき の買い付けや外材の陸揚げ等の体制を整えた。 た。各プロジェクトは,それなりの成果を上げてきた 品質やデザインの向上にも目を向けられるようにな り,昭和30年には,大川家具を象徴した河内諒氏デザ ものの,将来へ繋がるような契機となるものには恵ま れなかった。 インによる「引き手なしたんす」が家具展や物産展で この状況の中,現在,産地では平成16年より,「大 高い評価を得た。これを機とした東京への市場拡大に 川リバイバルプラン」に取り組んでいる。これは人材 より,家具生産者による取引関係者のグループ化が進 育成,新ブランド開発,販路開拓の3つの事業で構成 み,各集散地単位に,契約・出荷・決済を行う組織が される。バブル崩壊以降,生活様式の多様化や輸入家 できた。輸送手段が,鉄道からトラックへと転換した 具の急増による長期にわたる売上高の低迷を打破する 後もグループ単位の出荷システムは残り,運送会社が ために,大川インテリア産業の再生に向けた産学官連 家具倉庫を持っている。 携の取り組みである。 高度経済成長の波と使用木材の変化とともに,生産 平成16年,中小企業庁の「JAPANブランド育成支援 技術の近代化,量産体制が確立した。表面材は突き板 事業」の採択を機に,大川商工会議所,(財)大川総合 や合板へ転換し,デザインや色彩も多様になった。組 インテリア産業振興センターおよび地域企業を核とし, 合組織や研究組織が,地区や業種ごとに多く発足した 九州大学やデザイナーが協力体制を築き,新ブランド が,更に強い生産体制が要求され,昭和29年に大川家 開発と市場開拓に取り組んでいる。ブランド確立に向 具工業協同組合連合会が設立され産地全体を取りまと け,各者の意識の統一に時間がかかった反面,これま め牽引した。後に協同組合大川家具工業会が発足し, でコラボレートしたことがないデザイナーとの仕事を 連合会の業務を引き継ぎ,経営・販売促進・技術等, 通して,新しいディテールや素材へ挑戦する機会を得 多面的に大川家具業界を統括・牽引している。業界の られ,それらをクリアしていくことでモチベーショ 近代化へ向け,行政では,金具や二次加工等の関連工 ン・技術力の向上につながっている。 業の誘致や家具・建具工場の集団化の推進による生産 性の向上へ取り組んだ。昭和40年代には,生産拡大に 5 おわりに より工場規模の拡大と郊外への移転が進んだ。更に, おそらく,どこの家具産地でも同様であろうが,家 高速道路へ続く幹線道路沿いに家具工場や配送センタ 具産地の現況は楽観できるものではない。しかし,木 ー等が進出し,近隣の町村へと産地が拡大した。 材を加工し,形づくってきた産業は,長い歴史を持ち, とはいえ,昭和40年代当時も,従業員数が10人未満 その土地に関連する産業ももたらしてきた。厳しい状 の事務所が85%を占め,転業廃業が後を立たない状況 況下で,様々な挑戦を続ける中で,新しい技術が生ま もあった。また,石油ショックによる主材料のベニヤ れ,それを補う道具や機械も生まれてきた。この地に の急騰,原木,接着剤・塗料等の資材不足など深刻な 根付いている「木へのこだわり」は簡単に他の産業へ 事態に陥った。この頃から産地では,「限られた資材 転換が図れるものではなく,この地では,今後も長く で付加価値の高い家具」,「景気の動向に左右されない 木材と向かい合うことになるであろう。 家具」を開発することに目が向けられてきた。 6 掲載論文 4 近年の取り組み その後,家具の生産高は増加しバブル期にはピーク を迎える。統計資料によると,大川地区の家具装備品 日本デザイン学会誌 2号 pp.44-47 (2007) デザイン学研究特集号第52巻
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