Ⅲ 高度成長期①

Ⅲ 高度成長期① <昭和36年∼昭和40年>
1.順調な業容拡大のなかで
戦後15年を経て、我が国は「高度経済成長期」に入り、
神風が吹く」といわれた相場頼みの業界体質に当社も影響
一路拡大路線を進む。当社の業容も拡大を続けるが、内部
を受けていたことが背景となっていた。このためともすれ
に病巣も芽生えていた。この時期の初期対応の遅れが会社
ば職場における効率化に向けた地道な努力をなおざりにし
の根底を揺るがすことになっていく。
がちになり、労働組合の分不相応な要求にも安易に応じが
ちになった。一方労働組合は昭和36年5月に県下の4労組
(1)三菱商事との取引基本契約書の締結
で全国金属労働組合富山地方本部を結成しその委員長組合
当社と三菱商事との取引は昭和29年9月頃から始まって
となり、総評(日本労働組合総評議会)の拡大や三井三池
いた。黄銅の条と線を製造するには大量の電気銅と電気亜
争議に代表される労働運動高揚の中で当社の労働組合もそ
鉛が必要で、当社の製造規模拡大につれ、三菱商事富山支
の影響を強く受け、活動を先鋭化させていった。「春闘」や
店ではトップクラスの取引先になっていた。4段圧延機の
夏、冬の「一時金」交渉の際には争議行為として会社正門
資金の融資を受けるに当たり、昭和36年5月26日付で同
に組合旗が立ち、組合員ははちまき姿で就労し、時間外労
社との間で取引基本契約の確認書、根抵当権設定契約書、
働拒否やストライキが頻繁に行われるようになっていた。
および債権債務相殺契約書が取り交わされた。
この病巣は昭和37年7月期決算(当時決算期は7月31日)
で一気に顕在化し、9,900万円の経常赤字を出した。会社
(2)近江伸銅の設立と拠点の整備
この頃関西地区には切削加工品等の「挽物業者」が数多
幹部は事態を憂え打開策を模索していた。昭和37年1月に
製造課長代理に昇進した二口光興(36) は、初めて出席した
く立地しており、そこでは旧来の糠型製法による棒が好ま
管理職会議で「こんなことをしていては会社が潰れる!」
れ、一定量の需要が存在していた。田中社長は押出機導入
と発言し物議を醸した。田中社長は
により遊休になった糠型ラインを有効活用しこの需要の開
「会社はそんなに簡単には潰れないよ。
」
拓に当たろうと図った。そこで需要地に近く開発の遅れて
と諭す一方、対応策の策定を命じた。
いた滋賀県水口町で用地を取得し、工場建設に当たった。
二口光興を中心に若手管理職の手で人
当初当社滋賀工場とする案もあったが、現地で採用する従
員再配置を内容とする再建計画が策定
業員の感情も考慮し、糠型棒専用の別会社、近江伸銅㈱
された。作成年に因み「37計画」と
(田中源一社長、資本金1,500万円)として昭和36年8月
呼ばれた計画の完全実施を目指し会社
に設立した。
また、東西の営業所では受注体勢の拡大と強化を図るた
第3代社長 田中源一
(昭和26年∼46年在任)
幹部が職場説明に入ったが、労働組合
の強い抵抗にあい、実施できなかった。
め、取引製品問屋の組織化に着手した。昭和36年に「東京
社長はじめ役員、管理職層の危機感の欠如がここでも露呈
三越会」、「大阪三越会」を相次いで結成し、また相場変動
した。こんな中、昭和38年初頭この地を襲った「38豪雪」
が激しい中で原料の安定購入を図るため「東京三越原友会」、
が追い討ちをかけ、会社の機能は完全にマヒした。同年7
「大阪三越原友会」を結成し協力を求めた。
月期決算では1億7,000万円の経常赤字を出し、遂に債務
超過に陥った。なお、この会社決算の実態は一部の幹部段
(3)棒・線設備の強化、連続生産化
押出機の導入の効果を生かすため、昭和38年7月に自社
階に止めおかれ、従業員はおろか、融資を受けている三菱
商事や取引銀行にも秘せられた。
開発による棒・線ビレットの半連続鋳造機を設置した。さ
らに39年12月に連続伸線機(AH-6、CD-550)、連続抽
伸機(CM)が設置され、棒・線の品質安定と生産性の向
上が図られた。この結果昭和40年には月産平均900トン
(棒290トン、線380トン、条230トン)に達した。従業
員は500名を数えていた。
(4)しのびよる破局と「37(さんなな)計画」
順調に業容を拡大する陰で病巣が生まれていた。品質と
生産性の向上を目指し次々と設備投資を行いながら、一方
で従業員数も増加して、期待した収益上の効果は十分得ら
れないまま推移していた。これは右肩上がりで拡大を続け
る需要を背景に、市況性の強い銅を原料とし「十年に一度
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屋根まで雪に埋もれた「38豪雪」
(高岡工場、屋根の雪おろしが仕事だった)
サンエツの歩み
当時の出勤風景
(高岡工場正門、自転車と電車通勤が主力だった)
1961→1965
当時使用していたカタログ
(5)社内報「さんえつ」の発刊
当社のあゆみ
昭和39年1月の組織
1961 昭和36年
6月●三菱商事株式会社と取引基
本契約締結
8月●糠型製法による黄銅棒専業
メーカー近江伸銅株式会社
を設立
1963 昭和38年 7月●自社開発による棒・線ビレ
ットの連続鋳造機を設置
1964 昭和39年 12月●線および棒の連続式生産シ
ステムが稼働する(連続伸
線機(AH6)、多頭連続伸
線機(CD-550)および連
続抽伸機導入)
改編で誕生した調査部
より社内報「さんえつ」
が発行された。目的は
「従業員とその家族を含
めた会社との一体感、
融和を図ること」であ
った。会社として現状
を打開する施策の一環
業界の動き
9月●映画「伸銅物語」完成
3月●伸銅品市況回復。黄銅棒に
始まり板、管へ波及
でもあった。これに対
して一部の労働組合活
●映画「伸銅物語」と「若いブラスの歌」
動家と呼ばれる従業員
からは、「あれは会社の
社内報「さんえつ」創刊号
古代から人間生活に不可欠な金属でありながら、伸銅品は
紙爆弾だ」との執拗な
一般に認識されておらず、「伸銅品」の用語自体が理解され
干渉が入ったが、担当の越前敏雄係長(32)と社内報編集委
ていなかった。日本伸銅協会では広く社会に周知することが
員会の執念ともいえる頑張りで毎月16∼20ページ建てで
発行されていった。会社の機関誌として、従業員・家族の
急務と考え、昭和34年に協会内にPR委員会を設けた。PR
誌の発刊等とならんで、オールカラーのPR映画「伸銅物語」
が制作された(昭和36年)。監督・古賀聖人、撮影・岸寛身、
親睦の場として確実に役割を果たした。(一部中断期間を挟
音楽・古関裕而と劇場映画並みで、フィルムも35ミリ(通
み昭和53年1月の128号まで続く)
常は16ミリ)で当時としては画期的な作品であった。また
発刊間もない「さんえつ」に社葬の記事が二つ載った。
一つは昭和39年3月13日会社構内踏切で起きた労災事故
である(当時高岡工場は拡張の結果、鉄道線路を挟んで建
っており、構内に踏切があった)。フォークリフトで構内運
挿入歌として「若いブラスの歌」(作詞・和田隆夫/作曲・
古関裕而)がつくられ、当時「喜びも悲しみも幾歳月」で人
気のあった若山彰が歌った。初めての伸銅品のコマーシャル
ソングであった。一番の歌詞は、
若いそよ風 ブラスと呼んだ
搬中であった米林八良さん(32) が列車に巻き込まれ死亡し
ブラス ブラス ブラス
たのであった。もう一つは昭和40年2月27日木口時次郎
あまいムードの 素晴らしさ
会長(74)が逝去された。東京池上の本門寺で行われた当社
胸のブローチ ルージュのケース
創立の功労者の葬儀の模様が伝えられている。
みんな輝く ブラスカラー
ブラス ブラス 夢も楽しい 伸銅品
いかがですか?
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Ⅲ 高度成長期② <昭和41年∼昭和46年>
2.高度経済成長のかげりと当社の混迷
(1)販売拠点の拡大
三菱商事との関係が強まると同時に同社を窓口とした営
業展開が進み、九州地区、浜松地区にも広がった。この中
で昭和42年3月に浜松営業所を開設、同年4月には大阪営
業所を翌43年5月には東京営業所をそれぞれ支店に昇格さ
せ、続いて44年7月に名古屋支店を開設し販売網を強化し
た。この営業展開は焦付き債権を生んだが、田中源一社長
はそれらの販売先を次々と配下に納め当社のネットワーク
に組み込んでいった。しかしこの一見積極的に見える営業
政策は人材の拡散と、不良債権の蓄積を生み、当社の体力
東京三越会の慰安旅行
(昭和42年)
を弱めることにもなった。
電による黄銅条の連
(2)景気変動と「43計画」
高度経済成長のかげりで昭和40年は深刻な不況に陥った
続焼鈍について」
(辻
が、41年に入り「神風」が吹いた。産業界全般の需要回復
昭治、日南田敏衛共
に加えベトナム戦争の激化で銅価格が暴騰し、市中電気銅
同研究)
が選ばれた。
のトン当たり価格が一時85万円になり、製品価格も暴騰し
ま た 、昭和44年の
た。当社は41年7月期決算では3億2,700万円の経常利益
叙勲で田中源一社長
を上げ、債務超過を一気に解消した。しかし銅価格の落着
は伸銅工業の発展に
きと共に収益は再び悪化し、42年以降経常赤字と債務超過
尽くしたとして、藍
が続いた。年間金利負担は2億円を超えていた。
綬褒章の受章の栄
昭和42年5月25日、三越金属工業に改称して20周年を
日本伸銅協会伸銅技術研究会
第1回技術論文賞表彰状
に浴した。
祝う式典が高岡市民会館で盛大に行われた。挨拶に立った
田中社長は「のんびりムード」を打破し「生産目標を達成」
し「自らの職場は自らで守れ」と訴えた。
(3)幻の「岐阜川辺工場」と砺波工場
深まる経営危機の中にあって当社は2,500トン押出機を
中心とした黄銅棒の新鋭工場を建設し、拡大した生産力で
事態を打開しようと図った。労働組合の影響が及ばず、ま
た消費地に近い土地でというのが条件であった。
昭和43年中頃その候補地として岐阜県加茂郡川辺町が挙
がった。関西・東海地区の市場への近さに魅力を感じた当
社と、地域の活性化を目指す町当局の思惑が一致し、調印
寸前まで進んだ時、木曽川で工場排水によるアユの大量死
が発生した。候補地は飛騨川沿岸であり公害防止上問題が
あるとして、当社から白紙に戻した。真の理由は、従業員の
昭和42年5月の創立記念慰安会
配置転換をめぐる労働組合の反対と資金調達問題であった。
代案として砺波市太田地区と富山新港工業団地が挙がっ
また同年12月に資本金を2億円に増資した。この増資で
たが、太田土地改良区の協力姿勢と地価の関係で砺波市
田中源一が筆頭株主(7.5%)となり、阪根商店が株主名簿か
(現在の砺波本社工場の場所)に決まった。昭和44年夏であ
ら姿を消した。代わって取引先で、当社が経営に深く関与
った。
していた大阪の大幸商店や関係会社の近江伸銅、諏訪金属等
が持株を増やした。また、三菱商事も株主(2.5%)となった。
当社は翌43年、事態の打開を目指して新計画(「43計画」
)
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(4)砺波工場建設の難航
昭和44年9月会社は砺波工場建設計画と、
月産2,150トン
を策定したが、またもや労働組合の強い抵抗に合い、実施
計画を併せ発表した。設備の総投資額は13億円で、
大半を
に至らなかった。
三菱商事からの融資に依存する計画であった。
明るいニュースもあった。昭和42年11月、日本伸銅協会
昭和45年2月1日、
会社は砺波工場建設事務所(委員長萩原
伸銅技術研究会の第1回技術論文賞の一つに当社の「直接通
博、事務所長辻昭治)を発足させ、本格的な建設作業を開始し
サンエツの歩み
1966→1971
砺波市太田地区の工場建設予定地
(見渡すかぎりの田んぼであった)
た。また富山県や砺波市との公害問題での折衝も開始し、
45年6月砺波市及び庄川沿岸漁業協同組合連合会と覚書を
締結、9月には高岡市、新湊市、小杉町、大門町、大島町
との間で公害防止に関する協定書を締結した。
一方で建設阻害要因も起きた。4月に農地転用許可前の
着工が明らかとなり、建設工事が7月まで中断となった。
これは建設工事を急ぐ当社の焦りと、砺波市の工場進出に
対する事務処理経験の
不足の結果であった。
また、当社は労働組合
に対し高岡、砺波両工
場の人員配置計画と労
砺波工場通電式でスイッチを押す田中社長(昭和45年8月10日)
働条件変更計画を提示
した。計画をめぐる労
●「時の人の幼き日」も登場
働組合との協議は翌46
社内報「さんえつ」は社員の親睦を
年1月「職場交渉」方式
図るために、社員やその家族をできる
で始まった。
だけ多く登場させる工夫をした。定番
この間、労働組合内部
として人気のあったのは社員の「リレ
でもいたずらに時間を費
ー訪問」、社員の家族の「ママさん登
場」
、「ぼくもわたしも小学一年生」な
やす従来路線に危機感を
どがあった。「ぼくもわたしも…」は
抱いた一部組合員から幹
小学校入学当時の
本木克英監督
部批判が巻き起こった。
砺波工場の建設作業
毎年3、4月号に、その年小学校に入
学する社員のお子さんを紹介する企画
で写真とアンケートからなっていた。
愛らしい写真とエピソードに皆ほのぼのとした気分を味わっ
た。昭和45年3月号のこの欄に本木克英君が載っている。そ
う!今映画「釣りバカ日誌」の監督として時の人となってい
るあの本木監督の幼き日である。父親の克明さんは当時原料
課長代理だった(後に取締役)。
ちなみに紹介アンケートによると、克英君は「動物や怪獣
に興味をもち体重、身長、出身地などに詳しく」、良いクセ
は「自分の見たいテレビを見終わるとスイッチを切って『な
がら族』にならないこと」、悪いクセは「夜中、母親のフト
ンにもぐり込んでくる」こと、となっている。さて、本木監
督は覚えているのかな?
ここで紹介されたお子さん達は皆さんもう親の世代になっ
ておられます。
庄川漁連との公害防止協定調印式(昭和45年6月22日、砺波市役所)
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Ⅲ 高度成長期③ <昭和41年∼昭和46年>
(5)
「農協会館事件」
たがやがて涙とともに同意した。ここに操業開始直前の砺
企業内組合の枠を超え、政治色を強めてきた労働組合の
活動方針をめぐって組合員内部に不満と不安が芽生えてい
波工場の三菱商事と同和鉱業への売却が決まった。
2月25日の取締役会で承認された売買契約書の内容は、
た。労働組合結成当初の組合員や、社外と接する機会の多
価格は建設価格に6億円上乗せした19億3,200万円、支払
い事務所や営業部門の組合員を中心に運動方針転換を求め
いは両社に対する債務額との相殺条件であった。
る動きが起きてきた。この動きは昭和45年9月の組合執行
砺波工場売却を知らされた労働組合は、売却に抗議して
委員選挙に係長2名(菅谷與一郎、佐野恒誉)が当選する
直ちに同工場を占拠すると共に、当社の破綻が間近と見て
ことに表れた。砺波工場建設をめぐる組合執行部の対応も、
退職金債権確保のため吉久、砺波両工場の有体動産の仮差
より不安を募らせるものとなった。2名の執行委員を中心
押を行った。砺波工場の周囲に支援の労働組合の組合旗が
に約40名の組合員が高岡市農協会館の会議室に集まり労働
林立した。のどかな田園地帯に突如現れた異様な光景に太
組合の現状を話し合い、対応を協議した。この会合の様子
田地区の住民は仰天した。しかし3月末の当社の資金ショ
は一部の出席者から漏れ、即日労働組合執行部の知るとこ
ートによる倒産の危機という現実に直面し、労働組合は田
ろとなった。執行部は「労働組合分裂策動だ」として翌日
中源一社長から経営危機を招いた「謝罪」と、「生産活動の
から厳しい巻き返しが始まった。出席メンバーは次々組合
正常化に努める」との一札を取り、工場占拠と仮差押を解
事務所に呼び出され、事情聴取を受け「反省」を求められ
除した。建設事務所は閉鎖され、砺波工場は売却された。
た。2名の執行委員と中心メンバーと目される組合員には
「反組合分子」のレッテルが貼られ査問委員会の厳しい査問
(7)内整理(ないせいり)と希望退職募集
と、扇動された組合員による「吊し上げ」が始まった。出
当社は内整理案を作成し、昭和46年4月28日債権者会
席者の中にはいたたまれず退職する人まで表れた。主立っ
議を開催した。ここで19社の債権者に対し債務の30%免
たメンバーは会合して、善意の組合員からこれ以上犠牲者
除、50%棚上げを求め、承諾を得た(返済計画は継続審議)。
は出せないとし、2名の執行委員は辞任して動きを終息さ
同時に労働組合に人員削減を柱とした再建計画を提示した。
せた。こうして労働組合改革を求める運動の芽は摘まれた。
こうして6月に「第1次人員削減案」が実施された。骨子は
①工場の人員を542名から490名に削減する、②支店営業
(6)砺波工場の売却と混迷 昭和45年9月30日の定時株主総会で、松井庄一郎、萩
所は分離し新会社を設立する、③関係会社への出向者は除
籍する、であった。
原博、浜井清一の取締役3名が退任し、新たに矢坂正之
その後、同年9月債権者会議に提出した再建計画に基づ
(北陸銀行出身)、植原金造(非常勤・三菱商事)が就任し
く「1,550トン生産、360名体制」案が提示され、12月
た。新任の取締役により、永らく秘せられていた経営実態
に至り原案どおり実施、完了した。この間労使交渉は難航
が三菱商事の知るところとなった。また、起死回生策であ
し、希望退職者募集や指名解雇などが行われ社内は騒然と
った砺波工場の建設が予定より大幅に遅れたことは致命的
した雰囲気であった。
であった。昭和46年1月、三菱商事は「砺波工場の売却資
金で資金繰りをつけることによる三越金属の延命」策に同
意することを当社に迫った。田中社長は突然の話に絶句し
(8)青木社長の就任
昭和46年6月30日開催の臨時株主
総会で田中源一社長が取締役会長に、
後任社長に青木育郎(49)が就任した。
青木社長は三菱商事本店非鉄金属部
次長からの転身であった。また三菱
商事より中島是明、三菱金属より重
村文雄、若松志広が顧問として着任 第4代社長 青木育郎
した。そして同年11月5日付で田中(昭和46年∼48年在任)
源一は取締役会長を辞し、会社を去った。
この年7月2日、当社の東京、大阪、名古屋各支店と浜松
営業所が三菱商事の手で新たに三越伸銅販売株式会社(資
本金1,000万円、代表取締役森徳郎)として設立され、7
砺波工場を占拠した労働組合
(カベには県内他社の労働組合旗)
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月23日には三菱商事と同和鉱業に売却された砺波工場が北
陸金属工業(資本金4,000万円、社長隈部鵬)として設立
サンエツの歩み
された。なお11月に当社より58名が同社へ転社した。ま
た、富源商事、諏訪金属、近江伸銅、関西金属等の関係会
社は全て三菱商事の手にわたった。
1966→1971
当社のあゆみ
業界の動き
1967 昭和42年
3月●浜松営業所を開設
4月●大阪営業所を支店に昇格
9月●伸銅品製造業、中小企業近
代化促進法の対象業種と
なる
1968 昭和43年
1969 昭和44年
1970 昭和45年
5月●東京営業所を支店に昇格
7月●名古屋支店を開設
2月●富山県砺波市太田地区に
100,000㎡を取得し、砺波
工場の建設に着手
2月●完成間近の砺波工場を三菱 10月●業界、自主減産態勢
商事株式会社および同和鉱
業株式会社に売却
6月●三菱商事株式会社より青木
育郎社長就任
●支店、営業所が分離し、三
越伸銅販売株式会社として
独立。富源商事株式会社、
諏訪金属株式会社および近
江伸銅株式会社等子会社も
三菱商事株式会社に売却
さらに、当社は9月17日付で80%の無償減資を行い資
本金を4,000万円とした。当社の発展を支援していただい
た株主各位の信頼を裏切り、多大なご迷惑をおかけするこ
とになった。
こうして当社は従業員360名の、販売部門を持たないメ
ーカーとして再スタートすることになった。
1971 昭和46年
細棒工場内部
●チューリップの教え
砺波平野に春を告げる行事にチューリップフェアがある。
今や散居村と並んで、全国的に知られており、田んぼ一面に
絨毯を敷き詰めたような光景は、テレビや映画にもたびたび
始業前の体操
(高岡工場事務所前)
登場する。そのチューリップフェアが、当社の砺波進出を手
荒く歓迎した。
昭和45年4月、この年もチューリップフェアは華々しく開
会した。来賓として会場を訪れた中田幸吉富山県知事は咲き
誇る各種のチューリップに気分を和ませ、満ち足りた気持ち
になったが、一つ心に引っかかるものがあった。それは富山
から来る公用車が太田橋にさしかかった際、中田知事の目に
飛び込んできた庄川左岸の田んぼの中を忙しく動き回るブル
ドーザーの姿であった。会場に居合わせた砺波市の幹部に尋
ねると、「あれは高岡の三越金属です。今度砺波に進出する
ことになったんです!」と誇らしげな答えが返ってきた。怪
訝に思った中田知事が県庁に帰り、関係部局に問い合わせた
ところ、農地転用の許可申請が未提出であることが判明した。
知事は直ちに工事の中止を命令した。
不正を許さないかのように凛と立つチューリップがもたら
昼の休憩時間にバレーボールで気分転換
(高岡工場製造事務所横)
した教訓である。
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