自己の発話によって捉えられる ―― 聴声経験の病を分析するものとしての倫理学 ―― 本間義啓(成城大学非常勤講師) 1 聴声経験を通して自らを語る 本稿の目的は、「聴声」をテーマにして、主体の自己性を脅かす病を哲学の問題として分析する ための言説を構築することである。精神病理学、精神分析は幻聴に苛まれる主体の多様な病態を記 述、分析し、なぜ、どのようにして声を聞くのか、どのような声の聞き方が主体の自己性を危機に もたらしているのかを問題にしてきた。その一方、哲学は、ソクラテス以来、自分の声を聞く経験 と他者の声を聞く経験について語り、あるいは、デリダ以降、この言説そのものを批判的に反省す ることもしてきた。哲学にとって、精神分析等の声についての言説は有益である。なぜなら、聴声 経験における主体の構成を、病や妄想や狂気という自己性の危機の可能性を考慮に入れた上で、分 析することができるからであり、また、その具体相を様々な症例を通して思考することを可能にす るからだ。声を起点にとる時、哲学と精神分析の対話は有益なものとなるだろう。1)聴声につい ての哲学的言説を吟味するために、幻聴を分析する精神分析や精神病理学のテキストを読解する。 2)聴声主体の自己構成を、その危機の可能性を議論の中心にすえて、哲学的に分析する。3)そ してこの作業を通じて、哲学と精神分析の間で、聴声主体を分析するための言説を構築する。この 三つが本研究で行われている具体的な作業である。以下にその概要を報告する。 声を語る哲学的言説を病との関連において捉える試みは、精神分析においては、とくに真新しい ものではない。ラカンが言うように、「精神分析は、その黎明期において、良心の声を[精神病の 声の現象]に帰するにやぶさかではなかった」1。哲学的な主体の聴声経験(良心を「声」として 記述するのは哲学の伝統と言ってよい)を、主体の病態において捉える試みはめずらしくないにせ よ、しかし、その射程はいまだ精査されていないように思われる。精神分析が哲学的聴声を精神病 と比較したとしても、それを哲学への侮蔑と受け取る必要はないし、声を聞く主体が全て「異常」 と考える必要もない。「異常」・「健常」の区別を脇に置いて、聴声経験における主体の自己構成 の在り方を厳密に問い直さなければならない。なぜ、どのような意味において、声を聞く経験を幻 聴の経験に近接させて語ることができるのか。幻聴という観点から良心を論じることに、いかなる 生産的な意義があるのか。どのような仕方で声を聞くことが、主体の自己性を危機にもたらし、危 機における主体性はいかなる仕方で存立しているのか。こういった問いこそ、本研究が答えを与え ようとしているものである。 声は、必ずしも、自己との近さにおいて自己同一化を可能にする対象というわけでもないだろう。 哲学者が語る聴声は「通常」や「日常」や「自己への近さ」といったものを崩壊させるような「衝 撃のモメント」として記述される。たとえばハイデガーが語る良心の呼び声。それは各自の自己へ 向かって呼びかけられつつも、「遠い所から遠い所へ」と鳴り響くように感じられ、何事も語らず 1 J. Lacan, Écrits, Éditions du Seuil, 1966, p. 772. 1 「黙止の様態」で話すとされる。重要なのは、それが「私のうちから、しかも私を超えて」聞こえ るとされる点である(『存在と時間』第五七節)。つまり、それは私から響きつつも、私が自分の ものとすることができない類いのものとされる。また、レヴィナスにおいては、主体は他者の顔か ら「汝殺すなかれ」と命じる声や、迫害する他者への責任を負うよう命じる声を聞く。レヴィナス は、声は「耳を聾する外傷」をなすとし、その聴取を〈私〉の自己性、主体性の失調の経験として 記述したのだった。これらの経験は異様である。しかし、異様な声について語る哲学は自らの言説 を病んだものと認めることはない。むしろ、声についての哲学的言説は真理を標榜している。その 真理とは何か。それは主体、自己、〈私〉の真理である。哲学において声は、主体の自己性の構成 に関して重要な契機をなすとされてきた。本来的に自己であるために、他者のための一者であるた めに、自らに法を与える理性的存在者であるために、自己、主体、〈私〉は声を聞いていなければ ならない。たしかに、声は私が私であることを可能にする特権的な対象であるかもしれない。しか し、カント、ハイデガー、レヴィナス等において顕著であるように、聴声経験は、自己の内面性の まっただ中で生じる外部性、他性の試練として記述されてきた。したがって、聴声経験は、自己と の近さというよりも、自己との疎遠さにおいて自己を構成すると言った方が適当だと思われる。 哲学的聴声において問題となるのは、自己の、エゴの真理なのであり、この真理は聴声として経 験される。そして、まさにこの真理こそが、精神分析が哲学的聴声を精神病のそれと同列に置くと きに、一個の問題として吟味されるべきものとなる。つまり、自己の真理は狂気にも近いのではな いだろうか。もし精神病者が聞く声と哲学的聴声が近いのだとしたら、自己の真理と狂気の近さが 問題になっていると考えられるのではないだろうか。声を通して、自らの真理を探るとき、その経 験は、狂気でもあるような自己性の失調という試練ともなりうるのではないか。聴声経験における 真理と狂気の近さ、それこそが自己性の病の場所なのではないか。あるいは次のように問いを重ね ることもできるだろう。自己が自己であることを追求することが狂気ともなりうるのではないか。 声によって自己性へと辿る経験は、自らの語りにおいて狂気に近づくのではないか。 当然ながら、自らが聞く声を語ることによって自己について語る言説そのものが何らかの病を証 すものとなるわけではないだろう。声によって自己について語る特有の仕方があり、そして語る主 体の特有の構造があるのであって、それが自己性の病の指標となるのであろう。自らであろうとし て自らを語ることとその病理との関係について理解させてくれるものとして、長井真理によって分 析された「内省型」と言われる統合失調症における自己観察の亢進がある。 2 見る自分を見る、話す自分を聞く 統合失調症などにおいて自他の境界が不明瞭になる症状を伴う自我障害が経験されるが、この経 験の当事者が自らの病んだ自己を内省において捉えようとするケースがある。当事者は「執拗なま でに自己観察をくり返し、自らが被っている病的変化をありのままに――決して無理な因果関連の うちに置いたり、妄想的に関係づけたりすることなく――捉えようとしている」2。そして長井に 2 長井真理『内省の構造』 、岩波書店、一九九一年、七一頁。 2 よれば、自らの病態に気づき、それを言語化しようとする行いそのものに問題が生じる場合がある と言う。つまり、内省性の亢進それ自体に潜む病理があるのであり、それは精神病に特有の症状と して観察されうる3。それはどのような語りか。自己の語りの病の指標を明確にするために、長井 は「事後的内省」と「同時的内性」という二つの内省の仕方を区別する。「事後的内省」の例とし て長井はある患者の自己の語りを次のように報告している。「私は与えられたものしかこなすこと のできない人間。人と喋るときでも、私はただ聞いているだけ。自分から言葉が出てこない。頭の 中を整理して言葉にすることができない。私は一般の人と異なった頭を持っている」4。自分は「他 の人と違う」という意識を持ち、他の人が普通にしていることができないという反省を執拗に続け、 「欠如態としての自己規定」を行っていると長井は言う。これに対して「同時的内省」としては次 のようなものが報告されている。「人と一緒にいるといつも、みんなの中にいる自分と、それを客 観的に見ている自分と二人いる。どんなに夢中になっても、外から見ている自分がいつもさめてい る。心から人の中にとけこめない。外の自分がいつも自分を管理しコントロールしている。人と喋 っているときも、他人の言葉を聞くのは外の自分で、それを内の自分に伝えて、それを聞いて内の 自分が喋りだす。外の自分が指令したことを内の自分が喋る」5。二つの内省の差異は、明確であ る。事後的内省とは、たとえば、他者に対して発話する自分について反省するものであるが、同時 的内省においては、発話行為そのもの、しゃべっている最中の自分を反省するものと言える。それ は、例で出されたように、話している自分を、あたかも外部にいる人が自分を捉えるかのように、 自己自身を外から見るという事態として経験される。 長井によれば、この二種類の内省の違いは、自己の対象的認識と自己の非対称的認識の差異とし て表現されうるものであり、この差異を起点にして、自己の自己への関係が異なる仕方で構築され ると言う。第一の場合、自らを「他の人間とは違う」人間、何らかの「〜である者」として、自己 を対象的に捉える。ある主体が自らを対象として捉えるとき、そこには「自分を捉える自分」(主 我)と「捉えられる自分」(客我)の関係があり、この関係は、後者に対する前者の優位性によっ て規定される6。たとえば、〈私〉(主我)は「私」(客我)を〜だと思うとき、〈私〉は自らを 〜である者として対象化し、それに同一化している。こうして〈私〉は自らを〜である「私」とし て規定する。この自己規定が「事後的」とされるのは、内省が往々にして過去形によってなされる 点を強調するためである。つまち、私は自らの語りにおいて自らを「私は〜した」あるいは「おま えは〜した」という言表の主語として捉えるということである。 これに対し「同時的内省」は、自らを対象化することも、自らを完了時制においてとらえること もしない。「〜した私」ではなく、「〜している私」そのものを捉えようとするものである。それ は、たとえば次のような形で言い表される。 「人と一緒にいるといつも、みんなの中にいる自分と、 それを客観的に見ている自分と二人いる」。あるいは「自分を意識しすぎる。絶えず自分で自分を 見つめているからテレビなど見ていても頭に入ってこない」。このような同時的内省において生じ 3 4 5 6 前掲書、一八五頁。 前掲書、七六頁。 前掲書、七八頁。 前掲書、八二頁。 3 ているのは、〈私が〉自らを「〜である私」として対象化するというよりも、〈私は〉「〜してい る」当の〈私〉を見ると言うことであり、つまり主我—客我という関係ではなく、主我—主我という 関係であると言えよう。私は「自分を見る」というよりも、「見ている自分を見る」のであり、私 は「〜した」私であるという対象的な規定を与えるのではなく、主我としての自分、「見ている」 自分を見ようとするのである。 長井による同時的内省の分析の中に、自己の真理と狂気の近さという我々の研究テーマを明確化 するに役立つ三つの問題を取り出すことができる。それは1)〈私〉の異他化、2)他者への同一 化、3)自己性の病である。 1)主我としての自分を自分で見ようとするとき、私はまるで、自分を自分の外にいる他者を見 るかのように見ている。長井が言うには、「「主体」は、人と喋ったりテレビをみたりという、現 実のその場その場での経験的行動をする「主体」であると同時に、その場面を背後から見つめてい 、、、、 、、、 る「主体」である。(…)自己を自己自身がみていると同時に、自己は自己自身によってもみられ 、 てもいる」7。この「みている」と同時に「みられている」意識によって、自己の内省における自 己把握のうちに他者性が入り込む。まるで他者を把握するような仕方で自らを捉えるということに よって生じる他性である。他者が自己の外で観察されるのと同じように、あたかも〈私〉 が自己 の外の他者であるかのように「私」を自己の外に対象として立てる。この意味において、〈私〉は 「私」を自分の外に見る観察者のようになる。あたかも他の人間が「私」を対象として捉えるかの ように私は〈私〉を捉えるということだ。私の異他化というのは、見られる私の異他化でもあり、 また同時に見る私の異他化でもありうる。 他者が自分を見ているかのように、見ている自分を見る。見ている自分を見ることができるとす るならば、そのとき、見ている自分が自分である限り、この自分に見られていることにもなり、自 分が見ているにもかかわらず、見られているという奇妙な経験に置かれていることになるだろう。 とはいえ、通常、自分を見るときに、見つめられているという感覚には陥らない。だが、見ている 自分に「見つめられる」という被注察感を感じられるとしたら、見ている自分が自己から解離して いるからにほかならない。「見る」と同時に「見られる」ときに、「見る自分」が解離し、「見ら れる自分」のほうに傾くことがあり、その経験が被注察感ということになる。あたかも、自分自身 から〈私〉が解離し、それが「私」をまるで他者を見るかのように見るということになる。こうし て、自己への接近が自己による他我の把握と近接することになる。長井が言うように、「「同時的 内省」という形での自己自身のへの関係の在り方は、現実の対人場面に置ける自己と他者との関係 のありかたに、その構造上近似している」8。また、この同時的内省と他者把握の構造的に類似に 関して、木村敏は次のようにのべている。「同時的内省を構成している二つの自己のうち、片方が 容易に他者性を帯びることになる。「見ている自己」のほうが他者性をおびると、そこから「他人 が自己を観察している」という注察念虜が発生してくることになる(…)」9。 2)おそらく、「健常な」経験においては、自分自身を見る時、見る自分を見ることもないし、 7 8 9 前掲書、八七頁。 前掲書、八九頁。 木村敏『分裂病と他者』、ちくま学芸文庫、二〇〇七年、二六五頁。 4 自分によって見られると思うこともないのだろう。つまり文字通りには自分自身を見ることはして いないのかもしれない。だが、内省の亢進においては、見ている自分を見ようとし、これによって 見られているということが起こる。しかしながら、それは必ずしも「異常」とは言えない。自分を 他者が見るように見ることは対人関係に置いては往々にして起こる。たとえば、実際に他者と話し をしている時、この他者と話している自分を見ているということは起こりうる。私は他者が私をど う見ているかを気にしているとき、他者と話す自分を殊更に意識する時があるだろう。そのとき、 私は他者が自分を見ているように、つまり、私を見る他者の視線を想像し、それを通して他者に同 一化することによって、自分を見る。自分を他者にとっての他者であるかのように想像し、これを 見る他者へと同一化することによって、自分自身を見る。このように「他者によって見られている」 感覚は、他者への同一化によって形成されることを強調しなくてはならないだろう。他者を見るよ うに自分を見る時、自己の自己への関係は、自分を見る(想像的な)他者への同一化を媒介するこ とによって、他者への関係となるのだ。 3)自らを見つつ、自らを他者のように見るとするなら、二重の仕方で、自・他の境界は曖昧なも のとなるだろう。まず、自分を他者を見るように見ることによって生じる客我の異他化。次に、私 自身を見る時、見られるという意識に偏向し、自らを見る私から解離したときに生じる主我の異他 化。このような自己の異他化は、自己認識の失調の起因となりうる。通常、外にあるべき他性が、 自己と自己の関係の内にあるとしたら、自—他の境界線が誤って引かれることになるであろう。内 的な他性あるいは外的な内密性の出現によって、自己と他者の境界が曖昧になり、自己の自己性が 失調するのであろう。 興味深いのは、この自己の内部にある他性は、まさしく自己が自らを捉えようとする試み、すな わち内省そのものにおいて形成されるという点である。もし自己を自身によって見ようとすること によって、自己が他者性を帯びるとしたら、自己と他者の差異は失われ、自己が自己であることを 感じることは困難になる。ただ、この定式は抽象的である。この自己の内に他性が生じる仕方をも う少し厳密に見なくてはならないだろう。 ところで、長井はもっぱら「見る」自分を起点にして自己の内省の問題を分析しているが、「話 、、、、、、、、、 す」自分についての内省、すなわち自分が話すのを聞く経験についても報告している。「自然に言 葉が出て来る。人に喋らされているみたい。誰かが A や B や C という記号を発信して、それがぱっ と頭の中に入って、その記号が組み合わさって言葉になって出てくるみたい。私はつまりアンテナ みたいなもの」10。この患者は、話す自分を内省によって捉えようとするとき、話すという行為が 作為体験であるように語っている。つまり、話している自分は話をさせられている、というわけで ある。興味深いのは、この作為体験を訴える同じ患者がまた次のような仕方で、発話する自分につ いて語っていることである。「人と喋っているときも、他人の言葉を聞くのは外の自分で、それを 内の自分に伝えて、それを聞いて内の自分が喋りだす。外の自分が指令したことを内の自分が喋る」。 この患者は、発話する自己についての同時的内省において、自らの発話を「外の自分」からの命令 によって「内の自分」が語ることであると感じている。長井によれば、これは「作為体験との境界 10 『内省の構造』 、七六頁。 5 線上にある体験だが、しかし意味上はまさに作為体験とは逆」であるとされる。長井は、この患者 は他者を前にして語る時、自らが自らであるために自らの発話をコントロールしようとしていると 言う。自らの語りを、自らによって命令されたものと考えることによって、自らの発話の自律性を 確保しようとしていると言うことなのだろう。しかし、このコントロールへの執着そのものが内省 性の亢進という症状を形成することもある。発話する〈私〉を殊更に意識し、この〈私〉が、それ を捉えようとする私にとって、あたかも他者であることとして現れることもありうるのだ。発話す る〈私〉が解離し、発話が異他的になるとしたら、自分で話しつつも、それを自分のものとして感 、、、、、、、、 じられず、他者からを受け取ったもの、つまり聞いたものとして受け取ることになるだろう。かく して、自らの発話そのものによって内的他性が生じ、自己と他者の境界が曖昧になるということが 生じる。 3 聴声経験の病を分析するものとしての倫理学 ここまで長井による「同時的内省」の分析をとりあげ、自己性の病、自己が自己であろうとする ことの狂気の問題を考察した。そこから以下の2点のテーゼが導き出される。1)自己が自己であ ることの探求は、内省の亢進において、自己の他性を産み出す。自己の他性は、自らが自らであろ うとしながら、自らに対して自らが異他的になることによって生じる。2)この他性は、逆説的に も、「自己を他者の手にゆだねてしまわないための」抵抗によって生じる。自己を自己自身によっ て規定しようとする試み自体が、自己性の失調と結びついていることが推察されたのだった。自己 の真理と狂気を近接させるような自己の語りがあるという仮説を立てたが、長井の「同時的内省」 の分析は一つの答えを与えている。すなわち、自己を見つめる特殊な仕方(そしてそれを語る仕方) において他性が自己の内に生じ、それが自他の境界性を曖昧にするということである。 長井の分析は自己の内省を「見つめる」という経験を中心にして捉えているが、本稿のテーマは 聴声を中心において自己の病を捉えることである。それゆえ「言う」ないし「聞く」という経験に おける「内省」の構造の分析を試みなくてはならない。 長井によって報告された患者の例においては、発話する主体の同時的内省は、自己性の病という 問題に関して、二つの特徴を提示していた。1)自己の発話が、他者によって発せられた記号によ って発話することとして経験される。そして、2)自分の発話が(「外の自分」によって)強いら れているという感覚に襲われる。長井の分析に従って言うならば、内省それ自体が内的他性を産み 出し、それによって自らの発話を強いられていると感じるのだと言える。しかし、発話主体の内省 性の構造をさらに精緻に分析しなければならない。なぜ、どのようにして、話している自分を捉え る時、この話す行為が自己から離れ、発話が強いられたものとして感じられるのであろうか。どの ようにして話す〈私〉が私から解離しうるのか。なぜ私は私の発話によって捉えられるのか。 それは、発話主体の構造そのものに原因がある。視覚と対比するとわかりやすいだろう。見る自 分を見ようとすることはできる(たとえ不可能であっても)。だが話している自分を話すことはで きない。話す自分を捉えようとするとき、それは聴声という経験を経ていなくてはならない。ここ 6 に発話における自己への集中の特殊性がある。すなわち、自らの発話行為を捉える時、それは聞く という経験をなす。自らを聞ことなく話すことはできないと言われているように、発話という活動 は聴声の受動性を含んでいるのだ。「話す自分」を捉える時、「自分が話すのを聞く」という経験 を通して、「話す私」が「聞く私」や「聞かれた私」の置き換えが起こる。ここに声という対象の 特異性がある。声とは、それによって話している自分を感じることを可能にする(声帯の振動等を 通じて)と同時に、それに対して受動的に聞く態度を強いるのだ。 この自己の声という特異な対象が発話主体の自己性の形成過程において大きな意義を持つこと を明らかにしたのはフロイトである。フロイトもまた、自己観察と自己性の病理の問題に言及して いた。フロイトは『ナルシシズム入門』において、パラノイアにおける観察妄想を「哲学的内省に まで高められた」批判的観察と形容している11。フロイトは、自己自身を他の対象であるかのよう に観察し、これを批判する自己批判こそが、パラノイアにおける観察妄想を形成するものと考えた。 自己を注視、批判する〈私〉の一部分が他の部分から解離する。パラノイアにおいては、それは自 己のものとしては認められることはなく、敵、迫害者と化す。そしてフロイトは、この他者による 監視を主体に告げ知らせるのが声であると強く主張していたのだった。 フロイトは、パラノイアの観察妄想、迫害妄想を主体の自己観察から導き出し、またそのとき、 この自己観察のうちに良心という自我に対する批判機能を位置づけている。フロイトにおいて興味 深いのは、まさに、この内省の病理が倫理意識の問題として扱われている点である。フロイトは超 自我について述べる時、幾度もカントの倫理学について言及しているように、精神分析の倫理につ いての言説は哲学のそれと無関係ではない。ラカンもまた「精神分析の倫理」というテーマのもと 倫理についての特異な考察を展開するとき、カント倫理学に言及し、また「おまえは〜しなければ ならない」という声の問題に独自な解釈を与えていた。セミネール『精神分析の倫理』において、 倫理の哲学史の見取り図を作り、カント倫理学における〈法〉の問題に関して特異な解釈を与えて いたことからもわかるとおり、ラカンは、フロイトよりも明示的に、聴声の問題を、倫理学の問題 であることを示していた。 おそらく、精神病における迫害妄想、観察妄想、言語性幻聴は主体の倫理意識の病的な表れなの であろう。パラノイアや統合失調と言わずとも、他者との関係において主体は多かれ少なかれ病む ことがあり、その苦痛は倫理意識と無関係ではないだろう。こういった発話主体の病に対して、哲 学は何の寄与ができるのだろうか。これが、フロイトやラカンが、哲学的聴声を精神病のそれと比 較したときに、哲学に対して精神分析が投げかけた問いであろう。精神分析による呼びかけに対し て、哲学はいかなる応答を与えることができるのだろうか。 ひとつの応答として考えられるのは、聴声にける主体の病を分析しうるものとして倫理について の言説を構築する試みである。声についての精神分析の考察を経由することによって、倫理学につ いて新しいアプローチを試みることができる。すなわち、自己の声を聞く様態を分析し、発話主体 の構造を、その病の可能性から把握しようと試みるアプローチ、倫理についての自我論的アプロー チである。倫理学とは一個の自我論でありうるのであり、自らであろうとし、自らを失う主体の自 11 Zur Einführung des Narzißmus, Gesammelte Werke, Bd.X, Imago Publishing Co. Ltd., 1949, S. 164. 7 己性の病を分析しうるのだ。いかにして自らの発話を捉えるか、あるいは、それによって捉えられ るのか。いかにして自己の声を再び聞くことができるのか。自己の声の聴取の様々な在り方を精査 することによって、自己性の病の問題を分析することができるのである。本稿の冒頭で、「聴声」 を起点にして精神分析と哲学を横断する言説を模索すると言ったが、倫理学こそ、それであると言 える。 8
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