と における五感の表現 ─ の視点から─ 笹 本 長 敬 .はじめに . における五感の表現 . . における五感の表現 に付随する聴覚表現 . における五感の表現 .終わりに .はじめに われわれの身体には五感─視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚─の機能がある。われわれはこ れらの感覚を外界から受け入れてさまざまな刺激となって反応する。しかしその五感の受容 のしかたには、もちろん個人差があってそれぞれ異なるが、それを別にしても、人びとが生 活する社会的な差異、生きた時代による歴史的な差異などがあり、それは時代や地域によっ て変化する。たとえば、中世ヨーロッパの人びとはどのように五感の刺激をうけ、表現した か知りたいところである。論者が興味をもつ中世後期に生きた はどうであろう か。彼は五感を通して感じたことを、どのような語句やイメージを使って、彼の作品に反映 させ表現したであろうか。 はほとんど韻律詩にして作品を書いたので、韻律のリ ズムや脚韻によって制約されたであろうから、語句の使用も自ずと制約をうけながら表現し たことであろう。調べてみるに当たって、ここでは彼のすべての作品を網羅するのは避けた いと思った。網羅することは紙数の上で無理であり、またまとまりを欠きそうなので、代表 作 のなかから と 上げることにし、それらの五感の感覚表現を かしこの二つの を取り の視点から見てみたいと考えた。し を取り上げて五感表現について考えているうちに、どうしてもそこか ら逸脱をせざるを得なくなり、適宜他の作品にも及んでいる。したがって、ここでは主とし てこの二つの を取り上げてまとめたということになる。これら二つの作品を取り上 げた理由は良質の作品であるということである。まず について確実なことはいえないけれども、 れたことは明らかであり、 は、その制作年代 の詩的技能が最も発展した時期に書か と一対になるように書かれたファブリオーの 大阪商業大学論集 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) ジャンルに入るものだが、その域を超えた喜劇文学といえるものである。現代の批評家たち のほとんどは高い芸術的レベルまで高められた作品であると言い切る。もう一つの、 は、テーマと構造、あるいはスタイルにおいて、 を小型にしたようだといわれ、この制作時期は に書かれた作品とされる。 の比較的後期 の詩的技巧や技能が習熟した時期に書かれたと思わ れ、表現豊かでユーモアあふれる、いろいろな点ですぐれた作品である。 というわけで、 の詩的表現力がもっとも成熟したであろう時期に書かれ、比較 的リアリスティックに描かれた作品をここに取り上げて、 の五感の表現について 探ってみる。しかし、先述したように、これらの二つの作品から離れて、 と一対になった に付随する も注目してみる。この小論では五感表現を の老齢の告白話に との関連から取り上げ、 の詩 的技巧のうまさや成功例を見てみたいと思う。 ところで、ここでいう を という語の意味について断っておく。ここでは と解し、 そして のような、 については ( は )、 、 、 によって伝えられるものとし、各 ( ) 、 ( 、 ( ) ( ) 、 ) と関連がありそうな語に注目してみる。 . における五感の表現 まず から始める。この話の登場人物の描写には の登 場人物のそれに劣らないくらいの素晴らしい描写がみられる。とくに と の 表現はすぐれている。とりわけ、二人の特徴を表現するのに、鳥や動物、あるいは植物を多 用して、それらになぞらえ、比喩的表現やイメージとして思い浮かばせ、人物の性格や言動 を具体化している点が印象的である )。それだけでなく、それらに伴う五感に訴える表現も みごとなものがある。初めに と の人物描写から の五感の表現を見 てみたいと思うのである。 の容姿や服装を視覚的イメージから見てみよう。 ) 笹本長敬、 における人物描写の比喩的表現 年 月、 頁においてその一端を述べた。 大阪商業大学論集 第 号、平成 と における五感の表現(笹本) ) まず は、若妻 使っている。 ( を 美しい )の意味を ) と形容するのに ( )という語を で調べてみると、視覚的には と とある。こ の意味から解釈すると、 は 色白に美しく輝いていた のである。 には光のイ メージがある。中世には光と色への熱狂があった。ヨーロッパ中世の歴史学者池上俊一は光 と色に関連してこう書いている。 中世は光に、そして色に熱狂した。神は光であったし、 美とは明るく光り輝いていることとほとんど同義であったから と )。 そして彼女は縞の絹のベルトを締めていた。原文は ( )である。ここで問題になるのは 何色と何色の縞だったのだろうか。 縞[筋]のある ( )を再び ) である。この縞は で調べてみると、 とある。そ して に に ( ( )とか )が見られる。そこから 推測すると、彼女のベルトの縞の一本は金色だったであろう。ひょっとしたら金糸が織り込 まれていたかもしれない。当時絹は高価だったので、絹の服は大工の妻 の着るもの ではなかった。そこで絹は庶民の間ではスモックの刺繍とか、バンドやヘッドバンド、財布 の飾り房に使われたのである。 彼女の衣服や顔立ちは白と黒がよく目立つ。彼女は 朝の搾りたてのミルクのように白いエプロン ( )を着け、シュミーズは白、 襟は真っ黒な黒、帽子は白、そのリボンは黒であり、二本のまゆ毛は 実 ( リンボクの )のように黒い。白と黒の両極端の色の対照がよく目立つ衣装を身に着けてい る。白と黒のモノクロームはかえってあざやかな印象をうけるが、素朴で地味な色合いであ る。白は純潔と喜びを象徴し、黒は悲しみと穢れを象徴するから、それによって彼女の両極 端の気質を示しているのである。フランス服飾文化史が専門の徳井淑子によると、中世の人 びとには白や黒を今日のように無彩色とみる意識はなかったらしい )。 )以下、引用は .による。引用のアンダーラインはすべて論者によるものである。 ) )池上俊一、 身体の中世 ちくま学芸文庫 (東京 筑摩書房、 ) ) )徳井淑子、 色に読む中世ヨーロッパ (東京 講談社、 ) 頁。 頁。 の服装には 大阪商業大学論集 第 巻 第 赤色は見当たらないが、池上俊一によれば、 号(通号 ・ 号合併号) 世紀以前のヨーロッパ世界では、色と呼べる ものは白・黒・赤の三つしかなく、この三色は、人類学的な基本色であり、人間共通の色の 元型的パターンを忠実に守っていた、といわれる。そして色をもちいた象徴体系や感性の体 系を作りあげる際には、この三色の組み合わせでなされることがほとんどで、 世紀以前の 中世人の感性では白は赤と対立するとともに黒とも対立して表現された。この白黒赤の鼎立 支配が崩壊するのは は、 世紀半ばから 世紀後半だが 世紀半ばにかけてである、と彼はいう )。この意見 やすぐ後に検討する の服装を見る際に参考になるだろ う。 さらに は比喩を使いながら視覚と触覚に訴えて 見栄えは 雄羊 ( を描写する。 ) 早熟の梨の若木 よりよく、 ( ) の毛よりもふんわりとしているのは、いかにも若い健康的な女性の体や肌を表現す るたとえにふさわしい。これと対照的な表現は ( の 老人の ) イバラのように鋭い、小型のサメの皮のように、ちくちくする濃い剛 毛の鬚 であろう。小型のサメの皮は触ると実際にざらざらちくちくするかどうか分からな いが、しなやかさに欠ける老人の鬚のたとえに使うのは感覚的にうまいと思われる。 さらに について、動植物の直喩や比喩を使って、視覚的聴覚的イメージを生き生 きと浮かび上がらせる。 彼女の顔色は、ロンドン塔で ル金貨 ( より輝き、彼女の歌声は納屋の上にとまる のように声は高く、躍動感があった。 )池上俊一、前掲書、 ている。 ) 新しく鋳造されたノーブ ( ) ツバメ のさえずり は聴覚表現としてツバメのさえずりをたと 頁。徳井淑子、前掲書、 頁以下でもほぼ同様のことがくわしく述べられ と における五感の表現(笹本) えに使う。このような描写はさらに続き、修辞技法として跳んだり跳ねたりするきびきびし た動きを ( ( ( ) 子ヤギあるいは子牛 にたとえ、彼女の口の匂いは ) 地酒や蜂蜜酒のように甘く 、また ) 干し草かヒースにたくさん貯蔵されたリンゴ のようであると いって、彼女の甘い快い魅力的な姿を甘い味の地酒や蜂蜜酒、甘い香りのするリンゴにたと え、さらに彼女の健康的でじっとできない性質を ( ) 子馬 にたとえる。 は聴覚的、視覚的、嗅覚的あるいは味覚的イメージに訴えて彼女の魅力を高める のである。このようにして、瑞々しい 溂とした活力ある若い女としての の魅力を 描き出すことに成功している。 は、 の明るくて新鮮な魅力を強調するために、新しく鋳造された金貨、 干し草かヒースにたくさん貯蔵されたリンゴ、朝のミルク、納屋にとまるツバメ、早熟の梨 の若木、内気な子馬などの、貴重な物や飲食物、動植物に共有している性質からイメージを 集め、彼の目はそれからそれへと手当たり次第に動いている。長いいろいろなカタログを 使った彼女の描写には、終わりまで、柔らかい、ほっそりと引き締まった、快く味わい深い (味で言えばおいしそうな)姿と幻惑されそうな敏捷さと機敏さが連続し、それらによって 彼女の具体的な姿が現出される。またこれらの大量の視覚的触覚的印象によってそれが一体 化されている。 の言葉を借りれば、 でなく、五感の複合( は一幅の絵画として存在するだけ )として存在しているのである。それが前置 きの説明なくいきなり読者の心に持ち込まれるのである )。 次に に嫌われた教区教会の書記の の描写を見てみよう。まず視覚的イ メージから彼の派手でおしゃれな姿に印象づけられる。こうである。 ) 大阪商業大学論集 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) 彼の髪は金髪の巻き毛で、扇のように広く伸ばし、筋目正しくむらなく分け、 ( ) 顔は紅顔で、目はガチョウのように灰色 だっ た。靴の革にはセントポール大聖堂の窓の飾り格子模様を刻み、赤い長ズボンをはき、レー ス飾りがびっしり付いた ( ) ライトブルー のチュニックをきっちり着 込み、その上の派手な法衣は 開の花のように真っ白 ( だった。都会的な ) 枝に咲く満 の格好は、野育ちの女性 の白と 黒のモノクロームの姿に比べて、金、赤、灰色、ライトブルー、白と色彩豊かにめかし込ん だ派手な姿をしている。なお、色彩語 えば、 ( )についてい はここで使ったきりで、他の作品には使っていないことも注目される。 は、このような視覚的直喩や比喩として使われている語句、たとえば、 (赤い)顔色 、 灰色の目 、 枝の満開の花のように白い(法衣) は、中世ロマンスのヒロインによく使われる常套語 句であると指摘する )。金色に輝き、扇のように大きく広く伸びる の髪形は、中世 の美しい女性たちの髪形であり、めかし方は女性的である。彼はもともとめかし屋であり、 外見に対して潔癖すぎるくらい関心をもち、甘い人工的な匂いは好むが、その反対の臭いは 嫌悪する。 なお、 の ( 同じ灰色の目をしている。 )といえば、巡礼の ( も の目の色にはガチョウの(目の)色を直喩に使ってい るのに対し、彼女の目の色には う。 の ( のトランピントンの )だった。はたして )と色ガラスの直喩を使 の娘 のいう も は何色だったのだろうか。彼の好む を表しているのだろうか。中世のロマンスのヒロインたちの特徴である は普通 そらく ( あるいは と推測されている 。 )と呼ばれる色であろうという 。 は今ではお は の注において と述べて ) いる 。結局まだはっきりせず、あいまいである。 は に対して、 チンゲール(小夜鳴鳥)のように声高く美しく歌って ( ( ) ナイ みせ、 ) 甘口のワインや蜂蜜酒や香料入りのビール の付け届けをする。美声の象徴 ナイチンゲールを直喩として使うことによって心地よい聴覚的イメージに訴え、さらに当時 としては贅沢な飲み物をならべて、おいしい味覚的イメージを強調して、 の涙ぐましい求愛の努力を表現する。しかし ) ) ) ) の努力にもかかわらず、 は と における五感の表現(笹本) は彼をばかにする。 は とは根本的に合わない性質をもっている。 のに、一方 は野育ちの自然児な の方は人工的なものを嗜好する都会っ子である。彼女は庶民の出で、 奔放で野性的に振舞う、一方彼は教会勤めで、(庶民より身分は高い、そのため を真 似て?)宮廷風を気取り、儀式的に振舞う。 は について、執拗なくらいの伊達男ぶりや、息を甘く匂わせるための 工夫や、屁をひることを嫌がる気難しいところなど五感に訴えるイメージを使って描き、こ の話の粗野で庶民設定の人物には場違いであることをコミカルに示しているのである。 しかもこの無骨で粗野な庶民世界の中で、 ウ 、 ( ( ) ガジュツ 、 ) 蜂蜜酒 、 ル 、 ( ( は ( ( ) 甘口のワイン 、 ) ショウズク ) カンゾ ) 蜂蜜で甘くした飲み物 、 そして ( ( ) 香料入りのエー ) 肉桂(シナモン) のよう な甘い匂いやおいしい味の印象をあたえるものをイメージとして繰り返し呼び起こし、ファ ブリオー仕立ての に、幾分ながら洗練された優美な面をつけ加えている のである。 はみごとな を作り上げるに当たって、生き物の姿や、その 動き、その民間伝承を使うだけでなく、このように五感に訴えるイメージを駆使したのであ る。 . における五感の表現 つぎに の中で佳品の一つとされ、ユーモラスな のヒーロー、雄鶏 の視覚表現を見てみよう。その姿はこうであ る。 雄鶏の鶏冠は上質の珊瑚よりも赤く、そのぎざぎざたるやさながら城壁の狭間に似て、 嘴は黒く、黒玉のように輝き、脚と足先はまさに空のように青く、爪は百合の花よりも白 く、体の色は磨いた金のように輝いていた というように、 による の身体の豊かな色彩表現は、すべて直喩で表現され、実に華やかでみごとなまでに豪華であ る。 の鶏冠の赤、嘴の黒、足の青、爪の白、体の金のような輝きについて想 像しながら、色彩の豊かさに感心していると、個人的な思いであるが、伊藤若冲の雄鶏の図 を思い起こす。 の筆は冴え、まさに は 羽の雌鶏を従える鶏小屋の ハーレムの主らしい豪華で派手な装いの、堂々とした姿を表している。 大阪商業大学論集 第 巻 第 ところで、一般的に言って、 号(通号 ・ 号合併号) の詩には やその同時代人に見られる ような複雑な比喩的表現は見られない。時折二重の意味や洒落はあるだろう(これらを使っ たみごとな表現については後ほど述べる)が、単純な類推や直喩のほうがより頻度が高いの である。たとえば、 ( て、籾殻をうっちゃっておきなさい のような単純な比喩的表現がみられがちで、また ( なさるな のように、 ( ) 実を取っ ) あなたに役立つなら、少しも気に )( 豆 から つまらないもの さりげないイメージが見られるだけである。とりわけ の意)を使ったような は、自分の詩にふさわしい 自然な思考ペースを求め、自分の仕事をやりやすくするために親しみのある言い回しに変え ようと試みる。 さて、さらに において感覚表現(特に聴覚表現)として大きく イメージが膨らむところは、話の終わり近くの部分で、雄鶏をさらった狐を追いかけて、 年の農民一揆の騒ぎにたとえるほど、村人や家畜や家禽が大声を出したり大騒ぎしたり して追いかける場面である。そこの表現は のようなアクション・ペイン ティングならぬ、一種のアクション・ライティングに満ちている。そこでは の筆 は頭韻のためにすらすら文字が走っているように思え、口調よく読める。 彼らは真鍮のトランペットやつげ笛を、角笛や骨笛を持ち出して、ぶうぶうぶかぶか吹 きまくり、その上金切り声や大声を張り上げて、さながら天が落ちてくるかのようだった というこのパッセジは、オノマトペアの使用によって活気が出て、子音をうまく連続させて 繰り出すことで、笛を吹き鳴らす音、叫び声や怒鳴り声、追いかける村人たちの激怒した足 取りを表現する。この全体のパッセジは活気に溢れている。これは男らしい力強い言葉や、 脱線のない直接的な言葉が見られる表現の見本である。そして ( ) 叫ぶ声はまるで地獄で叫ぶ悪魔のようだった つのイメージがこれを一層に強めるのである。 というこの一 は時々人それぞれが受けいれる感 覚に任せようとする。 は濁った汚い不快を感じる大声を悪魔の声にたとえる。しかし実際には地獄の 悪魔がどんな声をしていたのか分からないのだが、 の声からイメージしたのではなかろうか。 えば、 は聖史劇の舞台で演じる役者 はこのような使い方を時々する。たと の美声を海の人魚の声にたとえるのである。 鷹揚なチャンテクレールは、海の人魚よりも美しく朗々と歌った。 実際には人魚はど んな美声だったかわからない。さすがに はそれに対して言い訳をしている。 と ( 動物寓話集 に確かに記述されている、人魚はうまく美しく歌うことができると。 ) といって、おそらく人魚( ( における五感の表現(笹本) )を、美声の持ち主で、船乗りを破滅に陥れたサイレン )と同一視したのだろう。 また狐は を誘拐する際、彼の声を天使の声にたとえておだてるのである。 本当に、あんたは天国におられる天使に劣らぬ美しくて快いお声をもっていなさる。そ の上ボエティウスよりも、歌の上手などんなお人よりも、素晴らしい音楽感覚をもっていな さる と。天使の声はどんな声か分からないが、これも舞台で演ずる役者の声から類推した のだろうか。論者には聖歌隊席で合唱する声変わり前の少年たちの高い声がイメージとして 浮かぶ。 は悪声や美声について具体的な修飾語を使わず、宗教的伝承や民間的伝 承による象徴を使って印象づけるのである。便利な伝達手段がほとんどなかった中世では当 然のことながら、池上俊一がいうように、日常生活における意思伝達手段として、いろいろ な人の声は今日より重要であったのである )。中世においては声自体に価値があり、それが 霊妙な作用をはたすことがあった。たとえば、特別な機会には、叫びや大声での意思確認、 民衆を集めた集会での熱狂の叫び、戦争・蜂起など騒乱の際の士気を鼓舞するための叫びや 仲間と連絡をとる合図としての喚声、社会的ネットワークとしての、たとえば宣誓の声、 ニュースの伝達のための触れ役の声などである )。 もあちこちでこれらの声を意 識して使っている。 . に付随する聴覚表現 声や歌声の聴覚表現が出たので、ここで聴覚に関連する みてみよう。 の頻出の度合いはそう高くないので断言しにくいが、その音響表現には の進歩の跡が伺える。頻度は で の鳴り響く音の使用例を 回、 でも で 回、 回、 では 回使われ、 合計 回である。使用頻度の少ないなかでも使い方の進歩に見るべきものがある。 鐘の音はヨーロッパ中世の信号音としてもっとも重要なものであったことは確かである。 鐘の音は、 物心がつく頃には、中世人のだれにとっても、その音は生活上のもっとも重 要な信号音となる。そしてその幾通りもある鳴らし方の違いによって、伝達されるメッセー ジを聴き分けたのである ) と池上俊一はいう。鐘の音は時計の役割をはたしていたし、 何よりも鐘の音は教会や修道院の典礼になくてはならないものであった。 が居住 した当時のロンドンでは、セントポール大聖堂が市民の生活の中心をなしていて、この大聖 )池上俊一、前掲書、 頁。 )前掲書、 頁。 )前掲書、 頁。引用文のうちの一語だけ漢字に変えた。 大阪商業大学論集 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) 堂の鐘が朝な夕なに聞こえてくる範囲内にロンドン市民は住んでいたのである。 において は の悲劇話にうん ざりして、セントポール大聖堂の鐘とそのやかましい鐘の音にたとえる。 セントポールの鐘にかけて! 無駄話 原形 お武家さまの言葉はまさに至言、修道士様の話は大声の と批判する。ここの は は を意味するが、 の の意味であり、教会の騒々しい鐘の響きに連想が及 ぶ。それにたとえて修道士を批判することは、修道士の職業から見てふさわしく、さらに誓 言が ( セントポールの鐘 であり、セントポール大聖堂の鐘は大鐘であろうから、 )という副詞を添えたこの比喩的成句(しゃれ)の使用は、この場においてなおさら ぴったりくるのである。まことにうまい表現である。 は退屈な話に居眠りしなかったのは馬の鈴の澄んだ音色のおかげだと言う。 ( ) あなたの馬勒の周りにぶら下がる鈴のりんりんという音がしなかったら、もうとっくに 居眠りして、きっと、落馬していたでしょう にオノマトペアの ( と、手綱や鞍や馬飾りに付けた小さな鈴の音 )を使っている。ちなみに当時馬勒に鈴をつけるの が流行したそうである。 また では は明らかに の話に退屈して言う。 陽気な俺様に話をさせりゃあ、ほんとに心地よい鈴の音をちりんちりんと鳴らして、こ の一行の眠気を覚まして目をぱっちり開けてやれるぜ も馬勒の鈴であろう。先の引用 と、 と鳴るこの小さな鈴 行と関連づけて、 はここに眠っている 人を目覚ます、やかましい教会の鐘と心地よい響きの馬の鈴との言葉遊びがあると取る )。 同じ修道士が乗る馬の鈴は、 では、 ( ) 騎馬で出かける時、ひゅうひゅう吹く風を受けて、馬勒の鈴がりんりん澄んだ音を立て た。付属修道院の礼拝堂の鐘に劣らぬ大きい音だった ) と、ここの鈴の鳴る音はオノマトペ と アの ( における五感の表現(笹本) )である。風をうけたためか、礼拝堂の鐘に劣らぬくらい大きい音を 立てている。ちなみに風の音の形容の もオノマトペアである。 では ( 賛課の鐘が鳴り響き始めるまで と ) を使い、鐘が反響する雰囲気を出してい る。 では、貪欲な が言い訳をしながら慰める言葉のなかで、 物音を立てず、また寺の鐘のにぎやかな音も鳴らさずに ( )を使う。 では が信徒に説教するに当たって、 説教を鐘のように朗々と響かせるように骨折ります 教会の尖塔の鐘の音 また と、修道院の鐘の音には ( と、説教壇で発する声を鳴り響く )にたとえる。 では と、典礼の一時課の教会の鐘が鳴る音にも ( )を使い、 墓地に運ばれる遺骸の 前の鈴がちんちんと鳴っていくのが聞こえました と、棺の前に付けられた振鈴の音には を使用する。 は教会の鐘の音には のように を使う傾向があるようだが(さらなる例証次頁) 、こ では、教会の鐘から振鈴まで大小の鐘が出てきて、鐘の響 きを表す語が適宜にいろいろに使い分けられている。他の作品においてはこのような使い分 けがなされているのは少ない。 初期の作品 では先述のように は 度だけ最後の方に使わ れ、ここでは鐘は時計の役割をしている。 城の中に鐘が一つあり、それが 時を打ったようでした と、鐘は 打つ 大阪商業大学論集 ( 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) )を用いるだけで鐘の音色の表現は見られない。 でも めてやってきた 度だけしか見当たらない。 のもとに名声を求 (ならず者たち)の格好を見ながら、女神は素性をたずねる。 “ ” ティペット 縦縞の長ズボンをはき、 肩衣 にそんな鈴をつけているおまえたちは と聞く。小さな 鈴(あるいは鈴のような飾りか)を着けているだけであって、その鈴の音は聞こえないので ある。なお は 縦縞模様 のことで、縞模様の服は差別をあらわす服であった。たと えば、道化、芸人、楽師などが着て、差別される側が着る模様の服だった。ここで縞模様の ズボンを がはいていることには納得できるのである。 では先述のように、 の響きの語としては 下の引用は しか使われず、 は 回使われる。しかしこの作品では鐘 はすべて教会の鐘をイメージされている。 が恋愛の噂話を邪悪な心で広める人の口舌を鐘にたとえるところであ る。 彼らが鳴り響かせているかぎりだれも鐘の音を止められません けでなく 鐘の音 つぎは が を だ と言っている。 の悪口を言う時の言い方を鐘にたとえる。 彼らに事の次第を鐘のようにがんがん鳴り響かせた また、 と、ここでは に取り持った時に と過去形 を使う。 が言う言葉のなかに鐘が出てく る。 町のそれぞれの鐘の鳴るのが聞こえるようだ 動詞に ( と、ここでは との押韻のために ) を使っている。 そして同じせりふの終わりに は成句として を使用する。 あなたがたのどちらが先鞭をつけて、ちゃんと愛について話し始めなさるか見てみま しょう! と、これは聴覚表現としてではなく、 として の意味に使用している。何かの儀式で先頭の者が振鈴をもったことに由来するの だろう。 が を裏切ったことを嘆く場面では、 私を非難する鐘が世界中に鳴らされるでしょう! と悲しむが、ここでも と と音の表現に における五感の表現(笹本) の過去分詞形を使い、前行の 以上、例証は少ないと思うが、これだけの と脚韻を踏む。 に付随する聴覚表現をみても、 では鐘の種類は種々あり、音もほとんどオノマトペアを使って多様に鳴る。 韻の関係で語の制約を受けながらも、語彙が増え、語の使い方や表現方法も熟達しているこ とが分かるのである。 . 最後に における五感の表現 が五感のイメージにイメージを重ねて最高の表現能力を発揮していると ころをみてみたい。 それは、 において、 が老いの嘆きを告白するところで ある。ここでは一連の生き生きした五感の表現を伴うイメージと連想させるイメージとが累 積していき、それが力となってわれわれに強い印象を刻みつける。 ── 神かけて と彼は言った。 おらだってやる気になって下卑た話をやりぁ、どこかの高 慢ちきな粉ひき屋を騙す話で、十分おまえに仕返しができるんだ。だけんどおらは年寄り だ、いい年こいて戯れ合うのは好まねえ。野の草を食う時期はもう終わった、今は干し草が おらの飼い葉。この白い頭髪はおれの年を示しておるし、西洋カリンの実のようになってね えとしても、おらの心臓もこの頭髪のように黴が生えちまった。西洋カリンの実は長く置け ば置くほど悪くなっちまって、しまいに屑や藁の山の中で腐ってしまうんだ。残念ながら、 大阪商業大学論集 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) おらども老人もそうなっていくんでさあ。おらどもも熟してしまえば、腐っていくが、世間 様が笛を吹く限り、いつまでも踊っているんでさあ。なにしろ、ニラネギのように白髪頭な のに、青い尻尾をもっているために、おらどもの欲望に一本釘が刺さって抜けねえからでさ あ。精力がなくなっているのによ、おらどもは相変わらずばかげた事を望んでいるんでさ あ。手足がいうこと利かなくなると、口を利きたくなるもの。古い灰の中にまだ火が埋けら れているということだ。 の老齢告白は、荘園管理を生業としているらしく、自分の老齢を、まず馬の イメージとしてとらえ、二つ目は頭髪のイメージ、三つ目は西洋カリンのイメージ、四つ目 はニラネギのイメージ、五つ目は灰の中の燠のイメージ、六つ目はワイン樽のイメージとし てとらえて語られる。六つ目のワイン樽以外の上の引用には老齢を連想する白のイメージが 伴われている。一つ目の馬のイメージは年をとって牧草地から馬小屋へと退いたために、食 べ物が青々した牧草から白っぽい干し草になってしまったこと。二つ目の頭髪のイメージは 白髪頭になったこと。三つ目の西洋カリンのイメージは半ば腐るまで熟していることが分か らず、黴が生えてしまうということ、黴つまり老齢のイメージで白である。四つ目のニラネ ギのイメージは、白い頭と青い尻尾、つまり老いの象徴と若さの象徴である。実際はニラネ ギの上の部分が青で、根の部分が白であろうが、 はニラネギの根の方を頭にし て言っているようだ。とにかく白は老いのしるしである。こうして老いを連想させる白のイ メージが完成するのである。 これらのイメージは、お互いを補い合い、ワインの比喩的表現で絶頂に達する強い力と明 瞭な印象となってわれわれの脳裏に刻みつけるのである。 とりわけ、最後のワイン樽のイメージは の最も複雑な比喩的表現 となり、一生を経てきた老いの最もすばらしいたとえの一つになっている。この表現は視覚 と聴覚が重なりあって連想を生んでいく )。 )以下は、 に負うとこ ろが大きい。 と における五感の表現(笹本) 年寄りというものは、手足は弱っているかもしんねえが、欲望は尽きねえんだよ、嘘 じゃねえ。その点では今なお子馬の歯が残っていて若い者には負けねえ。おらの命の 酒 樽 の口から、 酒 が流れ出してから、何年も経っているのによ。確かに、おらは生まれるとす ぐ、死に神が命の酒樽の栓を抜き、命の酒を流し、以来ずっと、樽口からこのように流し続 けたんで、とうとう今ではその酒樽は空っぽになりかけているもの。今は命の流れは酒樽の 縁の上に落ちる滴になっているんでさあ。老いぼれた舌は随分昔になった惨めな事柄を鐘の 舌の如くに繰り返し語って鳴り響かせるだけでさあ。年寄りにとっちゃあ、もう耄碌以外に 何もありゃしねえんだ。 これらの行のワードプレイ(地口、しゃれ)のいくつかの例は、 ある。つまり二つの違う意味に使われた 鳴り響く を意味する 老人の繰言をいう舌 と( ─、 と 鐘の舌 ) ─ 酒樽の縁 と 同韻 を意味する の言葉遊び、 ─、そして( ) で と のしゃれ─ のしゃれ─( ) ─の意味でのそれである。さらに細部にわたって、ワ イン樽のイメージが映し出され、人間の一生にたとえられる。 は自分の人生を 説明するに際して、誕生時はワインがいっぱい入った新しい樽とみる。生まれた瞬間は新し い樽の口を (飲み口を開けて)ワインを出す (樽の口を)開ける 引き抜 時である。しかしその樽に栓 ) 時か、あるいは樽の口を を付けるやいなや、死に神は栓を いて、命のワインを自由に外に出す( んどん流れ出る。いまの老齢の時には ) 。その時からワインはど ( ) その酒樽は 空っぽになりかけている。 そしてワインがどんどん減って圧力はとめどなく弱っていき、 かつて強く勢いのあったワインの流れは弱々しくぽとぽと落ちて、出縁のうえにはねちらか すまでになる )。 これは、まさにぶどう酒商人の息子らしく、目に見える事実の大変正確 な描写である。それと同時に、元気のよい青春から弱った老齢までの人生の経過が隠喩と なって大変すばらしく適切に表現されている。 いま分析したワイン樽のイメージには、樽の隠喩と巧妙にかみ合う鐘のイメージが続いて 出現する、そしてその鐘のイメージによって老いが強められる。 老いぼれた舌は随分昔になった惨めな事柄を、鐘の舌の如くに繰り返し語って鳴り響か せるだけでさあ。 この鳴り響く 老いぼれた舌 はもちろん鐘の舌のしゃれである。これ だけではない。樽のイメージが巧みに延長される。樽にワインがいっぱい入って、圧力が十 分ある時には強く静かに流れていたワインの流れは、いまや樽の縁でピシャ、ピシャとやか ましく音を立てている。ちょうど耄碌しておしゃべりな老人のばかげた舌が大声を出しなが らしきりに動くのに似ている。鐘の鳴り響く音は樽のイメージにいっそうの連想を促す。樽 の縁の上の液体の滴は、それが落ちることによって引き起こす空ろでリズミカルな音響の連 )中世のワイン樽の栓は、先細の棒で、今の栓と違って樽口を塞ぐために使われた。 )中世のワイン樽の両端の縁は今のものより突き出ていて、樽口はかがみの縁に近いところにあった。 大阪商業大学論集 第 巻 第 号(通号 ・ 号合併号) 想となる。そして樽口から出てくるワインの曲線の赤い流れは人間の口と舌を暗示する。 肉体的な映像と隠喩的な意味はあらゆる点で一致しているように見える。樽のイメージ は、 の前口上が念入りに仕上げられた上での最高の印象的な山場となってい る。 は五感を含めたイメージを使用するに当たって、たいていそれを単一に、し かも即座に使い、ひとつの考えが伝わるようにして、それから次に進んで、表現に効果を与 えるようにしている。しかし では樽から出るワインの視覚的聴覚的 イメージは、イメージにイメージを積み重ねて連想を生み、老齢を比喩的に表現することに成功 している。 .終わりに 今回は の五感の表現を論じるにあたって、視覚表現と聴覚表現を多く取り上げ て紙数を割くことになってしまった。これは仕方のないことである。普段の人間活動はこの 二つが中心となって活動するからである。 の表現も自ずとその二つ に関係する表現が多く、しかも目立つ特徴がみられる。ここで 徴を取り上げたものは、ほぼ と のみで、 を見ても、 の五感の表現の特 、 全体にわたっていないが、これだけの五感の表現 は、他のどの作品よりも の表現力の習熟がみら れ、表現の豊かさとその芸術的効果を成し遂げていることが分かるのである。 (本稿は、日本中世英語英文学会第 回西支部例会( ンパス)において行われた、シンポジウム の特徴─ ─ のもとで、 年 月 日、於関西外国語大学中宮キャ の愛のテーマと五感の表現─その感覚表現 と における五感の表現 と関連して─ と題して口頭発表したものに基づいて加筆、訂正したものである。 ) チョーサー(笹本長敬訳)、 カンタベリー物語 (全訳) 、 (東京 英宝社、 ) と における五感の表現(笹本)
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