GOD WITH US - Oak Pointe Church

GOD WITH US
Part 1: The Great Blessing
Genesis – Deuteronomy
Message 8 – Approaching a Holy God through Sacrifices and Offerings
Leviticus 1-15
May 2 & 3, 2015
神は我らと共に
第8メッセージ: 犠牲と供え物を通して聖い神に接近
レビ記1-15章
はじめに
出エジプト記は、建築されたばかりの新しい幕屋に栄光なる神のご臨在が宿
ったところで幕を閉じた。そして、レビ記は、民の間に宿ってくださる驚く
ばかり神聖なる神に接近するために怠ってはならない工程の教えから始ま
る。『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖で
なければならない。(19:2)最も聖なる神に、不浄な人間がどうすれば
接近することが出来るでしょうか?その答えは、唯一、犠牲によって彼らの
罪を覆う方法のみである。
その名前が示す通り、レビ記は、いけにえを通して神であるヤハウェに接近
するレビ人の職務(イスラエルの聖職者の部族)に焦点を当てている。アブ
ラハムの子孫が全世界の祝福となるために(創世記12:1-3)、彼ら
は、全ての祝福の真の源であるヤハウェと交わりを維持する必要があった。
尚且つ、ヤハウエとの交わりを維持するためには、イスラエルの民は適切な
方法で礼拝する必要があった。世界に向けての「司祭国家」としてのイスラ
エルの証言の強度は、ヤハウェへの礼拝の強度に直結した。
いけにえの種類:
レビ記1:1-6:7
私(ボブ・シャイロック牧師)のかつての同僚であった、ポール・タナー博士
は、レビ記の開口で記録されているいけにえの制度について優れた概要を説
明している:
旧約聖書のいけにえの制度は大変複雑で、計画されているいけにえと計画外
のいけにえがあった。その中には、和解のいけにえと罪のためのいけにえ等
が含まれた。いけにえの種類には、罪のために捧げられた(赦しを得るため
のいけにえ、罪過のためのいけにえ)、その他にも、感謝、謝意、または、
ヤハウェへの愛情を表現するためのいけにえがあった。また、汚れ(例え
ば、レビ記12章に記されている出産直後の女性に要されたいけにえ)を
対処するための儀式で捧げられたいけにえもあった。さらに、個人、または
国家のためのいけにえがあった(例えば、贖いの日)。個々が容易に判断で
きるように、いけにえ制度は、数千匹の動物を要し、必要な手順を実行する
ためには、祭司たちによる絶え間のない働きを要した。言うまでもなく、い
けにえは、旧約時代の礼拝の本質であり、信仰をもって行われるためにデサ
インされた。犠牲の背景にある動機は、次の概念のいずれかを含むといえ
る:1)贈り物。犠牲は、捧げる者が所有する最も貴重なもの、また、
生活に欠くことのできないものを手放すことを意味した。礼拝する者が何か
を手放し(いけにえは、祭司によって、祭壇の上で完全に全焼されなければ
ならなかった。)、また、何かを得られた(神を崇拝することによる満足感
と、全ては、神に属しているということを認識すること。)。2)聖餐
式。いけにえは、神と結合し、交わることを切に望む人々の表現であもあっ
た。3)罪の贖い(罪の負債の支払い)。いけにえ制度において、血は
欠かせない要であるので、礼拝者はその罪深い状態を常に意識し、罪の償い
が必要とされた。彼の罪とやましさは、血の犠牲によってのみ、対処するこ
とができた。このことは、人間の罪の深刻さと、罰を身代わりに負担するい
けにえの必要性を重視せずにいられない。(Paultanner.org, レビ記1-10
章参照。聖書全体のノートの他、沢山の訳立つ資料有。)。
下記は、5つの基本的種類のいけにえと目的である。**聖書が教える血の
犠牲についての議論は、補足資料を参照。
全焼のいけにえ: 1:1-17
全焼のいけにえは、個別にも、組織的にも、イスラエルの毎日の礼拝の儀式
の基本であった。雄牛、子羊、ヤギ、または鳩であろうが(礼拝者の能力に
応じた。)、いけにえは、祭壇の上の火によって全焼にされなくてはならな
かった。いずれも司祭によって消費されるために残してはならなかった。
礼拝者の両手を動物(罪の転送を象徴した。)に置いた後、いけにえは祭司
によってなされ(罪を贖うための死を象徴した。)、いけにえの煙が天に
(神のいけにえの受け入れを象徴)上った。礼拝者は、いのちの限り神への
ある意味いけにえとして生きる者となる契約が更新される。
穀物の供え物: 2:1-16
人々は、日々の糧を与えてくださる主への感謝を表すために、あらゆる種類
の穀物を供えることが出来た(食事の供えものとも呼ばれた)。しばしば、
穀物の供えものには、他の種類の供えものに添えられた。穀物は、様々な
方法で準備された(厚いパン、薄いパン、ホットケーキ、等)。祭司が一部
の穀物を祭壇の上で燃やした。残りは、祭司が食した。礼拝者には、何も残
らなかった・・・罪の赦しの賜物もふくめ、全ては神の賜物であることを
認識した。塩は、全ての穀物の供えものの主成分であった。2:13 あなたの
穀物の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの
穀物に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。(レビ2:13)
なぜでしょう? 塩は、永久性と友情を象徴する防腐剤であったからであ
る。18:19 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなた
とあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前に
あって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約であ
る」。(民数記18:19)イスラエルの民が穀物の捧げものに塩で味付
けを加えたとき、神の特別な友としての召しは、取消不能であり、永久であ
ったことを思い出させた。イスラエル国家の将来と言えば、使徒パウロは次
のように記している:神の賜物と召しとは、変えられることがない。(ロ
ーマ人への手紙11:29)。この個所は、イスラエルと神との契約関係
の中において、一層永続的な概念を執行されるために来られた救世主イエス
を拒絶してしまった後に書かれた。
た: 5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 5:2
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって
導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
(ローマ人への手紙5:1,2)イエスがいけにえとなってくださったこ
とによって、イエスに信仰を置く私たちには道が開かれ、神の御前に近付く
特権を持っている。何という和解のいけにえの機会でしょう!
罪のためのいけにえ: 4:1-5:13
罪のためのいけにえは、祭司、指導者、一般的なイスラエル人、それぞれの
階級によって規定は異なった。このいけにえは、「意図的でない」罪(俗に
巧妙に練られた罪と呼ばれるような、故意的なものでなく、また、神に対し
て反抗の意が無いもの)を対処した。罪のためのいけにえは、捧げる者の側
の本物の悔い改めが要された。その目的は、神との交わりの再確立であっ
た。礼拝者は、律法違反による罪が、神の赦しに満たされて聖域を去った。
罪過のためのいけにえ: 5:14-6:7
罪過のためのいけにえは、罪のためのいけにえの延長である。これらの
犯罪は、財産の損失を伴ったので損害賠償が加えられた。犯罪者と被害者の
間の不正は正されなければならなかった。もし、人が誤って、主の聖なるも
のに対して罪を犯したときは、神に賠償金が払われなくてはならない。
祭司の分:
和解のいけにえ: 3:1-17
他のいけにえと違い、和解のいけにえには、神、祭司、捧げる者、そして、
その友人たちが参加することができる食事が携わった。いけにえの一部が神
の御前に焼かれ、残りは、司祭と捧げる者のための祝いの食事のための物と
なった。礼拝者は、神と和解されたことによって喜びに満たされて幕屋を去
った。
使徒パウロは、ローマ人への手紙5章1,2節を記したとき、和解のいけに
えのことを思っていたかもしれない。イエスが、私たちの罪を取り除いてく
ださるために、いけにえとなってくださったことについての詳細を説明し
6:8-7:38
このセクションは、祭司による、それぞれの種類のいけにえの取り扱い方に
ついて具体的に対処している。また、それぞれのいけにえから司祭へ割り当
てられる分についても説明している。幕屋において、神の代表者として仕え
る者たちは、その働きにより基本的な糧を得た。後に、イスラエルの民が、
約束の土地を占領するとき、レビの部族には、他の 11 部族と同じように
地理的配分は与えられなかった。その代り、彼らが継承したのは、主と主の
役割であった。(レビ人には、イスラエル全体に彼らが住むことがでた都市
が指定された。)
18:20 主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうち
に、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはな
らない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業
である。(民数記18:20)
18:7 レビびとは、あなたがたのうちに何の分をも持たない。主の祭司たる
ことが、彼らの嗣業だからである。またガドとルベンとマナセの半部族と
は、ヨルダンの向こう側、東の方で、すでにその嗣業を受けた。それは主
のしもべモーセが、彼らに与えたものである」。(ヨシュア記18:7)
大祭司の就任:8:1-9:24
7日間の任命期間: 8:1-36
この章は、アロンと息子が正式にそのミニストリーに着任する経緯の詳細が
説明されている。アロンが大祭司であった。祭司職は代々家系で受け継がれ
るものであったので、彼の息子がその任務を引き継ぐはずであった。初めの
うちは、イスラエルの主要な霊的指導者として、父なる神の助手として仕え
るという役割を果たしていたはずである。最初のいけにえと清めの儀式の
後、アロンとその息子は、幕屋の中庭で七日七晩過ごした。この期間に、
神は彼らの聖職叙任を封印された。
イスラエル国家としての最古の歴史の中において(1400-1000BC)、
人間の王は存在しなかった。イスラエル国家のための規則の内に、神が意図
された形式は、王政(人間支配)ではなく、神政(神の支配)であった。
それは、真の神であるヤハウェの御前に、民を代表する大祭司の役割を更に
重要とした。大祭司には、重要な国家の問題に関する判決を神に依頼する
責任があった。祭司の衣服、特に胸当ての部分は、神からの回答を得る時の
過程で使用された。国家が神に対して罪を犯した際、大祭司のみが、彼らを
代表して神の御前に(至聖所)贖いのいけにえと共に入り、赦しいを願っ
た。イスラエル国家の初期に、大祭司より重要な職務も個人も存在しなかっ
た。
イスラエルの礼拝の儀式の起動: 9:1-24
八日目、アロンと息子は、幕屋の前でイスラエルの全会衆に会った。モーゼ
の指示に従って、アロンは、最初の正式な大祭司の贖いのいけにえ、まずは
自分のためのいけにえ、次に彼の息子のためのいけにえ、そして国家全体の
ためのいけにえを捧げた。
9:7 モーセはまたアロンに言った、「あなたは祭壇に近づき、あなたの罪祭
と燔祭をささげて、あなたのため、また民のためにあがないをし、また民
の供え物をささげて、彼らのためにあがないをし、すべて主がお命じにな
ったようにしなさい」。
(レビ記9:7)
適切な儀式をささげて、アロンは民を祝福した。そのとき、聖職の就任と
犠牲のシステムが稼働したことを完全に確認されるために、神のご栄光が
見事な様子で現れた。
9:23 モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。
そして主の栄光はすべての民に現れ、 9:24 主の前から火が出て、祭壇の上
の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、
そしてひれ伏した。(9:23,24)
ナダブとアビフの死:
10:1-20
それらの全てが起こって間もなく、レビ記10章へと読み続けると、アロン
の二人の最年長の息子たちの行いと、彼らに対する主の裁きを読みショック
を受けずにいられない。
10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火を
これに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主
の命令に反することであったので、 10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅
ぼし、彼らは主の前に死んだ。 10:3 その時モーセはアロンに言った、「主
は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、
わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。
アロンは黙していた。(10:1-3)
彼らは、まだ、正式に主によるミニストリーに着任する過程にあったので、
アロンと残された二人の息子たち、エルアザルとイタマルは、「髪の毛を乱
したり、着物を裂いてはならなかった」(兄達の死を悲しみ嘆くために)。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外
へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼
らはモーセの言葉のとおりにした。(10:7)
アロンは、(神の御前と民の手前)大衆が見守る中、親子関係よりも優先
に、大祭司としての役割を尊重しなくてはならなかった。ヤハウェの聖さ
が、侵害されたのです。指導者は、全国民の前に、この本質的な原理を支持
しなくてはならなかった:その時モーセはアロンに言った、「主は、こう
仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの
聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは
黙していた。(10:3)
おそらく、人間の最大の罪は、自分たちの偶像で神々を形成し、私たちの望
み通りの礼拝制度を生み出すということであろう。ナダブとアビフが、
「異火」を手に取り、大胆ににヤハウェに接近したということが、まさに
その罪であった。彼らには、非常に詳細に、神のご性質である、栄光と必要
条件は現されていたにもかかわらず、自分たちの考案を優先するためにすべ
て捨ててしまった。一つ明らかであることは: 神は客観的に実在する人格
であられる。私たちによって、神を思い通りに作り上げることは出来ない。
さらに、どのようにすれば神に接近することが出来るかという観点を確立す
るのは神であり、私たちではない。真の宗教は、神によってデザインされ、
人類に与えられたものであり、その逆ではない。
人々の清さを維持するための法律:
していくつか挙げられる:(1)汚れた食品についてのいくつかの論争
【異教の礼拝の儀式や食事に対する直接の声明】;(2)荒野での食生活
で問題を引き起こしたために、神が病から保護されるため;また(3)神
聖の本質を例示するため(神の民が、選択するものには細心の注意を払う必
要があった - 神に喜んでいただくために?)。同じように、12-15
章においても、彼らの生活のあらゆる面において、主のみ前の神聖の基本原
則を拡張している。これらの原則は、関係するイスラエルの民の上に罪を示
唆してるのではないということを細心の注意を払って主張しなければならな
い。例えば、出産中の女が罪を犯していると言っているのではなく、また、
子供を罪と言っているのでもない。全ての問題は、イスラエルの民の真っ
只中に宿られる神のご栄光の臨在と共に存在する。神のご栄光の臨在のた
め、幕屋では、汚れた、一般的な病気の、不詳の、または、汚れたことすべ
てに関して制限されていたのである。血液に関しては特に当てはまった;一
種類の血液のみ、神殿に持ち入ることが出来た。すなわち、犠牲の血であっ
た。神の神聖と分離を維持するためであった。「けがれた」イスラエルの民
でも、礼拝し、祈り、律法を学ぶことが出来た。
補足:
罪のための償いの血液の役割
レビ記を読むとき、イスラエルのいけにえのシステムで血液の中核的役割に
気が付かずにはいられない。なぜそれほどまで血が重要であるのか?これは
非常に重要な疑問であり、その疑問は、神のご性質に関する重要な洞察へと
導いてくれる。
11:1-15:33
レビ記11-15章は、人々が清く保たれるため(清浄度)の詳細を扱って
いるので奇妙な印象を受ける。前の部分では、幕屋の中の日常生活を扱った
一方、このセクションでは、幕屋の外においての日常生活の全体状況の純度
の問題を扱っている。人々は、神の神聖が宿る幕屋に近付くために、特定の
規則にしたがって生活しなくてはならなかった。下記は、ポール・タナー博
士の要約である:
11章は、きよい食物とけがれた食物について対処している。この部分は
神聖の概念、特に、分離のアイデアの基礎であった。イスラエルの民は、
異教徒と同じようにありとあらゆるものを食することは許されていなかっ
た。むしろ、彼らの食生活には、異なる点があった。食生活の制限の理由と
第一に、認識しなければならない。より広い視野を持ってみると、聖書に
は、最初から最後まで血の犠牲が存在する。文字通り、至るところに血が
存在する。創世記3章では、主なる神は、アダムとエバをエデンの園から
送り出される前に、動物の皮の衣を作られ、彼らに着せてくださった。その
ためには、動物の血が流されなければならなかった。創世記4章では、アベ
ルが捧げた血を流したいけにえをお喜びになられたが、カインが捧げた血を
流さない供え物はお喜びになられなかった。アブラハムは、息子のイサクの
身代わりに、子羊のいけにえを捧げた。血の犠牲は、旧約聖書全体でイスラ
エルの礼拝の儀式の中で、中核的存在であった。
勿論、新約聖書の中核は、神の子羊でおられるイエスの犠牲の血である。主
の晩餐でさえも、新しい赦しの契約が開始するために流されたイエスの血を
象徴する杯を分かち合った。使徒ヨハネは、黙示録で、天国に巻き込まれた
とき、十字架上で殺されたときの傷跡が残る子羊に会う。血の犠牲は、全聖
書を通して、神と人間の間の中核的な儀式行為であるとよく言われることが
ある。そうすると、レビ記の内容は決して異常ではない。それは単に、その
先、聖書を通してごく普通に中核的になっていく内容をより具体的に詳しく
説明している:罪深い人間は血の犠牲からかけ離れて聖なる神と一体化する
ことは出来ない。
10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じ
ようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできな
い。 10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえを
ささげた後、神の右に座し、(へブル書10:11,12)
しかし、二つ目の観察は、なぜ血の犠牲であるかという疑問のより深いとこ
ろへと私たちを導いてくれる。神は、アダムとエバに神への背きは「死」で
あると言われた。(創世記2:17)同じ様に、使徒パウロは、次のように
記している:「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)明確な原則
は次の通りである:罪は神の経済において死を要する。私たちは、神がなぜ
そうあられるのか、知っているかのように推測することは出来ない。おそら
く永遠の御国で、明確になるであろう。「しかしその時には、わたしが完
全に知られているように、完全に知るであろう。」(第一コリント13:12)
その時まで、私たちは、罪があるところに神は死を要されるという真実であ
る聖書の証言を取らなければならない。この必要条件から回避する方法はな
い。聖なる神の本質から発出するものである。
何に、私の罪を洗い流すことができようか?
イエスの血の他になし;
何が、私を完全にしてくれようか?
イエスの血の他になし。
ああ、なんと尊い流れでしょう、
私を雪のごとく真っ白にしてくれる。
私が知る源泉は他にはなし。
イエスの血の他になし。
そして、それは三つ目の観察、犠牲制度の血液の役割についてへと導いてく
れる。なぜ野菜の供え物ではいけないのでしょう?なぜ血の犠牲でなくては
ならないのか?レビ記は、その疑問に対する神の答えを教えている:17:11
肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あが
ないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえ
に、あがなうことができるからである。(17:11)血には生命が宿っ
ている;したがって、血によって、贖いの犠牲が神に受け入れられるものと
する。それ故、聖書全体が神に受け入れられるための犠牲の血の重要な役割
を強調し続けるのである。9:22 こうして、ほとんどすべての物が、律法に
従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆ
るしはあり得ない。(9:22)
1.神の聖さと人間の罪深さ
今日のクリスチャンは、神の聖さと人間の罪深さにおいての理解が浅いよう
に思われる。最初に、神への崇敬の念が影響され、次に、罪のための悔い改
めへと導かれる。私たちが、真の神の聖さを理解し始めるとき、神への畏敬
の念を抱き現さずにいられなくなるであろう。そして、私たちの人生におい
て、権威ある神に相応しい真の王座に着いていただくであろう。また、私た
ちの真の罪深さを理解し始めるとき、恵みの御座の前に崩れ落ちて泣くであ
ろう:『神様、罪人のわたしをおゆるしください』(ルカ18:13)何
よりも、聖霊様が、私たちの内で活発に働かれ、神の真のご性質を見ると
き、私たちは、ささいな宗教活動と不敬な生活のすべての形態を断念するで
あろう。私たちは、神への健全な恐れを保ち、罪から遠ざかり、神の聖さへ
近付くであろう:
キリスト信者として、私たちは、キリストの血の価値を理解し感謝するべき
である。彼の血は、正に、今まで流されたすべての血のなかでも、唯一私た
ちの罪を実際に取り除くことが出来る血であった。その他の全てのいけにえ
の血は、彼の犠牲を見越して流されたものであった。
古い賛美歌は、次のように歌っている:
レビ記1-15章においての教訓
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 1:15 むしろ、
あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、
あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 1:16 聖書に、「わたしが聖
なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあ
るからである。 1:17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平
にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそ
れの心をもって過ごすべきである。 1:18 あなたがたのよく知っているとお
り、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や
金のような朽ちる物によったのではなく、 1:19 きずも、しみもない小羊の
ようなキリストの尊い血によったのである。 (第一ペテロ1:14-19)
2.罪をお赦しになられる神の哀れみと願い
複雑ではあるものの、レビ記においても、神は有罪な罪人をも赦され、神と
の交わりを回復されるための道を備えてくださっているということを教えて
いる。聖書の神は、常に罪人を清めてくださるための道を備えて来てくださ
っている。哀れみが、神の判決の傾向であるように伺える。
30:18 それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、
主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせら
れる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。(イザヤ書30:18)
3.私たちの「いけにえ」と神の喜び
レビ記は、頻繁に「いけにえ」が、神に「喜ばれた」(「心地よい香り」)
(レビ記1:9,13,17; 2:2,9,12; 3:16; 4:31;
6:15,21; 8:21,28; 17:6、等…)と力説している。その
通り、レビ記で指定された動物と穀物のいけにえは、神に「喜ばれる供え
物」となることは確かであると同時に、神に喜ばれる犠牲は、私たちが何を
供えるかではなく、神にもたらす私たちの心によって決まるということを
明確にしている。
詩篇51篇では、ダビデの犯した姦淫と殺人の二重の罪の後、神が喜ばれる
いけにえは唯一であり一種であったことに気が付いた:
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれませ
ん。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれた
霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51:16,17)
別の言い回しで、使徒パウロは、ローマ人への手紙の中で、今日、神がお喜
びになられるいけにえを説明している箇所で同じポイントを突いている:
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧
める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物とし
てささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 12:2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにするこ
とによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神
に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ
人への手紙12:1,2)