時代遅れからの離陸

エッセイ・小論文
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入賞
原
和義(はら
かずよし)さん・81歳/福岡県北九州市在住
元高校教師。
時代遅れからの離陸
数年ほど前、すべての仕事から解放され、毎日が日曜日となっ
た。五十年以上も組織に縛られながら働き続けてきたが、これか
らは自由な快老生活が楽しめると、心は日本晴れとなった。
早速、好きな旅に出ようとある旅行会社のツアーに申し込んだ。
代金の振込みに手書きの用紙を銀行の窓口に出したら、機械を使
ったほうが手数料が安くなるし、ホームトレードに加入すれば、
パソコンでも可能ですという。ATMの前に立ったが、操作方法
がよくわからず、もたもたして先に進まない。後に並んだ人の苛々
を背中に感じながら、遂にあきらめた。パソコンなら家に居なが
らと思ったが、そんなのには触れたこともない。
家に帰ってテレビと対面したが、画面も音声も上の空で、じっ
と睨みつけているうち、昨今、パソコンができない年寄りは、生
活できなくなるのではという危機感に襲われた。
足腰が弱くなって出歩くことが難しくなれば、パソコンで銀行
の入出金の確認、振込み送金もできるし、買い物も可能というが、
そんな手品みたいなことは理解不可能である。
しかし、毎日が日曜日で、朝からテレビと無言の対面では痴呆
症になりかねない。
「考える人」になっていたら、俺は「時代遅れ
の男」にはならないぞという思いが、ふつふつと湧いてきた。そ
ばにいた妻に「パソコンを習いにいくぞ」と宣言したものの、年
金生活の今では、高い授業料を払うには抵抗感がある。あちこち
探していたら、ある市民センターに「無料・初級」というのを見
つけた。
勇んで出かけた初日、予想どうり昭和初期を共に生きた世代ば
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かりで、
「同期の桜」としての連帯感が湧いた。しかし、大正世代
で、九十歳を越すというばあちゃんがいたのには驚いた。私がも
たもたしていたら、そばから「どうしました?」といわれ、この
ばあちゃんにだけは負けたくないという対抗心が生まれ、新しい
パソコンも買った。
それから四年、ワード・エクセル・メールと、基本的なことは
かなりこなせるようになった。年賀状もプリントアウトしたし、
メル友ばあちゃんもできた。春が遅い北国にいる息子には、九州
の満開桜の写真を送った。
メールが返ってきた。
「八十近い年寄りにしてはよく頑張った。
試しに俺の預金通帳に送金してみたら」とあった。たとえ出来た
としても、
「金なんか送るか、この親不孝め」と思ったが、こんな
コミュニケーションができるとは思ってもいなかった。これを機
会に、便りの途絶え勝ちだった息子へ矢継ぎ早にメールを送った。
見ているのか、見ていないのか、なしのつぶてだが、着いている
ことは間違いない。そのうちにたまりかねたのか、
「わかった。わ
かった。もう止めて」という返事が来た。
メル友ばあちゃんからも、アンコールワットに行ったから、そ
のうちに写真を送るというメールが届いた。負けてはならじと、
こちらは韓国一周の旅に出た。写真を送るつもりだから、メール
での海外旅行写真合戦になるかもしれない。
私に刺激されて、家内も自分専用のパソコンを買った。お互い
に教えあうことと、メールを覗き見することは厳禁となっている。
喧嘩になるからである。最近、じじばばのパソコンに息子からの
メールはない。
仕事が忙しくて「結婚なんかしない」という息子は、もう三十
半ばを過ぎている。近くにアラサーの素敵な娘さんがいるから、
メールで彼女の写真を送ろうと計画している。どんな反応を示す
か楽しみである。
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私もやっと「時代遅れの男」からの離陸ができそうである。
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