「養護の働き」と「教育の働き」は交叉している

京都市子育て支援総合センターこどもみらい館
平成27年度 第1回共同機構研修会
共同機構研修会
「養護の働き」と「教育の働き」は交叉している
~子どもの心を育てるために~
講師
1.はじめに
これまで「育てる営み」とは本来,どのような
鯨岡 峻
中京大学客員教授
いまでこそ,保育園だ,幼稚園だ,認定こども
園だと,保育の場を巡る騒がしい状況があります
ものかについて考えてきました。この4月から
が,そうした場が子どもに用意される以前から,
「子ども・子育て」に関わる新制度が発足し,幼
子どもは生まれると周りの大人たちに育てられ
保連携型認定こども園に移行するのかどうか,保
育って一人前になってきていたはずです。そのと
育園(所)でも幼稚園でも頭を悩ましているとこ
き,その「育てる」という営みはどのような中身
ろでしょう。しかし,この新制度は本当に「子ど
から成り立っていたのでしょうか。歴史的にそれ
もの最善の利益」を考えた結果の改革だったのか,
を明らかにすることは難しいのですが,しかし今
それとも就労支援や学力向上という大人たちの
のように,早くから何かを教えて力をつけること
願いをベースに目指された改革だったのか,疑問
に奔走していたわけでなかったことは確かでし
に思われることが多々あります。そういう状況の
ょう。その育てる営みの中身を考えたときに行き
中で,もう一度,子どもを育てるということはど
着いたのが,「養護の働き」と「教育の働き」で
ういうことなのか,何が育てることに欠かせない
した。
のか,一人前の大人になるとはどういうことなの
かを改めて考えてみる必要があると思われまし
(1)「養護の働き」
た。今回の講演の中身は,そのような私の現状に
子どもは「あなたは大事だよ」「あなたのこと
対する焦りにも似た思いから用意されたもので
を愛しているよ」というように,周りから肯定的
す。皆さんも,今置かれている厳しい状況を睨み
に受け止めてもらうこと,言い換えれば,周りの
ながら,子どもを目の前にしたときにどのように
大人から肯定的な思いを伝えてもらうことが不
対応するのが子どものためなのか,子どもは将来
可欠な存在です。それが子どもにとっては元気の
一人前になるためには,どういう心を身に付けな
源,自分が愛される値打ちのある存在であるとい
ければならないのかを,一緒に考えていただけれ
う意味での「自己肯定感」の出所です。つまり,
ばと思います。
周りの大人から思いを受け止めてもらう,存在を
認めてもらう,存在を喜んでもらう,愛してもら
2.
「育てる」営みとはなにか
うことを不可欠にしているのが子どもだという
私は保育なのか,教育なのか(あるいは幼児教
ことです。その逆に,周りの大人に思いを否定さ
育なのか学校教育なのか)という議論の前に,
「子
れ,見捨てられたり,馬鹿にされたり,無視され
どもは育てられて育つ」という最も素朴な発想に
たりするとき,子どもがどれほど意気消沈し,元
立って,子どもの発達の問題,子育ての問題を考
気をなくし,呆然とするかは,保育の場の子ども
えてきました。子どもという存在は,大人の「育
の様子からも分かるはずです。
てる」という営みがなければ育つことが難しい存
私はこのような大人の子どもの存在を尊重す
在です。これは乳幼児に限らず,一人前になるま
る姿勢,愛しているという思い,大事だという思
での子ども時代に一貫して必要なものと考えて
いなどを総称して「養護の働き」と呼んできまし
よいでしょう。
た。
(2)
「教育の働き」
き」)の両面は,互いに相容れない面(ありのま
「育てる」という営みは,上に述べた「養護の
まを肯定しつつ,ありのままを乗り越える(あり
働き」に尽きるものではありません。やはり太古
のままを否定する)という両義的な二面)をもち
の昔から,大人は未来の大人である子どもに対し
ながら,まさに切り離されないかたちで子どもに
て,いま大人である自分たちがしていることをす
振り向けられます。そしてそれが子どもを「育て
ることができるように,様々に誘い,促し,手ほ
る」ことになるのです。
どきし,ときには教えるという働きかけをし,ま
たいけないことをしたときに,叱ったり,禁止や
3.「養護の働き」と「教育の働き」は保育の
制止を加えたりして育ててきました。それが広い
営みの中で交叉している
意味での「教育の働き」であったと思います。排
「養護の働き」と「教育の働き」はどのような
泄のしつけにせよ,衣服の着脱にせよ,子どもは
関係にあるのでしょうか。両者は単に相互に影響
周りの人のすることを見て自ら取り込む面を持
を及ぼしあっているだけではなく,あるいは,今
ちながらも,大人がまずそれをやってみせ,それ
は「養護の働き」次は「教育の働き」と二つの働
に子どもが興味を持って,という流れで子どもの
きが単に前後して子どもに振り向けられている
成長を促そうとしてきたのでしょう。
わけでもありません。「養護の働き」を振り向け
実際,自分は愛されている,大事にされている,
るときには既に教育の働きがそこから滲み出て
自分は大事なのだという自己肯定感を背景に,意
いたり,もっぱら「教育の働き」を向けているよ
欲と興味を持ち始めた子どもは,周りの大人のす
うに見えて,実は「養護の働き」が暗黙裡にそれ
ることを取り込み,自分もやってみたい,やって
を下支えしていたり,という意味で,二つの働き
見ようと思うようになります。これが「まねぶ」
は切り分けられないものなのです。これを具体例
(
「学ぶ」の意味)です。そして子どものこの「ま
に即して考えてみましょう。
ねぶ」姿勢を見極めながら,大人が自分の願って
いる行為に向けて誘ったり,促したりするのが
エピソード①
「教育の働き」ですが,その「まねぶ」姿勢が生
Dちゃんは水道の所に座り込みコップをひっく
まれるには「養護の働き」が欠かせません。安心
り返してコップの底に水を当て跳ね返る様子を眺
感を抱き自己肯定感を持てない子どもは「まね
めて楽しんでいた。「あらら,やってるなぁ」と思
ぶ」気持になれないからです。そうしてみると,
った私は「Dちゃ~ん」と呼んでみた。こちらを向
「教育の働き」は「養護の働き」と切り離せない
いたDちゃんの表情は私と目が合うと一瞬で曇り,
ことが分かると思います。
「叱られる・・・」と思った様子が伺えた。そこで
私はとっさに笑顔になって「コップぴかぴかなっ
(3)「育てる」営みは「養護の働き」と「教育
た?」と明るく聞いてみると,曇った表情が一変し,
の働き」からなる
「え~」と笑顔に変わる。「ぴかぴかなったら帰っ
こうして,太古の昔から,「育てる」という営
みは「養護の働き」と「教育の働き」が切り分け
てきてね」と伝えると,すぐに水道を止めて足取り
も軽く帰ってきた。
られないかたちであったことが考えられます。私
は就学前の「育てる」営みは,家庭の場では「養
これは接面で何が起こっているかをもっとも
育」と,保育の場では「保育」と呼ぶのがもっと
よく表している部分です。水遊びをしている光景
もふさわしいのではないかと考えてきました。
が目に飛び込んできたとき,書き手は「あらら,
「育てる」営みに含まれる存在を慈しみ喜び包む
やってるなぁ」と思ったとあります。それは,
「そ
面(
「ありのまま」を肯定する「養護の働き」)と,
こで何しているの!」と強い「教育の働き」を振
大人に一歩一歩近づくための面(「ありのまま」
り向ける可能性(多くの保育の場では当然のよう
を乗り越えて新しいものを身に着ける「教育の働
にかけられる言葉)がある点からすれば,今の事
態のあるがままをまずは受け止めようとする能
さんは「嫌いなのにキスするな!」と言いながら私
動を含みながら(「養護の働き」),その裏に「そ
にしがみついてきた。それからはR男さんの身体か
れはいいのかな?」という否定的な思い(「教育
らとげとげしさがなくなり,一緒に食べたおやつの
の働き」)が一部匂わされています。そしてそれ
アイスクリームの甘さがじんわり染みた。
は「Dちゃ~ん」という呼びかけに引き継がれま
すが,そこには既に先生の中で「だめよ」という
E男くんに苛立ちをぶつけるR男くんの思い
禁止や制止の「教育の働き」が作動しつつあるこ
を懸命に受け止めて対応してきた先生でしたが,
とが匂わされています。それが接面から伝わるの
遂に堪忍袋の緒が切れて,「もう,Rくんは!」
で,Dちゃんの表情は一瞬で曇り,「叱られる」
と怒りの混じった制止の言葉をかけようとしま
と思ったのでしょう。それに気づいた先生は,
「D
した。そのとき,先生にはR男くんのしょんぼり
ちゃ~ん」と呼んだときの表情や声のトーンに込
とした表情が目に入り,それが「自分でもひっこ
められていた禁止の意味合いを消すために,とっ
みがつかない」と訴えているように見えます。そ
さに笑顔になり,明るいトーンで「コップぴかぴ
れはまさにその接面の当事者にしか分からない,
かになった?」とその事態を半ば肯定するような
情動の動きから感知される部分です(それをこれ
言葉をかけた(養護の働き)のでした。
までは「間主観的に分かる」と表現してきました)
。
ここには「養護の働き」と「教育の働き」が切
そこで強い制止という「教育の働き」を振り向け
り分けられないと述べてきたことが凝縮されて
る直前に,「もう,Rくんたら・・・」と抱きし
現れています。「養護の働き」にすでに「教育の
めておでこにキスをする「養護の働き」に切り替
働き」が忍び込み,「教育の働き」の強さを緩和
わったのです。これまでR男くんに関わってくる
するために「養護の働き」をそこに引き込むとい
中で,K先生にはR男くんに対して「いつも,す
う捻じれた事態です。同じようなことをもう一つ
でに」根源的な配慮性を働かせてきており,それ
のエピソードで確かめてみましょう。
が潜在的な「養護の働き」として機能していたか
らこそ,その瞬間の切り替えがなされたのでしょ
エピソード②
う。R男くんは,その先生の優しい「養護の働き」
通級指導教室に通っていた子どもたちと担当
が嬉しいという気持ちと,一瞬怖い顔をした先生
の先生が教育展を見に行ったこの日,R男くんは
の表情に,「先生に叱られる,でも叱られても仕
道を歩きながらE男くんがフウの実を見つけた
方がない」と思っていた気持ちとが自分の内部で
のに自分が見つけられなかったことが悔しくて,
入り混じります。そこから,「嫌いなのに,キス
ことあるごとにE男くんに当たっていました。そ
するな!」という言葉が紡がれる一方で,先生に
れを先生が間に入ってこれまでは何とか抑えて
しがみつくという言葉と裏腹な行為が生まれた
いましたが,先生の堪忍袋が限界に来た頃に生ま
のでしょう。この言葉とその行為には,R男くん
れたエピソードです。
のそのような複雑な思いが見事なまでに浮き出
昼食のときである。フウの実の件があって,ベン
ています。その複雑な思いは,まさにこの接面の
チにたまたま隣り合わせたE男さんが気に入らな
当事者だからこそ,それを把握することができ,
く,R男さんはぐいっ,ぐいっとE男さんを横に押
またそれをエピソードに描いたからこそ,私たち
す形でベンチから落とそうとしていた。私は「もう,
読み手もその複雑な思いが了解できるのです。こ
Rくん,いい加減…」と怒鳴り声をあげかけ,じっ
のエピソードなどを見ると,どこまでが「養護の
とR男さんの顔を見ると,とてもしょんぼりとした
働き」であり,どこからが「教育の働き」である
顔をして私を見上げてきた。その目が,自分も引っ
というように,簡単には切り分けられない事情が
込みがつかず自分をもてあましていると訴えてい
よくわかります。それほどに,接面で生じている
るように見え,私は「もう,Rくんたら…」とRく
情動の動きは微妙で,それに導かれて言葉や行為
んを抱きしめておでこにチュッをした。するとR男
が紡がれ,行動的対応が導かれているのです。
4.育てる営みは「接面」で把握されるものに
基づいている
この場面で,Aくんも担任の保育者も一言も言
葉を発していません。しかし,担任はAくんの思
水道の水遊びの例で,先生が口にした「Dちゃ
いが掴めたので頷き,Aくんも担任の思いが掴め
~ん!」
「コップ,ピカピカになった?」
「コップ,
たので上半身を起こしたままで先生が来るのを
ピカピカになったら帰ってきてね」という言葉は,
待つことができました。
まさに「養護の働き」と「教育の働き」の捻じれ
今の例からも分かるように,気持ちを向け合う
た関係の中から紡がれたとしか言いようがあり
人と人のあいだには独特の空間,雰囲気が生まれ
ません。また「嫌いなのにキスするな」の例で,
ます。例えば,母親が子どもを可愛いと思って関
先生の「もう,Rくん,いい加減・・・」
「もう,
わるときにそこに生まれる独特の雰囲気,あるい
Rくんたら・・・」の発言も同様です。そのよう
は保育者が子どもの気持ちに寄り添ったときに
な両義的な働きは,子どもと保育者で創る「接面」
そこに生まれる二人の間の独特の空間,さらには
で保育者が子どもの思いを敏感にキャッチして
臨床家と患者のあいだに生まれる独特の雰囲気
いるからこそ生まれるものです。前者の例では
などがそれです。それこそが人が人を分かるとい
「しまった」というDちゃんの思い,後者の例で
う出来事が生まれてくる基盤をなしています。
は「ひっこみがつかない」というRくんの思いが
そのような人と人のあいだに成り立つ独特の
接面から先生に感じ取られたから,次の対応が紡
空間や雰囲気をさしあたり「接面」と呼んでみま
がれたのです。
しょう。そうするとそれは単なる二者間の物理的
そこから考えると,保育者が子どもとのあいだ
な空間という意味での「あいだ」とは異なるもの
に接面をつくること,その接面から子どもの心の
だということが分かるはずです。そうした独特の
動きを敏感にキャッチすることが,丁寧な対応を
空間や雰囲気が生まれるのは(つまりそこに「接
導く鍵であることが分かると思います。そこで,
面」が生まれるのは),少なくとも一方が他方に
以下に「接面」に言及してみます。
志向を向けてそこに関係を作り出そうとしてい
るからでしょう。
上に独特の空間や雰囲気と述べたことは,必ず
(1)接面
しも常にポジティブな内容を指しているとは限
「接面」とはこういうものだと最初から定義す
りません。例えば,ある子どもの意図を掴もうと
ることは難しいので,まずは接面が問題になる場
その子に寄り添おうとしても,その子から跳ね返
面を大まかにスケッチしてみたいと思います。
されるような力を感じ取らされたり,逆にこちら
が積極的に働きかけると壊れてしまいそうな危
エピソード③
うさを感じて,これ以上関わることがためらわれ
いま,3歳児の午睡の部屋で,なかなか寝付けな
たりというように,こちらの意図と相手の思いが
いBちゃんを担任の先生が背中をとんとんして寝
うまく絡み合わない場合にも,そこには独特の空
かせています。Bちゃんが眠れば全員入眠という状
間や雰囲気が生まれます(自閉症スペクトラムの
況で,少し離れたところで寝ていると思っていたA
子どもに関わるときにその接面からそのような
くんがむっくり上半身を起こし,保育者にまなざし
雰囲気が感じられることがあります)。このよう
を送ってきます。そのAくんと目が合った担任の保
に,肯定的な内容であるか否定的な内容であるか
育者は,そこにAくんの「先生,きて,ぼくもとん
の如何を問わず,人と人がつくる空間や場に独特
とんして」という思いが掴めたので,
「わかったよ,
の雰囲気が生まれ,そこで人は何かをそこから感
Bちゃんが寝たら行ってあげるからね,もうちょっ
じ取っています。それが人の生にとって極めて重
と待っててね」という思いで無言のまま頷いてみせ
要な意味をもち,そこでの経験が日々の生活に彩
ると,それがAくんにも分かったようです。
を添えているはずです。こうした独特の空間や雰
囲気を差し当たりは「接面」という言葉で包含で
きないかと思うのです。
らゆる人と人のあいだで起こっているはずです。
そうしてみると,従来,「相手の気持ちが掴め
(2)接面では何が生じているか
接面では様々なことが起こっています。例えば,
た」
「相手の気持ちが身に染みて分かった」
「こち
らの気持ちが相手に伝わった」というふうに語ら
母親の温かく優しい情の動きが幼児を包み込み,
れてきことは,接面を通して力動感が相互に相手
その子の中に嬉しい気持ちが湧きたちます。観察
に浸透するという事情を言葉にしたものだとい
している私には母の優しい情の動きも,子どもの
うことが分かります。ですからそれらはみな対人
嬉しい気持ちも,そのようなものとして伝わって
関係の展開を左右する大きな意味,というよりも
きます。母と子の接面ではこのような肯定的な情
むしろ対人関係を動かして行く原動力といって
動が行き交う場面もあれば,激しい怒りから語気
もよいものです。
鋭い言葉が発せられ,それによって子どもが縮み
上がる場合のように,両者のあいだに負の情動が
5.心を育てる上には「養護の働き」ばかりで
行き交う場合もあるでしょう。このように,接面
なく「教育の働き」も重要である
ではまさに人の喜怒哀楽に関わる情動が行き交
これまで私は,いまの保育や学校教育に見られ
っています。そして一方の情動の動きは他方へと
る「力を,力を」という流れは,「教育の働き」
容易に浸透し,しかもそれが双方において交叉す
を偏重し「養護の働き」をないがしろにするとこ
ることによって,さらなる情動の動きに転化して
ろから導かれたものだという考え方が強かった
いくこともあるはずです。
ためか,「教育の働き」をネガティブなトーンで
そうした情動の動きは,嬉しい,楽しい,悲し
語ることが多く,正しい意味での「教育の働き」
い,腹立たしいといった喜怒哀楽に関わる情動の
の重要性をややもすれば指摘し損ねてきた感が
動きばかりでなく,広義の情動,私が力動感とよ
ありました。本当は本来の「教育の働き」が,
「教
ぶ,ワクワク感,ドキドキ感,イライラ感,ムズ
え込む」という本来のそれとは異質なものになっ
ムズ感,ガックリ感,しっとり感,昂揚感,安心
ているという議論をし,その上で,その歪められ
感,期待感など,実に多様な情動の動きもそこに
た「教え込む」教育を批判しなければならなかっ
含めて考えてよいと思います。そうした狭義,広
たのに,「教育の働き」そのものに問題があるか
義の情動の動きが,一方が他方の気持ちを「分か
のような議論になってしまっていた部分があり
る」ということの基盤をなしていることは,これ
ました。
までの著書でも繰り返し論じてきたところです。
「間身体的に響き合う」と語ってきたことも,同
じ内容を言い当てようとしたものでした。
(1)「育てる」営みの両義性
子どもの思いと育てる大人の思いがぶつかる
こうした接面を通して感じ取られてくるもの
ようになる幼児期前期以降(18カ月以降),大
を基盤に,母親や保育者は子どもの「こうしたい」
人の対応は微妙に捻じれてきます。そこに子ども
「こうしたくない」「こうしてほしい」という思
の思いを「受け止め・認め」つつ,大人の願うと
いを掴み,それをまずは受け止めて,それに応じ
ころに向かって「教え・導く」必要が生まれます。
たり,受け止めても応じなかったりして,その後
大人の一方的な「教え・導く」は,子どもを主体
の対応を紡ぎ出していきます。つまり,接面では
として育てることに成功しません。それはいまの
子どもの言動だけでなく,その言動の基になった
学校教育の「教え込んで育てる」強権的な姿勢が,
情動の動きがその接面を通して当事者に把握さ
結局は子ども本来の主体としての心(私の言い方
れてきます。こうしたことは,子どもと保育者と
で言えば,
「私は私」と言える心と,
「私は私たち」
のあいだでも,子どもと教師の間でも,患者と看
と言える心の二面)を育てることに失敗し,学力
護師の間でも,さらには恋人同士の間でも,夫婦
は身に付けさせたかもしれないけれども,一人前
の間でも,友人同士の間でも,要するにありとあ
の大人に育てそこなっている現状を見れば明ら
かでしょう。ですから,子どもを育てるというこ
げようとした。Kくんが体をよじって取られまいと
とが,まさにこの微妙なねじれを伴った両義的な
すると,SくんはKくんの頭をパシーンと叩き,立
対応によって営まれるものだということに早く
ち上がってKくんのお腹を蹴り上げた。大声で泣き
立ち返り,本来の「教育の働き」を歪められた「教
出すKくん。あまりの仕打ちに,私はSくんの思い
え込む」教育と混同しないところに行き着かなけ
を受け止めるよりも先に,「どうしてそうするの!
ればなりません。
そんな暴力,許さへん!」と強く怒鳴ってしまった。
たとえば,「それはいけない」と禁止や制止を
くるっと振り返って私を見たSくんの目が怒りに
加えるときや,叱るときなどがこの一文の「伝え
燃えている。しまったと思ったときはすでに遅く,
ること」の中身です。それが「教育の働き」であ
Sくんは「こんな保育園,出ていったる!」と肩を
ることはすでに示してきたとおりです。しかし,
怒らせて泣きべそをかき,部屋を出て行こうとした。
それが一方通行のかたちで,大人から子どもへと
私はSくんを必死で抱きとめて,「出て行ったらあ
上から目線で強引に子どもに突きつけられると,
かん。Sくんはこのクラスの大事な子どもや!」と
子どもは自分の行為を禁止された,制止された,
伝えた。泣き叫び,私の腕の中で暴れながらも,抱
あるいは叱られたと取るよりも,自分の存在その
きしめているうちに少し落ち着き,恨めしそうな顔
ものが否定されたと受け取ります。ですから行為
を私に向けて,「先生のおらんときに,おれ,死ん
の上では大人に従い,大人の意向はそれで果たさ
だるしな」と言った。
れたかに見えても,子どもの心の中では,自分の
私とSくんのやりとりを他の子どもたちが不安
思いが分かってもらえなかったという納得でき
そうに見ていたので,「みんな,朝の会やのにごめ
ない不満が渦巻き,力に従わせられた屈辱が怒り
んな,いま先生,みんなに大事な話をしたいんや」
となり,しかもそれを抑えなければならないとい
と子どもたちに声をかけた。そしてSくんを抱き止
う腹立ちが湧き起ります。これは子どもが主体で
めたまま,子どもたちに「みんなSくんのことどう
あることを否定された状況であり,これは本来の
思った?」と訊いてみた。子どもたちは,「Sくん
「育てる」営みではありません。子どもに禁止や
がKちゃんを叩いたんは,やっぱりあかんと思う。
制止が示されるとき,それは自分の行為に向けら
そやけど,Sくんはやさしいところもいっぱいあ
れたものであって,自分の存在が否定されたので
る」。
「Sくんは大事なぞう組の友達や」。
「朝も一緒
はないという確信が子どもに得られるかたちで,
に遊んでて,めちゃ面白かったし,またSくんと遊
その禁止や制止が示されることが大切です。
びたい」。
「出て行ったらあかん,ここにいて」と口々
ここで,
「教育の働き」の中でも,特に「叱る」
に言う。私が心配しているのとは裏腹に,子どもた
や「禁止や制止」を大人が実際にどのように示す
ちはSくんを大事に思う気持ちを次々に伝えてく
かが,ポイントになってくることが分かります。
れた。私は涙が出るほど嬉しかったが,ふと気がつ
くと,Sくんが私の体にしがみつくようにしている。
(2)
「叱る」ことの難しさ
そこで,子どもたちにお礼を言って,「Sくんが先
以下に示すのは,「こんな保育園,出ていった
生に話があるみたいやし,今日は朝の会は終わりに
る!」というエピソードの一部を抜粋したもので
して,みんな先にお外で遊んでてくれる?」と声を
す。このエピソードには叱るという「教育の働き」
かけた。
の難しさが端的に表れています。
子どもたちが園庭に出て室内で二人きりになる
と,Sくんは「あのな,うちでしばかれてばっかり
エピソード④
やねん。うち出て行って,反省して来いって,いつ
朝のお集まりのとき,Sくん(5歳児)は,自分
もいうねん。出て行って泣いたら怒られるし,静か
の隣に座った4歳児のKくんがアニメのキャラク
に反省したら,家に入れてくれるんや」と話し出し
ターのついたワッペンを手に持っているのに気づ
た。私は「そうやったんか,Sくん,しんどい思い
き,「見せろ」と声をかけると強引にそれを取り上
してたんやな」と言ってSくんを抱きしめた。「先
生はSくんのこと大好きや,先生,何が嫌いかしっ
SくんとT先生の接面ではおそらく激しい情
てるか?」と言うと,「人を叩いたり,蹴ったり,
動の動きが行き交っていたに違いありません。手
悪いことすることやろ?」とSくん。そして「遊び
順を前後して強い「教育の働き」を示してしまっ
に行く」と立ち上がると,「Kちゃんにごめんいう
たけれども,それは一瞬のことで,すぐさま先生
てくるわ」と言って走って園庭に向かった。
の「養護の働き」が立ち上がって,抱き止める行
為になり,「Sくんは大事なクラスの子ども」と
書き手の書いた<背景>も<考察>も割愛し
いうSくんを肯定する言葉が紡がれます。このと
ているので,エピソード記述全体がどうなってい
き,叱った怖い先生と,受け止めて肯定してくれ
るのかと疑問に思われるかもしれませんが,いま
る優しい先生がSくんの中で二重になりますが,
ここでこのエピソードを取り上げるのは,
「叱る」
二人きりになって,いつもの穏やかで優しい先生
という「教育の働き」がいかに「養護の働き」と
に戻ったことが分かったSくんは,ようやくほっ
結びつけられる必要があるのかを考えたいから
として,家の様子を話し出します。それは,いけ
です。
ないことをしてしまったのに,それでも先生はや
あまりにひどい暴力に,まずは子どもの思いを
はり優しい先生だったというふうにして,先生へ
受け止めて(「養護の働き」),それから「保育者
の信頼感がそれまで以上に強められた結果でし
の願いを返す(
「教育の働き」
)という保育の基本
ょう。そして最後に蹴った相手のKくんに自分か
の手順を守ることができず,強い調子で叱りつけ
ら謝りに行くことができたのも,T先生への信頼
てしまいました。あまりに酷い暴力だったので,
感が甦ることを通して,それと連動して働くSく
保育者にとって,やはりこれはやむを得ない対応
んの自己肯定感(ぼくは大事にしてもらえるよい
だったかもしれません。
子という確信)が立ち上がったからでしょう。
ところで書き手のT先生は,家庭的な難しい問
題を抱えたSくんに対して,これまでできるだけ
(3)優しい保育者として生き残ること
強く叱りつけないで,Sくんの思いを受け止めて
先のエピソードには,ウィニコットが「叱る場
対応してきていました。ですから,Sくんにとっ
面で母親は怒り狂ってはならず,優しい母親とし
てT先生は母親以上に大事な大人でした。その先
て生き残らなければならない」と言っていたこと
生に強く叱られたとき,Sくんの気持ちはどうだ
が,文字通りのかたちで立ち現われています。T
ったでしょうか。単に叱られたことへの腹立ちば
先生は強く叱ったけれども「優しい保育者として
かりではなかったはずです。その怒り狂う気持ち
生き残った」から,Sくんの揺らぎかけた信頼感
と,出ていこうとする行為の裏側で,Sくんには
と自己肯定感が一段と強化されて立ち上がるこ
先生に引き止めてほしい,出ていかないでと言っ
とができたのです。
てほしいという気持ちがあったに違いありませ
いま,すぐにキレる子,あるいは,このエピソ
ん。他方で,いつもは優しいT先生がこんなに怒
ードのSくんのように,まだ幼い子どもがここま
っている,ぼくはいけないことをした,いけない
で暴力を振るうのかと唖然とさせられるような
子になったという思いも動いていたに違いあり
子が,いろいろな場面で取り上げられます。その
ません。そこに「出ていったらあかん,Sくんは
ような子どもが増えていることは確かです。こう
大事なクラスの子どもや!」という先生の必死の
した現実を前にしたとき,「子どもがいけないこ
言葉と強く抱きかかえる行為(Sくんの存在を認
とをしたときに強く叱るのは当然,白黒をはっき
める「養護の働き」)が返ってきます。それがい
りさせて強く規範を示さなければ子どもは善悪
まのSくんにとってどれほど嬉しいことだった
が分からない子に育つ」,とよく言われます。し
でしょうか。その気持ちから,次には先生の腕の
かし,ただ大人が強い力を示す形で一方通行の力
中で大人しくなり,先生の体にしがみつくという
の規範を示せば,子どもの心に残るのは大人の力
行為になったのです。
で抑え込まれた不満と叱る大人への恨みの感情
だけで,そこから規範意識は決して育ちません。
かでしょう。そうしたことを念頭において,これ
までの保育や家庭での養育を振り返ることがで
(4)
「教育の働き」が実効をもつのは,
「養護の
きればと考えています。
働き」と結びつくときである
叱る際の「叱り方」,規範を教える際の教え方
など,
「教育の働き」というとすぐさま「教え方」
や「指導の仕方」など,目に見える次元でものを
考えようとする傾向が強くありますが,これまで
の議論からも分かるように,教え方というよりも,
その「教育の働き」を子どもに示す際の大人の「養
護の働き」の示し方,つまり,「大人の心の動か
し方」が問題なのだということが分かると思いま
す。
たしかに,自分の子どもが人の嫌がることをし
ていても,平気で見逃して素知らぬ顔をする保護
者がいます。そしてそれをまわりの保護者が指摘
すると,それに腹を立てて注意をした他の保護者
を非難する保護者も目立つようになりました。こ
うした心無い保護者の動きは,「私は私たち」と
いう主体のもつべき一方の心(もう一方は「私は
私」の心)が育たないままに大人になり,社会通
念や規範意識が共有されなくなってきたことも
大きな要因の一つでしょう。しかしその逆に,真
正面から強く規範を示して,有無を言わさず大人
の考えに従わせ,監視する目で子どもを見るとい
う,「養護の働き」を忘れたままの強権的な「教
育の働き」,つまり本来の「育てる」営みに含ま
れる「教育の働き」から逸脱したそれを「教育の
働き」と信じて子どもに振り向ける保護者や教師
が大勢いるという問題がもう一つです。
前者は「教育の働き」が乏しいだけでなく,
「養
護の働き」も十分でないことが多く,要するに「育
てる」営みそのものが希薄になっている場合だと
言わなければなりません。これに対して後者は,
一見,「育てる」営みは真剣になされているよう
に見えますが,しかしそこには強権的な教え込み
を本来の「教育の働き」と錯覚するという大きな
考え違いがあるので,正しい意味での「育てる」
営みとして機能していません。
両者とも,「養護の働き」と「教育の働き」が
両義的に結びつくかたちで「育てる」営みがある
ということから大きく逸脱していることは明ら
共同機構研修会第 1 回
平成27年4月24日
於:京都市子育て支援総合センターこどもみらい館