日本語文法学会』創刊号「日本語文法: 多様な観点から

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日本語文法: 多様な観点から
Key words:
universality, individuality, Universal Grammar, generative
grammar, typology
郡司隆男(神戸松蔭女子学院大学)
1.
要旨
日本語の文法を考える際に,日本語固有の現象と他の言語にも見られる一般的な現象とを区
別することの重要性を論じる。特に,日本語,英語,その他の言語を含む類型論的な見方に立
つと,従来の日本語文法や英語文法にとらわれていては気がつかない,一般化のとらえかたが
あり得ることを指摘する。
特に,本稿では,日本語の単語認定の問題,数の概念,受身のより一般的な見方,再帰表現
の再考について論じる。そして,他言語,特に英語からの知見をそのまま日本語に当て嵌める
ことの問題点を指摘するとともに,その一方で日本語特有の問題としてしまって他言語との関
連を考えないことの危険性も指摘する。分析の方法としても,生成文法のような移動を用いる
考え方,形式的に意味論を明示的に表示する考え方,類型論的な一般化などをこれらの現象に
ついて提示し,日本語文法研究の多様化の重要性を指摘する。
はじめに
日本語の文法というときに,2 つの極端な立場があり得るし,実際にある
と思う。ひとつは,日本語の文法は日本語独自のものであるとして,まった
く独自の理論を立てようとするものである。他のひとつは,日本語とて人間
の言語に違いないのだから,他の言語の分析結果が適用できないはずはない
として,他の言語の理論のいわば日本語版を作るものである。
もちろん,このどちらも極端な形に走れば健全なものであるとは言えな
い。本稿では,日本語の具体的ないくつかの現象に絞って,日本語の文法と
してこれらを考える際に,他言語からの知見をどのように役に立てたらよい
キーワード:
普遍性,個別性,普遍文法,生成文法,類型論
かを吟味しながら,日本語文法の多様な見方を考えてみたい。
以下では日本語文法で論じられることの多いいくつかのトピックを取り
Japanese Grammar: From Multiple Points of View
GUNJI Takao (Kobe Shoin Women’s University)
Abstract
This paper argues for the importance of distinguishing grammatical phenomena
specific to Japanese and those that are more universal and observed in other languages.
In particular, it is pointed out that, from a typological perspective that takes into account
not only Japanese and English but other languages as well, there can be other ways
of capturing generalizations usually neglected by researchers of Japanese or English
grammar in strictly traditional persuasion.
In this article, I will discuss such problems as identification of words in Japanese,
the concept of number, more general approaches to passive, and re-examination of reflexives. I will point out both the problem in simply applying observations from other
languages, in particular from English, to Japanese, and the danger in dismissing the
relationship with other languages, narrow-mindedly assuming the problem to be specific to Japanese. As means of analysis, I will also present various approaches such
as movement analysis as in generative grammar, formal-semantic approaches, typological generalization for these phenomena, and point out the importance of multiplicity of
research in Japanese grammar.
上げる。いずれも筆者が最近関心をもっている現象であるが,紙数の都合も
あって,それぞれに深い分析を示すことはできず,中には問題のありかを指
摘するだけに留めたものも多い。より詳しいことは引用した文献にあたって
もらいたい。
2.
日本語の「単語」
まず,他の言語の分析結果をそのまま日本語に適用しようとして失敗する
ことのひとつに,西欧語のように分かち書きという正書法が発達している言
語では自明な「単語」という概念が,日本語ではそれほど自明ではないとい
うことがある。
たとえば,可能表現を問題にするとき,英語ならば主語と主動詞との間に
さまざまな助動詞が入りこんで可能をあらわすが,日本語では動詞の後に混
然一体として助動詞・助詞などが続き,どこまでが命題でどこからが可能性
をあらわす部分なのかということが必ずしも明らかでない。ほぼ同じことを
あらわす次の文を比べてみよう。
3
4
(1) a.
b.
c.
d.
(I don’t know whether) Ken can speak Japanese.
健が日本語を話すことができる(かどうかわからない)
。
健が日本語を話せる(かどうかわからない)
。
健が日本語が話せる(かどうかわからない)
。
(2) a. [健が日本語を話 s]e る(かどうかわからない)。
b. [健が日本語を話 s]u(かどうかわからない)。
この意味では,(1c) も命題と可能性を分離することが可能なのである。
「話せ」を「話 s」と「れ (re)」に分離して
問題は (1d) である。この場合,
日本語の 3 つの文は次第に命題と可能性との境目が曖昧になっていく。(1b)
「日本語」
みても,
「健が日本語が話 s」という命題を考えることができない。
は「健が日本語を話す」がはっきりと埋め込み文として表現されており,そ
の「が」という助詞は,動詞が「話 s」の場合には決してあらわれず,
「れ
れに「こと」がついて名詞化され,さらに格助詞がついて「できる」の主語
(re)」と合体した「話せ」という動詞にしかあらわれないものだからである。
すなわち,次の (3a) のような構造では「日本語」の格助詞が「が」である
ことが説明されない。(3b) がそもそも言えないからである。
になっている。この場合には可能性をあらわすのは「ことができる」の部分
であると言うことができるだろう。
「健が日本語を話す」と
これに対して,(1c, d) には,(1b) にあるような,
いう文字列は存在しない。(1c) には「健が日本語を話」まではあるが,動詞
は「話す」ではなく,一見別の単語の「話せる」である。(1d) に至っては,
(1b) と比べると「健が日本語」までしか合致する文字列はなく,「を」の代
わりに「が」という助詞が「日本語」についている。
「健が日本語を話 s」までを命題とする考え
これらのうち,(1c) の場合は,
方が可能である。実際,「健が日本語を話す」は,過去の出来事をあらわす
「健が日本語を話した」と比べると,
「話す」の「す (su)」の中の「u」は時制
の「る (ru)」の r がとれたものであると考えることができる。すなわち,時
制を切り離した命題の本体は「健が日本語を話 s」であり,非過去の時制の
場合には「る (ru)」がつき,過去の時制の場合には「た (ta)」がつくと考える
(3) a. [健が日本語が話 s]e る(かどうかわからない)。
b. *[健が日本語が話 s]u(かどうかわからない)。
(2d) のようなタイプの格助詞の組み合わせは一般に状態性の述語にあらわ
れる。形容詞(ナ形容詞と呼ばれる,いわゆる形容動詞も含む)や,存在を
あらわす「ある・ない」
,可能をあらわす「できる」などである。
(4) a.
b.
c.
d.
健が腹が痛い(かどうかわからない)
。
健が魚が嫌い(かどうかわからない)
。
健に金がある(かどうかわからない)
。
健に日本語ができる(かどうかわからない)
。
動詞に「れ (re)」がついてできたものも,複合的な可能動詞と考えれば,
ことができる。もちろん,実際の発音は「健が日本語を話 sru」でも「健が
上と同じ格助詞がつくことが納得できる。しかし,そうすると,「話せ」は
日本語を話 sta」でもなく,前者では「sr」が「s」に,後者では「st」が「sit」
一つの動詞ということになり,
「話 s」と「れ (re)」に分解することは具合が
になるという音韻上の調整がおこるのである。
わるくなる。
「健が日本語を話 s」という命題の本体に「れ (re)」と
すると,(1c) では,
いう可能性をあらわす形態素がつき,さらに非過去の「る (ru)」がついたも
すると,
「日本語」の格助詞が「を」であるか「が」であるかによって,次
のような別々の構造を立てることになるのだろうか。
「れ (re)」がつくことに
のと考えられる。
「る (ru)」がついた場合と同様に,
より生じる「sr」という音の列は「s」になり,「話せる」という形態ができ
る。すなわち,(1c) は次の (2b) と同様に,(2a) のような構造をもっていると
することができるだろう。
(5) a. [健が日本語を話 s]e る(かどうかわからない)。
b. [健が日本語が話 se] る(かどうかわからない)。
もちろん,この問題に対してはさまざまな考え方があり得る。一つは,複
数の構造を (1d) のような文に対応づけるという,伝統的に生成文法(変形文
5
6
法)が得意としてきたやり方だろう。例えば,(1d) の「日本語が」は生成の
あやふやになっているということである。
ある過程では「話 s」の目的語として生成され,その後に,移動したとする
生成文法の初期の版(いわゆる標準理論)では,単語という概念は比較的
のである。さらに,動詞の「話 s」も移動して,可能の形態素「e」と合体し
はっきりしていた。すでにできあがった単語ばかりからなる深層構造という
て,一語のようになるとする。今,時制の「る」を無視し,さらに節点のラ
ものがあり,移動は,単語か,単語からなる句のレベルの構成素であった。
ベル付けにはこだわらずに概略を図示すると次のようになる。
より抽象的な構造を基底構造として立て,抽象的な要素が移動して合体して
(6) a. [健が日本語 i が [ti t j ] 話 s j -e]
b.
S
いく過程で単語が作られるとした。例えば,kill(殺す)というような動詞
は,抽象的な CAUSE(使役),BECOME(出来事の生起),NOT(否定),
ALIVE(生存)の組み合わせで,殺した人は CAUSE の主語,殺されたもの
は ALIVE の主語であるような構造がまず作られる。
V
NP
健が
V
NPi
(8) a. Ken killed the project.
b. Ken CAUSE [BECOME [NOT [the project ALIVE]]]
VP
日本語が
これが,1960 年代末ごろからの言語学戦争の時代には,生成意味論者が
V
生成意味論も当時の生成文法の枠組の中にあったので,上の (8b) のような
基底構造を (8a) のような表層構造に結びつけるのに移動を使った。この場
ti
tj
Vj
V
合,ALIVE が移動してまず NOT と合体し,次に,NOT-ALIVE が移動し
話s
e
と合体する。結局,kill という動詞は,これらの移動と合体が完了して
て BECOME と合体し,最後に BECOME-NOT-ALIVE が移動して CAUSE
CAUSE-BECOME-NOT-ALIVE ができない限り,構造の中にあらわれない。
この場合,移動前の位置(移動後には痕跡が残っているとする)において,
今日,このような大がかりな移動を伴う分析は動機づけが難しいので,真
動詞と目的語という関係が成立し,移動後の位置において,格表示「が」も
剣に提案されることは少ないが,最近の生成文法の一部では,一見 CAUSE に
含めて,その音韻的な表示が得られる。一方,(1c) では,動詞は同じように
対応するかのような要素が仮定されることもある (Chomsky, 1995, p. 315) 。
動くが,目的語は動かず,次のような構造が仮定される。
(7) [[健が日本語を t j ] 話 s j -e]
一方,この CAUSE のような要素は,統語的表示ではなく,意味的表示
においてこそ用いられるべきであるとする語彙意味論(例えば,Jackendoff
(1990), Levin and Rappaport Hovav (1995) )などの立場では,(8b) のような
この場合には,動詞の移動前の位置において,動詞と目的語という関係が成
表示を語彙的に与えている。これについては,後に受身との関係でまた触れ
立するとともに,格表示も指定されることになる。
ることにする。
ここでは,このような移動による分析を擁護しようとも批判しようとも思
わない。ひとつだけ指摘しておきたいことは,派生の過程で形態素が移動し
て,移動先で合体したりする分析をとる場合には,単語という概念がかなり
7
8
3.
日本語の「複数」
日本語には「たち」という,一見英語の複数語尾 (-s) のような形態素があ
1
る。
(9) a. 学生たちのおしゃべりがうるさかった。
b. The students had a noisy chat.
(12) a. *奈緒美が双子の子どもたちを生んだ。
b. 奈緒美が双子の子どもを生んだ。
c. 奈緒美が双子の子どもたちを連れて出ていった。
(12a) では,「たち」の前の「子ども」は,奈緒美が生んで初めて存在するに
至った子どもであり,意味的に不特定のものである。このような場合に「た
ち」をつけると非常に悪い文ができる。(12b) のように「たち」をつけない
とこの問題はなく,また「双子の子ども」で 2 人の子どもを指すことができ
しかし,よく考えてみると,その振る舞いは英語の -s とはかなり違うこと
がわかる。まず,
「たち」は人間以外のものには使えない。
(10) a. 学生たち,子どもたち,主婦たち,仲間たち
b. *椅子たち,*石たち,*新聞社たち,*犬たち
逆に人間ならば固有名など,明らかに単数をあらわす名詞にも使える。
(11) a. 健たち,社長たち,監督たち,妻たち
b. *Kens, the presidents, the directors, the wives
英語でも the presidents と言えるがその意味するところは異なる。英語の
the presidents は社長が複数いる場合にしか使えない。通常 1 つの会社に社
長は 1 人だから,the presidents は会社が複数ある場合か,1 つの会社の歴代
の社長を指す場合にしか使えない。一方,日本語の「社長たち」は 1 つの会
社の現在の社長しかいない場合にも,その社長とそれ以外の人(例えば,副
社長,専務,常務など)を合わせた集団を指すことができる。 「監督たち」
も同様である。
「妻たち」と「the wives」も同じことが言える。一夫一婦制のもとでは,ど
ちらも 1 人の男の複数の妻を指すわけではない。しかし,前者はある男の妻
とそれ以外の人の集団を指しその中に男性がまざっていても差しつかえない
が,後者は別々の男の妻たちということであり,性別はいずれも女である。
むしろ,日本語の「たち」は固有名につくような形が基本なのではないか
と思わせる節がある。次の文を比較してみよう。
1
本節の内容は Mizuguchi (2000) およびその著者との私信により示唆されたところが大きい。
「双子の子どもたち」は,例えば,すでに奈緒美が生んで育
る。(12c) では,
てている子どもとか,預っている他人の子どもとかであって,いずれにして
も特定の子どもたちである。
一般に,「たち」の前の名詞は意味的に特定性をもつものではないといけ
ないと考えられる。そのため,今までなかったものが出現した場合に,それ
が複数であっても「たち」をつけると非常に悪い文ができるのである。英語
ではどちらの場合にも children と言える。
次のような文はどうだろうか
(13) a. 私はまた日本の子どもたちに会えるのを楽しみにしている。
b. ?私は日本の子どもたちに会ってみたい。
後者は,本か何かで「日本の子どもたち」のことを知り,よく知っているつ
もりになって,会ってみたいと思ったという状況ならば使えるかもしれない
が,そのような前提のない場合には奇妙な文である。
すると,日本語の「たち」は英語のような言語の複数語尾とかなり異なっ
た振る舞いをする形態素ではないかと思えてくる。
「名詞 + たち」の基本的
な意味は,大雑把に言って,
「名詞 + α」であり,この α は,その名詞と同
じ種類のものであってもそうでなくてもよい。実際には次のようないろいろ
な場合があるだろう。
(14) a. 健たち: 健と他の人間
b. 新社長たち: 新社長と(同じ会社の)他の人間
c. 学生たち: ある(特定の)学生と他の人間(学生,会社員,主婦,
etc.)
9
10
d. 主婦たち: ある(特定の)主婦と他の人間(主婦,OL,学生,etc.)
c. ?うわさに広まられ(て会社をくびになった)。
d. ?穴にふさがられて(出られなくなった)。
e. ?電車のドアに(突然)あかれて,外に落ちそうになった。
(14c, d) のような,名詞が種をあらわす場合で,他の人間が同じ種に属す
る場合には,学生の集団,主婦の集団をあらわすことになり,一見,「たち」
が複数の語尾であるかのように振る舞う。しかし,それは α が特定の値を
「られ」は確かに受身の表現だが,
「られ」をつければ必ず受身で(間接受
「たち」の
とった場合であり,
「たち」が多義的 (ambiguous) なのではなく,
動文であっても)言えるとは限らないのである。逆に,日本語の受身的表現
もつ漠然性 (vagueness) によるものと考えるべきだろう。
Chierchia (1998) による意味論的類型論では,日本語は中国語とともに,
すべての名詞の外延が物質名詞的である言語とされている。これに従うと,
は,
「られ」という形態素があらわれるものばかりではない。
「∼てもらう」
も受身的に使われるし,
「させ」も「子どもを死なせる」などは「子どもに死
なれる」と似たような意味になる。
さらに,語彙的には受身の形態素を分離できないが,意味的に受身の動詞
2
一見西欧語の複数の
日本語の名詞にはそもそも複数形がないことになる。
ように見える表現も,別の観点からとらえ直すことが必要だろう。
がいくつか存在する。例えば,形態素の一部を共有して,他動詞と自動詞の
対が存在する場合,たいていは自動詞は受身の意味,他動詞は使役の意味を
4.
日本語の「受身」
日本語の受身の特徴として,英語などにも対応するものがある直接受動文
(中立受動文とも呼ばれる)の他に間接受動文(
「被害の受身」とも呼ばれる)
があるということがしばしば指摘される。確かに次のような文は英語に直訳
はできない。
(15) a. 健が雨に降られた。
b. *Ken was rained.
しかし,寺村 (1982) が指摘するように,日本語でもこのように言える場
合はそれほど多くなく「例外的」と言えるかもしれない。寺村 (1982, p. 248,
(111)–(115)) にあげられている次のような文は容認度が低い。これらはいず
れも「に」格の名詞句が意図性をもち得ないものである。
(16) a. ?雨にやまれた。
b. ?物価に上がられる(と暮しが苦しくなる)。
3
もつ。
(17) a. 炒まる/炒める,埋まる/埋める,決まる/決める,始まる/始める,
混ざる/混ぜる,折れる/折る,詰まる/詰める,改まる/改める
b. 教わる/教える,預かる/預ける,見つかる/見つける
これらの中には,他動詞の受動形とあまり意味の変わらないものもある。
(18) a.
b.
c.
d.
e.
f.
g.
玉葱が十分に炒まった/炒められた。
家が土砂で 2 階まで埋まった/埋められた。
大会への不参加が多数決で決まった/決められた。
高校野球の開会式が始まった/始められた。
高校時代にアメリカ人の先生から英語を教わった/教えられた。
客から金庫の鍵を預かった/預けられた。
万引を見つかった/見つけられた。
もちろん,自動詞形の方が意図性を含んだ場合にも使われ得るものがある
という違いは存在するが,これらに共通するのは,一定の出来事が主語とな
る人物に影響を与えるということである。
2
ただし,Chierchia の類型論の日本語の規定がそのまま受け入れられるとは限らない。より詳
しい議論は Kurafuji (1999, Section 1.2.5) を参照。Gunji and Hasida (1998) でも,日本語のいわ
ゆる数量詞を扱う上で基本的に名詞句を物質名詞的に扱っている。日本語の名詞句については,
郡司 (2000) も参照。
3
(17b) の「教わる」
「預かる」
「見つかる」などは「を」格をとる点で自動詞とは言い難いかもし
れない。これらを一種の,複数の項をとる非対格動詞として扱う提案がある。Imaizumi (2000)
参照。
11
12
郡司・坂本 (1999, p. 26) で触れたように,直接受動文と間接受動文の違い
は,被害感のあるなしよりは,主語であらわされている人間が,影響を与え
る出来事に直接関与しているかいないかということである。その意味では,
5.
日本語の「再帰」
最後に,日本語文法の中でもかなり頻繁に論じられてきている再帰形,特
受動文とよく似た意味をもつ自動詞の関わる文も含めて,これらは意味論的
に「自分」,の問題を考えたい。ここでは新しい分析を提案するわけではな
には「被影響」という概念で同様に扱うことができる(このような考え方に
く,普遍文法の問題として考えると,英語の再帰代名詞から出発すると,必
。
ついては,さらに今泉・郡司 (2000), 今泉 (1998) を参照)
ずしも適切な一般化には到達できないということを指摘するに留める。
被影響という概念は,いくつかの他動詞の関わる文の意味分析にも有効な
英語の再帰代名詞 myself, herself などに関しては,それらが一定の局所的
考え方である。今泉・郡司 (2000) で論じている,次のような文の「出す」は,
な領域の中で先行詞をもたないといけないという性質があることが知られて
形は他動詞でありながら,自動詞「出る」を用いた文も可能であり,互いに
いる(いわゆる GB 理論の束縛原理 A, Chomsky (1981, p. 188) )。例えば,
極めて近い意味をもつ。
次の文では herself は Naomi しか指せない。
(19) a.
b.
c.
d.
健が額から血を出している。
健が額から血が出ている。
子どもが風邪をひいて熱を出している。
子どもが風邪をひいて熱が出ている。
これらの意味の共通性をとらえるには,自動詞,他動詞といった形態的な
分類に留まらずに,形式的な枠組で意味を明示的に表示していく必要がある
だろう。例えば,今泉・郡司 (2000) では,上のような用法の「出す」に次の
ような意味表示を与えている。
(21) a. Mariei thought Naomi j would talk about herself ∗i, j .
b. Mariei persuaded Naomi j to talk about herself∗i, j .
日本語にも同じように振る舞う語があるかどうかという問題については,
英語の再帰代名詞が日本語の何に対応するのかということをまず考えなくて
はいけない。今,herself を「自分」であらすことにしてみると,上の英文に
対応する日本語は次のようになる。
(22) a. 真理絵 i は奈緒美 j が自分 i, j のことを話すと思った。
b. 真理絵 i は奈緒美 j に自分 i, j のことを話すように説得した。
(20) [AFFECTED(x,[BECOME([BE(y, out)])])]
日本語の場合には,
「自分」は,奈緒美だけでなく,真理絵も指すことができ
これは,概略,主語(
「が」格)の指すもの (x) が,目的語(
「を」格)の指す
る。では,
「自分自身」だったらどうだろうか。
もの (y) が外部 (out) に存在する (BE) ようになる (BECOME) ことにより影
響を受ける (AFFECTED) ということをあらわしている。今泉・郡司 (2000)
の分析では,(19) の「出る」も意味表示は (20) とまったく同じになるが,違
いは,統語的に「が」格をもつ項が y に対応し,x は統語的に実現されている
主語ではなく,運用論的に決定される要素に対応することである。したがっ
「子どもが」は「出る」の主語ではないと考えること
て,(19b, d) の「健が」
(23) a. 真理絵 i は奈緒美 j が自分自身 ?i, j のことを話すと思った。
b. 真理絵 i は奈緒美 j に自分自身 ?i, j のことを話すように説得した。
ここでも,判断は微妙だが,「自分自身」は真理絵も指せるだろう。ただ,
「自分」と比較すると,奈緒美を指すという解釈の方が大分強くなると言え
る。では,
「彼女自身」ではどうだろうか。
になる。ここではこのような分析の動機づけを詳しく論じている余裕はない
ので,今泉・郡司 (2000) を参照されたい。
(24) a. 真理絵 i は奈緒美 j が彼女自身 ??i, j のことを話すと思った。
b. 真理絵 i は奈緒美 j に彼女自身 ??i, j のことを話すように説得した。
13
14
この場合には,
「彼女自身」が真理絵を指すのはかなり難しくなるように思
4
的なものである。
英語の再帰代名詞は主語先行詞条件には従わず,厳密節条
件の逆の同一節条件 (Faltz, 1985, p. 100) に従うという点で,これも例外的
える。
束縛原理 A では,代名詞は,照応形と非照応形の 2 種類にしか分けてい
ない。そして,照応形は非常に狭い範囲で先行詞を必要とし,非照応形は同
じ狭い範囲に先行詞があってはならない。このような分類では,日本語の
なものである。
(28) 同一節条件 (clause-mate condition): 再帰形を用いる場合には,同一節
内に同一指示の名詞句がないといけない。
「自分」や「自分自身」は照応形であるともないとも言えなくなる。(22) や
(23) では,狭い範囲に先行詞があってもなくてもよいからである。日本語の
場合,束縛原理 A に従うものがあるとしたらせいぜい「彼女自身」というこ
とになるだろう。
もうひとつ,束縛原理 A で無視されている性質に,先行詞そのものの性質
もうひとつ,考慮すべき性質に視点の問題がある。久野 (1978, p. 222) に
よれば,
「自分」の解釈・使用には次のような制約がある。
(29) 再帰代名詞の視点制約
れを除く)は,同じ領域内の他のどの事物よりもその指示対象寄りの視
がある。束縛原理 A では先行詞への近さしか見ないが,日本語の場合,先行
点を表わす。(久野 (1978) の (12))
詞は多くの場合,主語に限られる。
(25) a. 真理絵 i は奈緒美 j に自分 i, ∗ j のことを話した。
b. 真理絵 i は奈緒美 j に自分自身 i, ?? j のことを話した。
c. 真理絵 i は奈緒美 j に彼女自身 i, ? j のことを話した。
再帰代名詞「自分」(話者指示詞的用法5 のそ
ここで「領域」というのは,
「自分の∼」という形の「自分」を含む最小の名
詞句か,さもなくば,「自分」を含む最小の節であり,束縛原理 A で言うと
ころの統率範疇に相当する。
これにより,次のような,主語が「自分」の先行詞になれない例を説明で
一方,英語にはこのような制約はない。
(26) Mariei talked to Naomi j about herselfi, j
きる (久野, 1978, pp. 205–206, (11b), (13b), もとは黒田成幸による例文)。
(30) a.??ジョン i は 10 年前にメアリー j が自分 i を訪ねた家で今は幸福に暮
らしています。
このような主語指向性は束縛原理 A では無視されている。上の例が示す
b. ジョン i は 10 年前にメアリー j が自分 i を訪ねて来た家で今は幸福
ように,英語では一定の局所的な領域内にあるものはいずれも先行詞になり
に暮らしています。
得るから問題がないかもしれないが,他の多くの言語ではむしろ主語が先行
c. *ジョン i は 10 年前にメアリー j が自分 i を訪ねて行った家で今は幸
詞になることが多い。例えば,Faltz (1985, p. 77, p. 100) による,類型論的な
福に暮らしています。
再帰形の研究では,次の 2 つの条件が普遍的なものとして挙げられている。
(27) a. 主語先行詞条件 (subject antecedent condition): 再帰形の先行詞は主
語でないといけない。
b. 厳密節条件 (strict clause condition): 同一節内に同一指示の名詞句が
ある場合には,再帰形を用いないといけない。
日本語の「自分」は主語先行詞条件には従うが厳密節条件には従わない例外
4
Faltz (1985, p. 108) によると,形態的に単純な再帰形は主語先行詞条件と厳密節条件に従い,
複雑なものはどちらにも従わないという基本的な類型論的一般化がある。日本語の「自分」は
「自」と「分」に分解できると考えると形態的に複雑になるが,どちらとも言えないとしている
(pp. 145–151) 。「自分自身」や「彼女自身」は明らかに形態的には複雑であり,(25) に対する筆
者の判断が一般的なものであるとすると,確かに,主語先行詞条件はそれほど強くないのかも
しれない。
5 「話者指示詞的用法」については後述の (32) 参照のこと。
15
16
b. *太郎 i は,僕が自分 i に紹介しようとしている女性に電話をかけた。
c. *太郎 i は,僕が自分 i に紹介した女性と結婚した。
「来る」は主語以外の視点(到着点の視点)に立つことを要求する動詞で,
(30b) の「メアリーが自分を訪ねて来た」という文ではメアリー以外の人間
の視点に立つ。この場合には,
「自分」が主文の主語のジョンを指すことに
問題がない。さらに,どちらの視点にも立っていない「メアリーが自分を訪
「自分」が到着点なの
ねた」を含む (30a) と (30b) を比較すると,後者では,
で,視点が (29) の要求するものと一致し,前者より容認しやすい文となって
ただし,(31) の「自分」の解釈が本当に談話性によるものかどうかはも
う少し検討を要する。(33) と対比させてあげられている次の文は,談話性
の環境にありながら,久野自身の判断でも多少容認性が落ちる (久野, 1978,
p. 213, (27a), (28a), (29a)) 。
いる。一方,(30c) では,
「行く」が埋め込み文の主語のメアリーの視点を要
求するので,「自分」は主文の主語のジョンを指せない。
(34) a. ?太郎 i は,僕が自分 i にお金を貸したことをすっかり忘れてしまって
いるらしい。
しかし,これでは説明できない例外と思われる現象もある (久野, 1978,
b. ?太郎 i は,僕が自分 i に紹介しようとしている女性の話を聞いたこと
p. 212, (26a), (26c)) 。
があると言った。
(31) a. 太郎 i は,自分 i が僕より勉強ができないことを,ずい分気にしてい
c. ?太郎 i は,僕が自分 i に今の奥さんを紹介したことをうらんでいる。
るらしい。
b. 太郎 i は,僕が自分 i をうらんでいると思い込んでいるらしい。
また,Iida (1992, p. 51, (98)–(100)) は,次のような文を反例としてあげて
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いる。
視点の観点からは,話者である「僕」の視点の方が「太郎」の視点より優先
されるので,「自分」が「太郎」を指すことはできないはずである。
(35) a. 太郎 i は僕が自分 i を批判したことを日記に書き留めておいたら
しい。
そこで,談話性 (logophoricity) という概念が導入される。久 野 (1978,
b. 花子 i は僕に一所懸命自分 i を合わせようとしている。
c. 花子 i は私が自分 i を弁護することに無関心だ。
p. 213, (30)) では,次のような制約が提案されている(久野は logophor を
「話者指示詞」と呼んでいる)
。
(32) 「自分」の話者指示詞的用法 発話,思考,意識等を表わす動詞に従属
する節の中で用いられる「自分」は,その発話,思考,意識の発話者,
経験者を指す機能を持つ。
これらの文では,太郎や花子が思考・意識の発話者・経験者であるとは考え
られない。
「太郎」や「花子」は主語なので,この場合には,主語であるとい
うだけで「自分」の先行詞になれることになり,視点制約も効かないことに
なる。
これにより,(31a) では「自分が僕より勉強できない」ことが,(31b) で
ここまでの例文を整理してみると次のようになる。(35) に関しては筆者の
は「僕が自分をうらんでいる」ことが思考・意識をあらわすので,
「自分」が
判断である。主語性と視点制約,あるいは主語性と談話性が一致する (30b),
その思考・意識の発話者・経験者である太郎を指すことができるというので
(31a), (31b) では先行詞が問題なくこれらの一致したものになるが,視点制
ある。
約と談話性が食いちがうときには,判断がばらつくことがわかる。さらに詳
実際,久野 (1978, p. 213, (27b), (28b), (29b)) のあげる,談話性の環境にな
細なデータによる一般化が必要だろう。
い文では,明らかに容認性が落ちる。
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(33) a. *太郎 i は,僕が自分 i に貸したお金を失くしてしまったらしい。
例文の判断は Iida による。
「僕」が主語でない b. 以外は,
「自分」が「僕」を指す解釈の方が
強いという話者もいる。筆者の判断では,a. と c. は両義的である。
17
18
(36)
主語
(30a)
(30b)
(30c)
(31a)
(31b)
(33)
(34)
(35a)
(35b)
(35c)
視点
談話指示者
ジョン/メアリー
先行詞
??ジョン
7
ジョン/メアリー
ジョン
ジョン7
ジョン/メアリー
メアリー
*ジョン7
太郎
僕
太郎
太郎
太郎/僕
僕
太郎
太郎8
太郎/僕
僕
太郎/僕
僕
太郎
太郎/僕
僕
*太郎8
?太郎8
太郎/僕
花子
僕
花子
花子/私
私
花子/私
談話性という考え方を日本語に導入したのは久野だが,何も日本語特有
の現象というわけではない,Clements (1975) によると,西アフリカの言語
の Ewe では,一般の代名詞と談話性代名詞が区別されている。Iida (1992,
p. 49), Bresnan (2001, p. 243) から引用すると,
(37) a. Kofi be me-dzo.
Kofi say -leave
‘Kofi said that I left.’
b. Kofi be yè-dzo.
Kofi say -leave
‘Kofi said that he (= Kofi) left.’
c. Kofi be e-dzo.
Kofi say -leave
‘Kofi said that he/she ( Kofi) left.’
d. Kofi l˜ e okui.
Kofi love  self
‘Kofi loves himself.’
yè okui.
e. Kofi be yè-l˜
Kofi said -love  self
‘Kofi said that he (= Kofi) loves himself.’
ここに見るように,三人称代名詞は,e が一般の代名詞,yè が談話性の代名
詞であり,(37b) のように発話内容の中で発話者自身を指す場合には yè を用
いなくてはならない。(37c) のように e を用いれば,発話者以外の人を指す
ことになる。再帰代名詞は,代名詞の後に okui をつけて作られるが,(37d)
のように,談話性の文脈でなければ一般の代名詞とともに,(37e) のように,
談話性の文脈ならば談話性の代名詞を用いる。
このような再帰形に関する現象を統一的に整理するためには,束縛原理
A が用いる局所性という概念だけでは足らないのは明らかである。Bresnan (2001, p. 237) では,Bresnan, Halvorsen, and Maling (1983), Kameyama
(1984) などの先行研究を受けて,次の 3 つの素性を用いて代名詞を分類する
ことが提案されている。
(38) a. 主語性 (subjective) —(局所的な)領域の中に主語の先行詞がなく
てはならないかどうか (≈ Faltz の主語先行詞条件)
b. 局所性 (nuclear) — 局所的な領域の中に先行詞がなくてはならない
かどうか (≈ Faltz の厳密節条件)
c. 談話性 (logophoricity) — 発話,思考,感情をあらわす間接話法が代
名詞の指す人の視点からなされるかどうか。 (≈ 久野の話者指示詞
的用法)
久野の観察が正しいとすると,日本語の「自分」は主語性と談話性によっ
て記述されるべきということになる。久野の一般化を批判する Iida (1992)
も「視点」という概念は導入しているので,日本語の「自分」の研究に他言
語にも見られるこれらの観点を導入すると,より一般的な研究に広がってい
くだろう。
また,日本語には再帰的な用法をもつ表現として「自分」の他に体の一部
7
8
主語であっても「メアリー」は意味的に不可
主語であっても「僕」は意味的に不可
をあらわす表現がある。英語では再帰代名詞を使う次のような文にあらわれ
るものである。
19
20
(39) a.
b.
c.
d.
奈緒美は体を洗った。
りである。もちろん,筆者の無知により,すでにこれらの観点をとり入れた
Naomi washed herself.
日本語研究が多数存在するのかもしれないが,それはそれで,日本語研究の
健は髭を剃った。
豊かさを物語るものということで歓迎すべきことだろう。
Ken shaved himself.
これらは「自分」と同じように主語性・視点制約・談話性に従い,局所性
は必ずしももたない。次の文の「体」は視点制約から奈緒美の体であるし,
「髭」は富夫の髭であっても健の髭であってもよい。
(40) a. 奈緒美は真理絵が体を洗ってくれたと言った。
b. 健は富夫に髭を剃らせた。
Faltz (1985) による再帰表現の類型論的発達説では,全く再帰形のない状
態から,“body”, “head”, “soul” などをあらわす表現が再帰表現のように使わ
れはじめ,次の段階ではこれらの表現がもともとの語彙的意味を失って形式
的に使われ,最後の段階では全く語彙的意味をもたない再帰表現が発達する
という。日本語の「自分」は漢語起源であり,
「体」や「身」
(
「身につける」
)
,
姿(
「鏡に姿を映す」)
「気」(
「気をつける」
)などの表現から形式的な再帰形
が形成される以前に外部から再帰形として導入されてしまったのだろう。
これらの表現に関してもうひとつ興味深いのは,「体を壊す」
「身を焦が
す」
「姿を隠す」
「気を失う」のような表現は,他動詞表現でありながら,自
動詞的であり(対応する自動詞表現があるとは限らないが),さらには受動
的意味をもつということである。前節でふれた受身の語彙的意味の考え方を
拡張して,これらの他動詞にも「被影響」の意味的要素があると分析するこ
とが可能だろうと思われる。そのような受身とのつながりで再帰を研究する
ことは今後の重要な課題となるだろう。
6.
おわりに
以上,駆け足ではあったが,日本語の,比較的よく取り上げられている現
象をいくつかとりあげ,それらにもまだまだ,多様な観点から研究する余地
があることを指摘した。筆者の関心のあるテーマに限られてはいるものの,
日本語文法の研究にはまだまだ面白い点がいろいろとあることを示したつも
参考文献
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今泉志奈子 (1998) 「語彙的受動—動詞の意味構造における「被影響」の概念について」未公刊
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Imaizumi, Shinako (2000) A Lexical Approach to Voice Alternation in Japanese Verbs. 大阪大学博
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と受動の役割—」, 伊藤たかね・矢田部修一(編), 『レキシコンと統語論』. 東京大学出
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Kameyama, Megumi (1984) Subjective/logophoric bound anaphora zibun. Proceedings of the
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久野日章 (1978) 『談話の文法』 大修館書店.
Kurafuji, Takeo (1999) Japanese Pronouns in Dynamic Semantics: The Null/Overt Contrast. Ph.
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Levin, Beth and Malka Rappaport Hovav (1995) Unaccusativity: At the Syntax-Lexical Semantics
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Mizuguchi, Shinobu (2000) Plurals in Classifier Language. Unpublished manuscript. Kobe University.
寺村秀夫 (1982) 『日本語のシンタクスと意味 I』 くろしお出版.