「Superflat」神話の崩壊 もうひとつの90年代 Japanese Photography 横澤典、松江泰治、畠山直哉、柴田敏雄、宮本隆司、小林のりお 1990年代、村上隆はブラム&ポー、マリアンヌ・ボエスキー、エマニュエル・ペロタンといった欧米のギャラ リーを従え、ネオ・オリエンタリズムとともに Superflat「理論」を高らかに宣言した。まずは国内の渋谷パルコギ ャラリーでの展示を皮切りに、彼のお粗末なイメージこそが「Japanese Art」というジャンルをも包括しうるのだ、 と大見得を切ってみせた。日本社会の慢性的な疲弊と抑圧を言い訳にして、「だからこそ自分の乏しいアイディアを 責めないでほしい」と言わんばかりに、批評からは巧妙に逃れ、自らを「将軍様」と名乗るまでになったのである。 松井みどり、天野一夫、椹木野衣といった日本のいかがわしい批評家達は、自らのキャリアのために、このキャッチ ーなムーブメントに飛びついては村上を売り出そうとした。退屈が怒濤のように押し寄せた平成の時代には、やみく もに自己肯定してみせるナショナリスト・村上の空虚な未熟さが受け入れられたのかもしれない。そんな批評家達が 支持した作品は、わかりやすくて何よりも売ることを目的とした作品だった。しかし、結局は一過性のものとして、 アート作品としての信頼さえも失っていった。あたかも、氾濫した後の水は引いても、消えない傷跡が残ってしま ったかのように。 このような90年代に、メディアが見かけ倒しの「カワイイ」を増殖させていた一方で、もの静かで思慮深く、 洞察力を備えたアーティストたちが現れはじめていた。彼らを育てたのが ZEIT-FOTO SALON ギャラリーのオーナ ー、石原悦郎である。石原はこの同時期に現れたアーティストたちに必要な支援をほどこし、アーティスト達は控え めながらも密度の濃い「公案」(禅問答)に取り組みはじめていた。彼らはすでに多くの写真集を出版していたにも かかわらず、これまで東京のアートシーンにおいて大きく議論に取り上げられることもなかった。言わば、定義され ずにきた「失われた世代」とでも言えようか。キュレーター、批評家、アート史家たちの怠慢としか言いようがな い。奇妙なことに、これらの横澤典、松江泰治、畠山直哉、柴田敏雄、宮本隆司、小林のりお、といったアーティス トたちは、関連する作家として展示されることさえもなかった。彼らは決して「共同体」ではないが、独自の分析的 な視点を持っている、という点でゆるやかに「関連する」アーティストたちである。彼らはアメリカのニュー・トポ グラフィー、ドイツ・ベッヒャー派のアイディアを取り込みながら、時間をかけた鑑賞に耐えうる作品へと昇華させ ていった。そして、前景も後景も方向もないような「中景」に焦点をあて、一貫してカメラと肉眼の対比について探 求し続けた。当ギャラリーは、自己肯定に基づくナショナリストのヴィジョンは信用しない。今回展示するアーテ ィストたちは、「リトル・ボーイ・ムラカミ」の「This is Japanese Art」という宣言を図らずとも反証してしまう ものだ。Superflat の仲間たちとは異なり、彼らは「既知」のものを「未知」の存在へと創り変えてしまう。だから こそ、彼らの作品を目の前にすると様々な問いが浮かんでくるのだ。まるで静かに「公案」が始まるかのように。 ランドスケープとは何か?自然とは何か?光とは?色とは?都市とは何だろうか?統制とは?ヴィジョンとは?見 ること、見つめること、眺めることとはどういうことだろうか?肉眼で見ることと、光学レンズで見ること、その違 いとは?価値とは何か?空間とは何か?そもそも写真とは何だろうか?どこに距離があり、どこに空間があるのだろ う?どこが収束点なのか?スピードとは何か?意図するとはどういうことか?意思とは?人が持つ役割とは何なのだ ろうか?ランドスケープの始まりはどこにあるのか?そして、自然の終わりはどこに?美意識とは何だろうか?私た ちはどのようにものを見ているのか?構図とは?時間とは何なにか?結合するとは?平面とは何のことで、誰が定め るものなのか?平面上にはどれだけのレイヤーが積み重なっているのだろうか?失うとは?破壊と構築とは?介在す るものとは何か?必然とは・・・? ひとつひとつの写真を見るには長い時間を要する。わざと空間的な手がかりを排除した「中景」のみを提示する作 品もある。そう私たちが瞬間的に感じ取ったとしても、これらの作品はまた手招きをして再び熟考へと促すのだ。私 たちは催眠術にかかったように長い瞑想へと誘われ、そして徐々に理解しはじめる。まずは、松江泰治の写真のテラ ゾー(人工大理石)を見て欲しい。暗い色の無数の石は羊たちのように見えてくる、人造物や石壁が現れ、道筋や小 径が現れはじめる。このように私たちは細部へと促されていく。畠山直哉の写真では、爆発がまるで壮大なショーの ように球状に広がり、自然対人間という構図自体に疑問を投げかける。私たちは、時間、光、空間というものに対峙 させられことになる。小林のりおは、現実の中に意図せずに現れた詩的なものを見つけだしている。その詩の中では まるで韻を踏むように、無意識とは?意図的なものとは?との問いを繰り返すのである。横澤典と宮本隆司の写真で は、都市やビル群が人工のランドスケープを作り出しているが、時間、光、季節、天気といったものが再び自然への 回帰を迫っているかのようだ。柴田敏雄は、普段は私たちにとって目障りとしか映らない、人間の介在を感じさせる 対象物を、彼の作品の中では視覚的に面白い存在へと変化させている。 問いが生まれるとともに、またフラクタルに細部への問いが生まれはじめる。私たちは問いに捕えられながらも、 今回の展示ではとりわけ環境について、私たちがこの世界をどのように感じ取り、相互に影響を与え合っているの か、洞察をめぐらせることになるだろう。アート作品は、広告を打ってから初めて存在しはじめるようなものではな い。アート作品はそれ自体で成立するものだ。時間が証明してくれることだろう。
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