日本語はあいまいか

日本語はあいまいか
「和文論文作りを通して
コミュニケーションを考える」1)を読んで
駿河台大学経済学部
秋山洋子
わたしのもともとの専門は中国文学だ。それと同時に,中国や韓国からの留学生に日本語を教えてい
る。たぶんそのせいで,「和文論文作りを通してコミュニケーションを考える」などという難しげな議論
に引きずりこまれたのだろう。
山下洵子さんは,これまで4回にわたる文章1)で,日本語で論文を書くときにぶつかるさまざまな問
題について考察している。(ここにも日本語の難しさがあって,ここで「考察されている」=敬語,と書
くべきかどうか,一瞬考えてしまった。論文などで他の研究者の業績に触れる場合,敬称・敬語は略し
てかまわないのだが,相手がたまたま恩師や知人だったりすると,かえってどうしたらいいか迷ってし
まう。ここでは,「さん」はつけるが敬語は使わないということでお許しいただこう)。
山下さんが書いているように,たしかに日本語は難しい。ただ,彼女が困惑したり腹を立てたりして
いる「日本語の難しさ・あいまいさ」の中には,さまざまな要素が混在しており,それがうまく整理さ
れていないところもあるように思う。そのあたりから話を始めたい。
■ 目本語には日本語の論理がある
「日本語はあいまいだ」と非難するとき,多くの人は,日本語の構造そのものが外国語(ほとんどが
英語をはじめとする欧米の言葉)とくらべて,非論理的であいまいだと考えているようだ。けれども,
日本語教師の立場からいえば,日本語は日本語としてのきちんとした構造(文法)があり,日本語とし
ての論理を持っているのだ。ただそれが,欧米系言語の構造と,かなりちがっているだけだ。
たしかに,欧米系の言語は,論理的な文章を書くのに日本語より適しているようにみえる。しかし,
その理由のかなりの部分は,わたしたちが学問とか理論とか呼んでいるもの自体が,かれらの言語を基
盤にして発展してきたことによっている。日本語そのものが非合理・非論理なのではなくて,むこうの
土俵で,むこうのルールで勝負をしなければならないためにハンディキャップを負っているのだ。
最近ベストセラーになった高島俊男著『漢字と日本人』2)に,次のようなくだりがある。
西洋人は確かに,体力も知力も強く,芸術的感性にもすぐれ,何事にも積極的な性質を持った優秀
な人種である。しかしまた彼らは,自分たちが石の家に住んでいるから泥の家や木の家より石の家が
「進んでいる」と思い,……自分たちがキリスト教を信じているからキリスト教を信ずる者が「進ん
でいる」と考える,いたって簡単な精神の持主なのである。だから人類の歴史を一本道のようにしか
とらえられないのである。……困ったことに,この自信たっぷりで押しつけがましい西洋人を,全面
的に模倣したのが日本人なのだ。
あきやま ようこ
〒357−9555埼玉県飯能市阿須698駿河台大学経済学部
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日本語はあいまいか
ここで著者は明治時代の国語論争について語っているのだが,この時代,文明の進歩に追いつくため
には「遅れた」日本語に頼ってはだめだという主張が大真面目におこなわれ,漢字廃止論どころか,日
本語を廃止して英語を採用しようという動きまであったということだ。(第二次大戦の敗戦後もまた,
志賀直哉がフランス語を国語にしようと唱えたことが知られている)。この論争に触れながら,著者は日
本語と日本の文字は切り離せないこと,言葉や文字,さらには文化の間には,差異はあっても優劣はな
いということを,こんこんと説いている。
■ 「私はアメリカン」は正しい日本語
「日本語はあいまいだ」というときに,まずあげられるのは主語がない(かくれている),ということ
だ。たとえば,この文章の冒頭の2番目の文には主語がない。でも,この文を読んで,「引きずり込まれ
た」のは誰だろうと疑問を抱く人がいるだろうか。これをもし英語に訳すなら,たぶん‘1’という代名
詞を補う必要があるだろうが,日本語で「わたし」を補う必要はまったくないと思う。(この「思う」に
も主語がない。文の終わりに「考える」や「思う」がきた場合,その主語は第三者ではなく筆者だとい
うことも,日本語の約束事二文法のひとつである)。
それでは,前回山下さんが例にあげていた,喫茶店でコーヒーを注文するときの「わたしはアメリカ
ンです」はどうだろう。日本語が非論理的な例として,この文例をあげる人は多い。最近も,朝日新聞
日曜版のエッセイでアメリカ人女性が指摘していた。
けれども,喫茶店でこの言葉を聞いたとき,「私はアメリカ人です」という意味だと誤解することはあ
りえない。それは,日本語を話す人の問には,日本語の「は」という助詞の働きについての了解がある
からだ。主語をあらわす格助詞の「が」とはちがって,「は」は係助詞に分類され,文の構造だけでなく,
さまざまな意味をあらわす役割を持っている。その重要な役割のひとつが,文の主題(主語ではなく)を
提示することだ。難しい文法の説明は省くけれど,日本語の「AはBだ」という文章は,英語のbe動
詞で結ばれる主語と述語の関係ばかりでなく,もっと多様な関係を表現できるのだ。「わたしはアメリカ
ンです」「ぼくは天丼です」という文章は,まともで明晰な日本語なのである。これを説明するために,
『「ボクハ ウナギダ」の文法』3)という本を書いた学者もいるほどだ。
■ だれが「トンネルを抜けた」のか
日本語と英語の構造の違いを,もうすこし具体例で見てみよう。山下さんが前回の文で引用した川端
康成作『雪国』の冒頭の文章もいい例だ。この文の構造は,修飾の部分を取り去れば「トンネルを抜け
ると雪国であった」となる。こういう形の日本語は,べつに珍しくない。「門を出ると雨だった」「試験
が終わると夏休みだった」など,よく似た表現が日常に使われる。これらの表現を読むものは,雪国に
着いた(雪国を見た),雨が降っているのに気づいた(雨に降られた=これも「被害の受身」という日本
語特有の文法構造だ),夏休みをすごした,ということを筆者(あるいは主人公)の体験として理解する。
『雪国』の場合,英語の文法で考えればトンネルを抜けたのが汽車なのか主人公なのかは重要な問題
になるだろうが,わたしたちは「トンネルを抜ける」という表現を読んで,汽車に乗っている主人公/
主人公を乗せた汽車というふうに複合的なイメージを持つ。この場合,作品の理解はそれで十分なりた
つだろう。
逆に日本語の論理からいえば,「雨だった」「雨が降る」ですむところを“lt rains”,「今日は天気だ」
を“lt is fine today”などと形式的な主語を補わなければならない英語は,なんと融通のきかない言葉
だろうといいたくなる。
■ 「夜の底」は文学の領域
ここでこの論考もトンネルをひとつ抜けた。(こういう比喩的な表現は,世界中どこの言葉にもある)。
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ではそれに続く,「夜の底が白くなった」という文はどうだろう。いったい夜の底ってなんのこと? まっ
たくちんぷんかんぷんだ,という感想が出ても不思議ではない。けれどもよく見ると,これは最初の文
と違って,文章の構造そのものはべつに難しくない。たとえば「鍋の底が黒くなった」というごく日常
的な表現と,文法的にはまったく同じだ。この文章がいかにも難解に思えるのは,「夜の底」などという
正体不明なものが登場するところにある。これはまさに文学者の詩的比喩というやつだ。文学が専門で
川端康成論でも書こうという人には,この比喩をどう分析するかが重要な問題になるが,日本語一般を
論じる場合に頭を悩ますことではない。
あるいは,山下さんが前回の文で引用した田久保秀夫の小説がある。あのせりふも,言葉そのものが
意味することは,主語が誰かということも含めて,特にあいまいなわけではない。ただ,その言葉の裏
に隠されている主人公の気持をどう読み取るかが,読者の想像力に任されているから,あいまいで難解
に思えるのだ。これも日本語の問題というよりは文学の問題だといえる。
いまあげたような文学的な意味での表現の難しさは,日本語に限らず,どんな言葉にでも存在する。
それを読み解くのは,文学好きにはこたえられない楽しみなのだろうが,理科系の論文を書く場合の参
考にはならないし,する必要もないだろう。
■ あいまいな日本の私
日本語には日本語の論理があるといった。それでは,頭の中に浮かんでくる日本語をそのまま書き綴
れば,きちんとした日本語の文章ができあがるのだろうか。
さきに述べたように,英語的な文の構造をことさら意識する必要はない。かといって,頭の中に出て
きたことを普通にしゃべるようにそのまま並べていけば,自然にいい日本語の文ができるかというとそ
うでもない。日本語には日本語の論理があると同時に,日本語が陥りやすい落し穴も存在するからだ。
たとえば,おなじ川端康成でも,ノーベル賞受賞記念講演の題,「美しい日本の私」は,日本語のあい
まいさが悪くあらわれた表現だ。日本語の文法構造では,形容詞はあとに来る単語であればかなり離れ
ていても修飾できる。だから,「美しい」は,「日本」にかかるとも「私」にかかるとも解釈できる。「の」
という助詞も,英語のofに比べて使える範囲が広く,意味を限定するのが難しい。この場合は,存在
(例=京都の姉),あるいは所有の主(例:私の犬)と解釈して,「美しい日本に存在する/所属する私」
という意味だろうと推測できるが,もしかして川端先生は「日本に住む美しい私」といいたかったかな?
などと意地悪な連想も可能である(日本語には掛詞という伝統もあることだし)。
川端についでノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は,受賞演説の題を「あいまいな日本の私」とし
たが,それは先輩への敬意を表する半面で,その題のあいまいさをやんわりと皮肉ったともいえるだろう。
■ 明快な日本語を書くために
川端をひきあいに出したのは,大文豪を皮肉るためではない。留学生の日本語作文を直すときに,よ
く引っかかるのがこの点なのだ。基本的な日本語文法(動詞や形容詞の活用,受身や使役など)をマス
ターした留学生が,いちばんつまずくのは助詞である。「大学に入る」「大学で勉強する」「大学を卒業す
る」などの使いわけは基礎だとしても,その上のレベルになるとなかなか難しい。「に」と「へ」(東京に
行く,東京へ行く),「に」と「と」(作家になる,作家となる),そして「は」と「が」の違いは,時に
は私自身も考え込むほどだ。日本語を母語とする者にとっても,一筋縄ではいかないのが助詞である。
あるいは,さきほどの川端の例のように,形容詞がどの単語にかかるかも難しい。留学生に教えると
きは,形容詞はできるだけ形容する単語に近づけるようにさせる。一般に,形容詞が多すぎたり,形容
の節が長すぎたりする文は,どこかで文がねじれてわけのわからないものになりがちだ。
留学生の場合はもちろんだが,一般に相手に論理的に理解してもらおうという文章は,単純素朴とお
もえるほどに,ひとつの文を短くしたほうがいい。文学作品のように,一見脈絡がないかのように文章
を長くつないでいくのは,実は大変な技巧が必要なのだ。
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ひとつずつの文を明快に短めに仕上げたら,次には文と文とをつなぐ必要が出てくる。この接続が,
文として論理をきちんと通せるかどうかの要になる。
じつは以前,外国の高校を卒業した帰国子女を教えたことがある。日本人なので話し言葉に不自由は
ないのだが,作文を書かせてみると小学生並みのものしか書けない。漢字を知らないので語彙が少ない
こともあるが,それより大きな問題は接続詞だと気がついた。彼女の作文を見ていると,「……で,……
で,……して……ました」と,えんえんと続く。接続詞というと,「それで」「けど」くらいしか登場し
ない。なるほど,日本語の話し言葉はこんなふうにだらだらと流れていくのだな,それを論理的に組み
立てるには,「しかし」とか「にもかかわらず」とか「ところで」とか,かっちりとした接続詞でつなぎ
なおすことが必要だと,あらためて気がついた。
論文の初稿を書きあげたら,もういちど論理の流れをたどりながら,助詞と接続詞を点検してみよう。
順接か逆説か,話は続くのか転換するのか,理由を述べるのか詳しく説明するのかなど,頭の中で整理
しながら読みなおすと,自分の言いたかったことが,前よりはっきり浮かび上がってくるはずだ。私も
これからもう一度,自分の原稿を読み直すことにしよう。
引用・参考文献
1)山下洵子:「和文論文作りを通してコミュニケーションを考える」その1∼その4,看護学統合研
究1(1)104106,1999;1(2)57−59,2000,2(2)53−55,2000;3(1)73−76,2001.
2)高島俊男二『漢字と日本人』,文春新書,2001.
3)奥津敬一郎:「ボクハ ウナギダ」の文法,くろしお出版,1978.
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