バプテスト史

バプテストの歴史について
竹内
豊
バプテストの歴史を学習するに際して主に以下の書物をテキストに用いた。
『見えてくるバプテストの歴史』(バプテスト教科書編纂委員会編 2011 年)
『バプテストの歴史的貢献』(関東学院大学キリスト教と文化研究所バプテスト研究
プロジェクト編 2007 年)
『バプテストの社会的貢献』(同上、2009 年)
『近代バプテスト派研究』(高野進 1989 年)
『信徒手帳』(沖縄バプテスト連盟総務部 1974 年)
Ⅰ 初期バプテストの歴史的有意味性
何事も初心が大切であることは、バプテスト史においても例外ではない。それは今
日のバプテストの在り方、とりわけ懸念されるアメリカ南部バプテスト連盟の信仰形
態や、沖縄バプテスト連盟(以下 OBC)のそれを考えるうえで、反省と示唆を与え
るものと考えられるからである。
さて 17 世紀イギリスに起こったピューリタン分離派は、政教分離と各個教会の独
立を掲げて国教会に対抗した。バプテストの先駆者ジョン・スマイスもその一人。か
れは「新生児(幼児)洗礼」を否定、バプテストの礎を築いた。1
しかしスマイスはオランダに渡った後メノナイト派に転向。つぎにバプテストを担
ったのはトマス・ヘルウィスである。かれが時の国王ジョージ1世に送った言葉は、
国王の権威が神の権威に従属するものであることを説いて、面目躍如たるものがある。
初期バプテストの行動を時代の潮流に重ねてみると、近代政治思想の成立と発展に
おいて確立された政教分離の原則、信教の自由といった普遍的権利が、かれらの命懸
けの闘いによって獲得されたものであることがわかる。ルターのような先駆的改革者
でさえ、政治権力との妥協を図ったことに比べても、初期バプテストの歴史的貢献の
重要さに改めて気づかされるのである。かれらは明らかに歴史の中枢を担ったのであ
る。
1
バプテストという名称は、外側からつけられた渾名。(高野進『近代バプテスト
派研究』24 頁)因みに高野はバプテスト派を「分離派に由来し、自覚的信仰と教会契
約の原理を徹底した人々である」(27 頁)と言い表している。
1
今日の私たちバプテストが再確認すべきは、反動的権力に対するこのような不服従
の姿勢であろう。現在私たちが所持する『信徒手帳』には政教分離規定と同時につぎ
のことが勧奨されていることを銘記しておきたい。
「政教分離の主張は、霊的分野の問題を世俗的分野からするどく分離することによ
って、宗教に対する世俗的権力の支配や、教会の世俗化の誤りを繰り返すまいとする
願いから生まれたものです。しかし、他方この主張は、信徒の政治的発言を封じるも
のではありません。信仰的決断は当然、社会的実践をともなうものです。したがって
信徒は、信仰的良心をもって、可能な限りの政治的発言を行わなければなりません。」
(15-16 頁、下線は私)2
たしかに教育や福祉(医療)方面での働きも教会による重要な社会的貢献であるが、
ここに銘記されていることは、明らかに社会的不公正に対するラディカルな政治的参
与の勧奨である。
Ⅱ
ジェネラル・バプテストとパティキュラー・バプテストの意義
バプテスト史の学習で必ず出てくるのがジェネラルとパティキュラーの両バプテ
ストである。両者の違いは、贖罪説をめぐる違いである。ジェネラルは普遍的贖罪説
を取り、パティキュラーは限定的贖罪説すなわちカルヴァン的二重予定説を取る。
まず両者について『信徒手帳』につぎのような記述がある点を正しておきたい。
「清教徒革命と呼ばれる内乱の時期に、バプテストの教勢はのび、1689 年信教自
由条例公布後間もないころに『バプテスト総連合』として再組織され、普遍贖罪主義
的傾向は影をひそめ、予定贖罪主義的傾向のものとして発展的に吸収されていきまし
た。」(22 頁、下線は私)
この記述によれば、あたかもジェネラルが消滅したかのような感がある。たしかに
教勢的にはジェネラルに比べ、パティキュラーのほうが上回っていくが、ジェネラル
はパティキュラーに吸収されたというよりも、むしろその多くはユニテリアンに傾い
ていき、またニュー・コネクションとして福音主義的グループを形成していった由、
2
『信徒手帳』には、ほかにも政治に対する信徒の姿勢を説いた箇所がある。たとえ
ば「国家・政府が、神のみむねに反して悪魔的な行為をなそうとするときは、これを正
すのがクリスチャンの使命です。」(78-79 頁)とある。「神のみむね」あるいは「悪
魔的な行為」が具体的に何であるかの判断は難しいこともあろうが、ここでは問わない。
2
3
そして最終的にはニュー・コネクションとパティキュラーとが相互の多様性を認
め合うかたちで合同した由である。4
因みに OBC は、『信徒手帳』の記述から察するに、パティキュラー・バプテスト
の系譜に連なるようであるが、見る限り予定贖罪主義への関心は乏しいようである。
しかし神による贖罪について認識をもつことは、信徒にとっておろそかにはできない
神学的問題である。次節で少しまとめておく。
Ⅲ
パティキュラー・バプテストにおける贖罪論
バプテストの歴史を扱う本稿において、神の贖罪について取り上げるのはやや特殊
である。だがこの評価の違いがジェネラルとパティキュラーを分ける基準であること
を考えれば、この問題を整理してみることには一定の意義があると考えられる。
そこでまずバプテスト史におけるこの問題に関する経緯をざっと辿ってみる。
初期バプテストのスマイスとヘルウィスは共にオランダの修正カルヴァン主義者
アルミニウスの普遍的贖罪説に立っていた。5
しかし 18 世紀になると、バプテストの発展過程において、JLJ と呼ばれる教会が
登場してくる。6 その JLJ 教会から離脱したグループがパティキュラー・バプテス
トを形成することになる。
かれらの主張はジェネラル・バプテストと同様に新生児洗礼を否定するものであっ
たが、かれらがイギリスに在住していたことによって、贖罪論についてはオランダの
アルミニウスの普遍的贖罪説を知らず、カルヴァン主義神学に立っていたため、パテ
ィキュラー・バプテストという新派を形成することになったのである。7
3
『見えてくるバプテストの歴史』69-73 頁
4
前掲書。101-105 頁
5
前掲書。34-36 頁
6
前掲書。37 頁。JLJ とは指導者のイニシャルから取られたものである。
7
前掲書。43 頁。JLJ 教会から離脱したグループのひとりグラントが、浸礼の情報を
得るためにオランダに赴いたが、その赴いた先がアルミニウス神学に立つ教会であった
というのは面白い。要するに初期パティキュラーの人々は浸礼には強い意識をもちなが
ら贖罪論については関心が薄かったのであろう。
3
その後パティキュラーはハイパー・カルヴァン主義と呼ばれる偏狭な信仰形態へと傾
斜、二重予定説によって、選ばれた者と選ばれなかった者、招かれている者と招かれて
いない者とを神に成り代わって選別する指導者たちが現れた。8
かれらの主張は「罪人を救い主に招く必要はない」とういうような排他的で独善的な
もので、今日のアメリカ南部バプテスト連盟の性格を思わせるものがある。
しかしその後、このような行き過ぎは、アンドリュー・フラー(1754-1815)のよう
な福音主義的神学者によって是正されていくことになった。9
以上が贖罪論をめぐるバプテスト史の概観である。
つぎに、限定救済説に立つパティキュラー・バプテストにおいて、予定説はどのよう
に理解されるのか、アンドリュー・フラーの神学的理解から確認しておきたい。
アンドリュー・フラーは自らの贖罪論理解を世に問うことを恐れなかったようで、積
極的に反対者の批判に応えている。10 だがここでは論争の内容については省き、フ
ラーの理解だけを確認しておく。
フラーの理解によれば、普遍的救済説は十字架の意味を不明確にし、歪めてしまう
ものとして斥けなければならず、11 神による選びと棄却は「神の永遠の主権的知恵
による事柄」12 であること、つまり神の専権事項であるとした。そして信仰と悔い
改めとは同義であるとみることによって、13 信仰に先立つ悔い改めを主張するハイ
パー・カルヴァン主義的な行為義認論を斥けた。そのうえで、かれは「どこまでも不
信仰者への福音宣教を行うべき」14 だとした。
フラーにおける二重予定論理解は、福音的カルヴァン主義への復帰という性格をも
っており、これがパティキュラー・バプテストにおける贖罪論であるということが、
8
9
『見えてくるバプテストの歴史』74-80 頁。
前掲書。83-91 頁。
10
前掲書。86 頁。論争の相手はハイパー・カルヴァン主義者、アルミニウス(普遍
的救済論)主義者等だった。
11
12
13
14
『バプテストの宣教と社会的貢献』30 頁。
『見えてくるバプテストの歴史』90 頁。『バプテストの宣教と社会的貢献』33 頁。
『バプテストの宣教と社会的貢献』34 頁。
前掲書。28 頁。
4
一応できよう。15
Ⅳ
バプテストの海外宣教
バプテスト史のなかで海外宣教が占める意義は大きい。そもそもキリスト教による
海外宣教は、世界宣教を旨とするキリスト教にとって必須のものであるが、そこには
功罪こもごもの歴史があったことは言うまでもない。その意味で、現在から過去のキ
リスト教宣教の在り方を顧みることの意味は、けっして小さくはない。本稿では、バ
プテストによる初期海外宣教の事例としてウィリアム・ケリーを取り上げ、バプテス
トが関わった海外宣教の在り方について、まとめておく。
ウィリアム・ケリー(1761-1834)によるインド宣教は、文字通り艱難辛苦のなか
で行われた。そこに初期バプテスト派の先人たちと同様の、命懸けの働きをみること
ができる。
ケリーによる宣教の歴史的意義は、それがバプテスト独自の企てであり、政治的な
保護あるいは支援に頼ることなく行われたことである。16 それどころか現地にあっ
たイングランド・東インド会社は、かれらの宣教活動を敵視し、さまざまな圧力をか
けてきた。17
東インド会社は、当時すでにイングランド本国政府の監督下にあったとはいえ、依
然としてアジア交易を独占し、傭兵も抱えていた。つまり典型的な植民地政策の担い
手であった。その東インド会社と一線を画して宣教がなされたことは、宣教が政教分
離の原則によって行われたものであったことを証している。これは銘記されてよいこ
とだろう。18
この宣教については、もうひとつ注目すべきことがある。それは有名な「セポイの
乱」(1857 年)に先立つ半世紀前、1806 年に起こった東インド会社のインド人傭兵
による反乱で、その原因がバプテストの宣教師たちの干渉によるものだとされた流言
15
二重予定論についてはカール・バルトによる有意義な理解がある。が、これはバプ
テストの歴史を追う本稿の趣旨から逸れるので、ここでは扱わない。
16
『バプテストの宣教と社会的貢献』44 頁。
17
前掲書 48-49 頁。『見えてくるバプテストの歴史』97 頁。
18
もっともこの時点では、政府と企業が連携した権力体制が植民地政策を遂行するに
あたって、キリスト教の宣教活動を利用するに足るものとして見ていなかった、とみる
こともできるかもしれないが。
5
事件である。19
ケリーらの宣教を本国で支援していたフラーはこの事件の真相解明に尽力、「イン
ド人に対する最近のキリスト教布教の謝罪」を発表して、この事件が宣教活動の妨害
をねらった東インド会社の差し金による工作であることを明らかにすると同時に、宣
教が政教分離と信教の自由論にもとづいて行われるべきものであり、現地の文化・宗
教に配慮して行われていることを証した。20
この事件をその後の結果からみると、結局、東インド会社の反動政策が暴露され、
逆にケリーらの宣教活動が評価されるというかたちで決着していったことがわかる。
21
Ⅴ
ロジャー・ウィリアムズにみる初期アメリカ・バプテスト
独立以前、いまだ植民地であったアメリカにおいて初期バプテストが果たした歴史
的貢献には評価すべきものがある。その代表的な人物がロジャー・ウィリアムズであ
る。本稿ではそのウィリアムズを取り上げ、アメリカにおける初期バプテストの在り
方をまとめてみる。
ウィリアムズ(1603-1683)がアメリカのマサチューセッツに来たのは 1631 年。
牧師として務めたが、政教分離の主張によって当局から植民地退去を命じられている。
そのときのかれの主張のなかに、イングランド人が所有している土地は国王のもので
はなく、「本来の土地の所有者はアメリカ先住民」であるというのがある。22 また
他宗教の信者をキリスト教に改宗させることさえ望ましいと思うべきではないとも
のべており、信教の自由の原則がキリスト教ばかりではなく、他宗教にまで及んでい
ることが注目される。23
たしかに意志をいまだ持たない新生児にバプテスマを施すことが非とされるのと
同じように、信仰の成長を待たずに行われる改宗もまた非とされなければならないこ
とは当然である。いかにも原理原則に忠実なウィリアムズらしい考え方である。
19
『バプテストの宣教と社会的貢献』50-54 頁。『見えてくるバプテストの歴史』98-99
頁。
20
『バプテストの宣教と社会的貢献』54-56 頁。『見えてくるバプテストの歴史』99
頁。
21
『バプテストの宣教と社会的貢献』56 頁。『見えてくるバプテストの歴史』99 頁。
22
『見えてくるバプテストの歴史』117 頁。
23
前掲書。120 頁。
6
因みに『信徒手帳』にもウィリアムズについて紹介されており、「『宗教と国家の
分離』を身をもって主張しました。これが後のちまで、バプテストの基本原理の一つ
となったのです」(23 頁)と記されている。
しかしこのウィリアムズにして、アメリカ植民地主義の影響を免れることはできな
かった。先住民のなかには植民者たちに頑強に立ちはだかる部族もあった。その本格
的な戦いとなったのがピーコット戦争である。ウィリアムズはこの戦争に加担してし
まった。結果、敗北を喫したピーコット族は壊滅、バビロン捕囚のイスラエル人よう
に、女性や子供たちは人質あるいは奴隷として売られていった。24
佐藤光重はウィリアムズを論ずるなかで「憐れみの神、平和の神に懇願し、慈悲の
御心をひたむきに実践すること、それがウィリアムズのたどり着いたキリスト教精神
の真髄であり、尊い真実であった。さらには、政治的駆け引きに翻弄され、本意とは
正反対の蛮行に手を貸してしまった苦い体験から、宗教を政治から隔離し、政治と宗
教との領分をはっきりさせることも、みずから重い代価を支払ったうえで手に入れた
真実であった」25と、この「寛容なる原理主義者」を弁護している。
が、この問題の根本は、ウィリアムズのような国民的ヒーローが存在しながら、ア
アメリカの歴史は、圧倒的な力によって植民地開拓を推し進めていったところにある
といわなければならない。佐藤は「アメリカが生み出した熱烈なるキリスト者にして
慈悲の人、ロジャー・ウィリアムズの体験と思想から、時代を経ても変わらぬ貴重な
教訓と真理とを感得することの意義はますます深まるであろう」26 と記しているが、
逆に言えば、それほどまでにアメリカのキリスト教は暴力に対して無力だったのかと
思わざるをえない。それとも先住民族をはじめアメリカに立ちはだかる相手は、すべ
てダビデの敵のように、神の敵だったのだろうか。
Ⅵ
社会的福音運動 ―ラウシェンブッシュとキング―
バプテストの近代から現代に至る歴史の中で、私が関心をもつ二人の代表的人物を
取り上げる。ひとりは社会的福音運動の創始者ラウシェンブッシュ(1861-1918)、
そしてもうひとりは公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング(1929-1968)
である。
24
『バプテストの宣教と社会的貢献』92-98 頁。
25
前掲書。98 頁。
26
前掲書。99 頁。
7
まずラウシェンブッシュだが、経歴は省き、かれが果たした社会的貢献の性格につ
いて考えてみたい。
社会的利益の配分から落ちこぼれていく人々、このような人々の存在は歴史のなか
に常に存在した。それは歴史や文学のテーマとして取り上げられてきた。いや聖書こ
そそのような「貧しい人々」を救いの対象としてきた。それは過去のことではなく、
最も今日的なことでもある。
バプテストがすでに一定の力を備えてきた 20 世紀初頭、このような社会的不公正
に立ち向かう動きが現れたとしても不思議ではない。
ラウシェンブッシュがこの問題に取り組むのにまず根本にあったことは、この地に
神の愛が支配する「神の国」を建設しようという神学であった。かれは個人がバプテ
ストの信仰に堅く立ち、それが同時に社会につながるような在り方を考えていた。つ
まり個人と社会の二元論ではなく、個人と社会とが有機的に一体となった信仰の在り
方を求めたのである。
このような信仰形態は、個人的信仰を教育や社会福祉的な奉仕に結び付けていく契
機となるものでもある。よく言われる「社会派」に対する「福音派」という区別にお
いても、このような社会的参与は果たされており、この方面における働きには評価す
べきものある。その意味では「福音派」的な信仰形態を非社会的であるとみることは
出来ない。しかしそれは社会的な不公正の是正というようなラディカルな運動には関
与しない。それは個人が信仰的に成長すれば、必然的によい社会が形成される、とい
う個人と社会との関係を緩やかな連続的なものと捉える。それはあくまでも個人の内
的信仰の成長を優先的に考える。27
しかしラウシェンブッシュの掲げる社会的福音運動は、その点もっと社会改革への
要求を強くもったものではなかったかと考えられる。つまり個人と社会との関係が、
個人から社会へと緩やかに連続的に捉えられるのではなく、表裏一体の関係として捉
えられているのである。
さてつぎにキングである。キングもまた信仰を個人と社会の二元論ではなく、一体
のものとして捉え、キリストの愛を原理として社会的正義の実現を求めて闘ったバプ
テスティアンである。しかもそれは理論としてあったのではなく、緊迫した現実のな
かで必然的に把握されたものである。
人種差別撤廃を求める公民権運動が政治的色彩を帯びるのは当然だろう。このよう
な社会運動は「福音派」の社会観からはどうしても生まれて来ないものである。事実、
かれの運動には「福音派」牧師からの批判があった。しかし社会的不公正を目の前に
しながら手をこまねいていることが、信仰的に正しい在り方と言えるだろうか。キン
27
しかし場合によって、教会の「敷居が高い」ために、貧困層にまで手を伸ばして
いるかといえば、必ずしもそうとはいえない面もある。これは「福音派」の社会的貢献
を考えるときの課題であろう。
8
グが直面したのは、個人の信仰と社会的不公正の接点で生じた必然的な要求であり、
決断の問題であった。それは内的な信仰の成長だけでは改善されることのない問題で
あった。それは個人的信仰と社会的公正に対する要求とが一体となった信仰によって、
はじめて生まれてくるものである。
かれはこう述べている。「ラウシェンブッシュを読んで以来、ぼくは、どんな宗教
でも人間の魂を気づかうと称しながら、そうした魂をおびやかす社会や経済の状態に
関心をいだかぬものは、いわば徒らに葬りされる日をまっているにすぎない、精神的
に死にかかった宗教だと、信ずるようになった。」28
翻って、今日の沖縄社会を見ると、米軍基地問題が大きく横たわっている。それは
極めて政治的・軍事的な問題である。「福音派」の人々が個人と社会との二元論に閉
鎖するのは、このような問題においてである。それは信仰とは別次元の問題として脇
に押しやられる。だがそうだろうか、と問う人々がいる。「社会派」の人々である。
OBC における致命的な課題が米軍基地問題であることは、ちょっとした想像力さ
えあればすぐに分ることである。しかし現実にはそれが避けられている。いや、米軍
の存在を認める論理さえみられる。そこには「福音派」的二元論と同時に、戦闘的キ
リスト教の肯定もまた共存している。29
バプテスト主義をめぐって、このような在り方をどうみるかという問題が立てられ
よう。だが、バプテストの歴史を学ぶ本稿の趣旨からは、課題が重大すぎて手に余る。
今後の課題とする。ただつぎのことは記しておく。
キングが「社会派」に与えた影響は大きい。キングの社会的福音運動は「汝の敵を
愛せよ」という金言に立つものである。この御言葉は、相手を「敵」と見定める冷め
た現実と、それを「愛せよ」という熱い理想との緊張のうえに成り立っている。それ
を可能とするのは神に拠り頼む信仰である。これは政治や軍事の理論からは到底出て
こない論理である。社会派がもつ非暴力抵抗主義という論理は、米軍の軍事力という
暴力に真っ向から対峙するものである。しかもそれは聖書的基盤に立っている。この
確信を揺るがす論理はない。
Ⅶ
アメリカにおける北部と南部のバプテスト
28
高野進『近代バプテスト派研究』所収の「マーティン・ルーサー・キング二世の
人と思想」からの孫引き。267 頁。
29
キリスト教におけるミリタリズムの問題はひじょうに重要な問題である。少なく
とも言えることは、キングの非暴力主義を除いて、欧米キリスト教は今日に至るまでイ
エスの愛敵の教えを実践してこなかったことである。
9
OBC に所属する私たちバプテストにとって、イギリスで起こった初期バプテスト
の歴史も然りながら、アメリカのバプテストの歴史は、日米の間でより直接的な関係
が結ばれてきただけに、その信仰形態の影響は大きいものだったと考えられる。
そこでアメリカのバプテストを二分する北部と南部のバプテストの違いについて、
ここでまとめておきたい。
1905 年のバプテスト世界同盟(BWA)の結成は、多くの国が加盟するなかアメリ
カからも、アメリカ・バプテスト宣教同盟(北部)、そして南部バプテスト連盟が加
盟している。30 しかしこのような喜ばしい歴史に先立って、アメリカのバプテスト
の事情を見てみると、そもそも 1845 年の南部バプテスト連盟の創設が、奴隷制をめ
ぐる北部と南部の対立から生じた結果であることが確認される。そこにはすでに南北
戦争の予感があった。それは南北戦争の前哨戦の様相を呈していた。そして四年間続
いた南北戦争が終結した 1865 年以降、南部はなおも「失われた大義」という砦に立
てこもって北部に対抗した。これが今日に至るまでアメリカのバプテストに暗い影を
落としているとみるのは、誤りではないだろう。
このような影を引きずったアメリカのバプテストが、日本への宣教においてどのよ
うに影響しているのか、関心がもたれるところであるが、いまはおく。ともかく日本
におけるバプテストが、北部系と南部系に分けられるのは、単なる宣教の棲み分けに
留まらず、こうした背景をもっていることは留意しておいてよいだろう。
もうひとつ留意しておきたいのは、第二次大戦時、北部バプテストにおいて、非戦
論に立つ良心的兵役拒否の主張があったことである。さらにベトナム戦争においても、
バプテストの間に、戦争反対の声があったという事実である。31 このような動きは、
今日アメリカのバプテストの中でどのように評価されているのか、関心が持たれると
ころである。
Ⅷ
バプテストの変節
沖縄に基地経済と称される実態があるように、かつてアメリカにも奴隷制経済と呼
ぶことのできる経済形態があった。基地も奴隷制も経済が成り立っていくためには必
要悪とされるところがあった。だがやがてそれは「悪」を隠蔽して、「必要」として
是認されていく。
初期バプテスト派の人々は不正には敏感だった。命を賭けて国王に直訴もした。迫
30
『見えてくるバプテストの歴史』159 頁。
31
前掲書。158 頁。
10
害にも耐えた。そのようなバプテストの気概に最初の変節が生じたのは、おそらく奴
隷制を是とするアメリカにおいてだった。それでも北部バプテストは奴隷解放に従っ
た。しかし南部では指導的地位にある者たちがこぞって奴隷制維持を推し進めた。そ
れが自分たちの経済基盤を支えるのに必須の条件だったからである。「黒人」に対す
る差別は南北戦争敗戦後も長く続いた。バプテストはこれを正すどころか、逆に加担
した。32 歴史を担ってきたバプテストが歴史に背を向けたのである。
これについて元南部バプテスト連盟の宣教師であったコープランドの言う「貨物列
車最後尾の乗務員車」というのは痛切な表現である。33
これに付け加えるならば、産業化の進行とともに現れてきた格差是正を求める社会
的福音運動に対して、南部バプテストはこれを、個人の魂の変革を盾に否定した。34
Ⅸ
南部バプテスト連盟とキリスト教原理主義
今日のバプテストにおいてアメリカ南部バプテスト連盟問題というものがあるこ
とは間違いない。それはアメリカのバプテストが、バプテスト世界における強力な勢
力であるということであるばかりでなく、南部バプテスト連盟の教勢的な強さにもよ
る。南部バプテスト連盟問題にどう取り組むかということは、これからのバプテスト
の歴史を考えるうえで、最大の課題のひとつであろうと考えられる。
アメリカの南部バプテスト連盟の原理主義(根本主義)化の経緯をみるうえで、時
代を画した信仰告白を検討してみるのがよいと考えられるが、ここでは深く踏み込ま
ず、つぎの引用をもって問題の所在を明らかにするに留める。
「根本主義者の関心は、もともと、信仰の科学に対する優位性と逐語霊感的な聖書
無謬説の擁護でした。南部バプテストの歴史においては、1920 年の進化論論争、1960
年の聖書解釈の文献学的方法論に対する拒否などがその象徴的なものでした。しかし、
それが 70 年代に入ると、連盟政治の主導権を巡る政争へとアジェンダが転化しまし
た。そのような動きは、すでに 1973 年以来、ファンダメンタリストの推す人物が連
32
『見えてくるバプテストの歴史』142 頁。
33
E・ルーサー・コープランド『アメリカ南部バプテスト連盟と歴史の審判』62 頁。
34
『見えてくるバプテストの歴史』155-157 頁。しかしこの問題は、南部バプテスト
の問題にとどまらず、「福音派」すべてに共通する問題でもある。「社会派」との違い
である。
11
盟理事長に選出されて以来、ファンダメンタリストによる南部バプテスト連盟の支配
が顕著になりました。」35
今日アメリカのキリスト教界においてカトリックにつぐ第二の勢力となっている
南部バプテスト連盟の存在は、けっして侮ることのできないものとなっている。かれ
らの主張のどこに誤りあるいは行き過ぎがあるか、聖書に基づく的確な批判が俟たれ
るところである。
Ⅹ
日本および沖縄のバプテスト
日本および沖縄のバプテストの歴史については『信徒手帳』に要約があり、歴史的
な経緯を確認するのに便利である。そこには当然のことながら日本および沖縄のバプ
テストの成立が、アメリカの北部と南部の両バプテストによるものであることが明記
されている。
しかし、何故アメリカのバプテストが二派に分かれ、アメリカにおける北部と南部
の棲み分けがそのまま日本に、東部と西部に当てはめられたのか、ということまでは
記されていない。しかし奴隷制擁護と人種差別に終始した南部バプテストの種が日本
の地に播かれたことは、留意しておかなければならないことである。なぜなら南部バ
プテストの成立には、バプテストの変質という深刻な問題が横たわっていたからであ
る。それが今日、日本のバプテストに及んでいないかどうか。とりわけ原理主義への
加速的な傾斜という更なる変質を図ったアメリカ南部バプテストの影響が、日本およ
びお沖縄のバプテストに及んでいないかどうか、懸念されるところである。
ところで 1955 年の OBC の成立について銘記しなければならないことは、成立の
二年前、1953 年にそれまで所属していた沖縄基督教連盟が沖縄基督教会へと再編さ
れるのを機に離脱したことである。その「離脱声明」36の主旨は、要するに沖縄基督
教会という合同教会がバプテストの各個教会の自主独立の精神に反するということ
である。その精神は、当然のこととはいえ、評価されてよいことである。
ただ今日の視点から見るに、『信徒手帳』にあるつぎのような記述は銘記するに値
する。
「その年(1953 年)にボーリンジャー宣教師が来島し、巧みな日本語によって伝
道に活躍、1955 年 1 月にはバプテスト派の米軍チャプレン、クラーク及びブリテン
35
金丸英子「講演録
トの歴史』225 頁。
バプテストは今なお、バプテストか」『見えてくるバプテス
36 『宣教の歩み―沖縄バプテスト八十年史』
89-98
頁。
12
頁。
『沖縄バプテスト百年史』79-89
両師やパーク大尉の指導と協力のもとに『沖縄バプテスト連盟』が結成されるに至っ
たのです。」37
ここには結成の歴史が喜ばし気に表現されていることが看取できる。しかし当時の
沖縄は、1953 年の「土地収用令」とこれに対抗する「植民地化反対闘争委員会」の
結成、来島したニクソン副大統領による「共産主義の脅威があるかぎり沖縄を保有す
る」という言明、翌 54 年アイゼンハワー大統領の沖縄基地無期限保有宣言、さらに
OBC 結成の 55 年には由美子ちゃん事件、56 年にはプライス勧告とこれに対抗する
「沖縄土地を守る協議会」結成と、まさに歴史の激動の真只中に置かれていた。
この歴史の現実を顧みるとき、そこに OBC 創設との大きなギャップがあることに
否応なく注目せざるを得ない。バプテストの精神のなかに、もし「歴史の中の教会」
という意識があるのだとすれば、ここには大きな欠落があったと見ざるを得ないので
ある。その意味で沖縄バプテストの「歴史」に、はたして歴史があったかどうか、疑
問は大きい。38
もう一点付け加えると、引用した記述にもあるように、OBC と米軍との関係があ
る。それを歴史の文脈に重ねてみると、OBC 創設の喜びとは別に、それが沖縄の基
地恒久化というアメリカの「戦略」にぴったりと重なってしまうことである。沖縄側
にこれを批判する歴史的洞察があったかどうか。それとも積極的にアメリカの意図を
受け入れていったのであろうか。合同教会からの離脱とボーリンジャー宣教師の来島、
さらに米軍チャプレンらの指導と協力、OBC 創設に至るこれら一連の準備が、アメ
リカ側の政治的・軍事的意図にもぴったり重なってしまうのは、否定しようのない事
実であろう。
Ⅺ
バプテストの戦責問題
日本および沖縄のキリスト教はもとより、バプテストにおいても考えなければなら
ないのが戦争責任の問題である。しかしこの問題は、あまりにも重要な問題であるの
で、ここでは問題の所在を確認する程度に留めておく。
37
『信徒手帳』32 頁。
38
ついでに言えば、OBC を二分するほどの大事件であった「ランドール宣教師解任
事件」についても、OBC の「歴史」は何も語っていない。まさに歴史的な問題である
にもかかわらず。
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1939 年国会で決議された「宗教団体法」に沿って、1940 年に東部と西部の両バプ
テスト組合は「日本バプテスト基督教団」なる合同教会を組織、さらに同年中に「教
派大合同」へと突入していった。39 以下、村椿真理の論稿から引用する。
「そもそもバプテスト派とは、その歴史的主義主張をどこまでも重んずる、ある意
味で極めて保守的性格を持つ教派教会であった。彼らが教派合同、即ち日本基督教団
加盟を決断したのは昭和 15 年のことであり、まだ日本基督教団がいかなる機構でま
とまるか判然としていない状況下での決断であった。(中略)そこではその合同論の
内容吟味の余裕もないままに、政府の圧力を臭わされた総会議員が多数決で教派大合
同になだれ込んでしまったような状況があった。」40
国家権力を前にして早々に尻尾を巻いてしまった感は否めない。どこにこのような
脆さがあったのだろうか。個人の信仰か、組織の脆弱性か、はたまた「日本教」とい
われるような日本的風土の体質か。それはいま措くとして、組織には良い意味で団結
によって生まれる力というものがある。国家権力を前にして個人の力は無力である。
よって抵抗すれば迫害を受けるしかない。しかし組織なら抵抗力がある。それは何も
教派に限定することはない。社会において世の光となり、地の塩となって活動する
人々は、何も教会だけではなく、教会の外にこそ求めることができるといっても過言
ではない。そのような団体や組織と連帯を図ることによって、二度と国家権力を前に
して委縮してしまうような轍は踏まずに済む。それが平時の備えである。が、はたし
てそのような備えが今日なされているのだろうか。
日本キリスト教団および日本バプテスト同盟は、遅蒔きとはいえ「戦責告白」を発
表している。また日本バプテスト連盟も、靖国神社問題などに関して果敢に抗議声明
を発表している。そのような姿勢が、組織として二度と権力に屈しないことの力強い
意志表明であればよい。だが組織は意外に脆弱なものである。他の社会的平和団体と
の連帯が求められる所以である。
最後に付け加えるが、戦時下抵抗の事例として、私の心に灯火のように耀く群れが
ある。灯台社である。かれらの孤立無援下の抵抗を見るとき、そこに初期バプテスト
の人々の姿を彷彿させるものがある。だが、彼らの抵抗が戦後のキリスト教界で評価
されることはなかった。そのことも然りながら、彼ら自身が戦後、静かな諦観のうち
に余生を送ったことのなかには、日本のキリスト教界に対する失望ばかりではなく、
自己の信仰に対するいかにも日本人的な諦観がなかったとは言えない。あえて言えば、
彼らにも灯火を松明に変えていくだけの力はなかったとも言えよう。しかしそれを託
39
『バプテストの歴史的貢献』126-128 頁。
40
前掲書。129 頁。
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されているのは、私たち今日に生きるキリスト者であり、もっと言えば、バプテスト
であっても良いのではないだろうか。
以上をもって、私のバプテスト史の学習報告とする。
2011.7.20
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