長崎県埋蔵文化財センター 研究紀要 第4号

長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要
第4号
序
長崎県埋蔵文化財センターは、長崎県の北部、玄界灘に浮かぶ壱岐島にあ
り、国の特別史跡である原の辻遺跡が見渡せる丘の上に、壱岐市立一支国博
物館に併置して設置されています。
当センターは、長崎県全体の埋蔵文化財調査研究の拠点施設であるととも
に、本県の特色である東アジア地域との交流の歴史を研究し、その成果を優
れた展示機能を持つ一支国博物館と一体となって広く情報発信を行い、埋蔵
文化財保護への理解と地域振興を図っていくという役割も担っております。
本研究紀要は、職員が日常行っている調査・研究の内容を公開することを目
的としておりますが、今回、刊行する第4号は、旧石器時代から中世といっ
た幅広い時代を対象とする考古学研究や遺物復元技術についての内容となっ
ています。
今後とも、「職員が研究し、発表する」ということを通して、専門的知識・
技術の向上を図りながら、埋蔵文化財センターとしての調査研究機能の充実
に取組んでいきたいと考えています。
皆様のご指導、ご叱正をいただければ幸いです。
平成 26 年3月
長崎県埋蔵文化財センター
所 長 木 村 忠 男
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要第4号
目 次
川道 寛
旧石器時代〜縄文時代草創期の原の辻遺跡������������ 1
古澤 義久・田中 聡一
縄文時代の原の辻遺跡��������������������� 19
安楽 勉・川畑 敏則・古澤 義久
壱岐市石田町堂崎遺跡採集資料����������������� 34
白石 渓冴
壱岐島内の箱式石棺墓��������������������� 47
片多 雅樹・吉井 康史・白石 渓冴
三次元計測器および 3D プリンターを用いた銅剣の復元
~諫早農業高校遺跡出土銅剣の例~��������������� 57
林田 好子・中尾 篤志
九州型石錘の集成と展望�������������������� 60
林 隆広
松浦党城郭雑感~佐志氏の城跡~���������������� 95
例 言
本書は、長崎県埋蔵文化財センター職員および本県埋蔵文化財関係者の研究活動の一端を
示すことを目的として発刊されたものである。
掲載されている論文等の内容や意見は、執筆者個人に属し、長崎県教育委員会あるいは長
崎県埋蔵文化財センターの公式見解を示すものではない。
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
旧石器時代~縄文時代草創期の原の辻遺跡
川道 寛
Ⅰ.はじめに
原の辻遺跡は、弥生時代の集落遺跡として知られており、「魏志倭人伝」に記載された国邑の姿を
残す遺跡として国の特別史跡に指定されている。原の辻遺跡はまた旧石器時代の遺物が多数出土する
遺跡でもある。その研究の端緒となったのは下川達彌の短報である(下川 1970)。氏は、戦前に採集
され、長崎県立美術博物館に所蔵されていた原の辻遺跡の採集品の中から台形石器を抽出・報告して、
壱岐の旧石器研究の先鞭をつけた。それから 40 年近くが経過した。調査の進展によって膨大な旧石
器資料の蓄積がみられたもののそれらの体系的な整理はなされていない。
本稿では、原の辻遺跡から出土する旧石器時代から縄文時代草創期の石器に焦点を当てる。
Ⅱ.壱岐島における旧石器時代~縄文時代草創期
壱岐で本格的な旧石器の探索が開始されるのは 1975 年になってからである。角川書店が主催した
「野生号」航海の壱岐到着時に、地元の郷土史家福田敏が採集したカラカミ遺跡の採集品の中に細石
刃核の存在が確認された。これを契機として壱岐高等学校教諭岩永司による原の辻遺跡の資料にもナ
イフ形石器が確認され,原の辻遺跡での旧石器時代への関心が醸成された。この間の経緯については
安楽勉が大川地区での採集品の紹介とともに詳しく述べている(安楽 1976)。昭和 49 年の原の辻遺
跡での圃場整備にかかる調査は、その重要性に鑑み、周辺の範囲確認調査が実施されることとなり、
大川地区のみならず、丘陵南部の苣ノ木地区・原の久保地区へと広がり、苣ノ木地区の試掘壙では包
含層が確認され、壱岐では初例となる遺物ブロックおよび落し穴遺構も検出された。
苣ノ木地区第1試掘壤から出土した台形石器はきわめて特異な形態をしていた。この石器に注目し
たのが当時平戸市北部の田助遺跡の調査していた萩原博文である。氏は、田助遺跡から出土した台形
石器が原の辻遺跡出土のそれと形態的に類似することに注目し、それを発見の先取性に従って「原
の辻型台形石器」と命名し、その形態の特徴、製作技法について見通しを示した(萩原・川道 1981、
萩原 1983)。これによって一躍注目された「原の辻型台形石器」は同志社大学による百花台東遺跡で
の接合例による製作技法の解明によってますますその重要性を増していった。
その後しばらく原の辻遺跡では調査の空白期間が続くが、1989 年遺跡周辺を対象とした大規模な
圃場整備事業である「幡鉾川流域総合整備事業」が計画された。県は原の辻遺跡調査事務所を設置し
て、1992 年埋蔵文化財の範囲確認調査を行った。その際丘陵西側の試掘壙からほぼ完全な形のナウ
マンゾウの臼歯化石が出土し、1995 年にも幡鉾川改修工事に伴う河川の調査によって多くのナウマ
ンゾウやオオツノジカの化石骨が発見された。これらの化石骨は稲田孝司を中心とする研究グループ
に取り上げられ、科学研究費を使った研究報告が出されている(稲田編 1998・2007)。しかしナウマ
ンゾウに伴う石器は、現在のところ検出されておらず、それらの帰属時期の詳細も不明である。
1999 年には同事業の一環で郷ノ浦町大宝遺跡が調査され、ナイフ形石器・台形石器を主体とする
−1−
石器群を原位置の状態で検出した。包含層である4a 層は、玄武岩の風化した黄褐色粘質土層で、層
厚 10 ~ 20㎝である。石器素材はすべて漆黒色の良質な腰岳・牟田系黒曜石であり、剝片等に見られ
る礫面の状態から松浦市牟田産とすることができよう。
原の辻遺跡では丘陵部のみならず低地部でも旧石器の検出は続いたが、1997 年には原の辻丘陵か
ら谷を挟んだ西側の低丘陵の先端部の鶴田遺跡の調査が行われ、磯道型石核と縦長剝片を中心とする
良好なブロックが検出され、旧石器の分布範囲が大きく西側にも広がることが確認された。
2005 年には福田一志がその時点の研究を集約した。それによると原の辻遺跡から出土した石器は
すべて AT 上位の石器群とし、「丘陵上の土の堆積は薄く、火山灰層の検出を望めるような状況では
ないこともあり、積極的に編年案を提示できるような状況ではない。低地部でも旧石器時代の文化層
を捉えるには至っていない。」と評価した(福田 2005)。
2011 年には丘陵中央部の原地区の調査によって包含層から原位置の状態でブロックが検出された。
小形のナイフ形石器を主体とする石器群である。この調査では石器群の出土層準の下位に AT の濃
集部が明らかになったことも重要な成果であった。
現在のところ壱岐で確認された旧石器時代~縄文時代草創期の遺跡は 17 箇所におよぶ。ナイフ形
石器と細石器の両方が出土する複合遺跡が原の辻・
壱岐国分寺跡の 2 箇所、ナイフ形石器・台形石器を
出土する旧石器時代単独の遺跡が松崎・興原・鶴田・
大宝・椿・坂・名切・木ノ本の 8 遺跡で残りは細石
刃核のみを出土する縄文時代草創期の遺跡である。
しかし大部分が表面採集品のみで遺跡の詳細が明ら
かな遺跡は少ない。遺跡の内容が変更することは間
違いない。遺跡分布は南高北低である。その理由の
一つとして、旧石器時代の遺跡の多くが玄武岩の風
化土層に包含されることがあげられよう。壱岐の中
南部の表層地質をみると玄武岩で占められており、
こうしたあり方は北部九州の唐津上場台地や長崎県
北の状況に酷似している。
第 1 図 壱岐島の遺跡分布
Ⅲ.ナイフ形石器文化期の原の辻遺跡
① 不條地区から出土した旧石器(第 3 図 1 ~ 17)
原の辻丘陵の北端西側の低地部にあたり、標高 6m 前後。県道工事および特定調査事業の調査によっ
て集中的に調査が実施されている。遺物はいずれも旧河道や後世の遺構等から出土したものであり、
すべての遺物が原位置を遊離している。遺物の中には移動時のものと思われるローリングが顕著なも
のもみられるが量的には僅かであり、さほど長距離を移動したとは想定できない。
剝片尖頭器が 2 点出土している。1 は腰岳・牟田系黒曜石註 1 の分厚い縦長剝片を素材として、基部
に左右非対称の細調整を施し茎部を作り出すが打瘤は除去していない。7 は小形である。基部側に粗
−2−
い調整を加える。打瘤は除去せず、剝片
の原形を保持している。2 は、報告では三
稜尖頭器とあるが小形の角錐状石器であ
る。
ナイフ形石器には、石刃状の縦長剝片を
素材とする柳葉形の二側縁にブランティ
ング(以下、細調整と表記する)加工を
施すいわゆる九州型ナイフ形石器とよば
れるもの(3・13・16)と幅広で切裁具的
な も の(4 ~ 6) が あ る。4・6 は 一 側 縁
に細調整が施され、刃部は直線的であり、
打瘤を残している。5 は打点側を先端部に
しており、細調整によって打瘤を除去し
ている。
台形石器は、表裏両面に平坦調整が施さ
れる大形のもの(8)、急斜な細調整を両
側縁に施し刃部が直線的なもの(9・17)、
両側縁に急斜な細調整が施され刃部が斜
刃になるもの(11)、平坦調整が施され刃
部が円刃になるもの(10)など多様である。
第 2 図 原の辻遺跡地区名
12 は水晶製石器。全体に調整が施され
るが胴部は使用痕と思われる擦痕が顕著で白くなり透明感を失っている。長崎県内では水晶を素材と
する石器はほとんど知られていない。本例と同じような擦痕を持つものとしては五島市茶園遺跡の例
がある。
② 八反地区から出土した旧石器(第 3 図 18 ~ 38)
丘陵西側の低地部にあたり、県道工事に伴って調査され遺物は不條地区と同様旧河川跡や溝等の後
世の遺構から出土した。
ナイフ形石器が 9 点出土している。18 ~ 20・29 のように二側縁加工で基部裏面加工を持つ一群は
他地区にはみられない特徴的な現象である。基部裏面加工のナイフ形石器は諫早市柿崎遺跡の調査で
注目されたもので「柿崎型」ともいう。萩原編年ではナイフ形石器文化後期に位置づけられている。
32・34 のような柳葉形のものや 21 のような茎部をつくりだすようなナイフ形石器も存在することか
ら複数の時期の石器群が混在していることが想定できる。また報告では 19 には先端部に彫刀面(ファ
シット)が存在することから彫器への転用を想定しているが、ナイフ形石器の先端部には使用時にも
似たような剝離が生じることもあり、彫器への転用とする場合使用痕分析を行う必要があろう。
台形石器には 30 のような原の辻型のほか、22・33 のように基部から中央部にかけて表裏両面から
平坦剝離による調整を施し、器体中央部が最も厚くなるように仕上げる枝去木型や 36・37 のように
両側縁に急斜な細調整加工を施すものがある。
−3−
その他の石器としては、分厚い横長剝片を素材とする角錐状石器(38)や原礫面を大きく取り込ん
だ大形の縦長剝片を用いた彫器(26)がある。八反地区でのみ検出された石器として 31 のツィンケ
ン(石錐)がある。報告ではナイフ形石器の先端部としているが調整加工などを検討した結果ツィン
ケンと判断した。この種の石器は県内の遺跡では五島市茶園遺跡をはじめ数箇所の遺跡で確認されて
いる。
小形の石核(28)が 1 点ある。稜上から交互剝離しチョッピングトゥール様の形態としたもので、
小形の貝殻状剝片を剝出し、台形石器の素材を作り出すものと思われる。24 ~ 26 のような大形の縦
長剝片を生産する磯道型の石核は出土していない。
ほとんど石器の素材は漆黒色を呈する腰岳・牟田系の良質な黒曜石で占められるが 22 の台形石器
は風化面が青灰色になる淀姫系註 2 の黒曜石を使用している。
③ 原地区から出土した旧石器(第 4 図 1 ~ 28)
丘陵の中央部にあたる原地区は、標高 13 mあまり、最高点の祭儀場跡の南にあたる。ほとんどの
地点で旧石器包含層は削平されているが、2011 年に調査した 3 区でブロックが検出された(報告書
第 45 図)。原位置で旧石器を包含する土層は 5 層で明黄褐土である。この層は窪みにたまった土が後
世の削平を受けずに残ったものと思われる。6 層は地山層である。明黄褐色や灰色など地区により色
調が異なる。両層は、基盤となる礫層の風化土層である。
3 区の包含層から出土した石器を中心に説明する。ナイフ形石器は、分厚い横広剝片を素材とし、
切出形を呈する狸谷型(4)と柳葉形を呈する二側辺加工の小形で、薄手の石刃様縦長剝片を素材と
するもの(5 ~ 7)がある。台形石器は不明瞭である。右側辺と刃部を欠損しており、全体の形状は
復元できないもの(8)や石刃状の縦長剝片を素材とし、調整加工は右側辺のみで左は折断している
もの(9)がある。
10 は報告では鋸歯縁石器としたが、抉入掻器と改めたい。縦長の石刃様剝片を素材とし、左側辺
に 2 箇所の小規模な抉入加工を施して鋸歯状に作り出している。11 は大型の縦長剝片を素材とする
彫器である。左側辺に打点部から2条の樋状剝離を施しているが、打面は欠損している。大形の彫器
は出土例に乏しい。県内では佐世保市世知原町下開作遺跡に類例をみる(川道 2003)。
剝片には、黒曜石製の縦長剝片と安山岩製の不定形剝片がある。黒曜石の原産地は多様で針尾島古
里、淀姫、腰岳・牟田産が使用されている。石核は、牟田産の良質な黒曜石円礫を使用した石刃様の
縦長剝片を作出した磯道技法のもの(19 ~ 21)、円礫を横位に用い、剝片剝離面が交差する 2 面の作
業面を持つもの(22)のほか、23・26 のようなは求心的剝離を行った薄手の石核で、原の辻型台形
石器残核ともいうべきものもある。
24 は赤褐色を呈するチャートの大形礫を使用した敲石である。数ヶ所の貝殻状剝片を剝ぎとった
剝離痕がみられる。搬入品であろう。
3 区の包含層以外から出土した資料として、ナイフ形石器 3 点(1・2・28)、原の辻型台形石器 1 点(3)、
大形の縦長剝片 1 点(27)を図示した。
④ 大川地区から出土した旧石器(第 4 図 29 ~ 47、第 5 図 1 ~ 22)
遺跡の東部丘陵にあたり、原の辻遺跡で最初に旧石器の情報が提供された地区に当たる(安楽
1976)。その後多くの調査区が設定され発掘が実施されたが残念ながら包含層の確認には至っていな
−4−
第 3 図 不條地区・八反地区出土遺物 不條:1 ~ 17 八反:18 ~ 38
−5−
第 4 図 原地区・大川地区出土遺物 原:1 ~ 28 大川:29 ~ 47
−6−
第 5 図 大川地区・柏田地区・池田大原地区出土遺物 大川:1 ~ 22 柏田:23 ~ 28 池田大原:29 ~ 38
−7−
い。
29 の剝片尖頭器は安山岩製の大形縦長剝片を素材とし、大振りの急斜な細調整によって整形し打
瘤は除去されている。裏面は主要剝離面であり、表面には原礫面を残している。完形品として搬入さ
れたものであろう。
ナイフ形石器は 37 ~ 46 のような石刃状の縦長剝片を素材とする小形の柳葉形の二側縁加工のもの
が主体となる。30 は淀姫系黒曜石の横長の翼状剝片を使用した国府型ナイフ形石器である。底面を
有しており真正のものに近い。31 ~ 33 のような狸谷型に近いものや 35 のような今峠型といえるも
のもみられる。
台形石器は、第 5 図 1 ~ 8 のような原の辻型・枝去木型など原の辻遺跡で一般的にみられる形態の
ものを主体とするが、他地区との大きな違いは 9・10 のような小形の百花台型の存在である。この手
の台形石器は島原半島雲仙市百花台D遺跡Ⅳ層出土資料を基準資料とするナイフ形石器文化期最終末
の時期に編年されている。
大川地区からは多数の剝片が出土しているが 7 点を図示した。いずれも黒曜石製で石刃状の縦長剝
片が多い。石核は磯道型のものが主体である。
⑤ 柏田地区から出土した旧石器(第 5 図 23 ~ 28)
大川地区から北東に突き出た舌状の低丘陵の先端部に当たり、標高 8m。この地区では 2012 年の
調査の際、原位置を遊離した遺物が出土している。旧石器の包含層は認められず、客土とされる土層
から出土しており、本来の地点からは大きく離れていることが想定されるが便宜上柏田地区として報
告する。
総数で 21 点が出土している。定形石器は、台形石器が 1 点、石核 2 点のほかは剝片および砕片である。
台形石器はやや斜刃になり、両側縁には急斜な細調整が施される。石核には、磯道型(28)と原の辻
遺跡では例を見ない淀姫系黒曜石を用いたもの(27)がある。
⑥ 池田大原地区から出土した旧石器(第 5 図 29 ~ 38)
丘陵の南西部に位置し,苣ノ木地区から続くやや高い地域である。
遺物はすべて採集品である。小形の横長薄片を素材にした薄手の角錐状石器(31)や狸谷型ナイフ
形石器(29・30)がみられる。台形石器には、原の辻型(35・36)の他に背面に自然面を残すもの(33・
34)もある。石核は、牟田産の黒曜石円礫を用いた磯道型のもの(38)と台形石器の素材となる寸詰
まり剝片獲得のための石核(37)がある。
池田大原地区は後述する苣ノ木地区に近い位置関係から同じような石器が検出されている。
⑦ 苣ノ木地区から出土した旧石器(第 7 図 1 ~ 48)
苣ノ木地区は、全体的に旧石器を包含する土層の形成が脆弱な原の辻遺跡にあって、非常に条件の
いい地点である。丘陵の南西部にあたり、標高 14m 前後である。1977 年の調査での第 1・4 試掘壙
および 1999 年の 1・2 区から包含層が確認されている。
遺物分布図が報告されている 1977 年第 1 試掘壙の遺物(第 7 図1~ 21)から説明する。第 1 試掘
壙は 4 × 4m で調査区の北側に落し穴状の遺構が半分程度かかっている。遺物分布は散漫で、調査区
内でブロックが収束するとは思えない。出土した遺物は、剝片尖頭器 1 点、ナイフ形石器 1 点、台形
石器 3 点、掻器 2 点、石核 8 点、剝片 17 点、砕片 42 点の総数 74 点からなる石器群であるがその内
−8−
21 点を図示した。1は剝片尖頭器。黒曜石製で粗い調整によって基部を作り出し、先端部にも細調
整を施している。打瘤は除去されない。2 は安山岩製のナイフ形石器。下半部を欠損しているが横長
剝片を素材とする国府型のナイフ形石器である。3 ~ 5 は台形石器。刃部に肩をもつ左右非対称の原
の辻型台形石器で、これらの資料が原の辻型台形石器の標式資料である(萩原 1983)。6 は横長の不
定形剝片を素材とする彫器である。先端部に2条の彫刀面をもつ。7・8 は掻器である。7 は両側縁に
刃部加工をもつ。8 は分厚い不定形剝片を素材とし、表裏両面に抉入状の加工を施した抉入掻器であ
る。12 ~ 19 は剝片。不定形剝片が多く、ナイフ形石器の素材となるような石刃状の縦長剝片はみら
れない。20・21 は石核。いずれも台形石器等の素材を生産したものと思われる。
このように第1試掘壙から出土した石器群は、不十
分ながらも狩猟具のほかに解体具等も装備しており拠
点的な位置づけが可能と思われる。
1999 年の 1・2 区は、1974 年調査で第 4 試掘壙が設
定された同じ水田である。包含層は 3 層の褐色粘質土
で、一部を後世の土地造成によって破壊されている。
ドットマップが報告されておらずブロック等の有無が
検証できないが写真で見る限りまとまって出土してい
るようである。図示した資料から 1・2 区包含層から
出土したのは 10 点(33・39 ~ 43・45 ~ 48)である。
ここでは磯道型石核(42)を用いた縦長剝片(39・40)
の生産が行われており、同時に他地区には認められな
い安山岩製の縦長剝片(43・45 ~ 47)が出土している。
安山岩製の石核が認められないことから遺跡内で生産
されたかほかから搬入されたかは不明であるが、剝片
尖頭器の素材となるものであり、そのあり方は今後の
検討課題である。
第 6 図 苣ノ木地区第 1 試掘壙の遺物分布
⑧ 原の久保地区から出土した旧石器(第 8 図1~ 17)
丘陵南部の広いエリアを占める原の久保地区は標高 14 m前後のなだらかな地形である。旧石器の
出土量は多いがすべて表採か後世の土層からの出土で原位置を保つものはない。
角錐状石器(1・2)は、横長の分厚い剝片を素材とし、器表面には原礫面を残し、主要剝離面から
4 回の大きな剝離で整形する。1 は基部裏面にも平坦調整を施す。2 は打瘤を残す。ナイフ形石器は、
柳葉形の二側縁加工のもの(5・6)、横剝ぎのもの(4・7)がそれぞれ 2 点ある。5 には基部裏面加
工が施されている。横剝ぎのナイフ形石器の大きさは、小形(4)と中形(7)である。台形石器は原
の辻型と思われるものが 1 点出土している。剝片類の中には石刃状の縦長剝片が多いが、それを生産
する石核はみられない。石核は、台形石器素材のもの(16)、石核の周囲を面取りする原の辻型台形
石器の素材を生産するもの(17)がある。
⑨ 鶴田地区から出土した旧石器(第 8 図 18 ~ 35)
鶴田地区は原の辻丘陵とは浅い谷を挟んだ西側に位置し、原の辻丘陵と並行するように北側に伸び
−9−
第 7 図 苣ノ木地区出土遺物
− 10 −
第 8 図 原の久保地区・鶴田遺跡出土遺物 原の久保:1 ~ 17 鶴田:18 ~ 35 − 11 −
る低丘陵である。池田大原地区とは直線
で 400m 離れている。標高は 7m で、原
の辻丘陵で包含層の確認される苣ノ木地
区よりも低い。圃場整備の一環で調査さ
れ、鶴田遺跡として報告されている。原
の辻遺跡からは若干離れているが、石器
ブロックが明らかになっており、考察の
対象とする。石器を包含する土層は 3 層
の淡黄褐色土で、原地区・苣ノ木地区の
包含層と若干色調は異なるがほぼ同一と
見られる。
第 9 図 鶴田遺跡遺物分布
18 ~ 23 はナイフ形石器である。ドッ
トマップに記した E・F 区から出土したのは 18・22 である。19 は D 区からの出土である。ほかは表
土もしくは耕作土からの採集品である。18・19 は大形の薄手の縦長剝片を素材とする。18 は一側縁
に細調整加工を施す柳葉形を呈する。19 はやや幅広な二側縁加工で基部に打瘤を残す。小形の一群は、
柳葉形・切出し状になるものがある。未報告の中に1点半裁された台形石器がある。
24 ~ 31 は剝片である。定形的な剝片には大形厚手の石刃状の縦長剝片(24・25・28)、大形薄手
の縦長剝片(27)、小形の石刃状の縦長剝片(29・30)の三者がある。遺跡から出土したナイフ形石
器の素材と用いられているのは大形薄手と小形の石刃に限定されている。
石核は、牟田産の拳大の黒曜石円礫を用いた磯道型を主体とする(32・33)が、34 のような打面
転移を行う方柱形を呈するものがあり注目される。
遺物分布を見るとブロックの中央部に径 1.5m ほどの剝片剝離作業に特化したエリアがあり、磯道
型石核 3 点、方柱形石核 1 点と多数の石刃状の縦長剝片が集中する。その一方でナイフ形石器などの
定形石器は少量で、剝片製作エリアからは出土せず、その周辺の離れたエリアから出土する傾向にあ
る。また剝片剝離作業に関して、原礫面をもった剝片が多いことから、円礫を呈する牟田産の黒曜石
は、原石のまま遺跡内に搬入され、石核打面形成から縦長剝片の生産までを集中的に行い、石器への
整形作業は他の地域で行ったものと考えられる。付記すると原の辻型台形石器の素材を製作する石核
も同一ブロックから出土している。
未報告の出土品には松浦市湯の谷池産の断口面がくすんだ赤色を呈する安山岩がある。石核 1 点、
剝片が 2 点あるが、製品は出土していない。類例を見ない資料である。
Ⅳ.縄文時代草創期の原の辻遺跡
原の辻遺跡から出土した細石刃核は、河川跡や後世の遺構・包含層から原位置を遊離した状態で出
土したものである。そのため細石刃石器群を構成する組成は不明瞭なためここで取り上げる資料は細
石刃核および細石刃に限定する。細石刃核には福井型・石ヶ元型・「野岳」型という草創期に特徴的
な 3 型式が出土しており、後期旧石器段階のものは認められず,全点が縄文時代草創期に帰属するも
− 12 −
のと思われる。低地部と丘陵部に分けてその概況を説明する。
① 低地部出土の細石刃石器群(第 11 図 1 ~ 15・18)
1 は芦辺高原地区のⅢ区沼状の落ち込みから出土した。側縁部の鱗状調整は簡素であるが打面は丁
寧な横打調整が施されている。泉福寺洞穴等・福井洞穴という西海技法の中心地から距離を隔てた地
域に出現する簡略化された西海技法による福井型細石刃核である。
不條地区からは未報告分を含めての 30 点近くの細石刃核が、河川跡や後世の遺構から出土した。
特定事業の調査で 20 点とまとまった量の細石刃核が出土しているが紙面の都合からか報告されてい
ない。本稿にはそのうちの代表的な 4 点(2 ~ 5)を図示した。細石刃核の形態には 3 型式の細石刃
核がみられる。2・3・8・9・13 の 5 点は福井型である。横打調整による打面形成が一般的であるが、
側面には主要剝離面や礫面を残すものがある。9 はブランクの形成直後に細石刃第一スポールを剝出
した段階で半裁されたものである。13 は細石刃核の打面再生剝片である。細石刃剝離作業面側から
の打撃による。4 ~ 7 および 10 は石ヶ元型である。打面調整のあり方は、細石刃剝離作業面側およ
び側方から単打面がある。いずれも縦長で禾縁をもたない。背縁は直線的なものと弧状になるものの
2 者があり、丁寧な鱗状の調整剝離が施される。11・12 はいわゆる「野岳」型である。牟田産の小
形の黒曜石円礫を分割したもの
を素材としており、11 は背面に
礫面を残し残余は細石刃の剝離
作業面となっている。12 は小形
の円礫を分割した素材の小口に
細石刃剝離作業面を設けたもの
で、原礫面を大きく保持してい
る。15 はほぼ完形の細石刃であ
る。丁寧な頭部調整がみられる
もので細身の形態から草創期段
階の所産であろう。
不條地区の細石刃核には顕著
な摩滅痕が認められず長距離を
運 搬 さ れ た と は 考 え ら れ な い。
また量的にも保障されており近
傍に原郷土が存在したと想定さ
れる。
18 は 不 條 地 区 か ら 南 へ 200m
ほど離れた八反地区から出土し
た細石刃核である。「野岳」型で、
不條地区の 11 に類似した資料で
ある。
第 10 図 細石器関連遺物出土地区
− 13 −
第 11 図 原の辻遺跡から出土した細石器関連遺物
− 14 −
② 丘陵部出土の細石刃石器群(第 11 図 16・17、19 ~ 25)
16・17 は高元地区出土。16 は石ヶ元型である。下端部を欠損する。打面は細調整によって平坦に
仕上げている。17 は円礫を輪切りにした素材を使用するため背縁ではなく面となり、瀬面の下半か
ら底面にかけて原礫が残る。主要剝離面の一部を保持する。形態的には泉福寺洞穴 11 層出土資料に
類似する。
19・20 は丘陵中央部の原地区から出土した。19 は背縁調整は施されていないが全体の形状を楔形
に整え、横打調整によって打面を形成している。20 は打面再生剝片である。21 は原の久保地区から
の出土資料。典型的な福井型である。打面は長軸方向のスポールを剝出してつくりだし、下縁から背
面にかけて丁寧な鱗状の調整がみられる。
22 ~ 25 は大川地区出土資料である。22 は原の辻遺跡で最初に発見された資料である。この資料は
特異である。図示していないがもともとは平坦な打面があり、それを横打調整によって斜めに断ち切っ
ている。平坦な打面には擦痕がみられる。打面に擦痕をもつ資料は、平戸市中の原遺跡1、長崎市重
篭遺跡2、唐津市竹木場前田遺跡1、福岡市有田遺跡 178 地点1の計5点が知られており、中の原例
を除いていずれも横長で船野型とされている。この資料は、縦長の楔形であり、側面調整は基本的に
は背縁からなされるが打面の部分は打面側から施される。打面形成に擦痕を施しかつ横打調整がみら
れるなど船野の要素と西海技法の折衷した姿をみることができる。
Ⅴ.原の辻遺跡出土のナイフ形石器群の位置づけ
西北九州は、腰岳・牟田・淀姫といった黒曜石原産地を行動領域内に持った日本でも有数の遺跡密
集地帯である。日本旧石器学会の調べによればナイフ形石器・台形石器を出土する遺跡は、福岡県
330、佐賀県 152、長崎県 293 がカウントされている。しかし火山灰に恵まれない西北九州では、島
原半島を除いて旧石器が層位的に出土することが極めて少ない。原の辻遺跡も例外ではない。原の辻
遺跡とその周辺の丘陵で旧石器包含層が確認された地点はわずか3箇所に過ぎない。
この地域の旧石器編年の大綱は萩原博文によって作成された(萩原 1995)。それによればナイフ形
石器文化(後期旧石器時代)を、早期・前期・中期・後期・晩期の 5 期に大別し、それぞれを 3 ~ 4
の段階に細分している。これに従って原
の辻遺跡の編年を構築する。
① 原の辻遺跡群の編年
鶴田遺跡は、黒曜石円礫を用いた磯道
型石核・方柱型石核とそれから剝出され
た石刃状の縦長剝片からなる石器集中部
とその周囲から出土した大小の二側縁加
工のナイフ形石器からなる。佐世保市江
迎町根引池遺跡とよく似た組成で、AT は
確認されていないが石器群の様相から萩
原編年の中期段階1における。とすれば
第 12 図 西北九州の主要遺跡(旧石器時代)
− 15 −
AT 直前の時期が想定される。
旧石器時代編年の時間軸として用いられる AT(姶良丹沢火山灰 約 28,000 年前)が原の辻遺跡で
確認されているのは原 3 区である。包含層である 5 層の火山ガラス分析の結果下位にその濃集部があ
り、AT の降灰層準と考えられる。原 3 区石器群は、小形のナイフ形石器や切出状のナイフ形石器、
原の辻型台形石器に伴う石核、磯道技法による縦長剝片を剝取する石核、抉入部をもつ鋸歯縁石器、
大形彫器からなる。遺物のほとんどは 5 層の中位から下位にかけて出土しており、当該石器群が AT
降灰後の所産とすることができよう。このことは石器群の組成とも極めて整合的である。萩原編年中
期段階 2 にあたり、平戸市牟田ノ原遺跡Ⅱで小形ナイフ形石器の一群が出土しており、本石器群と近
接した時期が考えられる。
苣ノ木地区第 1 試掘壙の石器群は、小形の剝片尖頭器、横剝ぎのナイフ形石器、原の辻型台形石器
からなる。平戸市田助遺跡、同入口遺跡や諫早市西輪久道下層、百花台東遺跡などと同時期と考えら
れ、中期段階 4 と評価される。
包含層が確認された地点の編年は、おおむね鶴田遺跡→原地区 3 区→苣ノ木第 1 試掘壙という変遷
が考えられる。
原位置からの出土ではない地区の状況をティピカルな石器を抽出して概観する。
八反地区の基部裏面加工のナイフ形石器の一群は後期段階 2 にあたる。原地区の 3 区以外の資料は
原の辻型台形石器を指標として中期段階 4 に当てることができる。大川地区には複数の時期が輻輳し
ている。国府型や狸谷型ナイフ形石器および原の辻型台形石器などの一群は中期段階 4 に、枝去木型
台形石器の一群は後期段階 2 に当てられよう。また百花台型の小形の台形石器も見られることからナ
イフ形石器文化の最終末の時期も存在した可能性がある。池田大原地区の石器群は、狸谷型ナイフ形
石器と原の辻型台形石器に代表され中期段階 4 に当たる。原の久保地区からは萩原のいう西北九州型
角錐状石器(第 8 図 1・2)の存在から中期段階 4 に当てられる。
このように原の辻遺跡では、AT の前後に最初の足跡がみられ、その後晩期まで連綿と継続したも
のと思われる。萩原は、石器素材・定形石器を大量生産する大規模遺跡を拠点遺跡と捉え、湿地周辺
に立地するのが西北九州の一般的な姿と評価する。この条件は原の辻遺跡にも該当する。原の辻遺跡
では広い湿地が広域に広がり、それに舌状に伸びる低平な丘陵が展開しており、回遊する旧石器時代
人が地点を選択しながら狩猟活動をしていた姿が描かれる。
Ⅵ.原の辻遺跡出土の細石刃石器群の位置づけ
原の辻遺跡から出土した細石刃核には旧石器段階の野岳型が不在である。実見する限り全てを縄文
時代草創期に当てることができる。原位置からの出土ではないが福井型と石ヶ元型細石刃核が同時に
存在すると考えられる。両者の編年的位置については詳述したことがある(川道 2012)。それ以後橘
昌信によって石ヶ元型の新たな編年観が示された(橘 2012ab)。橘は石ヶ元型が朝鮮半島から 18,000
年前に伝播したという。西北九州の地で石ヶ元型を旧石器段階におく根拠の一つが土器の不在である。
細石器と土器の共伴する開地遺跡は、五島市茶園遺跡、佐世保市宇久町城ヶ岳平古遺跡、雲仙市伊古
遺跡、同小ヶ倉 A 遺跡などで知られているがいずれの遺跡でも数個体に過ぎない。むしろ土器を持
− 16 −
たず、細石刃核も 1 ないし 2 点程度といっ
た小規模な遺跡がほとんどである。確か
に石ヶ元型が集中して出土する唐津市上
場台地の遺跡群からは土器の出土はみら
れない。しかしその出土状況を仔細に検
討すると、石ヶ元下道遺跡ではナイフ形
石器の包含層であるⅤ層からの細石器は
みられず、上層のⅣ Low 層をその包含層
と想定する。福井型と石ヶ元型が共伴す
る伊万里市大光寺遺跡の遺物の垂直分布
第 13 図 西北九州の主要遺跡(縄文時代草創期)
の分析では、小形のナイフ形石器と百花
台型台形石器が下位に、細石器が上位になる傾向が確認され、細石器と石鏃が重なるという。こうし
たあり方はナイフ形石器群と石ヶ元型とが時期差をもつことの証明であろう。
縄文時代草創期の遺跡立地について萩原は長崎県北部の洞穴地帯では、泉福寺洞穴・福井洞穴のよ
うな中核的遺跡が形成され、その周辺には細石刃核を 1 ~数点保持する小規模な遺跡が営まれるとい
い、洞穴の存在しない地域では旧石器時代と同じような立地という。原の辻遺跡の場合、旧石器段階
と比べると丘陵部での出土が激減する傾向が認められる。その一方で低地部での出土量は丘陵部の 5
倍弱にのぼり、この時期には標高の低い地点への進出が進んだことが想定される。
Ⅶ.まとめ
以上原の辻遺跡の旧石器時代~縄文時代草創期について概略説明してきたが、遺跡が弥生時代の大
遺跡という制約上旧石器は等閑視されるきらいは否めない。事実未報告の資料も数多くあることから
今後も再整理を進めて行きたいと思っている。また石材環境など素材も用意したが紙幅の関係で省略
した。稿を改めて論じたい。以下本論をまとめる。
① 原の辻遺跡で確認されているのは AT 前後のナイフ形石器文化中期以降の石器群である。
② 旧石器包含層の残っている地点が少なく、層位的に出土した例は皆無である。
③ 湿地帯に突き出た低丘陵に時期的に地点を違えて立地する拠点遺跡と考えられる。
④ 縄文時代草創期においては遺物が原位置から出土する例がない。
⑤ 細石刃核では福井型と石ヶ元型が共伴する。
⑥ 縄文時代草創期段階には丘陵部から低地部へと遺跡立地が変化する。
本稿を草するに当たって、壱岐市文化財課、安楽勉氏、副島和明氏から貴重なご教示を得た。記し
て謝意を表します。
− 17 −
註
1 ‌腰岳・牟田系とは基本的に風化した断口面が漆黒色の良質の黒曜石をさす。腰岳と牟田直線距離で約 50km 離れるが科学
分析では両者を区分できないことから両者を併記する。腰岳系という場合もある。両者は原礫面が残っている場合はその
違いは明瞭で、角礫状を呈するものを腰岳、円礫を呈するものを牟田に比定できる。
2 ‌淀姫系とは佐世保市針尾島の牛ノ岳を給源とする黒曜石で、新鮮な壇口面は漆黒色であるが風化すると青灰色になる特徴
を持つ。牛ノ岳を給源とするが至る所で入手できることから、牛ノ岳産・土器田産・淀姫産などと呼ばれてきた経緯があ
る。近年では米軍基地内でも発見されている。学会への報告の先取性から淀姫という名称を使用する。
引用・参考文献
安楽勉 1976「壱岐島における旧石器」『原の辻遺跡』長崎県文化財調査報告書第 26 集、長崎県教育委員会。
川道寛 2003「巨大な彫・削器が出土した下開作遺跡」『九州旧石器』第 7 号、九州旧石器文化研究会。
川道寛 2005「日本列島最西端の細石器文化」『地域と文化の考古学』Ⅰ、明治大学考古学研究室。
川道寛 2012「西北九州における楔形細石刃核の基礎的研究」『西海考古』第 8 号、西海考古同人会。
下川達彌 1970「資料紹介 長崎県内壱岐島発見の石器」『長崎県立美術博物館館報昭和 44 年度』長崎県立美術博物館。
杉原敏之 2007「九州縄文文化成立期の諸相」『考古学』Ⅴ。
橘昌信 2012a「九州島の「細石器文化」」『西海考古』第 8 号、西海考古同人会。
橘昌信 2012b「西北九州の楔形細石刃核の位置づけ」『旧石器考古学』76、旧石器文化談話会。
萩原博文 1983「原の辻型台形石器について」『人間・遺跡・遺物 わが考古論集』発掘者談話会。
萩原博文 1995「第2章 平戸の旧石器時代」『平戸市史 自然・考古編』長崎県平戸市。
萩原博文 2001「縄文草創期の細石刃石器群」『日本考古学』第 12 号、日本考古学協会。
福田一志 2005「旧石器時代の遺物」『原の辻遺跡調査事務所調査報告書』第 30 集、長崎県教育委員会。
なお報告書は紙面の関係で割愛した。
− 18 −
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
縄文時代の原の辻遺跡
古澤 義久・田中 聡一
Ⅰ.原の辻遺跡の縄文時代遺物の研究
原の辻遺跡は壱岐市芦辺町・石田町にまたがり所在する。深江田原とよばれる平野に広がる面積約
100ha の広大な弥生時代の環濠集落遺跡で、標高 9 ~ 18m の低い玄武岩台地を中心に、周囲の標高 5
~ 7m の低地部にも遺跡が分布する。
弥生時代の環濠集落として著名な原の辻遺跡では、旧石器時代の遺物も多く出土しており、出土地
区間の時期的変遷なども追及されている(福田 2005b, 川道 2011)。また、黒曜石製の細石刃や細石刃
核が川原畑地区(宮﨑編 1998)、不條地区(宮﨑編 1998, 杉原編 1999, 安楽編 2000, 杉原編 2001, 寺田
編 2006)、八反地区(安楽編 2002, 福田・小玉編 2004, 林編 2005)、高元地区(中尾編 2004)、原地区
(安楽編 2000)、芦辺高原地区(山下・川口編 1997)、石田大原地区(河合編 2004)、大川地区(安楽
1976, 副島 1977, 宮﨑編 1999)、原ノ久保A地区(宮﨑編 1999)で 20 点以上出土している(本号川道
論文)。西海技法によるものが大部分で縄文時代草創期の資料とみられる。これまで弥生時代以降の
層から細石刃・細石刃核が出土していることが確認されていたが、2013 年度の川原畑地区の調査では、
弥生時代以前の河川堆積層から細石刃が 1 点、中世層から細石刃核が 1 点出土した(古澤編 2014)。
一方、早期以降の縄文時代の遺物が原の辻遺跡から出土しているのではないかということはかなり
早い段階から指摘されている。1939 年に原の辻遺跡附近での耕地整理の際発見された資料とともに、
それまで採集されていた遺物も含め、後年、山口麻太郎が長崎県立図書館に寄贈し、1965 年に長崎
図 1 壱岐島縄文時代遺跡
− 19 −
図 2 原の辻遺跡またはカラカミ遺跡出土石鏃
県立美術博物館に移管された遺物の中に、局部磨製石鏃と剝片鏃があることを下川達彌が報告してい
る(下川 1970)(図 2)。これらの石鏃は鴇田忠正の記憶によると原の辻遺跡かカラカミ遺跡で表面採
集されたものであるという。原の辻遺跡で出土したものであるとすれば、これらの資料が研究史上最
も早く認識された原の辻遺跡の縄文時代資料ということができる。
しかし、早期以降の縄文時代の原の辻遺跡の様相についてこれまでほとんど検討されたことはな
かった。2004 年度までの原の辻遺跡の調査を総括した『原の辻遺跡総集編Ⅰ』でも「縄文時代の遺
物では、打製石鏃や土器片が出土して人的活動の一端を知りえるが、詳細は不明である。」と述べら
れる(杉原 2005)に留まっている。
原の辻遺跡における縄文時代の様相を明らかにすることは次の 2 点において重要な意味を持つ。1
点目は弥生時代に大規模集落が営まれる以前に原の辻遺跡の土地がどのように利用され、弥生時代に
どのように繋がっていったのかという点である。2 点目は従来、壱岐島の縄文時代早期以降の遺跡は
海岸部に多く立地し、調査事例もほとんどが海岸部に偏っており、内陸部の様相が不分明であるとい
う指摘があり(横山 1990)、幡鉾川河口より約 1.5km 遡った地点に位置する原の辻遺跡はこの疑問に
応えることができる可能性があるという点である。
そのような問題意識のもと筆者らは原の辻遺跡の縄文時代について注目していたが、原の辻遺跡出
土遺物の再整理を行う過程で数点の縄文時代遺物を確認することができた。本稿では、これまで未報
告であった資料を紹介するとともに、既に報告された遺物の中で縄文時代の所産である可能性が高い
遺物も併せて集成し、原の辻遺跡の縄文時代の様相について整理したい。
Ⅱ.原の辻遺跡出土縄文時代遺物
1.土器(図 3, 表 1, 写真 1)
全て未報告資料である。1 は 1995 年度調査不條地区 D1 区の落ち込みⅢ層で出土した。外面に凹線
文が施文される。施文具は幅 4mm 程度の柾目板(田中 1979)であり、痕跡が明瞭に残る。外面の施
文部以外はナデ調整である。内面は柾目板調整後ナデ調整が施されている。胎土に滑石を多量に含む。
坂の下式である。2 は 1995 年度調査川原畑地区 B8 区で出土した。外面は剝離が甚だしいが、凹線文
の痕跡が残る。内面はナデ調整である。胎土に滑石を多量に含む。坂の下式の可能性が高い阿高式系
である。3 は 1995 年度調査川原畑地区 B8 区で出土した。底部片で復元直径は 14.5cm である。内外
面ともナデ調整で、底部は鯨骨の痕跡が残る。胎土に滑石を多量に含む。坂の下式の可能性が高い阿
高式系である。4 は 2001 年調査八反地区の弥生時代後期から古墳時代初頭の遺構である SD4 のⅠ層
− 20 −
図 3 原の辻遺跡出土縄文土器(含参考資料)
表 1 原の辻遺跡出土縄文土器(含参考資料)観察表
番号
地区
出土位置
型式
色調(外面)
器種 部位
色
Hue
5YR3/3
1 1995年度不條
D1区落ち込みⅢ層 坂の下式
深鉢
胴部
暗赤褐
2 1995年度川原畑
B8区
坂の下式(阿高式系)
深鉢
胴部
3 1995年度川原畑
B8区
坂の下式(阿高式系)
深鉢
阿高式系または楽浪系 深鉢
4 2001年度八反地区 SD4 Ⅰ層
色調(内面)
色
Hue
胎土
調整(外面) 調整(内面)
黒褐
5YR3/1
にぶい赤褐 5YR5/4
黒褐,灰褐
10YR3/2,7.5YR5/2 滑石・長石・石英 剥離
ナデ
底部
にぶい赤褐 5YR5/4
黄灰
2.5YR4/1
滑石・長石・石英 ナデ・鯨底
ナデ
胴部
黒褐
滑石・長石・石英 ナデ
ナデ
2.5YR3/1 にぶい赤褐 5YR5/3
滑石・長石・石英 ナデ
柾目板→ナデ
中央区で出土した。内外面ともナデ調整である。胎土に滑石を多量に含むことから阿高式系の可能性
もあるが、楽浪系の滑石混和土器(註 1)の可能性もあり判別が困難である。参考資料としてここに掲
載する。これまで確認されている縄文土器は坂の下式など阿高式系の土器に限定されている。出土地
点はこれまでのところ西側低地部に多い。
壱岐島ではこれまで、坂の下式土器が松崎遺跡(田中 2003)、鎌崎海岸遺跡(横山・田中 1979)、
名切遺跡(安楽・藤田編 1985)で出土している。
2.石器
(1)石匙(図 4, 表 2, 写真 3,4)
1,2 は未報告資料である。1 は 1995 年度調査不條地区 D2 区で出土した。完形で長さ 3.145cm、幅
6.787cm、厚さ 0.764cm、重さ 12.12g である。安山岩製である。横剝ぎの剝片を利用し、周縁は表裏
とも丁寧に剝離し、刃部を形成している。2 は 1999 年度調査不條地区 B11 区 1 号溝 4b 層で出土した。
刃部先端部が欠損しており、長さ 4.094cm、残存幅 7.417cm、厚さ 0.641cm、重さ 18.21g である。安
山岩製である。横剝ぎの剝片を利用し、周縁は表裏とも丁寧に剝離し、刃部を形成している。
3 ~ 8 は既報告資料である。諸属性については表 2 のとおりである。石材は 1,2,4,5,7,8 は安山岩、6
は玄武岩であり、3 は黒曜石である。形態は横型の石匙が大部分であるが、8 は縦型に近い。既に菜
畑遺跡 14 ~ 13 層出土石匙分類においてつまみ部の幅が細くて加工の丁寧なものと、幅広いものの 2
種があることが指摘されている(中島・田島 1982)が、つまみ部の特徴を基に原の辻遺跡出土横型
石匙を分類すると次のとおりである。
− 21 −
図 4 原の辻遺跡出土石匙
− 22 −
表 2 原の辻遺跡出土石匙観察表
番号
1
2
3
4
5
6
7
8
調査年度 調査地区
1995
1999
2005
2002
2009
2002
1996
2000
不條
不條
不條
八反
八反
石田高原
原
大川
出土層位・遺構(年代)
石材
D2 区
安山岩
B11 区 1 号溝(古墳前期)4b 層 安山岩
FG 区Ⅲ層(古代~中世)
黒曜石
D31 Ⅳ落ち込み(古墳初頭)
安山岩
3b 区 1 層(古代~中世)
安山岩
16Ef ロ ・ Ⅳ落ち込み(弥生後期)玄武岩
G2 区 2 層
安山岩
8区
安山岩
(残存)長さ (残存)幅
3.145cm
4.094cm
3.406cm
4.600cm
3.963cm
3.649cm
3.058cm
6.386cm
6.787cm
(7.414cm)
4.447cm
8.611cm
6.786cm
(5.410cm)
(4.830cm)
(5.653cm)
最大厚
0.768cm
0.641cm
0.690cm
1.288cm
0.933cm
0.715cm
0.676cm
0.802cm
重さ
12.16g
18.21g
8.11g
41.00g
22.75g
17.81g
8.09g
22.77g
文献
本稿
本稿
寺田編 2006
中尾編 2003
川畑編 2011
中尾編 2003
宮﨑編 1999
安楽編 2001
1 類;‌つまみ部が細く収束するもの(1,2,4,6)。観察の結果、つまみ部先端が折れた形跡はないので、
元来このような形態であったとみられる。周縁を表裏とも丁寧に剝離し刃部を形成している。
2 類;‌つまみ部が幅広のもの(5,7)
。
3 類;‌つまみ部の基部に抉りが入り、キノコ状に膨らむもの(3)。
石匙は縄文時代全般に認められるものであるため(橘 1980)、詳細な時期を決定することはできな
い。西北九州の石匙の時期について考察した福田一志は石匙の出土にも時期的な濃淡があることを指
摘し、縄文時代後期に少なくなり、縄文時代早・前期に多いと述べている(福田 2002)。福田が例示
した長崎県内早・前期の石匙例には、つまみ部がキノコ状に膨らむものや、幅広でつまみ基部に抉り
の入るものが多いようである。周縁を表裏とも丁寧に剝離したものは少ないようである。一方、原の
辻遺跡で出土する石匙は 1 類にみられるようにつまみ部がキノコ状に膨らまず細く収束し、周縁は表
裏とも丁寧に剝離されたものが多く、福田が集成した長崎県内縄文時代早・前期の石匙の特徴とは
一致しないようである。しかし、1 類に類似した事例は西唐津式・曽畑式を主体とする唐津市菜畑遺
跡 14 層(中島・田島 1982; 図 308-061)や縄文時代早期末から前期の土器を主体とする唐津市赤松海
岸遺跡 C 区(明瀬 1989; 図 45-57)、縄文時代前期の土器を主体とする松浦市楼楷田遺跡(安楽・中田
1985; 図 23-175,176,177,179)などで確認され、また、2 類は楼楷田遺跡(安楽・中田編 1985; 図 23-180
~ 183)で確認されるため、原の辻遺跡の石匙は縄文時代早期~前期の可能性もある(註 2)。また、多
くの原の辻遺跡の石匙とは異なる形態の 8 は沖ノ島社務所前遺跡でも類例(原田・渡辺 1958; 図 1019, 橘 1980; 図 2-10)が出土しており、縄文時代前・中期の所産である可能性も考えられる。
壱岐島ではこれまで松崎遺跡、鎌崎海岸・名切遺跡で石匙が出土している。松崎遺跡では縦型 3 点、
横型 3 点、鎌崎海岸では横型 1 点、1977・1978 年採集名切遺跡では縦型 1 点、横型 1 点、1983 年調
査名切遺跡では横型 1 点が出土している。しかし、粗雑な加工の石匙が多く、原の辻遺跡 1 類のよう
な表裏とも周縁を丁寧に剝離して加工した石匙の類例は確認されておらず、1 類の出土は原の辻遺跡
の特徴であるということができる。また、松崎遺跡や名切遺跡で出土する土器量から比較すると、原
の辻遺跡での石匙の出現頻度は高いといえる。
(2)鎌崎型スクレイパー(図 5, 写真 2)
これまで原の辻遺跡では鎌崎型スクレイパーが 1 点確認されている。1 は 2002 年度調査八反地区
第 10 調査区 6 層から出土した(福田・小玉編 2004)。長さ 8.157cm、幅 6.324cm、厚さ 2.238cm、重
さ 10.360g である。上端部は欠損している。末広がりに整形し、一方に刃部を設ける。表面は原礫面
が残る。裏面はバルブの除去に終始し主要剝離面を残す。原礫面の観察から壱岐島に分布する玄武岩
質溶岩製であるとみられる。
− 23 −
鎌崎型スクレイパーは、①全体的に直角三
角形状に整形し、底辺に刃部を有する、②柄
部は細長く、一方、もしくは双方の側辺にや
や緩やかな刳り込みを有する、③緻密な玄武
岩を石材とし、二次加工はあまり丁寧とはい
えないが、刃部は鋭い、④刃部は緩やかな弧
状をなすものが多いが、直線刃もみられる
という諸特徴を持つ鎌崎海岸遺跡を標識遺
跡とするスクレイパーである(横山・田中
1979)。時期は縄文時代早期から晩期までみ
1 : 2002 八反
られるが、後期前葉から中葉に盛行するよう
図 5 原の辻遺跡出土鎌崎型スクレイパー
である。壱岐島では標識遺跡である鎌崎海岸
遺跡及び名切遺跡、松崎遺跡で出土が確認さ
れている。原の辻遺跡出土鎌崎型スクレイパーも壱岐島内縄文時代遺跡から出土したものと類似した
特徴を持つ。
(3)石鏃
原の辻遺跡ではこれまで 150 点以上の打製石鏃が出土している。大部分は黒曜石製であるが、一部
に安山岩製のものもみられる。このような打製石鏃は縄文時代のものである可能性もあるが、弥生時
代のものである可能性も捨てきれない。福田一志は鍬形鏃や剝片鏃の出土から原の辻遺跡出土打製石
鏃の中に縄文時代の石鏃があることは確実であるとしている。原の辻遺跡の打製石鏃は縄文時代早期
や後期の石鏃に近い緻密な加工を施したものが多く、技術的な側面からみると出土した全ての打製石
鏃は縄文的な様相を示しているという。しかし、出土した打製石鏃全てが縄文時代のものであるとす
ると弥生時代の原の辻遺跡には打製石鏃が存在しないこととなり、無理があるため、原の辻遺跡出土
の打製石鏃は縄文時代のものと、縄文時代の伝統的な石器製作技術を踏襲した弥生時代のものがある
のではないかという推定が行われている(福田 2005a)。
福田の指摘のとおり技術面からは原の辻遺跡で出土する打製石鏃を縄文時代のものであるか、弥生
時代のものであるか弁別することは困難である。しかし、高い確率で縄文時代の所産であると考えら
れる石鏃に剝片鏃と局部磨製石鏃を挙げることができる。本稿では剝片鏃と局部磨製石鏃について集
成した。
ⅰ.剥片鏃(図 6, 表 3, 写真 5,6)
1 ~ 7 は既報告資料であり、諸属性については表 3 のとおりである。石材は全て黒曜石である。1,2,4
~ 6 は縦長剝片を利用し、基部に抉りを設ける剝片鏃である。1,4,5 は打面転移がみられる。3 は不定
形の剝片を利用している。7 は横剝ぎの剝片を利用し、刃部を鋸歯状に調整している。
剝片鏃の時期については以前より縄文時代後期を中心とする時期であることが明らかにされてきた
(片岡 1970, 下川 1972)。縦長剝片を利用した剝片鏃は鈴桶型石刃技法との関係について指摘されてき
− 24 −
図 6 原の辻遺跡出土剥片鏃
表 3 原の辻遺跡出土剥片鏃観察表
番号 調査年度
1
2
3
4
5
6
7
2000
2002
2001
2007
2004
2004
1976
調査地区
不條
石田高原
石田大原
池田大原
原ノ久保 A
原ノ久保 B
大川
出土層位・遺構(年代)
石材
(残存)長さ (残存)幅
3 層(古代~中世)
黒曜石 2.886cm
1.777cm
16Ef ロ ・ Ⅳ落ち込み(弥生後期)黒曜石 1.798cm
1.941cm
黒曜石 3.706cm
2.672cm
10 層
黒曜石 2.083cm
1.728cm
E 区住居跡(古代)
黒曜石 (2.351cm) 1.469cm
V 字溝(弥生中期~後期)
黒曜石 (2.948cm) (2.142cm)
第 11 試掘坑Ⅱ層
黒曜石 3.337cm
1.875cm
最大厚
0.197cm
0.291cm
0.363cm
0.386cm
0.228cm
0.384cm
0.276cm
重さ
0.84g
0.73g
2.93g
0.86g
0.55g
1.56g
1.27g
文献
安楽編 2001
中尾編 2003
河合編 2002
林編 2009
林編 2006
松見編 2005
藤田編 1977
ており、吉留秀敏は福岡・早良平野で縄文時代後期中葉に鈴桶技法による縦長剝片及び剝片鏃が隆盛
し、後期後葉では縦長を基調としつつもやや不整な剝片が多くなり、典型的な剝片鏃も減少すると
指摘した(吉留 1993)。一方、橘昌信は鈴桶技法は縄文時代前期後半に出現し、中期に育まれ、後期
に至って生産、流通、消費という石器流通システムが確立され、西北九州一帯に展開したとする(橘
1998)。小畑弘己も鈴桶技法は縄文時代後期の技法であるとみている(小畑 2002a,b)。また、神川め
ぐみは確実に遺構または共伴土器形式が限定できる包含層出土資料に限定した資料を通して、鈴桶技
法関連遺跡は坂の下式~小池原上層式からみられ、鐘崎式・北久根山式に隆盛を迎え、西平式・太郎
迫式以降晩期まで減少しながらも存続するという状況を示した(神川 2008)。このような研究成果か
らは原の辻遺跡で出土した縦長剝片を利用した剝片鏃は縄文時代後期初頭から中葉を中心とする時期
のものであると考えられる。
縦長剝片を利用した剝片鏃はこれまで壱岐島では松崎遺跡、鎌崎海岸遺跡、名切遺跡、国柳遺跡(正
林・宮﨑編 1985)で出土している。
− 25 −
図 7 原の辻遺跡出土局部磨製石鏃
表 4 原の辻遺跡出土局部磨製石鏃観察表
番号 調査年度 調査地区
1
2
3
4
5
6
7
8
9
2000
2000
2000
2000
1977
2004
1993
1993
2003
不條
不條
八反
八反
苣ノ木
高元
石田高原
石田高原
石田大原
出土層位・遺構(年代)
石材 (残存)長さ (残存)幅
2 層(近世~近代)
黒曜石
9 号土坑(弥生中期)
黒曜石
SD 02 下層
黒曜石
SD 02 下層
黒曜石
第 1 試掘坑 4 層
黒曜石
D 区 2 層(弥生終末~古墳前期)
黒曜石
S8-13 区 2 号溝(弥生中期~古墳初頭)黒曜石
T10-2 区 1 号溝(弥生中期~古墳初頭)黒曜石
黒曜石
3.2cm
2.678cm
(3.117cm)
(3.077cm)
(2.209cm)
1.823cm
3.729cm
2.934cm
(1.625cm)
1.7cm
(1.493cm)
(1.398cm)
2.299cm
(1.673cm)
1.506cm
2.078cm
1.894cm
(0.869cm)
最大厚
0.5cm
0.383cm
0.460cm
0.290cm
0.318cm
0.256cm
0.502cm
0.295cm
0.332cm
重さ
1.20g
1.30g
1.49g
0.70g
0.52g
3.17g
1.07g
0.43g
文献
安楽編 2001
安楽編 2001
小石編 2001
小石編 2001
安楽・藤田編 1978
中尾編 2005
副島・山下編 1995
副島・山下編 1995
河合編 2004
ⅱ.局部磨製石鏃(図 7, 表 4, 写真 7,8)
1 ~ 9 は既報告資料であり、諸属性については表 4 のとおりである。石材は全て黒曜石である。1,2,5,7
~ 9 は中央部を研磨しており、6 は表面は全面を研磨しており、裏面は部分的な研磨に留まっている。
3,4 は報告後、渡邊康行の詳細な観察により先端部が研磨されていることが指摘されている。渡邊は
石鏃の形態は異なるものの小値賀町笛吹遺跡出土例(塚原 1997)に同様の先端部のみを研磨する事
例がみられることを指摘し、祭祀的な意味の研磨であると想定している(渡邊 2005)。
局部磨製石鏃の研磨部位について下川達彌は(1)全面磨製ともいえるような研磨が全面にいきと
どき直接にその工程が刃部を形成しているもの、(2)研磨がほぼ全面に行き渡りわずかに刃部周辺に
打痕を残すのみのもの、(3)中央部に研磨が走るが打製面の占める部分が多いもの、という 3 種に分
類している(下川 1973)。1,2,5,7 ~ 9 は下川の分類(3)に該当する。また 6 は下川分類(2)に該当
する可能性がある。
局部磨製石鏃の時期については一般に縄文時代早期のものと考えられている。縄文時代早期の局部
磨製石鏃について小畑弘己は縄文時代早期の古い段階に初現・発達し、撚糸文、刺突文、条痕文土器
の時期から押型文土器の時期にかけてみられることを指摘し(小畑 1983)、渡邊康行は押型文に先行
する時期であることを指摘した(渡邊 1997)。長崎県内の局部磨製石鏃を集成・分析した高原愛は全
− 26 −
面磨研に近いグループは円筒形条痕文土器に伴い、部分的に磨研されたグループは平栫式・塞ノ神式
に伴うという時期的変遷を明らかにした(高原 2001)。
一方、縄文時代早期以外でも局部磨製石鏃がみられるということも指摘されている。齋藤基生は縄
文時代晩期の局部磨製石鏃の事例を明らかにし(齋藤 1986,2002)、信藤祐仁は九州地方の縄文時代後
期~晩期にも局部磨製石鏃がみられることと述べた(信藤 1989)。渡邊康行は縄文時代後期~晩期の
局部磨製石鏃は粗雑なものが多く、単に胴部を研磨しただけで再調整加工を施す例はほとんどみられ
ないと述べている(渡邊 2005)。
縄文時代早期の局部磨製石鏃は下川分類(1)(2)が多い。一方、長崎県内でも縄文時代後期~晩
期の層から局部磨製石鏃が出土しているが、大多数の資料は下川分類(3)に分類され、打製石鏃の
最も厚みのある部分のみを磨研で薄くしている例が多く、渡邊の指摘のとおり粗雑なものが多い。原
の辻遺跡で出土した 1,2,5,7 ~ 9 は縄文時代後期~晩期の局部磨製石鏃と一致する特徴が多く、同時
期の所産である可能性が高い。原の辻遺跡またはカラカミ遺跡で採集されたという剝片鏃で部分的
な研磨がみられる資料(図 2-2,3)は、剝片鏃という縄文時代後期に特徴的な石鏃に部分的な研磨が
及んでいるという点で、下川分類(3)が縄文時代後期に位置づけられることを裏付ける。ただし、
原の辻遺跡出土 7,8 について福田一志は弥生時代の所産である可能性があるとも述べている(福田
2005a)。特に 7 は形態や寸法が他の石鏃と異なり、弥生時代の所産である可能性も考えておく必要が
ある。一方、6 は他の原の辻遺跡出土局部磨製石鏃と比べ寸法が小さく、薄い点、表面にほぼ全面の
研磨がみられ下川分類(2)に近いことから縄文時代早期の可能性があるが、裏面の研磨は全面研磨
を志向しつつも結果的に全面研磨に及んでいない点から縄文時代早期の所産であると特定するまでに
は至らない。
局部磨製石鏃はこれまで壱岐島では名切遺跡採集資料(横山・田中 1979)に 1 点確認されている。
ⅲ.その他の石鏃
剝片鏃や局部磨製石鏃以外にも打製石鏃が多くみられる。しばしばみられる鋸歯縁の石鏃や鍬形鏃
は縄文時代のものである可能性が高い。
(4)その他の石器
このほか楔形石器(ピエス・エスキーユ)が 1999 年度調査不條地区 2a 層(安楽勉編 2000)で出
土している。
以上で扱った石器以外で縄文時代の石器である可能性があるものとしてはスクレイパー類が挙げら
れる。石匙や鎌崎型スクレイパーの出土から縄文時代のスクレイパー類の出土は十分に想定されると
ころであるが、他の時代のスクレイパーとの判別が難しい。
原の辻遺跡で出土した磨石、敲石、凹石類や石皿の中にも縄文時代のものが含まれる可能性は十分
にあるが、これもまた弥生時代のものと弁別することは困難である。
− 27 −
Ⅲ.縄文時代の原の辻遺跡
以上で原の辻遺跡で出土した縄文時代遺物を概観した。これらの遺物の中で時期が特定できるもの
は少ないが、土器は縄文時代後期初頭、剝片鏃は縄文時代後期初頭~中葉、局部磨製石鏃も縄文時代
後期~晩期が主体をなすとみられ、鎌崎型スクレイパーの隆盛期を勘案すると、原の辻遺跡では縄文
時代後期初頭・前葉を中心とする時期に一つの盛期がある模様である。
この時期の壱岐島では松崎遺跡、鎌崎海岸遺跡・名切遺跡、馬立海岸遺跡(古澤 2014 予定)、中尾
遺跡(河合 1998)、国柳遺跡などがみられ、壱岐島全体で遺跡数が増加する時期であるとみることが
できる。壱岐島に限らずこの時期の西北九州全体で遺跡数が増加していることは既に福田一志が指摘
している。福田は坂の下式期に多くの集落が存在したのではなく、本拠地となる集落は数少なく、本
拠地の周りに小さなワークサイトが形成されたことが遺跡数に反映していると分析している(福田
1999)。原の辻遺跡の事例もこうした壱岐島を含む西北九州全体で縄文時代後期初頭・前葉に増加し
た遺跡の一つであると位置づけられよう。ただし、出土遺物の多くは石器であり、詳細時期を限定す
ることができず、時期を特定できる石器は剝片鏃など縄文時代後期前半に資料であるといった資料的
な偏差も勘案する必要があり、縄文時代後期前葉以外の時期にも原の辻遺跡が利用された可能性は残
されている。特に石匙は福田の指摘のとおり壱岐島周辺の縄文時代後期の遺跡からの出土例は多くな
いことは、後期以外の縄文時代における土地利用を示す可能性がある。
そして、原の辻遺跡で出土する縄文時代遺物の中で、土器量に比して石器が卓越していることも特
徴として挙げることができる。原の辻遺跡では壱岐島の縄文時代遺跡で最も石匙が多く出土している
という状況であるが、広大な面積の調査が実施されていることも要因の一つである一方、石匙が出土
している松崎遺跡や鎌崎海岸遺跡・名切遺跡と比較しても、土器量が圧倒的に少ないことから、石器
の量が多いというのはある程度実態を反映しているものと把握される。
また、本号川道論文でも触れられるとおり、原の辻遺跡では縄文時代草創期の資料はある程度認め
られるのに対し、早期以降の縄文時代の遺物はその存続期間と比して相対的に少ない遺物量であるこ
とも特徴である(註 3)。
狩猟に伴う石器が卓越する点や、縄文時代草創期と比較しても遺物自体の出土量が少ないことから、
遺物をあまり残さない種類の土地の利用が考えられる点から、縄文時代後期前葉を中心とする時期の
原の辻遺跡周辺は居住集落ではなく、一時的な野営地や狩猟場であった可能性が高いものと判断され
る。ただし、植物資源の利用を示す遺物が弥生時代のものと弁別できないという事情も勘案すると狩
猟のみを行っていたと特定することは不可能である。
これまで確認されている縄文時代遺物の出土地点を示したのが図 8 であるが、丘陵周辺の低地部で
多く発見されていることがわかる。特に北西部低地で確認された遺物は河川による再堆積である可能
性がある。しかし、丘陵部でも少数ではあるが、縄文時代遺物が発見されている。丘陵部では弥生時
代の包含層の直下に旧石器時代の包含層がみられる事例があり、縄文時代の層は弥生時代以降の土地
改変により煙滅した可能性が指摘される。現状では特に集中して出土する地点を見出すことはできず、
比較的遺跡全面に散漫に分布していることは、集中的な居住地が存在しないことを示しているものと
考えられる。
− 28 −
図 8 原の辻遺跡縄文時代遺物分布図
− 29 −
以上の点から原の辻遺跡における弥生時代との関係を考えると、縄文時代の原の辻遺跡で弥生時代
に繋がる時期まで連綿と土地が利用されていたとは考えにくく、原の辻遺跡で現われる弥生時代前期
末以降の集落は、縄文時代の土地利用の伝統とは無関係に出現したものであると考える方が穏当であ
ろう。
また、これまで縄文時代における壱岐島内陸部遺跡の様相が不分明であったが、原の辻遺跡の様相
からは大規模な集落が営まれた可能性は低いといえる。壱岐島内陸部では縄文時代草創期の遺物であ
る細石刃関係遺物が原の辻遺跡、興触遺跡、壱岐嶋分寺跡、前神田遺跡、国柳遺跡、車出遺跡(安楽
1998)、原遺跡で出土している一方、縄文時代早期以降の遺跡は圧倒的に海岸部で多くみられる。特
に海岸部の松崎遺跡は貝塚の存在から、名切遺跡では貯蔵穴の存在からある程度の規模の集落が附近
で営まれたものと推測され、また両遺跡では出土土器型式も縄文時代早・前期から後期中葉または晩
期にまで及び長期間にわたって土地が利用されているとみられる。一方、これまでほとんど調査され
ていないが縄文時代早期以降の数少ない内陸部の遺跡である興触遺跡(川口・松永 1998)では土器
片 1 点と打製石器がわずかにみられ、国柳遺跡では剝片鏃が採集されているのみである。興触遺跡や
国柳遺跡の遺物のあり方は、原の辻遺跡と類似し、縄文時代早期以降の壱岐島内陸部では、専ら生産
活動に伴う土地の利用が行われたことが推測される。
以上で述べたように、これまでほとんど具体的に検討されることのなかった原の辻遺跡の縄文時代
遺物は、弥生時代の原の辻遺跡の成立を考える上でも重要であり、また、壱岐島内陸部の縄文時代の
様相を考察する上でも貴重な検討資料となるのである。
註
1)‌楽浪系滑石混和土器はこれまで、1998 年度調査不條地区 E 区 1 号土坑(杉原編 1999)、1999 年度調査不條地区 E17 区 1
号土器溜(古澤・林 2012)、2000 年度調査不條地区コヨウ 2 区 2 号環濠(古澤 2013)、1993 年度調査石田高原地区(武末
1995)、1998 年度調査原地区(安楽編 2000)で出土している。
2)‌ただし菜畑遺跡 14 層や赤松海岸遺跡 C 区、楼楷田遺跡では早期・前期以外の縄文土器も出土しており、時期を特定する
ことはできない。
3)‌弥生時代前期末以降の大規模な土地改変により縄文時代の層が煙滅している可能性とともに原の辻遺跡では弥生時代以前
の層まで発掘しないという調査の特性を考慮しても、旧石器時代や縄文時代草創期の資料よりも資料数自体が少ないこと
は特徴的である。
− 30 −
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古澤義久・林隆広 2012『原の辻遺跡』長崎県埋蔵文化財センター調査報告書第 6 集
古澤義久編 2014『原の辻遺跡』長崎県埋蔵文化財センター調査報告書第 12 集
松見裕二編 2005『原の辻遺跡』壱岐市文化財調査報告書第 3 集
宮﨑貴夫編 1998『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 9 集
宮﨑貴夫編 1999『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 11 集
山下英明・川口洋平編 1997『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 1 集
横山順 1990「壱岐の古代と考古学」『海と列島文化 3 玄界灘の島々』小学館
横山順・田中良之 1979「壱岐・鎌崎海岸遺跡について」『九州考古学』54
吉留秀敏 1993「縄文時代後期から晩期の石器技術総体の変化とその評価」『古文化談叢』30
渡邊康行 1997「考察」『広平遺跡』長崎県文化財調査報告書第 137 集
渡邊康行 2005「石鏃研磨考 - 西北九州縄文早期における毒矢の可能性 -」『西海考古』6
− 32 −
写真 1 原の辻遺跡出土縄文土器(含参考資料)
写真 2 原の辻遺跡出土鎌崎型スクレイパー
写真 3 原の辻遺跡出土石匙(表)
写真 4 原の辻遺跡出土石匙(裏)
写真 5 原の辻遺跡出土剥片鏃(表)
写真 6 原の辻遺跡出土剥片鏃(裏)
写真 7 原の辻遺跡出土局部磨製石鏃(表)
写真 8 原の辻遺跡出土局部磨製石鏃(裏)
− 33 −
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
壱岐市石田町堂崎遺跡採集資料
安楽 勉・川畑 敏則・古澤 義久
Ⅰ.壱岐市堂崎遺跡の立地・環境
堂崎遺跡は壱岐市石田町山崎触字堂崎に所在する。遺跡は内海湾に望む山崎漁港東方の標高 0 ~
10 mの砂浜丘陵に立地する(図 2, 写真 1)。
後藤正恒と吉野靹千代により 1861 年(文久元年)に著された壱岐名勝図誌巻之八「山崎浦」
(図 3)
及び「山崎浦 其二 乙宮社頭の景」(図 4)に描かれている「曲崎」が堂崎遺跡に該当する。現在では
一部埋立が行われているが、19 世紀には既に砂洲状に岬が伸びていたことが確認される。なお、壱
岐名勝図誌の「山崎浦」には「当浦ハ村の北に属して八幡と相対せり。寛文四年堂崎より家居を移し
て、山崎浦と号く。」という記述があり、現在の山崎浦に居住が集中する 1664 年(寛文 4 年)以前に
は、遺跡のある堂崎に居住地があったことがわかる。
周辺の縄文時代遺跡としては堂崎遺跡から南南東方約 1.7km に筒城浜遺跡、南方約 3km に大久保
遺跡、西方約 3km に原の辻遺跡、南西方約 3.5km に椿遺跡、南南西方約 3.7km に中尾遺跡、南西方
約 3.7km に白水遺跡がある(長崎県教育委員会 1994)(図 5)。
図 1 壱岐島縄文時代遺跡の分布
− 34 −
図 2 堂崎遺跡
図 3 壱岐名勝図誌「山崎浦」
図 4 壱岐名勝図誌「山崎浦 其二」
− 35 −
Ⅱ.堂崎遺跡の調査
堂崎遺跡は 1985 年 5 月 8 日、長崎県教育委員会による分布調査において安楽勉、久原巻二、赤木
修によって発見された。その後、幸いにして開発の手が及ぶことはなく、今日まで発掘調査は行われ
ていない。これまで、壱岐島の縄文時代遺跡は西海岸の潮間帯に多く集中しているという指摘があり
(横山 1990)、壱岐島東海岸の様相は不分明な点が多かった。このような点で東海岸に所在する堂崎
遺跡は大久保遺跡とともに注目される遺跡である。そこで、2009 年から川畑敏則と古澤義久は数次
に亘り堂崎遺跡の踏査を行っている。
Ⅲ.堂崎遺跡における遺物の出土状況
南北 20m、東西 35m の楕円形の水田灌漑用溜池の東側に南北 20m、東西 25m、標高 5.8m の砂丘
があり(写真 2)、この砂丘から遺物が多く採集されている(写真 3,4)。この砂丘は溜池を掘削した
際のあげ土(砂)であり、本来は、溜池部分に堆積していた砂層に属するものとみられる。溜池の岸
には貝層がみられ、貝塚の可能性もある。このほか砂丘の東側の畑からも安山岩や黒曜石片が採集さ
れている。
Ⅳ.堂崎遺跡採集遺物
本稿では 1985 年分布調査やその後の踏査により採集された遺物を中心に紹介する。
1.土器・磁器
(1)縄文時代(図 5, 写真 5,6)
1 は「く」の字に屈曲する鉢口縁部である(写真 7,8)。外面は横方向のミガキが施され、内面は工
具によるヘラケズリ状の調整がみられる。内面の調整は 12 に類似する。口縁部や屈曲部に沈線は認
められない。胎土には 3 ~ 5mm の石英、長石のほか貝殻粉が多量に混じる。2 は深鉢口縁部である。
口唇部は粗雑に面取りされている。外面は剝離のため観察が難しいが工具調整痕がみられる。内面は
貝殻条痕の後、ナデ調整である。7mm 程度の大粒の石英・長石や貝殻粉が多量に混じる。3 は内外
面とも貝殻条痕が残る。胎土には 5mm 程度の石英・長石のほか貝殻粉が多量に混じる。4 は外面に
は貝殻条痕の後、ナデ調整が行われている。内面には貝殻条痕が残る。胎土には 5mm 程度の貝殻粉
が混じる。5 は深鉢胴部である(写真 9,10)。外面にはナデ調整の後、間隔をあけて貝殻条痕が施される。
内面の上部にはナデ調整、下部には貝殻条痕が残る。胎土には 3mm 程度の石英・長石、金雲母が混
じる。6 は深鉢胴部である(写真 13,14)。外面には貝殻条痕、内面には 5 と同様に上部にはナデ調整、
下部には貝殻条痕が残る。胎土には 5mm 程度の石英・長石のほか貝殻粉が多量に混じる。7 は外面
には貝殻条痕がみられる。内面は剝離のため不明である。胎土には 3mm 程度の石英・長石のほか貝
殻粉が多量に混じる。8 は内外面ともナデ調整が施される。9 は深鉢胴部である。内外面とも貝殻条
痕を施した後、ナデ調整が行われている。胎土には 4mm 程度の石英・長石のほか貝殻粉が混じる。
10 は深鉢底部附近である。外面は貝殻条痕、内面はナデ調整である。胎土には 2 ~ 3mm 程度の石英・
− 36 −
長石 ・ 金雲母が混じる。11 は深鉢底部附近である(写真 11,12)。外面はナデ調整、内面は工具によ
る調整痕が残る。胎土には 4 ~ 5mm の石英・長石のほか貝殻粉が混じる。12 は大型の深鉢胴部であ
る。外面には貝殻条痕、内面には工具によるヘラケズリ状の痕跡が残る。胎土には 3 ~ 5mm の石英・
長石、貝殻粉が混じる。
図 5 堂崎遺跡採集縄文土器
− 37 −
図 6 堂崎遺跡採集弥生土器~近世磁器
(2)弥生時代(図 6, 写真 16)
13 は弥生時代後期の甕口縁部である。外面はハケメの後ナデ調整、内面はナデ調整である。14・
15 は弥生土器胴部である。内外面にハケメがみられる。16 ~ 18 は弥生土器胴部である。外面にはハ
ケメ、内面にはナデ調整がみられる。19 ~ 22 は弥生土器胴部である。内外面ともナデ調整である。
23 は脚部である。内外面ともナデ調整である。24 は弥生時代後期の甕底部である。外面にはハケメ、
内面にはナデ調整がみられる。25 は弥生時代甕底部である。内外面ともナデ調整である。
− 38 −
表 1 堂崎遺跡出土土器・磁器観察表
番号
時期
1 縄文後期末~晩期
2 縄文後期末~晩期
3 縄文後期末~晩期
4 縄文後期末~晩期
5 縄文後期末~晩期
6 縄文後期末~晩期
7 縄文後期末~晩期
8 縄文後期末~晩期
9 縄文後期末~晩期
10 縄文後期末~晩期
11 縄文後期末~晩期
12 縄文後期末~晩期
13 弥生後期
14 弥生
15 弥生
16 弥生
17 弥生
18 弥生
19 弥生
20 弥生
21 弥生
22 弥生
23 弥生
24 弥生後期
25 弥生
26 古墳初頭
27 古墳後期
28 古墳後期
29 古墳後期
30 古墳後期
31 古代
32 古代
33 古代
34 古代
35 古代
36 古代
37 古代
38 近世
39 不明
器種
鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
深鉢
甕
甕
甕
甕
甕
甕
甕
甕
甕
赤焼壺
須恵器壺
須恵器壺
須恵器蓋
製塩土器
製塩土器
製塩土器
製塩土器
製塩土器
製塩土器
製塩土器
猪口
不明
部位
口縁部
口縁部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
底部附近
底部附近
胴部
口縁部
口縁部附近
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
胴部
脚部
底部
底部
胴部
口縁部
肩部
肩部
端部
胴部
胴部
胴部
底部
胴部
胴部
胴部
底部
口縁部
色
色調(外面)
明褐 , 褐
明赤褐
にぶい黄褐 , オリーブ褐
褐
にぶい黄
明褐
橙
褐
にぶい黄褐
にぶい黄橙
黄褐
褐
浅黄橙
橙
明黄褐
浅黄
明赤褐
橙
褐灰
明赤褐
明赤褐 , にぶい黄褐
にぶい橙
橙
橙
にぶい橙
にぶい黄橙
橙
灰
黄灰
灰黄
にぶい赤褐
橙
橙
黒褐 , 褐灰
橙
にぶい褐
にぶい褐
明青灰 , 青灰
明赤褐
Hue
7.5YR5/6,7.5YR4/4
5YR5/8
10YR5/3,2.5Y4/3
7.5YR4/4
2.5Y6/4
7.5YR5/6
7.5YR6/6
10YR4/6
10YR5/3
10YR6/4
10YR5/6
10YR4/4
10YR8/4
5YR6/6
10YR7/6
2.5Y7/3
2.5YR6/6
2.5YR6/6
10YR4/1
5YR5/8
5YR5/6,10YR4/3
2.5YR6/4
5YR6/6
5YR6/6
7.5YR6/4
10YR6/4
5YR6/8
7.5YR6/1
2.5YR5/1
2.5Y6/2
5YR5/3
7.5YR6/6
5YR6/6
10YR3/1,10YR5/1
5YR6/6
7.5YR5/4
7.5YR5/4
5B7/1,5B8/1
5YR5/6
色
色調(内面)
Hue
にぶい黄褐
明赤褐
オリーブ褐
黒褐
にぶい黄
明赤褐
明褐
にぶい黄褐
にぶい黄
明赤褐
にぶい黄褐
黄褐
浅黄橙
橙
明黄褐
にぶい黄
橙
橙 , 黒褐
橙
明赤褐
にぶい黄褐 , 黒褐
橙
にぶい黄橙
橙
にぶい褐
にぶい橙
橙
灰
黄灰
褐灰
橙
橙
橙
橙 , 褐灰
橙
橙
黒褐
灰白
明赤褐
10YR5/4
5YR5/6
2.5Y4/3
10YR3/2
2.5Y6/4
5YR5/6
7.5YR5/6
10YR4/3
2.5Y6/3
5YR5/6
10YR5/3
2.5YR5/4
10YR8/4
5YR6/6
10YR6/6
2.5Y6/3
2.5YR6/8
5YR7/6,5YR3/1
2.5YR6/6
5YR5/6
10YR4/3,10YR3/1
5YR6/6
10YR7/3
5YR6/6
7.5YR5/4
7.5YR7/4
2.5YR6/8
10Y6/1
2.5Y6/1
10YR4/1
2.5YR7/6
5YR6/6
5YR6/6
7.5YR7/6,7.5YR5/1
7.5YR7/6
7.5YR6/6
2.5YR3/1
5Y7/1
5YR5/8
胎土
石英・長石・貝殻粉
石英・長石・貝殻粉
貝殻粉
貝殻粉
石英・長石・金雲母
石英・長石・貝殻粉
石英・長石・貝殻粉
石英・長石
石英・長石・貝殻粉
石英・長石・金雲母
石英・長石・貝殻粉
石英・長石・金雲母・貝殻粉
石英・長石
石英・長石・金雲母
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石・金雲母
石英・長石
石英・長石・金雲母
石英・長石・金雲母
長石
長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
石英・長石
カオリン
石英・長石
調整(外面)
ミガキ
工具痕
貝殻条痕
貝殻条痕→ナデ
ナデ・貝殻条痕
貝殻条痕
貝殻条痕
ナデ
貝殻条痕→ナデ
貝殻条痕
ナデ
貝殻条痕
ハケメ→ナデ
ハケメ
ハケメ
ハケメ
ハケメ
ハケメ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ハケメ
ナデ
ハケメ・ナデ
ヨコナデ
カキメ
ナデ
ヨコナデ
格子目タタキ
タタキ・カキメ
タタキ
タタキ・カキメ
タタキ
タタキ
タタキ
施釉
工具痕
調整(内面)
工具ナデ
貝殻条痕→ナデ
貝殻条痕
貝殻条痕
ナデ・貝殻条痕
ナデ・貝殻条痕
ナデ
貝殻条痕→ナデ
ナデ
工具痕・ナデ
工具ナデツケ→ナデ
ナデ
ハケメ
ハケメ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ナデ
ヘラケズリ
ナデ
当て具痕
ナデ
ヨコナデ
ナデ
当て具痕・ナデ
当て具痕
当て具痕
当て具痕
当て具痕
当て具痕
施釉
工具痕
(3)古墳時代(図 6, 写真 17,18)
26 は古墳時代初頭の古式土師器甕頸部である。外面はハケメ、内面はヘラケズリがみられ、器壁
の厚さは 3mm 程度である。27 は古墳時代後期の壺口縁部である。酸化焔焼成でいわゆる「赤焼」で
ある。28 は須恵器壺胴上部である。外面はカキメ、内面は当て具痕が残る。29 は須恵器壺胴部である。
外面には沈線がみられる。30 は須恵器蓋である。
(4)古代(図 6, 写真 19,20)
31 ~ 37 は玄界灘式製塩土器である。31 は外面に格子目タタキがみられる。32 は上部にカキメ状
の調整がなされた後、タタキが行われ、内面下部には当て具痕が残る。33・35・36 は外面に二方向
の平行タタキを施し、内面に当て具痕が残る。34 は底部附近で外面タタキ、内面に当て具痕が残る。
37 は外面に平行タタキが行われ、内面に当て具痕が残る。32 ~ 37 の外面には木目に直交して平行線
を刻んだタタキ板が用いられ、いわゆる擬似格子文(横山 1984)となる。
(5)近世(図 6, 写真 21)
38 は 18 世紀後期~ 19 世紀前期の肥前磁染付底部である。外面には 2 条の横線と文様が描かれる。
小型そば猪口の底部であるとみられる。
− 39 −
(6)時期不詳(図 6, 写真 22)
39 は酸化焔焼成の口縁部である。外面と内面には調整具の痕跡が残る。焼成前穿孔(貫通)がなされ、
穿孔方向は内面から外面(i → o)である。堂崎遺跡では縄文土器が出土しているため、焼成前穿孔
という点では長崎県内では対馬市井手遺跡(下條 1996)や大村市野田の久保遺跡(高野 1990)で発
見されている黒川式~板付Ⅰ式期の孔列土器との関係も想起されるが、本例は堂崎遺跡出土の縄文土
器や黒川式~板付Ⅰ式期の孔列土器、韓半島青銅器時代前期孔列土器とは胎土・焼成・調整が異なり、
むしろ弥生時代以降の土器の様相に近く、縄文時代の所産とするのは困難である。ここでは時期不詳
の遺物としておきたい。
2.石器(図 7, 写真 23)
40 ~ 45 は黒曜石剝片である。40 は長さ 2.55cm、幅 1.65cm、厚さ 0.60cm、重さ 1.77g である。41
は長さ 1.10cm、幅 2.30cm、厚さ 0.56cm、重さ 0.74g である。42 は長さ 3.00cm、幅 1.70cm、厚さ 0.45cm、
重さ 1.77g である。43 は長さ 2.30cm、幅 2.35cm、厚さ 0.50cm、重さ 2.40g である。原礫面を残す。
44 は長さ 1.70cm、幅 1.90cm、厚さ 0.60cm、重さ 1.65g である。原礫面を残す。45 は長さ 3.10cm、
幅 2.70cm、厚さ 0.70cm、重さ 4.88g である。打面に二重パティナがみられる。原礫面を残す。いず
れも縄文土器に伴うものであるとみられる。
図 7 堂崎遺跡採集石器
3.自然遺物(写真 24)
鯨骨が採集されている。金属器による加工痕がみられるので新しい時期のものであろう。このほか
獣骨も採集されている。
Ⅴ.考察
本稿で紹介した遺物を基礎として堂崎遺跡における歴史的変遷を整理する。
1.縄文時代後期末~晩期
堂崎遺跡では「く」の字に屈曲する鉢が出土している。このような鉢は広田段階(小池 1982)や
宮の本式期(山崎・島津 1981)などにみられるが、土器の特徴が乏しいため、ここでは大きく御領
式期~黒川式期という時期(縄文時代後期末~晩期後半)を考えておきたい。出土した縄文土器の多
− 40 −
くには内外面に貝殻条痕が施され、胎土には貝殻粉が混入するという特徴がみられる(写真 15)。「く」
の字屈曲鉢と内面調整や胎土が貝殻条痕土器と共通するため、同時期の一群の土器であると判断され
る。貝殻条痕が施される土器は堂崎遺跡の南約 3km にある大久保遺跡でもみられる。大久保遺跡の
砂層および下部の礫層から出土した土器には堂崎遺跡と同様に内外面を貝殻条痕により調整し、胎土
に貝殻粉を混入するものが多い(河合編 2002, 古澤 2014)。このことと、大久保遺跡でも胴部が「く」
の字に屈曲する胴部片が出土していることから堂崎遺跡と大久保遺跡は近い時期のものであることが
窺われる。ただし、大久保遺跡の貝殻条痕土器は比較的丁寧に貝殻条痕が施され調整されている一方、
堂崎遺跡の土器は粗雑な貝殻条痕で、混和される砂粒や貝殻粉も大きいという差異がある。堂崎遺跡
の土器は大久保遺跡の土器と比較すると器壁が厚いことと関連があるものと思われるが、これがわず
かな時期差であるか、単純に器種の差異であるかは今後の検討課題である。
胎土に貝殻粉を混和する貝殻条痕土器は、先行する段階である鐘崎式期から太郎迫式期の対馬島の
遺跡である志多留貝塚(岡崎 1953, 駒井ほか 1954, 坂田 1975)、佐賀貝塚(正林護 1989)、ヌカシ遺跡
Ⅱ層上部(坂田 1978)などで認められる。しかし、太郎迫式期と御領式期の間の三万田式期の遺跡
がこれまでのところ対馬島、壱岐島といった玄界灘島嶼域で確認されておらず(福田 1999)、鐘崎式
期~太郎迫式期の貝殻粉混和貝殻条痕土器と堂崎遺跡や大久保遺跡の土器が系譜関係にあるかどうか
は判断が難しい。しかし、九州本島では貝殻粉を混和する土器は普遍的ではないため、壱岐島や対馬
島といった玄界灘島嶼域における一つの地域的な特徴であるとみられる(註 1)。ただし、胎土という地
域的な特徴が最も顕著に現われる属性には地域性がみられるが、器形、調整などは九州本島の土器と
基本的に共通しており、九州本島の土器様式から大きく外れるものではないことにも注意する必要が
ある。
壱岐島の海岸は大部分が岩石海岸であるが、東海岸には砂浜海岸が発達し海岸砂丘もみられる(石
井・鎌田 1965)。これまで壱岐島の縄文時代遺跡は西海岸の潮間帯に多く所在することが指摘されて
おり(横山 1990)、大部分は岩石海岸に立地する。一方、堂崎遺跡は大久保遺跡とともに数少ない東
海岸に所在する遺跡である。壱岐島西海岸の岩石海岸潮間帯にみられる縄文時代遺跡は大部分縄文時
代後期中葉までの遺跡で、それ以降に存続する遺跡は名切遺跡(安楽・藤田編 1985)程度で非常に
少ない。一方、三万田式期の遺跡空白期を挟み、縄文時代後期末から晩期にかけて、新たに堂崎遺跡
や大久保遺跡のように東海岸の砂丘が形成されるような砂浜海岸にも遺跡がみられるように遺跡の立
地が変化するということを指摘できる。甲元眞之は大久保遺跡の砂層堆積から縄文時代晩期初頭以降
に砂丘が形成されたということを指摘している(甲元 2005)。また壱岐島の対岸にある九州島の唐津
湾沿岸における砂堆を分析した田崎博之は縄文時代晩期前葉~中頃(黒川式)に海水準の下降と連動
して砂丘が発達すると指摘している(田崎 2007)。堂崎遺跡では溜池の揚げ土(砂)から土器が出土
しているものとみられ、溜池の崖面も砂層であることから、堂崎遺跡でも黒川式期の砂丘堆積により
包含層が形成されたものと考えられる。出土した縄文土器は磨耗が少なく、破片の遺存状況も比較的
良いことから、長期間水流で流されたものではないものと判断され、比較的短期間に砂層が堆積した
可能性がある。
− 41 −
2.弥生時代後期~古墳時代初頭
堂崎遺跡では弥生土器が採集されているが、このうち詳細な時期がわかるものは弥生時代後期前葉
とみられる口縁部片と底部片である。また、古墳時代初頭の古式土師器甕もみられ、弥生時代後期か
ら古墳時代初頭にかけて土地が利用されたことがわかる。この時期はまさに内海湾河口から約 1.5km
遡った地点に大規模遺跡である原の辻遺跡が営まれた時期であり、内海湾を介した原の辻遺跡との関
係が注意される。
3.古墳時代後期~古代
古墳時代後期になり再び、活動の形跡が見られるようになる。特に赤焼土器は壱岐島でも類例が多
くない資料であり、貴重な事例である。古代の遺物として玄界灘式製塩土器が発見されている。こ
れまで壱岐島では、石田町浜田遺跡(河合 2000)、中尾遺跡(河合 1998)、原の辻遺跡(川口 1997)、
芦辺町興触遺跡(川口・松永 1998)、壱岐嶋分寺跡(高野編 1993、1994)、釜蓋 6 号墳(山口 2003)、
郷ノ浦町大宝遺跡(村川・西 1999)、勝本町串山ミルメ浦遺跡(平川編 1985, 安楽編 1989, 宮﨑編
1990)などで玄界灘式製塩土器が出土している。海岸部だけではなく、内陸部にも分布する。堂崎遺
跡のように海岸砂丘で玄界灘式製塩土器が出土した事例としては浜田遺跡、中尾遺跡、串山ミルメ浦
遺跡が挙げられ、浜田遺跡と串山ミルメ浦遺跡では製塩が行われていたと考えられている。堂崎遺跡
の製塩土器の性格を考える上で参考となる事例であろう。
4.近世
肥前染付が 1 点採集されている。この染付は 18 世紀後期~ 19 世紀前期のものとみられる。『壱岐
名勝図誌』に記載のある堂崎から山崎浦への集団移住は 1664 年(寛文 4 年)であるため、集団移住
後の資料であると判断され、集団移住後も堂崎の土地が利用されていたことを示す。
Ⅵ.結語
本稿では壱岐市石田町に所在する堂崎遺跡採集資料について紹介するとともに、堂崎遺跡をめぐる
諸問題について検討した。その結果、縄文時代後期末~晩期、弥生時代後期~古墳時代初頭、古墳時
代後期~古代、近世におよぶ人間活動の痕跡が認められることが判明した。壱岐島東海岸の遺跡の状
況は不分明な点が未だ多く、堂崎遺跡資料は採集資料とはいえ、重要な資料の一つであるということ
ができる。
本稿をなすにあたって、下記の方々のご教示を得ました。記して感謝いたします。
河合恭典、河合雄吉、田中聡一、松見裕二
なお、本稿は安楽、川畑と協議の上、古澤が執筆した。
註
1)‌対馬島・壱岐島以外では貝殻条痕・貝殻粉混和土器として五島市中島遺跡(村川編 1987, 川道編 1997, 甲元編 2001)、五島
市宮下貝塚(古門・宮路・川道 1998)などで縄文時代後期中葉の事例、新上五島町西ノ股遺跡(久原編 1988)、五島市白
浜貝塚(安楽編 1980)、佐世保市高島の宮の本遺跡(久村編 1981)などで晩期の事例が確認されている。
− 42 −
文献
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高野晋司編 1994『壱岐嶋分寺Ⅲ』長崎県芦辺町文化財調査報告書第 8 集
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補助金研究成果報告書
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平川敬治編 1985『串山ミルメ浦遺跡 - 第 1 次調査報告書 -』勝本町文化財調査報告書第 4 集
福田一志 1999「西北九州における縄文後期遺跡の特性」『西海考古』1
古門雅高・宮路淳子・川道寛 1998『宮下貝塚』富江町文化財調査報告書第 1 集
古澤義久 2014「壱岐市石田町大久保遺跡採集資料」『島の科学』51
宮﨑貴夫編 1990『串山ミルメ浦遺跡 - 第 3 次調査報告書 -』勝本町文化財調査報告書第 8 集
村川逸朗編 1987『中島遺跡』福江市文化財調査報告書第 3 集
村川逸朗・西信男 1999『大宝遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 14 集
山口優 2003『百田頭古墳群・山ノ神古墳群・釜蓋古墳群』芦辺町文化財調査報告書第 16 集
山崎純男・島津義昭 1981「晩期の土器 九州の土器」『縄文文化の研究 4 縄文土器Ⅱ』雄山閣
横山浩一 1984「玄界灘式製塩土器(上)」『九州文化史研究所紀要』29
横山順 1990「壱岐の古代と考古学」『海と列島文化 3 玄界灘の島々』小学館
− 43 −
写真 1 堂崎遺跡遠景
写真 2 堂崎遺跡溜池あげ土
写真 3 遺物(11)出土状況 写真 4 遺物(45)出土状況
写真 5 堂崎遺跡出土縄文土器(外面)
写真 6 堂崎遺跡出土縄文土器(内面)
写真 7 土器 1(外面)
写真 8 土器 1(内面)
− 44 −
写真 9 土器 5(外面)
写真 10 土器 5(内面)
写真 11 土器 12(外面)
写真 12 土器 12(内面)
写真 13 土器 6(外面)
写真 14 土器 6(内面)
写真 15 土器 6(外面)細部貝殻混和状況
写真 16 堂崎遺跡出土弥生土器
− 45 −
写真 17 堂崎遺跡出土古墳時代土器(外面)
写真 18 堂崎遺跡出土古墳時代土器(内面)
写真 19 堂崎遺跡出土古代製塩土器(外面)
写真 20 堂崎遺跡出土古代製塩土器(内面)
写真 21 堂崎遺跡出土近世磁器
写真 22 堂崎遺跡出土穿孔土器(内面)
写真 23 堂崎遺跡出土黒曜石剥片
写真 24 堂崎遺跡出土動物骨
− 46 −
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
壱岐島内の箱式石棺墓
白石 渓冴
はじめに
長崎県を中心とした西北九州地域においては、弥生時代の特徴的な墓制として石棺墓が存在する(宮
﨑 1995)。こうした西北九州において多く見られる石棺墓と、北部九州地域で見られる石棺墓は、系
統を異にすることが早くから指摘されてきたが(藤田 1995)、最近は研究が進展し、起源地の問題、
および時期的な展開について、次第にその展開が明らかにされてきている(寺田 2005,谷 2006)。し
かしながら、箱式石棺墓には時期比定が可能となる遺物が副葬されないことが多く(寺田 2005)、壱
岐島内での箱式石棺墓の展開について、特に原の辻遺跡を代表する弥生時代墓地のひとつである石田
大原墓地の箱式石棺墓群の時期比定について全く異なる見解が示されている(松見 2005,2007,寺田
2007)。この問題を解決するための第一歩として、本稿では、まず壱岐島内の石棺墓を集成し、西北
九州に見られる箱式石棺墓に位置づける基礎的な資料を提示する。
Ⅰ.壱岐島の弥生文化の形成と展開について
壱岐島の弥生文化の形成と展開には北部九州地域の影響が強いことが、これまでの研究によって明
らかにされてきた。東亜考古学会による壱岐島弥生文化の初期の調査、すなわち原の辻遺跡の調査に
おいては、土器の様相の類似を根拠にすでに指摘され(水野・岡崎 1954)、カラカミ遺跡の調査成果
とあわせて玄界灘沿岸地域に見られる狩猟・漁労文化の広がりが明らかにされている(岡崎 1968)。
最近では、「糸島型祭祀用土器」の分布(石橋 1992)、壱岐と糸島地域との土器の類似性から交易品
としての土器の検討(常松 2001)、土器廃棄を行う集落を区画する溝(石田 2009)、弥生時代中期後
半期の甕の計測的・非計測的属性を用いた分析(石田・米村・足立・中野・小山内・田中 2013)といっ
た研究によって壱岐地域と北部九州地域の類似点や相違点について、より具体的に明らかにされてき
ている。また、鉄器をめぐる壱岐と韓半島南部や北部九州地域との長距離交易の中継基地あるいは中
継拠点としての役割が指摘されている(白井 2001,久住 2012,宮本 2013)。
他方、こうした北部九州地域との強いつながりについて論じる研究があるのと同様に、壱岐と西北
九州地域との関連についても近年注目がなされている。西北九州地域と北部九州地域の弥生文化は
様々な点で異なることがこれまで明らかにされてきた。五島地域の弥生文化に関して、縄文文化の要
素が長く残存することを明らかにした小田富士夫氏の研究に始まり(小田 1970,1983)、宮﨑貴夫氏は、
西北九州地域の弥生文化が石包丁といった農具と共に、縄文時代から続く尖頭状・双角状礫器といっ
た漁労具を多く持つなど、半農半漁的な生業形態をとったことを指摘した(宮﨑 1995,1997,1998)。また、
南海産貝輪の分布から、西北九州地域の集団が貝輪の流通に携わったことを論じる木下尚子氏の研究
(木下 1981,1989)、アワビオコシの空間分布と時期的な展開に注目し、その地域性の発現から海人集
団の活動の変化を読み解く中尾篤司氏の研究(中尾 2005)などがあり、北部九州地域の弥生文化と
は異なる西北九州地域の弥生文化を担った集団が、広域に活動していたことが明らかにされている(甲
− 47 −
元 1990)1)。また、墓制について、北部九州地域において大型の甕棺墓に代表される墓制が展開する
のに対して、西北九州地域では弥生時代を通じて石棺墓と土坑墓が主流であることが指摘され(宮﨑
1995)、最近では壱岐島においても石棺墓が墓制の中心であることが指摘されている(安楽 2005, 寺
田 2005,2007,宮﨑 2012)。
1.壱岐島の石棺墓文化
上記のように、壱岐島の弥生文化の形成と展開において、北部九州地域と西北九州地域の2つの文
化圏の影響を強く受けたことがしだいに明らかにされてきており、箱式石棺墓を中心とした墓制の研
究は注目されている。しかしながら、こうした文化要素の伝播の過程を示す箱式石棺墓の詳細な時期
比定については、現状では十分であるとは言いがたく、時間的な展開について十分に明らかにされ
ていない。西北九州地域の箱式石棺墓について、寺田正剛氏によって大まかな展開が論じられてい
るものの、寺田氏自身が問題点としてあげるように、時期比定について現状では十分でない(寺田
2005)。
そこで、本稿ではこうした西北九州石棺墓の時期を決定し、その消長から弥生時代社会像を復元す
るための準備作業として、壱岐島内の箱式石棺墓を集成し、基礎的な情報の把握に努める。寺田氏が
論じるように、石棺墓研究においては地域性の視点が重要になる可能性があり(寺田 ibid.)、まずは
一地域、ここでは壱岐島内に見られる石棺墓文化の時期的な展開を把握した上で、周辺地域との関係
について検討する、という視点が重要であると考えるからである。
2.壱岐島内の箱式石棺墓検出遺跡の概要
壱岐島内では、小場遺跡、山中遺跡、大久保遺跡、原の辻遺跡の 4 遺跡から箱式石棺墓が検出され
ている 2)。以下、これらの遺跡の概要を紹介する。
ア;小場遺跡(小場箱式石棺墓)
図 1 小場箱式石棺墓
図 2 小場遺跡位置図(S = 1/10000)
小場遺跡はカラカミ遺跡の南西 400m の丘陵の裾部に位置する(図 2)。森貞次郎氏による 1952 年
の調査で見つかった。副葬品は検出されていない。板付Ⅱ b 期の甕棺と並んでおり(図1)、同時期
の箱式石棺墓である可能性があるとされている(宮本 2009)。
− 48 −
イ;山中遺跡
図 3 山中遺跡集石墓?
図 4 山中遺跡位置(S =1/10000)
山中遺跡は車出遺跡群の北西側に位置する(図 4)。墓坑が壊されていたとされ、石蓋の遺存状況
も不明であるが、箱式石棺墓 1 基と集石墓を検出したとされる(図 3)。遺構の範囲内において、勾
玉や鉄剣といった副葬品が検出されたとされ、調査者は弥生時代終末から古墳時代初頭の箱式石棺墓
と考えている。内容がよく分からないが、周辺からは弥生時代後期の甕棺墓(三連棺)が検出されて
いる 3)。
ウ;大久保遺跡
図 5 大久保遺跡 箱式石棺墓
図 6 大久保遺跡位置図(S =1/10000)
大久保遺跡は壱岐島の南東端部に位置し、壱岐空港東側の大浜海岸に伸びた岬上にある(図 6)。
石棺墓が露出した状態で検出されており、埋葬時には現在より大きな岬に位置したものが波に削られ
て発見に至ったと考えられている。副葬品は検出されなかったが、完全な人骨が遺存しており、その
特徴について西北九州地域の集団と、北部九州地域の集団との特徴を併せ持つとされている。埋葬の
時期については、周辺から出土した遺物から、弥生時代前期末から中期初頭と考えられている。
− 49 −
エ;原の辻遺跡
図 7 閨繰遺跡 箱式石棺墓検出状況
図 8 原の辻遺跡原ノ久保 A 地区
図 10 原の辻遺跡石棺墓出土地点位置図
(S =1/20000)
図 9 原の辻遺跡石田大原地区
原の辻遺跡は壱岐島の南東部に位置する。深江田原と呼ばれる平野に張り出した丘陵上に位置し、
弥生時代の大規模環濠集落として国の特別史跡に指定されている(図 10)。箱式石棺墓はこれまでに
苣ノ木地区、原ノ久保A地区(図 8)、石田高原地区、石田大川地区、芦原地区、原地区、石田大原
地区(図 9)から検出されている。このほか、原の辻丘陵の北側を流れる幡鉾川をはさんだ北側の山
裾に閨繰遺跡があり(図 7)、集成ではこれについても原の辻遺跡の一部であるということもできる
と考え、原の辻遺跡にまとめている。
− 50 −
3.壱岐島の石棺墓集成
壱岐島内では現状では、上記の 5 遺跡において石棺墓が確認されている。この中で小場遺跡はカラ
カミ遺跡に近接する遺跡であり、山中遺跡は車出遺跡群の一部、また閨繰遺跡は原の辻遺跡の一部と
考えてよかろう。つまり現状では、カラカミ遺跡、車出遺跡群、原の辻遺跡の周辺において箱式石棺
墓が検出されている。表は壱岐島の箱式石棺墓を集成したものである 4)。箱式石棺墓の時期、法量、
副葬品、残存状況についての情報を記載してある。このうち時期については、本稿では報告書の時期
比定に従うこととする。(表 1)
ここで集成した箱式石棺墓群の中で、多くのまとまりを見せながら時期が明確でない、石田大原地
区の箱式石棺墓群が注目される(表 2 61 番~ 81 番)(図 9)。この箱式石棺墓については、現状で
は2つの見解がある。ひとつは、前期末から中期前葉の箱式石棺墓であると考えるものであり(寺田
2007)、もうひとつは成人墓の主体が甕棺墓から石棺墓に変化すると考え、中期中葉以降の石棺墓で
あると考えるものである(安樂 2005,松見 2005,2007)。上記のように石棺墓から西北九州弥生文化
の影響とその強弱を見出そうとする場合、これらの 2 つの見解の相違は大きく、前者は原の辻遺跡の
成立当初に西北九州地域の集団が関わった可能性を示唆し、後者の場合、北部九州弥生文化の代表的
な墓制である甕棺墓が最も盛行する時期に、壱岐島においては西北九州弥生文化を代表する箱式石棺
墓文化があらためて採用された、ということになる。
− 51 −
表 2 壱岐島内検出箱式石棺墓集成表
通番
遺跡名
1 大久保遺跡(1988)
2 小場遺跡(2009)
3 山中遺跡(1999)
4
〃
5 原の辻苣ノ木(1995)
6
〃
7
〃
8
〃
9 原の辻苣ノ木(2002)
10 原の辻原ノ久保 AD(1999)
11
〃
12
〃
13
〃
14
〃
15
〃
16
〃
17
〃
18
〃
19
〃
20
〃
21
〃
22
〃
23
〃
24
〃
25
〃
26
〃
27 原の辻原ノ久保 AF(1999)
28 原の辻原ノ久保(2001)
29 原の辻原ノ久保(2002)
30
〃
31 原の辻石田高原(2009)
32 原の辻大川(1999)
33
〃
34
〃
35
〃
36
〃
37
〃
38 原の辻大川 604(2008)
39
〃
40
〃
41
〃
42
〃
43
〃
44
〃
45
〃
46
〃
47 原の辻大川 605-1(2008)
48 原の辻芦原(2004)
49 原の辻芦原(2005)
50 原の辻原(2009)
51 閨繰遺跡(1999)
52
〃
53
〃
54
〃
55
〃
56
〃
57
〃
58
〃
59
〃
60
〃
61 原の辻石田大原(2002)
62
〃
63 原の辻石田大原(2007)
64
〃
65
〃
66
〃
67
〃
68
〃
69
〃
70
〃
71
〃
72
〃
73
〃
74
〃
75
〃
76
〃
77
〃
78
〃
79
〃
80
〃
81
〃
遺構名
箱式石棺墓
小場箱式石棺墓
箱式石棺墓?
集石墓?
S-1
S-2
S-3
S-4
1 号石蓋土坑墓
1 号石棺墓
2 号石棺墓
3 号石棺墓
4 号石棺墓
5 号石棺墓
6 号石棺墓
7 号石棺墓
8 号石棺墓
9 号石棺墓
10 号石棺墓
11 号石棺墓
12 号石棺墓
1 号石蓋土坑墓
2 号石蓋土坑墓
3 号石蓋土坑墓
4 号石蓋土坑墓
5 号石蓋土坑墓
1 号箱式石棺墓
石棺墓
1 号石棺墓
1 号石蓋土坑墓
箱式石棺墓
1 号箱式石棺墓
2 号箱式石棺墓
3 号箱式石棺墓
4 号箱式石棺墓
5 号箱式石棺墓
1 号石蓋土坑墓
1 号石棺墓
2 号石棺墓
3 号石棺墓
4 号石棺墓
5 号石棺墓
6 号石棺墓
7 号石棺墓
8 号石棺墓
9 号石棺墓
1 号石棺墓
1 号石棺墓
2 号石棺墓
箱式石棺墓
1 号石蓋土坑墓
1 号箱式石棺墓
2 号箱式石棺墓
3 号箱式石棺墓
4 号箱式石棺墓
5 号箱式石棺墓
6 号箱式石棺墓
7 号箱式石棺墓
8 号箱式石棺墓
9 号箱式石棺墓
1 号石棺墓
2 号石棺墓
S1
S2
S3
S4
S5
S6
S7
S8
S9
S10
S11
S12
S13
S14
S15
S16
S17
S18
S19
時期
長さ (cm)
幅 (cm)
深さ (cm)
遺存状況
副葬品(墓坑内検出遺物)
人骨
前期末~中期初頭
120
50
35 良好
なし
◎完全
前期後葉
140
45
40 良好
なし
×
後期末~古墳初頭?
不明
不明
不明
不明
鉄剣と古墳時代の勾玉は副葬品か??
×
古墳時代前期?
不明
不明
不明
不明
鉄刀は副葬品か??
×
不明
120
75 記載なし 棺材抜き取り
なし
×
不明
130
60 記載なし 棺材なし ほとんど削平される
なし
×
不明
60
40 記載なし 棺材なし ほとんど削平される
なし
×
不明
75
30 記載なし 棺材なし ほとんど削平される
なし
×
ガラス小玉 151 袋状口縁壺破片(弥生後期)×
後期
110.5
50
25 良好
後期(暫定)
160
32
蓋石なし 側壁は一辺を欠損する
なし
×
後期(暫定)
175
32
良好
なし
×
後期(暫定)
134
21
良好 蓋石一部のみ残る
なし
×
後期(暫定)
172
30
23 良好 蓋石一部のみ残る
なし
×
後期(暫定)
193
26
側壁が一部のみ残る
なし
×
後期(暫定)
115
32
良好
勾玉 1 管玉 1
×
後期(暫定)
150
25
良好 蓋石一部のみ残る
なし
×
後期後半
150
25
30 良好
小型仿製鏡 1
×
後期(暫定)
164
45
良好 側壁一部抜かれる
なし
×
後期(暫定)
162
30
良好
なし
×
後期(暫定)
117
22
側壁の一部のみ残る
なし
×
別の土坑に切られる 棺材は残存していない なし
×
後期(暫定)
172
40
後期末
170
50
20 小口側側壁の石材の抜き取り痕が見られる ガラス玉 5
×
後期(暫定)
171
54
良好
なし
×
後期末
180
26
35 良好
小形壺
×
後期(暫定)
100
30
側壁 床石が残る
なし
×
後期(暫定)
100
44
60 床石あるいは側壁が残る
なし
×
不明
不明
不明
不明
良好か
不明(未掘)
不明
中期中葉~後葉か
180
37
23 良好
なし
×
不明
150
40 記載なし ほとんど削平される
なし
×
不明
174
40
25 良好
なし
×
中期後半
90
30
20 良好
ガラス製管玉 2
×
後期(後期後半以降か)
217
60 記載なし 側壁の一部のみ残る
後期の土器片
○骨片少々
後期(後期後半以降か)
202
25
37 良好 蓋石一部のみ残る
後期の土器片
×
中期末頃か
190
65
23 小口側側壁が 1 片のみ残る
丹塗土器片 碧玉製管玉 7
×
不明
189
70
18 長軸方向に 1/4 程度欠損する
なし
×
後期か
153
70 記載なし 側壁が1片のみ見られる
後期の土器片
×
23
25 良好 側壁あり 石棺墓か
なし
×
不明
167
後期中葉~後葉か
150
40 記載なし ほとんど削平される
なし
×
後期中葉~後葉か
180
50 記載なし ほとんど削平される
なし
×
後期中葉~後葉か
180
55 記載なし 側壁の一部のみ残る
なし
×
後期中葉~後葉か
190
60 記載なし 側壁の一部のみ残る
なし
×
後期中葉~後葉か
160
75 記載なし 側壁か 1片のみ見られる
なし
×
後期中葉~後葉か
215
65 記載なし 側壁か 数片のみ見られる
なし
×
後期中葉~後葉か
215
65 記載なし 側壁が残る
なし
×
後期中葉~後葉か
180
55 記載なし 側壁が残る
なし
×
後期中葉~後葉か
120
50 記載なし 側壁か 数片のみ見られる 小児墓か
なし
×
後期中葉(下大隅古)
199
70
36 良好 墓坑は二段掘り 標石が残る
なし
×
中期前葉~中葉か
220
110
25 側壁が残る 短軸の一辺がない
なし
×
中期前葉~中葉か
229
110
24 側壁が残る
なし
×
不明
81
51
17 良好
なし
×
不明
110
55
25 良好
なし
×
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
不明
不明
不明
不明
不明(未掘)
未掘
不明
125
45 不明
良好
勾玉 2 管玉 8
×
106
40
26 良好
×
117
40
26 良好
管玉 3
×
127
48
棺材抜き取り痕のみ残る
×
不明
不明
不明
不明
不明
×
66
32
23 蓋石なし
×
118
55
37 良好
管玉 3 丸玉 1
×
138
46
27.5 良好
×
112
55
45 側壁の一部のみ残る 別の遺構に切られる
×
96
44
27.5 良好
×
105
40
35 良好
×
135
32
40 良好
管玉 1
×
80
43
27 良好
×
111
35
30 良好
×
148
34
36.5 良好
勾玉 1 管玉 4
×
136
48
32.5 良好
×
124
50
40 良好
×
136
48
25 良好 石蓋土坑墓
×
128
62
17 側壁のみ残る
×
114
44
33.5 良好
×
報告書番号
1
2
3
3
4
4
4
4
5
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
7
5
5
8
6
6
6
6
6
6
9
9
9
9
9
9
9
9
9
9
10
10
11
12
12
12
12
12
12
12
12
12
12
13
13
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
14
Ⅱ.分析
このように両者の位置付けによって、壱岐島の弥生文化像が大きく異なることになり、石田大原地
区の箱式石棺墓の時期比定には非常に重要な意味があることが確認される。ここでは、この問題につ
いて検討するための準備作業として、石田大原地区の箱式石棺墓と、壱岐島内の他の石棺墓との法量
の比較を行ってみたい。ここでは広く西北九州地域の箱式石棺墓を対象として分析を行った寺田氏の
方法(寺田 2005)に倣い、箱式石棺墓の長短比の計測値を用いる。
− 52 −
図 13 壱岐島内石棺墓法量比較
図は横軸に長軸の長さを、縦軸に短軸の長さをとった散布図である。この図から見られるように、
石田大原地区の箱式石棺墓は、弥生時代後期の石棺墓群と比較してやや小さい値にある程度のまとま
りがあり、これまで言われてきたように、弥生時代後期の箱式石棺墓とは異なる可能性があることが、
まず再確認される。寺田氏は西北九州地域の箱式石棺墓の大まかな変化の方向性として、長軸方向に
長くなることを指摘しているが(寺田 2005,2007)、この結果は、後期の箱式石棺墓群よりも小さい
という意味で、こうした寺田氏の見解を支持するものであるといえよう。ただし、弥生時代後期の石
棺墓群より小さいこれらの石棺墓群がどの程度古いか、前期末にさかのぼるのか、あるいは中期中葉
以降のものなのか、この点については別の方法によって検討が必要である。
Ⅲ.大久保遺跡箱式石棺墓について
大久保遺跡において検出された箱式石棺墓は、石棺の上部に円礫を多重に重ねて天井を構築してい
る点において、壱岐島内の他の箱式石棺墓と比較して特異な形態をしている。こうした天井を持つ箱
式石棺墓の類例は、五島列島の浜郷遺跡(小田 1970)、宇久松原遺跡(長崎県教育委員会 1983)、小
値賀町の神ノ崎遺跡(小田 1984)や、佐世保市の宮の本遺跡(佐世保市教育委員会 1981)にある。
これらの墓は弥生前期末か、中期の箱式石棺墓とされている。大久保遺跡の箱式石棺墓も前期末から
中期初頭のものであると考えられており 5)、これらの墓との比較検討が必要であると考えられる。大
久保遺跡の箱式石棺墓については今後、他の墓制との比較や、箱式石棺墓の型式分類を行ったうえで
の総合的な墓地の展開を把握した上で、改めて論じる必要がある 6)。
− 53 −
おわりに
以上に論じてきたように、壱岐島の弥生文化研究には、北部九州地域と西北九州地域の弥生文化が
強く影響を与えてきたのであり、こうした「影響」の実態を解明するために箱式石棺墓の研究は有効
である。こうした壱岐島の箱式石棺墓について、石田大原地区の石棺墓群をめぐり、前期末から中期
前葉のものであると考える見解と、中期中葉以降のものと考える見解があり、これは壱岐島の弥生文
化の展開を考える上で、きわめて重要な意味を持つ。本稿では、こうした議論の前提となる石棺墓群
の時期比定、すなわち集成した石棺墓のうち中期から後期のものとおおよそ明らかにされている石棺
墓群と、石田大原地区の石棺墓群の長短比を散布図で見ることによって、後期を中心とした石棺墓群
より、古い時期のものである可能性が高いという、従来の見解を追認した。
これによって、石田大原地区の箱式石棺墓群の時期に関する問題は、上記の 2 者に絞られる。これ
については、石田大原地区の甕棺墓、箱式石棺墓、墓地に付随する可能性がある周辺遺構、の 3 つの
時期的な展開を踏まえた、詳細な検討をすることによって初めて明らかにすることができると考えて
いる。
また、こうした時期的な併行関係の整理がなされれば、西北九州地域の島嶼部に点在するこうした
墓地遺跡の分布を手がかりに、「倭の水人」や「海民集団」と呼ばれる集団の移動の痕跡をたどり、
こうした人々の歴史を解明することができるのではないかと考えている。
註
1)‌こうした人間集団の活動の実態について、北部九州地域との交易については、「イト国連合」とのつながり(寺沢 2000)、
韓半島と北部九州の「海村」をつなぐ「倭の水人」(岡崎 1968)の交易活動(武末 2008,2009,2013)などの解釈がなされて
いる。「ツクシ連合体制」とのかかわりにおいて「海域部ネットワーク」によって交易を行った集団の活動である、とその
集団の内実にかなり踏み込んで解釈する研究もある(宮﨑 2012)。
2)‌これまでに壱岐島内で発掘調査がなされた遺跡について、集成している。このほかに『長崎県遺跡地図―壱岐地区―』には、
正村遺跡(壱岐市勝本町勝本浦字正村)、若宮島石棺群(壱岐市勝本町東触字遠見)、天ヶ原石棺墓群 A 地点(壱岐市勝本
町東触字菖蒲坂)、天ヶ原石棺墓群 B 地点(壱岐市勝本町東触字赤岩)が石棺墓群として登録されているが(長崎県教育
委員会 1994)、これまで十分な調査がなされておらず、現状ではその内容は不明である。
3)‌集成では、報告の箱式石棺墓 1 基と、写真によって墓である可能性があると報告されている集石墓 1 基(図3)を加えている。
4)‌集成表の作成においては、石蓋土坑墓について箱式石棺墓と同様に扱っている。これは、箱式石棺墓と石蓋土坑墓の分類
の基準が曖昧だからである。特に、墓坑内に少量の棺材が用いられる墓について、箱式石棺墓として報告されるものと、
石蓋土坑墓として報告されるものがある。箱式石棺墓は、石蓋土坑墓など類似の構造物のとの区別が難しい場合があり(小
林 1959,大塚・戸沢編 1996)、これらを分類することは、それぞれの起源や展開に密接に関わる重要な問題であると考え
られるが、これについては別に検討する必要がある。本稿ではこれらを、箱式石棺墓として扱うこととする。
5)‌神ノ崎遺跡では、「板石積石棺墓」に加え、5 ~ 6 世紀の「地下式板石積石室墓」が検出されている(小田 1984)。大久保
遺跡においては、時期を判断する根拠として弥生前期末の資料が挙げられているが、周辺から須恵器の高杯の脚部も検出
されており、こうした資料を同様に扱うならば古墳時代の墓である可能性も残る。現状では遺物のみからの時期比定は難
しいといえよう。
6)‌なお、側石の組み方に注目すると、石田大原地区の石棺墓に類似を見出すことができる。また法量についても、石田大原
墓地の石棺墓群の法量に近い。
− 54 −
参考文献
報告書
1 ‌宮本一夫 2009『壱岐カラカミ遺跡Ⅱ―カラカミ遺跡東亞考古学会第 1 地点の発掘調査―』九州大学大学院人文科学研究院
考古学研究室
2 長崎県教育委員会 1988『長崎県埋蔵文化財調査集報ⅩⅠ』
3 郷ノ浦町教育委員会 1999『山中遺跡』郷ノ浦町文化財調査報告書 第 1 集
4 ‌長崎県石田町文化財保護協会 1995『原の辻遺跡Ⅱ―町道江里線改良工事に伴う緊急発掘調査報告書―』石田町文化財保護
協会調査報告書第 2 集
5 長崎県教育委員会 2002『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 25 集
6 長崎県教育委員会 1999『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 11 集
7 長崎県教育委員会 2001『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 22 集
8 長崎県教育委員会 2009『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 40 集
9 長崎県壱岐市教育委員会 2008『特別史跡原の辻遺跡』壱岐市文化財調査報告書 第 12 集
10 長崎県芦部町教育委員会 2004『特別史跡原の辻遺跡』芦部町文化財調査報告書 第 17 集
11 長崎県教育委員会 2009『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 39 集
12 長崎県教育委員会 1999『閨繰遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 17 集
13 石田町教育委員会 2002『原の辻遺跡』石田町文化財調査報告書 第 5 集
14 長崎県教育委員会 2007『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所調査報告書 第 35 集
15 長崎県教育委員会 1983『長崎県埋葬文化財調査集報Ⅵ』長崎県文化財調査報告書 第 66 集
16 小値賀町教育委員会 1984『神ノ崎遺跡』小値賀町文化財調査報告書 第 4 集
17 佐世保市教育委員会 1981『宮の本遺跡』佐世保市埋蔵文化財調査報告書
18 長崎県教育委員会 1994『長崎県遺跡地図―壱岐地区―』長崎県文化財調査報告書 第 112 集
論文
石田智子 2009「【特論】北部九州弥生時代中期の土器祭祀―九州大学筑紫地区 8B 区 SK101 土坑の位置付け―」『奴国の南―
九大筑紫地区の埋蔵文化財』九州大学総合研究博物館
石田智子・米村和紘・足立達朗・中野伸彦・小山内康人・田中良之 2013「第 12 章 カラカミ遺跡・原の辻遺跡出土弥生土器
の胎土分析」『カラカミ遺跡Ⅳ』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室
石橋新次 1992「糸島型祭祀用土器の成立とその意義」『北部九州の古代史』有明文化を考える会編 名著出版
大塚初重・戸沢充則編 1996「石蓋土坑墓 いしぶたどこうぼ」『最新日本考古学用語辞典』柏書房株式会社
岡崎敬 1968「倭の水人―壱岐島弥生時代遺跡発見の鯨骨製品とその伝統―」『日本民族と南方文化』平凡社
小田富士夫 1983「西北九州」『三世紀の日本列島 三世紀の考古学 下巻』学生社
小田富士夫 1984「Ⅳ総論―神ノ崎遺跡の性格―」『神ノ崎遺跡』小値賀町文化財発掘調査報告書第 4 集 長崎県北松浦郡小値
賀町教育委員会
木下尚子 1981「貝輪について」『宮の本遺跡』佐世保市埋蔵文化財調査報告書 佐世保市教育委員会
木下尚子 1989「南海産貝輪交易考」『生産と流通の考古学 横山浩一先生退官記念論集Ⅰ』横山浩一先生退官記念事業会
甲元眞之 1990「大陸文化と玄界灘―考古学からみた対外交流―」『海と列島文化 第3巻 玄界灘の島々』小学館
小林行雄 1959「はこしき ‐ かん・はこしき ‐ せっかん」『図解考古学辞典』東京創元社
白井克也 2001「勒島貿易と原の辻貿易―粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易―」『弥生時代の交易―モ
ノの動きとその担い手―第 49 回埋蔵文化財研究集会』埋蔵文化財研究会
谷直子 2006「北部九州における弥生時代前期墓制の基礎的研究」『東アジアと日本―交流と変容―』第 3 号
常松幹雄 2001「土器からみた弥生時代の交易」『弥生時代の交易―モノの動きとその担い手―第 49 回埋蔵文化財研究集会』
埋蔵文化財研究会
寺田正剛 2005「長崎地域における箱式石棺墓の様相について」『西海考古』第 6 号 西海考古同人会
− 55 −
中尾篤司 2005「鯨骨製アワビオコシの拡散とその背景―原の辻遺跡出土資料の紹介を兼ねて―」『西海考古』第 6 号 西海考
古同人会
藤田等 1996「石棺墓」『弥生文化の研究 祭と墓と装い』第 8 巻 雄山閣
松見裕二 2005「考察 石田大原墓地の時間的変遷」『特別史跡原の辻遺跡―原の辻遺跡記念物保存修理に伴う発掘調査―石田
大原 355 区』壱岐市文化財調査報告書 第 2 集 長崎県壱岐市教育委員会
水野清一・岡崎敬 1954「壱岐原の辻弥生式遺蹟調査概報」『対馬の自然と文化』総合研究報告 No.2
宮﨑貴夫 1995「五島列島の弥生・古墳時代の墓制と文化―西北九州地域との比較を中心として―」『風土記の考古学⑤『肥前
国風土記』の巻』同成社
宮﨑貴夫 1997「原始・古代の島原半島」『原始・古代の長崎県』資料編Ⅱ 長崎県教育委員会
宮﨑貴夫 1998「県央の弥生文化」『原始古代の長崎県』通史編 長崎県教育委員会
宮本一夫 2013「第 18 章 カラカミ遺跡の鍛冶と長距離交易―カラカミ遺跡発掘調査の総合的成果―」『カラカミ遺跡Ⅳ』九
州大学大学院人文科学研究院考古学研究室
− 56 −
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
三次元計測器および 3D プリンターを用いた銅剣の復元
~諫早農業高校遺跡出土銅剣の例~
片多 雅樹・吉井 康史・白石 渓冴
1.はじめに
長崎県埋蔵文化財センターでは 2010 年 3 月に導入された三次元計測器および 3D プリンターを用
いて、文化財の計測やレプリカの作成、併設されている壱岐市立一支国博物館での教育普及活動とし
て行っているキッズこうこがく研究所で使用する模型作りなどを行ってきた。
三次元計測器は主に自動車や家電製品など製造業の分野で活用されてきたが、近年、文化財のデジ
タルアーカイブへの活用が進められている。
今回、新たな活用方法の一案として、破損している銅剣および完形の銅剣の三次元計測を行い、三
次元データ上で破損部分のみのデータを作成し 3D プリンターで出力したものを用いて完形の姿の復
元を試みた。
2.銅剣の概要
今回復元を試みる銅剣は、明治 39 年(1906 年)、諫早農業学校(現長崎県立諫早農業高等学校)
の校地造成時に出土した甕棺の中から検出したと伝えられる、おおよそ弥生時代中期前葉の細形銅剣
である。節帯部分の脊の断面形が丸く、刳方に丸研ぎがなされるという細形銅剣の古い様相を示す。
基部側の欠損がやや大きく、刃部は刳方から基部側を、脊は刳方を形成する研ぎの部分より基部側を
欠損する。残存長は 24.1cm、最大幅 3.2cm である。日本列島で発見された細形銅剣の中でも古手の
特徴をもつだけでなく、現状では長崎県の中央地域で見つかった最古の武器形青銅器とされ、当時の
北部九州地域との交流のあり方、また社会構造を考える上で、貴重な資料である。
写真 1 諫早農業高校遺跡出土「銅剣」
図 1 諫早農業高校遺跡出土「銅剣」実測図(正林護 1971)
− 57 −
3.装置の概要
使用した機器は以下のとおりである。
・‌三次元計測器【ドイツ GOM 社製:非接触光学式三次元デジタイザシステム ATOS Ⅲ】…419 万画
素の CCD カメラを有し測定範囲は 150 × 150 × 130mm。
・‌3D プリンター
【米国 Stratasys 社製:dimension elite】
…積層ピッチは 0.178mm。
造形材は ABS 樹脂
(ア
クリロニトリル+ブタジエン+スチレンの共重合合成樹脂)。
写真 2 三次元計測器
写真 3 3D プリンター
4.作業内容
復元対象となる銅剣および完形の銅剣(石膏レプリカ)の三次元測定を行い、三次元計測ソフト上
でデータの差し引きを行い、復元対象銅剣の欠損部分を三次元データ上で復元した。復元した欠損部
データを 3D プリンターで出力し欠損部分を補完した。
写真4 復元作業工程
− 58 −
5.まとめ
三次元計測器および 3D プリンターを用いて、欠損した銅剣の欠損部分を簡易的に復元してみたが、
欠損資料をより分かりやすく展示する際には有効であると考えられる。また、石膏や合成樹脂を用い
た復元修理ではないため、着脱が可能な点も収蔵時や資料調査の際には有用と思われる。今回は銅剣
を試みたが、今後はより立体的で複雑な形状のものや破片数の多い鏡片の復元を行い、応用範囲を広
げていきたい。
本報は平成 25 年 8 月に韓国慶州で開催された第 3 回東アジア文化遺産保存国際学会において発表
した研究要旨を一部加筆して再録したものである(片多ほか 2013)。
(参考文献)
奈良県立橿原考古学研究所編 2005「三次元デジタル・アーカイブを活用した古鏡の総合的研究」橿原考古学研究所成果報告
第8冊
水野敏典 2010『考古資料における三次元デジタルアーカイブの活用と展開』奈良県立橿原考古学研究所
正林護 1971「諫早市出土の銅剣」『九州考古学 41 ~ 44』九州考古学会
片多雅樹、吉井康史、白石渓冴 2013 「三次元計測器を用いた銅剣の復元 ~諫早農業高校遺跡出土銅剣の例~」
‌
『3 rd International Symposium on Conservation of Cultural Heritage in East Asia』248-249,The Society for
Conservation of Cultural Heritage in East Asia
ABSTRACT
At Nagasaki Prefecture Archaeological Center, we have been using the 3D Digitizer and
3D Printer which were installed in March, 2010, for measuring and making replicas of cultural
properties. We also use these machines to make replicas of excavated artifacts used at Kids
Archaeology Room which is located in Iki City Ikikoku Museum to educate children.
As a new use for these machines, we measured the damaged bronze sword and other
undamaged sword by the 3D Digitizer and tried to restore the missing parts by 3D Printer based
on the data collected from the undamaged sword. To display objects in near-perfect shape helps
people to develop a deeper understanding of exhibited objects.
− 59 −
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
九州型石錘の集成と展望
林田 好子・中尾 篤志
はじめに
九州型石錘は、下條信行氏により提唱された弥生時代後期~古墳時代前期を中心とした石錘群で、
該期における漁撈専業集団の析出や、彼らの広域にわたる活動範囲を示す遺物として、重要な位置を
占めてきた(下條 1984・1989a)。下條氏の論考以降も資料の蓄積が進み、特に近年の福岡市西新町
遺跡での一括資料の検出や、長崎県内での中世遺構からの出土など、新たな知見が得られつつある。
そこで、九州型石錘をめぐるこれまでの研究動向を整理するとともに、九州を中心に改めて九州型
石錘の集成を行い、若干の検討を試みる。
1.研究略史
(1)弥生時代~古墳時代にかけての漁撈研究
戦前までの弥生時代の漁撈研究は、縄文時代の漁撈研究と比較して低調であった。これは、縄文時
代に比べて貝塚の形成が低調で、骨角器など特徴的な漁撈具の出土が少なかったことや、弥生時代の
研究動向が、弥生土器や青銅器の研究、あるいは農耕社会としての位置づけの研究に傾倒していたこ
とが背景として考えらえる。まとまった論考としては、江藤千万樹氏による駿河湾の大型石錘に関す
る報告があげられる程度である(江藤 1937)。
弥生時代が農耕社会であることが明らかになると、漁撈研究も農耕集落との関係性に関心が集ま
ることとなる。また、社会史の方法論の影響を受けて分業や専業集団の析出に関心が集まり(都出
1968)、漁撈の大規模化や専業化の問題に関する論考が目立つようになる。特に、近藤義郎氏による
製塩土器の研究を契機として、各地の製塩遺跡の調査・研究が深化し(近藤 1984)、瀬戸内海や大阪
湾沿岸を中心に、イイダコ壷や土錘などの漁撈具を対象とした研究が進展し(森 1963、大野 1978・
1980)、1980 年代には和田晴吾氏や大野左千夫氏らによって基本的な漁撈具の分類や分布、変遷が
体系づけられた(和田 1982、大野 1981b)。また、関東地方では、豊富な漁撈具が出土した三浦半
島の海蝕洞窟遺跡が注目を集め、専業漁撈民の存在や農耕集落との関係について論じられた(剣持
1972)。
一方、九州では、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡や原の辻遺跡の調査成果をもとに、岡崎敬氏により
鯨骨製あわびおこしや鉄製・鯨骨製銛先などの漁撈具が紹介され、潜水漁を行う特徴的な漁撈民の存
在が示された(岡崎 1968)。また、カラカミ・原の辻遺跡出土鉄製品の分析から、鉄素材を韓半島か
ら輸入して鍛造加工した可能性を指摘すると(岡崎 1956)、鉄素材の運搬主体としての漁撈民に関心
が寄せられることとなった。その後カラカミ、原の辻両遺跡の調査の進展により、韓半島の土器や各
種青銅器の出土が相次ぎ、特にカラカミ遺跡については「南北の文物を移動させて、海洋民的な性格
をもっていた」と評価された(武末 1983P92l7~8)。また、五島市寄神貝塚(鏡山編 1964)や佐賀県
菜畑遺跡(中島・田島編 1982)での結合式釣針の出土により、縄文時代後期を中心に西北九州地域
− 60 −
で展開した結合式釣針が弥生時代前期から中期にも存在することが明確となり、縄文時代の漁撈の伝
統が残る地域として注目されると(渡辺 1985)、さらに島根県西川津遺跡でも結合式釣針などが出土
したことで(内田編 1988・1989)、西北九州地域の漁撈民が韓半島と北部九州間の南北方向だけでなく、
日本海沿岸を東方向へと展開していたことが分かってきた(下條 1989b、渡辺 1989)。これを受けて、
下條信行氏は同様の展開を見せる九州型石錘を取り上げ、基本的な分類と変遷、分布のほか、主とし
て農耕集落との関係性から石錘出土遺跡の類型化を試みた(下條 1984・1989a)。
その後、2000 年代に入ると、福岡市西新町遺跡で弥生時代終末~古墳時代前期にかけての集落跡
が大規模に調査された。瓦質土器や竈を有する竪穴建物跡などの出土が相次ぎ、韓半島との交易拠点
として注目される一方、瀬戸内海沿岸に展開する製塩土器やイイダコ壷、管状土錘などもまとまって
出土し、関心を集めた(平尾 2003・2004、乗松 2010)。この成果は、北部九州から日本海へ、瀬戸内
海へといった西から東への漁撈具の展開だけでなく、瀬戸内海から北部九州へという東から西への展
開が確認されたことを意味する。これをもとに、山中英彦氏は弥生時代後期~古墳時代前期を中心に
漁撈具を集成し、瀬戸内海地域からの漁撈具の流入を追認するとともに、漁撈具出土遺跡を外来系
要素が強い集落と在来系要素が強い集落に類型化して整理を試みた(山中 2007)。また近年では、弥
生時代中期~古墳時代前期にかけての北部九州の交易活動の類型化も試みられ (白井 2001、久住
2004、武末 2009)、新たな段階を迎えつつある。
このように、九州では特徴的な漁撈活動に関する研究から、専業集団としての漁村の出現と類型化、
農耕集落との関係性などに関する研究などが進展してきた。また、北部九州の漁撈民は交易民として
の性格が比較的古い段階から想定されていて、その活動内容や活動範囲に関する研究が議論されてき
た経緯がある。九州型石錘の研究もこれらの流れを汲むものであるが、特に弥生時代後期以降の漁撈
活動や、交易民としての活動内容とその範囲に関する研究において重要な位置を占めてきた。
(2)九州型石錘の研究
九州型石錘とは、提唱者である下條氏の言を借りれば、「弥生中期から古墳後期の間、すなわち紀
元後から六世紀にかけて存在」し、「(管状土錘や打欠石錘といった)漁網錘とは形態、重量、材質、
出土量を異にする沈子群」で、「同時代のわが国の他地域にはみられないもので、ひとり北部九州の
玄界灘沿岸に存するもの」である(下條 1984P73)(括弧内筆者加筆)。具体的には滑石を素材とし、
平面分銅形や紡錘形で、沈線や穿孔により緊縛の用をなした石錘群で、大きさや形態の点で非常にバ
リエーションに富んでいる。1965 年の福岡県志登支石墓での報告を嚆矢として、福岡県内を中心に
出土例が相次ぎ、各報告書の中で集成や分類が試みられてきた。また、大野左千夫氏は全国的な石錘
の出土傾向について分析する中で有孔石錘の一種として取り上げ、滑石を素材とすること、形態的に
バラエティーに富むこと、博多湾周辺に展開すること、弥生時代後期を中心とすることなど、基本的
な特徴の整理を行った(大野 1981b)。
これらを踏まえて体系的な分類と検討を行ったのが下條信行氏である(下條 1984・1989a)。下條
氏は大形石錘と小形石錘に分類したうえで形態や溝、孔の位置に応じてそれぞれ細分し、時期ごとの
展開を詳細に検討した。特に、大形 A 型とした上窄下寛形の石錘を、底が丸い博多湾型(A Ⅰ)と
底が平坦な糸島型(A Ⅱ)に細分し、弥生時代前期末に西北九州で小型の糸島型が出現し、中期末
− 61 −
〜後期に博多湾岸で大型化して博多湾型が成立することや、後期には日本海沿いを島根、福井まで分
布が拡大することを指摘し、玄界灘海人の活動が広範囲に及ぶことを指摘した。九州型石錘大形 A
型の機能としては、大野氏と同様、天秤釣りの錘具の可能性を指摘している。また、九州型石錘出土
遺跡を漁村型、半農半漁型、農村型に分類し、沿岸部の漁村と内陸部の農村との有機的なつながりを
指摘した。また、山中英彦氏は九州型石錘を含む漁撈具の集成と出土遺跡の類型化を行ったが、九州
型石錘については未成品の検討から遺跡単位で製作を行っていたことや、民俗例や博多湾の自然環境
をもとに、上窄下寛タイプを含めた九州型石錘の機能として網漁の錘である可能性を指摘した(山中
2007)。
その後も福岡県の玄界灘沿岸部を中心に資料の蓄積がなされたが、画期となったのは福岡市西新町
遺跡の調査である。第 17 次調査の 7 号住居跡(古墳時代前期前半)から、紡錘形の九州型石錘 12 点
と自然石石錘 162 点がまとまって出土した。これを詳細に検討した大庭孝夫氏は、これらの石錘が使
用状況を反映した一括資料と認定したうえで、自然石石錘の磨滅痕や民俗例に見るボラ網の石錘装着
方法を参考に、これらの石錘が地曳網として使用された可能性を指摘した(大庭 2009)。
このように、九州型石錘については 2000 年以降も資料の蓄積が進み、様々な見解が提出されてい
るが、まずは九州を対象に資料集成を改めて行ったうえで、テーマ別に研究の現状を概観する。
2.資料の検討
(1)集成
九州地方において出土した九州型石錘は、下條信行氏により 39 遺跡 96 点が集成(下條 1984)さ
れて以降、発掘調査の増加により資料の蓄積が見られる。近年では、山中英彦氏や大庭孝夫氏によっ
て博多湾沿岸の弥生時代から古墳時代前期にかけての資料が集成されているが(山中 2007、大庭
2009)、博多湾を中心としたもので九州地方全体の様相はなお不明瞭であった。このため、北部九州
を中心に改めて集成し検討を行うことで、九州型石錘について概観したい。
九州地方で出土した九州型石錘のうち、検討の対象とした資料は 61 遺跡 430 点である(第 1 図、
第 3 表)(註 1)。このうち、大部分が唐津湾から博多湾にかけての玄界灘沿岸から出土している。
(2)分類
九州型石錘については、特徴的な形態や緊縛用の溝、穿孔によって分類が行われている(山崎
編 1973、井上編 1983、下條 1984、二宮編 1991、塩屋・力武編 1997、中尾 2005、山中 2007、大庭
2009)。大きくは、穿孔と溝の有無によって有溝石錘、有孔石錘、有溝・有孔石錘に大別し細分して
いく方法(井上編 1983、中尾 2005)と、形態により大別しこれを大きさ、重量、溝・穿孔によって
細分していく方法(下條 1984、二宮編 1991、塩屋・力武編 1997、山中 2007、大庭 2009)がある。
発掘調査の増加した 1980 ~ 90 年代には、多くの資料が出土した博多湾沿岸、糸島半島の各遺跡にお
いて後者の方法を用い資料の検討が行われており、この過程で九州型石錘は遺跡間で形態のバリエー
ションや重量に幅を持つことが明らかとなった。
本稿の分類にあたっては基本的に下條氏の論考(下條 1984)を参考にするが、新出の資料におい
− 62 −
N
60
59
52
50
51
53
54
55
56・57
58
0
100km
50
1:2,000,000
61
1
0
25㎞
2
23・24・25
21・22
7
32
30
39・40
49
36
46
47
48
44
45
41・42・43
19・20
34
38 33
16
15
37
31
35
26・27
17・18
6
3・4・5
8
9
10・11・12
13・14
29
28
第1図 九州型石錘出土遺跡分布図
※図中の番号は、第3表の遺跡番号と一致する。
− 63 −
第 1 表 九州型石錘分類対応表
下條 1984
大形 A Ⅰ
(博多湾型)
山崎編 1973
有溝石錘
井上編 1983
有孔石錘
Ⅰ -1 類
Ⅰ -2 類
第2種
Ⅰ -1 類
Ⅰ -2 類
(Ⅱ -2 類)
大形 A Ⅱ
(糸島型)
大形 B Ⅰ
Ⅰ -1-c 類
Ⅱ -1 類
Ⅱ -3 類
大形 B Ⅱ
Ⅰ -2 類
Ⅱ -2 類
有溝・有孔石錘
二宮編 1991
塩屋・力武編 1997
山中 2007
大庭 2009
Ⅱa類
Ⅱb類
Ⅰb類
Ⅰc類
ⅠA類
ⅠA類
ⅠB類
Ⅰ -1-b 類
Ⅰ -1-c 類
Ⅰ -2-a 類
Ⅰ -2-b 類
Ⅰ -2-c 類
Ⅰ -2- d類
(Ⅰ -3 類)
Ⅰ -4 類
Ⅲ類
Ⅴ類
Ⅱc類
Ⅰa類
Ⅱ類
ⅠB類
ⅠC類
ⅠB類
ⅠA類
Ⅰ -1-a 類
Ⅱ類
Ⅲa類
Ⅲb類
Ⅲa類
Ⅲb類
Ⅴ類(一部)
ⅡA類
ⅡB類
ⅢA類
ⅣA類
ⅣB類
ⅣC類
ⅡA類
ⅡB類
ⅣA類
ⅣB類
ⅣC類
ⅡA類
ⅡB類
ⅡC類
ⅡD類
ⅡE類
ⅡC類
ⅡH類
ⅡF類
大形 B Ⅲ
ⅡA類
ⅡB類
ⅡC類
ⅡD類
Ⅴ類(一部)?
大形 C
Ⅲ -2 類
小形 A Ⅰ
第1種
Ⅰ -1-a 類
Ⅰ -1-b 類
(Ⅴ A 類)
Ⅰ -1-a 類
Ⅲb類
Ⅱ -1 類
Ⅱ -3 類
小形 A Ⅱ
本稿の分類
Ⅰ -1-b 類
(Ⅰ -1-c 類)
(Ⅰ -2-a 類)
Ⅰ -2-b 類
Ⅰ -2-c 類
(Ⅰ -2- d類)
Ⅰ -3 類
(Ⅰ -4 類)
(Ⅲ類)
(Ⅴ類)
Ⅲb類
Ⅳa類
Ⅳb類
小形 A Ⅲ
ⅤA類
ⅢA類
Ⅱa類
ⅣA類
Ⅱa類
ⅣA類
ⅡA類
Ⅲa類
ⅣB類
Ⅲa類
ⅣB類
ⅡB類
ⅡC類
ⅡD類
ⅡE類
ⅣC類
小形 A Ⅳ
ⅡG類
小形 B 型
ⅤA類
ⅤB類
Ⅲ -2 類
Ⅰ -3 類は未分類、
Ⅲ -1 類、Ⅳ類は九 Ⅱ -1 類、Ⅱ -2 類
州型石錘の分類外 については未分
類、Ⅲ類は九州型
Ⅱ -3 類は揚子江型 石錘の分類外
石錘
Ⅳ類は九州型石錘
の分類外
Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ類は九
州型石錘の分類外
Ⅵ・Ⅶ類は九州型
石錘の分類外
Ⅵ・Ⅶ類は九州型
石錘の分類外
ⅤA類
ⅢA類
ⅤC類
ⅢB類
Ⅵ・Ⅶ類は九州型
石錘の分類外
て分類出来ないものが存在するため、分類試案として石錘の形態により以下のように分銅形、紡錘形、
棒状の大きく三つに大別し検討を行う。
Ⅰ類:上端部が尖り気味にせばまり、下端部が幅広となる分銅形の一群。
Ⅱ類:‌平面形態が紡錘形の一群。基本的には上下左右が対象的だが、片方にやや比重が寄る
もの、細く長い形状を呈すものも含める。
Ⅲ類:‌棒状を呈する一群。上下端部に面を持つ円柱状のものや、両端部の溝やくびれ、穿孔
に特徴を持つものを棒状とする。
Ⅰ類はその形状より重心が下端部にくる垂下式の錘であるが、Ⅱ・Ⅲ類は形態、溝や穿孔によって
は横型、垂下式の両方の可能性を含む錘である。
また、Ⅰ類については下端部の形態、Ⅲ類については両端部の溝と穿孔によって細分が可能であり、
以下のように細分する。
Ⅰ類
A類:下端部が平坦となる。
B類:下端部が丸味を帯びるかやや尖底を呈する。
A類:両端部に短軸方向の溝が廻るか、くびれを作り出すことで突起状に成形する。
Ⅲ類
B類:両端部に穿孔する。穿孔の方向は平行するもの、直行するものがある。
Ⅱ類については、平面形態、溝・穿孔の数量、施行位置などが多岐に亘り、各々を一様式とするか
一形態内のバリエーションとして捉えるか判然としていない(註 2)。このため、本稿では試案として溝
と穿孔により 8 種に細分し、それぞれの分布、変遷を概観することで特徴をまとめ、今後の検討につ
− 64 −
なげたい。
Ⅱ類
A 類:長軸方向に1条の溝を有する。
B 類:長軸方向に1条、短軸方向に1条の溝を有する。
C 類:長軸方向に1条、短軸方向に多溝を有する。
D 類:長軸方向に1条の溝を有し、穿孔がある。
E 類:長軸方向に1条、短軸方向に1条の溝を有し、穿孔がある。
F 類:長軸方向に多溝を有する。
G 類:長軸方向に溝が無く、短軸方向のみ溝を有する。短軸溝は1~数条。
H 類:溝が無く、穿孔のみ有する。
なお、各分類の表記にあたってはⅠ A 類、Ⅱ B 類のように表示する(第 2 図)。
− 65 −
(3)分布およびその変遷
九州型石錘とされる滑石を主な素材とした形態、溝、穿孔に特徴を持つ石錘群は、現在確認される
限り玄界灘沿岸部を中心に南は鹿児島県枕崎市から北は福井県まで広範囲に分布する(下條 1984)。
九州地方においては、特に博多湾から糸島半島、唐津湾を中心に多くの石錘が出土しており、この地
が分布の中心であったことがわかる。
九州型石錘の中でも特に特徴的な形態をもつⅠ類は、壱岐島、唐津湾沿岸部、糸島半島、博多湾沿
岸部、玄界灘東岸の広範囲に分布するが、特に糸島半島西岸の御床松原遺跡、博多湾西岸部の今宿五
郎江遺跡、早良平野の西新町遺跡で多くの石錘が出土する。下條氏が糸島型(A Ⅱ)とした下端部
が平坦なⅠ A 類は、佐賀県菜畑遺跡で弥生時代前期後半に出現して以降、弥生中期初頭から中期後
半にかけての明確な資料を欠くものの、唐津湾から糸島半島、博多湾西部へと東に分布範囲を拡大し
ていく(第 3 図)。出土量の面では、糸島半島の御床松原遺跡、一の町遺跡のほか博多湾西岸の今宿
五郎江遺跡から多数出土する。博多湾沿岸の西新町遺跡、糸島半島西岸部の御床松原遺跡で古墳時代
前期の資料が出土し、唐津湾周辺の神田中村遺跡からも弥生時代後期後半~古墳時代前期の資料が見
られることから、Ⅰ A 類は唐津湾から東へ拡散して以降、地域的な偏在は認められるが基本的には
玄界灘の広い範囲で使用されていたものと思われる。また、福岡県福津市勝浦坂口遺跡よりⅠ A 類
が 1 点出土している。包含層出土で時期が確定しないが、Ⅰ A 類が博多湾を超えさらに東へ分布し
ていたことが伺える。
Ⅰ B 類は初現について明確でないが、弥生時代中期中頃から後期にかけて糸島半島や博多湾西部
において出現する(第 4 図)。その後、弥生時代後期の段階で早良平野から博多湾東岸部の辻田遺跡
へ分布を広げ、古墳時代前期になると御床松原遺跡、西新町遺跡など糸島半島、早良平野で引き続き
用いられる。早良平野では拾六町ツイジ遺跡例から古墳時代中期まで使用が継続されるが、糸島半島
ではこの時期の資料がなく、唐津湾周辺の寺ノ下遺跡で出土するように分布が西へと拡散する。数量
の面では、博多湾西部や早良平野にやや分布が偏る。しかし、福岡県志登支石墓群、新町遺跡、佐賀
県森の下遺跡、湊中野遺跡、長崎県原の辻遺跡例など時期が不明瞭な資料を含めると、博多湾西部
を中心としながらもその範囲はⅠ A 類と同様に壱岐島から博多湾東岸部にまで及んでいる。さらに、
鹿児島県花渡川例、福井県岡津遺跡例がⅠ B 類であることから、Ⅰ A 類に比べより広範囲に展開し
ていたと考えられている(下條 1984)。
Ⅱ類は数量、分布範囲の両面でⅡ A 類とⅡ B 類を中心としており、Ⅰ類と同様に壱岐島から玄界
灘沿岸部の広範囲から出土する。Ⅱ A 類は菜畑遺跡例(弥生時代前期後半)、御床松原遺跡例(弥生
時代前期末)から弥生時代前期末には唐津湾、糸島半島西岸部で出現していたものと思われ、その
後、中期後半には西新町遺跡など博多湾沿岸部まで波及している(第 5 図)。数量の面では、糸島半
島西部や博多湾西部においてまとまった量が出土しており、Ⅰ A 類と同様の傾向がうかがえる。Ⅱ
B 類は出土する遺跡が博多湾西部でやや多いものの、出土数自体はほぼ均衡する点でⅡ A 類と異なっ
ている(第 6 図)。Ⅱ C 類についても分布は糸島半島から博多湾へ広がるが、各遺跡の出土数は 1 点
ずつと少ない。Ⅱ D 類はⅡ A 類、Ⅱ B 類に次いで出土量が多く、弥生時代中期から後期には糸島半
島西部や博多湾西部で使用され、古墳時代初頭から前期には西新町遺跡で用いられている(第 7 図)。
糸島半島や博多湾西部では同時期に使用されたⅡ A 類、Ⅱ B 類と同程度の 2 ~ 3 点であったが、西
− 66 −
弥生時代
前期 中期 後期 壱岐島 唐津湾 糸島半島西部 糸島半島中央部 博多湾西部 早良平野 博多湾東部 377
234
235
303
414
222
401
302
前期 中期 後期
古墳時代
230
182
326
371
134
369
314
99
※実測図の番号は第 3 表の個別番号に一致する
第 3 図 ⅠA 類変遷図 (S=1/8)
− 67 −
82
0
10 ㎝
弥生時代
前期 中期 後期 壱岐島 唐津湾 糸島半島西部 糸島半島中央部 博多湾西部 早良平野 博多湾東部 221
219
291
11
240
253
前期 中期 後期
古墳時代
272
106
333
77
181
361
※実測図の番号は第 3 表の個別番号に一致する
第 4 図 ⅠB 類変遷図 (S=1/8)
− 68 −
0
10 ㎝
弥生時代
前期 中期 後期 壱岐島 唐津湾 糸島半島西部 糸島半島中央部 博多湾西部 早良平野 博多湾東部 376
307
403
304
13
210
130
400
145
399
48
207
146
337
34
344
前期 中期 後期
古墳時代
59
32
412
256
288
270
61
39
0
10 ㎝
※実測図の番号は第 3 表の個別番号に一致する
第 5 図 ⅡA 類変遷図(S=1/8)
− 69 −
弥生時代
前期 中期 後期 壱岐島 唐津湾 糸島半島西部 糸島半島中央部 博多湾西部 早良平野 博多湾東部 196
402
305
308
415
250
129
15
254
246
前期 中期 後期
古墳時代
156
406
40
63
320
38
54
0
10 ㎝
※実測図の番号は第 3 表の個別番号に一致する
第 6 図 ⅡB 類変遷図(S=1/8)
− 70 −
21
弥生時代
前期 中期 後期 壱岐島 唐津湾 糸島半島西部 糸島半島中央部 博多湾西部 早良平野 博多湾東部 44
310
119
206
前期 中期 後期
古墳時代
348
155
279
88
0
10 ㎝
※実測図の番号は第 3 表の個別番号に一致する
第 7 図 ⅡD 類変遷図(S=1/8)
− 71 −
22
新町遺跡では 17 次調査で検出した 7 号竪穴住居跡から未製品や他のⅡ類と供伴してⅡ D 類 10 点が
出土しており注目される。このほかのⅡ類については、出土した資料が少ないことから個別の検討は
困難であり、今後資料の増加を待って検討を行いたい。
Ⅲ類は壱岐島から玄海灘沿岸部に広く分布するが、各遺跡での出土数は少なく様相は不明瞭である。
以上のⅠ~Ⅲ類を遺跡ごとにみると、御床松原遺跡、西新町遺跡ではⅠ A 類、Ⅰ B 類のほか、Ⅱ A 類、
Ⅱ B 類、Ⅱ D 類などのⅡ類、Ⅲ類が出土しており、数量の面で劣るものの、原の辻遺跡からもⅠ~
Ⅲ類が出土している。Ⅰ類とⅡ類が出土した遺跡は、野方中原遺跡、今宿五郎江遺跡、小葎遺跡、三
雲遺跡群、一の町遺跡、菜畑遺跡など唐津湾から早良平野に及ぶ。Ⅱ類のみ出土した遺跡は三苫永浦
遺跡、比恵遺跡、姪ノ浜遺跡と早良平野から東部に位置しており、石錘の機能を考える上で重要である。
これと関係して、同一遺構内から出土した石錘を第 2 表に挙げた。Ⅰ類はⅠ~Ⅲ類および未製品と
の共伴があるが、同時期の可能性が高い資料としては西新町遺跡 12 次調査 43 号住居跡出土のⅠ A
類、Ⅱ D 類や御床松原遺跡 14 号住居跡出土のⅠ A 類、Ⅰ B 類がある。Ⅱ類はⅠ類との共伴のほかに、
三苫永浦遺跡 SX10 出土のⅡ A 類、Ⅱ B 類や西新町遺跡 17 次調査 7 号住居跡出土のⅡ B 類、Ⅱ D 類、
Ⅱ H 類のようにⅡ類のみでも出土する。石錘同士のセット関係について言及するには共伴資料が少
ないが、形態を超えて特定の組み合わせが存在するとは指摘し難く、むしろ西新町遺跡 17 次調査例
のように同一形態内での組み合わせが考えられる。
(4)形態、大きさの変遷
次に、各分類の形態、長さや重量等の大きさについて時期的な変遷を概観する。
九州型石錘のうち、現在確認できる最古の資料は佐賀県菜畑遺跡から出土したⅠ A 類とⅡ A 類で
ある。菜畑遺跡のⅠ A 類は欠損品であるが、残存長 4.7㎝、重量 30g とⅠ A 類の平均が長さ 10㎝ほ
どで重量が 180g であるのに比べ小型品である。Ⅰ A 類について長軸長と重量の関係をみると、長軸
が 5 ~ 9㎝の一群と 10 ~ 15㎝の一群に大きく二分される(第 8 図)。5 ~ 9㎝の一群は 100g 未満の小
型品、100 ~ 180g の中型品、200g 以上の大型品があり、10 ~ 15㎝の一群は 180g 以上の大型品である。
これは各サイズに滑石製品が含まれていること、弥生時代前期、中期の石錘が小型、中型品で弥生時
代後期以降に 180g を超える大型の石錘が出現することから、石材による規定ではなく時期の経過に
より次第に大型化していったものと推測される。ただし、小型のⅠ A 類は古墳時代前期の御床松原
遺跡、西新町遺跡例があり、出現期に限られるものではなく中型、大型品と共に古墳時代まで使用さ
れていたようである。また、詳細な時期が判明する資料は少ないが、弥生時代中期後半~後期にかけ
て石錘の出土量が増加しており、弥生時代終末頃に出現する早良平野を含めると古墳時代前期前半ま
では広範囲で安定した量が出土する。その後各地で衰退に転じ、玄界灘沿岸では古墳時代中期には消
滅していく。溝や穿孔のバリエーションも小葎遺跡例(弥生時代中期後半)が 2 孔上・中溝、2 孔上・
下溝、一の町遺跡例(弥生時代中期中頃~後期)が 1 孔全溝、原の辻遺跡例(弥生時代中期後葉~後
期初頭)が 1 孔上溝と出土量の増加に比例して多様化しており、形態も菜畑遺跡例、小葎遺跡例は長
軸が長い形態なのに対し原の辻遺跡等で長軸に対して幅が広い寸胴な形態が存在する。溝、穿孔、形
態については古墳時代前期にかけて各地で多様な形態をもつが、今宿五郎江遺跡など博多湾西部では
長軸が長い形態が多く、遺跡ごとに特徴をもつ場合がある。
− 72 −
第 2 表 同一遺構内出土資料一覧表
遺跡名称
三苫永浦遺跡
出土地点
出土層位
H 地区 SX10
分類
ⅡB類
石材
重量(g)
時期
滑石
(6.05)弥生時代中期後半~後期
H 地区 SX10
欠損品
滑石
(3.84)弥生時代中期後半~後期
H 地区 SX10
ⅡA類
砂岩
32.39 弥生時代中期後半~後期
比恵遺跡
(第 6 次調査)
SC03 住居址
未製品
滑石
弥生時代後期~古墳時代前期
SC03 住居址
ⅡB類
滑石
弥生時代後期~古墳時代前期
西新町遺跡
(第 12 次調査)
43 号住居跡
上層
ⅠA類
滑石
170.8 古墳時代前期
43 号住居跡
検出面
Ⅱ D 類またはⅡ E 類
滑石
(35.8)古墳時代前期
ⅡD類
角閃石
ⅡD類
滑石
102.9 古墳時代前期
ⅡB類
滑石
(26.4)古墳時代前期
43 号住居跡
滑石
43 号住居跡
43 号住居跡
検出面
119 号住居跡
西新町遺跡
(第 13 次調査)
西新町遺跡
(第 17 次調査)
宮の前遺跡
(F 地点)
今宿五郎江遺跡
(昭和 61 年度調査)
(116.0)古墳時代前期
119 号住居跡
Ⅱ B 類?
滑石
60.6 古墳時代前期
119 号住居跡
未成品
滑石
(108.9)古墳時代前期
119 号住居跡
未成品
滑石
295.7 古墳時代前期
25 号竪穴住居跡
ⅡA類
滑石
254.1 古墳時代前期
25 号竪穴住居跡
ⅡA類
滑石
291.4 古墳時代前期
7 号竪穴住居跡
未成品
滑石
(100.5)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(126.6)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(126.3)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
143.9 古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡH類
滑石
142.9 古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡB類
滑石
156.1 古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(134.3)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(66.0)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(142.7)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
254 古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
169.7 古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(101.1)古墳時代前期前半
7 号竪穴住居跡
ⅡD類
滑石
(175.0)古墳時代前期前半
F 地点 2 号住居址
床面
ⅡD類
滑石
7.5 弥生時代終末
F 地点 2 号住居址
床面
ⅡB類
滑石
(60.0)弥生時代終末
SD-100
ⅠA類
粘板岩
66.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅡB類
粘板岩
29.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅡB類
粘板岩
36.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅡA類
粘板岩
25.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅡC類
滑石
15.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
滑石
(52.0)弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠB類
滑石
35.0 弥生時代中期~後期
SD-100 S-12
ⅡD類
滑石
50.0 弥生時代中期~後期
5 区 SD-100
1包
SD-100
ⅡA類
滑石
35.0 弥生時代中期~後期
ⅠB類
滑石
318.0 弥生時代中期~後期
(103.0)弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠB類
滑石
SD-100
ⅠB類
滑石
171.0 弥生時代中期~後期
SD-100
未成品
滑石
114.0 弥生時代中期~後期
SD-100 S-19
1包
SD-100
御床松原遺跡
107.9 古墳時代前期
ⅠA類
滑石
117.0 弥生時代中期~後期
未成品
滑石
480.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠB類
滑石
300.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠB類
滑石
223.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠB類
滑石
133.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
滑石
132.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
滑石
109.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
滑石
121.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
粘板岩
73.0 弥生時代中期~後期
SD-100
ⅠA類
粘板岩
77.0 弥生時代中期~後期
75 号住居跡
ⅡA類
粘板岩
(11.5)弥生時代中期後半
75 号住居跡
ⅡB類
安山岩
84.5 弥生時代中期後半
75 号住居跡
ⅠA類
滑石
14 号住居跡
床面
ⅠB類
玄武岩
14 号住居跡
床面
ⅠA類
滑石
弥生時代中期後半(古墳時代前期の混入?)
古墳時代前期
67.0 古墳時代前期
15 号住居跡
ⅢA類
粘板岩
15 号住居跡
Ⅰ類
粘板岩
9.0 古墳時代前期
古墳時代前期
31 号住居跡
ⅠA類
粘板岩
古墳時代前期
31 号住居跡
未成品
泥岩
34 号住居跡
ⅠA類
滑石
古墳時代前期
34 号住居跡
Ⅰ類
滑石
古墳時代前期
原の辻遺跡
1 号旧河道
(平成 7 ~ 9 年度調査) 1 号旧河道
1 号旧河道 P100 区
154.0 古墳時代前期
南側包含層層
ⅡA類
粘盤岩
土器溜Ⅵ層
ⅡA類
砂岩
16.0 弥生時代中期後半~後期初頭
Ⅳ層
ⅠA類
滑石
285.0 弥生時代中期後半~後期初頭
− 73 −
7.0 弥生時代中期末~後期初頭
ⅠB類
ⅠA類
350
350
300
300
250
g 150
弥生中期
重 200
量
弥生中期~後期
g 150
弥生後期
100
0
5
10
15
長軸(㎝)
古墳初頭
古墳前期
50
弥生後期~古墳前期
0
弥生後期~終末期
100
古墳前期
50
弥生中期~後期
( )
( )
重 200
量
0
250
弥生前期後半
20
0
5
10
長軸(㎝)
15
第 8 図 ⅠA 類の時期別法量
第 9 図 ⅠB 類の時期別法量
ⅡA類
ⅡB類
500
250
400
200
( )
g 200
弥生中期~後期
g 100
弥生中期~後期
( )
重 150
量
弥生前期~中期
弥生中期
弥生前期
重 300
量
弥生後期
古墳初頭
弥生後期
100
0
50
古墳前期
0
5
10
長軸(㎝)
古墳後期
0
15
0
2
4
10
12
第 11 図 ⅡB 類の時期別法量
第 10 図 ⅡA 類の時期別法量
ⅢA類
ⅡD類
80
300
70
250
60
200
( )
弥生中期~後期
弥生終末期
g
100
重 50
量 40
弥生終末期
g
古墳前期
( )
重
量 150
古墳初頭
30
古墳前期
20
50
0
6
8
長軸(㎝)
古代末~中世前半
10
0
0
5
10
15
0
5
10
15
長軸(㎝)
長軸(㎝)
第 12 図 ⅡD 類の時期別法量
第 13 図 ⅢA 類の時期別法量
− 74 −
ⅠA類
ⅠB類
350
350
300
300
250
250
重量( )
重量( )
滑石
200
砂岩
g 150
粘板岩
g
滑石
200
砂岩
凝灰質泥岩
150
蛇紋岩
花崗岩
100
100
白雲母片岩
50
白雲母片岩
50
0
0
5
10
0
15
0
5
10
長軸(㎝)
15
長軸(㎝)
第 15 図 ⅠB 類の石材別法量
第 14 図 ⅠA 類の石材別法量
ⅡB類
ⅡA類
400
550
500
350
450
300
400
滑石
300
砂岩
250
粘板岩
重量( )
重量( )
g
350
滑石
200
砂岩
g
白雲母片岩
200
250
粘板岩
150
頁岩
150
頁岩
緑泥片岩
100
100
50
50
0
0
5
10
長軸(㎝)
15
0
20
0
5
10
15
長軸(㎝)
第 16 図 ⅡA 類の石材別法量
第 17 図 ⅡB 類の石材別法量
ⅢA類
Ⅱ類
80
600.0
70
500.0
60
ⅡC類(滑石)
400.0
300.0
ⅡE類(滑石)
g
ⅡF類(滑石)
200.0
0
5
10
50
40
ⅢA類(滑石)
30
ⅢA類(粘板岩)
g
ⅡH類(滑石)
20
ⅡH類(砂岩)
10
100.0
0.0
重量( )
重量( )
ⅡD類(滑石)
0
15
長軸(㎝)
ⅢA類(頁岩)
0
5
10
15
長軸(㎝)
第 18 図 ⅡC ~ⅡH 類の石材別法量
第 19 図 ⅢA 類の石材別法量
− 75 −
Ⅰ B 類は前述のように弥生時代中期中頃から後期にかけて出現するが、この時期にはすでに 30 g
ほどの小型品から 300 gを超える大型品まで存在している(第 9 図)。小型、中型、大型の三つに分かれ、
出土量も弥生時代後期にかけて増加し、古墳時代前期にかけて溝や穿孔のバリエーションも多様化す
る点はⅠA類と同様である。しかし、ⅠB類は古墳時代初頭から前期にかけて中型、大型品のみ出土
する。また、衰退の時期も博多湾西部、東部では弥生時代終末頃、糸島半島では古墳時代前期頃だが、
早良平野では古墳時代中期まで存在し同時期に唐津湾ではⅠB類が出現するよう、各地で動向が一致
しない点でⅠA類とは異なる。
Ⅱ A 類は 40g 以下の小型、50 ~ 100g の中型、200 ~ 300g の大型、400g 以上の超大型に分かれ、
初現は菜畑遺跡例で出土した長軸3㎝、重量5g の小型品である。唐津湾沿岸では継続する資料がな
いが、壱岐島から博多湾沿岸部の広範囲で古墳時代前期にかけて出土しており、比恵遺跡例(弥生時
代中期中葉~古墳時代後期)を除けば古墳時代前期をもって衰退したものと思われる。Ⅱ A 類の主
体は 40g 以下の小型品で、弥生時代前期から中期にかけては 20g 以下の軽量であった石錘が、弥生
時代中期後半以降になると小型の重量がやや増加するとともに中型、大型品が出現する。小型の石錘
は滑石のほかに砂岩、粘板岩等を素材としており(第 16 図)、大型、超大型品の大部分が滑石を素材
とするのと対照的である。大型と小型品で素材が異なる点はⅡ B 類も同様で、Ⅱ B 類の場合は 70g
以下の小型、100 ~ 200g の中型、200g を超える大型があるが、小型品が滑石、砂岩、粘板岩等を素
材とするのに対し中型、大型は滑石を素材とする(第 17 図)。時期が明確でない資料を含めると一
概に言えないが、Ⅱ類全体でみても長軸が長く重量の重い石錘は滑石を素材とする場合が多い。Ⅱ B
類は弥生時代中期頃には壱岐島から博多湾沿岸部まで存在していたものと思われるが、その初現につ
いては吉武遺跡例(弥生時代中期前半)を除き資料の時期幅が広いため明確に出来ない。また、石錘
の形態や出現の時期差からⅡ A 類からの派生が考えられるが、吉武遺跡のある早良平野ではⅡ A 類
に先行してⅡ B 類が出土しており、初現の問題も含め時期の確定する資料の増加を待って検討する
必要がある。 Ⅱ C 類は、糸島半島、博多湾沿岸部に弥生時代中期頃から古墳時代初頭の時期に存在する。一の
町遺跡例や今宿五郎江遺跡例は5㎝ほどの小型品であるが飯倉 A 遺跡例は 10㎝を超す大型品で、石
錘の形態や溝の施行本数も共通しない。
Ⅱ D 類はⅡ A 類やⅡ B 類に続き出土数が多く、初現は明確でないが弥生時代中期頃には糸島半島
から博多湾東部において使用される。この時期の石錘は、長軸が5㎝前後で重量が 50g 以下の一群
と長軸が8㎝以上で重量が 100g を超す一群があり大きさの面で多様であるが(第 12 図)、長軸1条
の溝を施行して中央に1孔を穿つ点は共通する。出土した遺跡は御床松原遺跡、今宿五郎江遺跡など
多様な形態の石錘が出土した遺跡で、出土量も少ないことからⅡ A 類の派生も考えられる。しかし、
古墳時代初頭から前期にかけて西新町遺跡で出土した一群の石錘は、形態、大きさ、成形法、1条溝
の内部に2~3孔を穿孔する点で規格性がある。また、断面の形態が扁平で大きさがやや大型化し、
穿孔数が増加する点で弥生時代のⅡ D 類とは違いがみられる。
Ⅱ E 類、Ⅱ F 類、Ⅱ H 類は出土量が少なく様相は明らかでないが、Ⅱ E 類、Ⅱ F 類は弥生時代中
期頃、Ⅱ H 類は古墳時代初頭から前期頃に存在しており、各種の形態は多様である(第 18 図)。
− 76 −
(5)系譜
九州型石錘は 1970 年代より博多湾を中心に分布することが知られていたが、資料数も少なく、そ
の出現や系譜については言及されることがなかった。これが、1984 年において下條氏により九州型
石錘の検討が行われることで、日本列島内における初現が弥生時代前期末から中期後半の博多湾、糸
島半島周辺であったことが明らかとなる(下條 1984)。その後、佐賀県菜畑遺跡例などの新出資料に
よりⅠ A 類(下條分類大形 A Ⅱ)の初源が弥生時代前期末の唐津湾に修正され、これが西北九州か
ら北部九州へ続く縄文時代以来の漁業文化伝播ルートにのって東へ拡範するなかで肥大化し、博多湾
で大きさ、重量の面で大型化したⅠ B 類(下條分類大形 A Ⅰ)へ形態転換を遂げるとされた。加えて、
韓国の全羅南道霊岩郡西湖面長川里遺跡から出土した花崗岩製の多条溝をもつ石錘から、Ⅱ類の大
型品(下條分類大形 B)の系譜について朝鮮半島より伝播した可能性を指摘している(下條 1989a)。
その後、韓国の忠清南道保寧市寛倉里遺跡出土例、慶尚南道泗川市勒島遺跡例から、Ⅰ類(下條分類
大形 A)の系譜もまた朝鮮半島に求めている(下條 2012)。ただし、Ⅲ類(下條分類大形 C)やⅡ F
類を除くⅡ類についてはその系譜が明らかではなく、今後の検討が必要である。
(6)機能
九州型石錘の機能については、大野左千夫氏により分銅形の石錘について、その形態、溝、穿孔か
ら天秤釣りの沈子としての機能が指摘される(大野 1981)。下條氏は分銅形の石錘が形態、重量構成帯、
出土量の面から打欠石錘などの漁網錘とは異なる様相を示すこと、民俗例にある天秤釣の沈子と形態
が類似することから大野氏の説を追認しており(下條 1984)、天秤釣用の沈子としての使用法が広く
認識されることとなる。これに対して、山中英彦氏は錘の重量構成帯の違いが釣用と漁網用の違いに
直結するものではなく、むしろ福岡県海の中道遺跡出土の鉛錘から釣用錘は不要、または小型化が図
られたものと推測される(山中 2007)。山中氏は、分銅形の九州型石錘と漁網錘間における重量構成
帯の違いを、民俗例や博多湾の自然環境をもとに網の種類による差に求められており注目される。西
新町遺跡出土の石錘について集成、検討を行った大庭孝夫氏は、100g を超える分銅形の九州型石錘
が釣漁用錘と考え難いとする山中氏の指摘について一定の理解を示しながらも、出土量の僅少さと同
分類内での重量分布のバラつきが大きい点を釣漁の対象魚種の違いに求めている(大庭 2009)。以上
のように、分銅形の九州型石錘については出土量や重量、形態の面から民俗資料に見られる天秤釣用
の錘と想定される一方で、漁網用錘の可能性も指摘されている。大庭氏の指摘にあるように、石錘の
機能は複雑な要因により違いが生じるため、一括資料など今後の資料の増加を待ってさらに検討して
いく必要がある。
紡錘形の九州型石錘については、小型錘の重量が漁網錘と異なることから釣漁の沈子の可能性が指
摘される(下條 1984)。大型の錘については、当初その出土量が僅少であったことから釣漁錘の可能
性も想定されたが(下條 1984)、現在では出土量が増加し、形態の面からも漁網錘として認識される
(山中 2007)。特に、西新町遺跡 17 次調査で検出した 7 号竪穴住居跡からは 162 点の自然石石錘と 12
点の紡錘形の九州型石錘が出土しており、紡錘形の石錘の機能を検討する上で非常に重要な資料であ
る。検討された大庭氏は石錘の観察、法量の検討、先行研究や民俗資料から漁網の復元を行うが(大
庭 2009)、良好な一括資料の少ない九州型石錘において、出土資料から漁法に言及出来た数少ない事
− 77 −
例である。
(7)古代以降の九州型石錘
九州型石錘に関するこれまでの研究は、弥生時代前期~古墳時代後期の出土例を対象としてきたが、
古代以降の類似した石錘については、意外に注目されてこなかった。第 20 図は、長崎県西海市の膝
行神貝塚出土の石錘である。膝行神貝塚は、波静かな大村湾に面した中世の遺跡で、問題の石錘は滑
石製石鍋を含む 12 ~ 13 世紀の土坑内から出土した(本田編 2005)。滑石製石鍋の鍔の部分を転用し
たもので、上端に径 8 ~ 9㎜の孔を穿孔し、擦切りの溝で結ばれる。本稿分類では九州型石錘Ⅰ B 類
である。このほか、佐世保市門前遺跡では、古代末~中世のⅢ A 類がまとまって出土しているほか(第
24 図)、松浦市楼楷田遺跡では 12 ~ 13 世紀のⅡ A 類が出土している(町田 1985)。
中世の石錘については、長崎県松浦市の楼楷田遺跡での分析事例があるものの(町田 1985)、長崎
県内でもほとんど手つかずの分野である。一方、滑石製石鍋の転用品については、近年滑石製石鍋に
関する関心が高まり、バレン状石製品や石製権など様々なバリエーションがあることが明らかになり
つつある(東編 2009)。膝行神貝塚や門前遺跡の出土例を参考にすれば、古代以降にも九州型石錘の
系譜をひく石錘が存続し、特に中世以降は滑石製石鍋の流通により、破片を転用した九州型石錘が盛
行した可能性は否定できないであろう。今回は悉皆的な集成はできておらず、具体的な検討は今後の
課題となるが、今後古代~中世の九州型石錘の分析を通して、古墳時代以降の九州型石錘の展開がつ
かめるとともに、さらに近世や近代の事例までつなげることで、民俗資料との時間的空隙が埋まり、
0
0
(S=1/30)
1m
第 20 図 膝行神貝塚出土石錘と出土状況
− 78 −
(S=1/2)
5cm
さらには絵画資料や文献資料との比較検討を通して、九州型石錘の用途の問題にも踏み込むことがで
きるのではないかと期待される。
3.まとめ
九州型石錘について、その様相をまとめる。
① ‌Ⅰ A 類は弥生時代前期後半に唐津湾沿岸で小型品が出現し、弥生時代中期後半から後期には唐
津湾から糸島半島、博多湾西部へと東へ分布が拡大していく。また、古墳時代前期までは玄海灘
沿岸の広範囲で使用されるが、古墳時代中期には全域で衰退に転じる。なお、津屋崎町勝浦坂口
遺跡例のように時期は不明であるが博多湾を超えて東へ展開していた可能性がある。
② ‌Ⅰ B 類の出現期は判然としないが、弥生時代中期中頃から後期にかけて糸島半島や博多湾西部
において出現する。弥生時代後期に早良平野から博多湾東岸部へ分布が拡大し、古墳時代前期に
は広く用いられる。しかし、この時期に減少する博多湾西部、東部や糸島半島に対し、早良平野
や唐津湾沿岸部では古墳時代中期に存在しており玄界灘沿岸部で一致した動向を示さない。
③ ‌鹿児島県花渡川例にみられるよう、Ⅰ B 類の分布はⅠ A 類に比べより広範囲に広がる。
④ ‌Ⅱ A 類は初現が弥生時代前期後半頃の唐津湾で、弥生時代中期後半には唐津湾や糸島半島から
博多湾沿岸へ分布が東へ拡大する。大部分が古墳時代前期をもって衰退する。
⑤ ‌弥生時代前期、中期のⅡ A 類は 20g 以下の小型品であるが、弥生時代中期後半には重量が増加し、
中型、大型品が存在する。これが同一分類と出来るか、今後の課題としたい。
⑥ ‌Ⅱ B 類の出土遺跡は博多湾西部にやや偏るが、出土数自体はほぼ均衡する。
⑦ ‌古墳時代前期にかけて、Ⅰ A 類、Ⅰ B 類の形態、溝・穿孔のバリエーションは多様化する。
⑧ ‌Ⅰ A 類は、遺跡特有の形態、穿孔方法などの特徴をもつ遺跡が存在する。
⑨ ‌古代以降にも九州型石錘の系譜をひく石錘群が存在する。
Ⅱ類の動向は出土資料の数量や時期の点から不明な点が多いが、その主体がⅡ A 類とⅡ B 類にあっ
たことは明らかで、出土資料の増加と集成を以て系譜について検討していく必要がある。
系譜についてはⅠ類やⅡ類の一部が朝鮮半島に求められる一方で、Ⅱ類の小型品やⅢ類のように詳
細が不明な資料も多い。石錘の機能も含め、今後の検討課題としたい。
本稿は、平成 25 年 9 月 7 日に、愛媛県松山市の松山市考古館で行われた、第 4 回海洋考古学会研究会『寒暖流の考古学Ⅰ』
において、林田・中尾の連名で「九州における九州型石錘・土錘について」と題して発表した内容に基づいている。研究会の
席上やその後の討論において、参加者から有益な助言をいただいた。特に下條信行氏からは、九州型石錘の研究の経緯や分析
の着眼点などについてご教示いただいた。御礼申し上げるとともに、十分意をくみ取れなかったことをお詫びし、今後の筆者
らの責としたい。
このほか、資料調査等において、以下の方々、諸機関にお世話になった。ご芳名を記して謝意を表します。(五十音順・敬称略)
石村 智・内田律雄・小沢佳憲・加藤和歳・河合章行・城門義廣・木下博文・甲元眞之・坂本豊治・佐々田学・柴田昌児・秦 憲二・
乗松真也・東 貴之・深澤芳樹・ 福井淳一・宮里 修・宮下雅史・吉村靖徳・九州歴史資料館・長崎市文化財課、福岡市埋
蔵文化財センター
なお、本稿の執筆分担は、第 1 章を中尾が、第 2 章(1)~(6)を林田が、第 2 章(7)を中尾が、第 3 章は林田・中尾
が執筆した。
− 79 −
註
(1) ‌九州型石錘を集成するにあたってはできる限り悉皆的な集成に努めたが、第 2 章(3)、(4)においては時期的な変遷
を検討する上で、報告書において時期の判明する資料を対象としている。
(2) ‌下條氏より、Ⅱ類における溝・穿孔の数量や施行位置などの違いを分類基準ではなくバリエーションとして把握すべき
ではないかと御指摘いただいた。
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民俗博物館
都出比呂志 1968「考古学からみた分業の問題」『考古学研究』15(2),43 - 54 頁 , 考古学研究会
中尾篤志 2005「第Ⅴ節第 2 項漁撈具」『原の辻遺跡総集編Ⅰ』原の辻遺跡調査事務所調査報告書第 30 集 ,156 - 160 頁 , 長崎
県教育委員会
− 80 −
中島直幸・田島龍太編 1982『菜畑遺跡』唐津市文化財調査報告第 5 集,唐津市教育委員会
二宮忠司編 1991『福岡市今宿五郎江遺跡Ⅱ』福岡市埋蔵文化財調査報告書第 238 集 , 福岡市教育委員会
乗松真也 2010「博多湾沿岸における備讃瀬戸系漁具の受容とその背景」『九州考古学』第 85 号 ,49 - 61 頁 , 九州考古学会 東 貴之編 2009『生産地・消費地における石鍋調査報告Ⅱ』長崎石鍋記録会
平尾和久 2003「福岡県における飯蛸壺形土器の受容と展開」『古文化談叢』第 50 集(上),39 - 61 頁 , 九州古文化研究会
平尾和久 2004「北部九州の脚台付製塩土器」『福岡大学考古学論集 ‐ 小田富士雄先生退官記念 ‐ 』235 - 250 頁 , 小田富士
雄先生退職記念事業会
本田秀樹編 2005『膝行神貝塚』西彼町文化財調査報告書第 2 集 長崎県西彼町教育委員会 町田利幸 1985「(4)滑石製品」『楼楷田遺跡 ‐ 松浦火力発電所建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 ‐ 』長崎県文化財調
査報告書第 76 集,127 - 141 頁,長崎県教育委員会・松浦市教育委員会
森 浩一 1963「飯蛸壺形土器と須恵器生産の諸問題」『近畿古文化論攷』, 吉川弘文館
山崎純男編 1973『下山門遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書第 23 集 , 福岡市教育委員会
山中英彦 2007「「博多湾貿易」を支えた古代海人」『古文化談叢』第 57 集 ,55 - 90 頁 , 九州古代文化研究会
和田晴吾 1982「弥生・古墳時代の漁具」『考古学論考 小林行雄博士古稀記念論集』305 - 339 頁 , 平凡社
渡辺 誠 1985「西北九州の縄文時代漁撈文化」『列島の文化史』2,45 - 96 頁,日本エディタースクール出版部
渡辺 誠 1989「西川津遺跡出土漁具の文化史的背景」
『朝酌川河川改修工事に伴う西川津遺跡発掘調査報告書Ⅴ(海崎地区3)』
303 - 324 頁,島根県土木部河川課・島根県教育委員会
− 81 −
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
※九州地方において出土した九州型石錘を集成した。
※古墳時代を下る類似例についても、一部集成の対象としている。
※表中の遺跡番号は第1図の番号に一致し、個別番号は第2図〜第 7 図および第 21 図~第 24 図の個別の遺物番号と一致する。
遺跡 個別
番号 番号
遺跡名称
分類
出土地点
1
1
宮尾遺跡
ⅢA類
A-1 地点 7 号
竪穴住居跡
2
2
勝浦坂口遺跡
ⅡA類
A 地点
出土層位
包含層 1
石材
重量
(g)
片岩の一種
50
砂岩
40
時期
ⅡF類
A 地点
包含層 1
変朽安山岩
4
ⅡG類
A 地点
包含層 2
頁岩?
3
弥生時代中期
~古墳時代 ?
5
ⅠA類
C 地点
包含層
変朽安山岩
230
弥生時代中期
~古墳時代 ?
酒井仁夫編 1984『花見遺跡』古賀町文化財調査報告
書第 4 集,古賀町教育委員会
3
6
花見遺跡
ⅡC類
第 86 号土壙
4
7
浜山遺跡
ⅡA類
C 地点第 4 号
住居跡
弥生時代中期後葉
~後期 ?
8
ⅡA類
C 地点第 4 号
住居跡
弥生時代中期後葉
~後期 ?
9
ⅡA類
C 地点溝
10
千鳥遺跡
ⅡA類
第 13 号土壙
13
11
辻田遺跡
ⅠB類
Ⅱ -B7 区
14
12
柏田遺跡
Ⅰ類
6
13
三苫永浦遺跡
8
10
滑石
弥生時代
(59.1)古墳時代前期
小池史哲編 1977『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報
告第 4 集』福岡県教育委員会
13.84 弥生時代中期
吉留秀敏編 1996『三苫永浦遺跡』福岡市埋蔵文化財
調査報告書第 476 集,福岡市教育委員会
フォルンフェ
ルス ?
189.15
15
ⅡB類
H 地区 SX10
滑石
(6.05)
弥生時代中期後半
~後期
16
欠損品
H 地区 SX10
滑石
(3.84)
弥生時代中期後半
~後期
17
ⅡA類
H 地区 SX10
砂岩
32.39
弥生時代中期後半
~後期
18
ⅡA類
H 地区 SX40
砂岩
19
ⅡA類
H 地区 SD73
砂岩
11.91
20
ⅡF類
I 地区 SC12
滑石
16.56 弥生時代中期
21
ⅡB類
I 地区 SX31
砂岩
48.13 古墳時代後期
22
ⅡD類
I 地区 SC32
覆土
粘板岩
23
ⅡA類
I 地区 D6 区
包含層
砂岩
24
ⅡA類
I 地区 D7 区
包含層
結晶片岩
17.52
ⅡA類
K 地区 SC01
砂岩
29.44 弥生時代中期
ⅢA類
3 次調査
G-11
滑石
242.89 弥生時代
(5.66)古墳時代後期
7.09
45
27
ⅢA類
滑石
(38.0)
28
ⅡA類?
3 次調査
D-12
滑石
(67.5)
29
ⅡB類?
3 次調査
F-11
滑石
ⅡD類
SR-92
滑石
ⅡA類
B- ⅩⅡ
滑石片岩
ⅡA類
SX-01
滑石
30
唐原遺跡
32
33
席田青木遺跡
(第 3 次調査)
大谷遺跡
35
比恵遺跡
(第 2 次調査)
石鍋の再利用品 ?
69
1989『唐原遺跡 - 集落址編 -』福岡市埋蔵文化財調査
報告書第 207 集,福岡市教育委員会
(10.0)
12.8
弥生時代終末
ⅡA類
第2区
下層
滑石
ⅡA類
第2区
下層
滑石
21
Ⅲ6
土製品?
横山邦継編 1983『比恵遺跡』第 6 次調査・遺構編,福
岡市埋蔵文化財調査報告書第 94 集,福岡市教育委員会
SC03 住居址
滑石
弥生時代後期
~古墳時代前期
37
ⅡB類
SC03 住居址
滑石
弥生時代後期
~古墳時代前期
38
ⅡB類
SH14(土壙)
39
ⅡA類
第 1 号古墳
ⅡB類
SD48
ⅡA類
SD15
ⅡA類
SC63
40
41
42
43
比恵遺跡
(第 40 次調査)
比恵遺跡
(第 41 次調査)
比恵遺跡
(第 42 次調査)
比恵遺跡
(第 43 次調査)
44
45
比恵遺跡
(第 52 次調査)
46
47
48
(第 14 次調査)
滑石
上層
弥生時代中期中葉
~古墳時代後期
(45.0)
弥生時代後期
~古墳時代初頭
滑石
12.8 古墳時代
田中壽夫編 1994『比恵遺跡 13』福岡県埋蔵文化財調
査報告書第 368 集,福岡市教育委員会
弥生時代中期後半
19.5
~後期初頭?
山崎龍雄・杉山富雄編 1995『比恵遺跡群(15)
』福岡
市埋蔵文化財調査報告書第 401 集,福岡市教育委員会
滑石
ⅡD類
Ⅰ区 SK73
滑石
弥生時代中期
ⅡA類
包含層
滑石
弥生時代~古代
ⅡC類
包含層
砂岩
弥生時代~古代
滑石
弥生時代~古代
滑石片岩
弥生時代中期後半
~後期前半
包含層
第 49 号
祭祀土壙
田中壽夫編 1994『比恵遺跡 13』福岡県埋蔵文化財調
査報告書第 368 集,福岡市教育委員会
山崎龍雄・杉山富雄編 1995『比恵遺跡群(15)』福岡
市埋蔵文化財調査報告書第 401 集,福岡市教育委員会
粘板岩
Ⅰ区 SC85
ⅡA類
横山邦継編 1983『比恵遺跡』第 6 次調査・遺構編,
福岡市埋蔵文化財調査報告書第 94 集,福岡市教育委員
会、横山邦継編 1986『比恵遺跡』第 6 次調査・遺物編,
福岡市埋蔵文化財調査報告書第 130 集,福岡市教育委
員会
(10.2)古墳時代前期
滑石
ⅡA類
ⅡB類
那珂遺跡
砂岩
周溝埋土
久住猛雄編 1997『蓆田青木遺跡 3』福岡市埋蔵文化財
調査報告書第 534 集,福岡市教育委員会
加藤良彦編 1994『蓆田遺跡群 7』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 357 集,福岡市教育委員会
弥生時代中期末
~後期後半
未製品
比恵遺跡
(第 6 次調査)
山崎純男編 1982『海の中道遺跡』福岡市埋蔵文化財
調査報告書第 87 集,福岡市教育委員会
石鍋の再利用品 ?
弥生時代中期末
22
~後期後半
ⅡB類
小池史哲編 1979『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報
告第 12 集』福岡県教育委員会
暗灰色の
泥岩質
砂岩
海の中道遺跡
浜田信也編 1985『浜山・千鳥遺跡』古賀町文化財調
査報告書第 5 集,古賀町教育委員会
(214)弥生時代後期
H 地区 SD08
26
浜田信也編 1985『浜山・千鳥遺跡』古賀町文化財調
査報告書第 5 集,古賀町教育委員会
滑石に近い
片岩
H 地区 SC02
36
12
弥生時代中期後葉
~後期 ?
ⅡA類
34
11
第 6 層下部
蛇紋岩
ⅡA類
31
9
砂岩
14
25
7
安武千里編 1998『勝浦北部丘陵遺跡群』津屋崎町文
化財調査報告書第 13 集,津屋崎町教育委員会
弥生時代中期
~古墳時代 ?
3
上層
参考文献
大坪剛編 1996『宮尾遺跡 A 地点』水巻町文化財調査
報告書第 3 集,水巻町教育委員会
弥生時代中期
8
~古墳時代 ?
5
備考
− 82 −
宮井善朗編 1995『比恵遺跡群(18)
』福岡市埋蔵文化
財調査報告書第 404 集,福岡市教育委員会
山口譲治編 1992『那珂 5』福岡市埋蔵文化財調査報告
書第 291 集,福岡市教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
15
16
49
50
遺跡名称
小笹遺跡
原深町遺跡
51
52
17
53
飯倉 D 遺跡
54
19
56
57
58
出土地点
ⅡD類
C区 3-c 地点
A溝
西新町遺跡
(昭和 51 ~ 53 年度調査)
西新町遺跡
(第 6 次調査)
59
滑石
120.0
Ⅴ区 2 号溝
滑石
170.0 古墳時代前期
未成品
Ⅳ区
砂岩
168.0
ⅠB類
7 区 SD273
or Ⅱ B 類
25.2
13 区 SC935 埋土
8 区 SC060-2 床面上
アクチノ閃石
岩(硬質)
ⅡC類
SK-103
ⅡD類
C 地区
第9号
竪穴住居跡
滑石
滑石
ⅡA類
SC05
砂岩
SC07
砂岩
滑石
61
ⅡA類
98 号住居跡
62
ⅡB類
1 区東拡張区
撹乱
上面
滑石
滑石
15.0
(427.0)
中村浩・池田榮史編 1995『飯倉 D 遺跡』福岡市埋蔵
文化財調査報告書第 440 集,福岡市教育委員会
弥生時代後期中頃
~古墳時代前期
弥生時代後期中頃
~古墳時代前期
小林義彦編 1992『飯倉A遺跡』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 296 集,福岡市教育委員会
弥生時代後期
~古墳時代初頭
池崎譲二・田崎博之・常松幹雄・田中克子・折尾学編 1982『福
岡市高速道路関係埋蔵文化財調査報告Ⅱ西新町遺跡』福岡
市埋蔵文化財調査報告書第 79 集,福岡市教育委員会
常松幹雄編 1996『西新町遺跡 4』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 483 集,福岡市教育委員会
44 弥生時代終末
8.5 弥生時代終末
重藤輝行編 2000『西新町遺跡Ⅱ』福岡県文化財調査
報告書第 154 集,福岡県教育委員会
54.1
185.5 古墳時代前期
70.3
63
ⅡB類
64
ⅡB類
119 号住居跡
65
ⅡB類
93 号住居跡
覆土上層
滑石
66
ⅡB類
144 号
住居跡付近
遺構面
滑石
(159.5)
67
ⅡB類
3南3区
遺構面
角閃石
(224.7)
68
Ⅱ B 類 ? 119 号住居跡
69
飛高憲雄・力武卓治編 1981『福岡市西区原深町遺跡』
福岡市埋蔵文化財調査報告書第 71 集,福岡市教育委員
会
195
74・75 号
住居跡
上層
滑石
19.8 古墳時代前期
滑石
(26.4)古墳時代前期
破損後再加工
(97.6)古墳時代前期
短軸溝は半周する
滑石
60.6 古墳時代前期
43 号住居跡
滑石
107.9 古墳時代前期
破損後再加工
70
未成品
3 中 3 区撹乱
砂岩
156
孔は未貫通
71
ⅢA類
3 区中 1 区
撹乱
滑石
19.3
中央断面が半円形
72
Ⅲ類
125 号住居跡
粘板岩
19.7 古墳時代前期
73
ⅢA類
4 号住居跡
74
ⅠA類
43 号住居跡
75
Ⅰ 類 or
154 号住居跡
Ⅱ類
滑石
(2.4)古墳時代前期
76
Ⅲ B 類 ? 21 号住居跡
滑石
(22.4)古墳時代前期
77
ⅠB類
144 号
住居跡付近
滑石
126.1 古墳時代前期
78
Ⅰ類
19 号住居跡
緑色片岩
114.7 古墳時代前期
79
ⅠB類
29・30 号
住居跡付近
滑石
175.3
80
ⅠB類
30 号住居跡
蛇紋岩
105.9 古墳時代前期
81
ⅠA類
139 号住居跡
細粒砂岩
82
ⅠA類
72 号住居跡
83
ⅠB類
166 号住居跡
84
ⅡD類
43 号住居跡
or Ⅱ E 類
検出面
覆土上層
上層
遺構面
覆土上層
85
Ⅱ類
64 号住居跡
86
ⅡD類
43 号住居跡
87
ⅡD類
43 号
住居跡付近
遺構面
検出面
88
ⅡD類
43 号住居跡
89
ⅡD類
50 号住居跡
90
ⅡD類
78 号住居跡
91
未成品
1 号住居跡
92
未成品
119 号住居跡
93
未成品
119 号住居跡
94
未成品
3北1区
95
96
97
98
西新町遺跡
(第 13 次調査)
滑石
12.6 古墳時代前期
滑石
170.8 古墳時代前期
185.8 古墳時代前期
凝灰質泥岩
274.3 古墳時代前期
滑石
角閃石
覆土下部
遺構面
179 古墳時代前期
砂岩
滑石
滑石
1 孔未貫通
砥石の転用品
(35.8)古墳時代前期
(23.8)古墳時代前期
(116.0)古墳時代前期
239.4
滑石
102.9 古墳時代前期
滑石
(46.4)古墳時代前期
滑石
(6.9)古墳時代前期
滑石
156.8 古墳時代前期
滑石
(108.9)古墳時代前期
滑石
295.7 古墳時代前期
細粒砂岩
参考文献
31.6 古墳時代後期
アクチノ閃石岩
(軟質、滑石様)
3 区ピット
(第 12 次調査)
備考
飛高憲雄・二宮忠司編 1975『福岡市小笹遺跡第 2 次発掘調査
報告』福岡市埋蔵文化財調査報告書第 34 集,福岡市教育委員会
Ⅴ区
ⅡA類
西新町遺跡
時期
粘板岩
ⅡA類
60
重量
(g)
石材
ⅠA類
ⅡB類
飯倉 A 遺跡
出土層位
ⅡF類
ⅡB類
55
18
分類
2 孔未貫通
9.8
未成品
95 号住居跡
細粒砂岩
不明
2号
竪穴住居跡
滑石
14.5 古墳時代前期
ⅡA類
25 号
竪穴住居跡
滑石
254.1 古墳時代前期
ⅡA類
25 号
竪穴住居跡
滑石
291.4 古墳時代前期
(67.9)
− 83 −
吉田東明編 2002『西新町遺跡Ⅳ』福岡県文化財調査
報告書第 168 集,福岡県教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
遺跡名称
滑石
100
ⅠA類
砂岩
101
未製品
2号
竪穴住居跡
滑石
未製品
78・79 号
竪穴住居跡
西新町遺跡
(第 14 次調査)
ⅡD類
上層
滑石
廃土
滑石
重量
(g)
時期
90.9
34.2
岡寺未幾編 2005『西新町遺跡Ⅵ』福岡県文化財調査
報告書第 200 集,福岡県教育委員会
(30.0)
23 号
竪穴住居跡
滑石
57.9 古墳時代初頭
105
ⅡH類
4号
竪穴住居跡
細粒砂岩
17.9 古墳時代前期
ⅠB類
8号
竪穴住居跡
砂岩
207.5 古墳時代前期前半
107
(第 17 次調査)
108
2号
ⅢB類?
竪穴住居跡
覆土中部
シルト岩
(7.2)古墳時代前期前半
未成品
5号
竪穴住居跡
覆土
砂岩
130.7 古墳時代前期前半
覆土
109
Ⅰ類
6号
竪穴住居跡
滑石
(144.5)古墳時代前期前半
110
未成品
7号
竪穴住居跡
滑石
(100.5)古墳時代前期前半
111
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(126.6)古墳時代前期前半
112
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(126.3)古墳時代前期前半
113
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
143.9 古墳時代前期前半
滑石
142.9 古墳時代前期前半
114
ⅡH類
7号
竪穴住居跡
115
ⅡB類
7号
竪穴住居跡
滑石
156.1 古墳時代前期前半
116
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(134.3)古墳時代前期前半
117
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(66.0)古墳時代前期前半
118
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(142.7)古墳時代前期前半
119
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
254 古墳時代前期前半
120
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
169.7 古墳時代前期前半
121
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(101.1)古墳時代前期前半
122
ⅡD類
7号
竪穴住居跡
滑石
(175.0)古墳時代前期前半
123
ⅡD類
8号
竪穴住居跡
滑石
(148.2)古墳時代前期前半
(248.2)古墳時代前期前半
床面
124
ⅡD類
9号
竪穴住居跡
覆土上面
滑石
125
ⅡH類
13 号
竪穴住居跡
覆土
シルト岩
126
未成品
25 号
竪穴住居跡
覆土上部
滑石
127
未成品
32 号
竪穴住居跡
床面下層
128
Ⅰ類
溝 14
滑石
ⅡB類
SC10
滑石
弥生時代後期初頭
130
ⅡA類
SX26
滑石
弥生時代中期新段階
131
ⅡB類
2区
包含層
未成品
2区
包含層
ⅢA類
6号
竪穴住居跡
滑石
ⅠA類
第 10 号
住居址
凝灰岩
129
西新町遺跡
(第 19 次調査)
132
133
134
135
西新町遺跡
(第 22 次調査)
藤崎遺跡
下山門遺跡
136
137
姪浜遺跡
シルト岩
1 孔未貫通
重藤輝行編 2006『西新町遺跡Ⅶ』福岡県文化財調査
報告書第 208 集,福岡県教育委員会
(10.5)古墳時代前期前半
40.3 古墳時代前期前半
14.6 古墳時代前期前半
(98.5)
今井隆博編 2008『西新町遺跡 10』福岡市埋蔵文化財
調査報告書第 984 集,福岡市教育委員会
滑石
下原幸裕編 2009『西新町遺跡Ⅸ』福岡県文化財調査
報告書第 221 集,福岡県教育委員会
70.88 弥生時代終末期
220
ⅢA類
滑石
34
ⅢA類
滑石
35
浜石哲也編 1981『福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財報告Ⅰ藤崎
遺跡』福岡市埋蔵文化財調査報告書第 62 集,福岡市教育委員会
弥生時代終末
~古墳時代初頭
山崎純男編 1973『下山門遺跡』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 23 集,福岡市教育委員会
長家伸編 1996『姪浜遺跡 2』福岡市埋蔵文化財調査報
告書第 478 集,福岡市教育委員会
ⅡA類
Ⅰ区 SC023
滑石
41.0 古墳時代
138
未成品
Ⅰ区 SC025
滑石
古墳時代
139
ⅡB類
Ⅰ区 SC033
上面
滑石
369.0 古墳時代
SC030、SC033 の 切
り合い不明な時点で上
面出土として取り上げ
140
ⅡB類
Ⅰ区 SC033
上面
滑石
185.0 古墳時代
SC030、SC033 の 切
り合い不明な時点で上
面出土として取り上げ
141
ⅡB類
Ⅰ区 SC033
上面
滑石
129.0 古墳時代
SC030、SC033 の 切
り合い不明な時点で上
面出土として取り上げ
142
未製品
Ⅰ区 SC105
滑石
143
ⅡB類
Ⅰ区 SK032
滑石
144
ⅡE類
Ⅱ区 SK094
滑石
145
ⅡA類
Ⅱ区 SX073
滑石
146
ⅡA類
Ⅱ区包含層 B
滑石
ⅡB類
EH-46・47
グリッド
147
宮の前遺跡
(E 地点)
参考文献
13.2 古墳時代前期
未成品 ?
西新町遺跡
備考
(21.6)
104
106
23
石材
50 号
竪穴住居跡
103
22
出土層位
59 号
竪穴住居跡
102
21
出土地点
ⅠA類
99
20
分類
弥生時代
中期後半~末
249.0
(524.0)弥生時代中期初頭
(93.0)弥生時代中期
6.3 弥生時代中期~後期
(16.0)
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
− 84 −
浜田信也編 1970『今宿バイパス関係埋蔵文化財調査
報告書第 1 集』福岡県教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
遺跡名称
分類
時期
237.0
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
149
未成品
292.0
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
150
Ⅰ類
EL-49
グリッド
ⅡD類
EH ~ EN-58
グリッド
安山岩
152
ⅠA類
EH ~ EN-58
グリッド
滑石
153
Ⅰ類
EH ~ EN-58
グリッド
滑石
ⅡB類
EH ~ EN-58
グリッド
滑石
ⅡD類
F 地点 2 号
住居址
床面
ⅡB類
F 地点 2 号
住居址
床面
155
宮の前遺跡
(F 地点)
156
157
158
湯納遺跡
160
ⅡB類
(昭和 44 ~ 46 年調査)
ⅠA類
ⅠB類
163
Ⅰ類
164
ⅡB類
165
ⅡB類
166
ⅡB類
167
ⅡA類
168
ⅡA類
169
ⅡA類
170
ⅡA類
171
ⅡA類
172
ⅡA類
173
ⅡD類
174
未成品
175
ⅠA類
176
未成品
177
未成品
178
13
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
281
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
(15.0)
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
滑石
7.5 弥生時代終末
滑石
(60.0)弥生時代終末
埋土
弥生時代中期
~古墳時代
滑石
栗原和彦・上野精志・木川雅樹編 1976『今宿バイパ
ス関係埋蔵文化財調査報告』第 4 集,福岡県教育委員
会
ⅡB類
H-4
Ⅳ層
ⅠB類
181
黒色粘板岩
11.54 中世 ?
滑石片岩
131.1 不明
ⅠB類
E-6
Ⅴ層
滑石片岩
古墳時代前期後半~中期
ⅠA類
B5 区 eT
A溝
滑石
弥生時代終末
183
ⅠB類
F3 区 5T
B溝
滑石
弥生時代終末
184
ⅠB類
C5 区 eT
A溝
滑石
弥生時代終末
185
ⅠB類
B5 区 dT
A溝
滑石
弥生時代終末
186
Ⅰ類
F4 区 4T
B溝
滑石
弥生時代終末
187
ⅡA類
F5 区 4T
188
ⅡG類
C8 区
表採
滑石
189
ⅡB類
B5 区 cT
A溝
滑石
190
ⅡB類
C12 区
表採
滑石
野方中原遺跡
191
野方勧進原遺跡
ⅡB類
2 号住居址
滑石
28
192
羽根戸遺跡
ⅡD類
表採
滑石
193
ⅠB類
194
196
吉武遺跡
(第二次調査)
吉武遺跡
(第三次調査)
山口譲治・松村道博編 1983『拾六町ツイジ遺跡』福岡
市埋蔵文化財調査報告書第 92 集,福岡市教育委員会
柳田純孝編 1974『野方中原遺跡発掘調査概報』福岡
市埋蔵文化財調査報告書第 30 集,福岡市教育委員会
頁岩
27
195
浜田信也編 1970『今宿バイパス関係埋蔵文化財調査
報告書第 1 集』福岡県教育委員会
未成品
拾六町ツイジ遺跡
180
182
九州大学文学部考古学研究室編 1971『宮の前遺跡』
福岡市埋蔵文化財調査報告書第 13 集,福岡市教育委員
会
滑石
ⅠA類
162
参考文献
頁岩質砂岩
ⅠB類
湯納遺跡
161
179
1 号住居址
備考
弥生時代終末
~古墳時代初頭 ?
F 地点 D-9 区
159
29
重量
(g)
EE・EG-49
グリッド
154
26
石材
EE・EG-49
グリッド
151
25
出土層位
ⅠA類
148
24
出土地点
B- Ⅴ・h-8
包含層
上層
滑石
ⅠB類
B- Ⅳ・SR02
ⅡB類
Ⅴ区 SD-11
滑石
滑石
ⅡB類
G16 地区
SK135
滑石
弥生時代終末
弥生時代後期後半 ?
福岡市教育委員会文化部文化課埋蔵文化財第二係編
1981『福岡市西部地区埋蔵文化財調査報告 - Ⅰ -』福
岡市埋蔵文化財調査報告書第 64 集,福岡市教育委員会
小林義彦編 1986『羽根戸遺跡』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 134 集,福岡市教育委員会
(190.0)
弥生時代後期
250.0
~古墳時代
(250.0)
64.0 弥生時代中期
弥生時代中期前半
− 85 −
二宮忠司・大庭友子編 1997『吉武遺跡群Ⅸ』福岡市
埋蔵文化財調査報告書第 514 集,福岡市教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
30
197
遺跡名称
今宿五郎江遺跡
( 昭和 59 年度)
198
199
31
今宿五郎江遺跡
(昭和 61 年度調査)
分類
ⅠA類
出土地点
環濠
Ⅰ類?
環濠
ⅠA類
SD-100
Ⅱ層
Ⅱ層
石材
重量
(g)
時期
(110.0)
滑石
弥生時代
(220.0)
後期初頭~中頃
粘板岩
66.0
ⅡB類
SD-100
粘板岩
201
ⅡB類
SD-100
粘板岩
36.0
弥生時代
中期~後期
202
ⅡA類
SD-100
粘板岩
25.0
弥生時代
中期~後期
203
ⅡC類
SD-100
滑石
15.0
弥生時代
中期~後期
204
ⅠA類
SD-100
滑石
205
ⅠB類
SD-100
滑石
35.0
弥生時代
中期~後期
206
ⅡD類
SD-100S-12
滑石
50.0
弥生時代
中期~後期
207
ⅡA類
5 区 SD-100
滑石
35.0
弥生時代
中期~後期
208
ⅡA類
滑石
114.0
209
Ⅱ類
pit-26
滑石
(4.5)
210
ⅡA類
pit-93
滑石
14.0 弥生時代中期末
211
ⅡD類
pit-252
滑石
37.0 弥生時代
1包
弥生時代
中期~後期
212
ⅡA類
pit-226
滑石
ⅠB類
SD-100
滑石
214
ⅠB類
SD-100
滑石
215
ⅠB類
SD-100
滑石
171.0
弥生時代
中期~後期
216
未成品
SD-100
滑石
114.0
弥生時代
中期~後期
217
ⅠA類
SD-100
S-19
滑石
117.0
弥生時代
中期~後期
218
未成品
SD-100
滑石
480.0
弥生時代
中期~後期
219
ⅠB類
SD-100
滑石
300.0
弥生時代
中期~後期
220
ⅠB類
SD-100
滑石
223.0
弥生時代
中期~後期
221
ⅠB類
SD-100
滑石
133.0
弥生時代
中期~後期
222
ⅠA類
SD-100
滑石
132.0
弥生時代
中期~後期
223
ⅠA類
SD-100
滑石
109.0
弥生時代
中期~後期
224
ⅠA類
SD-100
滑石
121.0
弥生時代
中期~後期
225
ⅠA類
SD-100
粘板岩
73.0
弥生時代
中期~後期
226
ⅠA類
SD-100
粘板岩
77.0
弥生時代
中期~後期
ⅠB類
溝1
滑石
227
高田遺跡
未成品
溝2
滑石
砂岩質
13.5 弥生時代中期
318.0
(103.0)
弥生時代
中期~後期
弥生時代
中期~後期
110.0
1 孔未貫通
佐々木隆彦編 1984『今宿高田遺跡』今宿バイパス関
係埋蔵文化財調査報告第 10 集,福岡県教育委員会
溝 2 は奈良時代の
遺物中心だが縄文
晩期の石斧等混入
折尾学編 1981『福岡市西区今山・今宿遺跡』福岡市
埋蔵文化財調査報告書第 75 集,福岡市教育委員会
28 号土壙
弥生時代後期
松村道博編 1994『飯氏遺跡群 2』福岡市埋蔵文化財調
査報告書第 390 集,福岡市教育委員会
ⅠA類
11 号溝
古墳時代
ⅠA類
ピット内
229
今山遺跡
ⅢA類
43 地点
33
230
飯氏遺跡
ⅠA類
231
232
小葎遺跡
SB06 の柱穴
弥生時代中期
32
233
二宮忠司編 1991『福岡市今宿五郎江遺跡Ⅱ』福岡市
埋蔵文化財調査報告書第 238 集,福岡市教育委員会
弥生時代
中期~後期
213
1包
参考文献
小畑弘己編 1986『今宿五郎江遺跡Ⅰ』福岡市埋蔵文
化財調査報告書第 132 集,福岡市教育委員会
弥生時代
中期~後期
200
(52.0)
備考
弥生時代
後期初頭~中頃
滑石
弥生時代
29.0
中期~後期
228
34
出土層位
未成品 ? 竪穴住居跡
床面
滑石
33.52 弥生時代中期後半
234
ⅠA類
J-4
竪穴住居跡
床面
滑石
53.41 弥生時代中期後半
235
ⅠA類
H-7
竪穴住居跡
床面
滑石
103.78 弥生時代中期後半
236
ⅠA類
Ⅲ区
Ⅱ面上
滑石
151.03
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
237
ⅠA類
D-9
Ⅱ面上
滑石
119.35
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
238
ⅠB類
E-15
滑石
246.29
239
ⅠB類
1 トレ
滑石
253.86
240
ⅠB類
F-7
滑石
52.89
241
ⅠA類
L-8
242
ⅡD類
1 トレ
243
ⅡA類
J-9
244
ⅡA類
Ⅳ区
245
ⅡB類
J-7
Ⅰ面
弥生時代後期中頃
~後期後半 ?
滑石
弥生時代後期中頃
221.43
~後期後半 ?
滑石
364.65
Ⅱ面
滑石
438.57
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
Ⅰ面
砂岩
15.45
弥生時代後期中頃
~後期後半 ?
滑石
11.56
Ⅰ面下
− 86 −
塩屋勝利・力武卓治編 1997『小箻遺跡』福岡市埋蔵
文化財調査報告書第 541 集,福岡市教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
35
出土層位
石材
重量
(g)
時期
Ⅰ区
Ⅰ面
砂岩
10.74
弥生時代後期中頃
~後期後半 ?
247
ⅡA類
F-7
Ⅰ面
滑石
5.98
弥生時代後期中頃
~後期後半 ?
248
ⅡB類
1 トレ
硬質砂岩
2.78
249
ⅡA類
K-7
Ⅱ面
滑石
274.89
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
250
ⅡB類
D-11
Ⅱ面下
滑石
139.3
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
251
未製品
Ⅱ面上
滑石
390.06
弥生時代中期後半
~後期後半 ?
252
未製品
F-6
Ⅰ面下
滑石
51.95
弥生時代後期中頃
~後期後半 ?
ⅠB類
祭祀溝
上層
白雲母片岩
263.0 弥生時代後期後半 ?
253
三雲南小路遺跡
三雲遺跡
備考
参考文献
柳田康雄編 1985『三雲遺跡南小路地区編』福岡県文
化財調査報告書第 69 集,福岡県教育委員会
弥生時代後期
柳田康雄編 1980『三雲遺跡Ⅰ』福岡県文化財調査報
告書第 58 集,福岡県教育委員会
193.0 弥生時代後期後半以降
柳田康雄・小池史哲編 1982『三雲遺跡Ⅱ』福岡県文
化財調査報告書第 63 集,福岡県教育委員会
ⅡB類
Ⅰ -5
ⅠA類
Ⅰ -8
3 層下部
白雲母片岩
ⅡA類
土器溜
第3層
白雲母片岩
ⅠA類
Ⅱ -6
D7 区
第4層
白雲母片岩
ⅠB類
北試掘溝
底部
滑石
斉藤忠・鏡山猛編 1956『志登支石墓群』埋蔵文化財
発掘調査報告第 4,文化財保護委員会
ⅡB類
S:55;E:15
3層
地区
滑石
川村博編 1980『上鑵子遺跡群 - 第 3 次調査 -』前原町
文化財調査報告書第 3 集,前原町教育委員会
ⅡB類
SB18
埋土
滑石
261
ⅡB類
S:35;E:05
3層
地区
滑石
262
未成品
SD06
砂岩(硬質)
263
ⅡD類
S:40;E:15
3層
地区
砂岩
ⅡA類
P561
頁岩
P532
砂岩
256
257
258
259
(加賀石地区)
三雲遺跡
(サキゾノ地区)
三雲遺跡
(番上地区・昭和 53 年度)
三雲遺跡
(番上地区・昭和 49 年度)
志登支石墓群
上鑵子遺跡
(第 3 次調査)
260
38
出土地点
ⅡB類
254
37
分類
246
255
36
遺跡名称
264
一の町遺跡
(第 2 次調査)
265
滑石
266
ⅠA類
SK43
滑石
267
ⅡA類
南トレンチ
泥質片岩
ⅡA類
P79
凝灰岩
268
一の町遺跡
(第 3 次調査)
37.0
弥生時代後期後半
~古墳時代前期
河合修編 2009『一の町遺跡発掘調査概要』志摩町文
化財調査報告書第 30 集,志摩町教育委員会
269
ⅠA類
P128
ⅡA類
BB1-1
遺物包含層
上位
泥質片岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
271
ⅡB類
BB1-1
遺物包含層
下位
泥質片岩
凝灰岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
泥質片岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
272
ⅠB類
BB1-2
遺物包含層
上・下位
273
欠損品
BB1-2
遺物包含層
上・下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
BB1-2
遺物包含層
上・下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
泥質片岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
欠損品
275
ⅠA類
BB1-2
遺物包含層
上・下位
276
ⅡB類
BB1-2
遺物包含層
上・下位
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
277
ⅡA類
BB1-2
遺物包含層
上・下位
278
ⅡA類
BB1-2
遺物包含層
上・下位
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
BB1-2
遺物包含層
上・下位
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
滑石
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
279
ⅡD類
280
ⅡE類
BB1-1
遺物包含層
最下位
281
Ⅰ類
BB1-1
遺物包含層
最下位
玄武岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
滑石
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
282
Ⅰ類
BB1-3
遺物包含層
上位
283
ⅡA類
BB1-3
遺物包含層
上位
花崗岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
284
ⅡB類
BB1-3
遺物包含層
下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
285
ⅠA類
BB1-2・3
遺物包含層
最下位
滑石
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
286
ⅠA類
BB1-2・3
遺物包含層
最下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
287
ⅡD類
BB1-2・3
遺物包含層
最下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
288
ⅡA類
BB1-2・3
遺物包含層
最下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
ⅡA類
BB1-2・3
遺物包含層
最下位
珪質頁岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
ⅠA類
BB1-7
遺物包含層
上位
砂岩
弥生時代中期中頃
~古墳時代前期
滑石
弥生時代
中期中頃~後期
289
290
291
一の町遺跡
(第 4 次調査)
ⅠB類
柳田康雄編 1980『三雲遺跡Ⅰ』福岡県文化財調査報
告書第 58 集,福岡県教育委員会
208.6 古墳時代以降
270
274
柳田康雄・小池史哲編 1982『三雲遺跡Ⅱ』福岡県文
化財調査報告書第 63 集,福岡県教育委員会
遺物包含層
292
ⅡA類
遺物包含層
泥質片岩
弥生時代
中期中頃~後期
293
ⅠA類
遺物包含層
砂岩
弥生時代
中期中頃~後期
294
ⅠA類
遺物包含層
凝灰岩
弥生時代
中期中頃~後期
295
ⅡC類
遺物包含層
凝灰岩
弥生時代
中期中頃~後期
− 87 −
3 孔穿つが中央は
未貫通
側縁溝が廻る
2 孔未貫通
2 孔は直角方向に
穿たれる
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
39
296
遺跡名称
出土層位
第 2 地点
包含層
ⅡA類
SHM9-1
第Ⅲ層上面
298
ⅡA類
SHM9-1
第Ⅲ層上面
299
ⅠB類
SHM9-1
第Ⅲ層上面
300
ⅠB類
SHM9-1
第Ⅲ層上面
新町遺跡
(第 9 次調査)
301
40
出土地点
ⅡE類
297
新町遺跡
分類
302
303
御床松原遺跡
ⅡB類
SHM9-2-P108
ⅠA類
16 号住居跡
ⅠA類
41 号住居跡
石材
滑石
重量
(g)
時期
河合修編 2010『新町・御床松原遺跡』糸島市文化財
調査報告書第 2 集,糸島市教育委員会
石灰岩
(134.94)
滑石
床面
滑石
121 弥生時代後期終末
花崗岩質
154 弥生時代後期前半
304
ⅡA類
75 号住居跡
粘板岩
(11.5)弥生時代中期後半
ⅡB類
75 号住居跡
安山岩
84.5 弥生時代中期後半
306
ⅠA類
75 号住居跡
滑石
307
ⅡA類
76 号住居跡
滑石
(6.5)弥生時代前期末
308
ⅡB類
78 号住居跡
滑石
224.0 弥生時代中期後半
床面
弥生時代中期後半 ?
309
ⅠA類
95 号住居跡
滑石
74.5 弥生時代後期
310
ⅡD類
98 号住居跡
滑石
(130.0)弥生時代中期
311
ⅡA類
溝5
滑石
312
ⅠA類
3 号住居跡
ピット(炉跡)
滑石
140.0 古墳時代前期
313
Ⅰ類
6 号住居跡
滑石
古墳時代前期
314
ⅠA類
9 号住居跡
滑石
178.0 古墳時代前期
315
ⅠB類
14 号住居跡
床面
床面
床面
玄武岩
滑石
古墳時代前期
316
ⅠA類
14 号住居跡
ⅢA類
15 号住居跡
粘板岩
9.0 古墳時代前期
318
Ⅰ類
15 号住居跡
粘板岩
古墳時代前期
67.0 古墳時代前期
粘板岩
147.0 古墳時代前期
319
ⅠA類
22 号住居跡
320
ⅡB類
26 号住居跡
321
Ⅰ類
30 号住居跡
粘板岩
322
ⅠA類
31 号住居跡
粘板岩
323
未成品
31 号住居跡
泥岩
154.0 古墳時代前期
324
ⅠA類
34 号住居跡
滑石
古墳時代前期
325
Ⅰ類
34 号住居跡
滑石
古墳時代前期
滑石
240.0 古墳時代前期
ⅠA類
52 号住居跡
ⅠA類
53 号住居跡
328
Ⅰ類
54 号住居跡
or Ⅱ C 類
古墳時代前期
床面
古墳時代後期
古墳時代前期
滑石
古墳時代前期
滑石
古墳時代前期
158.0 古墳時代前期
329
ⅠA類
59 号住居跡
滑石
330
ⅠA類
60 号住居跡
粘板岩
古墳時代前期
331
Ⅰ類
72 号住居跡
床面
砂岩
古墳時代前期
332
Ⅰ類
96 号住居跡
床面
粘板岩
古墳時代前期
333
ⅠB類
100 号住居跡 床面
滑石
古墳時代前期
334
未製品
5 号土壙
粘板岩
335
ⅠA類
1 号溝
粘板岩
336
ⅠA類
2 号溝
粘板岩
69.5
337
ⅡA類
D6
粘板岩
5.0
338
欠損品 ?
339
ⅡA類
340
ⅡA類
341
ⅡA類
342
ⅡA類
343
ⅡA類
344
ⅡA類
345
ⅡF類
3 層上部
(89.0)
奈良時代後半
~平安時代 ?
奈良時代後半
~平安時代 ?
弥生時代中期後半
~弥生時代終末
粘板岩
D7
D6
D6
2層
3層
3層
粘板岩
5.0 古墳時代前期 ?
粘板岩
11.0
滑石
23.0
粘板岩
88.0
アプライト
148.0
滑石
459.0
粘板岩
井上裕弘編 1983『御床松原遺跡』志摩町文化財調査
報告書第 3 集,志摩町教育委員会
古墳時代前期の混
入品か
8.0 弥生時代中期後半
317
326
参考文献
橋口達也編 1987『新町遺跡』志摩町文化財調査報告
書第 7 集,志摩町教育委員会
310
305
327
備考
弥生時代中期後半
~弥生時代終末
弥生時代中期後半
~弥生時代終末
25.6
− 88 −
1 孔未貫通
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
遺跡名称
分類
砂岩
78.0
未成品
滑石
114.0
348
ⅡD類
349
ⅠA類
滑石
78.0
350
ⅠA類
滑石
224.0
351
ⅠA類
粘板岩
352
ⅠB類
滑石
301.0
353
ⅠA類
滑石
104.0
354
ⅡE類
砂岩
278.0
355
未成品
356
未成品
D6
滑石
51.5
P99
ⅡB類
42
358
森の下遺跡
ⅠB類
359
Ⅰ類
or Ⅱ類
360
ⅡG類
43
361
寺ノ下遺跡
ⅠB類
44
362
梅白遺跡
ⅠA類
363
365
D6
3層
4層
SK105
堀川義英編 1980『柏崎遺跡群』佐賀県文化財調査報
告書第 53 集,佐賀県教育委員会
滑石
原田保則編 1978『生石・森の下遺跡』佐賀県文化財
調査報告書第 43 集,佐賀県教育委員会
頁岩
35.7 古墳時代
366
ⅠA類
SH11138
滑石
55.4
367
未成品 ? SH11094
滑石
17.6
368
ⅡF類
SH11205
小松譲編 2013『中原遺跡Ⅶ 11 ~ 13 区の集落跡の調査』
佐賀県文化財調査報告書第 199 集,佐賀県教育委員会
(67.4)
穿孔方向が直角
1.8
A 地区 G-3 区
側縁溝が廻る
砂岩
弥生時代後期後半
320.0
~古墳時代前期
弥生時代後期後半
130.0
~古墳時代前期
370
ⅠA類
A 地区 G-5 区
滑石
371
ⅠA類
A 地区 F-2 区
滑石
56.0
弥生時代後期後半
~古墳時代前期
372
ⅠA類
A 地区 G-2 区
滑石
255.0
弥生時代後期後半
~古墳時代前期
373
Ⅰ A 類 ? A 地区
滑石
弥生時代後期後半
~古墳時代前期
374
欠損品
A 地区 F-2 区
滑石
弥生時代後期後半
~古墳時代前期
ⅡA類
B- Ⅰ -3
撹乱層
滑石
376
ⅡA類
E- Ⅰ -3
7 下層
滑石
5.0 弥生時代前期後半
377
ⅠA類
F- Ⅰ -1
7 下層
滑石
30.0 弥生時代前期後半
378
Ⅱ A 類 ? C- Ⅰ -4
8層
滑石
(6.5)弥生時代前期後半
375
379
菜畑遺跡
西浦遺跡
Ⅲ B 類 ? H- Ⅳ区
CW-27
滑石
伴耕一朗編 1992『神田中村遺跡』唐津市文化財調査
報告書第 49 集,唐津市教育委員会
中島直幸・田島龍太編 1982『菜畑遺跡』唐津市文化
財調査報告第 5 集,唐津市教育委員会
10.0
弥生時代後期
~古墳時代
安山岩
表土
小松譲編 2003『梅白遺跡』佐賀県文化財調査報告書
第 154 集,佐賀県教育委員会
18.7 古墳時代
砂岩
ⅠA類
木下巧編 1974『萬麓・寺ノ下遺跡』佐賀県文化財調
査報告書第 29 集,佐賀県教育委員会
139.9 古墳時代
SH11149
神田中村遺跡
弥生時代
中期中頃~末
滑石
頁岩?
6層
参考文献
42.0
Ⅰ類
369
備考
弥生時代中期後半
~弥生時代終末
粘板岩
砂岩
ⅠA類
中原遺跡
時期
古墳時代中期
ⅡC類
364
48
重量
(g)
ⅡB類
大深田遺跡
47
石材
347
357
46
出土層位
346
41
45
出土地点
田島龍太・中島直幸編 1984『西浦遺跡』唐津市文化
財調査報告書第 10 集,唐津市教育委員会
この他に図化されて 田島龍太・中島直幸編 1985『湊中野遺跡』唐津市文
ない資料 1 点(未集成) 化財調査報告書第 14 集,唐津市教育委員会
49
380
湊中野遺跡
ⅠB類
(200.0)
50
381
惣座遺跡
ⅠA類
立石泰久編 1986『惣座遺跡』大和町文化財調査報告
書第 3 集,大和町教育委員会
県立博物館保管資料。 徳富則久編 1996『詫田西分遺跡Ⅱ区の調査』千代田
出土地点等詳細不明 町文化財調査報告書第 20 集,千代田町教育委員会
51
382
託田西分遺跡
ⅠB類
52
383
里田原遺跡
ⅠA類
53
384
門前遺跡
ⅢA類
D-9-21
2層
滑石
19.9 古代末~中世前半
ⅢA類
D-9-21
2層
滑石
6.91 古代末~中世前半
385
386
ⅢA類
D-9-22
3層
滑石
12.85 古代末~中世前半
387
ⅢA類
D-9-22
3層
滑石
16.13 古代末~中世前半
388
Ⅱ A 類 ? D-9-22
3層
滑石
7.74 古代末~中世前半
389
未成品
D-9-22
3層
滑石
41.23 古代末~中世前半
390
Ⅱ A 類 ? D-9-21
3層
滑石
14.67 古代末~中世前半
2層
滑石
27.26 古代末~中世前半
滑石
222.2 12 ~ 13 世紀代
滑石
古墳時代
未成品
D-9-23
54
391
392
膝行神貝塚
ⅠB類
SK01
55
393
黒丸遺跡
ⅡC類
56
長崎県教育委員会編 1975『里田原遺跡展』弥生工人
のむら,長崎県教育委員会
80.0
394
坂口館跡
ⅢA類
J2 区
ピット 68
滑石
(41.4)弥生時代~古墳時代
− 89 −
副島和明編 2006『一般国道 497 号佐々佐世保道路建
設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅱ』長崎県文化財
調査報告書第 190 集,長崎県教育委員会
本田秀樹編 2005『膝行神貝塚』西彼町文化財調査報
告書第 2 集,長崎県西彼町教育委員会
稲留裕和編 1980『黒丸遺跡発掘調査報告書』大村市・
黒丸遺跡調査会
副島和明編 1991『九州横断自動車道路建設に伴う埋
蔵文化財緊急発掘調査報告書』長崎県文化財調査報告
書第 99 集,長崎県教育委員会
第 3 表 九州型石錘出土遺跡一覧表 ( 九州 )
遺跡 個別
番号 番号
57
395
遺跡名称
葛城遺跡
396
58
397
深堀遺跡
(平成 15 年度調査)
398
59
399
原の辻遺跡
(平成 7 ~ 9 年度調査)
400
401
402
403
原の辻遺跡
(平成 10 年度調査)
404
405
原の辻遺跡
(平成 10・11 年度調査)
406
407
原の辻遺跡
(平成 11 年度調査)
ⅡB類
I-28
ⅡD類
I-28
ⅡA類
TP14
出土層位
石材
砂岩
重量
(g)
時期
滑石
石鍋の転用品か ?
滑石
Ⅲ A 類 ? TP7
1層
滑石
ⅡA類
1 号旧河道
南側包含層
粘盤岩
Ⅴ層
ⅡA類
1 号旧河道
土器溜Ⅵ層
砂岩
16.0
弥生時代中期後半
~後期初頭
ⅠA類
1 号旧河道
P100 区
Ⅳ層
滑石
285.0
弥生時代中期後半
~後期初頭
150.0
弥生時代前期末
~中期後半
3 号旧河道
C8 区
滑石
ⅡA類
B区
10 号土壙
頁岩
ⅡB類
C区
ⅡB類
原7区
ⅡB類
原7区
ⅡB類
A区
5層
Ⅳ層
頁岩
19
7.0
弥生時代中期末
~後期初頭
20.0 弥生時代中期前葉
片岩系か
弥生時代中期
~古墳時代初頭
片岩系か
弥生時代中期
~古墳時代初頭
弥生時代前期末
~古墳時代前期 ?
砂岩
19.8
砂岩
弥生時代中期中葉
16.7
~後期末
土器溜
ⅢA類
2 号旧河道
Ⅱ層
頁岩
ⅡC類
SD3
Ⅰ層
頁岩
弥生時代
後期中葉~後葉
滑石
弥生時代
後期前葉~後葉
原の辻遺跡
412
原の辻遺跡
(平成 13 年度調査②)
413
414
415
原の辻遺跡
(平成 15 年度調査)
原の辻遺跡
(平成 16 年度調査)
416
417
418
419
420
原の辻遺跡
(平成 16 年度調査)
原の辻遺跡
(平成 17 年度調査)
原の辻遺跡
(平成 19 年度調査)
原の辻遺跡
(平成 20 年度調査)
421
422
423
原の辻遺跡
カラカミ遺跡
424
425
カラカミ遺跡
(昭和 57 ~ 59 年度調査)
ⅠB類
SD3
ⅡA類
南区 SD5
杉原敦史編 1999『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 16 集,長崎県教育委員会
4.8
478
安楽勉編 2000『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務所
調査報告書第 18 集,長崎県教育委員会
杉原敦史編 2000『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 19 集,長崎県教育委員会
弥生時代後期
~古墳時代前期
弥生時代中期末
~古墳時代初頭
町田利幸編 2002『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 24 集,長崎県教育委員会
小石龍信編『原の辻遺跡』原の辻遺跡保存等協議会調
査報告書第 3 集,原の辻遺跡保存等協議会
弥生時代中期末
(30.0)
~古墳時代初頭
Ⅰ類
南区 SD5
頁岩
Ⅱ A 区ブロッ
4層
ク貝層周辺
滑石
173.8
ⅡB類
高元 F 区
2層
頁岩
66.0
ⅠA類
石田高原地区
A区
5層
凝灰岩
12.1
ⅢA類
高元ⅡB区
包含層
滑石
ⅡC類
原ⅩⅤ区
C 区 SC23
ⅡB類
B- Ⅱ区
落ち込み 3
①層
頁岩
8.2
川畑敏則編 2008『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 38 集,長崎県教育委員会
ⅡA類
5区
2層
砂岩
120.5
川畑敏則編 2009『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 40 集,長崎県教育委員会
ⅡB類
3区
4a 層
頁岩
(4.5)弥生時代後期
ⅠB類
原地区 B 区
Ⅰ層
ⅡB類
東亜第 1
トレンチ
ⅡA類
東亜第 2
トレンチ
頁岩
4層
弥生時代中期後葉
~後期初頭
弥生時代
中期後葉~末
ⅡA類
川久保 10 区
ⅠA類
川久保 14 区
428
ⅡA類
川久保 15 区
429
未成品
川久保 15 区
ⅠB類
表面採取
SK25 に 本 来 伴 っ 中尾篤志編 2004『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
ていた可能性有り 所調査報告書第 28 集,長崎県教育委員会
中尾篤志編 2005『原の辻遺跡』原の辻遺跡調査事務
所調査報告書第 31 集,長崎県教育委員会
松見裕二編 2005『特別史跡原の辻遺跡』壱岐市文化
財調査報告書第 1 集,壱岐市教育委員会
弥生時代
(5.3)
中期後半~後期
松見裕二・山口優編 2006『特別史跡原の辻遺跡』壱
岐市文化財調査報告書第 9 集,壱岐市教育委員会
古澤義久・林隆広 2012『原の辻遺跡』長崎県埋蔵文
化財センター調査報告書第 6 集,長崎県教育委員会
砂岩
11.0
田中聡一・松見裕二・浦河智行編 2012『国特別史跡
原の辻遺跡・カラカミ遺跡』壱岐市文化財調査報告書
第 19 集,長崎県教育委員会
正林護・宮崎貴夫編 1985『カラカミ遺跡』勝本町文
化財調査報告書第 3 集,勝本町教育委員会
Ⅱ A 類 ? 川久保 10 区
427
花渡川遺跡
緑泥片岩
宮崎貴夫編 1998『原の辻遺跡(下巻)
』原の辻遺跡調
査事務所調査報告書第 9 集,長崎県教育委員会
ⅠA類
426
430
Ⅱ層
町田利幸編 1990『九州横断自動車道路建設に伴う埋
蔵文化財緊急発掘調査報告書』長崎県文化財調査報告
書第 98 集,長崎県教育委員会
(53.0)
ⅡA類
(平成 13 年度調査①)
参考文献
宮下雅史編 2005『深堀遺跡』長崎市教育委員会
1層
ⅡB類
備考
49.0
409
411
61
出土地点
408
410
60
分類
砂岩
砂岩
(6.3)
8
池畑耕一 1979「隼人の漁撈生活」
『隼人文化』第 5 号,
隼人文化研究会,49 ~ 68 頁
滑石
− 90 −
16
15
13
23
19
17
20
18
14
60
62
58
24
22
25
21
64
65
66
61
63
59
57
56
75
72
68
67
71
70
69
73
76
74
78
77
79
90
84
89
86
80
88
87
81
85
82
83
94
99
95
92
100
96
91
101
97
98
93
110
102
103
104
105
106
107
108
109
第 21 図 九州型石錘実測図①
(S=1/4)
− 91 −
0
111
112
10 ㎝
121
113
115
114
120
118
117
116
119
122
130
127
125
126
123
128
124
133
129
197
201
199
131 132
202
203
205
204
200
207
206
208
198
209
210
211
212
213
217
215
214
220
216
218
219
233
221
223
222
224
225
226
234
244
235
246
248
240
245
241
237
236
247
239
238
242
第 22 図 九州型石錘実測図②
(S=1/4 )
− 92 −
0
243
10 ㎝
264
268
250
267
266
252
249
269
265
251
270
276
273
278
274
272
282
275
280
271
277
281
279
284
288
283
285
286
287
290
292
289
307
304
308
295
293
305
303
294
306
309
310
302
311
319
315
314
312
291
317
316
313
321
318
320
327
326
322
325
323
0
330
10 ㎝
328
324
第 23 図 九州型石錘実測図③
(S=1/4)
− 93 −
329
337
339
343
341
331
334
335
332
336
342
338
333
340
345
346
348
347
344
353
350
356
354
351
349
352
371
355
370
372
373
369
375
376
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第 24 図 九州型石錘実測図④
(S=1/4)
− 94 −
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0
10 ㎝
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要 第4号
2014 年 3 月
松浦党城郭雑感~佐志氏の城跡~
林 隆広
1.はじめに
「松浦党城郭雑感」という主題で北部九州における松浦党に関連する城郭を考察しているが、今回
は佐志氏の城跡として、唐津市の浜田城跡、壱岐市の高津城跡および風早城跡を対象とする。
2.佐志氏について
『松浦家世伝』によれば、佐志氏は松浦党の祖とされる源久の六男である調から始まるとされる。
一方、『有浦文書』には源久の子、正の六男である調に始まるとされる。いずれも調という人物が佐
志氏の開祖としているが正確な系図は定かではない。佐志氏の名が史料に登場する最も古いものは『中
村文書』1240(仁治元)年閏 10 月 2 日の「関東裁許状案」で、「肥前國佐志九郎増」が地頭清親と怡
土郡庄内篠原・安恒両村について相論し、知行を認められたとしている。また『有浦文書』1266(文
永3)年 7 月 29 日の「佐志房譲状案」は、佐志房が乙鶴(房の二男で留)に所領を分配したもので
あるが、この佐志房は文永の役で子の直、留、勇ともども討ち死にした人物として知られている。『斑
島文書』1340(暦応3)年 10 月「佐志披軍忠状」および『白井文書』1343(康永2)年 7 月「佐志
披軍忠状」における「松浦佐志源三郎源披」は、九州探題である一色範氏(北朝)のもとで筑後や肥
後を転戦し活躍している。ちなみに 1351(観応2)年 10 月「松浦波多源蔵人源披」、1382(永徳2)
年 12 月 11 日「佐志有浦蔵人披」も同一人物であろうが、この志佐披が波多や有浦とも名乗っていた
ことは興味深い。この佐志披は『有浦文書』によると佐志勤の二男であったようで、この佐志勤は嫡
子の成、二男の披、三男の湛らに所領を分配したことが、その譲状で分かる。この披は 1362(正平
17 /貞治元)年 8 月の筑前国長者原の戦いで、嫡子の強とともに討ち死にしている。この後、強の
子である与と、披の二男である祝の子女との間で相続問題が起こっているが、後に波多氏の重臣とな
り、さらには寺澤広高、大久保忠職に仕え、大久保氏の小田原転封に従った有浦氏は、この与より続
いた一族かと思われるがよく分からない。この後、『有浦文書』に見える佐志氏の動向は 1393(明徳
5)年 3 月 18 日「沙彌道金・佐志寺田茂連署請文」の「佐志寺田安芸守茂」、1395(応永 2)年 7 月
20 日「今川了俊書下」の「松浦佐志与三【授カ】」、同年 7 月 25 日「今川了俊安堵状写」の「佐志寺
田【勇】」が散見される程度であり、15 世紀に入っての佐志氏の動向はよく分からない。
15 世紀に入ってからの佐志氏の動向は、むしろ『朝鮮王朝実録』(以下、『実録』)に多く認めるこ
とができる。『実録』の初見は 1428(世宗 10)年 12 月 7 日の「志佐【胤】」だが、その後、1430(世
宗 12)年 1 月 24 日の「一岐州佐志平種長」、1443(世宗 25)年 8 月 16 日の「一岐州佐志源次郎」、
1444(世宗 26)年 4 月 30 日の「肥前州松浦佐志一岐大守源正」、1464(世祖 10)年 7 月 30 日「上松
浦一岐州佐志迅【ママ】源満」など見受けられ、朝鮮王朝との活発な交易が伺える。そのため少なく
とも「胤」
「種長」
「(源)次郎」
「正」
「満」の五名がいたことは確かなようであるが、このうち「種長」
は松浦党の源流である嵯峨源氏でなく平氏を名乗り、かつ諱が一字名でないなど、奇異な印象を受け
る。あるいは、後述する佐志氏の壱岐における代官とされる「田口木工入道盛慶」のような、佐志氏
− 95 −
惣領ではない佐志氏配下の人物ではなかったかと推測される。
上記のように、佐志氏は『有浦文書』などから 13 世紀から 14 世紀までの足跡は伺えるものの、15
世紀以降の動静が明らかでない。『実録』も 15 世紀後半から記述が少なくなっていくところを考える
と、有浦氏や波多氏などに分かれいく過程で勢力を失い、また文書も散逸したのではないかと思われ
る。
3.佐志氏の城跡について
(1)浜田城跡
唐津市八幡町、佐志川河口の東側丘陵に位置する城跡で、佐志氏の本城とされる。
『松浦記集成』には、
この城跡が位置する丘陵を将監山とし、また歴代の佐志将監十五名の法名と没年を記していて、古く
は 994(正暦5)年、新しくは 1552(天文元)年としている。そのため、初代の佐志将監源勤が 947(天
暦元)年に築いたのではないかと推測している。
次に地表面観察による縄張り構造の検討を行う。標高約 47 メートルの丘陵上に自然地形を利用し
た三角形を呈する曲輪〔Ⅰ〕を中心に、尾根筋に曲輪を展開する構造である。曲輪〔Ⅰ〕は曲輪〔Ⅰa〕
および曲輪〔Ⅰb〕に細分することができ、曲輪〔Ⅰa〕は四方に緩やかな傾斜を残し、平坦化が徹
底されていない。腰曲輪を南側および西側に、北側には一段低い平坦面〔Ⅰb〕を備え、切岸は急峻
である。曲輪〔Ⅰa〕の出入口は曲輪〔Ⅱ〕との間に堀切状となる北側の窪みに開いているが、曲輪〔Ⅰ
b〕から横矢を掛けられる構造であり、堅固である。曲輪〔Ⅱ〕は曲輪〔Ⅰ〕の北側尾根筋に位置す
る。その南側は自然地形を残す緩やかな起伏を見せるが、出入口〔a〕を境にその北側は整然とした
平坦面となり、様相が異なる。あるいは顕彰碑土台のような構造物が北側平坦面の中央部に残ること
から、後世の改変である可能性もある【註 1】。曲輪〔Ⅲ〕は民家の廃墟が残る空間で、曲輪〔Ⅰ〕の
東側尾根筋に位置し、曲輪〔Ⅱ〕同様に後世の改変が推測される状況である。曲輪〔Ⅳ〕は明らかに
近年まで農耕地であったことが伺える状況である。曲輪〔Ⅴ〕は曲輪〔Ⅰ〕の西側急斜面を押さえる
もので、傾斜面を残す平坦化の不徹底な曲輪である。
この浜田城が佐志川の東側丘陵に立地し、また佐志氏が海上交易を盛んに行ったことを考えれば、
この城の大手口は佐志川に面する西側に開くということになる。現在も北西から南東に抜ける登山道
が残り、これが浜田城の主要な導線であったことが伺える。この導線上、曲輪〔Ⅰ〕から北西側に延
びる尾根筋に曲輪〔Ⅵa〕があるが、その形状は円形で他の曲輪と比べると極めて異様な様相である
といえる。この曲輪〔Ⅵa〕は整然と平坦化され、導線および出入口に面する縁辺には土塁を備えて
いる。また北西側には曲輪〔Ⅵb〕を腰曲輪として備えており、佐志川から登ってくる大手道と思わ
れる導線を厳重に押さえている。
(2)高津城跡
壱岐市勝本町西戸触、壱岐市立霞翠小学校より約 300 メートル離れた北北東方向の丘陵に位置す
る城跡である。この城跡が記される文献として、まずは 1861(文久元)年の『壱岐名勝圖誌(巻之
二十三壱岐郡可須村之部併勝本浦)』
(以下、
『圖誌』)をあげることができる。『圖誌』には「高津古城址」
として「西戸の東にありて、伝にしんそうといひし人の居りし城なりといへり。姓氏又しんそうの本
− 96 −
字詳ならす。今其旧跡をみるに、本丸地東西十六間、南北十八間、隍周囲壱町八間〔隍より本丸の高
五間半、横四間〕巽の方に門戸の跡あり…凡方壱町五十間計の城址なり。又南四町計を隔てて城主を
葬し墓とて〔俗に殿の墓と云〕あり。」と記されている。また 1742(寛保 2)年の『壱岐國續風土記(巻
之三壱岐郡可須邑第一郷邑之部)』(以下、『續風土記』)には「高津古城」として「西殿東にあり。し
んそうという人の居城なり。其旧跡を見るに本丸の地東西十六間南北十八間隍周圍壱町八間〔隍より
本丸にのぼる事五間半 隍横四間 巳午に門跡あり〕今は小柴多く茂れり。…凡壱町五十間ばかりの
城址なり〔南北は壱町四十九間半〕右の南三町ばかり田地を隔てて城主を葬りし墓あり。〔俗呼んで
殿墓といふ〕今に七月七日民俗是をまつる」と記されている。『図誌』と『續風土記』はいずれも編
纂史料であり、その成立に 80 年ほどの時間差がある。『図誌』は『續風土記』の記述を多く引用して
いることもあり、その記述に大きな差異は見られない。18 世紀中頃には、この城跡の来歴は詳らか
でなくなったようである。
次に地表面観察による縄張り構造の検討を行う。標高約 80 メートルの丘陵上に整然と平坦化され
た円形の曲輪を作り出し、曲輪縁辺には土塁を設けている。曲輪を一巡する空堀は深く、堀底と曲輪
面の標高差は最大 4m あり、結果、曲輪の切岸は急峻である。空堀の北西側に三日月状の段があるが、
用途や性格は不明である。また西側には高津城とほぼ同じ標高の丘陵があり、それとは尾根でつなが
るが、堀切は見られない。出入口は曲輪東側の土橋と、南側の堀底からスロープ状に曲輪に接続する
導線の2カ所であるが、堀底がどこにも開口せず、堀底道として機能しない構造を考えれば、このス
ロープ状の導線は後世の通路である可能性が高いと思われる。空堀の周囲には帯曲輪状の空間が広が
るが、緩やかに傾斜して平坦化されていない。この城跡の北側を走る道路は、かつての勝本浦と瀬戸(芦
辺町)を結ぶ往還に由来するとされている。そのため高津城は、陸上交通を押さえる位置に築城され
たことが想定され、海を舞台に活躍した松浦党の城跡として興味深い立地といえる。
(3)風早城跡
壱岐市勝本町大久保触、国道 382 号と勝本町ふれあいセンター「かざはや」間の丘陵に位置する城
跡である。この城跡が記される文献は高津城跡と同様で、まずは『圖誌』に「風早ノ城址」として、
「此
城ハ誰人の築しといふ事詳ならす。子城の址〔東西二十三間南北十五間〕東西二方に門跡ありといへ
とも、正しくしれかたし。内外の隍の跡ハ畠となれり。此所武末よりもやゝ高し。子城地にハ大石多
くありて、屋形なと建し所ともみえす。…」と記されている。また『續風土記』には「風早城〔一名
を天堤城〕」として「武生水道の右にあり。誰人の居城といふ事詳ならず。其旧跡を見るに、子城東
西二十八間、南北十六間。周囲壹町廿三間、内隍横東二間、南三間半、西二間、北四間四尺〔周圍は
則子城周圍なり〕外隍の周圍弐町廿間〔子城より隍迄三間四尺五寸隍横弐間〕東西に門跡あり。東門
跡 入四間 横弐間 西門跡 入八間 横六間 子城の戌亥に四十間二尺 石垣あり。子城今は小松
多し。…」と記されている。やはり高津城跡と同じく、『圖誌』『續風土記』とでその記述に大きな差
異は見られず、城跡の来歴も同様である。
次に地表面観察による縄張り構造の検討を行う。標高約 93 メートルの丘陵上に位置する曲輪〔Ⅰ〕
を中心に、帯曲輪が数段取り囲む構造である。曲輪〔Ⅰ〕は方形に近い形状で、東側には部分的に土
塁が残る。曲輪の南側に緩やかな斜面が残るものの、概ね平坦化されている。『續風土記』には「隍」
− 97 −
の存在が記されているが、空堀の痕跡は認められない。曲輪〔Ⅰ〕と曲輪〔Ⅱ〕はスロープ状の出入
口で接続している。出入口は曲輪〔Ⅰ〕の西側に出入口〔a〕がある。曲輪〔Ⅰ〕西側の切岸が最も
急峻であることから、出入口〔a〕が大手であると思われる。曲輪〔Ⅰ〕から南東方向へ突出する〔b〕
が竪土塁なのか、曲輪〔Ⅱ〕および曲輪〔Ⅲ〕を結ぶ出入口なのか判然としないが、おそらくは曲輪
〔Ⅰ〕から〔Ⅱ〕を経て、さらに南東方向に延びる導線の一部となり、いわゆる搦手になると思われる。
曲輪〔Ⅲ〕の段差付近に自然石による石積が見られるが、構築時期は不明である。自然石の乱積みで、
近世の開墾遺構かと思われる。この丘陵全体が開墾によって段々に削平されており、どの平坦面まで
が城郭遺構なのか判断が難しい。例えば曲輪〔Ⅴ〕は、主郭であろう曲輪〔Ⅰ〕の北側斜面を受ける
位置にあるため曲輪と評価したいが、曲輪〔Ⅳ〕よりも標高が低い。一方、曲輪〔Ⅳ〕は最も面積も
広く、その北側には近世の開墾時に構築されたような石積みが見られるなど、開墾による平坦面と判
断できる要素が多い。もちろん、城郭遺構である曲輪が、後に耕作地に利用されることは十分に想定
されるため、今回は主郭であろう曲輪〔Ⅰ〕の周囲を受ける平坦面だけを曲輪として番号を付与して
検討した。
4.佐志氏関連城郭の検討
1471(成宗 2)年に朝鮮王朝で刊行された『海東諸国記』において、壱岐は「一岐島」とされ「志佐、
佐志、呼子、鴨打、塩津留分治す」と記されている。高津城跡や風早城跡が位置する勝本町(『圖誌』
では可須村、
『續風土記』では可須邑)は「加愁郷」とされ、
「佐志代官之を主る」とある。この「佐志」
は同書「肥前州」の中で「源次郎 己丑年、遣使来朝す。書に、肥前州上松浦佐志源次郎と称す。図
書を受け、歳遣一舡を約す。小二殿の管下なり。武才を能くす。麾下の兵有り。佐志殿と称す。」と
記されている。このことから、当時の勝本町周辺は佐志氏の勢力下にあり、佐志氏が配置した代官に
よって支配されたことが伺え、高津城跡や風早城跡はその支配拠点として機能したと推測される。
大正時代の編纂史料である『壱岐郷土史』には「佐志源次郎源義、居城は可須河頭(高津)城なり。
一説に可須山田原にあり。又新庄にありしとも云ひ、又久浦沙彌とせるものあり。郷代に田口木工入
道盛慶あり」と記される【註 2】。しかしながら、この佐志氏と高津城跡とのつながりは「今、応永年
中五氏の居城を推定して左に録せん」と断って記されたものである。また「田口木工入道盛慶」とい
う人物についてもその出典が明らかでなく、佐志氏の代官であった確証はない。
高津城跡の構造は、いわゆる「松浦型」プランと呼ばれる典型で、円形単郭に空堀を巡らす構造で
あり、同様の城郭として長崎県内では籠手田城跡(平戸市)をあげることができる。一方の風早城跡
は、主郭であろう曲輪〔Ⅰ〕の平面形が方形に近く、また空堀も見られない。同時期に佐志氏が置い
た代官(郷代)が構築した城郭と捉えるには共通点が皆無で、違和感を覚える。
浜田城の曲輪〔Ⅵa〕は極めて興味深い構造である。それは空堀こそ備えないものの、高津城の形
状と同じである点である。仮に浜田城と高津城とが、佐志氏の権力構造における本城と支城の関係に
あったとすると、この曲輪〔Ⅵa〕が高津城を受け持つ家臣(『壱岐郷土史』における「田口木工入
道盛慶」)の曲輪、いわゆる物主ではないか、という想像を抱いてしまう。出典は不明ながら『壱岐
郷土史』の正平年間より元中末年までの記述に、「一書に曰く下松浦志佐郷直谷城主志佐壹岐守源義 壹岐の西間郷(現今石田村石田の舊稱なり)を領するに依り西間郷の人夫を志佐に呼寄せ名丘谷城(直
− 98 −
谷城)の堀を穿たしむ依り手其の池を壹州堀と云う」とあり、同じく壱岐を分治していた志佐氏が、
その本城である直谷城の普請を壱岐の石田郷の者に行わせていたことが伺える。同じようなことが佐
志氏においても行われていたのかもしれない。
本論の執筆にあたり、壱岐市文化財課や壱岐古文書輪読会など、各方面の関係者に多大なる御配慮
と御協力を頂いた。誠に感謝する次第である【註 3】。
【 註 】
1.‌曲輪〔Ⅱ〕の西側斜面には果樹園として使用されていたと推測される数段の等高線に並行する幅の狭い平坦面が見られた。
この平坦面は図化していない。一方、曲輪〔Ⅱ〕の東側斜面は、往時の切岸と判断してよいと思われる。
2.‌
『実録』に「佐志源源次郎」とあるのは 1443 年から 1465 年の間だが、その間に「義」なる人物は佐志姓では見当たらない。
あるいは「一岐州太守源義」と称した志佐義との混同であるかもしれない。
3.‌御協力頂いた関係者の氏名を記し、感謝の意を表明する(敬称略・五十音順)
坂井清春、松崎靖男、松見裕二、宮武正登、山西實
【 参考文献 】 ※五十音順、なお行政機関が発行した編纂史や調査報告書等は発行機関で明示している
後藤正足 1978『壱岐郷土史』歴史図書社
瀬野精一郎 1996『松浦党関係史料集』(第一)続群書類従完成会
瀬野精一郎 1998『松浦党関係史料集』(第二)続群書類従完成会
瀬野精一郎 2004『松浦党関係史料集』(第三)続群書類従完成会
瀬野精一郎 2009『松浦党関係史料集』(第四)八木書店
外山幹夫 1980『日本城郭体系 第 17 巻 佐賀・長崎』新人物往来社
中村安孝 1975『壱岐名勝図誌』(下)名著出版
福田以久生・村井章介 2002『松浦党有浦文書』清文堂出版
壱岐古文書輪読会『壱岐国續風土記』(松浦史料館蔵原本写)
唐津市史編纂委員会 1962『唐津市史』唐津市
長崎県教育委員会 2011『長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ−詳細編−』長崎県文化財調査報告書第 207 集
− 99 −
佐志川
M・N
Ⅵb
Ⅱ
Ⅵa
a
Ⅰb
Ⅰa
Ⅴ
Ⅲ
Ⅳ
0
図1 浜田城跡(1/2,000)
− 100 −
100m
M・N
0
図2 高津城跡(1/2,000)
M・N
a
Ⅴ
Ⅰ
Ⅱ
0
50m
図3 風早城跡(1/2,000)
− 101 −
Ⅳ
Ⅲ
b
50m
執筆者(掲載順)
川道 寛
長崎県教育庁長崎県埋蔵文化財センター東アジア考古学研究室長
古澤 義久
長崎県教育庁長崎県埋蔵文化財センター東アジア考古学研究室文化財保護主事
田中 聡一
壱岐市教育委員会文化財課係長
安楽 勉
長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所文化財調査員
川畑 敏則
長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所主任文化財保護主事
白石 渓冴
長崎県教育庁長崎県埋蔵文化財センター調査課文化財保護主事
片多 雅樹
長崎県教育庁長崎県埋蔵文化財センター調査課文化財保護主事
吉井 康史
福岡市経済観光文化局福岡市埋蔵文化財センター保存処理指導員
林田 好子
南島原市教育委員会文化財課発掘調査員
中尾 篤志
長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所主任文化財保護主事
林 隆広
長崎県立壱岐商業高等学校教諭
長崎県埋蔵文化財センター
研究紀要第4号
平成 26 年(2014 年)3 月 28 日
編集・発行:長崎県埋蔵文化財センター
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